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#365 平安と聖霊の祝福 26/9/20
2026-09-20 25:17

#365 平安と聖霊の祝福 26/9/20

ヨハネ-23からの礼拝メッセージ。2026年9月20日録音。(聖書朗読は()まで導入は()からです)

復活の主が閉ざされた戸を越えて弟子たちのただ中に立たれた夜――その一言「平安があなたがたにあるように」は、恐れに閉ざされた心を打ち破り、傷ついた体をも示してご自身の現実を確かめさせ、さらに聖霊を授けて遣わす使命を与える宣言でした。今日、私たちもその平安と聖霊の恵みによって、恐れから解き放たれ、希望と力を受け取ることができます。これから、1.イエスの復活の体()、2.「平安があるように」()、3.聖霊なる神ご自身が授けられた()、の3点から考えて行きましょう。音声を聞く:平安と聖霊の祝福:ヨハネの福音書20:19-23|Kishio

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サマリー

ヨハネの福音書20章19〜23節をもとに、復活したイエスの体、平安の約束、聖霊の賜与について語る礼拝メッセージ。鍵のかかった部屋に現れ、手と脇腹を示したイエスは、物質的制約を超えながらも十字架前の体との連続性を持つ復活の体を示した。弟子たちの恐れに対してイエスは「平安があなたがたにあるように」と二度語り、人の評価や立場への不安から解放される平安を約束する。さらに、息を吹きかけて聖霊を授け、聖霊とは感情ではなく、信じる者と教会の内に住み働く神ご自身だと説明する。

復活したイエスの体と私たちの復活
それでは、朗読します。ヨハネの福音書20章19節から23節です。
その日、すなわち、主の初めの日の夕方、 弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて、戸に鍵がかけられていた。
するとイエスが来て、彼らの真ん中に立ち、こう言われた。 平安があなた方にあるように。
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。 弟子たちは主を見て喜んだ。
イエスは再び彼らに言われた。 平安があなた方にあるように。
父が私を使わされたように、私もあなた方を使わします。 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
聖霊を受けなさい。 あなた方が
誰かの罪を許すなら、その人の罪は許されます。 許さずに残すなら、そのまま残ります。
以上です。 今日はこのところから、平安と聖霊の祝福と題して、御言葉からお話をいたします。
御名さんおはようございます。 ニュースでもまたお知らせもしましたように、
台風25号が接近して、今日ちょっと礼拝がどうなるか、もし難しかったら、危なかったらオンラインなどを切り替えて下さいなんて通知しましたけど、少しね
遅くなって、こうやって集まれていることを幸いに思います。 さて今日はですね
今朗読した箇所、ヨハネの福音書にはですね、他の福音書にない
出来事が書かれていて、今日の箇所もその一つです。
そこからですね、3つのことを取り上げて学んでいきたいと思います。
まず最初はですね、イエス様の復活の体、そしてそれが私たちの復活の体とどう関係あるかということに、少し触れられたら良いと思います。
この弟子たちが鍵の部屋の、かかった部屋の中にいる時にイエス様が現れたということですけれども、
読んでみますね、20章19から20節。 その日すなわち、週の始めの日の夕方、弟子たちがいたところでは
ユダヤ人を恐れて、戸に鍵がかけられていた。 ここからだけ読んでみましょうか。
するとイエスが来て、彼らの真ん中に立ち、こう言われた。 平安があなた方にあるように。
こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。 弟子たちは主を見て喜んだ。
実はここで、戸に鍵がかけられたとあります。 この絵でも鍵がかかっていますよね。
実はこれは元のギリシャ語、日本語ではわかりません。 それで見ると、
複数の扉の複数の鍵がかけられていたことがわかるんです。 英語の聖書だと、the doors werelockedといって、複数形で書かれています。
だから、 何がここで言われているかというと、
全部の扉の鍵がかかっていて、外からは誰も入れませんよということが言われているんですね。
それはつまり、 あることがここで強調されています。
イエス様がこのような状態の部屋にあたかも鍵のかかったドアやをすり抜ける、 あるいは壁をすり抜けたかのように、
真ん中に立って現れたということが強調されています。 このすり抜けたようなということは、この間見たところでも
出てきましたよね。覚えています? それはイエス様の遺体が埋葬されたお墓です。
そこに巻かれていた雨布が置かれて、 頭を覆っていた布が
離れたところに丸めてあったと書かれています。 ここにもあたかも、
この間も説明しましたけれども、 すり抜けたような、
そういう痕跡が見られた。 実際何が起こったかわからないんですけどね。
そしてその後イエス様は何をしたかというと、 手と脇腹を見せたわけです。
これは何を意味しているかというと、 もちろんイエス様は
空間的にも物質的にも制約がない体として蘇ったわけです。 すり抜けたようですから。
と同時に 肉体を持っていたということを
表しています。
今日の箇所では手と脇腹を彼らに
示された弟子たちは、 主を見て喜んだと書いてあります。
もう一つ丁寧に見ると興味深いことがあるんです。 手と脇腹を見せた。なぜ2箇所?
それはイエス様と一緒に十字架についた強盗たちは、
彼らは手に跡がありましたけど、 脇腹を貫かれた、槍で貫かれたのイエス様だけです。
だからここに現れたこの人は、
あそこで十字架の上で脇腹を突き刺されたイエスという人だったということがわかるわけです。
他の2人ではなかった。
このように空間的・物質的な束縛がない復活の体でありながら、
復活前の体との繋がりがあるという、とても不思議な現象なんですね。
実はそれは私たちが復活する時のアリ様と似ているとか、
同じだと考えられると言われているんですね。
パウロはある問いに答えています。
死者はどのような体で蘇るんですか?
コリントンの教会で問われて答えているんですね。
復活のイエス様の体は空間的にも物質的にも束縛されませんが、
復活前の体との繋がりがあるということがわかります。
私たちの復活にも同じようなことが言えるということです。
パウロはどうやって復活の体があるんですか?という問いに答えているんですね。
第1コリントンの15章の36節、あるいは42節以降。
あなたが撒くものは死ななければ生かされません。
これは肉体のことです。
死者の復活もこれと同じです。
ちょっと難しいですけど、読める方頑張って読んでみましょうか。
朽ちるもので分かれ、朽ちないものによみがえらされ、
血肉の体で分かれ、
御霊に属する体によみがえらされるのです。
血肉の体があるのですから御霊の体もあるのです。
御霊の体もあるって言うんですね。
余談になりますけど、よく西洋では土葬をしますよね。
それはこういうことが反映されているからです。
でも考えたら、昔に土葬された人も
まさに朽ちてしまうわけですよね、土の中で。
残念ながら私たちの体も年齢とともに衰えたり、
怪我や病気、あるいは若くても体の弱さを
覚えるということがあると思うんですよね。
いつも言っています、私も足が痛くなって
今朝も踏ん張ったらグキッと痛いとなったんですけども、
そういう体の衰え、あるいは病気や怪我ということで
体に対する不安が生じるものです。
まさにパウロはここで、
朽ちるものって言っていますよね、そういう体。
血肉の体は朽ちるもの。
しかし復活のイエス様を信じる私たちは
やがてですね、永遠のいのちが与えられますけど、
この世を信じるなら新しい体さえも与えられる。
空間的物質的な束縛がない体が与えられる。
パウロは、バス入りしたので書いてありません。
同じ箇所では、力あるもの、栄光ある体って言っているんですね。
ですから私たちは、やがて復活した時にですね、
力あるものとして、栄光あるものとして
呼びかえらせていただくことができる。
それどういう形かわかりません。
でも素晴らしい、今の何歳かわかりませんが、
今の体と連続性のある体で生み返ると考えているようなんですね。
これらのこともですね、希望として日々歩んでいくお互いであればと願います。
最初は復活の体ということです。
恐れの中に与えられるイエスの平安
2番目、今度はイエス様の言葉、行動から見ていきましょう。
2番目、平安があるようにとイエス様は言われました。
この20章19-27、抜き書きしたんですけど、読めるか読んでみましょうか。
イエスが来て彼らの真ん中の立ち、こう言われた平安があなた方にあるように。
イエスは再び彼らに言われた平安があなた方にあるように。
短い中で2回も言われているということはとても大事なことです。
この言葉はシャロームという、このイエス様の時代の言葉として挨拶ですね。
日本語でも行ってらっしゃいってあるじゃないですか、普通に言う。
あれはどういう意味か、行って無事で帰ってらっしゃい、それを略して行ってらっしゃい。
そして、行ってまいりますというのは、行って無事で帰ってまいりますという意味なのかもしれません。
そういう形式的な平安があなた方にあるようにという、こんにちは、さようならも含めた挨拶ですけど、
ここには本当にイエス様の平安の約束があると言われているんです。
この時、弟子たちは何をしていたかというと、鍵のかかった部屋に閉じこもっていましたよね、なぜか。
それは、今度は自分たちが捕まって殺される番だと。
それで弟子たちはあたかも鍵のかかった部屋に引きこもって盗獄されているようだと言われているんですね。
私たち弟子たちほどでなくても、他の人を恐れて身動きが取れないとか、
あるいはあたかも監禁されたような、もしかしたら物理的に、心理的にそういう状況に陥ってしまうことがあるかもしれませんね。
で、学者がですね、この状況、弟子たちの状況をこんなことで表現しているんですね。
私たちの人生に重ね合わせて、私たちの人生や生活は他の人が自分をどう思っているのか、また自分に何をしようとしているのか、
それらの恐れに多くの場合、影響されてしまいますと言っているんですね。
この間、司法でもお知らせしたように、僕司会は月曜日にありましてね。
この間はたまたまオンラインじゃなくて現場だったので、何年かに1回司会が回ってくるんです。
この間私回ってきたんですね。
そうすると20分くらいで発表をしなきゃいけないんです。
研究発表とか事例発表とか、読書レポートでもいいんですけど。
私は教会でやっている配信について発表したんですね。
御名さんの中では覚えていると思いますが、コロナ禍で緊急事態宣言があって礼拝が来ないようにしたんです。
2020年のイースターからだと思います。
その時はどうしていいか分からないので、礼拝メッセージを録音して御名さんに配信したのを覚えているんですね。
4月12日だったと思います。
それを実は録音したものを簡単に言うとポッドキャストと言ってね。
スマホがあればいつでもどこでも聞けるということで続けて、毎週即から続けましてね。
320回分くらいあるんです。
割と質などはなかなかのものなので、こんなことをコロナからの怪我の巧妙で続いて、それを聞いて礼拝来る人もいますよって話したんです。
正直に言うとですね、私は自分が楽しくですね、うまくっていうのは本当に続けてできたので報告したんですけど、
後からですね、やっぱり正直と御名さんどう思ったのかなって不安になるんですね。
予想したんですけど、分かるように説明したんですが、70代の先輩の牧師がですね、私は全く分かりませんねなんておっしゃって。
仲良い人だからそう言われると思いましたなんて言ったんですけども、年配の先生なり若い先生どう思うのかなっていうことが残念だからですね。
気にしないつもりでやったんですけど、正直言うと先週割と長い間引きずと思ったのかなっていうことで残念ながらですね、心配していたんです。
批判されませんでした。
まあそんなですね、本当に人が自分のことをどう思っているのかってことに意外に左右されちゃうんですよね、平気なつもりで。
ましてや自分より立場の強い人が自分をどう思って、その人の思うこと、することが自分のですね、生活とかに強い影響を及ぼしかれないとなると、そのような不安はですね、大きくなるわけですよね。
その人間の不安、恐れに多くの場合、影響されてしまうということを、この箇所からある学者は解説したわけです。
けれどもイエス様がこの恐れ、投獄されているような弟子たちの真ん中に現れたときに、彼らは喜んだ。
そしてイエス様は平安がありますように、という約束をしてくださったんですね。
イエス様は十字架にかかる前夜、弟子たちお前にその平安の約束をしてくださいました。
14章に17節で、力強くイエス様を約束してくださいました。
読めるかと読んでみましょう。
私はあなた方に平安を残します。私の平安を与えます。私が世が与えるのと同じようには与えません。
あなた方は心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
世間一般が取るような方法では、もしかしたら即物的な方法ではないけれども、平安を与えるよ。心を騒がせない。ひるむなよとイエス様はおっしゃっているんですね。
素晴らしい約束で、まさにイエス様が十字架から復活して、この約束が実現するときが来た。
そして平安があなた方にあるようにと、閉じ込められた弟子たちに告げたわけですね。
この言葉を書いた学者はですね、これも祈りの一部であったんですけども、その続きですね、祈りを書いています。
どうか私のそばに立ち、私の恐れを溶かし、あなたの平安のうちに生きる自由へと私を解き放ってください。
これ続けて祈るとですね、神様、私の人生や生活は他の人が自分をどう思っているのか、また自分に何をしようとしているのか、それらの恐れに多くの場合、影響されてしまいます。
どうか私のそばに立ち、私の恐れを溶かし、あなたの平安のうちに生きる自由へと私を解き放ってください。アーメンという祈りですね。
牢獄の中から解き放ってください。恐れを溶かしてください。そんな平安を求める祈りですけど、
この祈りをですね、私たちのものとして約束されたイエス様の平安を受け取るお互いであり、教会でありたいと思います。
聖霊なる神ご自身の賜与
最後に、聖霊なる神ご自身が授けられたということです。
イエスは再び彼らに言われた平安があなた方にあるように、これを読みましょう。
父が私を使わされたように、私もあなた方を使わします。こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。
ヨハネ20章21-22
聖書のですね、これは元の言葉、これは旧約ではなく、新約後はギリシャ語ですけど、この言葉ではですね、息も霊もフネウマという同じ言葉なんです。
旧約聖書のも同じでルアッハという言葉で、息も霊も同じ言葉を使っているんです。
ですから、このイエス様の息を吹きかけた行為と言葉は、そのイエス様が聖霊を弟子に授けるよということを具体的に表しているんですね。
言葉よりも実際に息を吹きかけられる弟子たちは、何か感じてですね、本当にイエス様が霊を授けて、聖霊をくださるんだと実感したかもしれません。
実はその聖霊は、今信じる私たちにもイエス様から与えられている。
聖霊は何ですか?それは気持ちよくなる感情だけではないし、なんとなく聖霊という感覚でもないんですね。
聖霊とは神様ご自身だ、分かっているようだけどなかなか捉えにくい。
聖霊は神ご自身だ、それは聖霊が与えられているということは、私たちの中に神ご自身が住んでいる。
そして私たちの中に、そして私たちを通して神ご自身が生きて働いてくださる、そういう約束だということなんですね。
植物的な事例で悪いかもしれませんが、銀行の預金と似ているんじゃないかと思ったんですね。
感覚があろうがなかろうが、口座にお金がいっぱいあるわけじゃないんです。
悲しんでいようが、落ち込んでいようが、銀行に口座があるわけじゃないです。
そうすると思い出してシッシッとするわけでしょ。感覚じゃなくて事実。
そうすると自由に引き出して使うことができます。
かつて、聖霊十万という言葉が頻繁に使われていました。歴史的な背景がありますが、
私たちはこの言葉から表すように十分すぎるほど聖霊が心の中に、私たちの中に、私たちの中に与えられている。
聖霊が十万していると信じることができるわけですね。
ですから、神ご自身が私たちの中に、そして教会の中に与えられていると信じることができるわけです。
ですから、私たち一人一人も、教会も十分聖霊の豊かな恵みの中にあるということを覚えておくべきですよね。
即物的な表現が過ぎて申し訳ないのですが、この銀行口座に預金が十分あるように、
私たちには心の中に十分神様が住んでおられて、必要な時に神の力に頼ることができる。
それ以上言いませんが、十分私たちの中に、教会の中に聖霊があって、必要な時に神ご自身に頼ることができる。
その力を引き出すというか、その力により頼むことができるわけですよね。
そのことを信じてお互いでありたいと思います。
聖霊の力により頼んで歩む祈り
パウロはエペソーションの中で、聖霊の話もあれば教会の話もして、
そして力強い善能の神のことを語っています。
パウロは教会が強められ、キリストの愛が計り知れない愛を知ることができますように祈る中で、
やはりこの計り知れない神の力について語っているんですね。
それを最後にご紹介したいと思います。
この祈りですね、エペソーション3章20から21節、
ご聖霊の力を覚えながらですね、読んでいきたいと思います。
どうか私たちの内に働くみちからによって、
私たちが願うところ、思うところのすべてを遥かに超えて行うことのできる方に、
教会において、またキリストイエスにあって、
栄光がよよ限りなく常しえまでもありますように、アーメン。
平安とご聖霊、神ご自身を与えてくださるという約束に固く寄りどころを持ってですね、
歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、御名を賛美いたします。
弟子たちの中に立たれたように、今あなたは目には見えませんが、
ご聖霊によって私たちのこの場にいてくださること、
その名を置いてくださることを信じて感謝いたします。
また私たちの内にご聖霊によって住んでいてくださることを感謝いたします。
どうぞ私たちが教会に与えられた、私たちに与えられたそのご聖霊、
そして神ご自身を日々現実的に知り、またその力に実際により頼んでいくことができるように導いてください。
そしてあなたの平安、またご聖霊のいのち、復活のいのちを味わっていく。
恐れから守られていく。平安のうちを歩んでいく。
そのようなお互いであり、教会でありますように。
そしてどうぞあなたが救わされたその場所で、
あなたの身の証し、罪の許しを知る、そのような方々が導かれますように、
どうか私たちを用いてください。
ご願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応える、黙祷する時間を持ちましょう。
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