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2024-01-24 47:08

プロジェクトは管理できない【GMV923】

プロジェクトには不安と希望が練り込まれる。
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月24日の木曜日、いや水曜日の7時49分ですね。
いやー、今日は寒い。
二宮もマイナスに入りましたね、一瞬っていうのかついさっきまでだけど。
今はゼロ度を超えてきましたけど、寒いんですよね、この気温。
昨日はもうこの時間で9度くらいだった気がしますので。
昨日落としてしまったのかですね。
昨日はこの時間には珍しく電車に乗るべく奮闘していたわけなんですよ。
8時台にはもう電車乗ってたんで。
昨日は一日中珍しく東京都内をブロックしてですね。
久しぶりに良かったかなと思います。
そんなに都内を江戸川橋とか言ってたんですけどね。
行かないんで、江戸川橋って通過したことは多分1000回ぐらいはあるんですけど、
降りたことは本当数えるほどもない駅で、
お隣の飯田橋はですね、それこそ3000回ぐらいは降りてると使った駅だと思うんですけど、
本当に久しぶりにあの辺を行ったなと。
ただそれだけなんですけどね。
前よりもさらに一段と近代化してるなという。
近代化っておかしな言葉だと思うんですが、
現代化とは言わないんでしょうがないですよね。
近代化というものである。
近代ってなんか少し前って感じがするんだけど、
でも未来になりましたっていう不思議な意味合いの言葉なんですよね。
でもどっちも英語だとモダンになってしまうという。
一層不思議な感じがするんだけど。
モダンって言葉が古臭い感じがしますよね。
ナウイみたいな感じになっちゃいますよね。
死後みたいな。
今週忘れないようにね、
強調して申し上げておきますが、
日曜日ですね。
つまり次の日曜日に、
クラザノケイゾーさんとGood Vibesとタスクシュートというテーマでやりますので、
こちらぜひお願いします。
今日の話にも多分、
今日はややグダグダ回に次第と思ってるんですけど、
今日の話にも少し絡みますので、
今日のような話をクラザノさんと交えてね、
実質することになると思いますので、
これはぜひお願いしたいと思います。
その今日のテーマっていうのは見通しなんですよ。
昨日そもそもなぜ江戸川橋にまで行ってきたかというと、
まだ確定じゃないんですが、
本の企画を久しぶりに単独で受けまして、
03:01
ありがたいので、
お受けしたいと思っているんだけれども、
もちろん企画会議というものはこれからなんで、
まだ確定しておりません。
で、くしくもというのか、
くしくもなんともないんですけど、
いかにも私に持ち込まれそうな企画で、
見通しというのがテーマなんですね。
見通しというふうにざっくりと当たったとき、
見通しはそもそもタイトルに入るのかどうかすら疑わしいので、
まだこの段階では見通しについて何か書いてほしいぐらいな、
ものすごいふわっとしているわけですよ。
しかも、これは昨日話し込んでよくわかったんですけど、
この見通しという言葉についての見解がそもそも
編集さんと私とではかなりずれがありました。
だから、見通しについて書いてくださいと頼んでいるときの見通しと、
ああ、なるほど、見通しについてと私が考えるときの見通しは、
そもそも意味が違うんですよ。
広さが違うんですけどね。
向こうのほうははるかに広く捉えていて、
私はそんなに広くは捉えていない。
というだけですが、
そういう違いがありまして、
そもそもそれを詰めるうちにこの言葉が変わる可能性もあります。
そういう段階です。
最も初期の頃、
まずは名詞交換からというやつですね。
僕は名詞を持っていっていないから、
一方的にもらっただけで交換はしていないんだけどね。
そんなところで始まった、
何かが始まろうとしているわけですね。
書くだろうなと思っているんですけど、
この技術一つが、
私は見通しというものを非常に立たないものなのだというふうにまず考えていますね。
もう一つは企画というものを僕は単位としては捨てているので、
プロジェクトという単位は一切ないんですね。
僕の世界。
僕の管理する世界というのかな。
あとは私が意識しないもの。
つまりよく言うと、
プロジェクトというものは一切ないんですね。
僕の管理する世界というのかな。
あとは私が意識しないもの。
つまり言葉は聞きますし、
他の人がこれをプロジェクトだよって言うと、
はいそうですねって言いますけど、
それをプロジェクトだと僕は考えない。
まして自分でプロジェクトを作り出すということは、
今の話からしてもあり得ない。
だからプロジェクト管理というものももちろん存在しないわけですね。
全ては約束の記録を必要に応じてね、
書いておかないと忘れるようなやつは、
約束の記録を書いておくんだけど、
それはただ約束の記録を書いてあるだけであって、
プロジェクト管理というのはしない。
ちなみに僕まだEvernoteの有料のアカウントを持ってるんですけど、
Evernoteをプロジェクト単位で何かするという観念は、
一切元々希薄でしたけど、今もないです。
あとついでに述べておきますと、
別にこれ喋るほどのことだと思わないんだけど、
ついでに述べておきますと、
ノーションっていうのはJさんとかJ松崎さんとか、
06:01
他の方がノーションでこれは管理するんですよっていう場合は、
そのノーションを見に行ったり、
場合によっては書き込んだりもしますけど、
ノーションは僕は別に使ってないです。
そしてEvernoteはプロジェクトでは使ってないでしょ。
ノーションカレンダーって出たらしいんですけど、
僕は別に使う気ないので。
あと何だっけ、
アトリストとかも使ってないです。
今もアカウント自体を廃棄しました。
まだ残ってるかもですけど、
それは無料のやつということですね。
いろいろダイナリストとかもありますが、
プロジェクトという意味では一切使ってないです。
ほとんどダイナリストも使ってはいないですね。
画面には残ってますけどね、iPhoneの。
そんな感じです。
こんな感じって言ったらどんな感じかっていうと、
プロジェクトという概念を僕の中から自発的に
ひねり出すことはないということなんですよね。
プロジェクトと見通して、
僕はそもそも別物だと思うんだけど、
よく混在して語られるし、
今回の本も本を書くということになれば、
このテーマ絶対出てくるだろうなと思うんで、
とりあえずここでぐちゃぐちゃと喋ってみるのも、
1回分としてはいいんじゃないかと思って、
今考えてるわけですね。
考えてはいないんだけど喋ってるわけです。
僕何も考えてませんからね、
今このGood Morning Voice喋ってるとき。
このことは別にそれはどっちでもいいよっていう方はいいんですけど、
気になる人は気にしといてくださいね。
私はこれを喋るときは何も考えてないです。
頭の中空っぽです。
頭の中にあるのは今目の前に見えてる、
何度も言ってて恐縮なんですが、
ビワの木があるんですよ。
このビワの木を頭の中に置いて、
口から勝手に喋るに任せているという回が多いですね。
たまにはありますよ。
少しは考えながら喋るということをしている回もありますけど、
大概の回は頭の中はビワの木で埋め尽くしてあります。
うちの庭にしてはですね、
よく茂ってるんですよこのビワ。
ビワって強い木なんですね。
レモンとかみかんとか豪欲にも色々と植えてるんですけど、
全く茂ってませんね。
ひどいもんですね。
今はもうちょっと目をやってるんだけど、
もう残念だ。
この湘南は柑橘類が強い土地らしいんですけどね。
全くどこがどういう風になるんだ。
浅川にある柚子の方がよっぽどマシだったなと思うほどひどいものなんですね。
うちの庭は何か土壌に問題があるんでしょうけど、
ビワだけはよく茂っていてなっているわけですね。
それを頭の中に置いて口が喋るに任せると。
それ脳だろって与郎武先生とか必ずおっしゃるんですけど、
そうなんでしょうね。きっと脳なんでしょう。
ただ僕は自覚がないというだけで、
僕の感覚の中では口が喋ってるんですよ。
口が喋るんだけどね。
09:01
テーマを持って口が動いて勝手に喋っているのを皆さんは聞いていただいているという格好なわけですね。
いやそれも全部脳だからって言われりゃそうなんでしょうね。
ビワの話で頭が飛んだんでしょうけれども、
見通しというのは立たないものなわけですね。
ついでにこれについて言っておくとですね、
私がここから喋るのは口から出まかせってやつなんで、
まさに口から出まかせというわけだからね。
これを頭から信じたらダメですっていうのは時々追々注釈的に挟んでますけれども、
今日のような話は精神分析の話などと比べると、
だいぶ口から出まかせであろうとなんだろうとマシな気がするんですけれども、
私の話で参考にするとか信用するとかはありがたいんですけど、
そうするだけの保証はないよということですね。
いちいち原点を確認もしないケースが多いです。
本当にただ喋ってるだけなんで。
だからそれは間違ってるとか、
とことん批判するとか全然ありなんですよ。
全然ありですね。
何だろうな、これは。
そこら辺に生えている足とかすすきとかあるじゃないですか。
あれをザクザク切るっていうのは何も人は抵抗なくやるじゃないですか。
そういう感じで扱ってもらえるのが一番僕の喋ってることって合ってると思うんですよね。
そうでありたいとよく思ってますしね。
雑草のようにありたいみたいなね。
したたかだとか強いと言いたいわけではないんですよ。
ありふれたものでありたいって感じなんですよね。
特別なものではないっていうことです。
こういうふうに僕は精神分析を持っていきたいって常々思ってるんですけど、
全然逆の方向になっているっていう不思議な話なんで。
不思議ではないのかな、しょうがないのかな。
でもそこら中で普通に話題にするのに、ある意味最も適しているものが分析だと思うんだけど、
そうは全くならないという、幅かられるものになり、
しかもほとんどの人はもう認識の外に追いやろうとしている何かになってしまってるんですよね。
これはやむを得ないのかもしれませんが、
とても残念なことだと最近思うことはあります。
で、見通しですよ。
見通しというものがですね、まずその認識が違ったというところが、
もう本当にそれらしいなと思うんですね。
見通しというものを立てるということが何かをもたらすというふうに信じられている。
12:00
その人がという意味じゃないですよ。
世の中が多くの人が世の中においてそういうふうに信じていて、
プロジェクトというものもプロジェクト単位というものがあってもないですよね。
どこかで定義しろと言われると大変困ったことになると、
僕もすっごいめんどくさいなと思って2日以上かかるとか強引に定義をひねり出したんですけど、
2日のものは大変人はプロジェクトとは考えないんで、
結局これは定義の無理ってやつだと思うんです。
本を書くっていうのは非常にわかりやすいプロジェクトのように、
多分思われるんだと思うんですけれども、
本を書くというのにプロジェクトは一切いらないというふうに思うんですよね。
他の何かシステム開発とかは僕は知りませんから、
分かりませんけれども、やるときにならないと僕はそれについて考える気はないんで、
分かりませんけれども、おそらくはないだろうなって感じが、
立てなければならない必然性とかはないだろうなとは思ってます。
それはでもおそらくはなんですけどね、私の場合やったことがないんで。
本はないです。一切ないと思いますね。
まず第一に、本というのは著者がどう思おうと、
それによって絶対にできるできないを選択することができないんですよ。
先日東京ライファー研究会で山崎さんが繰り返し強調されていた話に、
アンコントローラブルですからねっていう言葉があったんですよ。
コントロールなんてできないんですよっていう話なんですよ。
どなたかが老化という現象について、つまり老いるって話ね、
コントロールが効かなくなるという話をしてたんですけど、
その時もそもそも体のコントロールって効いているのかっていう話になって、
で、山崎さんがそもそも心がコントロールできるとどうして思うのかっていう話をされたわけですよ。
要するに老いというのはコントロールできませんよね。
できるぐらいならそもそも大概の人は老いませんよね。
で、次に老いると体のコントロールは効かなくなると。そうですよね。
まあそれはそうだと思うんですよ。
好んでね、禁眼になりたい人とか老眼になりたい人とか延死になりたい人とか、
身体を痛くしたい人とかいないわけですよ。
朝目がすっきりしないとか、すべてアンコントローラブルなわけですよ。
これを人間は無理やりコントロールしようとして、あの手この手をやたら使ってるんだけど、
限界があることは確実なわけですね。限界がないなら、
大概の人は死なないとそもそも思うんですよね。老いもしなくて死にもしなく病気にもならないと。
これらはすべて一部例外の人たちは除いて、コントロールできないから感受している話なわけですね。
で、山崎さんが意識も全部そうなんだよっていう話を常にされる。
これはつまり山崎隆明さんですね。精神分析、的心理療法科の山崎隆明さん。
臨床心理師でも公認心理師でもある人ですけれども、つまりどういうことかというと、
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公認心理師なのかな?ちょっとその辺は後で調べてください、気になる方。
僕は完全にそれどっちでもいいと思うんだけど。
コントロールができるぐらいならば、いやそもそもコントロールできると思ってるということをコントロールしがたいんですよ、僕らは。
見通しってその話に非常によく近づくと思うんですね。
見通しが立つと思いたがるっていうのをコントロールできない。
昨日話しててつくつくそれを思いました。見通しが立たなきゃいけないのかっていう問いに対する答えがないんですよ。
これは罪悪感とか不安とよく似てます。そこで行き止まりに達するんですよね。
つまり見通し立てなければならないじゃないですかっていうセリフが出たわけですよ。
僕はなぜですかと当然聞くことになるんだけど、これに対して止まっちゃうんですよね。
なぜ見通しを立てなければいけないのかというのは質問として成り立たない。
この先日言った、先週言った挑戦的態度になってしまうわけですよ。
僕はクライアントさん、相手がクライアントさんだったり相談してこられる方であればこういうのは慎むというか、少なくともある程度間を置いてからにするんだけど、
即座に質問を投げかけるというのはこれは仕事関係者だと思ってるからなわけですね。
相手の方に真摯になるかどうかをあまり真剣には考えない。
やはり見通しという話でテーマを持ってきた以上はなぜ見通しを立てなければいけないのかっていうのは当然あって然るべき問いだと僕は思う。
ここで止まるということはですね、そこに不安があるということだったと僕は思うんですね。
そういう話は昨日はしつつも分析的な文脈は避けましたけれどもね。
不安がなければそのように止まらないはずだと。
不安発で見通しを立てたくなるからこそその次の問いってのは出たなくなるわけですよ。
この次の問いは恐怖ってことになっちゃうんですよね。
なぜ閉じまりをしなければいけないんですかっていうふうに問えばこの感覚が一発だと思うんですよね。
不安というものがもし閉じまりをせずに家を離れる。
ダメですけどね。
コンロつけっぱなしで家を離れる。
ダメですけどね。
それはつまり恐ろしいことじゃないですか。
そこはもう断言というのかな。
最終的な答えになっているわけですよ。
閉じまりはしなければいけないから閉じまりはしなければいけないんですよ。
何の発展性もない文章というものがここでやってくる。
そのポイントには人は絶対不安を持ってると私は思うんですよ。
あらゆる断言が不安と関係があるわけじゃないですよ。
例えば石を上に放り投げれば下に落ちるっていうのはこれはなぜかっていうと万有引力って話になるんだけど。
では万有引力がなぜあるのかって話になってくると不安とは関係なくここから先に普通の人はいけませんよね。
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非常によく分かっている物理学を知っている人とか専門家じゃないとここから先は難しいっていうのがあると思うんですよ。
でも僕らが言いがちな最終形態の問いみたいな究極の問いみたいなのはつまりそこには大概恐怖があるんですよね。
これをせずにはいられないというやつですね。
これが非常に狭くなってくると脅迫神経症的って感じになるわけですね。脅迫神経症的になってくるわけですよ。
例えばいやハンカチはきちんといつも折ってなければいけないとか外出するときは絶対全部の服にアイロンかけなければいけないとかそういうのっていうのは何かちょっと脅迫的なものがあるんだけどその人にとってはこれをせずにはいられないという項目がどんどんどんどん増えていくわけですよ。
恐ろしいからね。それをしておかないと恐ろしいんですよ。でなぜなのかという対話はないわけですね。
いやアイロンかけないとみんなに笑われるからって言うかもしれないけどそんな事実がないことは本人も100も承知なわけですね。
アイロンかけてない服着ても会う人すべてが笑うわけじゃないのはその人は頭ではわかってると必ずおっしゃる。
だけれども実際にはアイロンかかってない服を着て外に出ることはできない。
これは私がある意図を知っていてそういう人の話をちょっとここでさせてもらっているわけですけれども。
その人と直接親しいとかそういう話ではありませんけどアメリカ時代の話ですね。
この種の話つまり見通しも同じ文脈に本当はあるんですね。
だから昨日大変驚かれたわけですね。
私は本をこれから出版するという企画、あなたにとっての企画というのかな、編集さんにとっての企画を引き受けてもそれをプロジェクトだとは思わないし、
見通しも立てませんし、執筆計画も作りませんし、逆算も一切しませんよと言ったら大変驚かれるわけですね。
でもその方は私の本をかなり細かく特にタスクシュートに関する夏仕事は予定通りの本で、
あれに付箋をいっぱい付けてくださるぐらい読み込まれているわけですね。
あれを読み込むとどこにも逆算って多分一言も出てこないんじゃないかって思うんだけれども、
いやそのことがですね、いや申し訳ないですみたいな感じだったんだけど申し訳なくはないんですね。
ここはすごい大事なところなんですよ。
僕はここに罪悪感を持ってしまうというのがやっぱり人間社会の通平みたいなものかなと思うんですけどね。
つくづくこうだな人間ってやつはって思う時があります。
なんで僕の本をくまなく読んで逆算って言葉がおそらく少なくとも肯定的な意味合いではあの本の中では多分一回も出てきてないだろうと。
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それは僕はもしかしたら一回ぐらい使っちゃったかなというちょっと懸念があったからそういうふうに言ってみたんだけど、
でも一回も使ってないはずですって言ったら申し訳ながるという。
申し訳ないのかもしれないんだけれども申し訳ないところは全く大事じゃないと思うと思うんですよ。
そうじゃなくて絶対に出てこない文脈のはずで僕の書き方に問題があると言われればこういうエクスキューズがそもそもいらんのだけどね。
なぜ絶対に出てこなそうな文脈に逆算という言葉を読み込んじゃうか。
この話昔池谷さんが蜂蜜とか黒砂糖とかチョコレートとか書いてると甘いという言葉がここに入ってないことを脳は認識しがたくなってくるみたいなアナグラムみたいな実験していたわけですね。
その通りのことが起こるわけですね。
つまりそこに読み込みたいものを勝手に読み始めるわけですよ。
非常に良心深い人はそういうことをせずに済むかもしれませんけど、その場合は時間をかける必要がありますし、文脈というものに相当開かれてないと難しい。
やっぱり逆算というもの、見通しというものをその人が非常に大事だと思う文脈の中で生きていれば、あのような本はタスクシュートのような本をボトムアップから構築されているというのは読み取りにくくて、どうしてもトップダウンで逆算しているんだという文脈のもとにおいて、
そこにとって都合の良い部分を集中的に読み込み、それによって都合の悪い部分は集中的に排除するということを必ずやるものなんですね。
しょうがないんですよ、これはね。
人間という、脳というのがそういうふうに作られているということだと思うんですね。
グッドヴァイブスでクラゾノケイドさんがよくおっしゃる、人はそこに見たいものを見ようとする。
そして一旦それに対して、例えば罪ならば悪だと思ったならば、悪いという証拠集めを始めてしまう。
僕はこれはですね、かなりその事実について瞬間に頑張る哲学者みたいなタイプの人でも必ずやるなっていうのを見ているといつも思います。
これは人間の目はカメラじゃなくて、脳は全然公平じゃないんですね。
バイアスでいっぱいかけて物事を歪めてみるというのが、むしろ脳の仕事なんだと思います。
そうしないと文脈の中で生きる生き物としては都合が大変悪いんですよ。
一見公平に物を見て、ガラス玉のように目をして、カメラのように、そして解像度高くやるのがいいように思うんですけども、
普通に生きる上ではそれはあんまり都合のいいやり方じゃないんだと思いますね。
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やっぱり怖くなったらススキの方に幽霊を見るのが人間の脳のむしろ仕事なんだと思うんですよ。
ススキの脳に幽霊を見るように、6ヶ月先、5ヶ月先に見通しというものを見たいというのが人間の脳の傾向であって、
この見通しというものをカレンダーとかに書き込むと、なんかうまくいくような気がしてくるはずなんですよ。
それと、だから現実に見通しが立ち、その通りにことが進むということは別に関係ないということ。
マスター・キートンの新しい作品に出てきたあれと似てるんですよね。
レーザー銃のおもちゃで銃の射線だけが出ると。
銃の射線は実際の軌道とは何の関係もないとマスター・キートンが言うわけだけど、それは当然ですよね。
光は銃から出ていて、それがおもちゃなんだけど、その通りに弾が飛んでいくはずがないですよね。
近くは飛んでるでしょうけど、その線と銃の軌道は何の関係もないわけですよね。
だから本当にそれとよく似てるなと思うんですよ。
何の関係もないですよね、その2つの間には。
この何の関係もない見通しというものをしかし人は立てたいと。
私は立てる分には一向に問題はないと思うんですよ。だって何の関係もないんだから。
ここはすごい僕にとっては大事なポイントなんですよ。
今回の本でもここを強調点として僕は書きたいなと思うんです。
人は見通しを立てることによって安心する。これは良いことなんだと思うんですよね。
ちょっとgood vibes的じゃないですか。そんなことをせずにまず安心すればいいんだけど。
この本の文脈でいうと見通しを立てることによって安心するんですよ。
そして安心することによって仕事に手がけられるようになるんですよ。
そして仕事に手がければ仕事は進むわけですよね。
これが見通しの効果だと思います。
つまり見通しと仕事の進捗の間に関係はないんだけど、見通しと安心の間に関係はあるんですよ。
そして安心と進捗の間に関係はあるんです。僕はそういう風にだけ考えます。
だから僕は立てないけれども、なぜ立てないかというと別に見通し立てなくても不安はないからなんですよ。
不安があり、かつ見通しによってその不安を払拭できるのであれば立てればいいと思うんです。
立てることによって不安を払拭すると。ただ見通しと進捗の間に関係はないんですよ、別に。
その関係はなくていいと思うんですよね。
この話はもう一つ。
昨日くしくも出たんですけれども、全くそういう意識はないままそういう話になってたんだけど、
そもそもじゃあなんで佐々木さんは見通し立てないんですかという、今言った通り不安がないからだって話になっていくんだけれども、
27:00
それよりも私がすごくここがポイントでしょうって思うのが、だってこの企画って通らないかもしれませんよねと。
これはその方は多分すごく手際のいい方で通すって思ってらっしゃるんですよね。
でもさすがに通るというふうに確証はできないから初めて会った著者の前で、万が一通らなかったってことになると、
僕は何も騒ぎませんけど面倒なことになるって思われるかもしれないですよね、当然ね。
だから通すという意思ははっきりあるんだと思うんですよ。
ここにあるのは意思であって手際じゃ本当はないんですけれども、それよりももっと違うのは、
私が見通しを立てたところでこの企画が通らなかったらこの企画はそもそもこの世にないじゃないっていう話だ。
これを僕は少しマイルドに言ったわけだけれども、
ここに見通しとプロジェクトというものが実際私の頭の中でどう構築するかという話と、
現実がどう動くかということと間の関係は何にもないわけですね。
僕が農書に例々しく5月って言ってたかな、6月って言ってたかな、
6月脱鉱を目指すというプロジェクトを逆算して逆算して作ってみたところで、
そういうのを作ることはできますけどね。
見通しをテーマとしてこの月までには書いておき、この月頃に構成し、
私は何十冊も本をやってきたので、それがどういう流れになるかだいたい十分想像つくんだけれども、
つけようとすれば、一切つけようとしないからつかないですけど、
つけようとするにはつきますが、ここら辺で入校、ここら辺で入校、ここら辺で初校、
だからその前に現行というふうにつきますよ。
この人が言っているような性立てというのは、言っているのと書いてみるのとでは本当に違うんで無理なんですけれども、
6章、5章と逆算していくことはできます。
でも2月って言ってたかな、2月の頭にある企画会議で、
いやだめ、これは通せないでしょ、さきさん最近売れてないからって、
どなたかが、私が全く見たことも会うことも聞いたこともない人が、
そう一言言っただけで、私のもともとイリュージョンだった企画は文字通りイリュージョンとして消えていくわけですよ。
100%ですね。
仮にその後通ったとしても、6月で学校などというものは通らないし、
全く同じような現行が作れるはずがないですよね、一度没になった企画は。
形を変えなければ通ることはないし、そもそも通らないという段階で、
それに通るという想定の下で作っていたプロジェクトの計画というものは意味のないものなわけですよね。
この世に存在する理由がないものになるわけです。
30:01
この可能性は日々あるはずなんですよ。
そうですよね。
時々口にしますけれども、何が起きるかわからないわけです。
また急にパンデミックが広がるかもしれないし、
あんまり考えたいことではないですけれども、
会社がまた何か難しいことになって一旦休業するかもしれないし、
そんなことはわからないわけですよ。
日々あることなはずなんですよね。
企画が通る通らないだけでなく、日々そのプロジェクトというものが消失するという可能性は常に秘めていて、
このプロジェクトをイメージするにあたって私が必ずやってしまうことは、
もしイメージすればですけれども、
企画が通ってほしいという私の願望を必ずこのプロジェクトの上に投影していくはずなんですよ。
これはつまり裏を返すと企画が通らないかもしれないという不安を何らかの形で払拭するために
見通しというものを立てたいという気持ちが絶対拭いきれないと思うんですよ。
これをゼロにすることはできないと思うんですよ。
でもそれをゼロにしなかったら、
全然その見通しというものは公平でもなければ現実的でもないと思うんですよ。
だから私は立てないんですよ。
こういう不安というものと万能空想をこねくり回して作ったようなものを、
現実のための青写真ですみたいなものとして作り出して、
自分がそれを何度も見るというのをやってしまうと、
非常に私の精神衛生上まずいことが起こると。
まず一番ありそうなことは、
本を書くハードルが著しく上がると。
ここを逆だという話を、
昨日議論されていたわけですよね。
要するに見通しを立てれば不安が解消するというのはそういう理由。
僕は見通しを立てると不安になると言っているわけだから、
これはどっちもあるんですよ。
その人にとっては不安がそもそも大きいかもしれないので、
見通しを立てることで不安が軽減されるということは起こり得ますよね。
私はそもそも本を書く上での、
6月だっこなら6月だっこで間に合わない可能性は、
間に合わない可能性については検討しないので、不安はないわけですね。
ここも何かこう、何て言うんですかね。
悟り切ったようだみたいなことを言われるんですけど、
よくよく考えて欲しいって思うんですよね。
見通しを立てれば本を書けるのかってことですよ。
いつもこういうところにモチベーションと見通しの話が絶え間なく出てくるんですけれども、
モチベーションがあれば本を書けるのかっていう話なんですよ。
モチベーションがあると、
6ヶ月の間、毎日毎日本を書くモチベーションが高いか低いかについて考えれば、
誰だって不安になるというか、
それがそもそも不安というものだと思うんですね。
この辺はもうちょっと分析的な話になってくるかもしれないけど、
33:01
東映と言いたいわけですね、私は。
怖いから夜道に何かが見え始めるのとよく似ていて、
自分のモチベーションとやらに不安を持っているから、
5月30日頃は書く気力があるだろうかとか言い始めるわけですよ。
話が逆なんですね。
5月30日の自分のやる気について考えているという気になっている人は、
自分のモチベーションについての不安を今ここで持っているから、
5月30日頃は書く気力があるだろうかとか言い始めるわけですよ。
自分のモチベーションについての不安を今ここで持っているから、
5月30日というカレンダーの日の上に、
そのやる気のない自分を東映し始めているに過ぎないんですよ。
で、そういう東映をした上で、その東映は東映なんで、
まだ来てもいない日なんで、
その日の現実というものを空想した上で、
その空想への対策として、
じゃあ5月30日頃に温泉に行くご褒美を与えようとか、
言うのは、かなだおかしな話だと思うんですね。
行きたくなったらその日に行ったらいいじゃないですか。
これをどうして事前に全てを洗い出して、
そういう話も昨日出たわけですけど、
例えばイロコはよく手戻りが発生する。
手戻りが発生したらいいじゃないですか。
それに対してありとあらゆる手を打っておかないと、
失跡されると。
だったら失跡されればいいじゃないですか。
こういう話をずっと続けていると、
カウンセリングみたいになっちゃうんで、
研究のところそういうのは、
うやむやにしていくしかないんですけれども、
本当はそこで行き止まりに、
何て言うんですかね、
行き着いてしまってはいけないと思うんですよね。
手戻りが発生したら怒られますっていうのは、
怒ってはいけないことだっていうことになってるわけですよね。
だからそれが怒らないように手を打ちたいっていう話なのかもしれないんだけど、
そもそもそれ怒ったことですよね。
僕はその話知ってますけれども、
多分生まれながらにして、
イロコウでは手戻りが発生しやすく、
そのことを見落としていると、
上司に失跡されるなんていうことを、
例えば中学生とか知らないと思うんですよ。
それはどこかで学ぶという話であり、
学ぶというのはそれを経験したってことなんですよ。
つまりそれは起き得ることだし起きたんですよね。
で、現にその人はそういう経験を何度もしているみたいな話をされているわけです。
つまり何度起きようと、
この人はちゃんと無事に編集さんとして、
私はしかもその人はやり手だと思ったけれども、
すごく手際がいい人だと思ったんですけれどもね。
それは間違ってるかもしれないけど、
所詮潜入感なんで。
大事なのはそういうことじゃなくて、
ちゃんとやりたいように仕事をやってるじゃないかと。
私なんかに声をかけられるということは、
よっぽどやりたいようにやってると思うんですよ。
僕はここのところずっと、
ヒット作連発とかいう調子じゃないわけだから、
そういうことをやる余裕があるわけですよね。
そういうふうに自分の職場でうまくやっていながら、
その種の失績をされるということがあってはならない。
あってはならないことは何度も起きていると本人が言ってるのに、
36:00
そして何度も起きていてもちゃんとやれているのに、
なぜそれが問題だと思っているんだろうっていう問いは
立ってないわけですよね。
ここではやっぱり不安と恐怖というものが
支配的になっている話なわけです。
見通しには全部そういう話が
つきものなんだろうなと思うんですよ。
この隙にプロジェクトってものを立てがちなんですよね、
私たちを。
プロジェクトというものを管理していることによって、
不安というものと対峙することができると言えばいいのかな。
対峙というのはちょっと戦闘的な言葉ですけども、
対面の対に、自分の不安と恐怖というものが
対峙することができる。
不安と対峙するっていうために、
多分プロジェクトってものはある。
そういう傾向は強いんだろうなと思います。
その一連の話の中で、
今も申し上げた通り一番おかしなところは、
そのプロジェクトがそもそも成立し、
そのプロジェクトが成立したときに
どのように成立したのか、
それを自分の不安と恐怖に対応するのかを
確認するということなんです。
プロジェクトがそもそも成立し そして進行させることができ 完了
させ 結果を残すことができるのは 全て私の力によるものではない
のにもかかわらず この見通しという ものを立てるときには 私の力で
それをやるんだという不思議な 認識があるんですね だからここを
何とかしないとどうにもなんない なと思います 私はここは何とも
できるはずがないから どうにも 成りっこないので立てないわけ
です プロジェクトというものは 作らない だから私にとっての
見通しというものが仮にあると すれば やっぱりそれは今この瞬間
から数時間までなんです つまり現在 というものについて考えるっていう
のだけが基本的には見通しなんですよ これだって間違ってるんですけど
はっきり言って 例えばこの後 シャワーを浴びるという見通し
が今 一瞬 余儀ったわけですよ こういうのが見通しなんですね
ここはタスクシュートを見れば 書いてありますけれども これしか
ない 持ってないんですよ それでも 不安だっていう話は 自力っていう
ものにやっぱり対する幻想があります よね つまりどこかで自分は自力
で生きていると思ってるんですよ この幻想は一つのプロジェクト
について真剣に考えれば消滅する しかないと思うんですよね つまり
例えば私がこの本を書くという プロジェクトは私が立てることは
絶対できないんですよ 既に受け取った ものでしかないんですよね メール
で 実際にはGoogleフォームからメール が来たんですけど とにかくこれは
私が自分で出してもしょうがない んでね 私はこのメールを受け取る
ことによってプロジェクトという ものが始まり得るものになった
わけです この段階で既に自力で このプロジェクトを立ててない
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証拠ですよ 次に企画会議っていう ものを通過しない限り このプロジェクト
やっぱり立たない 自力で 見通して 絶対自力でやるじゃないですか
人々が一番モチベーション気にする のはそのせいですよ しかもモチベーション
にすら自分で受け合えないにも関 わらず 最後までやり抜けるだろう
かって事前に考えることに意味 があるって考えるのがおかしい
と思うんですよ やっぱり 6月まで ずっとモチベーションが続くだろう
かとか 毎日書けるだろうかとか 毎日どのぐらい書けるだろうか
ということを気にする前に まず 企画が取らなければいけない そして
企画放送ももらわなければいけない それに私が本というか文字をいくら
打ったところで それを入稿して くれる人 僕は入稿自分でできない
から 印刷してくれる人 これも 僕は自分ではできないですから
ね 製本してくれる人 タイトル を僕が勝手に決めることは これ
までの本の経緯でもあんまりない ので タイトル イラスト 全て僕の
アンコントロールなところで行われる わけです 一つとして僕のコントロール
下にはないわけです 思うに だから企画というものはできる
わけですよね なのに その企画 の進捗に関しての管理というもの
を 僕の力に 基本 誰とも相談せ ずにやる これも昨日 ちょこっと
話に入れて面白かったんだけど やっぱり 色紙のトラブル 色紙だけ
じゃないですよ もちろん 本という ものは出来上がり付近になってくる
と 大量のトラブルが発生 だいたい そもそも構成というのはトラブル
修正なので ちっちゃいですけど 一つ一つは それらの作業という
ものを全部事前に自力で読んでおかな ければならないといったって ミス
してるのは他人なんですから ある 意味で 例えば 私が書き損じとか
誤字脱字がゼロであれば 構成って いらないですよね 私がどのぐらい
誤字を発生させるのかといった ことをコントロールできるのか
って言うと できることないじゃない ですか だから その関係者が管理
する部分というものは 極々少ない ところに留まるはずなんですよ
そこで例えば でも予測はしておき たいって言われるのかもしれない
ですよ 私が誤字出すことは予測 はできますよね それはね 何時
誤字出すのかは 当然予測できない ですよ 問題は誤字だけじゃない
ですよね 仮に誤字出すのも だから 多くの人はここでものすごい
無理をして 方形とか言い出すわけ ですよね 1著者あたりの構成に係る
手間暇を平均的に出したいと でも そこで出てくるのは平均であって
僕がハズレ値なくらいひどい著者 かもしれないじゃないですか そんな
のは書いてみないと分かんない ですから そしてやっぱりさっき
も言ったとおり 誤字 脱字だけが 問題じゃないんで これが全方位
にわたってあるはずなんですよ 編集さんがコントロールしてる
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部分っていうのはごくごく小部分 に過ぎないんで 著者にしてもそう
なんで 編集さんもそうで イラストレーター もそうで 営業の人にとってもそう
で 彼らが管理できる部分っていう のは 一人一人の部分は本当にパーセンテージ
として少ないんですよね これら をそんなに必死になって管理して
みたところで 仕事進む意味と関係 なくないかなというと 僕は関係
がないようにしか思えないんですよ 何よりもなんですよ 何よりも 昨日
メールのやり取りをしたときも 思うんですけれども この壮大な
ですね 結局壮大になっちゃうん ですよね 管理できる部分はごく
少数なのにも関わらず ポータル の見通しを立てようとすると ひどく
でかいものになる そもそも5カ月も 先のことを見通そうという段階で
ひどくでかいものになりますから でも 今日できることって何かっていう
と メールでお礼を言うってこと なんですよ これだったら一切合
際を意識しないほうが明らかに 早くできますよね そもそもこの
企画が成り立つんだろうかって 考えただけでも 多分 やる気って
よっぽど寛容な人でも それについて 考えてしまえば 2割は減ると思うん
ですよね この2割はすごいでだら めですよ でも 大概の人はこれについて
考えだすと 7割は減るだろうなって 思うんですよね この つまりメール
出すことに意味あるんだろうか って考えだすと メールを一つ書く
ときも あれじゃないですか 裸る ってことが出てくるんです 心理
的には ある種のきつさが増します よね これはちょっと何を言ってる
のか分かりにくいなって方もいらっしゃ るかもしれませんけど だから
さらっと書ける人はそうなんだろう と思うんですけどね 私はさらっと
書けるんですけれども つまりそれは 後先について考えないからさら
っと書けるわけですよ これは毎回 原稿を書くときについて常に言える
こと 先について考えることが多く なればなるほど 多分全く書けなく
なっていくでしょうね やっぱり で 現にそうなるっていう人はいる
と思うんですよ そしてその人は きっと これは確実に言えると思
うんですけど 今の話の総合的に 見るとですね めちゃくちゃ賢明
な人だと思うんですよ だって そうですよね 原稿というかプロジェクト
というものが成立しない可能性は 十二分にあるんですよ でも本って
できるから不思議なんですけどね そして手戻りが発生する その恐れ
も恐れというふうに言っておく と十分あるわけですよ これらについて
全て検討できる人ってめちゃくちゃ 賢いじゃないですか ものすごく
賢明ですよ そしてその人がものすごく 賢明であればあるほど しかも自分
でコントロールできる部分という のも 現実的に考えれば考えるほど
ほとんどないってことが分かります よ つまりやってることが無駄になる
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いろんな意味でね いろんな意味 で無駄である 理不尽であるという
可能性について考えると 考えた 場合はですよ 考えた場合は無限
に近いぐらいの つまり無限に近い というのは本を書けるという結果
が百だとすると 書き上がる可能性 っていうのは頭で考えてみると
ゼロに限りなく近い感じがする はずなんですよ とっても賢明な
人ならば 今日ここから文章を1,500 字 2,000字書くというのは無駄だ
って思うと思うんですよね そう思 って 何らおかしくないだけの
証拠を脳は大量に集めてこられる でしょうね そして大きなプロジェクト
というものを管理して レイレーシー って言ってはいけないですね 非常
にリアリティーのある見通しという ものが立ったときには その人は
その日原稿を書き始められない という降参が僕はすっごい高くなる
というふうに昨日いろいろ考えて 思ったんですよ つまり僕が書ける
のは僕がバカだからなんですよ これがあるんですよね この自分
がバカだから書けるんだっていう これ 見通しがない 見通しを持ってない
これがどうなるか分かってない 分かんなくてもいいと思ってる
それによって人にもよりますけれども 時間 手間 お金も含めて多大な損害
をこむる この多大な損害って何なんだ っていうのも本当あるんだけど
でも何ヶ月っていう日数 そして その間生きているお金とエネルギー
それをこしゃらせるときの合理的 ではなさすぎる理由 その他諸々
について一切考えない人間が僕 なんだけど バカですよね 賢い
人から見れば だから書けるんですよ
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