2024-12-15 24:47

#242 キリストの隠れ証言 ~ 聖書を知る楽しさ24/12/15

ヨハネ2:12-22からの礼拝説教。2024年12月15日録音。〈聖書朗読は()まで、説教本題は()から始まります〉「隠れミッキー」のように「キリストに関わる隠れ証言」がヨハネの福音書の中に存在します。また登場人物のセリフにも表面的には見えない背景があります。それらを読み解くことによって、聖書を知る楽しさを知り、またクリスチャンであればイエス様に対する新鮮な信仰が喚起されるでしょう。それらを踏まえて1.隠れているキリストの証言(),2.ユダヤ人の質問の本当の意味(),3.神殿としてのイエス様の体()の3つの点を取り上げます。

メッセージ原稿 https://note.com/nsbc/n/nde68d40cdc18

サマリー

このエピソードでは、イエスがエルサレムの神殿で商売を行う者たちを追い出す出来事を通じて、彼の神聖さとメシアとしての証言が明らかにされています。また、ユダヤ人たちの質問が彼の神聖を探るものであり、その背景には旧約聖書とのつながりが考察されています。さらに、イエスの神殿としての体とその復活について語られています。特に、神との出会いの場としての神殿の重要性と、イエスが自らを神殿と宣言する意味が強調されています。

イエスの行動と神殿の意義
ヨハネ二章十二節から二十二節、その後イエスは母と弟たち、そして弟子たちと共にカペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
そして宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと座って両替をしている者たちを見て、細縄で鞭を作って、羊も牛も皆宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。
「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家にしてはならない。弟子たちは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くすと書いてあるのを思い起こした。」
するとユダヤ人たちがイエスに対して言った。
「こんなことをするからには、どんな印を見せてくれるのか?」イエスは彼らに答えた。
「この神殿を壊してみなさい。私は三日でそれをよみがえらせる。」そこでユダヤ人たちは言った。
この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか?しかしイエスはご自分の体という神殿について語られたのであった。
それでイエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちはイエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われた言葉を信じた。
以上です。
今日はこのところから、キリストの隠れ証言を題しての言葉をお取り継ぎいたします。
皆さんおはようございます。寒い日が続いてまさに当時が近づいています。
それぞれ個別に暖房器具も置いてありますから、必要に応じてスイッチを入れたりして体に当たるようにしていただければと思います。
スイッチが入っているものもあれば、入っていないものもありますので、よろしくお願いします。
さて、今度の日曜日はクリスマス礼拝ですが、私たちの教会ではその直前まで、いつも学んでいるヨハネの福音書の一章からずっと続けています。
そして、今日は2章の12節のところから。
先週、イエス様のカナの婚礼の最初の記跡、しるしを見ました。
そして、今日の読んだ箇所では、そのつなぎの部分としてイエス様の母と兄弟の同行が書いてありました。
そして、今日のところはイエス様がエルサレムにその時、おそらく過越の祭りかと思いますけれども、
エルサレムに行った時の出来事を書いています。
そして、聖書をよく知っている人から見れば、「おや?」と思うことがあります。
でも、気がつきましたか?
マルコナ福音書の時に、この宮清めはいつ起こったでしょう?
それは、イエス様がまさに十字架にかかろうとしてエルサレムに入った最後の1週間の中で、この宮清めの出来事が出てきます。
ヨハネの福音書では、もう初めの方にこの事が出ています。
それはどういうことなのかと、学者の間でいろいろ議論されていますが、
おそらくこの時と、そして巡覧の前と2回宮清めを行ったのではないかという説が、わりと有料なようです。
そんな中から、今日はいつも繰り返していますが、ヨハネには独特の福音書の書き方があります。
その謎を解くようなことをしています。
皆さん、私はあまり行かないのですが、ディズニーランドに行くと隠れミッキーというキャラがあるのをご存知ですか?
ミッキーマウスのロゴがいろんなカフェとかに隠れていて、マニアの方はここにミッキーがいたなんて楽しむわけです。
また、いつも言っていますが、小説や映画などでは、シャーロック・ホームズの小説しかりですが、
その推理を解く鍵となる出来事やヒントとなる言葉や、映画であれば場面が出てくるのです。
そしてそれに気がついた人は、推理を解くこともできるし、種明かしの時になるほどと思うわけです。
実は、ヨハネの福音書の中では、イエス様が神の御子救い主であるということの証言が隠れ証言のようにそれとなくほのめかされているところがあるのです。
そういうところが随所に登場して、今日の箇所にはそれが顕著に見られます。
それに気がつくことによって、私たちはちょっとした驚きを感じたり、聖書を読む楽しさを実感したり、
あるいはイエス様が救い主だということを聞き慣れていますが、それについて新鮮な思いが出てくることが出てきます。
そんなことを願いながら、イエス様に対する隠れた証言を最初に3つ見ていきます。
2番目には、ユダヤ人がイエス様にした質問の本当の意図は何なのかということを見ていきます。
そして最後には、イエス様がこの神殿を壊してみなさいといった、そこに隠されている意味も見ていきます。
その3つの点からいくのですが、まず最初に隠れているキリストの証言です。
イエス様は、いわゆる宮清めを行った時に、人々に向かってこのように言いました。
読める方は頑張って読んでみましょうか。
それをここから持って行け、私の父の家を商売の家にしてはならない。
このように宣言されました。
まず、この御言葉に隠れ証言があります。
イエス様は私の父の家と言っています。これは何を指しますか。
これは宮清めを行った神殿です。
神殿とは何か、神様の住まい、また神様の家です。
ここでイエス様はその神の住まいであり神の家を私の父の家と言っています。
ユダヤ人、先民イスラエルは私たちの父と言っています。
イエス様は他でもない、私の父、その私の父の家と神殿を呼んでいます。
これらの言葉からイエス様はご自身と父なる神様と特別な関係があるということを示唆しているわけです。
神様は私のお父さんだと言っている。
イエス様と私の父の関係を示唆することによってイエス様ご自身も今まで見ましたように
真実の神と本質は同じだということが示唆されています。
それはヨハネの福音書の冒頭で言われてきた言葉です。
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この短い一節の中にそれがぎゅっと詰まっている。
このロゴスなる言葉、それは誰かといえばイエス様でしたね。
そのイエス様は父なる神様と共にあって親しい関係を持っていた。
そしてそのロゴスなる言葉、イエス様ご自身も神であったと言っている。
それが今日の箇所にもおのめかされている。私の父の家という言葉になります。
それがまず一つです。
そして次に、聖書の言葉からイエス様がメシアだということが示唆されています。
弟子たちはイエス様のこの三八経目の様を見てある御言葉を思い出したと言っているんですね。
それは2章の17節に書いてあります。
弟子たちはあなたの家へ思う熱心が私を食いつくすと書いてあるのを思い起こした。
これは詩編の中の言葉なんです。
そしてヨハネの受験の古文の先生が
この言葉が出てきたらこれは大事ですと言ったことを思い出すんですけれども
ヨハネの福音書の中で旧約聖書の引用が出てきたらとても大事な意味がある。
それはイエス様が旧約の預言のメシアだということを指し示す
そういう大事なサインが旧約聖書の引用や示唆なんですね。
このように旧約聖書の預言と実はこの三八経目が一致していて
まさにイエス様は約束された救い主なんだということがここでも証言されているんですね。
そして3番目の隠れ証言ですが
実はイエス様の言葉と聖書の言葉を同列に置くことによって
そのことが示唆されたりイエス様の神聖が証言されているんです。
今日の箇所の締めくくりの2章の22節でこう書いてあるんですね。
イエス様の後で見ますが、自分を指していった言葉を聞いた時に弟子たちの反応です。
それでイエスが死人の中から蘇られた時
弟子たちはイエスがこのように言われたことを思い起こして
聖書とイエスが言われた言葉を信じ立てているんです。
後で見る神殿を壊してみなさいという言葉を思い出して
イエス様、平たく言うとイエス様が救い主だということを信じたんですが
その表現方法に注目するべきなんですね。
イエス様が復活した時に弟子たちがこの言葉を思い起こして何を信じたか
聖書とイエスが言われた言葉を信じた。
これはどういうことかというと、
権威ある神の御言葉の聖書とイエス様の言葉が同列に置かれている。
このようによってイエス様が神であり救い主であるということが示唆されているわけなんです。
分かる人こそ分かる。
隠れ密記、隠れ証言のようなことがこの短い箇所に示唆されているということを覚えておきましょう。
この隠れ証言を見つけるのもヨハネの福音書を読む楽しみであります。
そしてそれを見つけて新鮮な驚きを感じるときに
救い主イエス様を信じることについての私たちの信仰も新たにされていく。
新鮮な信仰を喚起されていくということがあるわけですね。
2番目、今度はユダヤ人の質問の本当の意味を探っていきましょう。
ユダヤ人の質問の意図
この宮清めのイエス様のなさることや
またおっしゃった言葉を聞いてユダヤ人がこのように言いましたね。
するとユダヤ人たちがイエスに対して言った。
じゃあここから読んでみましょうか。
こんなことをするからにはどんな印を見せてくれるのか。
ここでですね皆さんの記憶を喚起していただきたいんですけど
マルコの福音書における宮清めの意味は何だったでしょう。
それをきっかけに何が起こったでしょう。
まさにイエス様が逮捕されていく直前ですけれども
サンヘドリン、ユダヤの指導者たちはイエスを殺そうとますます思った。
そのために相談したといって。
その時の宮清めの意味は
イエス様の受難がどんどん進んでいくきっかけになったんですね。
でもここではそれとは違う意味があります。
旧約との関連
どんな意味か。
それはこの宮清めも実はイエス様が約束された救い主であるということを
明かしする手段だったんですね。
どういう意味か。
実はこれが十字架と復活と関係しているということもあります。
そしてそのようにちょっと話が難しくなりますが
先週話した十字架と復活という完全なるイエス様の栄光の現れ
それもその示唆としての先週のカナンの婚礼の印があったんですけれども
それとその流れの中でやっぱり今日の宮清めも
イエス様が神になる救い主であるということを
またイエス様の栄光を示唆する出来事だったんですね。
どういうことか。
実はこの出来事は旧約聖書の中で予告されている
メシアの到来と関係しているんです。
旧約聖書のマラキショの中にこういう言葉があるんですね。
メシアの到来した時の印というんですけれども
こういう印がある。
みよ私は私の使いを使わす。彼は私の前に道を備える。
あなた方が尋ね求めている主が
突然その神殿に来る。
あなた方が望んでいる契約の使者が
みよ彼が来る。万軍の主は言われる。
少し解説しますと
ここの私の使い、誰ですか、道を備える方
パヴィテスマのヨハネですよね。
そのことが到来されている後に
尋ね求めている主が、救い主が来るよ。どうやって来るんですか。
突然神殿に来るんだ。
実はこのイエス様に対して
どんな印を見せてくれるんだ。こんなことするからには。
と言ったユダヤ人の意図は
お前は神殿でこんなことをするんだったらば
この御言葉が言うところの
メシアなのかということを聞いている。
だったらお前がメシアであれば
そのための証拠としての印を見せろ。
それがこの2章18節の意味なんです。
単なる批判じゃないんですね。
批判もあるんですけれども
一方ではメシアを待ち望んでいく
イエス様の神殿の教え
そのような期待も入り混じった言葉です。
話前後しますけれども
ヨハネの福音書では実はこの言葉をほのめかすことによって
やはりイエス様は約束された救い主である
ということが示唆されているんですね。
そして繰り返しになりますが
このユダヤ人の質問の意図は言い換えると
こういう言葉なんですね。
お前が神を私の父と呼び
その親しい神聖とお前自身を結びつけており
そして神殿でこんなことをするのなら
お前は旧約聖書の約束のメシアなのか
であればその証拠としての印を見せろということが
この質問の本当の意図だったということを覚えておいてください。
そして最後3番目
このイエス様のなぞめいた言葉を
もう少し深掘りしていきましょう。
神殿としてのイエス様の体
どんな印を見せるんだって言われて
イエス様はこう答えたんです。
イエスは彼らに答えられた。
この神殿を壊してみなさい。
私は三日でそれを呼びかえらせる。
イエスはご自分の体という神殿について語られたのであった。
これヨハネの解説です。
イエス様がこのようにやって
三日で呼びかえらせると言った後に
ユダヤ人たちは46年もたって
このヘロデルカを作った神殿というのはできたんだよ。
一説によるとまだ建設途上だったんですね。
46年目でまだ途上してない
サグラダファミリアみたいな
それをお前は三日で建て直すのか。
実はちょっと細かいことなんですけれども
呼びかえらせるという言い方になっているのは
元のギリシャ語ではエゲイロという
死から復活するという意味の
言葉が使われているから公約されているんですね。
それはさておきまして。
イエス様は私はこのような印を見せるよと言っている。
それは何かというと皆さんがご存知のように
これはイエス様の十字架と復活ですよね。
三日目の呼びかえ。
もう一つ興味深いことに皆さんお気づきでしょうか。
この神殿を壊して三日で呼びかえらせる。
これ、この間見たマルコの福音書ではどこで出てきたか。
それはイエス様が裁判にかけられたときに訴えられましたよね。
この男は神殿を壊して三日目に建て上げると言ったといって
ユダヤ人たちがイエス様を告発した場面。
もう一つは十字架の上でかけられたイエス様をあざける場面。
お前は三日で神殿を壊して建て上げようと言ったの。
だったらその十字架から降りてみようという
そのような批判の言葉としてマルコでは語られていますが
珍しいのはここではイエス様の直接の言葉として
引用されている点なんです。
他の教官福音書、マタイ、マルコルカでは
三つともイエス様の直接の言葉ではなくて
告発者が曲解してイエス様を落とし入れる言葉として
あざ切りの言葉としてしか引用されていませんでした。
これもヨハネの特徴だと覚えておいてください。
しかしここでもこれまで見てきたように
イエス様と人間の言葉のすれ違いがわかりますね。
先週見た女の方、あなたと私にどんな関係がありますか
私の時はまだ来ていませんという言葉とかですね。
イエス様と神との関係
イエス様が飛び越えて言うナタナエルに対してですね
あなたが木の下にいるのを私は見ましたということを言って驚かしたりとか
それはさておきまして
ここでもやっぱり人間的な思いで言葉を発する
ここではユダヤ人と神様の見心の観点から
言葉を発するイエス様とのすれ違いが見て取れます。
皆さんがご存知であるようにここではイエス様は
十字架で復活を指して神殿の破壊と再建を言っているわけです。
そして今日一番注目したい点はですね
ここでイエス様が自分の体を神殿と言っているところです。
最初のポイントではイエス様は神殿を何と言いましたか
私のお父さんのお家と言いましたね。神殿。
ここでの神殿については私の体を神殿と言って
イエス様はそう言っておられるところです。
何がそこで注目するかというと先ほども言いましたが
神殿は父なる神の家。神の住まう場所が神殿でした。
そして人がそこに戻って神と共に過ごす場所が神殿であり
神と出会う場所が神殿だったんですね。
イエス様はそれが私だと言っているんです。
私の体はそれだと言っているんですね。
そのようにイエス様は宣言することによって
やはりご自分が神であるということを宣言していることがわかるわけです。
イエス様はこの肉体に神が宿っておられる。
そして人々は私を通して神に出会う。神を見ると言っている。
そして私と共に過ごすことは神と共に過ごすことだということが
この言葉に示唆されているんです。
そして今や救い主なるイエス様は
目には見えませんが神として私たちと共にいてくださるわけですよね。
そしてその共におられる神なるイエス様のことを
感謝するのがこのアドベントでありクリスマスのわけでありますね。
その私たちの間に住まわれた神なる救い主イエス様のことを
深く覚えて感謝していくクリスマスとなればと願っております。
それでは今まで見たヨハネの福音書の言葉から
今日の言葉と関係するものを2つ引用して終わりにいたします。
ヨハネの1章の14節
言葉は人となって私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父の身元から来られた独り子としての栄光である。
この方は恵みと誠に満ちておられた。
そして1章18節最後に皆さんで読んでみましょうか。
いまだかつて神を見た者はいない。
父の懐におられる独り子の神が神を解き明かされたのである。
お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは救い主として
聖書が約束したメシアとしてこの地に下って来られ
神御自身であられ、また父なる神を明かしされ
私たちと神様との間も取りもってくださいました。
私たちの理解では知り尽くすことができない
そのあなたの存在を覚えて
あなたを賛美し、あなたに感謝いたします。
どうぞ今あなたが私たちとともにいてくださる救い主である
そのことを覚えながら感謝し
また思いを深めこのアドベントの時
クリスマスに向かって過ごしていくことができるように
どうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それではまた御言葉に応えて一分ほど祈る時間を持ちましょう。
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