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#367 日々、主の訪れを期待して 26/10/4
2026-10-04 23:56

#367 日々、主の訪れを期待して 26/10/4

ヨハネ21:1-14からの礼拝メッセージ。2026年10月4日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()からです)二度あることは三度あると言われているように、今日の箇所には復活したイエス様と弟子たちとの三度目の出会いが描かれています。私たちの信仰生活の関わりを取り上げる前に、聖書を読む楽しさに触れて頂くために、第一の点では今日の箇所の構成について説明します。(1.7人の弟子たちの意味とは()、2.日常の営みの中にイエスは現れる()、3.朝食を噛みしめて())

原稿を読む:日々、主の訪れを期待して: ヨハネの福音書21:1-14|Kishio

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サマリー

ヨハネの福音書21章1〜14節をもとに、復活したイエスと弟子たちの三度目の出会いが語られる。7人の弟子の構成と「7」という数の意味から、物語の最終章に全弟子を代表する姿が示されていると説明する。弟子たちが漁という日常の営みの中でイエスに出会い、不漁の中で153匹の魚を得たことから、努力が実らない時にも主が導くと語る。最後に、イエスが用意した朝食を弟子たちが味わいながら、最初の出会いや救いの経験を思い起こし、日々の新しい出会いを期待して歩むよう勧める。

ヨハネ21章の朗読と三度目の再会
ヨハネの福音書21章、1節から14節をお読みします。
その後、イエスはテベリア古藩で再び弟子たちに御自身をあらわされた。
あらわされた姿態はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリアのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして他に二人の弟子が同じところにいた。
シモン・ペテロが彼らに、「私は寮に行く。」と言った。
すると彼らは、「私たちも一緒に行く。」と言った。
彼らは出て行って小舟に乗り込んだが、その夜は何もとれなかった。
夜が明け始めていた頃、イエスは岸辺に立たれた。
けれども弟子たちにはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼らに言われた。
子供たちよ、食べる魚がありませんね。
彼らは答えた。
ありません。
イエスは彼らに言われた。
船の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れます。
そこで彼らは網を打った。
すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
それでイエスが愛されたあの弟子が、ペテロにシュダと言った。
シモン・ペテロはシュダと聞くと、裸に近かったので上着をまとい湖に飛び込んだ。
一方、他の弟子たちは魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。
陸地から遠くなく200ペキスほどの距離だったからである。
こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火が起こされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
イエスは彼らに、今取った魚を何ペキか持ってきなさいと言われた。
シモン・ペテロは船に乗って網を陸地に引き上げた。網は153ペキの大きな魚でいっぱいであった。
それほど多かったのに網は破れていなかった。
イエスは彼らに言われた。
さあ朝の食事をしなさい。弟子たちは種であることを知っていたので、誰もあなたはどなたですかとあえて尋ねはしなかった。
イエスは来てパンを取り彼らにお渡えになった。また魚も同じようにされた。
イエスが死人の中からよみがえって弟子たちにご自身をあらわされたのは、これですでに三度目である。
以上です。今日はこのところから、日々種の訪れを期待して、弟子たちからお話をします。
御名さんおはようございます。
9月は雨降りの日が多かったですけれども、今日は晴れやかな朝ともに、10月の最初の礼拝を守ることを感謝しています。
7人の弟子たちと物語の構成
さて、二度あることは三度あるとも言われていますが、
今日の歌唱には、復活したイエス様と弟子たちの三度目の出会いが描かれています。
私たちの信仰の糧となることがいくつかあるのですが、そのことを取り上げる前に、最初に背景を取り上げます。
いつも時々やりますが、御名さんに聖書を読むとか、少し聖書を深く学ぶことの楽しさを知っていただきたいので、
一番最初は、この歌唱の背景をお話ししたいと思います。
一番最初は、7人の弟子たちの意味とは。
7人の侍ではなくて、7人の弟子たち。
3節を読んでみましょうか。
私が最初に読みます。
シモン・ペテロが彼らに、私は寮に行くと言った。
すると彼らは、私たちも一緒に行くと言った。
ここから読んでみましょうか。
彼らは出て行って小舟に乗り込んだが、その夜は何も取れなかった。
今から興味深いことがこの歌唱に2つあるので、それを見ていきますが、
2つとは、この弟子のリストとその人数なんですね。
ところで、秋は最近はテレビよりもネット番組を見る人が多いですが、
テレビ業界では、ドラマの再編の時期ですよね。
9月なんかでは、今まであったドラマが終わったりします。
そうすると、ドラマの最終回だとよくあるのは、今まで登場してきた人物が出てきたりとか、
初回に何かあった謎が解き明かされる場面がありますね。
いくつか思い出しますが、あえて言いません。
そのように、今日の21章の2節のリストには、
これまで初回の1章から登場した弟子のリストが出てきます。
鎌倉殿の13人という対話ドラマを今でも思い出すんですが、
13人は誰だったのかということが、最後の回に向かって驚愕する場面もありましたが、
それをさておいて、7人出てきます。
ちょっと分かりやすく、色付けをビジュアルではしてしまいましたが、
出ている順番に挙げますが、まずシモン・ペテロ。
よく知っていますよね、弟子の人。
それからデドモと呼ばれるトマス。
この2人は、ペテロは有名ですが、トマスについては先週まで出てきた悲観的な弟子でしたね。
でも、さらにゼベタイの子たちというのが出てきます。
そのゼベタイの子は誰ですか?
ヨハネの福音書には書いていないのですが、他の福音書を見ると、
それはヨハネとヤコブだということが分かるんです。
実はペテロとヨハネとヤコブというのは、イエス様の弟子の筆頭の3人でしたよね。
変貌山に登る時もこの3人で行きました。
実はこのヨハネは、福音書でたびたび登場する、特に復活の場面でよく登場する、
主イエスが愛した弟子、今日の歌手でも出てきますね。
そして、福音書の著写とされている、このヨハネだ。
ここは、いつも通り彼は、ゼベタイの子たちと書いて、自分の名前を兄弟共に隠しているとも言われています。
そして、その兄弟は、実はヤコブなんですね。
とにかく、ここで4人出てきました。
そして、21章の最初を見てくると、他の人たちが何が出てくるかというと、
ガリライのカナ出身のナタナアイルというのが出てきます。
彼は、ヨハネの福音書の1章45節以降に出てきて、
大きな栗の木の下でじゃなくて、一軸側の木の下にいたところを、私は見たとイエス様に言われて信じた弟子ですよね。
そして、他の2人の弟子というのが今日の歌詞を書いてあるんですけども、
おそらくこの2人は、ペテロの兄弟のアンデレ。
最初にアンデレが1章のとこで、イエス様と会って、弟か兄か知りませんが、ペテロを紹介したというマメが出てきます。
そしてピリポという人も、1章の43節に出てきます。
実はピリポとナタナアイルの出会いは関係が深かったんですけども。
こうやってみますと、メインのキャラクターであるこの2人をはじめとして、
1章の中で出てきた弟子たちがもう1回出てきているわけです。
最後の章。しかもその人数が7人なんですね。
よく大団円って言ってね、最後にこういう、最近の流行りでは伏線回収団って言葉が入ってますけど、
こうやって一番最初に出てきた人たちが出てきて、最後に盛り上げていくっていう、
そこまで行きませんけども、そういうと似たことがここで起こっています。
そしてそういう文学的なですね、あとドラマとして興味深い構造なということと、もう一つは7人です。
7というの御名さんご存知ですよね。聖書で完全数です。
ですからこの7人ということで、この彼らをはじめとして今の私たちに至る、この後イエス様を信じていく弟子たちが全部ここに示唆されているんじゃないか。
このこれから信じる弟子たちの代表として7人というのが出てるんじゃないかという説があります。
このイエス様と感動的なこの弟子たちの再会を描きつつ、そしてそれがやがて全世界に広がって多くの弟子が与えられていきますよということも示唆されているんじゃないかと言われている。
そういうまあいわゆるエンディングフィナーレになっているわけですね。
日常の営みの中に現れるイエス
じゃあその上でですね、私たちと関わる大事なことを見ていきましょう。
ペテロがですね、私は寮に行く、なぜそう言ったのか。
まあ先に答え言うといろんな説があるんですけど、おそらく食べるため。
彼を始めとする弟子たちのもともとの職業は漁師でしたよね。
だから文字通りですね、地元のガリデアに帰って、地元のテベリア湖、ガリデア湖でまさに食事をとるために、日々の過程を得るために寮に行くということがおそらく考えられたわけです。
それで次の点に入っていきますけれども、2番目、日常の営みの中にイエスは現れるということですね。
21章6節、ちょっと長いんですけど読んでみましょうか。
イエスは彼らに言われた、船の右側に網を打ちなさい、そうすれば取れます。
そこで彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
私たちに関わることを最初に申し上げますと、私たちは仕事ですとか家事、その他日々の生活を維持するために懸いのちに働く、一生懸いのち生きてますよね。
復活のイエス様は、そういう私たちが懸いのちに働いたり日々送っていく生活のただ中で姿を現してくださるということですね。
そして私たちの努力が不毛に思える時でさえも、イエス様は私たちを導いてくださるということですね。
このプロの漁師が一晩中漁をした。
おそらく言われているのは、漁にとって一番良い時間はガリラヤ根ですね。夜中だって言うんです。
だから夜通し働いて頑張ったわけですけども、何も取れなかった。
しかも彼らはエルサレムという都会じゃなくて地元のガリラヤで漁をしている時に復活のイエス様と出会った。
繰り返しますが、このプロの漁師が一晩やっても魚一匹取れなかった時に、イエス様が助け舟をまさに出すように魚の居場所を右側だよと教えたわけです。
そしてイエス様が言われた通りにすると、網がはち切れんばかり。
網が船に上げられないほどの大量だった。
おそらく聖書に90メーターくらい、100メーターくらいで明け方だったので、岸にいる人がイエス様だということがわからなかったかもしれません。
あるいは今まで何度かあったように復活のイエス様というのを最初マリアや弟子たちのように認識できなかったのかもしれない。
そういう不思議さもあるんですけども。
ただその大量の様子を見て主の愛された弟子、おそらくヨハネがペトロンの耳元で、あれは主です、イエス様ですと言ったわけですよね。
すると、それでイエスが愛された弟子がペトロンに主だと言った。
ここを読んでみましょうか。
シモン・ペトロンは主だと聞くと、裸に近かったので上着をまとい湖に飛び込んだ。
おそらく昔漁をしてて本当に裸に近い姿だったんですけども、イエス様に会うので必死になってですね、この上着を羽織って海に飛び込んだ。
これまさにペトロンらしいですよね。
復活の墓の場面を覚えてますか?
殻の箱の場面でもヨハネとペトロンが走っていって、そして先にペトロンがついたわけです。
ヨハネがついて中を見たら殻だった。
でもヨハネはイエス様の復活を認知したんですけども、入らなかったらペトロンはバーって墓に入っていっちゃったわけですよね。
この認知が早い死の愛する弟子ヨハネと考えるよりも行動の早いペトロンがここでも描かれているわけですよね。
ターンって泳いでいっちゃったわけですね。
可愛らしいかもしれませんけどね。
先ほども言いましたけども、都でイエス様と最後を過ごした弟子たちでした。
エルサレムはですね、東京のようなイスラエルの人でしたね。
前も言いましたけど、私は時々東京に行くんですよね。東京祭に行くんですよ。
仕事でこの間ニコタマなんてね、何個あるかわからないんですけどニコタマまで行くんですよね。
そうすると渋谷とか通るとね、地下からずっと上に上がって、街が花々しいわけです。みんなオシャレしたり。
双子玉川もすごいですね、高島屋とかってですね、オシャレな街なんですね。
地元帰ってくるとホッとするわけですよね。家が一番みたい。
まさに弟子たちもエルサレムでイエス様と緊張して過ごして、イエス様死んじゃってイエス様に会えたけども
ホッとしてですね、約100キロくらいですか、150キロくらい、東京から福島の玄関口くらいまでの距離らしいんですけども
地元帰ってね、言う人が言うにはガリダヤは日本の東北地方だって言うんですね。
領祭久米なんて。そういう地元でですね、イエス様に会った。
もう地元帰ったらですね、イエス様に会えないんじゃないかって残念がってたり
両親にやっとしてですね、働いても魚が取れなくてがっかりしてたかもしれません。
でもまさにこの地元でですね、がっかりしている時にイエス様がご自身を表してくださったわけですよね。
イエス様はですね、まさに彼らの日常生活のただ中で復活の姿を表してくださったわけですよね。
ですから思わず海に飛び込んだペテロの気持ちもね、わかるかもしれません。
はい、そして何匹か、わざわざ153匹って書いてあるんです。
何で153匹って書いてあるか。釣りやったことある人は分かると思うんですけど、大きい魚釣る時に測るんですよ。何センチか。
私もね、大きい魚釣って写真撮ったりしますけど。
あるいはもう漁師もね、大量だった場合は何トン水揚げがあったってこだわるでしょ。
それでたぶん153匹って本当に大量だったから数えたし、あとまさに食べるために分けるじゃないですか。
だから数えたから153匹だってことが書いてあるんじゃないかって言われてるんですね。
とにかく大量だったわけです。
このようにですね、彼らは日常生活の中でいつもやれることやったけども、不毛だった。息承知していた。
でもそんな日常生活の営みの中でイエス様が現れてくださって、こうやって必要なものを備えてくださったわけですよね。
まさにイエス様は私たちが仕事をしているとき、家事に勤しんでいるとき、あるいは日々の生活の中で日常生活、よく英語で言うルーティーンですね。
ルーティーンに勤しんでいる、お決まりの出来事に携わっているときに、まさにですね、朝日が差し込むように、
私たちのもしかしたらつまらないと思う日々の中で、イエス様はご自身を現してくださるわけですね。
今朝の新潟市の日の出何時か知ってます?
39分です。
なかなかね、東京は1ヶ月ずっと9月雨だったから日の出なんか見ないでしょうけどね、最近は朝日が差してくるわけですよね。
そういう朝日が差し込むように、私たちの何気ない時に飽き飽きするような日常生活の中に、イエス様がご自身を現してくださる。
そのことをですね、期待して今日から始まる1週間を歩んでいきたいと思います。
イエスが備えた朝食を味わう
最後、3番目は朝食を噛み締めてですね、21章9節、読んでみましょうか。
こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火が起こされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
あのエルサレムにね、今行くと、まさにペテロが釣った魚っていうのがあるそうです。
ピーターズフィッシュです。
で、このペテロが食べたパンもあるって知ってます?
ピーターパン。
それ冗談です。
ピーターズフィッシュっていうのがあって、本当にですね、彼らは陸に上がるとイエス様が朝食を用意してくださる。
最近ね、よく朝食戦線が活況だって言いますよね。
あの有名なファーストフード店でも昔、前から朝食メニューがありましたけど、最近はイタリアのファーストフード店でも朝食メニューが始まったりとか、コンビニでもですね、朝食割引があるわけですけども、
こうやってイエス様が夜通し働いて、何もとれず腹を空かした弟子たちのために、朝食を用意してくださったわけですね。
弟子たちはこのイエス様はですね、弟子たちと別れる最後の晩に足を洗って、弟子たちに仕えられました。
そして復活したイエス様は、ご自分が神であって、神の栄光のお姿でもあるにもかかわらずですね、また朝食を作って弟子たちを迎える。
こうやって弟子たちに仕えてくださったわけですよね。
そしてイエス様は、もちろん今の私たちにも仕えてくださる有力な神様であられます。
弟子たちの反応が出てますね。ちょっと今日読むのこと多いんですけど、読んでみましょうか。
弟子たちは主であることを知っていたので、誰もあなたはどなたですかとあえて尋ねはしなかった。
わざわざ元々のギリシャ語でもあえてにあたる言葉が書いてあります。
あえて誰ですかと尋ねなかった。
この朝食をイエス様と共にしている弟子たちの沈黙、弟子たちの喜びとか革新が伝わってくるような沈黙じゃないかなと思うんですね。
おそらくイエス様が六章で見せたようなパンと魚の奇跡を思い出していたかもしれません。
あるいはこのヨハネの文書にありませんけども、弟子たちは自分たちとイエス様との最初の衝撃的な出会いの大量の出来事を思い出していたかもしれません。
その時も何も取れなかったけれども、イエス様の言葉通り網を投げたら大量だったわけです。
そしてやはりその時にペテロが最初に声を上げましたよね。
ルカの五章八節から十節にその感動的なやり取りが出てきます。
これを見たシモン・ペテロはイエスの足元に平伏して言った。
主よ私から離れてください。私は罪深い人間ですから。
彼も一緒にいた者たちも御名、自分たちが獲った魚のことで驚いたのであった。
シモンの仲間のゼベター・イノコ、ヤコブやヨハネも同じであった。
イエスはシモンに言われた。恐れることはない。今からのうちあなたは人間を獲るようになるものです。
この時のことをおそらくしみじみとペテロもヤコブもヨハネも他の弟子たちも思い出した。
聴触をかみしめながらこの時のイエス様との出会いと証明をかみしめていたんじゃないかと思うわけです。
日々の新しい出会いを期待して
私たちも日々日常生活の中で、もちろん目に見えませんけどもいつも言っていますが、
聖霊の導きによってイエス様が私を救ってくださったという経験とかですね、
あるいは聖書を通してイエス様が私に語りかけてくださったという経験をするかもしれません。
そのような日々イエス様との新鮮な出会いを通してですね、
イエス様を初めて信じた時のことをかみしめて確信を新たにするのではないでしょうかね。
来週以降はですね、今度さらにイエス様とペテラの会話から感動的なシーンが出てきますのでそこを見ていきたいと思います。
それではお祈りします。
天の神様、御名を賛美いたします。
私たちは日々何気ない日常を過ごしています。
仕事や家事、また日々の営みの中で何気ない出来事の繰り返しに思います。
その中で喜びやまた不穏な出来事、悲しみを体験するかもしれません。
しかしイエス様は朝日のように差し込んで私たちの前に姿を現し、私たちを飛ばせまた祝師に導いてくださる救い主であることを信じて感謝いたします。
どうぞ今日から始まる一週間、日々あなたとの新しい出会いを期待して歩んでいくことができますように。
その出会いに導かれた時にどうか目が開かれて、主ですと告白することができるように導いてください。
あなたがいつも私たちを導き、あなたの働きへと召してくださる、そのような救い主であることを信じ感謝し、イエス様の名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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