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2023-12-06 49:40

ウツパンを読んだ【GMV897】

なぜ両親の影が薄いのだろう?

サマリー

漫画『ウツパン』は、うつ病をテーマにしています。主人公はパンダになっており、ユニークな作品です。お母さんの描写は少なめで、恋しいと思っているものの虐待的な描写はありません。作品全体には不思議な感じがあります。DSMについての授業やメジャーリーグの盛り上がりについて言及しています。ウツパンのエピソードでは、脳の病気によって生じる起死念慮や精神的な苦しみが描かれています。主人公は現実を理解しており、自分の脳の中に死神がいることを知りながらも、内部への責任や罰を受ける苦しみを感じています。私たちの生き方は自己愛的で、他者が存在しない閉鎖的な世界に生きています。太陽の光と散歩だけでなく、言葉の共有も重要であり、脳のバイアスに気をつけながら生きることが必要です。人々の情報交換や交流の場となっているネットコミュニティの中で、ウツパンを読んだエピソードは、人々の世界観やバイアス、報道のあり方について考えさせられます。売掛金の話やアメフト部の話についても言及され、中性的に見える男性たちについても考察があります。

『ウツパン』の世界観
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
12月6日水曜日朝7時37分です。
今日は少し暖かくなって、寒さが緩んだという感じで、しかも昨晩雨が降ったようで、
僕は乾燥肌なので、こういうのにアンテナを貼っているんだなぁと思うんですけど、肌が楽だなって感じがします。
多分暖かくもなるんじゃないかなっていうふうに思いますね。
新しいJ松崎さんとの新刊なんですけど、赤毛さんまで大変お通っているんですか?
予約段階では、
結構、いろいろと
ご予約いただきまして、大変ありがたい。もう他に言うべきことは何もない。大変ありがとうございます。
この本、実際に出るのは2月になるんですけれども、しかも中旬になってしまうんですけどね。
その前にも、いろいろイベント等やって盛り上げていきたいなと思っておりますので、
その辺は、よろしければですね、お付き合いいただけて、
ぜひメッセージをしていただけると嬉しいです。
まぁ、とりあえずの、
告知はこのぐらいで、
あの、最近ちょっとまた、
少し、
なんかいろいろ考えるところがありまして、直近で言うとね、
あの、うつぱんという、
パンダが、主人公に、
主人公がパンダになって描かれている、
非常にこう、ユニークな漫画があってですね。
これを、
読んで、久しぶりにまた色々と、久しぶりというかずっとこういうことばかり考えておりますが、改めて非常に考えさせられるコミックだなと思ったんですよね。
で、このコミックの一番の僕は、特徴はですね、僕にとってですよ、臨床の心理臨床といった臨床霊ってありますよね。
あれを読んだときの意味の分かりにくさなんですよ。あれと同じものを感じたんですね。
だからリアルなんだろうなっていうのがまず一つ。
メラニクラインドとかね。
そもそも理屈が分かりにくいですけど、理屈は何とかついにこう、何とか辞典とかね、精神分析辞典とかを引き引き読んでいくと、理屈は分かってくるわけですよ。
非常に簡単なところで言うと、赤ちゃんはうんちを投げると。
このうんちは文字通りのうんちであるケースだってありますが、しちゃうからね、おむつの中とかに。
だけではないんですよ。
要するに気に食わないことがあったら投げる。物を投げるみたいなものですね。
叫び声を投げるみたいな。要するに悪いものがあったら全部、それは外のせいなわけですよ。
なぜなら心の内なんてないわけですから、赤ちゃんには。投げてく。
とにかく、あと要するに区別というものがつかないから、何でもかんでも投げてく。
それをお母さんという、私であったとしてもお母さん。
要するに赤ちゃんにとっては環境は全部お母さん。
これはクラインという例はウィニコット的な感じなんですけれども、とにかく投げてきたものをこちらの方で、
歯医者というですね、つまりこれはそう悪いもんではないとか、これはもう投げていいねみたいな、
そうやって区別をして赤ちゃんに適切というのかな、その文化において適切だろうと言えるようなやり方で戻してあげると、
赤ちゃんはこういい世界に入っていけるよみたいな、そういうですね、話がうんちとかおっぱいとか、
そういう赤ちゃんにも通じる言葉で、なぜなら赤ちゃんの世界を言ってるからですね。
通じる。
通じる言葉で、しかし割と堅苦しく、文弁とかだから書くわけですね。
非常にその辺が分かりにくくなっているわけですね。
うんちとかかず文弁とかくということによって、大人向けなんだけど、世界は幼児の世界であることを生の形でリアリスティックに描くっていうことをやってるから、
ああいう表現になると思うところは一応理解したとしてもですね。
では実際の臨床例だかとか言って、また一気に分からん話が始まるわけです。
例えばね、その女性は既婚だったけれども、ご主人が事故で亡くなって、それから指先の皮をむしるようになったみたいな、そういうですね、
なんだかよく分かんない、この記述全部にどうせ意味があるんだろうけど、どういう意味で書いてるんだかさっぱり分かんないっていうのが始まる。
この始まったときの分からなさというものがですね、
うつぱんには文字通り入ってきてる、文字通りって言ったらおかしいな、漫画として表現されていてですね。
で、分からないんですね。
分かりますよ、その既視燃料を抱いているとか、不安であるとか、何事もうまくいかないとか、一つ一つは分かるんだけど、
全体としては結局どうもよく分からないシーンが非常に、しかも唐突に、例えばですね、
梨をお母さんが食べれという。
で、私は梨が好きではなかったかっていう表現が。
で、梨も、なんか独特の描かれ方なんですよね。
いや、ご本人としては普通に書いているのかもしれないですけど、見た感じは決して非常に梨、なんだろう、梨だということは分かります、もちろんね。
だけれども、どうしてこういうところに、そもそも梨がなんでここに出てくるんだろうというのが分からない。
そして大学で評価Dをもらったという話。
私が絶対に梨と関係がある描き方なんだけど、分かるようには描かれていないんですね。
この辺がすごく私は林章礼の話と似ている。
林章礼を一読したときの、私にとってはですが、分かんないなーっていう感じと、
あのコミックの独語感の分からなさというのが、ものすごくほとんど同じ印象だったんですよ。
ということはつまりあれですよ。
この打つ版に関しては、
その後、精神分析家のメラニー・クラインのお弟子さんみたいな人が分かりやすいように、
分かりやすいように結局描いてくれてるんですよ。
クラインの理論にのっとって解釈するとこうだと。
こういうふうにカウンセリングしていくと、こういうふうに進展していって、こういうふうに良くなった。
基本良くなった話しか書かないですからね。
自分が盛大に失敗してちっとも良くならないまま患者が来なくなりましたなどという話は、
そうそう読めるものではないので、失敗例の収録本が、
あれも松木さんの本だったかな。
と思うんですけれども、失敗例の本がありますか。
ああいうやつは本当にレアで、
大抵は失敗例というような本はない。
基本成功例の本になって。
しかし失敗例だってですね、
ここでこういう失敗を実はしてるんだよみたいな解説が入る。
リアルには入らないわけじゃないですか。
やってることは失敗だと思ってやってるわけじゃないので、
ものすごくもっと取り尽くしまの無さがね、
お母さんの描写とその意味
やっていればですけど、
僕はやったことがあるわけじゃない。
やってれば絶対あるはずだと思うんですよね。
で、その一旦垣間見られるコミックなんですよね。
うつぱのというコミックは。
うつの人の話であることはわかる。
そういうふうに書いてあるわけですから。
起死燃料があるのはこれは書いてるからわかるんですけれども、
そしていろんな事件が起きて、
根本的には辛い話が続いている。
ですが、どうしてこうなって、
どうしてこうなったのか、
どうしてこうなったみたいなのが実は一切書いてないんですね。
ご両親との関係もよくありがちなああいうコミックのある、
例えば新井ピロヤさんのような、
あるいはドコンジョガエルの娘さんのようなね、
そういう悲惨さはあまりない。
お母さんははっきり言えばごく普通に近いような書かれ方をしています。
東京の大学に一人暮らしするんだけど、
そろそろ帰ってきてちょっとこっちで話をしろみたいに、
普通に言ってくれている。
で、それが威圧的に聞こえてる感じもしなくはないんですけど、
でも超強圧的とかいう感じではないんですね。
で、梨も帰ってきたら梨を食わしてくれっていうそういう感じで、
ただ、ただ一つ非常に感じられることがありまして、
影が薄い。
というかお母さんもパンダになっちゃってるんで、
しかもいつも同じ顔をして、
いつも同じようなセリフしか出てこない。
お父さんにだってはほとんど出てこない。
えーと、
あまり色々喋らない人だった。
ホッホッホとか言って歩いていくんですけど、
本当旅人Aに近い。
お父さんですからね。
僕、これはなんかあるんですよね。
こういう印象って。
あのー、
うつの、
うつだというコミック。
うつが少なくとも、
テーマのどこかに入ってきているコミックで、
しばしばこのもの、
この種のものに遭遇する。
例えば、
あれですね。
私の、
その、
顔色を伺う本の、
表紙書いてくださった、
永田香美さんが、
特に第一作目の作品は、
ご両親の影がえらい、
つい。
えーと、
なんかこう、
お母さんが好きで、
えー、
お母さんともうイチャイチャしたいんだっていう、
そういう苦しみを冒頭から書いているにもかかわらず、
このお母さんがなんかこう、
ちゃんとした絵に、
そもそも、
なってすら言いない。
そん、
ここのところのギャップって、
僕らに、
僕なんか、
我が、
読者、
一読者としては、
独特に感じられるんですよね。
うつ病の本質
そんなにお母さんが、
お母さんが言って、
母という概念になるものに、
あれはもうなんか、
まさにこう、
精神分析的な世界だと思うんだけれども、
母という概念にこう、
母という概念がクッションになってるんですよね。
永田香美さんのコミックでは。
そこにこう、
抱きついて、
そこにいれば、
幸せだって感じ。
なのにもかかわらず、
このお母さんの描かれ方ときたらですね、
あの、
なんかこう、
薄く描かれてるんですよね。
非常に絵が上手いので、
えーと、
お母さん、
この人お母さんなんだっていうのは、
いつ、
出てきても即分かるんだけど、
でも印象が驚くほど薄いんですよ。
これが、
あの、
ウツパンにも共通していて、
これは一体何なんだろうなと。
で、
えーと、
言うほどお母さん、
そういう風にお母さんというものが、
恋しい恋しい言ってるから、
お母さんはすごくこう、
えーと、
虐待的なのかとか、
ネグレクト気味なのかとか、
つい、
そういう先入観を持って読んでしまうんだけど、
そんなことは全くないんですよね。
永田香美さんの作品にしても。
えーと、
どっちかっていうと、
えらくこう、
親身になってくれてるし、
えーと、
入院させるにしても、
退院するにしても、
えーと、
いつもこう、
永田香美さんの意向に、
非常にこう、
沿ってる様子が出てきて、
いや、
これは普通の範疇だよねっていう感じしかしない。
で、
あの有名な話があるじゃないですか。
あの、
うつ病九段にも出てきますけど、
いや、
うつは心の病気じゃないんだと。
脳の病気なんだと。
DSMについての授業
それはいいんですよ。
あ、そうか。
なるほど。
脳が、
うまく機能してないんだと。
でも、
どうしてなの?
っていうのに対する答えは、
一切ないっていうのが、
ここにまた出てくるんですよ。
えーと、
脳の病気なんだから、
そう納得しろよってことなのかもしれないけど、
脳っていうのは、
なぜ病気になるんだっていう、
まあそれだって、
えーと、
そんなことを言えば、
キリがないとも言えるんですけれども、
でもですね、
なんかそれだけで、
さらっと納得できるものなんだろうかっていう、
こういうところに、
えーと、
僕がこういう話を、
したくなっちゃう理由がある。
これはもうしょうがないと思うんですよ。
なるのがダメですと言われても、
えーと、
私がアメリカでDSMという、
あのー、
その、
なんていうんですかね、
その、
心理、
精神障害の診断基準マニュアル。
マニュアルなんですよ。
単なるマニュアルですね。
えーと、
まあこういう症状が出たら、
これを疑いましょうってことですよ。
もっともっと、
ある意味、
誰にでも分かりやすく書かれていて、
医療の判断と救急車
私はこのDSMについての、
えーと、
一般的な、
えー、
リテラシーみたいなものは、
日本の高校等で、
えーと、
割と、
がっちりやってもいいんじゃないかなと。
あの、
家庭の医学について、
僕そう思ったことがあるんですよね。
これはどの程度素人が使ってよくて、
どの程度から先は、
専門家に任せなきゃいけないのか。
どういう理由で、
こういうものが作られてるのか。
説明してくれてもいいと思うんですよね。
あのー、
医療は専門家に任せなさいと、
ただ言っていくと、
えーと、
もちろんそれは、
大筋正しいでしょうけれども、
あの、
よく見かける、
じゃないですか。
ACでもやってましたよね。
え、
そんなことで救急車を呼んだの?
みたいな。
そこ、
常識だけに委ねられてますよね。
えーと、
指切っちゃったから救急車を呼びました。
え、
そんなことで救急車呼んでいいと思ってるの?
みたいなことを、
えーと、
割とこう、
公共広告機構でやってくださるんだけど、
それは普通はそうはしないかもしれない。
でも、
えーと、
呼び、
どこから先、
救急車を呼ぶべきで、
どこまでが素人が判断していいのか、
ということが、
完全に、
その人、
その人の感性に委ねられてしまえば、
そういうことだって起き得ると、
私は思いますけどね。
あの、
私は呼びませんけど、
一度も呼んだことまだないですけれども、
精神病名の疑問
救急車そのものは。
でもやっぱり、
救急車を呼ぶっていうのがですね、
つまり、
医療行為を専門家が判断するべきなんだっていう、
素人が勝手に判断すると、
大変なことになるんだってことになると、
えーと、
なんか起きたら、
必ず救急車呼びたくなるっていう人が、
そういう人もいても、
えーと、
そんなに不思議じゃないんじゃないかって、
気がしてくるんですよ。
あのー、
例えばこう、
指を切っただけだって、
こうこうこうこうこうなって、
こうこうこうこうこうなると、
大変なことになるんだから、
素人が勝手な判断をせずに、
専門家に任せるべきなんだっていう話になればですね、
怖くなって、
救急車呼んじゃうかもしれないじゃないですか。
結局、
この辺のことが、
僕らはやっぱり、
どこかで判断はするんだろうと思うんですね。
医療のこと、
あの医療のことだろうと、
心のことだろうと、
脳のことだろうとですね。
だから、
えーと、
その診断、
基準が世に出回っているんなら、
ネットで簡単にDSMなんてヒットしますから、
えーと、
世に出回っていて、
すいません。
あの人格障害もそうなんですけれども、
なんか10項目中6項目が当てはまったら、
あなたは○○ですみたいなことも、
えーと、
普通にそこら中で見ることができる状態にあるわけですよ、
すでに。
で、
そうじゃないようにするってことになると、
もうめちゃくちゃ大事になってしまうし、
あんまり現実的だとも思えないわけですよね。
えーと、
英語が読める人は、
えーと、
英語で、
あれを読んでしまう。
で、
英語であれを読もうと思えば、
もっともっと、
あのー、
ガッツリ書いてあるものが、
見つけようと思えば、
いくらでも見つかる。
しかもそれはGoogle翻訳にかけられて、
ほとんどその翻訳で理解できる内容になっちゃってるわけですから、
えーと、
あれの読み方というものを、
やっぱり、
あれはそもそも原因というものを見ようとしてないんですよっていう、
いきさつについても、
えーと、
教えといてくんないと、
困っちゃうと、
ある意味思うんですよね。
あー、
こういう人は、
えー、
えーと、
ジゾイド的なパーソナリティですっていうのを書いてあって、
項目書いてあって、
えー、
そしたらどうして自分はジゾイド的になったんだろうっていうふうに、
人は普通思うじゃないですか。
いや、
それはそこは問わないことになってるんですっていうんであれば、
えーと、
どうして問わないことになっているんですかっていうことに対する答えも、
今教えてるのかもしれませんけど、
僕は習った覚えは全くない。
これは完全にアメリカで習った話なんですよ。
全部。
めちゃくちゃやらされるんですよ。
学士レベルでも。
ほぼ、
DS、
DSMしかこの授業をやらなかったなっていう授業が一つあったんですよ。
半、
えーと、
1、
1セメスターの1学期通じて、
事実上半年レベルで、
えーと、
ずーっとDSMの読み方だけをやって、
そんなレポート出していくっていう授業を、
学士レベルでやる。
つまり普通の大学生のレベルでやるわけですよ。
それが正しいかどうかとか、
適切かどうかはまた別として、
やるってことですよね。
でも、
あれで、
えーと、
少なくともこれの見方というものは、
えー、
理解できるようになるわけです。
書き方が英語であったとしてもですね、
私はその時、
えーと、
十分疑問に思えずに、
当時、
えー、
今思うと、
変な音してすいません。
これ、
ちょっと暑かった、
暑くなってきたんでですね、
えーと、
脱いでるんですけれども、
あのー、
上着を脱いでるんですけど、
えーと、
というのは、
強く疑問に思うべきだった一つのことに、
どうしてこれらの病名なんだ、
っていうのが、
僕は全然当時は、
疑問に思うことができなかったんですよ。
どうしてここに、
えー、
自己愛と日本語では訳されているナルシズムがあり、
ここにどうして分裂が、
分裂病室とか、
えーと、
分裂焼失とか、
まあ要するに分裂という言葉があり、
まあ抑鬱はまだいいとしても、
相という言葉、
相鬱もありますけど、
えーと、
そして境界霊という言葉、
境界性と書いてありましたけどね、
ボーダーラインですね。
これらの、
病名が書いてある。
これなんでなんだ、
っていう疑問を、
当然抱くべきなんですよ。
これらの区分というものが、
当然のように出てくるって、
ものすごくフロイト的な世界、
つまり精神力動的な雰囲気が、
おびただしいじゃないですか。
特にナルシシズム、
ナルシシズムなどというのを、
病名に、
病名なのか分かりませんが、
えーと、
少なくとも、
えー、
自分の症状として扱おうとしたのは、
最初フロイトですからね。
えーと、
いきなりあそこにナルシシズムって、
入ってくる理由がないじゃないですか。
精神障害の、
えーと、
レッテルには、
なぜ分裂、
えー、
ナルシシズム、
境界霊、
境界霊っておかしいじゃないですか。
特にボーダーって、
我々言ったりしますよね。
ボーダーって線ですよね。
まあ、
ボーダーですよね。
なぜボーダーという病名になってるんだと。
ボーダーでは何にも分かんないじゃないですか。
線という、
えーと、
境界線という名前が、
えーと、
この世の中にあったとして、
境界線とは何を意味するのか。
境界線とはどういう病気なのか。
あの、
分かっているという人からすると、
えーと、
それで一定のものがイメージされてしまうんだけど、
そもそもそれは、
おかしな話ですよ。
うつってんなら、
まだ分かるじゃないですか。
うつうつとしてしまうのかもしれないし。
えー、
それで正しくないイメージかもしれないけれども、
まあ、
分からなくなる。
でも、
境界線では全然分からないです。
境界霊って何だよって感じがするじゃないですか。
これが病名として出てくるのは、
やっぱりフロイトというところから来ているから、
これが病名として上がってきている、
わけですよね。
いきなり精神症というものを並べてみましょうってなった時に、
えーと、
境界線なんて絶対言い出さないと思うんですよ。
いきなりね。
だから、
あれがいきなり出てくる。
マニュアルには。
マニュアルの病名としていきなり出てくるのは、
やっぱり、
そこの歴史の一番発端のところに、
精神力道があったっていうようなことがなかったら、
えーと、
意味不明な話になってしまうと思うんですよ。
ところが、
僕らが受け止めているのは、
ウツパンの病状
まさにその意味不明なものだと思うんですよ。
ある意味では。
しかも、
それの使い方がわからない、
ただただ基準だけが割とわかる言葉で並んでいるというのが、
あの現状になってる気がするんですよね。
そして、
えーと、
ちょっとしたことで救急車にじゃダメですよということになってたらですね、
えーと、
何が起きるかというと、
私はあの、
うつパンのようなことが起きるんじゃないかなと思うんですよね。
えーと、
私はあそこには、
えー、
いわゆる精神医療と言うべきものなのかな、
に対する様々な誤解が、
えーと、
すごくナイーブな形で表現されてるなって感じがしたんですね。
例えばこういう時には、
えーと、
起死念慮が強いんです。
あ、
薬を出しましょう。
ここに絶望する。
気持ちがよくわかるんですよ。
えーと、
いや起死念慮が強いというのに対して、
えーと、
ただこういう、
あんまり、
姫もよくわからない錠剤を出すだけなのっていうことで、
この人の起死念慮が強くなるっていうことが、
訴えられているような感じがあるんですけれども、
えーと、
漢字があるだけなんですよ。
でも、
えーと、
パッと次のコマでは、
えーと、
少し長めの電気コードが書いてある。
実に、
あれじゃないですか。
えーと、
ある種の恐ろしさがそこにありますよね。
でも僕はこれ、
いつも思うんですよね。
あの、
昨日も、
一昨日も、
その前も言いましたけど、
僕ら小さなことにくよくよするんですよ。
小さなことにくよくよするぞっていう生き物なんですよ。
小さなことにくよくよするなっていうことが言えるっていうのは、
ものすごく健康な感じがするので、
やっぱり、
僕らは小さなことにくよくよしますよっていう生き物なんですよ。
一体全体、
えーと、
どうしてここで起死念慮なのかっていうのが、
もう分からないわけですよ。
で、
えー、
いや、
それはもう分からなくていいんです。
脳が病気なんですっていう、
これさえ、
僕らが十分了解できていれば、
あの薬をただ飲むっていう選択もあると思うんだけど、
我々はそういうふうには考えない。
やっぱり我々はナイーブに考えると、
えーと、
どうしてこんなことで死にたくなるんだろう、
ぐらいのこと考えちゃうじゃないですか。
えーと、
それは脳のバグなんですとか言われて納得するとは思えないんですね。
それはそういうものの見方に自分を沿わせて、
えーと、
脳というものがこういうふうになると、
こういう考え方をしてこうなるから、
仕方がないんだというふうに納得するようにして、
そして、
えーと、
それがこの薬によって、
この機能、
この不全が、
えーと、
何らかの形で緩和されるんだと、
その基準も分かっちゃいない。
そのプロセスも習ってるわけでも知ってるわけでもない。
だから効果がよく分からない、
弱そうな薬みたいになってしまうわけですよね。
ナイーブなんで。
で、
元々の悩みは他人には相談できないわけですよ。
なぜなら本人もよく分かっていないし、
で、
電話でやっぱりでも相談する人もいるわけですよね。
誰に相談してるのかも分からないような。
だから非常にですね、
こう、
独特なんで、
ですよ。
脳内の死神
えーと、
二次過程に入っている感じはちゃんとするんですね。
えー、
超越的な話は出てこない。
万能空想の世界ではないわけですよ。
えーと、
いわゆる機械な対象は出てこない。
一つ目小僧みたいものは出てこない。
ちゃんとした現実に見えるんだけれども、
誰にこの人電話してるんだろうっていうのが、
何のプロセスもそこにないんですね。
本当に不幸がに人いるのかと。
そうすると友達らしき人が出て、
あるある分かる分かる、
そういうことあるよね、
と、
言われる。
そしてまた、
深い絶望をするわけですよ。
あ、分かってはもらえないんだ、
というふうに。
あるいは時々はですね、
そのライフハック的な、
ここにまた非常に、
僕は独特のものがあると思うんですけど、
大ライフハック的な、
そういう時はね、
外で運動するといいんだよ、
とかって言われるわけですよ。
誰だか分かんないような友達が喋ってるわけですよ。
電話の向こうで。
そうすると、
そうかと思って、
何だか知らないけど、
夜道、
ランニングとか始めるわけです。
でもこの感じは私は、
ものすごく分かる気がするんですよね。
このようにしてる気がするんです。
私たちの人生って、
ある意味では。
僕がここに精神力移動、
小説とかでもいいのかもしれないんだけど、
精神力移動というものを持ち込みたくなるわけは、
ここにあるんですね。
えっと、
ここでランニング化って感じがするんですよ。
いや、それは脳には少しいいのかもしれない。
例えば、
吸収する酸素の量が増えるとか、
血中酸素濃度が高くなるとかね。
好きじゃないですか。
私たちはこういう路線が好きなわけだ。
この、なんていうんですかね。
無味乾燥としたというか。
えっと、
ウェットではない。
生々しくない。
さっき言いましたよね。
お赤ちゃんは嫌なことがあるから、
うんち投げる。
こういう話は生々しい。
で、僕らはもっと清潔で消毒された世界が、
どうも好きなわけですよ。
だから、
えっと、
悩みがあっても、
エヴァノートとか、
スクラップボックスで解決したいわけですよ。
で、
それでいい時はいいと思うんです。
日記をつけるなりっていうのが、
日記療法みたいなのがあって、
その、
日記をつける先が、
よりデジタルで正確に分かりやすい、
スクラップボックスの世界だと、
心の健康が保ちやすいっていう、
そういう状態にあるときは、
いいと思うんですよ。
でも、
あんなに、
何かというと、
起死念慮が現れてきて、
えっと、
そして脳からの指令で、
お前は役に立たないから消えろ、
みたいなことを、
脳がそんなことを指令するって、
どうよって感じなんだけど、
脳というものが、
すでに、
えっと、
死神みたいになっちゃってるんで、
その、
ウツパンの中ではですね、
というか、
死神なんですよね、
あれはモチーフとして。
ここら辺に、
あの、
一時仮定的なものが、
すごい現れてくるんですけど、
つまり、
万能空想で、
だって、
死神って、
まあ、
存在しないじゃないですか、
知りませんけど、
多分しないと思うんですね、
私は。
だから、
死神というのは、
パッと作り出せるというのは、
万能空想のなせる技だと思うんですよ。
ただ、
この、
えっと、
現実との対立
ウツパンの方は、
間違いなく、
えっと、
欲すポジションにいらっしゃる。
つまり、
現実原則に生きていらっしゃるから、
これは自分の空想であるということは、
明らかに分かっているんですね。
この、
死神が、
自分の、
えっと、
どこだか分からないけど、
まあ、
脳からって言ってますけれども、
脳を、
脳って、
そういうことをするものかなって思うんですけど、
脳ではなくて、
それは空想だと思うんですけどね。
でも、
まあ、
脳だということになっていて、
そして、
脳の中に死神がいるんだけど、
脳の中にいるんですよ。
ここが現実的なんですね。
外界にはいないんですよ。
外界にいるような描き方にはなっていないように読めるんですよね。
だから、
この方は、
あの、
現実原則にのっとっていて、
いわゆるこう、
エディプでエディプス期にはいないんですよね。
エディプスコンプレックス以後をちゃんと生きていて、
我々の言葉が通じる世界にいる。
だから、
脳からの指令っていう表現は、
多分ギリギリのラインなんだろうと思うんです。
ここは大事なポイントだろうなって思いました。
脳からの指令なんです。
自分の中から、
これは指令が出てきて、
いるんだと。
その側から命令されてるわけじゃないんだということは、
ちゃんと知っているわけですね。
事態は、
つまりご自分が罪悪感に苛まれるような事態というものは、
全部外にあるんだけれども、
例えば、
大学の評定がDであるとか、
一生懸命勉強してるんだけど、
欠席者よりも成績が悪いですよと先生に言われる。
これもうものすごく、
率直的で傷ついてるって感じなんだけど、
これがまたですね、
さらっと描かれてしまうんですね。
どうしてか、
どうしてかっていうと、
多分なんですけど、
これは僕の勝手な解釈を含めていますが、
つまり、
もしこれがいわゆる幼児期、
乳幼児のような心の状態にあれば、
全部外に悪いものを出せるんですね。
妄想分裂的に、
いや、そんなことを先生が言うからいけないんだと。
勝手に評定Dをつけるからいけないんだと。
世の中が非常にこう、
夜は掴むの世界ですよ。
世の中が非常にこう、悪いやつだと、
世の中が非常にこう、悪いやつだと、
悪いやつらでうようよしている世界になってしまうけど、
自分はそんなに悪くないって思うことが自然とできる。
でも、現実原則に入ってしまっているためにですね、
心は抑鬱ポジションなわけですね。
悪いことは全部自分の中にあるんだと。
だから、自分を罰する存在も自分の中にあってですね、
徹底的に自分だけに意識が向かっているので、
現実というものがこう、暗くて遠い、
つまり、
影の薄いものにおそらくなっているんだろうなって感じが、
あのコミックからは受ける。
永田香美さんのコミックからも、
自己愛的な閉鎖的な生き方
それに近いところがあって、
とにかく自分はダメであると。
だから、自分というものをこういう風にして、
消し去ろうとする存在というものが、
自分の中に強い力を持って。
だけど、これがですね、
空想の世界ではないんですよね。
もう空想に限りなく近いんだけれども、
表弟D、
えーと、
もっとちゃんとやれという風に書いてあるんですよ。
それは成績表なんですね。
つまりそこには解釈が、
それもかなり現実的な解釈が入ってますよね。
もっとちゃんとやれって書いてあるんだけど、
もっとちゃんとやれとは書いてないはずですよ。
そういう風に書いてあるように読めるってことですよね。
それがちゃんと伝わってくるように描き出されていて、
ただただ、
えーと、
あまりにもそれが、
えー、
深刻で大きくて、
えー、
苦しみを生む、
非常にこう、
恐ろしいもののように、
描き出されている。
表弟Dなんて人によってはどうってことないですから、
そこら辺にぶん投げちゃう人もいっぱいいますからね。
だから非常にこれが深刻に捉えられるように、
えーと、
多分解釈が大きくなっているわけですよね。
つまり小さなことでくよくよするわけですよ。
これが僕らの、
私は、
えーと、
生き方だと思うんですよね。
基礎的な生き方になぜかある、
えーと、
散々言っている話ですけれども、
非常に人に相談しに、
この小さなことなんだけども、
くよくよしてしまう。
そしてこの話がどんどんどんどんでかくなっていって、
えーと、
まあ脳からの指令が、
不意に、
不意になんですけどね。
私には不意には見えなかったんだけど、
やっぱ不意にやってくるわけですよ。
で、消えてなくなってしまいたいと。
で、
ご本人も分かっていらっしゃるんですよ。
例えばあの、
オーバードーズっていうんですか、
薬を大量に入れてしまった時も、
ものすごく苦しいんだけど、
救急車が呼べない。
なんで呼べないかというと、
恥ずかしい。
ここで恥ずかしがってる場合なんだろうかって感じなんだけど、
あの、
もうコマを占めてる言葉は全て恥ずかしいなんですよ。
だから、
羞恥心というものはやっぱり罪悪感なんですけれども、
これがやっぱり、
非常にこう、
自分を苛むんですよね。
ここで外には出さない。
えーと、
何らかの理由で外に無理やりされたとか、
えーと、
何か外のせいになっていて、
えーと、
つまり、
万能空想的ではないんですよね。
やっぱり自分で飲んだ、
ということが分かってて、
人がその時、
自分をどう見るかということも意識している。
この状態でも意識している。
つまり、
ものすごく現実的なわけですね。
現実検討は、
ある意味ちゃんとしっかりやっている。
非常にこう、
バイアスが強くかかってますけれども、
自分に対して過度に厳しいですけれども、
でも、
現実検討が手放されてはいないんですよね。
決して。
そして、
えーと、
やっている行動としては、
非常に厳しいものがあるし、
やっぱりこう、
暗いんですよ。
というか、
黒いんですよね。
画面全体が黒くなって。
これはですね、
えーと、
私は、
このいきさつそのものだと分かりますよ。
当然。
だけれども、
結局よく分からない。
なぜここでオーバードーズなんだろう、
というのがやっぱり分かるようには書かれていない。
多分ご本人が、
えーと、
ここを因果で結んだところで、
人には理解されない、
という意識がものすごく強くなっているから、
えーと、
もはや因果で分かるような因果というものを、
頭の中では構成していないというか、
結べていないという、
そういうことなんだろうなーって感じはします。
でもこれだって、
えーと、
結局のところ、
僕は力動的に考えているだけなんですよ。
この事態全体をですね。
えーと、
こういう風に考えること自体がナンセンスだ、
という発想が、
かたやあるわけですね。
いや、
脳の病気なんで、
脳が病気だからそういう考えを作り出すんだよと。
これも嘘じゃないと思うんですね。
ただ、
私はそれだとどうしてもどっか納得がいかないというか、
えーと、
素人臭くし、
悪善とできないので、
えーと、
力動というものの解釈というものを、
できるように、
えー、
自分の考えを、
なんていうんですかね、
えーと、
取りまとめていくっていう、
プロセスがどうしても欲しくなるんですよ。
そうしないと、
えー、
結局のところこれを、
えーと、
太陽の光、
と、
散歩と、
それは大事なんですよ。
太陽の光と散歩と、
適度な運動と、
えーと、
美味しいご飯と、
という話にならざるを得ないんですよね。
そして、
それ、
僕の感じでは、
それだけでは、
えーと、
どうにも足りない部分が出てくる。
つまり、
結局それは、
えーと、
ご本人はそうじゃないんだけどね。
ご本人はどちらかというと、
自虐的に近いんだけれども、
僕はその生き方はどうしても自己愛的になっちゃうと思うんですよ。
あの、
力道で言うところ。
結局ここでも力道持ってきちゃうんですけどね。
なぜなら僕は、
その、
なんて言うんだろうな。
えーと、
上手く軌道に乗れば、
えーと、
特にこういう、
えーと、
自虐的な人というのは、
他者を排除してるわけではないので、
えーと、
上手く軌道に乗れば、
それでも上手くやっていけると思うんですね。
だけれども、
あの、
万事、
全ての悪いことを自分の中に抱え込むという、
やり方というのは、
結局こう、
多分これがまた誤解を呼ぶんですけれども、
ナルシシズム的になっていくと思うんですよ。
このナルシシズムは、
えーと、
自分大好きとかそういう話とは、
ちょっと違うと思うんですね。
なんか、
うぬぼれとは全く違うと思うんです。
このナルシシズムってのは。
なんつうんですかね。
その、
でも自分が大事ってことに違いはないんですけれども、
あの、
ま、
傷つきたくないと言ってしまえば、
それまでなんですけれどもね。
えーと、
このナルシシズム的な、
ってのはやっぱり、
他者が排除されるって意味で、
他者が排除されるというのは、
えーと、
ま、
今日はグッドバイブス的な話をあんまり投入してないんですけど、
精神力道的な話で終始してるつもりなんですが、
このナルシシズム的ってのは、
えーと、
他者と言葉を共有しない。
だから、
ああいう独特の分かりにくさが生まれるんだと思うんですね。
言葉を共有しないというのは、
えーと、
いや、
赤信号が止まれたというのは、
知ってるけども、
自分の世界にあまり関係ないなみたいな、
そういうノリ。
結局、
その、
なんでここでこうだとか、
なんで罪悪感だとか言っても、
えーと、
共有できないからって感じがある。
悪いのは自分だからって感じがある。
ここに独特のこう、
閉鎖的な経がある感じがするんですよね。
自分の生きている世界が、
独特に閉鎖されているという感じ。
ま、ここに他者が最後入ってくるんですよ。
お母さんが入ってくる。
言葉の共有の重要性
で、お母さんがいつも目三角にして、
あんた何やっとんねやって言って、
怒ってるっていうお母さんが、
このセリフしか出てこない。
影が薄いっていうのはですね、
怒ってるんだけど、
影はやっぱ薄いんですよね。
存在感がないというのか。
しかもパンダだし。
目三角のパンダが、
実は垂れ目をしていて、
お母さんこんなに優しい顔だったんだ。
ここに多分、
このコミックのメッセージの、
ほぼ全部がある感じなんですけれども、
他者なんですよね。
そちらと、えーと、
言葉が共有できる、
っていう、
そういう瞬間があって、
これがないと、
難しいんじゃないかなって、
感じがするんですよ。
脳のバイアスと注意
太陽の光と散歩だけではね。
太陽の光と散歩が大事だってのは、
わかるんだけれども、
えーと、
昼夜逆転がいけないって話も、
まあ、わからなくはないんですけれども、
えーと、そういうことも、
ひっくるめてですね、
B級だからここはもう、
価値観なのかもしれないですよね。
私だったらば、
えーと、それだけだととにかく、
つまりそれは、
えーと、
例によって例のごとくの、
このニュートラルなものの見方ができるっていう感じに見える。
生々しすぎないものの見方ができるんだと、
僕はできてないと思うんですよ。
やっぱりね、
人間の目というもの、
人間の頭というもの、
脳でもいいんですけど、
脳がそもそも機能不全を起こしているというのは、
この無理な使い方にあるとしか思えなくて、
えーと、
脳っていうのは最初からバイアスでいっぱいなんですよ。
クリスマスの、
電飾がなぜこういう色になってるのかというと、
人間の脳で処理できる光の波長には限りがあるからじゃないですか。
この色でないとカラフルには見えないんですよ。
やっぱ赤と青と黄色と緑なわけですよ。
基本はね、
そういうものが脳に仕組まれてしまっているんで、
そうじゃない色を見ようとしても無駄なんですよ。
脳の色覚バイアス
赤っぽい緑とか黄色っぽい青は見れないようにできているわけですよ。
青っぽい黄色とか、
えーと、いわゆるこう、
補色の関係にあるものは混ぜても、
えーと、混ざらないんですね。
混ざらないようにできてるんで、
しょうがないんですよね。
このしょうがなさというものが、
えーと、すげー大事だと思うんですよ。
私は。
脳は最初から偏見いっぱいで世界を見ているわけです。
だから空は青くて素晴らしい感じがしちゃうのは、
これはもう当然なんですよね。
えーと、
ほ、多分、
えー、宇宙から来た存在にはそうは見えないかもしれないんだけど、
それは当然なんですよ。
最初から適応、
ある意味では、
えー、
適応がいいように作られているので、
ニュートラルに見ようとしてはいけないと思うんですよ。
というか、ニュートラルには見られないと思うんですね。
だから、やっぱり僕はそうすると、
力道って話になってくんじゃないのかなと思うんですよね。
正しい脳に、脳の状態になれば、
正しく世の中が見えて、
そうすると、えーと、
正しく適切に生きられるっていうように、
ふうにはならないという感じが、
まあ、これはですね、
やっぱり意見の相違なんですよね。
結果として同じようになればいいじゃんと言われれば、
結果として同じようになる状況にあれば、
それでいいんでしょうけれども、
えーと、
ウツパンというものを読むとますますですね、僕は。
結果としてそうはなってないんじゃないかって感じがするんです。
彼の頭は決して狂ってはいない。
えーと、
脳は病気かもしれないけど、
決して彼の、えーと、
判断はおかしくなってはいない。
えーと、UFOとか突然飛んできたりはしない。
えーと、
悪い、こう、人たちが、
自分の、ひそひそ話をするようにしていない。
一見そういう話が出てきておかしくないぐらい、
責め苛まれてるわけですよ。
ダメ人間だみたいな、
いじめられるみたいなのがあるけど、
どこにも、近所の人が自分の、えーと、
噂話をしているってことが、
どんどんどんどん出てくるって、
一回もそんな話は出てこない。
やっぱりですね、私は、
これは違うと思うんですよね。
一次仮定と二次仮定は違うと。
ちゃんとこの人の、あの、現実は、
二次仮定になって、
できていて、
超越的なことは起きていない。
だけれども、
明らかに、えーと、
万事私が悪いっていう、
非常にこう、
バイアスのかかった世界観で見てるんだけど、
バイアスは分かって当然だと思うんです。
バイアスがなく、
世の中が見られるという風に考えるところに、
えーと、僕にはですね、
これは、えー、今喋ってることは、
別になんてことないことのように、
聞こえるかもしれませんが、
えー、私はこれは、
すごく今の社会、
の方向と真逆のことを調べているという風に思っているので、
えー、この点、
やたら強調しているわけですよ。
つまり、
あの、
なんて言いますかね、
あの、
最近の報道とかを、
まあ、ちらちら見ていても、
思うんですけれども、
絶対に、
力道的には見ないように頑張ってるよな、
みんなっていうか、
まあ、
例えば、えーと、
なぜなのかは分かりませんが、
えーと、
日大アメフト部というところの話が、
ずーっと出てるわけですよね。
こんなに、
どこもかしこもで、
やるほどの話になってるんだろうかって、
もう、思うんですけれども、
あれなんて、
やっぱり、
精神力道的に見ればですね、
すぐ分かることがいくらか、
あるわけじゃないですか。
えーと、
組織の、
組織がこうなってないからだとか、
えーと、
大麻の日本の問題がとかいうのは、
当然あるにしてもですね、
その前に、
いや、
精神力道的な話、
あるでしょうって感じが、
するわけですよね。
だって、
アメフトですからね。
アメフト。
僕のね、
足よりも太そうな手を持ってる方が、
いらっしゃるわけですよね。
その人たちがぶつかるわけでしょ。
大変、
大変にエディプス的じゃないですか。
父親的世界というか、
競争的世界というか、
もう、とにかくそういう世界ですよね。
上下の世界じゃないですか。
そこにいる人たちがですね、
えーと、
みんなここを全然話題にしないというか、
えーと、
違うところからしか話題にされないんですけど、
えーと、
内的な、
なんて言うんですかね、
万能空想、
理想の万能空想を持ちたいと思って、
おかしなことがあるかって感じがしません?
やっぱここをするかしないかってあるんだろうな、
そういう話は出てきませんもんね。
あれだけ長くやっていても、
理事長の話とか副学長がどうのって話が、
あんなに出ていても、
つまり、
みんな、
この時代はですね、
生々しさが嫌いだって言うわけじゃないですか。
あんなに生々しい話が出てきて、
あの副学長になんとかさんに見つかってよかったと思った。
この人が揉み消してくれる。
めちゃくちゃ生々しいじゃないですか。
なぜこの問題をニュートラルに見たがるんですかね。
なんかこう、
ちょっとこう、
脱色したような、
えーと、
雑菌を消毒したような、
そういうものの見方がしたいってわけなんですよね。
なんかこう、
これから、
その部をどうしていくのかみたいな、
本当にそれだけだったら、
これほど長く、
あらゆるチャンネルで、
やるほどのことなんだろうかって感じがしちゃうんだけど、
えーと、
まあことが大麻だから、
なんか覚醒剤だからっていう話になってはいるんですよね。
それはわかります。
でも、
そもそも大麻って何のために吸うのっていう話は、
出てこないんですね。
いや絶対に許されることではないっていう話は出てきますよ。
でも、
何のために吸うのっていうのは出てこないんですよね。
これほどのリスクを背負ってでも、
その人たちが吸いたい理由は何なのっていうのは、
あって当然のように僕には思うわけですよ。
つまり原因ってことになっちゃうんですけど、
えーと、
それはバグだみたいな話じゃないと思うんですよね。
大学のバグみたいな。
なんでこう、
みんなはこれをバグにしたいのかと思うんですよ。
何かこう、
ある種のシステムさえきちんとしていれば、
こういうことは絶対に起きないんだということなんですかね。
私には、
えーと、
自分の足よりも太い手の人たちっていうか、
ガンガンぶつかって、
非常に上下関係があって、
っていう世界に生きるということになったら、
いやーそれ、
システムのバグだけが、
人を大麻に導くのかなというか、
導くってのは変ですけどね。
私には対象という言葉が、
こんな時ほど適切なものはないと思っちゃうんですよ。
大麻という対象を求める人は、
なんで大麻という対象に向かっていくのかっていう、
この、
ものすごく厄介な状態を、
なんとしてでも、
一歩間違えたらこういう事態を招くわけじゃない。
逮捕されて、
えーと、
一日中自分たちのことを社会で問題にしているっていう、
こういう状態を招くってことが、
まったく現実検討が、
えーと、
完全になされていた上で、
こうしていたとは僕は思わないんですよね。
報道における力道的視点
そういう風に、
その人の心理状態は多分働いていなかった。
この先生、
この人に見つかったんだら揉み消してくれるぐらいな、
非常にこう、
ある意味、
空想的な世界の中にいて、
空想というものと大麻というものが、
えーと、
なんとなくリンクするような世界って、
つまりどういう世界なんだろうと。
私にはですね、
それが、
えーと、
こう、
力道的なものを全部排除して論じるっていうことが、
ものすごく不自然に見えて仕方がないんですよね。
僕のはめちゃくちゃどうせナイーブですよ。
所詮は、
この精神力道も、
グラインを読み替え、
読みかじったようなもんだけど、
なとしても、
この程度のものですら、
全部決定的に排除されるっていう感じに見えちゃうぐらい、
極端な報道のされ方が、
僕にはしているように見えるんですね。
大麻という対象の意味
これがやっぱ、
世相ってものなんだろうなんて思うんですよ。
コメンテーターの人も、
一人としてそういうことを考えないだろうかってのが、
僕にはとっても不自然に思えるんですよ。
とっても、
ら、
らって多分ね、
えーの、
雷的な、
空想の世界、
理想の、
理想の親、
や、
そういうものに、
こう、
慰めてほしいとか、
えーと、
そういうところと一つになりたいって思いませんかね。
えーと、
肉体と肉体が完全に個別化して、
一本押せるとすぐ骨折れちゃうようなことをガンガンやっている、
世界の中に生きていたら、
そういう情緒になって、
そんなにおかしなことはないと思うんだけど、
このようなことも、
喋ることも、
一見、
あの、
あそこにいる人たちは、
みんな自由なことを、
適当に自分の言いたいこと喋ってるように、
えーと、
そういう風な、
えーと、
番組編成みたいになってますけども、
多分、
ものすごく縛られてるだろうなって感じがするんですよね。
売掛金の話とアメフト部の話
全然自由じゃない。
私たちは、
ある種の自由を全く持ってないんだなって感じが、
えーと、
これはまあ偏見かもしれませんけどね、
思ってしまうんですよ。
まして、
えー、
この少し前に、
やたら話題になっていた、
あの、
売掛金という言葉を使った、
変な話、
新宿の、
というのもですね、
もう偏見だとは思いますけれども、
やっぱり僕にはですね、
あの、
えーと、
いきなりこう、
売掛金の、
えー、
支払いが滞ってるとか言って、
えーと、
お客さんに買収までさせてしまうという、
この話が、
この話の中にも力道は一切登場しないっていうのが、
僕にはものごくやっぱり不自然な感じがするんですよね。
えーと、
世の中をもっと生々しく見たくないと、
えーと、
こういう生々しい話はうんざりさせられるから、
こういうのは排除しておきたいっていうのは分からなくはないですけど、
えーと、
そこら中にあるわけじゃないですか、
一方で。
今回の話だって、
この売掛金の話と、
えー、
アメフト部の話だけで、
ほとんど10時間ぐらいは、
一つのチャンネルで論じてたりする感じがするほど、
これしか見なくなっているっていう状態がある。
つまり、
こういうことばっかり、
えーと、
我々は注目している割に、
そして僕にはこれは力道以外の、
ものを持ち出すだけでも自然だって感じしかしないぐらいなのに、
力道は出てこない。
あの、
あの、
えーと、
綺麗な肌の、
白くて綺麗な肌の、
えー、
会見していましたけど、
えーと、
若い男性たちが、
どうして僕の目には少々女性的にも見えるような人たちばかりなのかっていうのが、
まあ気になってしょうがないんですよね、
私は。
誰もそこを気にしないんだろうかと。
あの中に、
えーと、
いかにもお父さん臭い、
えーと、
普通のこう、
ヒゲを生やした、
えーと、
ちょっと、
なんつうんですかね、
まああの、
おっさんですよね。
おっさんが一人もいないのはどうしてなんだろうっていう、
まあ非常に僕は考えさせられるんですよね。
相手のお客様も、
まあおそらくは、
ほとんどが若い女性で、
お金もない人たちなわけじゃないですか。
それが、
あの、
非常に肌が綺麗な、
まあ分かりますよ、
肌が綺麗な方がいいのは。
えーと、
清潔そうな、
うん、
それも分かりますよ。
でも、
なんかこう、
中性的な男性たちについての考察
中性的に見えるっていう部分は、
どうして、
全く誰も、
少しも触れることがなくて、
えーと、
でも、
この話には、
えーと、
何時間も何時間も報道している、
あらゆるチャンネルで、
まあNHKはちょっとしてなかったかもしれないけど、
そして、
えーと、
どう聞いても、
付け貸借金と言った方が良さそうなものが、
売掛金と言われていたりもするっていうね、
いやー、
ここは、
うーんと、
見る人が見れば、
そういう風にしか見えないだろう、
なんていう感じが、
私は、
精神力道っていう感じ、
その人の、
もう、
あの、
偏見だとは思うけど、
一人もいないとは思わないから、
一人ぐらいはですね、
いや、
お母さんを見てなくないでしょうかって感じが、
するわけですよね。
そのお母さんが不意に表現するっていうケースって、
私たちにも、
ものすごくお馴染みのケースですよね。
昨日まであんなに優しかったお母さんが、
今日はこんなに怖いっていうのが、
えーと、
3歳児とかには、
どういう風に映るんだろうっていうのが、
ここに何の関係もないって考えるのって、
むしろ、
めちゃくちゃ不自然な感じしか、
僕はしないんですよ。
でも、
そういう話は一切出てこないですよね。
誰一人、
一言もそんな話はしない。
これが、
えーと、
何らかの共生というものが、
ここに何も働いていないんだという風に解釈するのは、
僕にはとても無理なんですよね。
だから多分、
自分は、
ここでこういう話をしているんだろう、
と思うんですよ。
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