2024-11-24 27:30

#239 キリストの弟子は〜欠点より可能性  24/11/24

ヨハネ-42からの礼拝説教。2024年11月24日録音。<聖書朗読は()まで、本題は()から始まります>イエス様は私たちの欠点を見抜いた上で将来あるべき姿を見据えて育んで下さるのです。今日の箇所ではイエス様と最初の弟子たちの出会いが、3つの共観福音書にはない独特な描き方で紹介されています。3つのカギとなる言葉をもとにイエス様の弟子の姿について考えます。最初は1.「ついて行く」を原語のギリシャ語から見えてくる2つの点を取り上げ(),次に2.「とどまる」でも原語のギリシャ語から判明するヨハネの福音書のカギとなる言葉について取り上げます(),そして最後の3.「名前」で、私たちの欠点と将来の姿について取り上げます()。

テキストはこちら。 https://note.com/nsbc/n/n71b8e6287f73

サマリー

このエピソードでは、ヨハネの福音書におけるイエスと最初の弟子たちの出会いが説明されています。特に「ついてゆく」と「とどまる」という言葉が重要なテーマとして取り上げられ、イエスのメシアとしての役割が強調されています。イエスの弟子となるためには、彼とともに時間を過ごし、信頼することが求められます。アンデレの例を通じて、イエスの名付けの権威や新しい名前に秘められた意味が考察され、弟子として成長していく道のりが示されています。

イエスとの出会い
ヨハネ1章35節から42節をお読みします。
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子と共に立って行った。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊。」と言った。
二人の弟子は、彼がそういうのを聞いて、イエスについて行った。
イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。
あなた方は何を求めているのですか?
彼らは言った。
ラビ、訳すと先生、どこにお泊りですか?
イエスは彼らに言われた。
来なさい。
そうすればわかります。
そこで彼らはついて行って、イエスが止まっておられるところを見た。
そしてその日、イエスのもとにとどまった。
時はおよそ第十の時であった。
ヨハネから聞いて、イエスについて行った。
二人のうちの一人は、シモン・ペテルの兄弟アンデレであった。
彼はまず、自分の兄弟シモンを見つけて、私たちはメシア、訳すと、キリストにあったと言った。
彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。
イエスはシモンを見つめて言われた。
あなたはヨハネの子シモンです。
あなたはケファ、言い換えればペテロと呼ばれます。
以上です。
弟子の特性
今日はこのところから、キリストの弟子は、と題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
急にですね、この2、3日寒くなりまして、
特に今日はですね、気温が下がって、最高気温何度になるんでしょうかね。
15度ぐらいと言ってましたけども、この数日、10度を下回る時もあります。
そんな中ですけども、共にヨハネの福音書から学べることを感謝しています。
しばらく前から一書一節からヨハネを学んでいますが、
今日の箇所はですね、イエス様と最初の弟子たちの出会いの物語です。
例によって、この3つの共感福音書にはない独特な描き方がこの箇所でされています。
さらにこのヨハネの福音書では、12弟子をイエス様が選ぶ場面もないですね。
その代わり、またその代わりと言いますか、
さらにですね、12弟子を他の3つの福音書では、使徒と呼んでいます。
使徒、英語でアポストロスって言うんですけども、失礼しました。
アポストロと呼んでいますが、その使徒という言葉もヨハネの福音書には全く出てこないんです。
弟子は弟子のまま。
なぜかというと、このヨハネの福音書では、12弟子を私たちの弟子としての模範として描いているという部分があるからなんですね。
今日その中から3つの鍵となる言葉が出てきますので、それぞれから順番に見ていきます。
最初は、「ついてゆく」という言葉です。
そして2番目は、「とどまる」、「とまる」という言葉です。
そして最後は名前について見ていきます。
それではまず最初、「ついてゆく」という言葉から見ていきましょう。
その翌日、ヨハネは再び二人の弟子と共に立っていた。
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、
みよ、神の子羊と言った。
最後の部分だけ読んでみましょうか。
二人の弟子は彼がそういうのを聞いてイエスについて行った。
この二人の弟子というのは、後ではもう一人はアンデレというペテロの兄弟になることがわかります。
そしてもう一人はおそらくこの福音書を書いたヨハネではないかと言われています。
最初にイエス様の弟子となった二人は、バブテスマのヨハネの弟子だったんですね。
注目すべきことは、ここでヨハネは自分の使命にしっかり忠実であったという点なんですね。
イエス様を明かしするだけ。
前も言いましたが、ヨハネの福音書ではバブテスマのヨハネのことをバブテスマという枕言葉と言いますかね、そういう言葉は一切使われていない。
イエス様を明かしする一点だけで彼は描かれています。
彼もそう告白していまして、その通りその点に徹していることがわかるわけです。
つまり、まずヨハネは先週見た箇所と同じように、イエス様を見て身を神の子羊と言いました。
前後しますが、今週の賛美課は、この神の子羊という世の罪をあがなうというところを注目して、中心にあがないという賛美課を選んだんですね。
それは去っておきまして。
そのヨハネは使命通りに忠実に弟子たちに対して身を神の子羊と言ってイエス様を指し示したわけです。
ここで彼が素晴らしいのは、ヨハネは自分のもとに弟子たちを縛り付けていなかったわけですね。
相撲が今行われていますけれども、相撲部屋を出ていくとなると一つの大事になりますし、また今シーズン、プロ野球では佐々木老希投手がロッテからメジャーに行くということで、いろんな物議かもしれませんが、
そういう忠実性を尽くしていた選手なり弟子が出ていくとなると大騒ぎするわけですが、ヨハネはそういうことをはばからず、自分より勝っている方が来たということで、そのことを弟子たちに指し示したわけです。
そして弟子たちがその自分より勝るイエス様についていくことを良しとした。その潔さがここにあるわけですね。
そしてもう一つこの二人の弟子たちが素晴らしい点は、その通りにヨハネのもとを離れてイエス様についていったということなんです。
ここから弟子とは、マセテエスという言葉なんですけれども、弟子というのは学ぶという意味がもともとあるんです。
どうやって学ぶかというと、最初の点はついていくことによって学ぶ、あるいは先生に従うことによって学ぶという意味なんですね。
この二人の弟子は、ヨハネの言葉に従って、普段の教えに従って、イエス様が来たらこの人に自分たちは従うんだと言って、すぐイエス様の後をついていったわけです。
弟子とは先生に従う人なんですけれども、この従うとついていくという入れ替え可能な言葉、その謎についてはですね、37節の言葉を詳しく見ると、ギリシャ語で見るとよくわかるんです。
このついていくという言葉はですね、元のギリシャ語ではアコルセオという言葉なんです。
この言葉はここにもありますように、ついていくという意味と従うという両方の意味があります。
そして、このアコルセオという言葉は弟子との関連で使われるとき、イエス様との関連で使われるとき、それはイエス様に弟子たちがついていく、従っていくという特別な意味合いを持つんですね。
弟子の必要不可欠なそのような要素を指し示す特別な言葉がこのアコルセオという言葉。
メシアの発見
ですから弟子とはイエス様についていく人、イエス様に従いする人を指すわけです。
そのような弟子の姿はですね、39節にも描かれているんです。
イエスは彼らに言われた、来なさい、そうすればわかります。
そこで彼らはついていってイエスが止まっておられるところを見た。
ここにもイエス様が来なさいと言ったお言葉についていった、従っていったということがわかります。
イエス様の弟子とはイエス様についていく人、従う人ということがこのことからもわかるわけです。
2番目、留まるということ。
そしてこの2人の弟子がイエス様の後をついていって、宿に向かっていったんでしょうね。
するとここがあります。
1章38節、イエスは振り向いて彼らがついてくるのを見て言われた。
あなた方は何を求めているのですか?彼らは言った。
ラビ、訳すと先生、どこにお泊りですか?と聞いた。
ネタバレという言葉はよく知っていますね。
この間、ラジオでちょっとしたユーモアのあるいたずら、どんなことをしますか?というのがあったんですね。
いろんなのがあったんですけれども、少し笑える。
その中の一つに、私は推理小説を古本屋さんに持っていくときに、ページの中ほどというか大事な場面で、
犯人は誰々と書いて、そして古本屋さんに売りますという、そういういたずらが紹介されていたんですが、
最近は若い人はだいたい物語のストーリーを知ってから映画を見たり小説を読むことが主流だそうなんですね。
それでよくネタバレ注意なんていうのが出てますけれども、
ミステリー小説や映画の仕掛けや犯人がわかってしまうのがネタバレですね。
よく言う伏線回収と言われているんですけれども、最初にさり気なく出てきた人物とか言葉とか物が謎を解く大事な鍵になっていっていく。
そういうことがミステリーや物語の面白い点でもありますけれども、
実は今日のこの場面では、この止まるという言葉がそれに似ている部分があるんですね。
弱音はさり気なくこの言葉を使っています。
この言葉はですね、38節と39節に2回出てきます。
どこにお泊まりですかってイエス様に聞いて、彼らはついて行ってイエスが止まっておられるところを見た。
止まるが2回出てますね。
実は興味深いことはですね、この止まるという言葉は元のギリシャ語ではメノーという言葉なんです。
実はこのメノーという言葉は止まるとも訳されているんです。
英語でアバイドと言われています。
それがまた39節にも出てきます。
38、39、どこにお泊まりですか。イエスが止まっておられるところを見た。
そしてその日イエスのもとにとどまった。
ギリシャ語で見るとこのメノーという言葉がたった2節の間に3回も使われていることが分かるわけです。
それだけ実は大事な言葉で、ヨハネは伏線を張っているんですね。
そして皆さん聖書を知っている人は、
止まるという言葉でイエス様のよく知られた名言があるのをご存知ですよね。
このヨハネの15章に出てきます。
読んでみましょうか。15章は長いので私も読んでみましょう。
最初からちょっとはいってところまで読みましょう。
3、はい。
私にとどまりなさい。私もあなた方の中にとどまります。
枝がブドウの木にとどまっていなければ自分では身を結ぶことができないのと同じように、
あなた方も私にとどまっていなければ身を結ぶことはできません。
ここだけでもですね、とどまるという言葉が1回、2回、3回出てきます。
よく有名なイエス様は、ご自分と弟子たちの関係をブドウの木と枝にたとえているところですね。
実はこのヨハネの15章を見ると、とどまる、めのうという言葉は日本語で数えただけでも10回出てくるんです。
非常に大事な言葉だということもわかります。
そしてこの15章がどういう場面で語られたかというと、
国別説教ですね。いわゆる最後の晩餐の席でイエス様が最後の言葉として弟子たちに残した言葉です。
大変重要な弟子の要素として、私にとどまりなさいということが語られているんですね。
私たち知ってますからネタバレにしてしまいましたけれども、
実はヨハネは最初にこのとどまる、とまるということをチラッと触れて、大事な言葉の伏線を張っているわけなんです。
繰り返しになりますが、ここからわかること、弟子とは学ぶ人です。
どうやって学ぶか、それはイエス様の弟子はイエス様にとどまることによって学ぶ人だということなんですね。
この二人の弟子は、イエス様の泊まっている場所まで行きました。
昨年コロナが5類になって、旅行が解禁になったり、今インバウンドなんて言われてますね。
インパクナンって言われてますけれども、このイエス様もガリダヤかナザレからヨロザン川の方までバブテス巻きに来たので、どこかに泊まっていたんだと思いますね。
そこに着いていって、ペテロとアンデレはイエス様の宿まで行ったわけです。
時は第十時だって言うんですが、ユダヤの時間ですので、今の私たちからすると午後4時。
午後4時にイエス様の宿に着いた。そして宿を共にしたことがわかります。
彼らはもしかしたら、この修学旅行の生徒たちのように夜通し、枕投げはしなかったと思うんですけれども、イエス様と語り合ったのではないかと思うんですね。
翌日、この一人アンデレは自分の兄弟ペテロに行って、何て言いましたか。
私たちはメシアに会ったと言ったんです。
このメシア、実は旧約聖書のヘブライ語の音通りにここでメシアと書かれています。
このメシアという旧約聖書の救い主という言葉が文字通り音通り旧約聖書のヘブライ語の言葉で使われているのは新約聖書でたった2回しかないんです。
しかもそれがヨハネの福音書にしかないんです。
それはとても珍しい箇所なんですけれども、やはりここで福音書記者のヨハネは、イエスが旧約聖書で約束されたメシアである、キリストであるということを最初に明言しているんですね。
マルコの福音書でどこでそれがわかったかみなさん覚えています。
イエス様との関係
神の子、キリストだというのがわかったその答え合わせ、マルコでは100人隊長が十字架の下で言ったんです。最後まで待たされたんですけれども、ヨハネは一番最初にそのことをアンデレの口を通して言いました。
それはともかく、ちょっと考えてみてください。
このアンデレがイエス様こそメシアだと言えたのは、もしかしたら与道士イエス様と語り合ったからかもしれないですよね。
そしてイエス様と与道士語り合い、あるいはコミュニケーション、イエス様の時間を過ごして、この方こそ私たちが待ち望んでいた救い主だということを確信したと思うんですね。
だからそのことを自分の兄弟に伝えた。
イエス様は珍しく、他の福音書にないように、彼ら二人に何を求めているんですかと言ったんです。
英語でよくアメリカ人がWhat do you want?って聞くんですけれども、そういう感じなんでしょうか。
その時に二人はどこに泊まっているんですかと言っていたんですけれども、何を求めているかわからなかったという説もありますが、
アンデレはこうやってイエス様、メシアであるイエス様とお会いしてですね、自分が求めていたものがあった、自分が求めていた人に出会えたという、
そういう確信を持って兄弟に告白したのではないかとも言われています。
このことから、イエス様の弟子とはイエス様に留まる人と言います。
イエス様に留まるとは、イエス様と時間を過ごすということがわかりますよね。
このヨハネの15章、4節の続きの5節ではこう書いてありますよね。
私はブドウの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人の中に留まっているなら、その人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなた方は何もすることができないのです。
イエス様の弟子、イエス様から学ぶ人は、イエス様に留まる人、イエス様と共に時間を過ごす人を言うということもここからわかるわけです。
アンデレとペテロの例
最後、新しい名前、イエス様と共に過ごす人はどうなるかということですね。
ヨハネ1章42節でこう出てきます。
彼はシモンをイエスのもとに連れてきた。
このアンデレですね。
ペテロを連れてきて、イエスはシモンを見つめて言われた。
ここの太い仮格子だけ読んでみましょうか。
あなたはヨハネの子シモンです。
あなたはケファ、言い換えればペテロと呼ばれます。
ここにもですね、今日3回出てきますけれども
ケファ、イエス様と弟子たちがもともと話していたアラム語が
ギリシャ語の読者を見込んでですね、解説されて書かれています。
もともとイエス様と弟子たちがアラム語で語っていた。
実はペテロという名前はギリシャ語なんですけれども
彼らの元の言葉ではケファと言うんですね。
福音書のジョン、ヨハネは日本語でヨハネですけれども
英語ではジョン、そういうような感じです。
何がともあれ、このペテロ、ケファという名前
ここにはですね、イエス様によって新しい名前が授けられたということが示されています。
それはどういうことかというと、イエス様に権威がある、名付ける権威があるということが
分かるわけなんですね。その権威は後で見ますけれども
このペテロ、ケファには岩のような人という意味があります。
新しい名前ね、日本人でもよくありますよね。
今日は千秋楽で注目されている琴桜、先代の祖父の横綱、琴桜の名前を執名した。
お父さんが琴の和歌ですから、そのお父さんの名前で大関の
お父さんになったことがないので、琴の和歌の時代
琴の和歌ってお父さんの名前で大関を一場所過ごして
そして憧れていた祖父の横綱、琴桜の名前を執名して
今望んでいるわけですよね、横綱目指して。
そうやって日本でも名前が変わるということがよく言われていますよね。
執名するなんてことも実際ありますけど。
名は体を表す通りですね、聖書もそうなんですが
ペテロという、ケファイワという名前には
実は否定的な面もある学者が言っているんですね。
それはどういうことかというと、この言葉にはですね
ペテロがすぐカッとなる、起こりやすいという
そういう言葉がイワという言葉にはあるそうです。
直情的である、そして移り気であって頼りないということもあるそうなんですね。
移り気、岩が転がって移るからか分かりませんけども、そういうこと。
大きい岩があって道を阻むから頼りないということが分からないですけども
もともとそういう意味も否定的な意味としてあるそうなんです。
イエス様は実はそのペテロの弱さも見抜いていてこの名前を付けたというんですね。
ご存知のようにペテロは大事なところで参加、イエス様は知らないという。
直情的に私は死んでもあなたを裏切りませんと言っておきながら3回も知らないという。
でも新しい名前という意味がここに込められていて
そこにはペテロが変えられていく新しい姿も意図されているというんですね。
イエス様はその新しい彼の姿を先取りもして
彼をイワ、ペテロという名前に付けたんですけども
ご存知のようにマタリの16章の中では
あなたはペテロです、イワです。私はこのイワの上に教会を建てます。
ペテロだか彼の告白だかあれなんですけども
彼の上にやがて彼を通して教会ができるということを予告しましたよね。
そしてヨハネの福音書ではペテロがですね
私はあなたの弟子としてふさわしくありませんといじけている時に
何て言いましたか?
私の羊を飼いなさいと3回言いましたよね。
牧者としてあなたを立てているんだとペテロに信頼して
イエス様は彼をイワとして送り出したわけです。
イエス様はこのご自分が与えられた名前に
その人がふさわしくなるようにその人を育んでくださろうから
弟子たちはイエス様についていきます。失敗もします。
そして何とかイエス様の元に留まろうとしますが
ペテロのように裏切ってしまうことがあるかもしれません。
でもそんなこともイエス様は見抜いて
やがて新しい姿になるということを見越してですね
新しい名前を授けた。
新しい名前の重要性
そしてそのような人にイエス様は育んでくださる。
私たちにどういう新しい名前が与えられているか分かりませんけれども
私たちはイエス様の弟子として新しい名前
新しいビジョンが与えられているんですよね。
それは外側の人が驚いても日々新しくされるという
イエス様の身姿に変えられていくというビジョンがあるかと思いますけれども
そのようにイエス様がですね
私たちをこれからも育み続けてくださる
そういうことをですね
期待もしながらイエス様に従って
イエス様と共に過ごしていく
そういうお互いであり教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様
あなたの名前を賛美いたします。
あなたは弟子たち
あなたの新しいしもべとして
これらの人々をあなたのもとへと
お連れしてくださったことを感謝いたします。
私たちもあなたのものとして
あなたの後をついて歩んでまいります。
様々な弱さや欠けがありますけれども
あなたが望んでおられる新しい
その姿があることも信じて感謝いたします。
そしてあなたがそのようなものとして
私たちを育み養いまた
お持ちくださることも信じて感謝いたします。
どうぞあなたが私たちをこれからも
お見せくださり養ってくださいますように
そしてお用いてくださいますように
あなたに切にお願いいたします。
この願いと感謝を
私たちの救い主シュイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど
イエス様にお答えして
黙祷する時間をとりましょう。
27:30

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