2023-08-20 26:21

#異邦人の弟子

マルコ5:1-20からの礼拝説教。2023年8月20日録音。マルコの福音書のイエス様の奇跡物語は、先週見た箇所から新しい段階に入りました。それは神の子・救い主イエス様の権威がその規模や範囲の点でより広がって力強く証しされるということです。

今日の箇所では嵐を静めたガリラヤ湖を対岸まで渡り終えゲラサ人の地に入りました。それはデカポリス地方(10の町からなる地域という意味)、いわゆる異邦人の地です。ここではイエス様の働きはユダヤ人の地にとどまらず異邦人の地で奇跡を行われるという新たな局面を描いているのです。それをもとに1.桁違いの汚れた霊と正気に戻った人、2.イエス様と人よりも豚、3.十二弟子とは別の異邦人の弟子として、の3つの点を学びましょう。


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00:07
マルコの福音書5章1節から20節
こうして一行は湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
イエスが船から上がられるとすぐに、穢れた霊に疲れた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。
この人は墓場に住みついていて、もはや誰も鎖を使ってでも彼を縛っておくことができなかった。
彼はたびたび足枷と鎖で繋がれたが、鎖を引きちぎり足枷も砕いてしまい、誰にも彼を抑えることはできなかった。
そこで夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていたのである。
彼は遠くからイエスを見つけ、走ってきて拝した。そして大声で叫んでいった。
「意図高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。
神によってお願いします。私を苦しめないでください。」
イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け。」と言われたからである。
イエスが、「お前の名は何か。」とお尋ねになると、彼は、「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから。」と言った。
そして、「自分たちをこの地方から追い出さないでください。」と懇願した。
ところでその山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
彼らはイエスに懇願して言った。
「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」
イエスはそれを許された。そこで汚れた霊どもは出て行って豚に入った。
すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へ流れ込み、その湖で溺れて死んだ。
豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は何が起こったのかを見ようとやってきた。
そしてイエスのところに来ると、あくれに疲れていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、服を着て正気に帰って座っているのを見て恐ろしくなった。
見ていた人たちは、あくれに疲れていた人に起こったことや豚のことを人々に詳しく話して聞かせた。
すると人々はイエスに、「この地方から出て行ってほしい。」と懇願した。
イエスが船に乗ろうとされると、あくれに疲れていた人が、お供させてほしいとイエスに願った。
しかしイエスはお許しにならず、彼にこう言われた。
あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れてくださったかを知らせなさい。
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それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかをデカポリス地方で言い広め始めた。
人々は皆驚いた。 以上です。
今日はこのところから、「違法人の弟子、違法人の弟子」と題して見言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。 先週、プレイハイで心配されていました台風7号ですが、水曜日頃、島根県を中心に通って、
特に新幹線や飛行機で大きな交通障害が起こって、2、3日、
本で帰省した人や旅行した人が、車両や機体のやりくりができなくて、足止めされたということがニュースでやっておりました。
そんな天変地異もありましたが、ハワイでマウイ島での大火事がまだ今もニュースでよく取り出されますし、
つい昨日でしょうか、おととい、カナダでも山火事が起こった。世界中ではそんなことが起こっている。
ある国連の人に言わせれば、沸騰の時代に入った。地球温暖化ではない沸騰の時代に入った。
ある意味で、環境温暖化が違ったフェーズに入ったと言えるかもしれません。このフェーズという言葉は最近よく耳にしますが、
違った局面に入ったとか、新しい段階に入ったという時に使われます。まさにイエス様は先週の箇所から、このルカの福音書では、新しいフェーズに入った。
新しい局面、違った段階に入った、戦況とか奇跡物語が展開されているわけです。
そのイエス様の神の救い主としての権威が、先週はこのように嵐を沈めるイエス様の出来事でしたけれども、
より大きく、広くその権威が及ぼすことができるという、そういう話でしたね。
先週の話を覚えていると思いますけれども、このガリラ湖での出来事は、イエス様が創造主と等しい権威を持っておられる。
水の中で暴れると考えられていた龍やレビアタンを制する旧約詩編では、創造主が龍やレビアタンの頭を踏み砕いたとありますけれども、
そのような生き生きとした描写であるように、イエス様が単に一人の人を癒やしたり、清めたりするのではなくて、
天地万物、非造物、自然界を支配される創造主と等しい権威を持っているということで、新しい段階、フェーズに奇跡物語が入りました。
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今日のところは、そのガリラ湖をイエス様は嵐を沈め、対岸まで渡った、ちょっとこれ見にくいんですけれども、
ガリラ湖をもう一回おさらいしますけれども、日本がここにありまして、
反対側、西アジアにエルサレム、イスラエルという国があります。その中の、イスラエルの上の方ですね、
そこにあるガリラ湖が今話の中心となる舞台でした。そして左上のカペナームというあたりが、
それまで活動の中心でしたが、向こう岸に渡ろうといったいろんな説があるんですが、おそらくゲラサとここありますけれども、この
図で見ると右側の地域にイエス様は渡られたって言うんです。それは、今日二重説出てきますけれども、デカポリスという町です。
デカポリスっていうのは、この地域の警察とか、そういうものが集まった地域です。何でかわかります?
デカとポリスで、デカポリス。そういう先輩の僕しか冗談言ってましたけど、それは冗談で、デカというのは銃という意味です。
ポリスというのは都市ですから、銃の都市が集まった地域で、何回も言いますけれども、ここはですね、
今までのカペナームのユダヤ人の地と違って、違法人の地という、そういう新しいフェーズにイエス様の宣教が入っているという、そういうことです。
そしてここで、新たな局面がですね、今日の
アクレ追い出しでも見えてくるわけです。 それではですね、そのことを見ながら、3つの点から共にこの箇所を見ていきましょう。
まず最初はですね、桁違いの穢れた霊、そして正気に戻った人ということを見ていきます。
このイエス様が対岸に渡りました。 五章の2節から3節、こうありますね。
イエスが船から上がられるとすぐに穢れた霊につかれた人が、墓場から出てきてイエスを迎えた。
ここから読める方は読んでみましょうか。この人は墓場に住み着いていて、もはや誰も鎖を使ってでも彼を縛っておくことができなかった。
この違法人の地に着くと、 ユダヤ人のカペナームの街道で最初に悪霊につかれた人を癒したように、ここでも悪霊につかれた人との
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エンカウンターというかですね、出会いが起こりました。 しかしここではですね、その
問題の大きさが桁違いである。 別段階、繰り返して、別のフェーズに入ったということが詳しく読むとわかります。
それはですね、 今日の歌詞を見ると描写されています。
その男はですね、昼と夜と構わず叫び続けていた。 服も身に着けず、おそらく自分の体を石で傷つけていた。
そして町の人はことほど困り果てでですね、 墓場に彼を鎖と足枷で縛り付けていたんですね。
しかしその男は鎖を引きちぎり、足枷を壊して、 脱走して誰も彼を縛っていくことができませんでした。
まああの 墓場に住んでいたって言うんですけど、当時の墓はですね、イエス様の墓もそうでしたが、
丘陵地帯に横穴をくり抜いて、 埼玉だったら吉見百血なんてありますよね。
そういう横穴式のお墓だったので、そういうところに住んでいたっていう、 そんな人もいたようです。
また 前のツアラートの人のように、いわゆる村から出てってくれっていう人をそういうところに
押し合ったっていうこともあるそうです。
そんな中でも誰も縛っておくことができなかった。 しかも、
アクレイどもはですね、レギオンと名乗っています。 レギオンというのは何かというと、ローマの軍隊の単位を表しているんです。
で、だいたいですね、この図にもありますが、レギオンという単位は、 一個士団とかいろいろ日本語でもありますけれども、通常2000人から4000人の兵隊を表す単位です。
で、その理由として、 男の中に宿っていたとされるアクレイどもがですね、
私たちの数は多いからレギオンというんだと名乗った。 そして最後の
締めの部分でもですね、2000頭の豚の中に入ったとあるように、 これらの名前からもですね、
この男の人には多くの霊が取り付いていた。 そういう違った面があったわけです。
これまでのガリアヤ伝道、カペナームキンペの伝道では、
2000頭までいかなかった。いくつかあったかもしれませんが、 この規模とかですね、そしてこの疲れた人の症状の
酷さという点で繰り返しますが、 桁違いであった。
ということがわかるわけです。 そしてこの男が
ひれ伏していたわけですけれども、 その中でこの
イエス様は別の局面を迎えたアクレイどもと対峙していく。 そしてこの聖書をよく読むと
12:10
この酷さがありらいと浮かんできますけれども、 そんな中で
まさにイエス様はこの戦いと言いますかですね、 アクレイを制することができるのかという緊張感も伝わってきます。
そんな中でですね、 イエス様は
直ちに穢れた霊を追い出し、 その偉大な権威をおかしされたことがわかりますね。
15節にその男が癒された様子を見に来て、 こう表現されています。そして町の人々がイエスのところに来ると、
アクレイに疲れていった人、すなわちレギオンを宿していた人が、 服を着て正気に帰って座っているのを見て恐ろしくなった。
先ほど細かく紹介しました、あれほど酷い 状態だった男がですね、服も着てなかったけれども服を着ている。
凶暴で抑えきれなかったけれども、まさにイエス様の前でおとなしく、 誰も制することができなかった、繰り返し書かれていましたけれども、
イエス様の前でおとなしく座っていた。
まあ、
学校や保育園で働いている方なんかはね、 やんちゃな子がおとなしくするとか、そういうのを経験するかと思いますけれども、それ以上にイエス様が
制した権威や力がここにさらりと明かしされているわけなんですね。 このようにイエス様は
レギオンと称される多くの力を収められました。
いろんなことをここから私たちを見とれるかもしれません。 あえて私が言えばですね、私たちは今
いろんな複雑な状況の中に取り囲まれていて、いろいろなものが私たちを惑わすかもしれません。
情報であれ、人であれ、状況であれ。 しかしそれがどのような規模になったとしても、どんな性質であったとしても、
イエス様は必ず私たちをその中で救ってくださる、 制することができるそのような方であると信じていこうではありません。
2番目、
問題が起こりました。 イエス様と人よりも豚という問題です。
ここの 箇所ですね、5章16節から17節を読んでいますね。
見ていた人たちは悪霊につかれていた人に起こったことや、 豚のことを人々に詳しく話して聞かせた。
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ここから読んでみましょうか。するとから3回。 すると人々はイエスにこの地方から出て行ってほしいと懇願した。
この地方というのはですね、最初にちょっとお話ししましたが、日本があってイスラエルがこの端にありました。
このイスラエルのですね、おそらくこの辺のガリダヤ湖。 ガリダヤ湖で起こった出来事です。
ガリダヤ湖の最初の方はですね、カペナウムというユダヤ人の地でイエス様は占拠していましたが、
先週見た湖を渡ってこのゲラサ人の地、いわゆるデカポリスという違法人の地でこの出来事が起こりました。
で、この違法人の地において、ゲラサ人らが住んでいる地において、このイエス様のレギオンの出来事が
豚を飼ってきた者たちでしょうかね、によって言い振らされたわけです。 そしてその時にですね、この
多くの人々は その話を聞いて
イエス様にここから出て行ってくれと 懇願したわけです。
で、ここで何が言えるか。イエス様はこの後どうされたかというと
小舟に乗ってそこから立ち去るんですね。
そしてここで何が問題か。ここの タイトルにもありますけれども、ここの違法人はですね
イエス様よりも失った豚に心が奪われていた。 まあ実は2000頭ものですね、財産を失ったらという道場もあるんでしょうけど、ちょっとそれは置いときまして
ここでマルクが言いたかった言葉はそういうことなんです。救い主イエス様よりも2000頭の豚。
そしてこの一人の凶暴な
2000、4000とも言わずと分からない多くの悪霊に疲れたひどい状態にあった人が
治った。それよりも豚です。 2000頭の豚。
そちらの方に心が奪われていた。 それを嘆いた。
男の癒しよりもそのことを嘆いたということが問題だったわけですね。
でちょっと覚え出してみてほしいのは ユダヤ人、単純にユダヤ人を批判するつもりはありませんが
カペナーム伝道でのユダヤ人や立法学者の問題は 表面的な立法に固執する。そして汚れたっていう
彼らの汚れた汚れたくないというこの 誤ったこだわりによってですね
サーラトに侵された人が癒されたりとか、種税人たちと共にいるイエス様のことが批判されたり、
反則日に癒したイエス様のことが批判された。そういう誤った立法との関わりの中で
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カペナームの人々はイエス様を拒絶しました。 しかしここの日本人の地では立法の問題はありませんでしたけれども
豚という問題。ある人はそれが財産というかもしれません。 そういうものとイエス様を比較して
イエス様は出て行ってくれと。やはりここでもイエス様を拒絶してしまったということが浮かび上がってくるわけです。
するとイエス様は彼らの申し出どおりですね、ある学者は悲劇だって言うんですけども
船に乗ってそこから立ち去ろうとしたわけです。 しかしそこでも明るい話があります。最後
十二弟子とは別の違法人の弟子として輝く人がいました。 イエスが船に乗ろうとされると
悪霊につかれていた人がお供をさせてほしいとイエスに願った。 しかしイエスはお許しにならず
彼にこう言われた。 あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。
ここから読めるかと呼んでみましょうか。そしてから3回。 そして主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったかを知らせなさい。
とイエス様はメッセージを託したわけです。 イエス様を拒絶した
多くの人がいた。その一方でネギオンから救われた男はですね
イエス様の弟子としてお供したいと言っているんです。 これは難しいことを簡単に言いますと、マルコの福音書で繰り返しイエス様が
の時、あるいは弟子を召す時に使われたと同じ言葉が使われて、あなたと共に私はいたいです。
十二弟子をイエス様は自分と共におらせるためだという表現とか重なっているわけですので、 まさにこの男はですねイエス様の弟子になりたい
と 混乱したことがわかるわけです。
その申し出にですね このイエス様はついてこなくていいと言いながらもその地を離れないで
大切な使命をですねこの男にイエス様を委ねたことがわかるわけです。 どんな使命かそれは
違法人の地で初めてイエス様が弟子を派遣するということです。 何度も繰り返しますが新しいフェーズに入ったそれは今まではユダヤ人の地だけだったんですけど
違法人の地に新しく弟子が使わされたという新しい局面がここで読み取れるわけなんです。 そしてこの男はどうしたか
20節で終わりますね。ちょっと読むの続きましたが読んでみましょうか。 それで彼は立ち去りイエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを
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デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみんな驚いた。 この人々がみんな驚いたというのはですねイエス様の奇跡やお話を聞いた人たちが
神の見業を見て驚いたというのと同じ表現です。 このレギオンから解放された男がですね
自分に起こったことを 多くの地域で話して人々驚いた
ここに記されているわけです。 ここでですね
彼は立ち去った。つまりイエス様にお供した 12弟子とは違った人生を歩んだわけですね
いわゆる型通りの弟子の生活、12弟子の生活ではありませんでした。 しかし立派な違法人の弟子として初めて使わせられたということが書いてあります。
繰り返しますが新しい違法人選挙の局面が開かれた とあるわけです
実はここ二十節
ちょっと難しいこと言うとペリコーペって言ってですね この一つの物語の大物語をですね当時ちゃんと
今で言う段落ごとに 意図があってちゃんとこう
丸子なら丸子は書いているんです。その締めが非常に大事な言葉なんですが さらりとですねこういうこと書いてありますよね
でもさらりと書いてありながらとっても大事なこと
違法人の地でイエス様の宮座が明かしされて多くの人が驚いたと そのことがさらりと書いたわけですね
このように繰り返しますがこのレギオンから救われた人は12弟子とは違った生活を送り 弟子の型に当てはまらないようないろんな意味で生活を送っていたと思います
で昼帰って私たちも当然神の民であってユダヤ人から見たら違法人ですね でもそして私たちは違法人としてこの教会に集っていますがそれぞれ違った歩みを
違った場所でしている一人一人だわけです けれども
12弟子とも違い一人一人も違った歩みをしているとはいえですね 私たちはイエス様にとって尊い弟子である
使わされた尊い存在であるということをもう一度思い越しましょう そしてこの男のようにですね私たちはイエス様の奇跡を体験した
程度の差があるかもしれませんでもイエス様の救いという素晴らしい奇跡を体験した その証として生かされているそのような存在であるということを今日改めて覚えていきたい
24:07
と思います
まあそのいろんな御言葉にありますけれども イエス様の弟子としたい私たちを後押しするような御言葉を最後に読んで終わりたいと思います
イザヤ書の60章の1節2節ですね
読んでいます起きよう光を放って あなたの光が来て主の栄光があなたの上に輝いているからだ
最後から読んでみましょうかみよからさんはいにを闇が地を覆い 暗闇が諸国の民を覆っている
しかしあなたの上には主が輝き その栄光があなたの上に現れる
イザヤ61からん しましょう
天の神様皆を賛美いたします マルコの福音書を通してイエス様の偉大さ
神の子救い主としての権威の偉大さがまた新しく 広く大きく明かされていることを覚えます
私たちの日々の生活の中で様々な出来事があり様々な問題に直面し 心揺さぶられることがあるかもしれません
また私たちはその中で 自分を小さく感じるかもしれませんが
あなたの救いを体験したものとしてあなたが私たちを 使わせてくださっていることを感謝いたします
どうぞ日々の歩みの中で 日曜の中で私たちがあなたの
尊い器として輝くことができますよいや輝いているそのあなたが 私たちを輝かしているというその事実に思い馳せながら歩んでいくことができるように
導いてください この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りしますアーメン それではしばらく見言葉に応えて1分ほど黙祷して祈りましょう
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