ヨハネ-11からの礼拝メッセージ。2026年9月13日録音。空の墓の前で泣いていたマリヤは、名を呼ばれイエス様に気づきました。マリヤは嬉しさのあまりイエス様の足元に抱きついたのです。しかしイエス様は「わたしにすがりついてはいけません。」と言われました。それは私たちの信仰の歩みと深くかかわる言葉です。目には見えないイエス様と共に歩む私たちの糧となるよう次の3つの点から考えていきましょう。(1.聖霊によりイエス様のみことばを握りしめる、2.私たちと共に、私たちの内におられるイエス様、3.私たちの名を呼んでくださるイエス様)
原稿を読む:イエスに縋りつかず~みことばを握り、共におられる主に応答して生きる:ヨハネの福音書20:11-18|Kishio
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サマリー
このメッセージは、空の墓の前で泣いていたマグダラのマリアがイエス様に出会った場面から始まります。イエス様はマリアに「わたしにすがりついてはいけません」と言われましたが、これは目に見えないイエス様と共に歩む私たちにとって重要な意味を持ちます。聖霊によってイエス様のみことばを握りしめ、私たちと共に、また内におられるイエス様を信じ、そして私たち一人ひとりの名を呼んでくださるイエス様の呼びかけに気づくことによって、信仰の歩みを深めていくことの大切さを説いています。
マリアと復活のイエス様との出会い
ヨハネノ福音書20章11節からお読みします。
マリアは墓の外に佇んで泣いていた。 そして泣きながら、体をかがめて、墓の中を覗き込んだ。
すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスの体が置かれていた場所に、 一人は頭のところに、一人は葦のところに座っているのが見えた。
彼らはマリアに言った。 女の方、なぜ泣いているのですか?
彼女は言った。 誰かが私の死をとっていきました。
どこに死を置いたのか、私にはわかりません。 彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
そしてイエスが立っておられるのを見たが、 それがイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。 なぜ泣いているのですか? 誰を探しているのですか?
彼女は彼がソノの管理人だと思って言った。
あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。 私が引き取ります。
イエスは彼女に言われた。
マリア。 彼女は振り向いて、ペブル語でラボニ、すなわち先生とイエスに言った。
イエスは彼女に言われた。 私にすがりついてはいけません。
私はまだ父のもとに登っていないのです。
私の兄弟たちのところに行って、
私は私の父であり、あなた方の父である方、
私の神であり、あなた方の神である方のもとに登ると伝えなさい。
マグダラのマリアは行って、弟子たちに、
私は主を見ましたと言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
以上です。
「イエスにすがりつかず」の意味:みことばを握る
今日はこのところからイエスにすがりつかず、イエスにすがりつかずと対して二言葉からお話しいたします。
御名さんおはようございます。
寒い日がね、暑さ、涼しいところから寒い日が続いておりますね。
本当に9月の日照時間が例年になく、例年の3%ぐらいって言うんですか?
それぐらい日が出ていないっていうことで、体調崩される方とかね、多いようですので気をつけてください。
そんな中ですけども、共に二言葉からイエスさんのことを見ていきましょう。
今日の箇所はですね、空の墓の前、空の墓の前でマリアが泣いていた。
イエス様の遺体を誰がどこに持っていったのかと泣いていた時にですね、
マリアはですね、イエス様に名を呼ばれて復活のイエス様だって気がついた。
そんな場面でしたよね。
マリアはうれしさのあまり、このイエス様の足元におそらく抱きついたと言われています。
しかしイエス様は私にすがりついてはいけませんと言われたんですね。
その言葉は私たちの信仰の歩みと深く関わることであり、またある意味祝福でもある言葉です。
今私たちはマリアと違ってイエス様を目に見ることはできません。
そんな目に見えないイエス様と共に歩む私たちの糧となるようにですね、三つの点から考えていきましょう。
まず一番目、この言葉の意味は聖霊によりイエス様の御言葉を抱きしめるということと関わってきます。
イエス様の言葉を握りしめるということに関わってきます。
イエスは彼女に言われた、私にすがりついてはいけません。
私はまだ父のもとに登っていないのです。
ここから読んでみましょうか。
私の兄弟たちのところにいて、私は私の父であり、あなた方の父である方、私の神であり、あなた方の神である方のもとに登ると伝えなさい。
先週見たのはペテロとヨハネがイエス様の抜け殻になった布を見つけた。
そしてヨハネはイエス様の復活を信じたわけですね。
二人は帰って行ったんですけど、マリアだけ復活のイエス様に会った。
だからその弟子たちに私と会ったこと、そしてこれらの言葉を伝えなさいとイエス様は伝えたわけです。
その意味はですね、イエス様がこれから父なる神様のもとに登ります、そういうことを伝えているわけです。
それはですね、新しい時代が来る、そういう知らせです。
イエス様は昇天されます。
すると何が起こるか、約束されたように、聖霊が下ってくるわけですね。
そしてその聖霊は何をするかというと、イエス様の言葉の意味を私たちにわかるように、
あるいはイエス様の言葉の意味を私たちの心に深く刻んでくださる。
それが聖霊の働きですね。
イエス様は十字架にかかる前の夜、おそらく最後の晩餐でしょうか、
睡腰の食事の時に弟子たちにこのように言われたんですね。
私が去って行くことは、あなた方の益になるのです。
去って行かなければ、あなた方のところに助け主はおいでになりません。
でも行けば、私はあなた方のところに助け主を使わせます。
その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方を全ての真理に導いてくださいます。
イエス様は人となってこの地に下られた神様ですね。
しかしイエス様が天に昇られた後、新しい時代がやってきました。
それはイエス様に代わって、聖霊なる神様がこの地に下ってくる。
そして、どんな時代かというと、
聖霊はイエス様の御言葉、イエス様が語った真理、
イエス様についての真理を信じる私たちに明らかにしてくださる。
そういう約束ですね。
つまり、マリアたちの時代は、イエス様が体を持って彼ら、彼女らと一緒にいました。
でも新しい時代は、イエス様は聖霊によって私たちと共にいてくださる。
そんな時代なんですね。
そして、人としての代わりに聖霊として、
そして聖書の言葉をもって、イエス様は御自身を私たちに表してくださる。
言い換えれば、聖書の御言葉と共に私たちと共にいてくださると、
理解することができるわけです。
私たちもですね、できれば体を持ったイエス様がいて、
そのイエス様の足にすがりつきたいと思う時があるかもしれませんね。
でも、新しい時代に私たちはすがりつくのではなくて、
握りしめるんですね。
何を?それはイエス様の御言葉を握りしめていく。
それが新しい時代の私たちの信仰の在り方だ。
それを最初に覚えておいてください。
今はイエス様が人として私たちと共にいる代わりに、
聖霊と聖書の言葉を持って私たちと共にイエス様がいてください。
この新しい時代に私たちは、
すがりつくのではなく、握りしめる。
イエス様の体にすがりつくのではなく、
イエス様の御言葉を握りしめるべきなんです、ということですね。
私たちと共に、私たちのうちにいるイエス様
2番目、そのイエス様の言葉の意味を考えていきますが、
2番目、私たちと共に、私たちのうちにおられるイエス様ということを考えていきましょう。
20章15節でイエス様とのやり取りが出てきますね。
イエスは彼女マリアに言われた。
なぜ泣いているのですか?
誰を探しているのですか?
彼女は。
彼が園の管理人だと思って言った。
ここから読んでみましょうか、3。
あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
どこに置いたのか教えてください。
私が引き取ります。
マリアはあくまでもイエス様の御遺体を引き取りたいと思っていたわけですね。
当然イエス様がそばにいるのにも関わらず、
イエス様のことに気がつかなかったんです。
それどころか、このイエス様を園の管理人だと思ったんですね。
いろんな理由があるかと思いますけども、
急いでイエス様が埋葬されたので、
園の管理人がちゃんとした埋葬した、
ちゃんとした墓に移すためにイエス様の御遺体を持っていったんじゃないかと
考えたのかもしれません。
しかし確かにイエス様と共に、
失礼しました、マリアと共にイエス様はいたわけです。
マリアの目の前にイエス様は復活の姿を表してくださったんですね。
でも彼女はイエス様のことに気づかなかった。
当然ですね、今の私たちはイエス様の体を見ることができませんね。
復活のイエス様をほとんどの方は見ることができません。
しかし素晴らしい約束が与えられています。
それは、今は聖霊によってイエス様が私たちと共におられる。
そして聖霊によってイエス様が私たちの内におられる。
そういう時代なんですね。
私まだ覚えているんですけど、初めてイエス様を信じた。
ある経緯があって、2日連続してイエス様は私の頃にお入りくださいって祈ったんですね。
1984年の4月18日、大学の近くの喫茶店で宣教師に冊子を見せられて、訳もわからず祈った。
そして木曜日、宣教師たちがやっているキリスト教の集会に行って、
ちょっと自分の悩みをある宣教師の方に相談して、
そのことからですね、もう一回本当にイエス様を信じようと思ってですね。
イエス様、私の頃にお入りください。
19日ですね、4月19日の木曜日の夜に信じたんです。
次の日、4月20日の金曜日ですね、私その頃テニスサークルに入ってたんですね。
テニスコートは外だったんですけど、まさに午後、1時頃かな、ちょっと夕方かな、
英語でヤコブのハシゴっていうんですか、
雲の隙間から太陽の光線がすぐ振り注いでくるんですよね。
その時にテニスコートの中にいながら、訳もわかんないんですけど、
イエス様が私の頃の中に住んでおられるっていう喜びがですね、
誰にも説明できませんけど、湧いてきました。
その気持ちと、その雲から光が差し込んでいる状況をですね、今でも覚えています。
そのようにですね、聖霊によってイエス様が私たちの頃に住んでくださるのが、今の祝福された時代です。
話前後しますけども、聖書の中ではですね、キリストの霊とかですね、イエスの御霊っていう方が書いてあります。
そんなことから、この聖霊が共におられるってことは、イエス様が共におられると私たちは考えていいわけですね。
で、私に縋りついてはいけませんってイエス様が言った理由の一つにですね、
肉体というのはですね、人間の体というのは時間と空間に縛られています。
だから、逆にですね、聖霊なる神様であれば、時間と空間に縛られません。
不思議ですよね。世界中どこにいても、御名さんがどこにいても、イエス様は聖霊によって御名さんと共にいる。
百人ようが千人ようが、何度でもですね、イエス様が共にいてくださる。
なぜかそれは、身体じゃなくて、聖霊として共にいてくださる身体なんですね。
そして、イエス様の御言葉はですね、共におられるという約束を語ってくださっているんですね。
有名なマタイの28章20節で復活したイエス様は、弟子たちに最後にこう言われましたね。
読んでみましょう。
そして、新約聖書の後ろの方である著者がですね、ヘブル13章5節でこのように言っています。
ここで読んでみましょう。
これ、キリスト教の専門用語でいうと臨済信仰ですね。
御臨済の信仰です。
とにかくイエス様が共にいてくださる、聖霊によって共にいてくださるということが素晴らしい約束ですね。
そして先ほども言いましたが、その聖霊によってイエス様は私たちの内側に住んでいてくださるわけですよね。
そのことを使徒パウロはこのように、特に二つの言葉を伐推しましたけれども、表現しています。
読んでみましょう。
ガラティアン2章の19、20節の伐推ですけど、読んでみましょう。
私はキリストと共に十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。
そしてパウロはまた別の手紙でこう書いています。
コロサイ1章27節ですね。
この奥義が違法人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は生徒たちに知らせたいと思われました。
読んでみましょう。
この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
こうやってイエス様の言葉自身が、またイエス様が聖霊によって語られた聖書の言葉がですね、
私たちにイエス様と共におられること、内にイエス様がいてくださるということを約束してくださっているわけですよね。
願うか、そのような言葉が聖霊によってですね、私たちの心に刻まれる、そんなことがあれば幸いだと思います。
まあ、私たちは当然ですね、マリアのようにイエス様の足に今、すがりつくことはできませんよね。
でも、祈りの中で、聖霊によって私たちと共におられるイエス様に、私たちはすがりつくことができるわけですね。
まさに、祈りの中でイエス様にすがりついて、イエス様助けてください、共にいてくださることを感謝します。
そのようにイエス様を間近に覚えて、祈り合いをお互いでありたいと思います。
私たちを名を呼んでくださるイエス様
最後ですね、3番目。
私たちの名を呼んでくださるイエス様について考えてみましょう。
ちょっと会話調で難しいかもしれませんが、今日のところから20章16節から読んでみましょう。
イエスは彼女に言われた。
マリア、彼女は振り向いてヘブル語でラボニー、すなわち先生とイエスに言った。
マリアはですね、イエス様を普段呼んでいた言葉、ヘブル語彼女たちの弟子たちの間の言葉で先生という意味を表すラボニーと言って
まさに、あ、イエス様だと気がついたわけです。
なぜイエス様に気がついたか、それは名前を呼ばれたからですね。
マリア、先ほども言いましたけども、その間の管理人だと思ったマリア。
そしてそのようなマリアでしたけども、名前を呼ばれてですね、目が開かれたのでしょうか。
目の前にいる人がイエス様であることがわかったわけですね。
悲しみに暮れていたマリアはですね、我に帰ったようにイエス様に気がついた。
なんで気がついたのか、なんでわからなかったのかってですね、学者の間で議論があるんですけど、なかなかちょっとわからないんですね。
でも確かに名前を呼ばれて気がついた。それは事実です。
実はですね、これはヨハネの福音書の羊飼いと羊のたとえと関連しているっていうですね、
こういう言葉がありましたね、ヨハネの十書の三節四節に。
牧者は自分の羊たちをそれぞれ名を呼んで連れ出します。
羊たちを御名外に出すと牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。
彼の声を知っているはずです。
イエス様は私は良い牧者ですとも言いました。
その羊飼いになるイエス様は羊の名をそれぞれ呼んで、十八人からわけではなくてそれぞれ名を呼んで連れ出して豊かな地へと導くと。
羊たちはそのイエス様の呼び声を知っているということです。
先ほどの話と関係するんですけどね、私が初めてティエス教信仰であったのは
アメリカ人の宣教師のグループの中だったんですね。
アメリカ人って相手を呼ぶときにどうやって呼ぶか知ってます?
いわゆるファーストネームで呼ぶんですよ。
大統領のこともファーストネームで呼ぶじゃないですか。
ロン・ヤスカイランって言ったけど、レーガンね。
日本ではレーガン大統領って言ってたけどロナルド・レーガンでロンロンって言ってたでしょ、周りもね。
学校でも大学なんかでも偉い教授のことをファーストネームで呼ぶんですよ。
私も11年以上前、教会を指導してくれたゲイリー・ハリソンという人がいるんですけどね。
普通にゲイリーって呼ぶんですけど、呼べないからゲイリー先生につけちゃう。
ちょっとあれしましたけど、私がとにかく最初に初めてアメリカ人の宣教師と交わったときに驚いたのが
ファーストネームで呼ばれるんですよ。
おそらくほとんど生まれで初めて家族以外の人からファーストネームで呼ばれてびっくりしたんですけど、すごい新鮮に感じましたね。
そしてそれと同時に、私を一人の人間として認めてくれてるんだな、
尊重してもらって大事にされて受け入れられている、そういうことがファーストネームで呼ばれて実感したのを今でも覚えています。
実はイエス様はマリアを名前で呼んだように、私たちのことを、御名さん一人一人のことを名前によって呼んでくださって招いてくださるお方ですね。
実はその呼びかけに私たちが何らかの形で気がつくときに、私たちの目が開かれて、
共におられるイエス様や、うちにおられるイエス様のことに気がついていく。
あるいは信仰が新たにされたり、新鮮にされていく。
そんなことがあるのではないかと思うわけですね。
アカシというクリスチャンのアカシを集めた本の中にこんな話がありました。
60代のクリスチャンの女性です。
彼女は高校生の時に洗礼を受けたそうです。
実は小学1年生の時に友達から教会学校に行かないかって言われて、結局行けなかったんですね。
3年生の時に引っ越しをしたんです。
北海道のある場所。
そしたら学校で嫌な思いを友達から受けて、
教会を電話帳で調べたら、隣町で小学生の自分では歩いて行けない距離にあったんですね。
だから毎日教会が行けますように祈っていたら、
ある日、家の前に洗教師が越してきて、そこが教会になったそうなんですね。
なんか不思議な導きを感じていた彼女は、
高校3年生の時でしょうかね、2年生の時に、
その教会におそらく来た伝道師に話す機会があったんですね。
こんなことを書いたんですね。
高校生会である牧師を招いて特別なお話をしていただいた時、
二人きりになる機会があって、いろいろ質問された後に深刻学に導かれました。
私はこれから神様を信じますので、今までの罪を悔い改めます。
私の心の中にどうぞ入ってきてください、みたいなお祈りです。
彼女は書き出しにこんなことを書いたんですけど、
洗礼を受けたのは高校2年生の時です。
もう信じたんですって言い切ったんですね。
そのようにお祈りしたと。
罪と言っても、子供ですからちゃんとわかってなかったかもしれない。
罪を許してもらったというよりは、この方以外に真実はないと思った。
本当に私のことを見てくれる神様だと信じたとしか言えないです。
今まで神様を自分の神としてこなかったこと自体が罪だと聖書にあるので、
その通りだとその時思いました。
そして友達が与えられたことや目の前に教会ができたことを奇跡のように思ったんですね。
圧倒されたというか疑う余地がなかった。
それで彼女はイエス様を信じる決心をして洗礼に導かれた。
しるし象的なのは、罪を許してもらったというよりは、この方以外に真実はないと思った。
本当に私のことを見てくれる神様だと信じたとしか言えないです。
まさに本当に私のことを見てくださる神様、それはイエス様です。
この彼女のようにその時に私たちが気がつく、
それはイエス様に名前を呼んでくださいと呼ばれている時でもあるのではないかと思うわけですね。
日々の生活の中でイエス様に名前を呼ばれるような経験を通して、
私たちと共に、そして私たちの家におられるイエス様の祝福に目が開かれながら歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
最後に旧約聖書の神が名を呼ぶという素晴らしい御言葉を二つ紹介して終わりにしたいと思います。
だが今、主はこう言われる。
あなたを形作った方が、読んでみましょうか。
恐れるな、私があなたをあがなったからだ。
私はあなたの名を呼んだ。
あなたは私のもの。
私の目にはあなたは光華でたっとい。
私はあなたを愛している。
イザヤ書の43章の一節と四節ですね。
そして同じイザヤ書の49章の一節です。
ちょっと最初だけ読みましょう。
しまじまよ、私に聞け。
遠い国々の民よ、耳を傾けよ。
これはこの預言者イザヤが自分のことを言った言葉ですね。
ここを読んでみましょう。
主は生まれる前から私を召し、
母の体内にいた時から私の名を呼ばれた。
このようにですね、私たちの名をずっと前から知って呼んでくださる神様の愛、
呼びかけに気がつきながらですね、歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
祈りと結び
天の神様、御名を賛美いたします。
私たちは今、復活したイエス様を見ること、また直に抱くことはできません。
しかし、聖霊によってイエス様が私たちと共にいてくださり、
私たちの内にいてくださることを感謝いたします。
どうぞ私たちが御言葉を通して、また日々の出来事を通して、
名を呼んでくださるあなたの御声に気がつくことができますようにどうか導いてください。
そして信仰あらたにされ、
ますますあなたに会って感謝をもって、
あなたと共に確信をもって歩んでいくことができますようにどうか導いてください。
目には見えませんが、今もこの場に、そして私たちと共にあなたがいてくださること、
そのことを信じて感謝いたします。
私たちの救い主シューイエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
それでは1分ほど黙祷してお祈りする時間を持ちましょう。
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