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2020-07-30 39:53

【GMV 195】バス恐怖症

恐怖症を克服するのは、ほんの些細な恐怖症でもとても有意義でした。
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日ですね、なかなかこう自分としては
新しい発見が、発見は新しいと思うんだけど、新しい発見がありまして
大変良い経験だったなと思ったんですね。
昨日ちょうど
真っ暗座の平蔵さんと会って、その帰りのことなんですけど
簡単に言うと乗る電車を間違えたんですよ。
それで本来私はその小田急という電車で
藤沢を回って帰りたかったんですけど、なんか乗っているうちに明らかに見たことのないところに来てしまって
気がついたら秦野に、秦野っていう駅にいたんですね。 そこからバスに乗って帰るのが一番良かったんで、そうしたんですけど
あの、まあやっちゃうんですよね私は時々こういうこと。寝てたわけじゃないんですよ。
ただ、慣れない電車だと乗り換えるべき駅を乗り過ごすんですね。
で、まあそれはいいとして秦野に着いてバスに乗って
まあそこからせいぜい20分もかかんないぐらいなのかな。で、家に帰りつけるんで
まあまあそれはいいやと思ったんですけどね。 乗っててですね、すごい嫌な気がしてきたんですよ。
てか嫌なバスだな、このなんかこう 地方のね。地方といっても別にうちからそんな遠く離れてるわけじゃないんで、うちも地方なんですけど
あの あんまり人も乗ってなくて
その方が空いてていいんですけど、夜だったし嫌だなぁと思った時にですね。
今まで自分は嫌じゃないバスって乗ったことあっただろうかって不意に思ったんですよ。
あの まあ簡単に言ってしまうと自分はバス恐怖症なんですよ。
いや、あのね、そのことにも昨日気がついたんですよ。 バス恐怖症だということを
気がつかないレベルなんですよね、そうは言っても。 クラゾンさんはなんかこう高所恐怖症で飛行機に乗ると動機が高くなるとか書かれてたんですけど
そこまでは全然いかなくて、別に心拍数も測れば上がってるかもなぐらいな感じで
あの薄い恐怖症で正直静電気より怖くないレベルなんですよ。
ただこれが良かったんですね。 じゃなかったらわかんないことがいっぱいあったと思うんですけど
とにかくこうバスが 怖いんですね、でもやっぱり
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恐怖症だとは自覚できなかったけど、この歳になるまで
怖いんだということがわかったんですよ。
で この弱い恐怖症だったもんだから
あ、これは良いチャンスというかなんというか これは絶対イリュージョンの入り口に立っているわけだから
これは色々発見がありそうだと思ったんですね。 グッドバイブスの影響ですね。
何がまず怖いんだろうと思ったんですけど、実は何もかもが怖いんですね。 よくよく見てみると
よく現実を見に行くっていうメソッドというのかなが グッドバイブスにありますが現実が見えないんですね。
これが大事な点で、例えばなんですけど手すりを見るじゃないですか。 手すりが怖いんですね。
なんで手すりが怖いんだろうと思ったんですけど、それは基本的には全部記憶に結びついてて、 記憶が結びついてるんですね。
あの 昔バスに乗ってて手すりにこう
バスってすごい揺れるんで立っていると押し付けられたりするんですよね。 それがそういう記憶があってですね
子供の頃の記憶、全部バスだいたい子供の頃に乗ってたんですよ。
で、それにこうひどく押し付けられた。 まあそんなもんなんですよ、でもね。
で、 まあ手すりはいいやと思って、ふとこうバスのエンジンがかかった。
そうすると、あっエンジンが嫌いだって思ったんですよ。 このエンジン音も好きじゃないんだと。
これなんでなんだろうと思ったんですけど、あのエンジン音がして不意に発射するんですよね。 で、こけた記憶が蘇っているんですよ。
そういうこともあったんですね。 何しろね、子供が乗るにはバスって多分確かにね
あんまり乗り心地の良いもんじゃなかったんですよね。昔はですけどね。 で、えっと
太ですね。太ってもないんだけど、こう あのよく次降りますみたいなボタンあるじゃないですか。あれ見た時にあれも怖いなって思った。
あれはですね、やはり私その肌のに行ってしまうぐらいなんで、バス乗り過ごしたことが何度かあるんですね。
で、バスの駅名ってわかんないじゃないですか。 なんかなんとか三丁目坂下とか、変な名前ばっかりなんで。
覚えにくいわけですね。たとえ地元であっても。 で、まあ乗り過ごしたと。
多分自分ですね、あのしっかりしている子供っていうことになってたんで。 6歳とか7歳でも平気でこうバスで遠出をさせられるみたいなことがあったんですよね。
そうするとそんなしっかりしてようとなんだろうと、6歳とかで、えっとこう 伸び止め三丁目下とかわかんないわけですよ。
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そんなもん。だから乗り過ごすんですね。これはですね、強烈で、ボタン見て嫌な思いをしたのはその手すりとか
エンジン音の日ではなくてですね。 かなり気持ち悪くなったんで。気持ち悪くはならないんだよな。やっぱ薄いんですよね。
薄い、なんか嫌な色だなみたいな。色違うはずなんですけどね。 そういう
薄いイリュージョンがね、いちいちバスのすべての場所に走る。 もう一つすごい嫌なのが、小銭に入れるところなんじゃないですか。
あれちょうどの金額入れないといけないんですよね、バスって。 私、運転手さんに何度も怒鳴られたことがあるんですよ。
ちゃんと小銭に用意しとけみたいな。昔の運転手さんってそうなんですよ。 こっち逆なのに、たとえ子供でもね、なんか怒るんですよね。
あの思い出も相当良くなくて、バスの運転手さんには申し訳ないんですけど、すべてのバスの運転手さんを僕はね、嫌いなんですよね。
多分。でもそれって、今はスイカとかだから、小銭の用意とかはいらないわけですよ。
ところが、自分なんかしかもアップルウォッチで乗り降りしているのに、あのね、小銭がとかって思うんですよね。
だから、これはもう記憶なんですよ。で、一つ一つ考えてみると、すべてがですね、記憶で。
で、あとでもう一つわかったのが、バスってやつはどこに行くかわかったもんじゃない?
これ電車だと同じなんですけど、僕乗り過ごしているぐらいだから。なんか電車はレールに沿って正しい運行をしている感じがするんですけど、バスって結局道路を走っているんで。
しかも、やっぱり夜のバスが嫌なんですよね。本当にどこを走っているのかわかんないから、もう本当にどこに連れて行かれるかわからんみたいな。
やっぱり子供っぽい発想ですよね、これも。
で、Googleマップ見て、今ここみたいなのを見ていると落ち着くんですよね。
だから、このどこに連れて行かれるかわからない、ちょうどの小銭をどう用意していいかわからない、どこで降りればいいかがはっきりしない、
あとやたらと揺れたり、急停車、急発進をする、この辺が全部入り混じって、弱いバス恐怖症を作り上げてたわけですね。
で、この弱いのは何がいいかというと、一個一個来るんですね。
あの、私の経験では恐怖症ってのは一気に怒涛のように来ちゃうんですよ。
雷が一番怖かった時はそうで、光るとこう怒涛のように来て圧倒されてしまう感じがあったんですね。
で、あれだとよくわかんないんだけど、バスのように取手を見ると取手から来る感じ、
小銭入れを見ると小銭入れから見る感じ、運転手さんの声を聞くとその声から受ける感じ、
一つ一つがですね、分析的に恐怖感を揺すってくるんで、すっごいわかりやすかったんですよね。
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あ、ここから逃れる方法をこの乗車中に探り当てようと思ったんですよ。
意味付けを手放すとか一つ一つ、一つ一つやる余裕があるわけですね。
一つ一つやってくるから。
意味付けを手放すっていうのをやろうとすると、全部意味付けは記憶から来ていて、
しかも大体ですね、私が浅蚊に住んでいた時の、浅蚊のバスに乗っていた時の記憶なんですよ。
それはね、スイミングスクールとか通わされていた時代もあったんで、
スイミングスクールとの記憶の性もあるんですね。
僕スイミングスクールも嫌いだったから。
そういう風に一つ一つがですね、自分の中では割とはっきりした記憶と結びついていて、
それが全部ネガティブなものだから、バスに乗った瞬間にネガティブな記憶がですね、
多分、これをプライミングって言うんですけどね、記憶のプライミングって言うんですけど、
その記憶が飛び出す準備段階に入るんですよ。
これが恐怖症の全てとは言いませんが、これはすごくでも大事な要素になっているに違いないと。
いろんな一つ一つのパーツなり、意識対象とか言うんでしょうけれどもが、
段差とかですね、バス段差大きいですよね。
がですね、すべて小さな小さな恐怖感をいつでも飛び出せるようになっているために、
そのいつでも飛び出せるようになっている記憶の全体のセットがですね、非常に柔わりとではあるんだけれども、
ホラー、やっぱり映画っぽいんですよね。
ホラー映画っぽい雰囲気を作り出しちゃう。このバス地獄行きみたいな。
バカっぽいんですけどね、ホラーっぽいっていうのは。今言ったみたいに。
そういう感じでもどうしても乗ってて持つんですね。
で、一つ一つ意味づけを手放すということをやってみて思ったのはですね、
つまりこれは、現実に戻ればことは足りるんだと。
自分はバスの中に入っちゃうと、イリュージョンの中にも入っちゃうことになって、
現実に出ていけなくなるんですね。
これが多分ですね、はなはなしくなってくると、閉所、閉じ込められる恐怖症ともかがんでくるだろうなと思ったんですよ。
要するにイリュージョンの中に閉じ込められるって最悪じゃないですか。
だからホラー映画の中に放り込まれるみたいなものなんて最悪なんですよね。
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出るのは実は本当は簡単なはずで、その場合は現実に走っているわけだから、
現実に走っているという認識の方へ出ていけばいいですね。
ちょうどですね、自分は昨日のバスの中ではその境目にいたのでよくわかったんですね。
イリュージョンに入ったり現実に戻ったりを繰り返すんですよ、バスの中で。
すごい変わるんですよね、バスの感じが。
急に、私は公共交通機関が一瞬、夜嫌なのかなとか寂しいと嫌なのかなと思ったんだけど、
それは全くなくて、公共交通機関の寂しいやつに乗るのは例えば電車だと好きなんですよね。
私は中学の頃ちょっと乗り鉄っぽい時期が一度きりあって、
田舎の方の電車に行こう、人が乗ってないような電車に乗っていると非常に素晴らしいとか思う方だったんで、
それがバスになると途端にダメになるのは全然違う理由によるところが大きいわけですね。
で、バスだっていいわけじゃないですか、その田舎のバスに乗るのがいいと思う感覚はあるはずなんですよ。
電車があるんだったら。ところがバスの場合は全部悪い記憶に結びついているものだから、悪いイメージしかないと。
ところがですね、それは弱々しい記憶なんです。そんなにバスで決定的に嫌な目に遭ったことはないんで、
弱いんで、出られるんですよね。
出ようと真剣に思える。で、出ると不意に何もないんだけど、
また気がつくと入っちゃうんですよ。ブルルルンとかいうのを聞いた瞬間にパッと入るんですよ。
それを繰り返しているうちに、あ、こういうことなんだと思ったんですね。これをどういうことなのかを伝えるのは非常に難しいんですが、
そうですね、
ちょっと悪夢を見ては目覚めて、 また寝てちょっと悪夢を見ては目覚めてっていうのを
20分のうちに本当に100回ぐらい 出たり入ったり出たり入ったりを繰り返すという感じ
がしましたね。 というか、がしたんじゃなくて本当にそういうことがありました。
すごい面白いんですよね。急にホラーっぽくなったり、急に普通の景色になったり、また急にホラーっぽくなったりするわけです。
これはたぶんグッドワイブスでこういうことをやったせいであって、あの時に ただ乗ったままだったら気づかなかったと思います。
ああ、嫌なバスだなって絶対思ってたと思いますね。 いつもそう思って乗ってたんだよね、バスに。
耐え難いってほどじゃないんですよ。それに乗っていると気がおかしくなりそうだとかは全然ないんですよ。
嫌なバスだぐらいな感じなんですよ。 だからわかんないんですよね。それがイリュージョンだということに非常にある意味気づきにくいレベルで
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なんてことはないんですよね、本当に。
で、でですね、これはつまり結局解釈なんで、何がおかしいかというと
言ってみれば記憶に乗っかってるわけですよね。 本当のバスに乗ってるというよりも。
この言い方以外に何かうまい言い方が欲しいんだけど、どうしてもこういう言い方になっちゃうんですよね。 記憶に乗っかってるんですよ。VRなんですよね、あれは。
VRをつけたり外したりを精密なVRをつけたり外したりを繰り返している感じでしかなくて、
もはやVRであることは確実にわかっているんで、怖くもなんともないんだけど、でも嫌な感じはやっぱりこう、うっすらと残っている。
で、ここから完全に脱してみようと思ったんですね。 もうつく頃に近づいてきて。
とにかくここから完全に脱するってことができれば、できても大して違いないけれども、できれば
自分、今後イリュージョンとか恐怖症に対してはだいぶこう
取り込まれずに済むという感じですよね。 でですね、非常に驚いた、驚くべきことが自分の感じではあって、
これ誰かが脱落って表現したんですけどね、バスって言葉が脱落したんですよね。 この繰り返しやっているうちに。
バスというもの、なんていうのかな、概念が
崩壊して、現実のバスに乗っているっていうのは、
こういう表現を取れないんだということがわかったんです。 自分はバスに乗っているというのは嘘だと。
この現実ってのはその名前を、なんて言うんですかね、哲学者が言ってたんですよね。それ、言わんとしたことはよくわかったんですけど、
デリだかなんかだったと思うんですよね。 意味はわかったんだけど感覚はよくわからんというやつなんだけども、
たまにはあるんですよ、そういうことって。 これに名前をつけることには何の意味もないっていうような、
その名前のことがわかんなくなるわけじゃないんですけど、でもこれにバスとか言うのは意味が全くない感じっていうのがね、
不意に来たんですよね。 すごい不思議でした。なんていうのか、そういうことまで目指してなかったから。
バスという、要するにこれは1回限りの経験だとして捉えると、
これはバスに乗っているっていうことではないって感じなんです。 タスク主導流に言うとこうです。リピートタスクというものを拒否する感じがあるんです。
今日食べてるのはこれは朝食という名前を与えるのはダメだみたいな、そういう感じ。 それが不意に来たんですよね。あれはですね、
経験によってあれはあんまりなんかすごい嫌なものになる可能性もある気がするんですけど、 剥き出しの現実って感じなんですよね。
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バスに乗っているっていう感じの前に現実が来ちゃうみたいな感じ。 なんか異常に覚醒感があるんですよ。変な。
で、それは全くそれまで見ていたイリュージョンみたいなものを完全に拒否するんですね。 1回しか起きないって感じがすごくするんですよ。
まあ1回しか起きないんですけど、その時その場でそのバスに乗るのは1回しか起きないんで。
なんか58系統とか言うじゃないですか、同じバスなんですけど、 二度と同じ票には乗れないじゃないですか。そんなことを何度こうやって一生懸命言ってても意味ないんですが、
なんかそのことがですね、不意に体験として来るんですよね。 これ、これしかないという感じ。
で、えっとですね、 その時同時にこう思ったことがあって、
だってその今日、 乗り過ごしたって私思ってたけど、
それは一つの解釈ですよね。 こっちに乗ろうとしてたって思ってもいいわけですよ。
肌に乗り過ごして行っちゃったと思ってたわけです。ずっと思ってたわけです。
グッドバイブスというのをそれまで倉園さんに会っていたにもかかわって、 しかもグッドバイブス的なことを話していたにもかかわらず、やっぱりそうなんですよね。
自分は失敗したと思っちゃうわけですよ。 でもこの自分の家に着いた時刻を考えてみると、
遅くはないんですよ、別に。 あえて言えば1分ほど遅いかもしれないけど、まあ遅くはないわけですね。
で、お金はほぼ同額なんですよ。 あえて言えば6円ぐらい損してるかもしれないけど、まあそんなものなんですよ。
で、得た経験からするとこっちの方が全然良かったんですよね。
まあ単にですね、バスの方が遥かに空いてたという意味でも良かったし、いろんな意味で良かったんですよ。
でも確実に言えることがあったんですね。 私は昨日の街代を出る段階ではですね、
バスという選択肢はありえなかったんですよ。 なぜなら私はバスが嫌いだったから。
多分、ヤフー乗り換え案内は提示してたと思うんですけれども、
でも私はバスに乗るのが嫌いなんで、バスは最初から乗らないんですよね。
なんならこう、選択から排除するぐらいな感じで、特急列車と新幹線は排除するみたいなやつでね。
バスも排除してたんで、 そんなに強い拒否感がないにもかかわらず、
やっぱりバスは乗らずに済むなら乗らないという乗り物なんで、
少々遠回りをしてでも電車で帰りたいわけですね。 ところが、昨日一転したんですよ。
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今後こっちのルートを使うかどうかはまた別なんですけど、 バスって時間完全には読めませんからね。
これは、つまり、 やっぱり自分たちは現実を生きているつもりになっているけど、
その解釈を生きているんだなと。 帰り着いた時にはもうですね、乗り過ごしたとか失敗したとかは、
そういう表現自体が成立しなかったんです。 でも、裸の段階ではそういう表現以外は、そういう表現しか考えつかなかったですね。
つまりその時もやっぱりですね、イリュージョンの中に生きてるんですよね、自分らは。
それ自体、嫌なものは全く、でも失敗したわけだから嫌ですよね。 やっぱりネガティブな色付けをするんですよね。
で、その色付けをする価値ってないじゃないですか。 その6円とか1分とかが惜しいとは僕は思ってなかった間から。
ただ、 富士山ルートが私にとって正しいルートだったから、そう思ってたんだけど。
実際はそんな事実はなくて、で、バス恐怖症からの脱落を考えるとですね、
あっち回りが正解だったんですよ。 そうなんですよ。あっちを回るべきだったんですよ。
あの日に限って言えば。 で、
それをじゃあ目指して選択できるかというと、それは無理ですよね。 それは無理なんですよ。
昨日の出来事をどう解釈するのも簡単なんです。 あの、自由なんですよ。
あれは失敗だったという言い方をしても全く現実的に正しいし、
しかしですね、こういう発見をすることになるわけだから、
こういうふうにルートを変えて見たのも見るのもいいことだっていう言い方をしてもいいわけじゃないですか。
今はあえてスピっぽい言い方を全部排除しました。 これは全部偶然だとしてもいい結果になったというふうに解釈してもいい。
これは、あの、なんていうのかな。 プラグマティックな考え方を好む人がこの言い方なら許容できるだろうという言い方を私は選択したわけですね。
何が言いたいかというと、つまり、そう解釈するのが正しいんだという思い込みに僕らはすっごいこだわってるんですよ。
プラグマティックに解釈する人は結局スピリチュアルな解釈をするということを許せないわけじゃないですか。
今のグッドワイブス的にですね、
自分はこういう発見をするために、大きな自分みたいなものでもいいですし、
本当の意思みたいなものでもいいですけど、というものがそういう方面に導いたんだっていうと、
これを良い言い方だとする人と、これはとても嫌な言い方だとする人といると思うんですよね、きっと。
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このグッドモーニングワイブスは聞いている数がまだそんなに大多数じゃないので、
あれですけれども、これを聞いている人がもし100万人とかいたら絶対に猛烈にどっちかの言い方を拒否する、
あるいはどっちかの言い方を支持するっていうイリュージョンがあるわけですよ。
昔そのことをすごく感じたんですよ。バスに乗っているという言葉から脱落して、
バスに乗っている現実みたいなものが圧倒してきた時に、自分たちはいっつもイリュージョンの中にいる。
確かにバス恐怖症のイリュージョンは中でもしょうもないものなんですけれども、
でもただのにいた時もそうだったし、乗り過ごしたと思った時なんかは相当そうだった。
あれはあれで一種の恐怖感がありましたからね。
つまり時間を大きく無駄にするんじゃないか。あれほど僕は時間というものがなくならない話をここでしているにもかかわらず、
やっぱりふとっさに思うのは時間のことなんですよね。
で、後から考えるとですね、時間の損は補ってあまりあるわけですよ。
これは他の人については言えないことです。僕がただその時に得られるものだったわけですね。
昨日の体験は確かに時間の損というものが仮にあるとしてもそれを補ってあまりあるものだったんですよ。
フリーサーを回ってたら当分気づかずにいる話でしたからね。
バス恐怖症ということを自覚できただけでもよかった。
で、プラスおそらくバス恐怖症は昨日で完全に克服できたんで、という意味では相当良かった。
昨日の体験それ自体は、まあそれ自体が相当良かったんで、しかもたまたまですけど時間も金もお金もほぼ損してないと。
これはですね、この点を強調すると、またこの点を強調することが好きなイリュージョンを喜ばせるというだけで終わってしまうんで、
この点は強調しないんですが、仮に損をしていたとしても、つまりそういう金銭的なという意味ですね、損にはならなかったと思うんですね。
で、このことって何回僕が一生懸命自分に言い聞かせようとしても、どうしても難しいなと思うのは、やっぱり日々ですね、イリュージョンを強めてる感があるんですよ。
どうしても損をしないようにしよう、しないようにしようとして生きてるんで。
電車でもそうじゃないですか。最短で一番安いのがあったらそこ選択しますよね、自然と。
で、それが本当に賢明だと思ってる。たまたまそれがそのルートを選んだために大事故にあったみたいなことがあったとしても、
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やむを得なかった感じがちょっとしてしまうほどこのイリュージョンは強い。
つまりそういう意味で最善の選択というものが限定されているから仕方がないとも言えるんだけれども、
なんていうのかな、何か現実を見ずに生きてるんだな自分は。
それを昨日ほどこう感じたことはなかったんですよ。
そのバスの中で頻繁にイリュージョンと現実を行き来してみると、本当にイリュージョンの中にいる時間が長いというか、
ほとんどある意味ひどいことに、こう思うとひどいんですよ。一日中いる。
それじゃもう起きている意味がないなっていうぐらいなんですよね。寝てるのと同じ。
最短で僕が富士山を回ってて、6円と1分を節約できたら、
昨日、生き返りは全部イリュージョンだったと今なら言える。
このイリュージョンの中にいるというのは本当に白昼夢を見ているのと何も変わらない面がありますので、
バス恐怖症の方がまだ良いんですよ。はっきりそれがイリュージョンだと分かっているから。
分からずにいると、夢見ているのとほとんど同じ状態になりますよね。
夢見ている時に夢見ていることに気づいてないわけですから。
しょうがないじゃんっていう考え方もあると思うんですよ。
だから私はグッドファイブスでは、自分に恐怖と不安を植え付けるようなそのイリュージョンだけを問題視して、他は問題にしない。
これが私の現実的だと思うんですね。
本当に前後の意味でそうだとは思わないんですけど、例えばグッドファイブスの
ブログで記事で、倉澤さんが以前ピカピカの家に住んでいたら、そこにゴミを捨てようという気にはならないっていうようなことを書かれてたんですよね。
私あれもですね、これを結構大事なことでなるべく一層するようにしてるんですよ。
そうしないとなんとなくですね、なんとなく最近グッドファイブスでいい感じになってきたから、
ここでちょっと妻に言い返すぐらいはいいだろうみたいなことをやるんですよ。
やるんですけどね、こういうことって。
でもこれをゼロにするのか、こうやって都度都度自分へ違反を許すのかの違いは大きいんですよ。
昔、これも非常に微妙な話なんですけど、糖質制限で砂糖を完全に1週間経ってみるという時と、
ほんのちょっとでも口にするということがどんなに違うことなのかというのを経験したことがあるんですね。
それもイリュージョンだったりするんで、大きいややこしいんですけど、でもそういうことがあったんですね。
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で、タスクシュートもそうなんですよ。
厳密にどんな時でも自分がやってる通りに測るっていうことをやった時の方が、その効果が格段に上がるんですよ。
こういうことっていろんなところであって、あんまり厳密にやるのを生涯続けようみたいにするとそれはそれで結構いろいろ弊害を生むんですけれども、
一時的にはルールに厳格になるっていうのは良いことで、
自分は今グッドファイブスに関してはルールに厳格になろうとしてるんですね。
特に自分が意識しているのはピカピカの部屋にはゴミを一つも落とさないっていうやつで、
特に分離の選択につながり得るような、
バラバラ意識を許容するっていうのを封印するように努力してるんですが、そうすると実にあちこちにホコロビが出てくるんですね。
本当に出てくるんですよ。
娘との間ですら、いらんことを言うとかするんですよ。信じられないんですよ、自分でも。
いつもそういう時にやってることというのは、このくらいなら良いだろうという変な勝手なルールを自分で作るんですよね。
これくらいなら、確かにこれくらいで決定的な分離につながることがないというのが間違ってるわけじゃないんだけど、
このくらいなら良い理由は何もないんですよね。
その時のただ自分のちょっとしたエゴを許容するというのに留まる。
ただこの話をするとですね、どうしてもこう、なんていうのかな、グッドバイブスが10回の宗教みたいに聞こえてくるんで、
それはそういうことはお伝えしたくないんですけれども、つまり戒律の問題っぽくなっていっちゃうんですよな。
タスクシュートとか糖質制限ですらそうだから。
ただ戒律の問題ではないんですよ。
これは結局全部自分のためでしかなくて。
で、バスの時のイリュージョンみたいにですね、あの先に恐怖症があるんですよね、結局。
これはどんなことでもそうで、どんなことでもそうなんですね。
お金のことでもそうで、6円を惜しむようになると決定的な恐怖症を生むんですよね。
お金がなくなる恐怖症、そういう人はいっぱいいます。
それは完全にイリュージョンなんだけど、本人はお金なんで、お金ってすっごく現実を代表している感じがするじゃないですか。
めちゃくちゃイリュージョンなのに。
そういうふうになってて、だから今で言うと清潔感とか不潔に対する恐怖症とかね。
あと閉じ込められることに関する恐怖症っていうのもいっぱいいろんな人が今でも苦しんでいらっしゃるんですけどね。
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あるんですよ、入り口はすぐそこに。
出口もすぐそこにあるんですけど、通常私たちはそれは許容しているわけです。
イリュージョンでもしょうがないよねと。
この許容度を何かについてはどこかで締め出したいなというのが今はちょっとあるわけです。
ただこれはですね、やり始めてみて少しわかったんですけど、これもこれを言うと誤解されそうで嫌なんですが、
倉園さんがなんだかんだで苦念っていう、
倉園さんの場合は自分で力構築し始めて出来上がって自分が実践できるようになったと言い切れるのに苦念みたいな話なんですけど、
苦念かーとかって思うじゃないですか。
これ面白いことに、
その時その場で最高の幸せとか、その時その場で心の完全な平安を得られるっていうのは嘘じゃないんですよね。
嘘じゃないんだけど、
苦念っていうのもまた嘘じゃないんだなっていうのが、昨日何か感じるものがありました。
あの、これを
あらゆる方面で徹底するには10年ぐらいかなって感じがしたんですよ。
例えば自分の場合お金のイリュージョンは全然消えてないし、時間のイリュージョンもかなりのものだし、
もう完全に自分ではですね、それが自分にメリットはもたらしてないってことをはっきりしてるんです。
あの、昔イチロー選手が、今日生くなってるな、イチロー選手が
宿題をやってから遊びなさいっていう話をしてたんですね。これが入り口なんです。
こうやって僕たちは時間のイリュージョンを、イチローがすごいのはすごいんで、ますますこのイリュージョンはむしろ強まってくる気が僕はするんですね。
時間を節約するじゃないですか。そして後で好きな映画を見るとかいうことをすると、なんかすごくこう自分が自分の人生をコントロールできているような気がしちゃうんですよね。
でもね、私はよく思うんですよ。ありとあらゆる努力をして節約しきった時間で映画を見るのかなと。
それってそんなに大切なことなんだろうかって思うんですよ。これも多分聞いてる人には誤解を与えるんですよね。
宿題をやってから遊ぶとかゲームをやるのはいいと思うんですよ。仕事をやってから映画を見るのも非常にいいじゃないですか。
ただ、自分はそれが人生のゴールみたいな話にならないと思うんですよね、それは。
せいぜいそれは、なんて言えばいいんですかね。遊びだと思うんですよ。
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その遊びの中で、イリュージョンに繋がっていってしまうのがいかんと思うんですよね。
勉強してからゲームしなさいっていうのは、親が言うにもしてよ、誰が言うにもしてよ、普通なんですよ。それ自体が悪いという面は何もないと思うんですね。
でも、そうしているから誰々ちゃんは私立の難しい学校に入れたんだよって話をすることがあり得るじゃないですか。
そうやって私たちはイリュージョンを大げさに大げさに持って行ってると思うんですね。
昔、かわいはよ先生のところに治療に行っていた人が、そうやって何かを全部仕上げた後でなければ何かをしてはいけないというふうにずっと考えていた人がですね、
何かを仕上げもしないうちにテレビを見てしまったと。
そのために高校に行くことができなくなってずっと不登校になったっていう話があるんですけど、こういうことになり得るんですよ、この種のようなんてですかね。
ありもしないルールがあると思い込み始めたところから、この種の話は始まり得るというのが、なんというかこう、嫌なんですよ。
嫌というか問題だと思うんですよね。
まず、バスが怖くったって全然おかしくないと思うんです。
小銭のことで運転手さんに怒られたりしましたからね。
でも、この歳になってバスが閉まった瞬間に、バスに閉じ込められたらもう死んじゃうみたいに思ったら、それはダメじゃないですか。
この境界、これをちゃんとそういう方向に行かないようにすることが確実にできるのであれば、何を言ってもいいと思うんだけど、
不意にこっちの方に踏み入れておいて出られなくなっちゃいましたということが起こるぐらいだったらば、時間の節約とかにこだわるのはよしといた方がいいと思うんですね。
えーと、ちょっとしたことですよ。
昨日だって、肌ので時間損したなと思うじゃないですか。しょうがないと思うんですよ、この程度であれば。
でも、こういう時間の損害を一切しないようにするために、ありとあらゆる手を尽くして、にもかかわらず事故に巻き込まれてしまった時に、
なんか、ものすごい腹を立てる人っていらっしゃるじゃないですか。
前に東海道線が止まった時に、ものすごい駅員さんに怒鳴ってる人がいたんですけども、
そういうふうに心ってなぜか動くんで、
その時にその人が見ている恐怖症っていうのは、昨日の私のバスの恐怖症がうんともう数歩先へ進めば発生するものだと思うんですよね。
早くバス降りたいみたいになると思うんですよ。
その、そこからこう自分が出入りできるっていう状態を、得とかなきゃいけないなと思うし、やっぱりこう誰もが得ていてほしいなとも今は思うんですよね。
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だからあれは大変嫌なものですからね。
非常に子供っぽいものでもあるんだけど、要はあれです。
お化け屋敷をものすごい子になっている子供が、お化け屋敷の中で迷子になっちゃったみたいな感じ。
それって大したことではないですよね。出来事としては。お化け屋敷の中で迷子になりました。
大したことではないと思う。でもその子の精神にとってはひどいことですよね。
そういう感じのことで、そこからいつでも自分は出られるんだという状態を得るっていうのは大したことだと思うんです。
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