2023-03-19 28:31

#はなむけの言葉 23/3/19

ピリピ-23からの礼拝説教。2023年3月19日録音。今日の聖書箇所は卒業式シーズンにぴったりなパウロのはなむけの言葉です。パウロは手紙を締めくくるにあたって、手紙の受け取り手のピリピ教会の人々と自分との間の挨拶のやり取りをします。それは当時の習慣に倣ったものでしたが彼独自の言葉で、心に残る形で手紙を閉じています。それは私たちが信仰生活を続ける上で欠かせない恵みに満ちています。この終わりの挨拶から、1.特に皇帝の家の人々からよろしく、2.いつまでも留まるキリストの恵み、3.イエス様の恵みのうちに完成を目指して3つの点を学びましょう。


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それでは、フィリピージンへの手紙、4章21節から23節。
キリストイエスにある生徒の一人一人に、よろしく伝えてください。
私と一緒にいる兄弟たちが、あなた方によろしくと言っています。
すべての生徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。
主イエスキリストの恵みが、あなた方の霊と共にありますように。
以上です。
今日はここから、はなむけの言葉と題して、御言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。
3月19日、最後から3月の2番目の日曜日ですね。
今、卒業式シーズンですね。
高校が、この間、先週。
先週は、二座子テスト中学校の卒業式があって、今週はですね、小学校の卒業式。
日本は大体この時期ですね。
テレビでですね、ラジオで卒業式に歌う歌の定番をですね、ランキング、
人気投票したところ、この方ね、
藤巻亮太さんのレミオロメンの3月9日が1番になっていました。
この間、ラジオを聴いてたらですね、最近の若いパーソナリティなんですけども、
こんなね、懐かしい、開演体の贈る言葉なんていうのもですね、流してて、
この絵はすごい若い時代の武田哲也さんですけども、
なんか今でもこういう曲聴かれてるんだなぁなんて、
私にとってはど真ん中世代なのでですね、懐かしく思ったわけであります。
まあそういうこともあるんですけども、実は今日もちょうどですね、
パウロの最後の花向けの言葉を見て、文字通りピリピリ人の手紙の最後の挨拶の部分から、
共に学びましょう。この挨拶はですね、当時の習慣に習った言葉でした。
でもそこに彼独自の言い回しや言葉、そして願いが満ちています。
すごい心に残る終わり方をしていますし、
私たちがこの地上で進行生活を続ける上で、
欠かせない恵みが、このこれらの言葉に満ちています。
そこから3つの点を今日学んでいきます。
1番、まず特に皇帝の家の人々からよろしくという言葉です。
パウロは今日の21節の最初にはですね、
ピリピリの教会の皆さんによろしく伝えてください。
一人一人によろしく伝えてくださいと伝えながら、
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最後にですね、自分と一緒にいる人たちからの挨拶、よろしくということを伝えています。
読める方、21節の後半から書いてありますが、読んでみましょう。
私と一緒にいる兄弟たちが、あなた方によろしくと言っています。
すべての生徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。
この中でですね、自分のこのローマで国中生活、難勤状態にあった裁判を待っていたパウロ、
自分の周りのクリスチャンからの挨拶を送っていますが、
ここの文章でもですね、特にとあるように、
特にカエサルの家に属する人たちからの挨拶を送る。
私たちも手紙やLINE、メールでですね、よろしくという時に、
特にこの人によろしく伝えてくださいって思い入れがある時に使う言葉が文字通り使われています。
このカエサルの家というのは、今でいうローマ皇帝ですね。
当時のローマ皇帝は、一説によるとネロと言われていた人です。
このネロ、その皇帝の家に属する人たち、その中のクリスチャンから挨拶を特によろしくという言葉をつけて送っている。
これが注目点であります。
これはどういうことか。
実はですね、私、皆さんも聞きながら、ネロのお膝元にあった人たちにクリスチャンがいたのかということで驚いたかもしれませんが、
ピリピ教会の人たちは、もっとその言葉を驚きをもって受け止めていたんです。
なぜなら、冒頭からこの手紙の最初から言っていましたように、
ピリピはローマの植民都市であって、ピリピの人たちはローマ市民であることを誇りにしていた。
それはつまり、神として、そして救い主として崇められていた皇帝に忠誠を尽くし、文字通り神のように崇めていた人たちでした。
その人たちの中でピリピ教会の人たちは、いや、皇帝ではなくてイエス様こそ本当の救い主であり、神の子であるという、そういう信仰を告白していたので、
皇帝に忠実な人たちから苦しめられていたという構図があったんです。
その一方で、パウロがローマの獄中にいて、そこの皇帝のお膝元にクリスチャンがいた。
その人たちからの挨拶が届いたということで、非常に驚いた。
手紙の最後に大きなインパクトがここに込められていたわけですね。
余談になります。皆さんも自分で見てください。
1章13節に、神永帯に属する人たちがパウロの統獄によって福音を知ったってあります。
神永帯というのも、皇帝に直属のこのえへいです。
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そういう冒頭と一番最後に衝撃的な言葉が込められています。
この励は彼らにとって励ましとなった。驚きとなったとともに励ましとなりました。
私たちに当てはめたらどういうふうに考えられるのかなと、私なりに想像を豊かにしてみたら、こういうことかと思ったんですね。
今、世界を騒がせているロシアの、これはクレムリンという政治の中枢です。
この政治の中枢か、その周辺にボンアゲンしたクリスチャンがいるという、そういうメッセージととれると思います。
あるいは、朝鮮半島の北側の国、毎日のようにですね、毎日と言いませんけど、物騒なものが飛んできますが、その北朝鮮の政治の中枢に忠実なクリスチャンがいた。
皆さんも察するように、このような2つの国々では、国家元首がまさに神のように崇められているわけですね。
おそらくこちらの北朝鮮ではですね、クリスチャンとわかっただけで処刑されるという、そんなことも珍しくないわけです。
実際そんな中でも、今もクリスチャンがいるわけですね。
そのようにですね、これらの私たち、パウロの挨拶を私たちは与えているならば、例えばそういうところに、私たちと同じイエス様を人を崇める、文字通り神の家族、兄弟姉妹がいると捉えることができると思います。
そして思った時にですね、私たちは日本にいます。そしてクリスチャンであれば、あるいはクリスチャンにあらずと関わらずですね、生活の資源に合いますよね。
その時にもちろん大変でしょう。でもこれらの困難な国々において、もしくはその中枢で信仰を持っている兄弟姉妹がいる。
それは私たちにとって大きな励みになるのではないでしょうか。
またイエス様の教会に同じ教会を属している家族がそういう厳しいところにもいるということが励ましにもなるでしょうし、また自分の苦しみを思うときに、これらの国々の中にいる、
家族が似合っている兄弟姉妹のことを覚えて祈る。まさに御国が来ますようにというように、神の支配がこれらの国々にもなされますように、天でなされるように、これらの国々においても、
クレムリンにおいても、主の御心がなされますようにと、御祈っていくことではありませんか。
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2番目のポイント。
いつまでもとどまるキリストの恵みということ。非常に大事なことで、たくさん見ていきますが、
4の23読めるかで読んでみましょう。
主イエスキリストの恵みが、あなたまでの霊と共にありますよ。
このフィリピ人への手紙はですね、信仰の奥義が書かれていると言われています。
私の恩師の伊豆田先生がそう言っています。
でもテーマはですね、イエス様そのもの、キリストがこの手紙のテーマ。
ある学者に言わせれば、最初とこの最後にキリストが述べられている。
1章2節では、私たちの父なる神と主イエスキリストから、恵みと平安はあなた方にありますようにという表拍子に書いてある。
そして先ほど見た裏拍子には、最後の言葉には、主イエスキリストの恵みがあなた方の霊と共にありますようにと言って、
イエス様とその恵みが本の裏拍子、表拍子のように本を挟んでいる。
そして本の最初から最後まで、そして中身の至るところで、主なるイエスキリストが語られている。
そういう類の本であると言えるわけですね。
このイエス様が表拍子、裏拍子のフィリピ人への手紙。
この手紙をですね、締めくくるにあたりそのパウロの思いやイエス様の恵みを思い返す上で、
いくつかの御言葉を振り返りながら、イエス様の恵みについて考えていきましょう。
まずですね、この4章23節のこの恵みがあなた方の霊と共にありますようにと最後の言葉、そこにはですね、
フィリピ教会の人々が完成するその日まで、いつまでもイエス様の恵みがあるようにというパウロの切なる願いが込められているわけです。
その最後までイエスの恵みがあるようにというのはその間の、あるいはゴールを目指すこのパウロの願いと一致しているわけです。
そのゴールを目指すパウロの願いというのはこういう願いですね。1章11節読めるか読んでみましょう。
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現れされますように。
ゴールした時にイエス様によって与えられる義の実に満たされて、あなた方を通して神の栄光と誉れが現れますようにというそういう言葉です。
これはどんなことかというとですね、1位でゴールしたマラソンランナー、いろいろ見たんですけど、やっぱり私はシドニーオリンピックの金メダリストの高橋直子選手を思い浮かべたんですけども、
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表彰台に上がって、そして首に金メダルをかけられて、花束をもらうわけですよね。
同じように私たちも信仰のゴールをした時に、イエス様が私たちをですね、こうやって迎えてくださって、金メダルが首にかけられるように、イエス様からこの義の実が
に満たされているという、そういう表彰状が私たちに与えられる。
それはどういうことか、私たちが生涯かけて成した良い神の御業というものがですね、私たちがゴールした時にすべて明らかになる。
そしてそれによって、私たちがした、あなたがした良い技を持って、この神様の栄光が表され、神が褒めたたえられるという、そういう状況です。
しかし他でもなく、私たちがこの地上で成す良い技、それはまさにイエス様の恵みであるという、そういう信仰であります。
そして、この地上における生涯成した良い技、すべてイエス様の御業だ、恵みだという信仰、それはパウロの生き様に現れているわけです。
この義の実はイエス様の恵みだという、それはすべてのすべては私にとってイエス様だというパウロの生き様に現れているわけです。
パウロはですね、このように述べていますね。
1章の20節から21節、皆さんのレジュメにあると思いますけれども、こう言っています。
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは域です。という言葉です。
実はこの言葉、私の切なる願いは、私の生き様を通してイエス様の素晴らしさがあがめられることだ。
これがですね、このゴールを目指した時の義の実という、イエスによって与えられる義の実ということと関係しているわけなんですね。
ちょっと誤解ないように言いますけれど、私にたとえ死ぬことも域ですというのはですね、自分の命を粗末にするということではなくて、
皇帝ネロの下でたとえ死刑になってしまったとしても、それでも私はイエス様とまみえる、何にも勝る利益を得ることができる。
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それも幸いだという、そういう死を乗り越えた信仰だということを一言述べておきます。
さらにですね、私たちがこのイエス様の福音にふさわしく生きるならば、私たちにはですね、この試練に耐える力をですね、イエス様の恵みとして与えていただける。
福音に習って生きるならば、試練を耐える力としてのイエス様の恵みを体験できる。
こう述べています、パウロは。
1章27節から29節。
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
そうすれば、私が行って、あなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方について、こう聞くことができるでしょう。
あなた方は霊を一つにして、かたくたち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っていて、どんなことがあっても反対者たちに脅かされることはない。
そのことは、あなた方にとっては救いの印です。
最後の部分だけ読んでみましょうか。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
この福音にふさわしく生活する中で、この霊の一致が与えられて、どのような反対の中でもかたくたつことができる、その恵みを体験できるとパウロは言っています。
そしてその中でですね、パウロは、このクリスチャンゆえに受ける苦しみは実は、それは恵みなんだよ。
それはイエス様の十字架に預かる、イエス様の死に預かる、やがて復活に至る恵みなんだよ、とパウロは伝えているわけです。
このようなですね、死霊の中の力としての恵み。
それをですね、さらにパウロは4つの恵みとして、2章1節で語っています。
読んでみましょうか。
ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるのだな。
そしてさらにその死霊の中で喜ぶ力、喜ぶための意志、心出し、また喜びそのものも与えてくださると言っています。
4章4節読んでみましょう。
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
この死霊の中でですね、ここに4つの恵みがありますように、キリストにある励ましがありますよ。
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それから愛の慰めがありますよ。
死霊の中で御霊による交わり、御霊が私たちの心に関わってくださって、神の愛を知らしめてくださいますよ。
そのような死霊の中での慰め、心の支えをパウロは語り、その中でも喜ぶ志が与えられる、そういうことを恵みとしてパウロは語ってきたわけです。
そして何よりもですね、イエス様自身がパウロにとって最大の恵みだと彼は告白しています。
この3章の7節9節でこう言っていますね。
彼は自分のそれまでの素晴らしい経歴を述べたと、こう言っています。
しかし、私は自分にとって得であったこのようなすべてのものをキリストイエスのゆえに損と思うようになりました。
それどころか、私の所であるキリストイエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
最後だけ読んでみましょう。
それは、私がキリストを得て、キリストにあるものと認められるようになるためです。
私は立法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つのです。
これはですね、いろんな恵みがあると思うんですけども、パールがここで一番言っていることはですね、
他の誰からでもない、自分自身の確信でもない、神様ご自身が自分をあなたは正しいと認めてくれる、そのことを言っているわけです。
彼は神の前で正しいものとあるありたいがためにですね、立法を熱心に守った、その中でクリスチャンも迫害したということも言っていますが、
そういうものはちりあくたと思って、イエスさんを信じることによって、神の前で正しいとされる、それを語っているわけですね。
皆さんもですね、いろんな人から自分を認めてもらいたいと思うかもしれません。
会社で仕事をしていれば、同僚や上司とかですね、クライアントから認めてもらいたいとか、あるいは親しい家族や友人の中で自分を認めてもらいたいと思うかもしれません。
そのために努力することは尊いでしょう。
でも、その大前提としてですね、たとえ私が十分できなくても、イエス様のゆえに私は他でもない、神様からあなたは正しいんだ、あなたはそれで良いんだと言っていただいている。
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それがですね、まさにイエス様からの十字架によって与えられる、神の前の恵みである、利である、そのことをまずここで確認していきましょう。
このようにですね、難しく言えば、アイデンティティ、神の前のアイデンティティとしての義を得る恵みだけじゃなくて、イエス様は私たちの仏心両面の必要を満たす、そのような恵みを授けてくださるということも学びましたね。
この4章12節13節、パオロは自分が乏しくても豊かにあっても満ち足りる秘訣を学んだと言っていますね。
4の12から13、私は貧しくあることも知っており、富むことも知っています。
満ち足りることにも、飢えることにも、富むことにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
最後だけ読んでみましょう。
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
乏しさの中でも、豊かさの中でも、満ち足りてまたふさわしい愛みをできる、そのことをイエス様の恵みとして私は体験していると、以前ここでも学んだとおりであります。
このように、イエス様の恵みというのはですね、礼的信仰のあるいはアイデンティティのための支えだけではなくて、仏心両面においてですね、私たちを豊かにしてくださる、そういうのが恵みだということです。
最後3番目、そのようなことを考えながら、3番目、イエス様の恵みのうちに完成を目指していく、そのことを最後に取り上げたいと思います。
パウロはこのピリピチンの手紙の中でですね、信仰の旅路が終わる日のことを語っています。
この信仰のマラソンのゴールについて語っていますね。
それは、私たちの国籍がある天からイエス様が私たちを迎えに来てくださる、そのイエス様とまみえる日、それを信仰の旅路の終わり、信仰のマラソンのゴールの日だとパウロは述べてきているわけです。
そのことを3章20から21節でパウロはこう伝えています。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主、イエスキリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
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この最後の素晴らしい約束を一緒に読んでみましょう。
3回、キリストは万物を御自分に従わせることさえできる道からによって、私たちの癒やしい身体を御自分の栄光に輝く身体と同じ姿に変えて下さいます。
先ほどゴールで金メダルを受けて表彰される時に、二度目に満たされているということを言いましたが、
もう一つは、私たちの身体がイエス様の復活の身体と等しくなる。
それは言い換えれば、罪に悩まない身体、あるいは病や死を恐れない身体。
そのような新しい栄光に輝く身体と同じ姿に変えていただける。
それがこの新興の旅路のゴール、終わりの日の報いだということですね。
復活の身体をその時授かる。
そしてそのゴールを目指して走り続けるように、パウロは自ら明かしをして、またヴィリヴィの兄弟姉妹を励ましているわけです。
私たちもそれに倣って、この日々前進し続けていく。
そしてその時、イエス様の恵みは絶えず私たちと共にあると覚えておきましょう。
そしてゴールにたどり着いたランナーを、この仲間やコーチが受け止めてくれるように、
このイエス様は常に私たちと共にあって、私たちを捉えていてくださっている。
ゴールする前からイエス様は私たちを捉えておられるということも素晴らしい恵み。
そのことも覚えていきましょう。
パウロのその進行のゴールを目指す恵みを模範としながら、最後にこの見方を読んで終わりにしましょう。
3章の21節ですね。
ちょっと頑張って一緒に読んでみましょう。
私は既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません。
ただ捉えようとして追求しているのです。
そしてそれを得るようにと、キリストイエスが私を捉えてくださったのです。
私たちをですね、ゴールに至るまで捉え続けてくださるイエス様の恵みを覚えながら、
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この進行の旅路を福音の市民として前進していくお互いであり、教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
フィリピン人への手紙からしばらく学んできました。
どこを切ってもイエス様、その恵みが満ち溢れた手紙です。
どうかそのイエス様にある幸い、恵みを私たちがさらに味わい、さらに知り、
それを実感しながらこの進行の旅路を続け、
あなたが置いてくださっている進行のゴールを目指して前進し続けることができるように、
どうか導いてください。
どうぞイエス様の恵みによって、私たちがどんな時でも弱さを覚える時でも、
あなたにある偽の身に見せていることができるように、
どうか私たちを捉え続け、導いてください。
この言い尽くせない思いを私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一本ほど黙祷して、いい言葉に応えて祈りましょう。
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