1. グッドモーニングボイス
  2. シロクロ思考の苦悩【GMV844】
2023-09-13 43:19

シロクロ思考の苦悩【GMV844】

クラインはどうして「いいおっぱい」と説明したか。

サマリー

9月29日の夜の19時から、金曜日の夜の19時から、山崎隆さんをお招きしています。タイトルは「トラケンナイト」です。これは、私立のアメリカの大学での教育についての苦悩から始まり、人生の極端な側面や部分的な判断について考える内容です。良いおっぱいと悪いおっぱいの存在が2極性の緊張を生み出し、自己責任とは異なるアプローチが必要とされることに気づきます。人々の思考は良い部分と悪い部分に分解されているわけではなく、それだけで構成されているわけでもありません。良いお母さんと悪いお母さんを一体化させるように自分自身を持っていけば、統合化されて苦しみから解放されることに気付かされます。

00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月13日水曜日の朝、7時36分です。
非常に良い季節というか、めっきり涼しくなったので、少なくとも朝は涼しいのですね。
これができるというか、どこでやっても大丈夫という感じで、今もいつもやってるところでやってます。
寒くなるとまたちょっとあれなんだけど、考えてみると寒いというのは良いのかもですね。
なぜなら寒くても、これをやるのに差し障りはないわけですよ。
暑いから限界を迎えてしまうといったことになるので、寒い分はなんとかなる感じかな。
トラケンナイト
もうずっと言ってますけど、9月29日の夜の19時から、金曜日の夜の19時から、山崎隆さんをお招きしてやります。
トラケンナイトというタイトルになっております。
トラケンってあれなんですよね。
定義があるんですよ。ライトニングトークするとか、いろいろあるわけですが、これはトラケンではない。
トラケンのナイト版、ミニナイト版みたいな。
ミニって言っても結構長いんだけど、しかもゲストとか呼んじゃうんですけどね。
だから来た深夜さんと一緒に一応やると言ったので、付けにはなっておりますね。
いわゆるではないんだけど、精神分析的な話を当然する予定でおります。
私ちょっとだけ前座的に30分くらい話して、それから対談的なものに入って、最後に質疑を取ると。
現地では食事がその時に入ると、そういった形にしています。
これ続けられるといいんですけどね。
でも最近あんまりこだわらなくてもいいかなみたいな、すぐ僕はそうなっちゃうんだけど。
この形にこだわらなくても、やれる形でやっていければいいかなというふうに思うようになってきたので。
おいおいまた様子を見ながら、ぜひこの29日はいらしていただけると幸いですけれども、やれる形でやっていこうと思っています。
クラインの経緯
今日なんですが、先日いろいろ…。
久しぶりに、最近対象関係の本をまた読み直していて、何週目ぐらいで読み直してるんですけど。
久しぶりにずっと喋ってきたことのベーシックなベーシックなところをもう1回喋り直してみようかなと思いまして。
例のクライン。もう聞き飽きてると思うんですけど。
良いおっぱい、悪いおっぱいの話ね。
この話は僕はですね、すごくやっぱり大事だと思ってるんですよ。
神話みたいな物語ですよ。おとぎ話みたいなもんですね。
別にこれシンデレラで代用しても、白雪姫で代用してもいいような気もするんだけど。
クラインの経緯を込めてというか、やっぱり学術というのはよく考えられていてですね。
童話もよく考えられてますけど、学術的なところのお話の持つ意味みたいなのを改めて考えていきたいと思って、今日お話しします。
もともと僕の頭にはDSMというですね、今5なのかな?第5番なのかな?改定されているんですけど。
言ってみれば、診断基準書マニュアル。DSMのMはマニュアルのMなんで。
いわゆるスタンダードですね。国際保険機構みたいなところが別に出しているそういうマニュアル版なんですけど。
よく似てます。よく似てるってことはよくできてるってことだとは思うんですけどね。
でも同じような人が関わってるんじゃないかなみたいな、結局そこには教育って問題が差し込まれてきてますからね。
とにかく一つの文化的なものの価値観ってそこに入ってきちゃいますよね。
精神障害と言ったら、何か細菌がありますとかではないですから、心の障害なので、その人の心がなぜ病んでるって言えるのかってやっぱり多少でも文化が決めちゃうじゃないですか。
その家、その国、その国の、あるいは民族のとか、これは病気だとかこれは病気じゃないとか、というのがどうしたってそこは入ってきちゃうじゃないですか。
国によってはね、子供に教育させるのは罪だっていう発想を取ってるわけですから、少なくとも思想によってはですね。
だから何が病気で何が健康かっていうのはどうしても文化が決めてしまうところはあるので、一見したところものすごく科学的に見えるDSMだってですね、
アメリカ文化の影響は諸に受けているに違いはないわ。
中でも私たちにパッと見で分かりにくいのが、原因はさっぱり問われないっていう独特のものの見方なんですよ。
原因を問わないのにトラウマっていうのってなんかすごい不思議だなと最初に読んだ時も思ったんですけど、
トラウマって何かの原因っていう意味に限りなく等しいような気もしますからね。
でも原因を問えないというのは、つまりすごくある意味謙虚なんですよ。
言ってみれば。
分からないんですよね、本当のことは分からないっていうあれですね。
なぜその人がうつになるのか、分かるようで分かんない。
それを徹底的に割と、統計的になんだけどアメリカだし、統計的に徹底的につぶさに研究していくと、
よく分かんないって結論を出しといた方が、分かると考えるよりはマシだっていうような結論に至ったみたいなんですね、どうもね。
私はそういうような経緯を一応習ったわけですね、アメリカで。
アメリカでのことなんで、その偏見の中でその偏見について学ぶみたいなところもあるわけですよ。
外国人として言ってみると分かるんですよむしろ、感じるものがある。
多分アメリカ人にとってはやや常識的なところが、僕なんかで強いので、そこに偏見がかなり含まれているなどとは感じられないと思う。
感じにくいと思う。
頭のいい人とか、感のいい人は当然ここに偏見が入ってるだろうなと、そういうふうな言い方をちゃんとする人もいますしね、いっぱい。
でもやっぱり感じ取りにくいところはあると思うんですよ。
他の文化からいくと、どうしたって出てるよねっていうのはあるじゃないですか。
そういうことっていうのはあります。
例えばうつでもそうですけど、基準だけがあるわけですね。
2つ大事なポイントが、特に僕らのように、ただ黙って専門家として見るっていうのではなくて、
普通の人としてそれを見た場合、2つ大事なポイントがあって、
1つは、それによって社会生活、日常生活に差し障りがあること。
なければ診断基準をどれほどバッチリ完全に満たしていたとしても、病気とは見出しません。
この辺もすごくだから、抑制が効いてて偉いなって僕は思ったんですよ。
明らかにうつでも、本人がそれで困ってなければ、それはもういいんです。
病気ではないことに。
今の第5班がどうなっているかっていうのは、私、詳しくチェックしてないんですけれども、
僕が知ってるのは4班までなんですが、少なくとも4班まではそのことはちゃんと歌われていたというか、
少なくとも私はそういう点はすごく強調された記憶があります。
複数の先生からですね。心理学の先生から。
でも、これは所詮は言葉遊び的なところもありまして、
明らかにどう考えても妄想状態がすごくて、社会的に何も困ってないっていうのはおかしくないっていうか、
そんなことはあんまりないから、その辺はよくできているといえばよくできているわけですね。
例えば、恐怖症とかそうじゃないですか。
本人がそれで困ってないならいいんだよっていうのはその通りなんだけど、
例えば高所恐怖症ですと、アメリカで生活しているわけですから、高いところはいっぱいあるわけですよ。
学校だって高いしね。
で、いけません。5階以上はいけませんってなったら困るじゃないですか。
小学校だって高いところはいっぱいあるわけですからね。
DSMとうつ
で、飛行機乗らないとちょっとやそっとのところにはたどり着けないわけですよ。
ロサンゼルスからニューヨークに行くのに電車だとか、何線先の極みみたいになってくるのに、
高所恐怖症で飛行機乗れないんですよっていうのは困らないかっていうと、
大して困るとは思うんですよね。
その困り度は日本よりも遥かに回避しにくいものを感じるんで、やっぱり困るだろうなとは思うんですよね。
一時が万事そういうところはありますね。
だからDSMというのはですね、よくできていまして、
それによって困ってるかどうかということと、
10から15項目、対し10、20項目ぐらいある項目の何項目がその人に当てはまるかっていうので診断するわけです。
例えば3ヶ月以内に、3ヶ月以上続く欲打つ状態とか、
繰り返し発生する起死年齢とか、朝起きられないとかね、そういう項目を一つ一つチェック。
つまりこれは、打つという症状が、打つという診断をするためには、
これらの状態がやっぱり統計的に明らかに多く見られる状態だというのを、
AI的ですよね、発想として観察してきているので、
なぜその人が打つになったかということよりも、
どういう状態かで打つを診断すると。
理にかなってるんですよ、すごく。
ただ、普通の人にとっては、それで自分普通なんだな、では終わらないんですよね。
だって困ってるんだから。
だからこれで終わるってはずはないので、そこから先どうするんだということになったときに、
こうやって症状を科学的に見てそれを診断するというのは大変結構なんですけど、
でもなぜなったのかわかりません。
養育歴とかそれこそ人間関係とか、そこに原因があるのかもしれないですよ、もちろんね。
でもあるんだかないんだかわかんないってなったら、
良いことではいじれない意味になりますよね。
学校に通っていて打つになったんだけどなって言っても、
いやそれは本当のことはわからないからってことになると、
学校変えるわけにもいかない。
だってそれが原因かどうかわかんないのに学校変えるっていうのはおかしな話だし、
学校を休むっていうのも、休んでももちろん休むっていう選択は取られるんだけど、
休むってことは結局学校が原因、少なくとも要因の重要なファクターを握ってますってことを言ってるようなもんだけど、
そこを明らかにするっていうのはアプローチとしてそういう要因ではなくなってるわけですよ。
すると特にですね、うつというのは脳の病気ですってことになってくると、
じゃあ脳を何とかしましょう。
つまり外的要因に違いはないんだけど、
体というのはある種の、心にとっては外的な要因ですから、
外的要因に違いはないんだけど、
それは人間関係とか家族関係とか、
会社だ、学校だ、昔の育てられ方だ、考え方だってところ、
つまり自分の外にあるとは見なさなくて、
自分の体にあると見なした場合、
体をいじりますよね。
ここで脳外科、内心、精神、抗精神薬という発想が出てくるわけですよ。
これがアメリカらしさだと、
そういう意味では20世紀後半らしさだと言ってもいいと思うんですよね。
西欧的合理主義って言ってもいいと思います。
僕ら日本人も大筋ここに乗っかってると思うんですよ。
つまりそれで治るならそれに越したことはないわけですよ。
家族構成変えない、会社も学校も変えない、
今までと同じ生活をする代わりに薬を入れる。
つまりそれは脳に責任があるって言ってるんですよね、ある意味では。
これが非常に僕はDSMの考え方には強力に反映してるとやっぱり思う。
そうは言わないですよ、はっきり言って。
僕は習った先生は誰一人としてこのまんまの言い方はしませんでした。
だからこれは僕の偏見です。
でも僕というアジア人かというか日本人がアメリカに渡ってって
アメリカのこの授業を受けるとね、この印象を強烈に受けるんですよ。
それこそアメリカだからいっぱいアジア人もいます、そこには。
留学生もいますし、アジア系のアメリカ人も、日系のアメリカ人も。
もちろん白人も黒人もみんないますが、いわゆるダイバーシティな世界ですが、
結構先生は白人です、はっきり言って。
白人のおじいちゃんです、なんかフロイトの真似したような人。
しょっちゅう出てきます。
もちろん心理学科には女性の方が多いぐらいだから、女性の先生もいますが、
がいして白人でしたね、私の行った学校では。
が、この話をダイバーシティ的に伝えてくるんだけど、
やっぱり僕にはすごくある種アメリカンなものは感じました。
偏見かもしれないけどね、それは。
でも感じないっていうわけにはいかないものがあったんですよね。
アメリカの大学での教育と苦悩
日本の教育だったらこういう感じにはなんないだろうなっていうものが、
そこを言語化するのは非常にややこしいですけど、なくはなく。
僕行ったところは別に、全然アッパークラスのとかではないし、
すごく普通の、僕でも入れるような、ある意味田舎のですね、
アメリカの学校の非常に中堅的な大学。
田舎の、そうだな、日本でいうところの中都市ですよね。
地方の中小都市。
そういうところで、ニューヨークで、
僕の英語も言われたんですけど黙ってると言われてしまうような、
中西部の田舎の町の大学。
そんな感じですね。
ある意味すごくスタンダードだったかなという気はするんですね。
そこではやっぱり薬理。
さすがに脳いじるって言っても、
外科ってなってくるとありますよ、はっきりあるんだけど、
あんまりやらないですよ。
うつだからじゃあ脳外科手術しましょうみたいな。
脳外科手術ってあれですね、
メスで切り開いてうんぬんではなくて、
メス使わなくはないんだろうけど、
レーザーを当ててある部分を消してしまうんですよね。
これはものすごくやばい感じもしなくもないんだけど、
そんなこともなくて、ほんのちょっといじるみたいな感じで、
ある種の病気はすごく改善率がいいみたいな話もなくはないんですよ。
私は受けたい人は思いませんけどね。
だからその辺が僕が科学的でないのか、
あるいはやっぱりあっちが行き過ぎてるのか、
もうその辺は分かんないところもあるんですよ、はっきり言って。
でもありますよね。
多分平均的に日本人だと抵抗が強いかなというのはちょっとなくはないです。
そこが文化ってもんだとやっぱ思うんですよ。
で、この話を踏まえて考えると、
今の話はものすごくざっくりだし、
いやいやそんなん全然今違うからって言われるとそうかもしれないんだけど、
僕の体験とインプレッションですよ。
印象としてこうだ。
これを踏まえると、
あのフロイトのあるいはグラインの対照関係論的な話って、
大アナログで生々しくて、
ある意味全近代的な感じがしますよね。
するんだけど、ある大事なことを一つ確実に言ってると思うんですよ。
つまり、無理してるかもしれないし、
おとぎ話チックなんだけど、
でも原因について言及してるじゃないですか。
いいおっぱいがありましたと。
子供にとってですね、赤ちゃんですよ赤ちゃん。
いいおっぱい吸ってたら元気です。ニコニコしてます。
つまり軽くそう状態です。
なんですよ。
おっぱいと私一体化みたいな感じ、あるじゃないですか。
ちっちゃい頃だと。大きくなってもあると思うんですよ。
良いと悪いの部分的な判断
自分すごく心地よく寝てるとき、布団と私一体化みたいなの。
あるじゃないですか。
その感覚に境界線が曖昧だと。
で、すごく調子いい感じがすると。
自分はこう生きてていい感じがすると。
そういう幸せいっぱいな多幸感とかって言うんですけどね。
いう状態がありましたと。
とにかく生まれてきたとき。ないと困るじゃないですか。
これがあまり簡単に得られないんだよって話も今あるんだけど。
とにかくあったとしましょう。
いいおっぱいだ。いいおっぱいといい私。
そういう概念が存在する以前の赤い。
その時の幸せいっぱいな感じ。
愛情いっぱいでもいいですけど。
そういう感じですよ。
に、同じことをやろうとしてるんだけど、
例えばおっぱいお母さんくれないとかね。
そもそもお母さんその時いなかったとか。
いいおっぱいがあるがゆえに、あったがゆえにかな。
悪いおっぱいが出てくるわけですよ。そこに。
人間の、これは成長過程ですよね。
あれあったはずだっていうのがどっかにないと。
その観念自体ないですから。
もちろん悪いおっぱいというのは名称であって、
そんな風に赤ちゃんは思わないけど。
でもここでもなるべく言葉が赤ちゃん寄りになってるじゃないですか。
悪いおっぱいってめちゃくちゃ子供っぽいじゃないですか。
さっきのDSMにおける診断基準で脳に投薬するとか。
全然そこから見るとですね。
子供っぽくてアナログチックな世界じゃないですか。
これの印象、インパクトが大事だと。
だからこれをいい母親とかって言ってもいいんでしょうけど。
やっぱりいいおっぱいって言っておくんですよ。
悪い良いおっぱいと悪いおっぱいがありますと。
これが肩や軽僧状態ならば、肩や欲打つ状態につながるわけですよ。
赤ちゃんとしてはね。
この苦しい時にあの良いおっぱいがない。
ダメだっていうね。そういうことですよ。
もうなんかこう、不滅だみたいな。
不滅っていう言葉もないでしょうけど。
だからバラバラになるとかっていう表現を取ってるんですよ。精神分析では。
バラバラになるってよく言うんだけど。
このバラバラがどうもわけわかんない言葉だとよく思うんですけれども。
漫画で主人公がひどい目にあってコマごとチリジリになってる。
ああいう感じかなって思うんですよね。
イデンティティと肉体が一体化してもろとも崩壊していく。
ついでに世界も一緒に。漫画のコマですから。
コマごと崩壊しているあの辺もやっぱり絵ですよね。
漫画家の技術だと思うんですよね。
ああいう感じ。だからかたや素晴らしく理想的で心地いい生命の世界と。
かたやひどい目にあって自分が崩壊していく生命の世界と。
その両極がある。
だから二極っていう意味でバイポールなんですよね。
双極の世界がある。
で、これが僕らの人生に一つの大きな加減を落とすんですよ。
あのそうだな有名私立中学にしておきましょうか。
昨日もそんな話しましたしね。
昨日じゃないおとといか。
入りましたと。多好感でいっぱいです。
いい学校に入りましたと。いい学校って言うじゃないですか。
偏差値70とかね。
いい学校に入りましたと。
人生祝福されてる感じがしますよね。
すごい苦労して入れば。
その余裕で入っちゃったよって人はそうでもないかもしれないけど。
僕みたいに偏差値が黙ってると59ぐらいの人間が71とかに入れば。
多好感も持たない方が変じゃないですか。むしろ。
で、でですね。
で、このいい学校に入ったということは。
そしてそこで相乗体を得たということはですね。
これで人生いけるぜみたいな感じになったということは。
当然その同じ学校が悪い学校になるじゃないですか。
すぐなるよね。
僕なんかすぐなりました。
いや朝つらいわみたいな。
朝6時にもっと前でね。
起きて学校行くと。
しかも夜とか冬とか真っ暗なのに。
学校に行こうとするとなんとその電車は満員だわけですよ。
みんなこんな朝っ端から起きてこんなにね。
目ちばしらせて。
さらに混んでる都内とかに真っ暗にかけて。
これが6年も続くと中古一貫ですからね。
もうほんと絶望的ですね。
いい学校は悪い学校なんですよ。
いいおっぱいが悪いおっぱいであったようにですね。
これはいいから悪くなるわけですよ。
だってよくなきゃいかなきゃいいじゃないですか。
もうダメだ。行くのやめようと。
地元の学校に行けばそもそも電車に乗らなくていいし、
あと1時間半多く寝てられるしね。
本当に事実その通りですからね。
そしてそうして良くなかったかというと、
僕は多分そうしておくべきだったんですけどね。
もっと近い学校に行けばいいじゃないですか。
私立に行くんだとしたら。
いい学校に行ったから、
その悪い学校の悪さが際立つんですよ。
ついでに、
本当は有名私立とかじゃなくて
会社でやっぱり行いたかったんで、会社で行っちゃいますけど、
いやもうすごい給料くれるんですよ。
給料のことを考えただけでもワクワクするよねっていう給料。
いい会社ですよね。
プリ構成もバッチリだし。
でもめっちゃブラックなんですよ。
家にめったに帰れなくなるし、
上司はなんか容赦ないこと言うし、
とんでもないんですよ。
悪い会社なわけですよ。
部分的な判断と三高の概念
その会社は同じ会社じゃないですか。
めっちゃ給料くれる会社と、
めっちゃひどいことをしてくる会社は同じ会社ですよね。
で、やっぱり早朝起きなきゃならないじゃないですか。
昨日はやっと家に帰ってきたと思ったら、
もう会社だよっていうような悪い会社じゃない。
これは同じものの、
同じ体験のはずなのに、
良いおっぱいのはずなのに、悪いおっぱいなんですよ。
で、この時に、
例えばなんですけど、
おっぱいっていう表現は何で取られているのか。
部分だからですよね。
お母さんの全体ではないですよ。
ほんの一部ですよね。ほんの一部。
良い給料をくれるってほんの一部ですよね。
良い有名な偏差値の高い学校。
偏差値ってその学校のほんの一部ですよね。
この部分対象の部分を示せているっていうのが、
すっごい大事ですよね。
さっきの、ちょっとまた思い出してほしいんですけど、
DSMの診断基準で朝起きられません。
欲打つです。
3ヶ月以上続いています。
これは診断基準です。
ここには全然言われないいくつかの確実に打つ状態、
あるいは相打つ的な人の心境の中にあるもの。
それは世界を分断しているってことです。
分断がはっきり現れてますよね。
同じものを良いものと悪いものに分ける。
良い面と悪い面とか、
一部良い部分と悪い部分とか、
良い解釈と悪い解釈とか、
いろんな言い方ができるでしょうけど、
その人、体験として全く同じものの異なる側面を
強烈に体験しているという意味で、
良し悪しという部分がクローズアップされるんですよ。
極ですよね。バインポールの極ですね。
極端に良いところと極端に悪いところ。
極悪な部分と、極善とは言わないけどね。
極端に価値が高いところと極端に価値が低いところの
ランスが、それはどちらも一部なんですよ。
全体の一部。
会社の一部だし、給料って会社の一部じゃないですか。
つまり属性ってそういうものですよね。
他の会社にも給料良いところはありますよね。
他のお母さんにも良いおっぱいはありますよね。
みたいな言い方になっちゃいますけど、
一部っていう観念をその人が強く意識している状態を、
状態が層極という状態に、層移っていう心理状態には
多分付きものなんですよ。
このことをクラインの理論は、
生々しく表現できているところが、
私は価値だと思うんですよね。
良い偏差値の学校いっぱいあるじゃないですか。
学校は偏差値だけでは表現できないですよね。
なぜならそれは部分だから。
でも僕らの人間の思考っていうのは、
物事を部分で判断したがるんですよ。
だいぶ古い言葉になりますけど、
昔、今でもあると思うんですけどね、
三高ってあったわけですよ。
高身長、高学歴、高収入。
高収入と高学歴ってなんか、
ややミッシーじゃねえなって思うんですけど、
まあいいとして、
僕のように背は高くないわ、年収は低いわ、
学歴だけは、
どこかが手に入れてきたようなのだけはやや高いけど、
こういうのは相手にされないわけですよ。
だから三高というのは、しかし部分ですよね。
男を身長と収入と学歴で測ってるわけですよ。
しかし人間ってそうするんですよ。
2極性と分裂
本日だか先日の夜だかに発表になったiPhone16は、
スペックで測られるじゃないですか。
15か、15ですね、すみません。
スペックで測られる、スペックって部分ですよね。
その存在そのものではないですよね。
一部切り出したものですね。
で、これと相打つは深い関係があるってことを、
グラインの理論、いいおっぱい悪いおっぱいってのは、
そこをはっきり言えてるんです。
お母さんの一部だ。
そこを分断してる。
いいものと悪いもの、スピリットしてる。
スプリットしてるわけですよ。
分けてるわけ。
そして分けたものに自分を、
自分は分けたものに注意を集中している。
だから分かれているものの一部に、
あまりにも向き合っちゃいすぎていて、
それが全体の一部だってことを、
もううっかり忘れそうになってるわけですね。
高収入だからこの会社に行ってる。
高い偏差値だからこの学校がいいんだってことにしていて、
でも、つらいわけですよ。
同じ学校が、最悪なんですよね。
学生は意地悪だし、いじめにも合うし、
朝めっちゃ早いし、
行くのが大変だし、
そもそも偏差値が高いから、
勉強についていけないと。
悪いんですよ。
すごく悪い。
すごくいいことがすごく悪いことになってしまう。
で、でですね。
このよしよしを作り出しているのは何なんだ?
っていうことを考え始めると、
赤ちゃんは考えられないから、
ここを妄想分裂と言うんですけど、
分裂してみて、
お母さんとおっぱいだと思ってるのは妄想ですからね。
つまり部分が全体を表しているというのは妄想なんで。
良い偏差値の学校を出ておけば、
人生が素晴らしくなるというのは妄想なんで。
そういう妄想にとらわれるんですよ。
で、妄想には分裂がつきものだ、
っていうことが表現されているんです。
急に調子が良くなったり悪くなったりする、
その状態が続く、
送局性障害みたいなだけでは、
分かんないことがここから見えてくるじゃないですか。
もちろんおとぎ話みたいな話ですけどね。
でも見えてくる感じがするんですよ、
私なんかからすると。
少なくともDSMの基準よりは似たような、
例えばウォーダーと送局はすごく似たような基準が見えるんだけれども、
ウォーダーと送局は全然ただ違う名前がついてるっていうのとは違って、
その関連性がこの良いおっぱいと悪いおっぱいから、
分かってくることがあるわけですよね。
すっごく僕らの人生ではこれをやるんですよ。
多好感と脱価値化って言うんだろうけどね。
理想化と脱価値化。
一番これを誰にやるかって、
例えば恋人とかにやるじゃないですか。
良い彼女、悪い彼女。
明らかにいるわけですよ。
その人に二面性があるっていう言い方すらするじゃないですか。
その人の二面性を作ってるのは誰だっていうと、
私ですってことになっちゃうわけですよ。
あなた学校好きで行ったんでしょうってことですよね。
あなたその学校にあんなに努力して行ったじゃないですか。
って言われちゃうわけですよ、親にね。
あなたやっと頑張ってその高収入の会社に入ったんじゃないですかって言われちゃうわけですよ。
だから辛くなるわけですよね。
せっかく偏差値70もの学校に入ったんだから、
例えば解禁症取ろうみたいになっちゃうわけですよ、人。
この解禁症は不登校と紙一重だと僕は思うんですよね。
あんなにもう辛くて辛くてしょうがなくて、
学校行っても何授業やってるのかわかんなくて、
カバンの中から物なくなって、
体はいつも調子が悪くて、お腹もいつも痛くて、
微熱もいつもあるけど解禁症みたいなので、
もう不登校一歩手前感があるじゃないですか。
この分裂っていうもの、
すっごくその学校から受けてる独特の緊張状態、
2極に触れてますから、
すごく良いって方や思ってて、すごくひどいって方や思ってるから、
この間に緊張感があるわけですよ。
この緊張感ってどこから来るって言ったら自分の心が作り出してるものですよね。
間違いないですよね。
だって今だったら私、
その偏差値が高い学校、良いって感じませんから。
そして行かないで済むなら悪いってことさら思う理由もないわけですよ。
自分がこの学校に入ったから原因は自分にあるんですよ。
ってことに気づく。
つまり良いおっぱいと悪いおっぱいがある。
だからこの悪いおっぱいは噛みちぎろうって噛みちぎると、
良いおっぱいも失っちゃう。
そのことがとても恐ろしいってところから、
そう打つは今度は欲打つになっていく感じがありますよね。
その前に怒りがあるけど、
良い恋人と思ってすっごいアプローチしてやっと付き合ってもらったら、
わぁ、すっごい酷かったわ。みたいな。
不機に後悔するでしょ。
なんでこの人こんな酷い人なんだろう。
でも付き合おうって言ったのは俺だったっけ。
っていうことになった時に、
人は欲打つ的になっていくじゃないですか。
あ、俺って見る目ないわ。みたいなね。
自分を責め始めるわけですよね。
自分無理してこの学校入ったなぁと、
バカだったなぁみたいになると、
もうすでにすっごく鬱々としてきてますよね。
こうしてそう打つ、そう曲が、そう打つが、
欲打つっていう流れと、
こう、なんていうんですかね。
展開し始めるというのか、
なんかこう、低迷し始めるというのか、
渦に沸き込まれていくというのか、
そんな感じがありますよね。
これ今は全部子供の話として喋ってるんですよ。
僕らはこれを社会人として一番体験することになると思うんですよね。
一つは家庭で、一つは会社でだと思うんですけどね。
高収入の会社に入ったけどブラックでした。どうしようと。
今更ここ辞められないよね。
って時に僕らは非常に欲打つ的になりますよね。
人生って何なんだろうみたいになるじゃないですか。
一歩間違えばね。
この状態についての記述がDSMにあるんですよね。
でも記述だけあっても困るんですよ。
僕としては、僕としては。
だからここでどうアプローチとるべきかって時に、
いや、僕年収1000万近い会社に入って、
もう家のローム組んじゃいましたから。
でも毎日毎日会社に行くとパソコンが立ち上がらなくて、
花瓶の水がこぼれていて、
別に花瓶は入ってるんですよみたいな。
そういうことじゃないと思うんですけどね。
とりあえずそういうことだとして。
でもこの会社に1000万くれるんですけど、
最近ボーナスは現物支給になったんですよ。
どうしましょうって言った時にですよ。
診断基準チェックを入れてみて。
これは偏見ですよ。そうじゃないけども。
診断基準チェック入れてみて。
分かった。ちょっと脳にレーザー当ててみよう。
受け入れられなくないっていうことなんですよ。
僕としてはちょっと受け入れがたい。
ちょっとって言うから受け入れないだろうなと。
じゃあ抗鬱剤を飲んでしばらく頑張ってみましょうみたいな。
受け入れがたいじゃないですか。
受け入れるかもしれないですけどね。
私に責任があるっていうのと、私の脳をいじるってこと。
この場合全く意味が違ってくるような気がするんですよね。
抗生鎮薬を飲んで、私立校頑張って通ってみようか。
解禁症を目指そうみたいな。
おかしいだろうって感じがちょっとするわけですよね。
アプローチの選択
でも診断基準だけがあり、原因を問わず、
経緯について特にいじらないということになると、
こういうことになるだろうなと。
悪意はそこになくてもですね。
だから私は良いおっぱい、悪いおっぱいっていうのは
アプローチとして大事だなと。
あなたはまず部分を見ていませんかと。
2つのものは同じなのに、
それがそんなに緊張を生むほどの葛藤を生むような
極に分かれたものに見えるのは
あなたの心のせいではないでしょうかっていうアプローチは
僕はやっぱり真っ当な感じがするんですよね。
間違いなくこれは自分が作り出してるものなんですよ。
だからそれは自己責任っていうのとは違うと思うんですよね。
自己責任って話になるとむしろ、
投薬脳で脳をちょっとコントロールして、
それも無意味ではないと思うんだけど、
セロトニンに揺さぶりをかけてみようみたいなのは
それでうまくいくってことがあるかもしれないし、
あればそれでいいんですよ、別に。
ESMは正しいんですよ、そういう点で言えば。
困ってなければそれでいいんですよ。
この会社がどれほどやってることが
むちゃくちゃな感じがしたって、
別にそれで言ってる人が困ってないのに
余計なこと言うところではないと思うんですよね。
困ってるから考えるわけですよね。
で、どうして困るのかというと、
2極を、2極というものをそこに体験しているからなんですよ。
同じものなのに2極を体験しているから。
そしてその2極の責任を自分が持ってるってことに
気づいてしまったから。
ここから進むべきなのは、
僕の場合はGood Vibesが
一つの大きな会になったってことなんですね。
ここで自分に、
歴史的なアプローチ、プロセスとして
そこを選んだのは自分だと。
でもここで、私が悪いって考える必要はないんだ
っていうのがまず第一ですね。
私が悪いと考えなければ、
私はもうちょっといろんなアプローチについて
検討する力が湧いてくる。
そこでつまり、この2極を見てしまっている
2極の体験で多差をしている。
そのうち時々、自分に責任があると思っては
抑鬱状態になるって、この行ったり来たりをしている状態は
何かを判断するにも
花々は向かない状態なんだってことにまず気づくって話なんですよね。
多分、僕はそれは精神分析だけではなくて
ほぼ全てのカウンセリングで結局やることは
そういう話になっていくと思います。
つまり、良いおっぱいと悪いおっぱいは
同じでしたと。
その悪い方に食ってかかって
会社を飛び出すわけにはいかないと思って
抑鬱状態になるのは正常ですけど
ここで一つ冷静になってですね
どこかに悪者がいるわけじゃないと。
悪いのは会社なんだろうか、自分なんだろうか
この思考に入りやすいんだけど
だからヘッドワイブスでいうところの
財布感を持たない、持たせないという考え方が出てくるんです。
これと全く同じ考え方を僕は精神分析で
抑鬱ポジションのワークスルー
取っている気がするんですね。
抑鬱ポジションのワークスルーっていうのは
結局そういうような話になっていくと思うんですよ。
ここでものすごく強い抑鬱。
俺が本当にバカだったんだって思っても
解決しないじゃないですか。
そういうアプローチをカウンセリングで取らないと思うんですよね。
あなたが本当に悪かったんだから反省しなさいみたいな
聞いたことないからそういうアプローチを取るカウンセラー
みたいな話がいいですっていうのはね
そういうことを言う人はいるかもしれないけど
いいとはとても思えないので
いいですって言われてない気がしますから
だからそういうところに観点がいったところでですね
いい会社だって、いいと思ったのは自分であって
思考の分解と統合
そういう判断が正しくはないのかもしれないけど
別にそこで間違ったことが悪いわけじゃない
っていう風に考えることができて
これってごく常識的な話ですよね。
だから戸畑さんは普通の相談って言ったんだと思うんですけど
これは普通の話ですよね、ある日。
ここまで来た時にでも結構難しいんですよ。
そのPSとDを行ったり来たりする心理状態に
ハマってしまうとですね
この会社はもう絶対辞められない
でもこの会社に行き続けると絶対自分は崩壊する
だから全部自分が悪いんですと言って
何かにものすごく怒ってるってこの心理状態は
割合ありきたりなものなんですよ。
辞めればいいじゃんというのもそう簡単ではないってことですよね。
ここまで来た時に
でもどっちかが悪いっていう観点を
捨てることができれば
つまり元々その良し悪しを作り出したのは自分だってことに
思い至ればですね
そもそもその良し悪しを作るのをやめてしまえば
まずそれだけで
割と解決というものの光というんですかね
がすんなり見えることがあるわけです。
会社が悪いんじゃないか確実に
っていう理屈に割とこだわるんですよ。
あるいはそんな悪い会社を選んでしまったら
自分に見る目がなくて
こんな自分であるからには
どこ行ってもうまくいかないに違いないみたいな
そういう観点にはまり込みやすいんですね。
それは良いおっぱいと悪いおっぱいで
右往左往している赤ちゃんと
ほとんど変わらない状態になってます。
でもあなたは赤ちゃんじゃないから
それよりははるかに大人の判断をする能力を
持っていければ
自分で持っていくんですけど
自分で持っていかれれば
いわゆる欲打つポジションが
歴史的ポジションというのかな
同じポジションなんですけど
もう少しDのままこらえるという状態を
維持できるそういう精神的な
なんだかんだ言ってそれは結局
強さというものが得られるんではないかと
そうすると良いものと悪いものは
実は同じものだったし
その良い悪い言っていたのは一部だったから
全体として見ると
つまり現実的なものなんだなという
発見に至ることができますよね
という話なんだと思う。
私はこの話は受け入れがたいという人が
いっぱいいるのはよく分かる気もするんですけれども
このアプローチの方が
救いになる気がやっぱりするんですよね
これは別に日本人だからとかでは
ないと思うんですよ。この発想を作ったのは
イギリス人ですからね結局
だから全体対象って言うんですけれども
母という人がいたんだと
だからこういう事態が発生するんだと
必ずしもこれがなければ
自分は崩壊するとか破滅するってことはないんだ
ところまで行き着ければいいわけですよ
つまり自分も全体なんだってことですよね
良い部分と悪い部分に分解されているわけじゃなくて
それだけで構成されているわけでもない
ということですよね
良いお母さんと悪いお母さんの統合
その含みが全部
つまり部分対象とスプリッティングっていう含みが
全部良いおっぱいと悪いおっぱい
っていう表現には入ってる感じがするんで
そこがやっぱり大事なんじゃないかなって
これを小儀礼に言い直すのは簡単なんだけど
良いお母さんと悪いお母さんという妄想があって
それを一体化させるように自分を持っていけば
統合化されて
欲打つの苦しみから
何て言うんですかね
全然伝わらなくなるものがある感じはしますよね
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