2020-10-23 36:06

【GMV240】世の中から悪をなくす

世の中が悪すぎると生きる気力がなくなっていく
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
いろいろと、このグッドモーニングバイブスについても、運営上の悩みというものがないわけではなくて、
本当にいろんなことが今サービスとしてもあるし、可能性としてもあるので、いろいろ考えてしまうんですけどね。
これは何らかの形で、これに近い形で、おそらくなるべくこのままの形でずっとやっていきたいと思ってるんですけれども、
それでもいろいろと、これをやめるというような不安を煽る話ではないんですけれども、
より仕事に活気づけられるような形を目指していきたいとはいつも思いながらやってます。
ということで、一応CMなんですけれどもね、明日鎌倉でこれから話すような話に近いことをきっとしゃべると思うんですね。
よろしければ明日の鎌倉、まだご参加いただけるので、確か夕方の4時半とか5時スタートぐらいなんですけれども、
よろしければと、これを聞いている人で、まだ申し込みされてなければですね、ご参加いただければ幸いです。
明日話すことの、そのベースになるような、大体そうなんですよね。
私は1日2日前にはそのベースとなるようなことについて考え込んでいて、話している、
たぶん明日お話しすることはですね、このベースからはだいぶ10倍ですかね、
こっち今考えているのは原液みたいなもので、ホットケーキでいうと元の液体みたいな感じで、
そのままじゃ料理にならないようなことをここでしゃべっているという感じで聞いていただければと思うんですが、
これは明日来る人の場合ですよね。
そもそも明日来られない方の場合には、この原液だけで満足してください。
最近ですね、すごくこれをやらないように努力しているってことが、
そういうことが多いですけどね、グッドバイオスをやって以来。
外に悪を見るということをとにかくモニタしているんですよ。
成ろうことならばこれをゼロにしようという自分の中の運動があるわけです。
これですね、一旦そういうルール、自分の外に悪を見ないというルールを決めると、
大変頻繁にやっているということに気づかされる。
後ほど言いますけど、それはじゃあ自分に原因があるとか、自分が悪かったと思うという話では全くないんですね。
03:03
自分の中にも、これは後ほど出せるかどうかわからないけど、
自分の中にも悪を見ないというのが結論としているんです。
そうするとこの世から悪が消えるんですよ、私の世界の中ではね。
そういうところを目指したいなと思っているわけです。
例えばですけど、今朝も散歩してですね、クラクションをガンガン鳴らして、
おばあちゃんがちょうど横断歩道を渡ろうとしているんだけど、渡るのを阻止してですね、
バババババババッと鳴らして、
あの辺だと時速40キロが多分方程速度なんだけど、
多分80キロは出てたねという感じだったんですよね。
ああいう時に起こる現象なんですよ。
あの車悪いよねと。
自然に思うんですよね。
私はようやくそれに思い至れたんですよ。
ああ、こうやって自分は投影しているんだと。
これ意味付けなんだということ。
意味付けなんですよ。
つまりイリュージョンなんですね。
現実ではないんです。
現実にはクラクションをいっぱい鳴らした、横断歩道を渡ろうとしているおばあちゃんがいた。
かすめはしていない。
方程速度のおそらく2倍に近い速度で走り去った。
これは現実。
その車が悪いというのが意味付けですね。
普通にするじゃんと言われれば普通にします。
私がしないように心がけているというだけです。
例えばこれを見ているのが犬だった場合。
実は犬も散歩していて犬も注目したんですよ。
クラクション鳴らしたからだと思うんですけどね。
だけど犬は多分絶対にあれが悪だとかは思っていないと思うんですよ。
それは犬だからそうなんですけどね。
でもつまりということかというと現実としてはですね。
私が勝手に付けている意味と全く同じものをすべての存在がそこに認めるわけでは絶対ないですよね。
これは何かヘリクスをこねているように聞こえるかもしれないんですけれども。
あの車ぐらいみんながおそらく悪い車だと思うケースではまだしも
こういうことをモニターしていないとですね。
私に限らないと思うんですけど。
人間というのはあらゆるものにすぐベタベタと悪のレッテルを張りまくっていくんですよ。
そうするととっても住みにくい世の中が出来上がる。
それをやっているのは自分の心なのに、
住みにくい世の中に住まなきゃならなくなるわけですよ。
06:03
先日じゃないな。
最近ファクトフルネスという本が非常にベストセラーになりましたが、
ファクトフルネスの中にですね、あの話を聞いて癒されたという人が出てくるんですね。
で、あの話を大変私はですね、うちの子は好きに違いないと思ったんで、
ちょっと難しいかなと思ったんですけど、
私たらやっぱり非常にのめり込んでですね、
ほぼ2日で完読した。僕よりだいぶ早いんですよね。
読書好きってこういうもんだよなぁと思いながら見てたんですけど。
で、感想が面白くて、
倉園さんの発想にとてもよく似てると。
倉園圭祖さんのグッドワイブスをうちの子も読んでますからね。
これを読んだのも僕より早いんですけどね、速度的に。
とてもよく似てる。
こういう指摘はですね、私もちょっと思ったことではあるんだけど、
まさか他の人から出るとは思わなくて、
非常にやっぱりそういうところあるよな、この本と思ったんですね。
で、特にですね、これは読んでいただいた方がいいんですけれども、
世の中が非常に悲惨なことになっていて、
この悲惨さの中で私たちは大変な苦しみに得ているというものの見方が流行っているんだけど、
ファクトは事実、事実はそうではないという言葉の本は、
だからファクト、そういう事実に満ち溢れているからファクトフルネスなんですが、
このドラマチックなものの見方という風に著者が言っていることと、
倉園さんがイリュージョンと言っていること、特に恐れと不安に関わることが
とてもよく似ているという風にうちの子が言っていたんですね。
私もそういう風に感じたんですよ。
意見がよく合うなと思ったんだけど、親子だからということもあるかもしれませんけどね。
要するにこれは一つの視点なんだなと思うんですね。
そういうドラマチックな見方を好むってことはないんだけど、
習性として持っているという人もいらっしゃるじゃないですか。
今回もこんな新しい政権になって日本はいよいよおしまいだという風に、
そういう視点を取るということもあるじゃないですか。
学術会議とかでも知性ある人が軽んじられているとかね、
あとトランプが大統領になったら、再選されたらとか、
そういう色々とドラマチックなわけですね、ある意味。
その引用によっては。そういう視点もあるじゃないですか。
これは視点なんだと思うんですよ、僕は。
本当に世の中がそれで滅亡するとか、国が滅ぶとか思っているというよりも、
一つの物の見方なんだと思うんです。物の見方の特殊…なんていうんですかね。
思考性というのかな。
09:01
その思考性の中の一つに僕はですね、
外に悪をベタベタと貼り付けるというのが、
人にはすごく目立つように思っている。
これをしかもやることでですね、生きづらい世の中を作り出すんですよ。
世の中を実際に社会運動みたいにして、
世の中を生き苦しくするというのではないですよ。
自分にとってそういう風に、あの車悪いなと思ったり、
色んな何か出来事があるたびにそこが悪いと思う。
つまり自分の外に悪を追い出すとですね、
当然世の中は悪だらけになっていくわけだから、
その世の中で生きているわけですから、
生き苦しくもなるわけですよね。
事実がどうであるかとは関係なく。
つまりクラクション鳴らしている車をふーって見ていた犬がいたんだけど、
あの犬はそういう生き苦しい世の中に生きていないわけですよ。
そういう能力ないですからね。
外に悪をベタベタ貼るという能力がないんで、
生きている世の中が悪に満ち溢れているような感じはしないはずなんですよ。
こういう話をですね、今かなり考えていて、
とにかくこの投影なんですけど、
これは投影というんですが、
外に悪を見るにやめようと思ったんですね。
とにかく宙吊りにしておくという感じなんですけど、僕の中では。
どうしても外に飛び出してしまいそうになるんで、
私の投影が。
車に貼り付けるのをやめると、
僕が投げかけたものがそこに止まるじゃないですか。
宙ぶらりんになるんですね。
この宙ぶらりんの状態をどうしようかっていうのが、
今自分の中で課題となっているんですけれども、
貼り付けずに済ませるんだけど、
かたや自分に貼り直すというのはナンセンスじゃないですか。
危うく車がすごい勢いで走っていったから、
私が悪いというのはおかしいですよね。
ただ、これはですね、さっきも言いましたけれども、
外に悪を投げかけない人が、
代わりにうちに悪を持ってきちゃうというのは、
ものすごくよくある現象で。
例えば、会社の上司が理不尽なことを言ってきたと。
この時不愉快になる。
ここにポイントが出てくるわけですよね。
この悪をどこに貼るかという分岐点が発生するわけです。
この段階ではまだ、とにかく上司がグニャグニャと、
あるいはすごい賢悪で怒鳴っている。
それっきりなんですよ。
私ね、これ何度もさっきも言った通りのことを必ず考えるようにしたんです。
これを犬が見てたらどう感じるんだろうと。
上司が悪いって考えないはずなんですよね。
だからこれは多分意味づけなんですよ。
とにかく意味づけなんですよね。東映だから。
上司が悪いと考える。
12:00
あのパワハラの上司だみたいな、いつものことだというふうに考える。
これが外に悪を置くという考え方ですよね。
こうして生きづらさがまた一つ増えるわけですね。
悪い上司が外にいるわけですから。
悪い車が一台走り去って、
世の中がどんどん悪が増えていって、生きづらくなるわけです。
僕はそれをやめたいので、悪を一旦チューブラインにするんですけど、
今度は戻ってこようとするんですよ。
図式的に喋っているとただシュールなだけですけれども、
実際にそういうことってよく僕らの先進状態には起こると思うんですよね。
すごく結膜で上司が怒っている。
私が悪いと。
自然な考え方じゃないですか。
この2つの自然な考え方は、私たちが一般にやっていることなんですね。
外に悪を見る。私に悪を見る。
私に悪を見ると非常に抑圧的になりますね。
上司に悪を見ると、上司をできれば罰したくなります。
というか罰します、多くの場合。
どんなやり方で罰するか。
内心で無視するとか、
後で仲のいい人と上司のことを徹底的にこき下ろすとかですね。
とにかく罰するわけですよ。
悪があるとだいたい人は罰するしかないと思うんですね。
悪い車が走り去っていって、
やらないと思うんですけど、
もしかするとおばあさんのところに行って、
大丈夫ですか、ひどい車ですねと言って罰する。
この罰がそれほど有効であるかどうかは、この際関係なくて、
ただ私たちは罰欲みたいなものがあるんですよ、きっと。
悪を見ると。
だから罰したくなると。
この悪と罰がセットであることを思うとですね、
もし上司の見膜に対して自分に悪を見ちゃったら、
自分を罰するじゃないですか。
あんなミスをした、自分が悪いみたいな。
これもせずに済ませるのは本当に難しくてですね。
先日も私ちょっとしたコンサルの人と議論になったんですけれども、
悪を自分に認めず、外にも認めず、一切認めず、
ミスが罪と言わないならミスと言おうと。
その方だったんですね。
ミスをしてその人を罰することもできなかったら、
そんな恐ろしいことはない。
これはですね、私やっぱりそういう教育ってあるんだなって思いました。
私はそれがそこまで恐ろしいとは思わないんだけど、
ミスをした以上は、なんかみんなでシュンとなるべきだみたいなのが、
そうしないとある種の終止符が打てないっていう感じがあるんですね。
その方大変いい事例を持ち出してくれて、
ものすごく時間がない教室の中で、
そういうこと教室って頻繁にあるんだそうなんですね。
その方先生なんで。
で、その中で男の子がふざけて支柱をぶちまけたと。
15:01
ありましたね。私も記憶にあります。
私がぶちまけたんじゃないけどね。
そういう子いるじゃないですか。
全く空気が読めず、無駄に走り回りまくる子。
そういう子の存在って、私今思うと大変有意義だったなと思う。
こういうことを考えさせてくれますしね、私にも。
私は絶対にぶちまけない子だったから、
そういう機会を誰にも与えられないわけですよ。
これは余談ですけどね。
とにかく支柱をぶちまけると。
それがトマトソースとかが付いてたらもう最悪ですよね。
結構綺麗な服着てる女の子とかもいて、
べったりになるわけですよね。最悪ですよね。
で、時間がないわけですよ。
この子と子供はあんまり認識できてないけど、
先生はいつもそのことを実は結構気にしていて、
1時10分には整然と食べ終わってるのが理想なのに、
あの先生は教室運営がなってないとか、
後で必ず言われることになるわけですよね。
こういうことが頻繁に続けば。
ところがとにかくそういうことを全く理解できないで、
ぶちまけるという子がいると。
その子はいつも教室中走り回ってるような子はいますよね、男の子に。
3、4人は絶対に。
で、これが起きたときに、
外に悪はないとするならばですよ。
その大騒ぎしてる男の子が悪いと見なさないならば、
どうするのかと。
先生は多分自分が悪いって思うだろうと。
で、すごく欲打つ的になるでしょうね、そうしたら。
私はもうこんな教室運営も全然ダメで、
バカ騒ぎする男の子も全く投与できないダメな先生だ。
そう思って、
先生が不登校になってしまうという、
不登校とは言いませんけど先生の場合。
いっぱい事例は今あるみたいです。
特に都内でも。
なぜ都内ではなのかちょっとね、
その辺は私分かんないんであれなんですが、
あるらしいです。
あるだろうなとは思います。
そういうことで思い悩めば。
自罰的になるわけです。
そうすると佐々木さんはその場合、
どこに何を見出すのかって話になるんですけど。
僕はこれ、ところがですね、
これはぐったわ様子以前からずっと疑問に思ってたんですよね。
なぜあんなに先生は、
脅迫関連にとらわれたみたいな人になっちゃうんだろうと。
要するにそういう風になって、
子供に往復ビンタ食らわせて、
一回僕会ったんですよ。
うちの自分の担任ではなかったんですけれども、
舐めろと。
床を舐めろと言うんですよね。
罰を与えたいわけですよ、先生はね。
で、他の時も思うんですよね。
その先生ってひどいよねって話をしちゃダメだと思うんですよね。
外に悪が出るじゃないですか。
これをとことんやめるように持っていくと、
子供も悪くなくて、先生も悪くなくて、誰も悪くないと。
ちなみに子供の中にはですね、
私が悪いのかもしれないと思う非常に良心的な子がいますよね。
18:04
そういう女の子とかに多かったと思うんですけど、
自分の中に悪を見ちゃうと。
怒られてるのは自分なんじゃないかと思う。
先生は連帯責任だとか、
すごいことを言い出す人もいらっしゃるんで、
そういう感覚にいよいよなりやすいんだと思うんですけど、
これがHSPでよく言われてるんだけど、
これはHSP持ち出さなくてもですね、
やっぱり自分の中に悪を見る習慣をつけると、
誰が怒られてても自分が悪い気持ちになっちゃうというのは
十分あり得ることなので、
そういうことに過ぎないのではないかなという気がしますね。
ある意味では。
HSPという概念そのものが無効だとまで言わないですけれども、
その自分の中に悪を見つける癖がついてると、
結局これある意味癖なんで、
だからやめることができると僕は思ってるんだけれども、
外に居そうになったやつを全部投げ縄みたいなのにギュッと絞めて、
チューブラインにしておくんですよ。
悪をブラーンという感じで。
そうすると、誰も悪くなくなるとどうするかというと、
必要だったら拭けばいいじゃないですか。
それで済むと思うんですよね。
当時もそう思ったんですよ。
若干の行動注意はあるにせよ、
あんなにテンパらう必要はないんじゃないかと思うんですね。
あんなにテンパるのは当然、
Good Vibesというところの恐れと不安が
強烈に突き上がってきてるからなんですけど、
そういう突き上げを起こすようなことを
先生に追わせていることに問題があると本当は思うんですけれどもね。
でもまあそれはそれとして、
さっきのビューンっていってしまう車とか、
全部そうなんだと思うんですよ。
実はそこで何かが起こっちゃったら問題ですけれども、
何もなかったのであればですね、
宇宙ズリに悪をしておくことによって
誰も罰さずに済む。
何が一番いいかというと、
罰さないことによって、
まず先生に不登校みたいになったりせずに済みますし、
なめさせられた子供とか、
絶対後々いろいろな格好を残すので、
でですね、
罰してしまうと、
その子が悪であることが確定してしまうんですよ。
多くの人の目の中で。
これはイリュージョンなんだけど、
現実ではないんですけどね。
で先生は、
先生に限らないんですけどね、
その場にいる数人の人プラス先生が
引くんですよ。
自分のやったことに。
なめさせるな。
行き過ぎじゃないですか。
発狂してるわけじゃないんで、
正気に戻るわけですよね。
その時に、
悪と確定してしまうので、
して罰を与えてしまったので、
引くに引けなくなるんですよね。
21:00
罪悪感を持ちます。
普通の人であれば。
先生、罪悪感を持つというのは、
自分の中に悪を持ち込むことになりますよね。
ここでさっきの、
悪が外に出た上に、
自分の中にも入ってきて、
これをどうするかという問題が、
新たに発生するんですよ。
こういう連鎖が私は大変、
投げかわしいというか、
行きづらさを増すと思うんですね。
この内心に、
罪悪感を抱えた先生が、
普通にやることはですね、
もう一回すると、
外に出すんですよね。
それしかないと思うんです。
外に出すということになると、
どうなるかというと、
その男の子が、
こんなにひどいことをしなければ、
私は罪悪感を持たずに済んだ、
という解釈になると思うんですよ。
だからその男の子が、
一層腹が立つようになると。
この事態を、
私たちはよく家庭内環境とかに、
持ち込んでいると思うんですね。
夫との喧嘩とか、
ちゅっちゅう吐く、こういう構図になっている気がするんですよ。
何かミスを犯す。
僕がでもいいですよね。
娘がでもいいですけど、
なんかシチューをこぼすみたいな。
さっきと同じですよね。
なぜかテンパっている奥さんが、
そこにいて激怒すると。
そうすると、
娘がシュンとなると、
ますます腹が立つわけですよ。
罪悪感を持つからね。
私がシュンとしても同じです。
罪悪感を持つわけです。
怒った人は罰だったので、
相手に対する罰をくらった人が、
シュンとしているのを見て、
悪いことをしたと思う。
と思いたくないじゃないですか。
つまり、
シチューがこぼれたとか、
牛乳がこぼれたとか、
相手がシュンとなったとか、
何なのかそれは。
それは全部、
気分が悪いですよね。
そこに何かニーズが発生した。
ような気がする。
ような気がするだけなんですよ。
えーと、
こぼれた牛乳やシチュー、
見ているのが猫だったら、
この視点、本当に私、
結構使うんですけど、
これ幸いとなめますわね。
ここに、
片付けねばならないとか、
ひどいことが発生したという、
そういう発想は持たないですよね。
だから、
私の思うに、
人間だったら、そうはいかない。
床なめて喜んでいる場合ではないから、
何をするかというと、
ニーズが発生したと
考えればいいはずなんですよ。
そこに片付ける
というニーズが発生した。
シチューでも
そうですよね。
シュンとしている人がいるなら、
慰めるとか元気づけるという
ニーズが発生した。
そう思えば、
何が原因で
そうなったのか、
悪人を裁こうみたいな話にせずに
進みますよね。
何かニーズが発生したと
24:01
思うんですね。
ニーズというのは、
何て言うんですかね、
ニーズと捉えるか、
自分の気持ちを害する
アクシデントが発生した。
その先生の議論した方が
おっしゃったのは、つまりミスだ
という話なんですよね。
ミスは過失だから、
悪意はないかもしれないけどやはり
罪だろうと。
私はそうは到底思えないんですよね。
ミスが罪なのかと。
業務上過失という概念は
ありますけれども、
あれだってぐっと軽くなるじゃないですか。
そもそも過失なのか、
故意なのかを必ず検証しますよね。
ということは、過失というのは
僕は罪じゃないと思うんですよ。
過失と捉えるよりも
なお良いのは、
ニーズだと捉えるべきだと
思うんです。
この発想はですね、
この感覚は
娘が生まれたての時に
考えたことなんですね。
だからグッドバイブスイーティングなのか、
このことにもこだわっているようなんですけど、
別にこだわりはないんですけどね。
娘が生まれた時なんですよ。
よーく考えてみると、
よーく考えてみると
面白い現象だと思うんですけれども、
娘が生まれた時、
ゼロ歳児ですね。
ゼロ歳児の時っていうのは、
コミュニケーションは成立していないのに、
あたかも成立しているような
ことになるんです。
なぜならば、
娘は喋りませんからね。
おっぱいが飲みたいだの、
お腹が空いただの、
言わないわけですよ。
コミュニケーションは長いですよ、結構。
そうすると、
コミュニケーションが成立してもいないのに、
お腹が空いたんだなと、
こっちで考えて、
ミルクの時間だとか
って言うわけじゃないですか。
あれって相当不思議ですよね。
よーく考えてみると。
目高にエサやる時も同じことを
よく考えるんですけど、
そこにあるのはニーズですよね。
要求じゃないですよね。
要求はないんですよ、そこには実は。
そういう要求はできないんです。
しないんですよね。
牛乳のミルク飲みたいと、
言わないですからね、一言も。
これ、当たり前だのように
思えるかもしれませんけれども、
僕は全然
当たり前な気がしないですよね。
ここに依頼や要求や要請は
一切ないんですよ。
ニーズがあるっきりなんですよ。
ニーズがあり、
でも飲みはする。
そしてニーズが満たされる。
パソコンとか、
コミュニケートしてくるじゃないですか。
バッテリー交換してください。
あれは要求ですよね。
ニーズではなくて。
まあニーズなんですけどね、
多分。
意図はないと思うんですよ。
車とかは要求してきませんよね。
27:00
オイル交換しろとか言ってこないですよ。
ほども高級な車じゃないと。
ましてミラー壊れたとか。
全然、ただのニーズです。
ただのニーズというのはどういうことかというと、
本来そこに
悪を見出さなくてもいいはずだと
僕は思うんですよ。
ここに全部、
悪を見出すという悲惨なものの
見方もあり得ると思うんですよ。
車をぶつけてひどいことをしたと。
直しに行かなければいけない。
過失だと。
こういう視点を取るケースって
多々あるじゃないですか。
人によってはですね、
お母さんが泣いていると
怒り出す、
お母さんみたいな方も昔いたわけですよ。
ほらあなた何やってんのみたいな
あれ、あれ本当にあるんですよ。
僕は聞いたことがあるんでね。
この時代で。
ニーズだったはずのものが、
ニーズ以前だったはずのものが
過失になっちゃうわけですよ。
だから僕は過失を
罪と見出すっていうのは
行きづらくすると思うんですよね。
そうすると
外に悪が出てくるわけですよ。
あるいは内側に悪がですね。
つまり泣き喚く赤ん坊は
悪になっちゃうわけですよ。
あるいは泣かせておくお母さんは
悪になっちゃうわけですよね。
そういうことをすると
どうしてもやっぱりこう
やりにくくなりますよね。
いろんなことが。
いやいや、あれはまだ泣いても大丈夫だから
放っておいてもうちょっと経ったらとかいう
そういうやり方があったはずなのに
認められなくなったりもするわけですよね。
落ち着かなくなりますよね。
落ち着かなくなりますよね。
そういうことって
僕らの周りには
めちゃくちゃ頻繁にありまして
外に
悪を見ると
いちいちですね
できないことが
増えていくというか
近づけないものが増えていって
要するに
一言で言うとですね
無気力になっていく気がするんです。
今私
それをやめるようにしてから
結構に物をやるのが
簡単になったんですよ。
これなんですよね。
気力を取り戻すために
何をすればいいかっていう
答えがこれだと大変キーな感じが
すると思うんですけど
悪を投影しなければ
いいってことになっちゃうんですよ。
そうすれば気力が戻ってくる
気がするんです。
えーと
悪を投影するとさっき言った通り
罰を与えたくなっていくんだけど
罰モードって不思議なことにですね
これを鎌倉で
明日言いたいんですけどね
ずーっと続くんですよね。
小さいですよ。
例えばさっきも言った通り
おばあさんと一緒にあの車ひどいですねと言う
小さいじゃないですか。
ほとんど罰を相手に与えたことにはなってないし
内心で課長のことを無視するとか
後で親友と
こき下ろすとか
全部小さいですよね。
小さな小さな罰です。
30:01
でも、ずーっと続くんですよ。
で、ずーっと罰を与え続けていると
とっても気力を失っていきます。
それに
これをやっていくと途中で
申した通り
自分の中に悪を見るようになるので
罪悪感を持つようになるんですね。
やりすぎだと思うときがあるから。
そうすると今度はずーっと
自分をオーバーし続けることになるわけです。
これを止めるだけで
多分気力は回復するはず。
それもですね
一気に回復するんですよね。
私の経験では。
あっという間に回復するんですよ。
止めてから
iPhoneの充電みたいに
じりじりと回復するというのがあって
止めると一気に回復するんですよ。
これが大事だなと
思うようになりました。
だから
死中こぼした事例が
所詮そういう事例しか
出てこなかったとも言えるんですけど
所詮そういうことのために
こんなことは
やってられないなって思うようになるんですよ。
きっとこれを
少しでもできると。
少しでもするのはすごい簡単なことなんですよ。
なぜなら僕らはしょっちゅうやっていて
しかもほぼ有効な罰を
下しているわけではないんですね。
その車の
暴走車みたいなのを
引きずり出してきて
おばあさんに謝らせるとかそういうことができるはず
なんですが、気がついたときはもう見えなくなってましたからね。
台内の場合そうなんですよね。
有効な罰とかいうものが
あるわけじゃないのに
何かこう
何にもせずにいることが
不愉快だとか
あの
終止符が打てないとか
ずっきりしないとか言った理由で
小さな小さな罰を全く意味もなく
与え続けていると
いずれ必ず気力がなくなっていって
でもそのとき
決して気力がなくなった理由が
この
罰則主義にあるとは
思いつかないので
多分でもその人は
世の中がすごく
ドス黒くなっているような感じは
抱くと思うんですよね。
よくてもダークグレーみたいになっているという
感じは抱くと思うんですよね。
そしてでもそれは
自分が投影しているからだとは
夢にも思わないと思うんですよね。
でも気づかないと多分
なんかこう
両親JV状を飲んで
回復しようみたいな
すごく僕からするとそれはやっぱり
ズレ高い傑作になっちゃって
ライフハックというのはそういうところが
あまりにも多すぎると今思うんですけどね。
そこを何とか
したいという風に
思っております。
もう一つ追加で
この発想は実は
非常に近いものが
非常に近いというか
今しゃべった通りのようなものが
精神分析の
33:01
世界にもあります。つまりフロイトが
フロイトではなくて
フロイトの一番弟子に
一番弟子でもないな。
メラニ・クラインという女性が
言っていることに限りなく近いんですよ。
皆さんが聞いたことのある
言葉としては多分
良いおっぱい悪いおっぱいという
あれが近いと思います。
幼児が持つ
万能感という言い方をするんですけど
幼児というのは万能感を持つと
外に全部悪いものを
追い出すので
外に全部悪いものを追い出すというのは
万能感の表れなんですね。
だからこれを
臨床の世界では対抗
幼児への対抗と言うんですけれども
どういうことかというと
例えばこう最近
Evernoteが大幅バージョンアップして
私はノートにですね
あのバージョンアップはちょっと
私にはあんまり好きになれなかったから
しませんでしたみたいなのを書きましたけど
あれが、私のあの感覚が
もうちょっとずっと同行すると
Evernote社は悪だということになりますよね。
そうなるはずなんですよ。
つまり
自分は正しいわけですよ。
正しくEvernoteを使っているから
正しいバージョンアップの方向性としては
こうではない。
という風な
パターンになっていくわけですね。
突き詰めるとひどいクレーマーですよね。
この時クレーマーは万能なんですよ。
自分は万能であり
正しく生きている限り
絶対に全てが良くなるはずのように
外の
Evernote社のような
悪が
間違ったバージョンを
アップするから
自分のこの万能が
実現できない。
幼児はこれに近い状態で
生きているという一つの仮定を取るんですね。
さっき言った通り
ミルク欲しいと言うまでもなく
ミルクがやってきますからね。
そうでなければ幼児は
生きていけないですよね。
でもそのようなことを幼児は知りませんから
万能なわけです。
なけば何とかなる。
すごいですよね。これは完全に万能です。
ただし
極めて力の弱い万能ですけれども
万能は万能です。
この万能が
すごく大事なんだというのが
精神分析の
特に小児会のような人たちが
言うんですけれども
この時に万能感を十分与えられないと
非常に後々面倒くさいことになるよ
というのがよく言われることなんですけれども
そういう話なんですね。
だから
悪を外に全部追い出すというのは
当然万能になるわけじゃないですか。
自分絶対前で
生きていけるわけですから。
でもその生き方は
とても苦しいわけです。
多くの場合はクレーマーみたいになって
いってしまう。
なぜならば
とても生きにくいわけですよね。
自分は万能でも
世の中は真っ黒なんで。
そういうのが
善悪というものは
生み出すよなというのも
36:01
あります。
36:06

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