自己の恐怖について
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1148回をお送りします。
3月4日、ひな祭りも終わりまして、昨日一応、浜栗なんかをいただきましたが、
9時14分、寝過ごしました。いろいろありまして。
ちょっと雪もちらついていたりしたんで、いろいろとあったんですね。
今日はゆっくりして、起きたらこんな時間というか、起きてはいたんだけれどもこんな時間に収録をしているというわけですね。
寒い、雪も降ってたし、もうやんじゃったけど、とにかく3月に入ってまたいきなりやたら暖かくなり、
そして急激に寒くなるという。
20度ぐらい下がったと都心は言っておりますが、20度下がるってすごいなっていう。
昔だったら私はね、もう体がボロボロになったとかって大騒ぎしてるところなんですけど、
全然大丈夫なんですね。これがやっぱり僕は力度怖いなって思うんですよ。
それ精神分析のせいじゃないんですよ。精神分析のせいではなく無意識のせいなんだけど、
絶対大丈夫だと思ってるかどうかっていうのがここも違う。
これ言うとどうしても何かね、何かの自己啓発系の身体なんとかみたいになってしまうんだけど、そうじゃないんですよ。
少なくとも僕に関して言うとですね、僕は自分で自分の病気作ってたんで、そういうことができるんですね、人間は。
自分で自分の病気を作ってたんで。だからこれなんですよね。
昨日も分かったようなこと書いてましたけど、これについて後ほど言いますが、
クレーム怖いとか、作れるんですよ、そういうものをね。炎上怖いとかですね。炎上とかクレームとか全然怖くない。
こういう言い方をすると想的に聞こえてしまうんだけど、そういう意味ではないんですよね。
この作るのをやめるということが、どれほどその当人の恐怖に深く関わってるか、今でも僕は全部をやめられてるわけじゃないんですよ。
例えば、静電気が怖いんですね。で、私これは怖いんだというところまでは来たんですよ。
だから時々大丈夫になったし、食らっても前みたいなダメージは、前はダメージを受けてたんですよ。
今は食らってもダメージを全く受けないんだけどなお怖いんですよね。何かあるんだろうなって思う。
要するに電気の痛みとかは関係ないんですよ。だって痛くないもん、別にね。
痛いんじゃなくて痛いような気がし、痛いようなことが起こるという恐怖に囚われているに過ぎなくて、実はクレームも炎上も全部同じなんですよね。
もちろん嫌ですよね。クレームを受けるとかが好きなわけじゃないですよ。でも静電気よりは怖くないんですよ。
だって実体がないからね、別にね。静電気の方が僕は怖いんです。まだ。
ここにこの土地狂いぶりがあるわけ。現実見当が狂ってるじゃないですか。静電気の方がマシに決まってますよね。
でも私の中では静電気の方がマシでは全然ない。全くないんですよね。クレームの方がマシです。
これは恐怖感だから。自分が決めることなんです。その増減というのが代償。
自分で決めることなんで。だからクレームなんていうのは受けたら気分悪いなと思っても2秒後には忘れられるけど、静電気は2秒じゃ忘れられない。
おかしな話なんですけどね。でも静電気って実際に痛いですから。クレームって実際に痛くないですからね。
僕は多分身体へのこだわりが大きい人間なんですよ。そういうことなんだと思うんだな。
象徴機能の重要性
だから身体にこう痛みを与えるものは大体なんであれ嫌だみたいな。でもそれってすごい子供っぽいじゃないですか。
大人になると少々の痛みって苦にしなくなるのが注射とかそうですけど、注射ってすごい人によって違うじゃないですか。
お前身体への痛みそうそう。だからやっぱりこれは本当に純精神的なものなのかも。
というのはつまり私は注射って全然怖くないんですよ。全く怖くない。痛いですよもちろん。
静電気より痛い気がする。でも注射が怖いと思うことは5歳以降ないんですよね。
痛みは間違いなくあるんだけど怖いとは思ったことはもうない。でも4歳児以下の時は怖かったからあるんですよね。
クラゾノケゾさんはですね、昔注射をされると気絶してたとかいう話を聞いてびっくりしたんですよね。
これは私後からわかったんですけど、これはつまり母親という存在の無罪なんだなっていうのがわかったんですよ。
つまり私には痛ってことですよね。痛っちゅうの横でお母さんが見ててくれたから痛くなかったとかそういうことではないんですけど、ないんですよね。
ないんですがでもそういうことなんですよ。純精神的なもの。
だから多分私クレームとか炎症も横でお母さんが守ってくれるって思えれば多分なんてことなくなるんだろうなって感じがします。
実際には守ってはくれないですよ。横に居もしませんよ。だからこれは不罪の母親の罪なんだ。
これなんかねやっぱりね専門用語って難しいですよね。不罪の母親がいるってのはどういう意味かというと、
前に言いましたけど自転車の後ろを支えてくれているお母さんがいると信じているから乗れるってこと。
いないんですよ。後ろで支えてくれるお母さんなんて。
だから私は後ろを向いて、いないじゃんって思ったら途端にこけたんですよ。
これが物凄く大事なんですよ。
で、人間には逆でしょうって思ってるんですよね。
でも本当はいなくなっても一人でやっていけなきゃいけないよね。ではないですよ。
ウィニコットによるとね。いつまでも永遠にいるんだよと言ってるんですよ。
そういういないお母さんが心の中にいてくれるからあなたはやっていけるんですよっていうのが多分私は私のウィニコットの解釈だし、
私自身がいろんなものをうまくやれるようになってきた時の一つの重要なポイントなんですよ。
確かにいない。実際にはいない。実際には埼玉県におります。
が、いるというふうに思う。
そしているというふうに思うのは錯覚なんですが、しかしそういう錯覚を通じて人間というのは現実を乗り切っているんです。
これを私は時々野球とか交差点で言ってるわけですよ。
ホームランとファールは違うんですよ。ホームランとファールなんて同じですよ。はっきり言って。
でも違うことにしないとゲームにならないでしょ。
ゴールポストに直撃したやつはサッカーでもダメだけど、ゴールポストの内をかすめてゴールラインを少しでも、ゴールが1ミリでも入ればそれはゴールなんです。
どっちのほうがいいって言ったらなんか非常に微妙なものですけど、そういう問題ではないんですよね、これは。
つまりそこにないものをあるということにしたと、象徴機能というものを使うことにしたと、
最近本当に流行っている言語化というものをすること、
遥かに言語化以前に象徴化があると思うんだけど、だって言語にならないものはサインというものは出せますからね。
だけれどもそれはそれとして、とにかくそういう象徴的な世界に、
ラカンの話ですよね、私はラカンは苦手なんですけどね、象徴界に人間は住んでるわけですよ。
だから象徴機能としての母親が心の中にいてくれれば、大概のことはなんとかなるんですよね。
これを私は、これだけ言うわけじゃないんだけど、これはすごくドナルド・ウィンのすごい重要な概念の一つだと。
ただそのためには人間は、象徴というものを扱うのがそんなに大得意じゃない、動物なんでね、結構難しいわけですよ。
専門的な話の価値
やっぱり動物は本物の肉は大好きだけど、肉ありますとかいう表現は別に好きじゃないわけですよ。
ただ我々は人間だから大好きじゃないですか。
なんかね、行きつけの居酒屋行って、ここに美味しいんだよね、肉今日ありますみたいな書いてあると嬉しくなるじゃないですか。
その瞬間に、その肉食べなくても。
こういう象徴機能をふんだんに使っているんで、だいぶ物抜きでもいろんなことが勝手に回っていくようになっているんだと思うんですよね。
その物抜きっていうことが時々問題にもなるんだし、物を実際には必要とするケースが多い。
それがライナスの毛布ですよね。
毛布がお母さんを思い出させてくれるわけですよ。
毛布が不在のお母さんというものの在を作り出してくれるわけですよね。
この状態を作り出せればですね、静電気だの、クレームだの、炎上だの、大した問題じゃなくなるんですよ。
問題はその時本当に不在になっちゃう。
お母さんが本当に消えてしまう。
いないお母さんになってしまう。
一本間違うといないお母さんというか、一本間違わなくてもいないお母さんは赤ちゃんにとっては致命的なんで、
いないということはすなわち悪いお母さんが登場して、
それが騎士墓神みたいなのになってみたり、鬼になっちゃうわけですよ。
ヤマンバになってみたりですね。
だからもう炎上めちゃくちゃ恐ろしいわけですよ。
炎上ヤマンバ。
夜の中で自分の100倍ぐらいでかいのが、手も全部蛇になってますみたいな、よくわからない怪物になってガーってやってくるんで、
あんな恐ろしいものはないわけですね。
私にとって静電気が若干そういうものになりかけるわけですね。
非常に困る。非常に困りますよね。
不在のお母さんの在ってのは非常に大事なんですよ。
いないお母さんがいるという感じ。
でも、いないお母さんが本当にいなくて、悪魔になっちゃいましたというのは非常にまずいわけですよね。
これどっちも空想がやってますからね。
空想で埋めてますからね、この空白を。
今日言いたかったことはそういうことではなくてですね、
もはや3月15日のCMはできなくなっている流れなんでこのままいっちゃいますけれども、
3月15日のCMしなきゃなと今どっかで思いながら喋ってたら10分経っちゃったんですよね。
えーとね、私がベータ排出と機能書きましたけど、
勢い余って眠かったし、
あのですね、こういうことはまんま信じないようにしましょうね。
適当に近いこと喋ってると思いますけど、正しいこと喋ってはいませんから。
私より正しい人間は正しくこれを知ってる人はいるんですよ。
本当はそういう人たちがやってくれればいいんだけど、
やってくれるいろいろと事情がありまして、
やってくれるメリットが、たぶん先方って誰なのか分かりませんが、
それぞれの人にないので、
簡単にできるスタンドFMとすらやってくれてないので、そんなに多くの人は。
なんかね、カウンセラーの方がやっていらっしゃるのを僕結構語ったしから聞いてるんですけど、
なんかやっぱりね、なんだろうこれは。
縛りが厳しいのか、組織的な話なのか、
何か別にスタンドFMは皆様個人好きにやるのが良くて、
私ごときが口出すところでは全くないし、
これを参考にしていただかなくていいんですけど、
私としては、いやそれは話が優しすぎると思っちゃうんですよね。
そういう話じゃなくてもっと専門的な話をしてくださいと。
それは無料じゃできないって思われるかもしれないけど、
僕は逆だと思うんですよね。
あの優しい話は、リアルで対面したときにいる能力だと思うんですよ。
それがビジネスになってるんだと思う。
僕これいつもそう思うんですよね。
難しい話こそフリーミアムなんですよ。
フリーミアムじゃないけど。
僕その路線でやってて失敗してますからね。
何のアドバイスにもなってないんだけど。
でもこれ大学の先生とかもそうだと思うんですよ。
リアルに講義するのは、これは仕事でありビジネスだから、
当然学生さんのレベルに合わせなきゃいけないんだと思うんですよ。
でもサンチャレにもいらっしゃるけど、
歴史の先生とかが一番歴史的にマニアックで、
コンセンスも取れていないような話は、
ぜひ無料でするべきだって僕は思うんですよね。
だってそんな話をすることができるのは、
あとは居酒屋ぐらいのもんじゃないですか。
でもこの種の話が一番面白いはずなんですよ。
教科書に書いているのを読めば何とか理解できるようなやつってのは、
自分で教科書を読むという労を厭うくらいのレベルにあるからこそ、
リアルではそれをお金払って聞くんですよ。
僕はそういうもんだと思うんですよね。
タスクシュートで考えても絶対そうなってるんで。
やっぱりお金をいただいてタスクシュートの話をするときは、
佐々木式マニアックタスクシュート超上級術とか許されないんですよ。
そんなこと喋ってて喜ぶのは、
その場にいる3人ぐらいだって、
その場に50人来ていただいてしまった以上は、
やっぱりここに開始ボタンがありますので、
っていうところからやるしかないんですよ。
できるワードは売れてるじゃないですか。
できるExcelとか、Excelで見たこともないような、
ここに3Dの動画を貼る方法ですとか、
そんなのはExcelの本には載らないんですよ。
マニアックすぎて。
そういうのこそ無料で出す必要があると思うんですよ。
でも面白いじゃないですか。
僕はそう思うんですよね。
だからここでは一番僕にとってあやふやで、
現実感の喪失
分かりにくいなと思ってるところをそのまんま出してるんで、
そのまんま信用しないようにした方がいいと思うんですよね。
お前責任取れるのかとかっていう訳の分かんない話はですね、
責任なんて取る気は全然ないですからね、ここではね。
だって私は精神無責化じゃないんだから。
そうだと思ってますってこと喋ってるに過ぎませんのでね。
でもここで間違いなく私にとって確実な、
例えば古典理論によると、
自画、超自画、S画っていうのを教科書読みながら喋るんだったら、
面白くもなんともないじゃないですか。
情報だけは正確ですけど。
だからそういう話は残念ながら有料になるという。
そういうふうに僕は大体できてるなと思うんですよね。
だから有料のお仕事というのは面倒くさいんですよ。
面白くもない話を面白そうに話す必要が出ますよね。
だからあれは一つの技術になっちゃうんだろうなっていう感じがしますね。
余談に近いですね、この話は。
本題に入りますとですね、つまり、
昨日ベータ排出書きましたけど、
正規の人というのはこういう話を色んな事情があってしてくださらない。
仲間のうちに間違ったことを言うとバッシングされるとかいう恐れがあるのかもしれない。
わかんないですけどね。
その恐れというものは、
つまり私はやっぱり孫徳環状から来てると思うんですよ。
先日も100日チャレンジ50日目、つまりハーフイベントというのを今開催したわけなんですが、
それはなかなかうまくいったかなと思ってるんですけど、
私はそこで長寿がっていうワードで中心にお話したんですね。
3ヶ月チャレンジでは毎週のように話している話を、
100日チャレンジでは50日に一遍話しているという感じなんですけれども、
機会がないですからね、そんなに。
3ヶ月チャレンジでは毎週のように話します。毎週土曜日。
つい最近も話したばっかりですけれども、
なんでこの長寿がという話をするかというと、
ビジネスメンタルなんですよ。
早い話、先送りの話をしているわけですね。
100日チャレンジだから当然先送りの話をするわけですね。
100日チャレンジでする先送りだろうと、
ビジネス一般でする先送りだろうと、先送りというものは、
長寿がというものと僕はもう切り離せない関係にあると思うんですよ。
当日はこれも勢い余って東映っていう言葉を使いたくなかったから、
私は後継になっているんですと言ったんですよね。
それはすごく実はビオンっぽくなってしまうんだけれども、
でも正しいの。正しいというか、この話の方が伝わるかなと思うし、
我々の現実に実は近いかなという感じすらするんですよ。
例えば真空に皿が溜まっていますと、
長寿がダメでしょこれじゃって言うって言うんじゃなくて、
皿が怒りを示しているような感じがするという方が、
実感に近いような日が私するんですよね。
だから皿に怒られているわけですよ。
つまり対象の東映っていうのは物にもできるんで、
できなかったらおかしいんですよ。
物にできるから墓場に幽霊見るわけですから、
対象の東映というのは物にもできるし、相手が人だとは限らない。
親対象だとしても親の姿をしているとは限らない。
僕なんか声が聞こえてくるって感じなんですけどね。
でも皿の光景に怒りがやってくると。
皿洗いのメタファー
この怒りはつまり皿に怒られているわけですけど、
片付けろと言われているという状態なんですよ。
この状態に入ってしまうと、
つまり無意識は外在化しているじゃないですか。
外在化言い過ぎか。でも無意識は外に出てますよね。
無意識っていうのは心の中にあるものですよね。
それが外に漏れ出すということは、現実見当がやや怪しくなってきていますよね。
夢の世界に突入しつつありますよね。
これが危険なんですよ。
こうして我々現実の力というものを見失っていくわけです。
自分の現実の力。
ここにはいろんな問題が発生しちゃうんですよ。
夢のように夢の世界に行き始めることによって、
一気に事態が悪化するんですよ。
ここを精神分析は一生懸命説明している感じがするんだけど、
そして他の方法論はなかなかこれを説明してくれる感じがしないんで、
私はやっぱり、のらこそ力度をやるしかないんだっていう、
これが僕のある種のミッションに近いんですけれどもね。
ミッションじゃないけど。
別に私はのらカウンセラーだと思ってないしもはや。
だから力度をやってますっていうんじゃなくて、
力度好きだからやってるだけなような気がするんですけどね。
でもここで行動両方的に、
じゃあ皿を洗ったら3分だけ皿を洗いましょうとか、
皿を洗ったらご褒美をカフェラテ入れましょうとか、
やるのは良さそうなんですけど、
ですがそれは皿洗いとは現実の行為であるっていう、
今は分かんないですよ、認知行動も。
最新式はもっといろんなことが書いてあるんで、
ACTとかいろいろ書いてあるんで、
分かんないところもあるんですが、
私の認識、これまで学んできたこと、
習ってきたことや言われてきたこと、
IFACも同じなんだけど、
ここで皿洗いというこういう現実の行動だと、
認定、それこそ認知なんですけどね。
認識している間は、
この夢の世界にハマりつつあるメンタルが、
どういう風なからくりで、
その皿洗いに本人は向かっていけなくなっているのかの説明が、
説明いらないだろって言われるかもしれないけど、
僕は説明いるだろっていう、
やっぱり派なんだ、派だっていうか、
そういう考え方なんですよね。
それはもう皿洗いが問題じゃなくなってしまって、
夢の中の真空に怒られる夢見が始まってしまっているわけですよ。
夢見の中で真空に長寿が倒れしてるからね。
あれですよ。よく漫画であるじゃないですか。
お皿に怒った顔してるわけですよ。
してないけど、大概の場合はしてないです。
もっと悪い感じになるんだけど、
とにかくボヤーンとしたものに怒られているような感じ。
片付いていない書類とかに置き換えてください。
皆様の状況に応じて置き換えてください。
最近で言うと、ここで言うと、
確定申告の書類が怒ってる感じがする。
怒ってる感じじゃないんだけど、
それに叱られている感じがする。
そういうものに書き換えてください。置き換えてください。
真空じゃない人。
黙ってる洗濯物の山でもいいし、
最近話題になっているコンセント周りの埃でもいいですよ。
あれやらなきゃいけないのにと思ってるのにやれてない。
という時に、もしね、僕の考えでは、
長寿画の投影というものをしているとすると、
長寿画というのは心の中にあるものですから、
100%自分の中にしかないんだから、
自我なんですから。
スーパーエゴって言ったってエゴなんで、
エゴが真空になっているわけがないんで、
真空がエゴになっているということは、
内と外の区別が突きかねているわけですよ。
もうそれは夢の世界の、夢ってそうじゃないですか。
夢見てるのは本人じゃないですか。
本人の脳なのか本人の心なのか、
とにかくそれは本人はその夢の中に入っちゃってるけれども、
実は夢を見ているのはその人そのものじゃないですか。
つまり人は自分の中に入っているくせに、
自分の外にいる気がしているわけじゃないですか。
外の夢とか見るじゃないですか。
つまり内と外の区別がつかないということこそ、
現実の認識がおかしくなっているってことの、
処方中の処方ですよ。
これが起きてるんだけど、起こっちゃうわけですよ。
目は覚めてるんだけど。
ちゃんと歩いてるんだけど、
外は歩いてるし、
お布団の中でおしっこはしてないんだけど、
この話すごい大事なんだけど、
お布団の中でおしっこはしてないんだけれども、
トイレに行ってるんだけど、
でも夢は見てるわけですよ。
で、この夢見が始まってしまうとですね、
心の中ではこれがどこか夢であるってこと、
知ってるんですよ。
少なくとも無意識は知ってる。
そのために何が起きるか。
皿を洗ったらご褒美がもらえるというのが、
現実のことなのか夢のことなのか、
区別がつかなくなっちゃうじゃないですか。
だから私は行動療法的な方法論というものは、
間違いなくその人の覚醒水準が、
神経症レベルよりは神経症から健常者、
その水準にはっきりあるっていう場合には、
有効活用される可能性が高いとは思うんですが、
そうでない時、かなり夢見水準まで下がってきた時、
対抗が著しくなってきた時には、
効果がかなり薄くなってしまう。
なぜならその人は、
皿を洗おうという気はないからだと思ってるんですね。
それは夢の中で皿を洗うことに過ぎないんで、
本当に真空が綺麗になるかどうかは、
まだ分からないんですよ、そういう水準においては。
ということを僕は、あの手この手というのかな、
今言ったような、
今かなりこなれた説明になった放送ですよ、これでも。
大概はもっとこなれていない。
ハーフイベントの時も、
これよりはこなれていない説明をしていた気がする。
しょうがないんですよ、これ。
すっごい伝えにくいんです。
信じられてなければ、ほぼ伝えられないです。
いや私夢なんか見てないからって言われれば、
もうそれまでですよね。
見てないから、そうですかってことになってしまうんで、
すごい難しいところはあります。
なんですが、私はそうだと思うんですね。
例えばだから、皿に近づいていくのも嫌だってことが起きるわけですよ。
だって怒られるから。
あるいは、うまく洗えないと、
後でむしろもっと怒られるから嫌だってことも起こるわけですよ。
皿を洗うのがただ面倒臭くて、
皿を洗えばご褒美がもらえて3分だけだというのが意味を成すのはですね、
それが単なる皿だと思われている限りにおいてはなんですよ。
そうじゃないものがここに入ってくる。
夢の世界、そうじゃないものがいっぱい入ってくる。
例えば急に自分のこう、皿洗いしすてき母みたいなのが登場して、
めちゃめちゃ怒られるとか、
なんかそういう洗い方じゃダメでしょとか、
もっと早くできないのとかね、
速さみたいなのが問題になる。
ここで損得っていうのが激しく問題になってくるわけですよ。
損する。つまりここで皿を洗うと損をする。
怒られるかもしれないし、3分かけても割ってしまってもっと時間がかかる結果になるかもしれない。
そもそも30分かかってもっとさっさとできないのかと誰かに怒られるかもしれない。
この皿洗い労働というものは、
外で皿を洗えば1時間で1000円はもらえるのに、
今1時間皿を洗っても無償労働になってしまう。
これによってメリットを得るのは家族だけだ。
家族だから自分は取り除かれるんですけどね。
こういう様々諸々の夢を見始めて、
しかも心の中では夢の展開の方をはるかに優先させてるから、
その間皿は一切皿には手をつけず、
損得の認識
もしかすると皿から相当距離がある可能性があってですね、
その心の中の展開をずっとやることになるわけですよ。
この時に損得というものも夢見の中に入ってくるわけですね。
だから例えばそういう時にカウンセラーなり何なりの人がですね、
えっとそれって本当に損なんでしょうかみたいな、
この時々出ますね。
そうするとクライアントさんがハッとする。
あれハッとするっていうのは目が覚めるってことなんですよ。
しか思えないんですよ。
つまり損かどうかなんていうのは、
損だというのは夢の中の出来事なんだから、
本当に損なのかどうなのかなんて別に考えられてるわけじゃないんですよ。
そんなことはどうでもいいことなんですね。
皿洗いに例えば15分かかるのは損なのかっていうのを、
本当に真剣に考え始めたら、なかなかそう簡単に答え出ませんよね。
夢の中なんでね。
でも15分皿を洗うのは損だということに、
もうその夢の中ではなってるんで、
これもまた長寿画が決めてるんですよ。
だから私この夢を長寿画が支配するというか、
無意識と自己認識
自分が長寿画とどんどんどんどん接近していって、
一体化まではいかないまでも、
もはや自分の無意識が外に漏れ出しているのに気づかないレベルで、
長寿画との一体感が進んでいく。
一体感が進んでいくから、
自分の中にある、自分の無意識なんだというような認識が全然出てこない。
本当に無意識になっちゃっていて、
全く自分がやってるんだという認識がなくなっていく。
自分がやってるにも関わらず。
桃園は自分がいることですから。
自分がやってるにも関わらず、その認識が全くなされなくなっていくということは、
それだけ心の中の構造というものを長寿画優勢になっている。
つまり自分と長寿画が一体化している。
一体化はしていないまでも、ものすごく接近していて、
長寿画に何か言われるということは、
絶望的なほど傷つくといったようなことが、
自己愛的に傷つくといったようなことが起きるわけですね。
この傷ももちろん自分が自分につけた傷だし、
傷なんてついていないから、
なくそうと思えばなくせるんですよ。
でもそれが間違いなく親に言われて辛いことであり、
心から傷ついたと思っているときは、それは傷があるんですよ。
これもまた実体のある世界とは異なることを言っているので、
その長寿画と一体化できていればできているというか、
していればしているほどですね、長寿が正しいわけですよ。
つまりそれは親だからね。
だから自分がその真空を放置しているということは、
これほど悪いことはない。
さっさと洗えばいいのに、いつまで経っても洗おうとしない。
これほど愚かなことはない、みたいなのも正しいんですよ、
その人の中でも。
したがってその正しさの中で罰されていく自分というのが、
半分いるわけです。
半分は長寿画に立って罰しているんで、
ちょうど右手で左手を殴り続けているような感じで痛いんですよ。
殴ってはいるんで。
でも殴っているというのも自分なんですし、
殴られているのも自分なんですよ。
この状態を人から殴られているって思えているほど夢見に近いじゃないですか。
自分で殴っているんだなっていうことに気づけているほど
現実に近いじゃないですか。
どっちに寄れるかっていう話、
完全にどっちかに寄り切ることはできないんですね、残念ながら。
片方は残念じゃないね。
完全に夢見の方に行ってしまったら、
もうそっちに行ってしまう人になってしまうので、
頑張ってこっちに踏みとどまるしかないんです。
頑張ってこっちに踏みとどまっているということが、
ギリギリの線まで来ればですね、
おそらくその動きは止まる。
そしておそらくその気になればですね、
皿洗いが始まる。
この夢見のままの段階で皿を洗うのは、
僕はいいことのようには思えないので、
だからその皿を洗うべきなのか、そうでないのかという問いには
答えようがないんですね。
夢見の中のままだったら、
多分やんないほうがいいんじゃないかぐらいな感じがします。
夢見の影響
とはいえ、現実適用という問題があるので、
夢見の中のままだとしても、
もうこの際に時間があまりないので、
何の時間か分かりませんがないので、
この際も夢見でも何でもいいから皿洗っちゃいましょうというケースもあると思うんです。
だからどっち、この皿を洗うべきなのか、
結局そうでないのかという問いには答えられないんですね。
で、皿を洗うにはどうしたらいいんでしょうという問いにも答えられないんですよ。
本当のところ。
それに答えられるということは、
その人の夢水準が僕に手に取るように分かっていてのかどうか。
そんなことは、私は正規の人だろうと、
なんだろうと、
かわいはようさんだろうと、無理だと思っているんですよ。
だって彼らの本を読んで、フルイトの本でもいいんですけど、
クラインの本でもいいんですけど、
そこらへんが手に取るように分かっているとは感じない。
感じない。
やっぱりこれは推測の意気を出ない。
所詮人が見ている夢のことなんで、
まして私には無理なんで、
そんなのが手に取るように分かるとは絶対思えない。
その人が一体どんな夢を夜見ているのかは分からない。
だから夢見の報告というものはとても助かるんですね。
とても助かるんだけれども、
夢見の報告を受けたからといって、
直ちにあなたはこういう夢を見る傾向がある。
だからこうこうこうしましょうっていう、
そもそもそれを現実の側から言うのはおかしいんですよ。
夢見の、人の夢見の中の問題なんだから、
中に入っていってやり取りするより他はないんだけど、
そう簡単に人の夢の中に入れてはくれませんよね。
だからここで、
これはもう非常に飛躍してますよ。
こんなことを信じて、
公認心理師の試験とか受験にしちゃダメですよ。
あれなんですよ。
人の夢見の中に登場させてもらえるということは、
ラポールの確率っていうのの一端を担っていると僕は思うんですよ。
これはラポールというんじゃないかなと、
前も言ったかもしれませんけれども思うんですよ。
だからラポールの確率をしましょうというのは、
僕はすげえ無理な話だって思うんですよね。
それは相手次第で決まることであって、
ラポールの確率というものをカウンセラーの側が、
できると言われればできるかもしれないけれども、
できるという前提に立つようなもんじゃないだろうって感じがするんですよね。
それは条件次第だと思いますし、
人には様々な事情がありますからね。
だから外側から声かけっていうのもすることはするんですけど、
それは言うなら眠っている人に声をかけて、
あなたの今もしかして見ている悪夢は夢だから気にしなくていいですよって、
外から寝ている人に向かって喋っているようなもんなんですよ。
程遠いこの状況では。
程遠いから、もどかしさでイライラしたりもすると。
それも一種の逆転医だと思うんですけれども、
とにかくもどかしさでイライラするってことは起こり得ることですよね。
でもそのイライラはほとんど意味がないわけです。
だって相手寝てるんだから。
で、起こすっていうことはこの場合、できるんだったらやりますが、
大概できないんですよ。
起こすということをやろうとすると何が起きるかというと、
起こそうとしている悪者っていう存在、
これが完全に定義ですけれども、
存在にさせられてその人の夢に組み込まれる、
これが夢に巻き込まれるとか、
夢に絡め取られるとか、夢に組み込まれると、
精神分析で時々表現されている話なんですね。
あれですね、少年ドーラでやったようなやつですね。
フロイトは一生懸命怪病を使って、
半分本当の病気だと信じ始めているあなたの怪病を使って、
お父さんが不倫するのを止めるのやめなさいって言ったんだけど、
お父さんの手先になっている。
もしかするとフロイト自身はお父さんになっている。
ドーラは現実見当が怪しくなってきているから、
自分の病気が本当の病気だか怪病だか分からなくなってきているっていうことですよね。
心の機能が弱まってきていて、現実見当が怪しくなってきているから、
もしかして目の前にいるこのフロイトは
お父さん自身が化けているのかもしれないってことになっちゃうじゃないですか。
そうでなくても夢見がちな少女ってところがあるわけですからね。
というかなっちゃったわけですよ。
だからもうあなたの話は聞きません。
だってあなたお父さんだしねって。
お父さんじゃないにしてもお父さんの手先だしねってことになって、
カウンセリングは失敗に終わるみたいな。
これはだからとても私はすごい良い話だって思うんですよね。
それをフロイトはわざわざ書いてくれているっていうところが素晴らしいんですよね。
恥ずかしいじゃないですかそういうのって。
あの時代の選挙者で創始者だから別に恥ずかしくないかもしれないけど、
これを私がやっちゃったら恥ずかしいですよねっていうことなんですよ。
だからそういうのは隠す傾向にありますよねってことなんですよね。
彼はもうなんかよくわかんないんだけれども、
とことん書く人なんで、
あのとことん書いちゃうんですけれども、
非常にこうやっぱり考えさせられるお話だなって感じがしますね。
いずれにしても相手の夢の中に絡めとられてしまっていて、
何を言っても無駄ですよねこうなってしまうと。
何を言ったってお父さんの手先としての答えになっちゃうから、
そのアドバイスがどれほど正論であろうというか、
正論であったとすると尚のこと効果がほとんど何もないというか、
むしろ逆になっちゃうと。
そういう時にどうしたらいいのかっていう話が始まるところから、
多分精神分析は始まっていったんだろうっていうようなお話なんだろうなと。
で私はそういうことをダイレクトにしているわけではないので、
先送りの話をしましょうってことになるわけですね。
先送りにはやっぱり僕はそうは言っても力度の力をここでは借りて、
行動科学の力は借りずに、
皿を洗ったら、毎日皿を洗ったらその記録を残すとかじゃなくて、
そもそも深苦に怒られているという夢を見始めていないだろうかと。
深苦に叱られているという夢を見ていると、
必ずその叱られた時の子供、
つまり自分が幼児だった時の自分というものに引きずり戻されてしまいまして、
引きずり戻されてしまう、これを対抗と言いますが、
引きずり戻されてしまうともはや深苦には手が出なくなって、幼児なんだよ。
そしてしょうがないので、
昔お母さんがここで大人しく待ってなさいねって言ってくれたような時のやっていたこと、
本を読んでるとか、テレビを見ているとか、
という行動を取り始めるんですよ。
本の代わりにSNSというケースが多いでしょうけれども、
漫画だったりテレビだったりを見てぼーっと過ごすと。
そうするとまたテレビなりにSNSの中に長時間が投影されて、
登場してきて、いつまでテレビ見てるって言われるんですよ。
そうするとますますその人は対抗していって、
もはや深苦に手を出すところではなくなっていくという現象が起きるんだと思うんですよね。
過去のトラウマ
ここに何かジャシンクを3分で、タイマーセットして10分で、
何か間違い感がありませんかね。
僕はそれがすごい最初気になったんだと思うんですよね。
すごいそれは間違い感があるぞって感じがするんですよね。
僕のこの力動的な理解っていうものを、僕はこれに納得してるんで。
納得してるならどうやってるんだって言われるでしょうから、
一応言っときますが、つまんない話になるんですよ。
多分聞いてる人からするとね。
わかんないけど、まあこれは言い訳が欲しいですけどね。
確定申告なりに長時間を投影して怒られそうになりましたと。
怒られてしまったら夢見が始まるんで、やっぱりここでですね、
止めるしかないんですよね。
で、私が止めるという時に言ってることは、
その投影をするってことは、
その叱り始めている雰囲気を持ちつつあるのは、
自分がやったんだぞっていう風に頑張るということなんですよ。
ここで人は自分がそれをやってるって思いたくもなければ、
気づきたくもないし気づかないという事情を抱えてるんですよ。
しばしばそれをトラウマって言うんですよ。
なんでもかんでもうまくできたんならいいんですけれども、
昔々母子は一体でしたと。
ここからして常にそうじゃなかったですって言われると困るんだけど、
そういうことにしておこうと。
私はお母さんのもらった、
はちみつ入りのミルクを母乳瓶でもらっていた幸せな時代があったわけですよ。
その時代に戻ってるわけ。
その時代に全てが完成されていた。
だから我々はよくお金を手に入れてお家を建てて、
幸せな人生の完成版を作るんだって思ってるかもしれないんですけど、
精神分析はそれを逆だって言うんですよ。
二次の悪いことにね。
それは昔母子世界で一体感を持っていた時の記憶に過ぎないんだって言ってるんですよ。
あなたがお母さんのおっぱい吸ってて幸せだと思ってた、
それをユートピア、それを天国だって言ってるに過ぎなくて、
精神分析と母子一体の関係
そうやって共産主義社会とかを作ろうとするから、
無理が出てくるんだっていうわけですよ。
スターリンがおっぱい飲んでた時代の記憶に基づいて国づくりをしようとするから、
無理が始まるんだっていう、そういうことを言ってるわけですよ。
ある意味精神分析というのは。
社会的な話をすればですよ。
今もう雑に言いましたから、
こういう話じゃないかもしれないんで。
僕の理解ではこうなってるんだけど。
母子一体だった頃というのは、幸せだった頃というのがあったんだけど、
そうじゃなくなってしまう。
人によってはトイレトレーニングでつまずきますし、
もうちょっと言って、保育園に行きましたと。
玉転がししていたら玉が穴の方向に行っちゃって、
友達がみんな攻めてきますと。
ひどい目に遭います。
そうやってユートピアは壊れていくわけですよ。
その時に、お母さんと一緒の時代に戻るために、
ある種の子どもは猛烈な努力を始める。
まず第一に、いつまでもミルクを飲んではいけないから、
食事を絶つ。
こうやって接触障害といったものが始まってくるわけですよ。
食事を絶つ。
そして、いつまでも家でゴロゴロしているのは良くないから、
食事を絶ったままにもかかわらず、
買ってもらった自転車で、
盗んだバイクじゃないですけど、
遠くに走り出していく。
ということを始めちゃったりするわけですね。
妙に痩せ細った子が、自転車を必死になって漕いでいるわけですよ。
で、その反動は当然きますよね。
めっちゃ食うと。
で、吐くと。
そういう話が始まるわけですよ。
この話の延長じゃないですか。
結局のところは。
その真空が綺麗になっている、
幸せなユートピアのような生活空間を作り出すために、
長寿がというものとともにある。
長寿がというものとともにあるんですよ。
自立というのはいつでも。
食事を絶すのも、
もっとビシッとしようみたいな。
筋肉をつけようみたいな。
いっぱいいるじゃないですか、普通に。
社会人に。
サイクリングで遠くに一人で行ける強靭な力を、
体を作ろうみたいな感じで、
長寿がと一体化していくわけですよね。
で、その一体化していったところには、
気持ちも良さもあるし、
自分が強くなったような気がするし、
きちんとした人になったような気がするし、
これは筋肉をつけたりサイクリングするとかはいりません。
当然、大きくなれば。
部屋をいつも綺麗に片付けておくのかもしれないし、
確定申告は12月のうちに終わらせておくのかもしれないし、
全部同じなんだけど、
僕の目には同じように見えるんですけれどってことですね。
同じように見えるんですけれども、
そういうふうにして、
自分というものを立志していくわけですね。
で、自立なんですが、
立志していくというのは、
まさにスーパーエゴが得意とするところなわけですよ。
Sと対峙していくわけですね。
ダラーンとしてしまう。
ぐじゅぐじゅっといろいろ食べて、
そこら辺にポイって捨てて、
つまり幼児ですよね。
Sとは対峙していく。
性欲とかもとどめ。
できれば食欲もとどめ。
理想の体を作ったり、理想の部屋を作ったり、
そういう言い方としてこうなるんですよね。
だってそういう言葉が氾濫してるんで。
なんでもいいんですけど、
ちょっと小雑把りしたり小綺麗だったり、
ちゃんとしてる感じがするものだったらなんでもいいです。
そういうものになってるわけですよ。
それがいけないのって言われるかもしれないけど、
良い悪いの問題じゃないんですよ、これは。
あんまり良くない気がするんですけどね。
なぜなら人を夢見の世界に引きずり込んでしまうから。
これをあたかも世の中が言ってきているように思ったり、
なんならライフハッカーだった時代の佐々木翔吾が一生懸命言ってたよと思ったり、
外に置こうとすればするほど、
その人は夢見の世界にハマっていくわけです。
その人の心の中にある話だから、これは。
理想の部屋とかきちんとした人とか、
それは自分のイメージで自分の価値観ですから。
他者が押し付けてくるってそれを思うってことは、
非常に抑鬱的で迫害的になってるってことなんですけれども、
そういうことも起きますよね、自然と。
上手くいかなくなるってことです。
いずれにしてもこれは。
母子の一体であった頃ほど簡単なことじゃないんで。
おっぱいすれば済むってほど簡単なことじゃないんで。
何やっても褒められていた時代とは違うんですよってことですよね。
それが嫌だっていうことなんだけどね。
成長と食事制限の葛藤
だから自分を、何をやっても上手くいっていた時代の、
それがカイフカイ原則ですよね。
の母子一体だった時代の感触というものに、
戻りたいと言っているわけです。
戻りたいんだけどそこへ進みたいと本人は思っちゃってるってことでもあります。
長時間と一緒になってれば、
このリュートピアな世界に行けるような気がする。
そして遠くに自転車で走って行っちゃう。
なんですが、当然それではうまくいかない。
お腹はペコペコになるし日も暮れるしですね。
うまくいかなくなる。
確定申告も何か書類が来てませんとか、
税理士に言われるとか何かをしくじる。
必ずしくじる。
それはそうするとすごい長時間に怒られるんですよ、人によっては。
長時間が子供だった頃に戻れば戻るほど当然怒られるわけです。
だから自分はものすごいダメな人間のような気がしてくる。
申告も笑えてないし確定申告もしてないし、
物はいっぱい食べちゃうしみたいな感じで。
これは摂取障害の話ね。
ものすごくダメな感じがしてくるわけ。
でもそのものすごくダメな感じだって作り出してるのは自分の長寿がなんで、
全部自分の世界の出来事だっていうことなんですよ。
誰かがそれを言うわけでは絶対なくて、
他の人との比較した上でも厳密には全然ない。
ちゃんと出来てる人がいるかいないかだって、
この場合どうでもいいことなんですよね。
だって子供がご飯を制限して遠くに自転車に行こうと頑張ってますけど失敗しました。
自分はとても残念ですと。
隣のあきらくんなら3キロ先まで行ったって言ってたのにって関係ないじゃないですか、そんなことは。
だいたい隣のあきらくんが3キロ行ったかもしれないけど、
それがいいことかどうかもかなり疑わしいじゃないですか。
それはその人の価値観を反映しての話なわけですよね。
ここまでですね、ここまで検討できればですね、
僕が思うに確定申告がきちんとできてるかどうかというものは、
一見差も社会が決めているかのように見えても、
絶対自分が決めてるんですよ。ただただ自分が決めている。
ここに立ち返れるかどうかの勝負なんですよね。
小学生にとって食事が食べたいものを我慢して、
自転車で1キロ遠くに行きましたっていうことができるかできないかは重大なことで、
それは世の中に決められているように思えるかもしれません。
てか思っちゃうんですけど。
どうすればお前も一人前の男だみたいなね。
思っちゃうんだけど、そんなことは全然なくて。
だからそれと全く変わらない。
それはその子が勝手に決めたことであって、
確定申告であろうと部屋の掃除だろうと同じで、
自分で勝手に決めてるんですよ。
これをすると一橋であり、
それができなければダメであるっていうのは自分で勝手に決めてるんですよ。
そこまでいけば目が覚めうる、もしかするとですね。
目が覚めちゃえばやることは簡単なんです。
これを先取りするとして喋るのが気が進まないんですよね。
目が覚めちゃえば確定申告であろうと部屋の掃除だろうと簡単なんですよ。
社会的期待と個人の価値観
夢見の中ではほぼ不可能なくらい難しいんですよ。
だから私は目を覚ますのが先決だと思うんですよ。
行動を変えたり認知を変えたりするよりも、目を覚ます。
この先に母子一体の世界は待ってないと。
だってそれは過去のものなんだから待っているはずがない。
未来に母子一体の世界はないわけですよ。
でも別にそれは不幸なことではない。
ちょっと寂しいかもしれませんけどね。
この話は喋ってても思うんですけど、
自分の中ではすごくそうなっているけど、
人の中でも本当にそうなっているかと言われると、
科学的に証明できるかと言われると無理だし、
本当にそうなんですかと言われても本当はそうかどうか分からないです。
本当のような気がするんですけどね、私はね。
でも本当かどうかはちょっと分からないです。
母子の一体というのは長寿がと一体。
だって長寿がと一体になって自分がたくましい男になれば、
またお母さんと一緒の幸せな世界に戻れる気がするっていう風に
小学生が思ったのと基本変わらないはずなんですよ。
その時自分の心の中に踏み込んだ長寿がの
指示通りに動けるかどうかが勝負になっているんだけど、
その勝負がそもそもないわけで、
その勝負は負けるに決まってるわけですよ。
土台無茶な要求をしているんで。
ただ大人になるとそれがさほど無茶な要求じゃなくなってくるから、
一見無茶じゃないような気がしちゃうわけですよ。
学程申告10年休むまでにやろうと思えばできるでしょうっていう、
やろうと思えばできるっていうのがどんなに無茶なことかということを無視するわけですよ。
その分払う犠牲があるわけ。
たとえその長寿がさすがに5歳の頃ではないにしても、
まあでも15、6歳なら考えつきそうですよね。
結局対抗は起きてるってことなんですよ。
50の長寿がならばもうだいぶマシなことを言う。
毎日毎日学程申告してらんないでしょうっていうことも十分抑え込んだ上で、
だけどこの長寿がの発達が途中で大概止まるんです。
それは何々しなさいの世界なんで、
もういい加減そこを言う必要ないだろうって年齢に差し掛かった頃からはさほど成長しないんですよ。
そんなもんだから何々しなさいの世界に入っちゃうとどうしても対抗が始まり、
対抗というのはそもそも夢ですから。
私50だけど16、17になった意識で動き出す。
それ自体が夢じゃないですか。
現実ではないんですよね。
現実を誤答しようとするのに現実検討能力を下げてうまくいくわけがないんですよ。
現実っていうのはもっといろんなことを加味した上でやるべきものだから、
当然例外処理もいっぱい発生するでしょうし、
例外が発生しないように手を打ってからやるっていうのもある意味では対抗だと僕は思うんですよ。
それはそうやるといわゆるレシピ通りとかルーティン通りとか、
昨日も家族でいろいろときな祭りだったんでね、やったんですけど、
レシピとかってねやっぱり結局のところは素人の使うものなんだなっていうのを、
あれぐらいこなれている人がですね、うちは母と娘でやってますから、
ああいう時は見ていると痛感するんですよね。
その通りにやるっていうのはダメなんだなっていうことがよくわかるんですよ。
それはでもこなれてますけどね、レシピ通りにやるっていうのは十分にこなれてますけれども、
でもやっぱり結局本当にこなれてくるとそうはしなくなるんだなっていうのが、
手順が一見無駄が多く見えたとしてもですね、
やっぱり加えていってるんですよね。
毎年ブラッシュアップしていくんで、その時々で、
それっていろんなことが検討されているんで、
例えば昨日は寒かったとか雪が降ってると、
晴れた日の3月3日と雪が降ってる日の3月3日では、
やっぱり作る料理の傾向って少しずつ動くんですよね。
採れた魚とかも変わるじゃないですか。
現実ってのはやっぱり全く同じってことが絶対ないんで、
そういうものも加味できるかってなると、
15、6歳の頃の長寿がには難しい。
5歳の頃の長寿がには絶対無理。
結局対抗してうまくいくことって何にもないわけですが、
いくらかの対抗は我々はやむを得ない場合はあるんですよ。
ここの辺に本当にその時その時で考え方を変えていくより他ないんですよね。
だから決まりきった方法というものがここにはないので、
親子関係と育成の課題
ただ長寿がというのは対照化すればするほどベターであるとは思います。
一体化すればするほど事態が回らなくなっていきますよね、多分。
一体化するというのは結局自分が幼くなるということになってしまうので、
自分の知っている長寿がにしかなれませんから。
他人になるわけでは決してないんで、これは。
どんなにその人が自分を迫害してきた、
毒親のような親になった気持ちでいたとしてもですね、
そしてその虐待みたいなものが本当に行われていたんだとしても、
だからこそ困るんだけど、やっぱり親の言う通りにさせられたっていう時は、
自分が知っている親の言う通りにさせられたのであって、
10歳の子が知っている親ならばその親は10歳なんですよ。
ここのところなんだと思うんですよ。
だから過酷な長寿がになっちゃうんですよ。
俺の言う通りにするか、それとも地獄に行くかみたいな、
よくわかんない少年ジャンプみたいな世界、そこに出現してしまうわけですよね。
だから確定申告を今すぐやるか、それとも地獄に行くかみたいな世界。
そういうコーチングの話聞いたことがあって、すごい面白かったんですけれども、
頭に銃口を突きつけられて、今すぐ皿を洗うか、
それとも俺がこの銃と引き金を引くか、どっちか好きな方を選べみたいな。
こうして先送りをなくしていきましょうみたいな。
これって本当の話らしいんで、僕は知りませんけどね。
本当の話らしいんで、リアルにあるらしいんで。
少年ジャンプじゃないですか、これはつまり。
全然成熟感が感じられないですよね。
そもそも銃口空想の世界らしい。
これがビジネスの世界でも当たり前のようにして、
こういう教えによってお金が取れるということは、
結構我々は長時間に頼り出すし、その時はひどく幼くなってもいく。
そういうもんなんじゃないかなってことですね。