ナタナエルとの出会い
ヨハネの福音書1章43節から51節、その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。
そして、ピリポを見つけて、私に従って来なさいと言われた。
彼は別再打の人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
ピリポはナタナエルを見つけて行った。
私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。ナタナエルは彼に言った。ナザレから何か良いものが出るだろうか。
ピリポは言った。 来てみなさい。
イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。
見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。
ナタナエルはイエスに言った。
どうして私を御存じなのですか。
イエスは答えられた。
ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたが一軸の木の下にいるのを見ました。
ナタナエルは答えた。
先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。
イエスは答えられた。
あなたが一軸の木の下にいるのを見たと私が言ったから信じるのですか。
それよりもさらに大きなことをあなたは見ることになります。
そして言われた。
まことにまことにあなた方に言います。
天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなた方は見ることになります。
以上です。
旧約聖書の背景
今日はこのところから、ナタナエルを知ると題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
今日は12月1日で、月の初め1日が日曜日という珍しいというか、そういう日です。
今日からキリスト教の小読みでは、アドベント対抗説に入ります。
そして、第1、第2、第3主日と日曜日を読んで、4番目の、今年は22日がクリスマス礼拝、クリスマス主日となっています。
私たちは例年ですね、クリスマス礼拝以外は、毎週の聖書歌唱を続けて見ています。
ですから今日も、ヨハネの福音書の1章1節からずっと始まった、その続きを見ていくことにいたします。
で、実は今日の箇所はですね、推理小説やミステリー映画で言えば、この冒頭で主人公の探偵がですね、どれほど優れているのかということが語られているような場面なんですね。
で、読者は、あるいは映画を見ている人は、その紹介を見て聞いて、主人公がですね、どのような活躍をするのかということを期待して、その物語に入っていきます。
同じように、このヨハネの福音書の読者はですね、これからイエス様が、この旧約聖書に約束された救い主として、どんなことを成していくのかということを期待しながら、読み進めていく、そういう構成になっています。
で、他の3つの福音書では、最後にイエスはこういう方だという種明かしがされるような構成ですが、それと違っているわけですね。
で、どのようになっているかと言いますと、今日、先週に続いてイエス様が弟子を召していくというか、召すというかですね、イエス様の下に弟子がやってくる、そういう場面です。
今日はピリポとナタナエルという人が出てきます。特にナタナエルを注目するんですけれども、彼はおそらくヨハネにしか2回ぐらいしか出てこないので、他の福音書ではですね、バルトロマイという名前で知られたでしたと言われています。
彼はガリダヤの出身だったので、同じガリダヤの出身地から、ナザレというところから、何の良いものが出るだろうかというのは、まさか救い主が出るわけないということを言っているんですね。
しかし、これから見ていきますけれども、イエス様が自分のことを知っているということに気づいて、大変驚いて、そして先生、ピリポとナタナエルの場面ですけれども、イエス様に自分が知られているということに気がついて感動して、告白するんですね。
先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。ここではっきり、イエス様はメシアだということを、この2つの表現で告白しているわけですね。そして興味深いことに、この2つの告白の他に、先ほど申し上げた最初のこの1章ですでに、弟子たちの言葉を通してイエス様について、救い主に関わる称号がほぼ全て出るんです。
しばらく前に見た1章40節では、私はメシアにあったとアンデレが言います。そしてまた、1章45節ではですね、やはりここでも旧約聖書で預言されていたメシアにあったというふうに、弟子の口から告白されるわけです。
ヨハネで見た、バブテスマのヨハネに言われた、あなたはあの預言者ですかとか、あのような人ですかという、モーセや旧約で預言されていたメシアがイエスだということを告白しているわけです。
そうやって、どんなこのようなメシアであるイエス様が活躍していくんだろうかということを期待を持って入っていくんですけども、これから本題に入ります。今日の箇所を3つの点から見ていきますが、ここを知る上で大事な
旧約聖書の背景をまず最初に見ます。ヤコブという人を焦点に当てます。そして残りの2つでイエス様とナタナエルの関係を見るんですけども、最初にはどうやって、2番目にはどうやってイエス様がナタナエルを知っているかというその内容を見ます。そして最後はですね、この
地と上の間に密会が上り下りするのを見るという、その言葉の謎について見ていきます。それでは一番最初、旧約聖書のヤコブということを見ていきます。
1章47節で、イエス様はナタナエルに対してこう言いますね。イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。ここから読んでみましょうか。
見なさい、まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。
この告白、イエス様の言葉にどんな意味があるのか。今まで申し上げましたように、この言葉はですね、ナタナエルを知っているという意味があるんです。
もうちょっと詳しく言うと、彼の本質を見抜いている。どういうことかというと、彼の大事な2つのアイデンティティに関わることに触れているんです。それは、彼の民族的なアイデンティティと宗教的なアイデンティティに触れる言葉が、まさにイスラエル人です。
本当のイスラエル人ですという、こういう言葉にも見て取れる良い呼び方なんです。皆さん、ユダヤ人とイスラエル人の区別が聖書の中でされているのを気がつきましたよね。その区別は何かご存知でしょうか。
ユダヤ人というのは、民族としてのユダヤ人です。イスラエル人というのは、その中でも神と契約を結んだ神の民という特別な意味で、聖書では使われているんですね。
それを知るために、この旧約聖書のヤコブの物語を遡ってみる必要があるんです。ヤコブはどういう方かご存知かと思いますが、父親はイサクです。そしてその父親はアブラハムですから、アブラハムの孫がヤコブです。
そして、このヤコブの子供たちから12人が出て、イスラエルの十二部族というものが形成されていくわけですよね。イエス様はその中のユダ族から出たと言われています。
ヤコブは何をしたかというと、双子で生まれた次男で、お兄さんはエサウでした。そしてエサウを出し抜いて、長男の権利を父親を返して奪い取ったんですね。
そしてそのことが兄エサウにバレて、命を狙われるということで、母親の手助けもあって、このヤコブは逃げていくわけです。一人寂しく逃げていくときに、まさに野宿をして、石を枕にして寝ていたときに幻を見るんですね。
面白い絵ですけど、それはどんな幻かというと、夢を見るわけです。その中でこの不思議な光景を夢の中で見るんですね。そのことが、創世紀28章12節に書いてあります。
すると彼は夢を見た。みよ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の橋は天に届き、みよ、神の御使いたちがそのはしごを上り下りしていた。
1980年代に活躍したアメリカの音楽グループ、ヒューイ&ルイスというグループが、ジャコブズラザーというヤコブの怪談団という歌をアメリカで流行らせました。アメリカ人にはキリスト教文化ではよく知られた物語です。
そしてその夢の中で、彼はこのはしごを見て神様から約束をもらいます。あなたの命は守られるという保護の約束。そしてあなたの名は祝福されて、あなたから出るものが祝福されるという、アブラハムに告げられたのと同じ約束。まさに長子の権利の確証の約束を得るわけですね。
その後、ヤコブは移った地でお嫁さんをもらって、大家族になりますが、その義理の父に欺かれて十何年過ごして、もうこんなところにいられないよということで、いよいよ故郷に帰っていくわけです。大家族になって帰っていくんですね。しかし帰ると兄の復讐が怖いということで、彼は道すがらをひざまずいて祈るわけです。
そして神と格闘して、この桃の蝶津貝を外された時に神様から、神の御使いか神、ちょっとわからないですけども、新しい名前をヤコブは授かるわけですね。それがこの御言葉です。
葬石35章10節。神は彼、ヤコブに仰せられた。ちょっとこの鍵カッコだけ読んでみましょうか。
あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名はもうヤコブとは呼ばれない。イスラエルがあなたの名となるからだ。
こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。このイスラというのは争うですね。エルというのは神です。神と格闘して勝ったということで、イスラエルという名前を授けられて、そしてこれからイスラエル民族が出ていくという、そういう祝福の名前なんですね。
このようにイスラエルはヤコブに与えられた特別な名前です。そして繰り返しますが、聖書では神様と契約を結んだ神の民に与えられた特別な名前がイスラエルであって、私たちは神の民イスラエル人だというのがユダヤ人の民族的そして宗教的な誇りの拠り所になっていたんですね。
そして実はナタナエルをはじめとする十二弟子から始まって、神様は新しいイスラエルの民、神の民を作られましたよね。そしてその中に今、キリストを信じた私たちが新しいイスラエルとして、神の民として神様の契約と祝福の中に入れられているということになるわけです。
最初の点は、イエス様とナタナエルの会話の背景になる物語を遡ってみました。
2番目、それでは次です。ナタナエルを知るイエス様という点ですね。
ナタナエルの信仰
そしてナタナエルはイエスに言った。どうして私をご存知なのですか?イエスは答えられた。ピリポがあなたを呼ぶ前にあなたが一軸の木の下にいるのを見ました。と告げられたわけです。
この先ほど言いましたけど、怪異的なナタナエル。このガリダヤの名ざれから何の良いものが救い主が生まれるわけないと言ったナタナエルに対して、最初にイエス様が告げた言葉。この人こそまさにイスラエル人で、彼の中に偽りがないと先ほど見ましたけども、その言葉にはこのような意味もあったんですね。
ナタナエルと重ね合わせてこられた初代イスラエルヤコブはどういう人か皆さんご存知ですか?ヤコブの特徴はいろいろありますけど。ズル賢いというのがあるんですよね。それからいろいろな争いが起こったわけですけども。
しかしナタナエルはそのイスラエルと違ってズル賢くない、偽りがない人だってイエス様はおっしゃったんですね。それは詩編の32編の1節2節に関わりのある言葉だったんですね。
まさに、ナタナエルは罪許され、そしてそのうちに欺きがない人だとイエス様が言い当てたわけです。
もう一つですね、この一軸偶和の木の下、当時はこの下でお祈りをしたり、牧草をしたということが言われていたんですね。そういう習慣があったようです。
だからもしかしたらこのナタナエルは一軸の木の下でお祈りを捧げていたかもしれません。想像ですけどね。そしてその中で神様の前の自分の罪、神様を求めながら自分の中にある葛藤を祈って告白していたかもしれません。
また自分のアイデンティティに関わる問題を祈りの中でこの一軸の木の下で打ち明けていたのかもしれません。イエス様はそういうあなたを私は見たよ。あなたがピリポによって私に会う前にずっと前からあなたのことを見て知っていたよとおっしゃったわけですね。
このようにイエス様はその人を知っている。そして言葉にならない葛藤さえもご存知であるとも言えるんですね。そういう様子がこの地霊の不思議な会話から垣間見えることができるわけです。
しかもイエス様はナタナエルがその人がイエス様を知る前からずっと前からその人のことを知っていた。どこにいたのかも知っていたし何を考えていたのかどういう葛藤を持っているのかもご存知であった。そういう救い主なんですね。
今までの物語の中でもイエス様は最初の弟子だったんでしょうか。アンデレに対してあなたは何を求めているんですかと答えましたよね。夜通しそして私と一緒に泊まりなさい。そしたら分かると言って語り合ってアンデレは救い主に会ったと言ったわけですよね。
またこの後ですね皆さんよくご存知な3章の有名な出来事イエス様とニコデモの出来事が出ている。あれも不思議な会話です。そしてその後4章ではイエス様とサマリアの女の会話が出てきますよね。
どれも特徴的なのはイエス様の会話は飛んで飛び越えていて最初それを聞いた人は何のことかわからないわけです。そしてでもその話していくうちに本質的な問題に突き当たって救いの人の出会いに導かれていくというのが特徴なんですよね。
そのような前触れのような出来事が今日のイエス様とナタナイルの出会いに飼いのみることができるわけなんです。そして当然イエス様はニコデモもサマリアの女性のこともナタナイルのことも知っているように私たちのこともご存知であるわけですね。
さらなる神の御業の約束
詩編にそれを連想させるような御言葉がありますから少し見てみましょう。139編の1節2節6節ちょっと抜粋してみました。
主よ、あなたは私を探り知っておられます。あなたは私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。
ここからだけ読んでみましょうか。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて及びもつきません。
そのようなイエス様を私たちが知っている幸いがありますし、そのイエス様の不思議な御業や偉大な御業をこれからも見ていくことになります。最後3番目。
さらに大きなことを見るという約束ですね。ナタナエルの信仰告白の後にイエス様はこう言いました。
あなたが一軸の木の下にいるのを見たと私が言ったから信じるのですか。それよりも大きなことをあなた方は見ることになります。まことにまことにあなた方にいます。
天が開けて神の御使いたちが人の子の上を登り降りするのをあなた方は見ることになります。
1章50節51節。ここで言う人の子とはイエス様がご自身を指しているという言葉ですね。今日は詳しく触れませんけど。
そして、天が開けて神の御使いたちが人の子の上を登り降りするのをというこの現象が今日出てきましたよね。これは先ほど言った約束の階段の物語につながっているんですね。
そして、その光景をあなた方は見ることになりますと弟子たちにイエス様は告げています。これは簡単に申し上げますと、御使いがイエス様の上を登り降りするのはどんなことかというと、
イエス様を通してこの地上で神の御業が行われるよという意味なんです。天使が登り降りするような不思議な神の御業をまさに天使が下ってきて神御自身が下ってきて天の御業を行うような御業をあなた方はこの地の上で私を通して見るようになるよというそういう暗示なんですね。
そして実はこのことを具体的に何かということを、ヨハネの読者も私たちもこれからを見ていくことになるわけなんですね。ヨハネの福音書を通して。そしてその後には究極の印もあなた方は見ることになるよということも示唆されているわけです。
それが何かは今はあえて言いませんけれども。そのようなイエス様の御業を期待するように小説の始めにイエス様の偉大さがあれこれ語られてですね。そしてイエス様御自身もあなた方はそれを見るという宣言をされて、読者も私たちもこれからヨハネの福音書に入っていくわけなんですね。
その救いの御業を見ることを期待して、ヨハネの物語を福音書を見ていきます。と同時に実はイエス様もすでにこの地に来られました。その私たちの目には見えませんけれども、実は私たちの生活の中でイエス様は救いの御業をこれからも行ってくださる、そういう期待もあるわけですよね。
そしてその救いの物語の始まりがまさにクリスマスですね。そのことを思い馳せながら、アドベントのこの時期を共に過ごしていくお互いであり、教会でありたいと思います。
イエス様のヨハネの御言葉を最後に読んでおりにしましょう。
私が天から下ってきたのは、自分の思いを行うためではなく、私を使わされた方の御心を行うためです。
私を使わされた方の御心は、私に与えてくださったすべてのものを、私が一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は素晴らしい偉大な救い主です。
どうぞ弟子たちが口々にしたそのイエス様の偉大さ、またその神御自身であるアリ様を、ヨハネの福音書を通して、私たちの生活を通して、私たちが知ることができますように。
まさに御使いが、また神御自身が、この地を歩まれて宮座を行うような、そのような出来事を、私たちがヨハネの福音書を通して、また私たちの日々の生活を通して、知ることができますように。
人となられたあなたの偉大さ、不思議さを、そのことに思いを馳せるアドベントとなりますよう、どうか私たちを導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主シュイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
それでは1分ほど、そろそろ御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。