2023-03-12 29:25

#栄光の豊かさ 23/3/12

ピリピ-20からの礼拝説教。2023年3月12日録音。パウロは手紙を締めくくるにあたって大変親しみのある書き方をしています。この短い文章の中に「私、あなた方、私の神」という言葉を上手に親しみを込めて使い、自分とピリピ教会の人々との関り、またそこに神様との深い人格的な関りを強調しているからです。「これは手紙を締めくくるにあたって最高の方法だ」とある学者は言います。相手と自分の間の親密さそしてそこに父なる神様とイエス様との関りを余韻として残しているからです。手紙、メール、LINEなどSNSのやり取りで事務的なものと、お互いを思いやる親しげなものとに違いがあるということ似ていますね。ここの主題である「神様の栄光の豊かさ」を元に1.すべての必要を満たして下さる神様、2.神様の方法で満たして下さる、3.父なる神に栄光をささげる、の3つの点から学びましょう。


--- Send in a voice message: https://podcasters.spotify.com/pod/show/nsbc/message
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18節から20節を読みます。
私はすべてのものを受けて満ち溢れています。
ヘパフロディトからあなた方の贈り物を受け取って満ち足りています。
それは香ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださる捧げものです。
また、私の神はキリストイエスの栄光のうちにある、ご自身の豊かさに従って、あなた方の必要をすべて満たしてくださいます。
私たちの父である神に、栄光がよよ限りなくありますように。
アーメン 以上です。
それでは今日はこのところから、栄光の豊かさと題して御言葉を取り継ぎます。
皆様おはようございます。
ちょっと待ってくださいね、これが下がらない、ちょっとわからないんですけど、はいすいません。
昨日はですね、3月11日ということで東日本大震災から12年ということですね、
さまざまテレビ新聞、その他マスコミでも話題になっておりました。
いろいろ話題ありますけれども、今WBCという野球の世界選手権が行われましてね、
岩田県出身の佐々木老貴投手が、昨日その試合に先発しましてですね、
見事勝利投手になったのかな、見事なピッチングを披露しました。
前も申し上げましたけれども、彼はこの震災でですね、お父様とおじい様、お婆様ですね、3人亡くされていると。
そういう中で、昨日そのようなものも思いながらですね、良いピッチングをなさった、そんなところで多くの人の心を揺さぶったかと思います。
そのように私たちはですね、佐々木選手ほどじゃないですけれども、さまざまな人生の試練に遭います。
そんな中でパウロは、全ての必要をですね、神様を満たして、あなた方を私たちを支えてくださると、今日の見言葉から約束しています。
実は今日のこの4つの箇所はですね、実質この手紙の一番最後の部分です。
こちらの画面にもありますけれども、このパウロの最後の締めくくりはですね、非常に親密な、英語で言うとパーソナルと言ってですね、パーソナルって難しいんですけれども、
個人的な、あるいは人格的な関わりのある書き方をして、そのピリピ教会の人たちと自分の親しい関係を前面に出している。
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また、自分と神様との、あるいはイエス様との個人的人格的な関わりということを色濃く表して、手紙を締めくくっている。
ある学者に言えば、最高の終わり方をしているんだと言っているんですね。
そんな中でですね、皆さんも今、最近手紙ということはあまり書かないと思いますけれども、手紙のやり取りなんかは親しく書きますけれどもね、
LINEやメール、SNSのやり取りで事務連絡的なですね、やり取りするという、最近の若い子がですね、帰りますという時にですね、カッとだけですね、伝わるとかですね、電話して欲しいときは、「で?」と打ったらですね、伝わるとか、そんなことも聞いたことありますけれども、
もうそういうSNSでも親しい言葉があると、グッと心に来るわけですね。
そんな親しいパウロの最後の締めくくりの言葉からですね、3つの点を学んでいきたいと思います。
まず最初はですね、すべての必要を満たしてくださる神様ということです。今日の鍵となる2言葉、一緒に読んでみたいと思いますが、4章19節を見てみましょう。
一緒に読みましょう。3、また私の神はキリストイエスの栄光のうちにある、ご自分の豊かさに従って、あなた方の必要をすべて満たしてくださいます。
このパウロがですね、さっき言った親しさというのはですね、神はじゃなくて、私の神様がって言ってるんですね。
そして私の神様は、私に代わって、あなた方の必要をすべて満たしてくださいますよ、そういう含みのある言い方をしているんです。
今日の一番最初の18節で、パウロはですね、私はあなた方から献金をエパフロディートから受け取って、豊かに満ち溢れています、喜びの感謝の表現をしています。
で、それをですね、ただの献金じゃなくて、神様の前の霊的な捧げ物って言い方しているんです。
それは神の前での香ばしい捧げ物。 今風で言うとですね、皆さんあの焼肉屋さんの前って言うといい匂いしますよね。
そのまさにその匂いなんです。全生の生贄は牛や羊の匂いを、羊を焼いて、そういう本当に香ばしい香りがした。
神様の鼻に届く香ばしい香り、それほど素晴らしい贈り物をあなた方はしてくださいました、という喜びを述べているわけです。
その上でパウロも実は、できることなら私は信仰的にはあなた方に教えてお返しをしましたが、同じようにですね、物理的にもあなた方にお返しをしてあげたい。
そういうふうに思っていたようです。 当時の人間間、友情っていうのは
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相互関係、お互いにってことなんです。 面白いルールがこのローマ世界にあって、誰かにプレゼントをもらったら、それ以上のものをお返しするっていうルールがあったんです。
だからそういう中で自然に常備関係ができていってしまったっていう、そんなこともあったようです。
パウロはそういうことを望まなかった。 もちろん牢屋にいたのできなかった。
その中でパウロは先ほど言った、こういう意味を込めたんですね。 私はできません。でも私の神様が私に代わって、あなた方の必要を全て満たしてくださいます。
そういう形で、あなたからいただいたものよりも、もっと多くを神様が私に代わってお返ししてくださいます、ということを力強く述べているのがこの御言葉の素晴らしさなんですね。
そしてそれは当然、私たちへの約束も伴っているわけです。 どういうことでしょうか。
それはですね、 ピリピの教会の人たちに対して、まず一義的に語っているんですが、これから先、物が乏しくなったとしても、神様は物質的にあなた方の必要を満たしてくださるよ。
そういう含みもこの御言葉にある。 それは私たちにも与えられている約束です。
実はパウロは、ピリピ教会からの献金を喜んで、他の教会に自慢しているんです。
それがこの言葉なんですね。ポリントの教会に自慢というか喜びの出来事として、見習いなさいということで伝えているんですね。こういうことを言っています。
さて兄弟たち、私たちはマケドニアの諸教会、これはマケドニアというのはピリピのあったところですから、実際にはピリピの諸教会に与えられた神の恵みをあなた方に知らせようと思います。
彼らの満ち溢れる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあっても溢れ出て、惜しみなく施すとみとなりました。
ちょっとこれ、大回しの書き方で分かりにくいところがあるかもしれませんけども、大事な言葉はですね、ここの
彼らの満ち溢れる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあっても溢れ出て、惜しみなく施すとみとなりましたと言っているんですね。
その言葉です。苦しみによる激しい試練の中にあっても溢れ出て、惜しみなく施すとみとなった。
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それはどういうことかというとですね、神様がおそらくその当時、徒歩失敗の中にあったピリピ教会、そのピリピ教会を豊かに仏心ともに祝福して、
そして彼らがですね、物惜しみするんじゃなくて、喜んでたくさんの支援をパウロに送ってくれた、そういうことを言ってるんです。
それは裏を返せば、ピリピ教会が乏しくあったとしても、神様が捧げられるほど彼らの教会に豊かなものを与えてくださった、そして豊かな心を与えてくださった、そういう意味があるんですね。
その上で神様というのは、私たちが何か乏しいことがあったとしても、物理的な祝福をもって、ものをもってですね、私たちを満たしてくださる。
それが神様のこの豊かな栄光の富だと言うんです。 そしてこのようにですね、いわゆる物理的なものじゃなくて、
霊的なって言い方はちょっとあんまり難しいんですけど、霊的なって言うとですね、私たちクリスチャンが信仰生活を送る上で必要なものも、神様は備えてくださると言っているんですね。
物質的なことに限らず、信仰的に生活を受ける上で必要な恵みをくださる。 つまり、皆さんがですね、私たちがクリスチャンとして前進続けていきます。
パウルは3章の中でですね、後ろのものを忘れ、前のものに向かってひたすら走っていると言っています。 私たちもクリスチャン生活を前進していく中で、いろんな試練に遭いますね。
そんな中で、その苦しみの中でも神様は必要な不動心、英語で言うとState Fastnessですね。
神として信仰者として、堅固な動かぬ心を 試練の中で与えてくださる。
あるいはその中でも喜びを与えてくださる。 必要な励ましを豊かに与えてくださる。
そのような霊的なというか、信仰生活を送る上で必要なものも、神様は豊かに与えてくださると約束しているわけです。
さらにそれに限らずですね もう一つ、その前進していく中で
信仰の戦いにおける強さを神様は与えてくださいますと、パウロは他の歌詞で述べているわけです。
こう述べているんですね。 信仰の戦いにあったフィリピン教会にパウロはこう言っています。
キリストの福音にふさわしく生活しなさい。 ここから読んでみましょうか。
そうすればあなた方は霊を一つにして堅く立ち、 福音の信仰のために心を一つにして共に戦っていて、どんなことがあっても反対者たちに脅かされることはない。
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つまり フィリピン教会の人たちも信仰の危機に直面していて、
どういう形かわからなかったけれども、この 信仰的な迫害を受けていたんですね。
危機に直面していた。でもそんな中でも この福音の市民としてふさわしく生活していく。そんな中で
堅く立つ、この堅固さ、そして
戦い抜く 力をですね、強さを神様を与えてくださるという約束が述べられています。
あるいはこのような信仰の戦いの中で 心が折れることがあるかもしれません。でも神様は私たちの心を支えてくださるとも約束しておられるんですね。
ちょっと長いんですけど読んでみましょうか。3回 キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、
御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるなら、あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、
思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 フィリピン少年一説二説。
そのような信仰の信念の中にあってもイエス様にある励まし、また聖霊による愛の慰めや御霊の交わりというのは、御霊が私たちに関わってくださって、このような励ましや慰めを与えてくださるし、
神様の愛や憐れみを知らしめてくださるという、そのような霊的なというか、信仰生活を強く歩む上で必要な心の支えを神様の愛が、聖霊が与えてくださると約束されているわけです。
このようにですね パウロは信仰生活を送る上での信仰的な
必要も神が満たしてください。 さらにですね、まあ皆さんどうかわかりません。試練が長く続いたりですね、やってることになかなか
報いが与えられない。目の前の出来事に進展が見られないときに不平や不満が生まれるかもしれません。
パウロはその呟かないでということもフィリピンの手紙の中で言っていますが、この不平や不満を抱えてしまうときでも
平和の神がですね、私たちの心に平安を与えてくださると、そのように約束をパウロは述べているんですね。
このような約束です。4章の6節7節。 何も思い煩わないであらゆる場合に感謝を持って捧げる祈りと願いによって
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あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。 ここから読んでみましょうか。3、そうすれば
全ての理解を超えた神の平安が、あなた方の心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。
前もここで述べましたけれども、私たちの理解を超えた神の平安が、私たちの心や思いをイエス様にあって守ってくださる。
不安や不平不満の中での神様の助けというものをパウロを約束しているわけです。 このように神様はですね
私たちのあらゆる必要を満たしてくださる。 そのようなお方だとピリピの教会の人たちに、そして私たちに述べているわけです。
けれどもですね 気をつけなきゃいけないことがあります。それが次の点です。
神様は神様の方法で満たしてくださるというのです。 それは何でしょうか。
四書十九説をもう一回読みますが、また私の神はキリストイエスの栄光のうちにある、ご自分の豊かさに従ってあなた方の必要を全て満たしてくださいます。
この2つのことですね。1つ目、ちょっと聞き様によってはネガティブに聞こえることですが、1つ目それはですね
神様は私たちのすべての必要を満たしてくださいますけれども、神様は私たちの言いなりにはならないということなんです。
つまりですね、ある学者はこう解説してるんですね。 神が必要を満たしてくださるということについて、こう解説しています。
神様が必要を満たしてくださるとは、 神様の方法と神様の善なる目的だけに沿って、
そういう流れの中で完全に満ち足りることを意味しており、いわば私たちの言いなりにはならないのですということなんです。
これはもっと簡単に言うとですね、私たちが願うことが全て叶うわけではないわけですね。
私たちの祈ることが全て実現するわけではないわけです。 そういう意味で神様は私たちの言いなりにはならない。
よく言う、ご利益信仰とは違うわけですね。 でも大事なことはですね、
どのような形であれ、それは
私たちにとって最善だと神様がお考えの通りになるんですよということです。 それがまず第一つです。
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もう一つ、それはですね、その いい点というか素晴らしい点は、私たちの必要はですね、イエス様によってもたらされるということなんです。
いろんな言い方ができると思うんですけども、私たちはですね、 例えば
どんな神様にでも願えばいいってことじゃないんですね。 ここにいらっしゃる方は、皆さんイエス様信じらっしゃるからいいわけです。
そういうわけじゃない。またもう一つは逆にですね、 イエス様の皆によってお祈りしますという、イエス様のことをきちんとイメージしたりして
祈れるというのは、 誰に向かって祈るかということがはっきりしているというのは非常に強い強みなんですね。
イエス様に向かって祈ることができる。 イエス様の皆によって祈ることができるという明確な祈りができる。
なぜイエス様によって祈ることができるか。 それはイエス様が十字架にかかって復活された方、救い主だからなんですね。
私たち罪がありますから、罪より私たちは神様の前に出ていくことができない。 でもイエス様が十字架によって私たちの罪を解決してくださった。
そしてイエス様は十字架によって死んだだけじゃなくて、3日目によみがえって、 そして私たちのために神の御前で取りなしていってくださる。
当然私たちも、たとえこの地上の旅路を置いたとしても、永遠の命の希望が復活のイエス様によって与えられている。
だから極端な話ですね。命を失うことがあったとしても、私たちはこの神と共によみがえることができるという
究極的な答えをイエス様によって与えられているということなんですね。 またもう一つはですね、この
聖書を通してイエス様のことを知る。 その時に目に見えない神様を知ることができるわけなんです。
このThe Jesus Bible。私たちはイエス様を知ることによって、栄光輝く神様を知ることができるということなんです。
ちょっとね、分かっていても分からないんですけども、こういうことなんですね。 このような約束が
第2コリント4章6節にあります。ちょっと読んでみましょうか。 3、はい、闇の中から光が輝き出よと言われた神が、
キリストの見顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
これね、 暗い闇の中でですね
懐中電灯を照らすと、このものが見えますよね。この 震災であれ、台風であれ、
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避難所に夜にたどり着いたとします。その時に真っ暗で自分の家族が分からない。 その時に懐中電灯で、まあ失礼ですけども中を照らした時に、パッとですね
自分の家族の顔が見えた。闇の中に。その時にこの上もない喜びを体験するわけです。 私たちも
神様はどんな方か、わからない闇の中にいるようなものです。 試練の中にいたらそうかもしれません。でも神様はですね
私たちの心を照らしてください。 照らして何をするか。私たちの心を照らして、この私たちが
照らされたイエス様の顔をきちんと見ることができるようにしてくださる。 そして実は
照らされたイエス様の顔を私たちが見た時に、さらにですね 目に見えない神様の栄光を知ることができるという、そういう意味です。
自分だけ興奮してないというか、皆さんわかんないかもしれませんけども。 つまりですね
私たちはイエス様をいろんな方法で知ることによって、目に見えない神様の素晴らしさや
栄光を知る、体験することができるという、そういうことの言い換えなんです。 そのために私たちの心に聖霊が与えられてですね
光が与えられて聖書を読む時に、様々な出来事に直面する時に、祈る時に イエス様が私の救い主なんだってことを確信して
神様って本当にいるんだな 神様って私の大切なことに応えてくださるんだなってことを体験することを
語って教えているとも言えるわけですね。それがこの最後の部分 父なる神に栄光を捧げるっていうことと関係しています
4章20節でパウロはこの手紙をある意味締めくくっていますね。ちょっと読んでみましょう。
私たちの父である神に栄光がよよ限りなくありますように、アーメン これはですね、この手紙の実際的な締めくくりの言葉です。
ちょっとね、トリビアで言いますけど、実は手紙の本文の一番最後の言葉は
イエスキリストって言葉なんです。ギリシャ語の原文で見るとですね、 この4章19節の最後にですね、一番最後が
キリストイエスって言葉で終わっています。 それはパウロが
この手紙でずっと述べてきたように、イエス様が全てだ。私にとって生きることはキリストだという信仰が現れている。
そしてそのさらに最後に
この言葉。これはですね、いわゆるキリスト教の用語では、 章泳と言います。皆さん一番礼拝の最後に賛美歌、聖歌を歌いますよね。
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イサカエアレアーメン。実はその章泳は、この章泳が元になっています。 実はもっと難しいこと言いますと、この章泳というのは皆さん四変と呼んだことあります。
四変の、全部で5冊だと思うんですけどね。5巻になっている。 一番それぞれの最後にこの
神に栄光が永遠にありますようにアーメンって言葉が必ず出てきます。 つまりそれどこだかというと
大事な キリスト教のメッセージ、神のメッセージを
書いた、伝えた一番最後に父なる神に全ての栄光を捧げしますという、そういうクライマックスの文、 信仰告白をつけて大事なこの信仰の手紙や文章を終えるという当時の習慣なんです。
すみません、長くなってしまいましたけれども このように何が言いたいかというと、パウロは手紙の最後にですね
すべての源である父なる神様にすべての栄光をお捧げして永遠にありますようにと言って この手紙を終えているということなんです。
それはどういうことか。いろんな考え方ができると思うんですけども 実は
先ほども述べましたけれども、私たちはイエス様を知ることによって目に見えない神様やその 栄光を知ることができる
話してきました。 じゃあイエス様を知ることによって神の栄光を知るってどういうことか
教えてくれと思いますけど、簡単に説明できません。 私は。何かというと実はそれは
私たちが皆さん一人一人がご自分の信仰生活や実生活の中で体験して見つけていって
見つけていくものだと私は思うんですね パウロやピリピ教会の人たちもパウロであればその時は極中で
ピリピの人たちはその今のギリシャのその街角で さまざまな試練にあったりまた祈りの中で物質的な必要が満たされ
信仰生活の必要が満たされて この
栄光輝くイエス様 神の栄光ということを実感したと思うんですね
ですから私たちもパウロやピリピの クリスチャンと同じように
自分の生活の中で祈りを通して 聖書の言葉を通して
イエス様が私の救い主だってことを体験していく そして実はそれがわかると
目に見えない神様いらっしゃって それは栄光輝く素晴らしいお方で私の必要すべて満たしてくださるんだという確信になります
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そしてそのような確信が与えられた時に実は私たちはこのパウロとともに 自治体の神様に栄光が
永遠にありますようにと 告白することができるようになります
そしてそれをですね私たちは人生の節目節目とか 生活の節目節目に体験していく
実はそれがですねクリスチャン生活の醍醐味だと私は思うわけです そのような
イエス様によって神の栄光を体験する そのようなですね信仰生活の醍醐味を私たち一人一人が体験してそしてまたその体験を
例えば礼拝で持ち寄って その思いを込めて
礼拝の最後にですね 招営を神に捧げる
そのようなお互いであり教会であれば神の家族であればと願っております お祈りしましょう
天の神様皆を賛美いたします
パウロが 私の神は
その栄光の豊かさによって あなた方の必要すべて満たしてくださる
その神に栄光が常しえにあるようにと賛美を捧げました どうぞ私たちが置かれているそれぞれの状況の中で
イエス様にあって必要が満たされ 神の栄光の富を体験しあなたを褒めたたえまた
あなたを明かしするそのようなお互いであり教会でありますように ここに備われたお一人お一人の上にあなたの豊かな祝福
またあなたの栄光豊かな 必要の満たしがありますように
これらの思いを私たちの救い主 主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン それでは1分ほどそれぞれの場所で神様にお答えしてお祈りする時間を持ちましょう
29:25

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