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農のかけ算ラジオ、道テラスの山浦です。このラジオでは、農業と様々なテーマ、漁業史等を組み合わせて、新しい視点やビジネスアイデアを垂れ流していく番組です。
はい、ということで今回のテーマなんですけども、農×障害、障害を取り上げさせていただきました。
今回もゲストをお招きしております。ゲストは、鳴島徹さんです。よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございます。鳴島さんはですね、実際今回のテーマにふさわしい身体障害をお持ちの方なんですけども、お前たまたまというか、共通の知り合いの場でですね、知り合いまして、一緒にお酒を飲んで、
さきびを煽ったという中なんですけども、じゃあまず、鳴島さんの方から自己紹介だけいただいてもいいですか。
はい、ありがとうございます。改めまして、山さん。山さんとお呼びしたらいいのか。
はい、山さんで大丈夫です。山さんなるさんで大丈夫です。
大丈夫ですか。山さんと呼ばせていただいているので、今日も山さんとお呼びさせていただきます。改めまして、パラアスリートの鳴島徹です。
簡単に自己紹介させていただきますと、生後3ヶ月でオリエル病という病気に診断されまして、右手と右足が約26センチごろ小さい、短いような病気です。
骨の変形や腫瘍が混ざった病気で、オリエル病、さらにマフィッチ症候群という今、病名がついております。
生後3ヶ月の頃に、おばあちゃんがこの子ちょっと右足が短いんじゃないのっていうことを気づいて、病院に行ったところオリエル病と診断されました。
そして骨延長という骨を延長して、現在でも26センチぐらい、手足が短いような状況です。
そして体育を見学したりして、そんな減体育を過ごしながら、今は働きながらパラスポーツなんかでも挑戦しております。
今日はよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
ということで、オリエル病という聞きなじみのない病気なんですけども、現状は仕事を普通にされているという状況なんですかね。
そうですね。JR東日本で鉄道の仕事をしております。
普段、JRでは車掌とかではなくて、内勤的なやつですか?
そうです。今は庶務みたいな仕事をしているんですけども、制服着ながら、駅の社員として約20年目を過ごしております。
すごい、そうなんですね。
ごめんなさい、改めてオリエル病についてなんですけども、
簡単に説明してもらったんですけども、とにかく聞きなじみもないし、先ほど言った何やら症候群もほぼ聞いたことないんですけども、
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実際、何が原因とかって分かってたりするんですか?
いい質問ありがとうございます。
この病気がですね、今指定難病になっていないというところがあります。
原因も不明で、日本の今までのオリエルさんという方が見つけて、それから日本の中で約1000人ぐらいしか症例がないそうです。
国内でも。
国内ですね、はい。
じゃあ原因も分からないし、生まれて気がついて、おばちゃんが気づいてくれて、何か短いよねっていうので分かったということなんですね。
なるほど、なるほど。
痛みが伴うとか、現状生活はどのようにされてるんですかね?
はい、そうですね。骨折をしやすいというのがあって、常に骨折しているというところがあるんですけれども、
そのため体育も見学をせざるを得なかったというのが現状かなと思っています。
なるほど、でも今パラアスリート。
そうですね、逆に大人になってからスポーツに挑戦し始めたので、体育とかスポーツは全然知らない日々を過ごしていたんですけれども、
やっぱりやり方を工夫して、最近ですとパラスポーツ、パラリンピックを目指してやってますけど、
その工夫することを学んでスポーツができるようになったというところがあります。
あれ、なるさん今おいくつでしたっけ?
今39歳です。
結構あれですか、パラスポーツの中では年齢って若い方がいい、若い人が多いっていうイメージですか?
パラスポーツの現状だと、これ個人的な見立てになっちゃうんですけど、高齢の人が多いという印象があります。
ボートでも平均年齢40とかだし、卓球なんかの世界だともう50、60なんていう選手もいるので、
結構高齢な方が多いようなイメージがあります。
日本が特にとかじゃなくて、世界的にってことですか?平均年齢が違う?高い?
それも競技において、競技の中だと競泳とか、有名なメジャーどころのスポーツは結構若い選手が増えてきてるんですけど、
世界的に見ても競泳とか陸上とか以外は結構年齢層高いのかなと。
単純に人気のパラスポーツになってくると、競技者自体も多いから、やっぱり若い人がどうしても勝ってきちゃって上がってくるみたいなのもあるんですかね?
これも個人的な感想というか判断ですけど、
障害がある人がスポーツをやるというのが結構ハードル高い。
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それはそうですよね。
ただでさえ日常生活を過ごすだけでも大変な方が多い中、
またさらにプラスアルファに何かをするっていうのは非常に苦労、大変なことなのかなと思う。
なので逆に僕自身の経験から言うと、
30歳になってから初めてパラ競泳、パラ水泳を挑戦できたんですけれど、
それもやっぱりある程度入社してから社会人経験を成長する中で、
ある程度挑戦する社会人として、
ある程度落ち着いた頃にできるようになったのかなというのがあります。
なので僕はたまたまいろんな人に支えてもらってパラスポーツ挑戦できてますけど、
多くの方はそれすらもできない現状があるのかなという。
なるほど。
というのは基本的に大変というのは障害を持っている時点でめちゃくちゃ大変というイメージがあるんですけど、
経済面とかも含め、気持ちもしくは生活面も含め、総合的に考えてということですか?
そうです。
なるほど。ありがとうございます。
そういった中でこうやってこういう表に出るような舞台で、声だけですけども現状は。
来ていただいて話を聞かせてもらうということなんですけども、
そもそもで言った時に障害者ってなんかいろんな角度があるなって思うんですけども、
障害者の定義って実際なるさんの障害者の立場からするとどういったものになるんですかね?
ありがとうございます。障害者の中だと大きく分けて3つあると思っています。
1つは死体不自由、もう1つは精神障害、そして知的障害と。
多くの枠組み、障害と呼ばれる枠組みの中ではこの3つの分類に分かれるんですけども、
その中では僕は死体不自由という分類にラベリングされるのかなと。
その3つの中でいうとやっぱり全然それぞれの考え方であったりとか、
社会福祉の体制みたいなのも全く別物になっているんですかね?
そうですね。全く僕自身は死体不自由な障害者であるんだけれども、
死体不自由のことしか分からない。
一般的に障害者って呼ばれるからみんな一括りにされがちなんだけれど、
一般の障害のことは要は分からないというところが現状なのかなと思います。
やっぱりこの、ごめんなさい、身体障害って言っていいですか?
死体不自由という言葉が聞きなじみがあまりなくて。
まあ、おなじみってことですよね。
確かにそうですね。
1つの枠として身体というか障害者って言われているけれども、
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身体と知的障害、あと精神障害というのは基本的に絡む機会がほぼないということですね。
そうですね。おっしゃる通りです。
僕自身も山梨県内の学校の中で、
知的障害とか精神障害の人とクラスにいなかったので、
1人特別支援の学級の子が1人小学校の頃いたという記憶が薄らあるんですけど、
いわゆる健常者の学校をずっと卒業したので、
その中では結構マイノリティーな中で過ごしてきたという。
そうか、だから別に勉強とか今は普通に働いたりこうやってしゃべれるように、
言い方は難しいけど頭というか、
そういう精神的なものだったり知的みたいなところっていうのは別に通常と変わらないので、
学校は普通の普通科にみんなと同じように行けたということですよね。
それもなんか親が、親の言い訳、
トールはその障害のある学校、特別支援とかそういった学校に行くという話もあったんだが、
それでも親が近所の学校に行かせてくれというのを積極的に言ってくれたみたいで、
小学校、近くの小学校に行くことになりました。
そうか、だから結局親の判断みたいなところもあるんですね。
学校側は極端にそういう人はいろいろ苦労が伴うかもしれないし、
やめてくれみたいなのもあったりするんですかね。
日本の小学校とか中学校とか。
今現在だと学校の中に特別支援の学級が併設されて、
さっきの知的障害とか精神障害の子が増えている現状があるので、
通常の学校の中にそういったクラスを同じように過ごしましょうというのが、
教育のセクターの中で推進をされているんですけれども、
僕が小学校だった頃、それこそ30年ぐらい前は全くそういうことがなかったので、
まあまあ多分親は苦労したんだろうなと思います。
逆になるさん自身が苦労したことってありますね。
小中高大まで行ってますよね、なるさんね。
そういう中で、単純に通学一つでも全然足が短かったり、
足が短いというところで言うと、同じようにはいけないじゃないですか。
逆に今はね、僕はあってるんであれですけども、
あれは義足って言っていいんですかね。
手は普通に使われてますけども、大変なところってどういうところでしたか。
ありがとうございます。
その通学とか、例えば日常生活を送る意味で言うと、
僕自身全く大変なことがなかったんですね。
それこそ山さんと会って、創具、義足を見てもらったんですけれど、
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それを履き始めたのが10年ぐらい前です。
それこそ30歳の頃にパラスポーツを始めてから履き始めたんです。
そんな最近なんですね。
中大半ばぐらいからとか小学校ぐらいから、逆にどうしてたの、車椅子?
山さん、会ってみると多分驚くかもしれないんですけど、
脚長差が26センチぐらい左右の脚長差がある中で、
脚長差のそのまま歩けるんですね。
ジャンプしたり走ったり。
できるんだ。
創具がない状態の方が楽というのがあります。
なるほど。
一般人から見たら、健常者から見たら変な動きになるけども、
本人からしたらそっちの方がよっぽど楽だったりするってことですか。
そうですね。まさにおっしゃる。
それは普通に車で来ましたもんね。
そうですね。全く制限なしで、免許も制限なしで。
あれ、右足ですよね。左足で全部やってる?
左足もやるし、右足もやるし、マニュアルも届きます。
届くんですね。
それこそ多分、教習所の時に届かなかったり、
マニュアルだからクラッチ入れたりする時に、
それがダメだったら多分教習所で何かしらアラートがかかったと。
そのまま通って、右足であったりしたら、何不自由なく。
じゃあ、逆に言えば、何でっつったら失礼なのかな、分かんないけど、
自足はやっぱりどういう意味合いがあるんですか、なるさんの中で。
いい質問、ありがとうございます。
家の中ではつけてないですよね、もちろん一人の時はね。
本当はつけたいんですけど、それもうよくくすさってですね、
いい質問ありがとうございます。
そもそも僕自身、障害を隠したいという人生を歩んできたんですね。
30歳になるまでパラスポーツを始めるまでずっと隠したいという人生を歩んできました。
でもそうは言っても、お前見えるじゃないか、
左右の脚調査が違えば、分かるじゃないかと思うかもしれないんですけど、
でも僕自身はずっと隠して生きている中で、
装具も履かずに、立っている時も何となく分かんないように立ったりしたんですね。
校長先生の話とか、集まる時あるじゃないですか、会議。
体育館で集まる時も、みんながずっと立っている中、片足立ちでずっと立っている。
片足立ち、はいはい。
ずっとやっていました。自転車はもちろん乗りますし、
とにかく隠したかった人生と。
いやでも普通に、青春期とか青年時代とか考えたら、そりゃそうだよなっていう気はしますけどね。
そうですね、特にかっこよさを求めるじゃないですか。
モテたいとかね、そういう気持ちがあったんで、隠してた人生があります。
一方で、30歳になってからパラスポーツを始めた時に、
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最初水泳から始めたんですけど、
その水泳で合宿が一緒になった女の子が、
まったく同じような、表面は違えど、同じような足の形をした女の子がいた。
20歳ぐらいの選手がいて。
で、その子と一緒になった時に、
その女の子がずっと履いてた人生を歩んできた。
でも一方で僕がずっと履いてない人生を歩んできた。
その子から言われたのは、何で履かないか分かりません。
逆に、何で履いてるか分かりません。
お互い全然反対の人生を歩んできたんですけど。
そこで言われたのは、やっぱりかっこよく、
装具を履いてもかっこいい女性の選手がいて、
僕もその後にずっと葛藤し続けて、何であの子が履いてるんだろうとか色々考えた結果、
やっぱりそんなかっこよさとか見た目とかよりはなくて、
本当に強くなりたいと。
泳ぎで一番早くなって、
それはそうですよね。
オリンピック選手だって左右対称であるからこそあんだけ早いわけで、
左右非対称だったら早くないと。
人間の構造はそうできてる。
だからそうすると、
オリンピック選手のように左右対称な方法を求めるためには、
やっぱり装具を履いて体を補正して、
しっかりと骨の形から変えていかなきゃいけないという思いがあって、
これはかっこよさ詰まるところ、
スポーツの速さを求める方がかっこいいのかなという思いになって履くようになりました。
そっから実際そのスポーツ履くようになって、
スポーツもやり始めて、
当然やっぱり気持ちの面でもだいぶ変わったってことですよね。
今だって前の飲み会、実際飲んでたんですけど、
4,5人で飲んでて、
ナルさんが一番テンションが高かったっていうね、
なんじゃこのオッサンみたいな。
手足の短いオッサンめちゃくちゃテンション高いわけみたいな感じで、
その時もそうやって絡んでましたけど。
なんかめちゃくちゃ今もいい意味で開き直ってるなっていうのが、
ここにこうやって話してくれるっていうのもそうなんですけど、
そこはやっぱりその女性とのことだったり、
おみそくをつけることで変わったのか、
またまた大きなきっかけがあったのかとか、
めちゃくちゃ気になりますね。
ありがとうございます。
そうですね、そのきっかけみたいなもので言うと、
明るさという意味ではもともと明るい性格だったのかなと思います。
それこそ16歳の頃にギター駅前で弾き語りやったり、
常に駅前でみんなで見られても、
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その時ももちろんソウが履いてなかったですし、
座った状態で見たり、
女の子が来たら片足立ちで立って、
性高いだろうみたいなことがあって。
そのぐらい人前でやることはすごい得意だし、
人を驚かせたかったですね。
隠したいって言いつつも全然、
16から見せてはいるっていうのが面白いですね。
そうですね、そこの部分にはある種、
体にはコミットしなくて、
かっこいい良さ、ギターが弾けるとか、
歌が上手いとか、そういったかっこよさ、
表面的な見た目とかの部分は隠しつつ、
やってたというのが現状。
今は体のパフォーマンスとか、
フィジカルとかっていう部分の強化というか、
本当に今でも来年2020年目指してますし、
2020年もずっと目指したし、
トレーニングするようになってから、
より明るく人に別に足のことは、
こうやってオープンに話せるようになったし、
体のことも含めてフルオープンになったというところ。
そういうなるさもいながらも、
若い子とか特に、
事故で足を失っている人とか、
一旦、今回は知的障害で精神障害を置いておきますけども、
開き直れない人たちっていうのは、
たくさんおられるんですかね。
そうですね、います。
実際に僕が精神障害とか知的障害とか、
関わる機会がなかったにせよ、
競技の中で関わることが増えてきて、
それでその人たちを知ろうと思った。
死体不自由の中でももちろん目の不自由な人もいたり、
耳の不自由な人もいるし、
全くその人のこともよく分かんなかった。
自分はさっき言うように隠してた人生だから、
自分は障害者じゃないという思いがあったんですけど、
今は逆に、
その人たちを知ろうという機会を増えて、
知ろうと思っています。
知れば知るほど奥が深いなと思うのが、
その人たちが挑戦をできない、
失敗すら許されない社会であるなというところに
気づくようになります。
ちょうどいい社会という言葉を出してもらったので、
この後聞こうかなと思ったんですけども、
日本社会の中で、
身体障害であったりとか、
知的障害、なるさんが分かる範囲でいいんですけども、
日本社会って世界と比べられるならば、
もしくは日本だけの視点でもいいんですけども、
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障害者にとってどういう社会なんですかね。
優しいのか厳しいのかよく分からないのか。
ラベリングされてお前障害者だろうという
ラベリングの中には入るんだけれど、
障害者であるんだけど、
他の障害は知らないというところを前提に置きつつ、
お話しさせてもらうと、
やっぱり日本の中で、
いろいろダイバーシティとか多様性とか、
いろいろな定義が生まれているんだが、
やっぱりそこにはオープンにできない人が
たくさんいるなと思っています。
挑戦すらできない社会であると思っています。
僕は本当に明るさというか正確に恵まれて、
山さんも知り合えたし、
いろんな人に知り合うことができているんだけど、
それができない障害者も、
ほぼほぼと言っていいほど、
教えてもらったら90%近く、
そんな挑戦できることができない、
挑戦することができない障害者だと思っていいと思います。
これはやっぱり精神面じゃなくて、
社会側の体制が整っていないみたいなところですか?
どっちもってことですか?
難しいのがその通りだと思います。
なぜならば、
障害者って定義するのは周囲であって、
周辺の環境の人たちがお前障害者だろって言うから、
その人は障害者になると。
でも逆に本人は障害者だと思わなかったら、
さっきの自分が幼少期の時に、
障害者だと思っていないように、
本人が障害者だと思っていないのに、
周りが勝手にラベリングするから、
障害者になってしまうという現実があるのかなと思います。
そこがちょっと僕も、
障害についてめちゃくちゃ考えたではないんですけども、
一応僕も介護をやった時期もあったり、
国際支援とかやっていて、
それこそカンボジアにいたんで、
足がないおじさんたちとかめちゃくちゃ見てきたんですよね。
その義足を作る専門家みたいな人とも喋ったりしていて、
なんかいろいろ考える時期はあったんですけど、
同じなんですよね、我々は別に。
会話が通じないとか、言語の話は置いといても、
同じって僕らが言っていいのかみたいなところであるとか、
同じっていうことは厳しさとかも同じになっちゃう。
でも僕はそれでいいんじゃないかって思ってる時期もあって、
今は逆に答えは出ないんですけど、
いいんじゃないかって思った時は、
障害を持ってる方と喧嘩してもいいだろうし、
殴り合いとかじゃないですけど、
譲ることが善だったりするのかなとか、
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前テレビで見た感じだったりすると、
優しさが邪魔すぎて鬱陶しいみたいなことを
障害者にした方もいたりして、
じゃあどうしたらいいねみたいな、
優しさが欲しい人も絶対いるだろうし、
優しさが邪魔だっていう人もいるだろうし、
例えば目が見えない人が、
展示って言うんですか?
展示で本みたいなの読んでて、
あるおばさんが目見えないのに読書して勉強しようとして
偉いみたいなことを言うんだけども、
本人はめちゃくちゃエロい小説読んでるみたいな話があったりして、
これどっか笑い話で聞いたと思うんですけども、
そういうことを見るとそっち側に考えが行っちゃうし、
でもじゃあ実際、社会を歩く中で
苦しそうにしてるというか、
生きにくそうにしてる障害者とかの方に会うと、
やっぱりサポートしなきゃいけないなって思うし、
そこっていうのは一律に答えがあるものではなくて、
人によっては全くバラバラっていうことなんですかね?
そうだと思います。
さっきの山さんの言うように、
同じ人間で考えるのであれば、
性格だっていろいろ違うし、そもそも人の顔だって違うし、
健常者の中でもいろいろな多様性があるというのがある。
でも一方で健常者の中においても、
多様性を認めないような風土っていろいろあると思っていて、
例えば仕事においてもロボットのような、
何も意思がなく働かざるを得ない人もいるだろうし、
好んで働く人だったらいいと思うんですけど、
ある種トップダウンで奴隷のように、
言葉を選ばずに奴隷のように働かざるを得ない社会環境もあるだろうし、
個人の意思とは反する社会であるのかなというのが現状なのかなと思います。
さらにその意味でいうと障害者って入ってくるので、
障害者と同棲したらいいねっていう感じになったら、
健常者も同じだよねと。
健常者っていろいろな性格の人いるんだから、
障害者っていろいろな性格の人もいるし、
さらにもともと困ってるんだから、
例えば足が、車椅子の方が階段登れよって言ったら、
麻痺してる人って登れないんだから、
それは助けるのは当たり前だよねと。
でも助けずにただ見てるだけっていうのは、
まりにも悲しすぎるじゃないかと。
人間として悲しすぎるし、困ってたら手差し伸べるよねと。
もし仮に困った時に、手差し伸べた時に、
いやいや、実は歩けるねとか、
そんなサポートいりませんとか、
いろいろ言われたら、それはその時はそういうもんだと思って。
健常者ってそうだし。
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泣いてる時に大丈夫って言ってほしい人もいるし、
何もほっといてほしい人もいるだろうし、
いろんな人がいるから、
だからその時にも、どっちを選択するかって言ったら、
人間としてはやっぱり助けてあげる。
あげるというか、おくがましいけど、
困ってたら何かサポート、手を差し伸べた方がいいのかなと。
そうですね。
実際それはもう障害だろうが何だろうが、
困ってたら差し伸べるべきだよねっていう人間の考えというか。
多分そういう意味で言うと、今聞いてて思ったのが、
多分我々健常者は、もしかしたら周りの目を気にしてるのかもしれないなと思ってしまって、
例えば僕が仲のいい車椅子の人と、
例えばですよ、街中でめちゃくちゃ喧嘩すると、
手の出し合いとかではないけども、
うなり合いをやった時に、多分どう考えても社会の上は僕を攻撃すると思うんだよ。
プラットに見れる人がどこまでいるかわかんないけど、
あいつ障害者の方になんちゅう言い回しをしてんねんみたいな。
でも僕と、例えばそれはなるさんだったとしたら、
いや、連れの喧嘩やからみたいな。
なんかそういうことが、多分僕がそうなるかっていうのはわかんないですけど、
社会にはある気がするなと思って、今ちょっと聞いてましたね。
そうですね、それで言うと、
一つアイディアは持っていて、
実際にマイノリティ側になってみた方がいいですね。
例えば車椅子の気持ちとか、車椅子の友人の気持ちとか、
車椅子の困った人の気持ちは、要はわからん。
周りの人の目が気になるとか、困ってますかって言いづらいとかって思ったかもしれないので、
1回車椅子に1週間なり1ヶ月なりずっと乗り続ける生活をしてみるといいですね。
足を使わないと。
そうですね、全く朝からずっと家の中から通勤から寝るときまで、
ずっと車椅子生活を1回やってみるといいですね。
多くの人はその場限りで体験みたいので終わっちゃって、
ちょっと大変だよねとかって周りで研修みたいなのがあるんだけれど、
実際その人たちのことを思うと、1週間なり1ヶ月なり生活をするっていうところが
1つポイントなのかなと。
でもハードル高いね、1週間。
そうでしょうね。
やってみないと本人の気持ちはわからないだろうし、
さっき山さんが海外の事例の疑測の話をしてくれたと思うんですけど、
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それもすごい大事なことかなと思っていて、
海外の人の疑測の多くは結構地雷で足が吹っ飛んじゃった人が多いと。
何パーセントかは数字はわかんないですけど、
地雷で足が吹っ飛んでしまった人がいるというのが現状で、
それで疑測すら買えない。
疑測って結構何十万もするから、疑測が買えなくて、
日本の疑測の立候補者さんが海外に行って、
疑測の安い、安価なものを提供するっていう現状があるんですけど、
その意味で言うと、地雷で足が障害を負ってしまった、
終わらざるを得なかったという時に、
その人の気持ちを考えると、
じゃあ何で戦争があったのかとか、
その地域はどうして紛争が起こってしまったんだろうとか、
なぜこの人は疑測にならざるを得なかった、
望んでもないのに、そうならえなかったという現状を、
歴史背景みたいなのを多分知ることになると思うんですね。
なので、本当にその人の気持ちを考えると、
実際にまた現地に行ってみようとか、
ということも考えるかもしれないし、
とにかくマイノリティ側に考えて行動するというところが、
きっかけになるのかなと思っています。