調子の波と成功の関係
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
4月19日水曜日の朝7時14分ですね。
とても素晴らしい天気でしてね。
最近調子いいなぁとつくづく思うんですよ。
調子いいとか悪いとか言うのは問題にもしてしない方がいいんだけど、
調子いいなぁと、ふと昔のことを考えるとこんなことを思ってしまうわけですね。
これ一つ、そこそこ大事なことがあると思うんですけど、
たぶん彼ははっきりと取り上げてもらったのはですね、
クラウドノさんのぶっちゃけ相談、TV一緒にYouTubeで公開していた。
まだ公開はしてるんですけど、新しい収録をしていないということで、
中でですね、それだったと思うんだけどファクトリーのTVかも。
ちょっとこの辺曖昧なんですが、とにかく動画を撮ってる時であったとは思うんですよね。
どうかなぁ、わからなくなってきた。まあいいや。
いずれにしてもクラウドノ圭三さんに相談をしたと。
だんだん広がってしまいましたね。
で、あれ陰陽ってあるじゃないですか。
要するに調子の波みたいなやつですね。
私はあれを信じてたってわけじゃないんだけど、
どうしてもやっぱりですね、調子がいい時に調子に乗りすぎると痛い目に遭うぞ的な。
山のようにあるじゃないですか、そういう教訓話って。
まあ僕がすぐに思い出すのは芥川龍之介の都市春なんですけどね。
あれ、実は元ネタが中国にあるんだけどね。
あれは実はああいう話ではなくて。
龍之介は大きく最後の部分を変えてるんだけど、
もともとあれ仏教というものの、
仏教でですね、人間が克服するべき欲みたいなものの話で、
最後どん典返しがあるんですよね。逆なんですよ。
芥川龍之介の撮っている考え方と。
まあまあ日本風に彼はアレンジしたし、彼は上手いんです。
でも元ネタは全然違う話があっても、
あれ全然決してですね、だから調子に乗ってるとえらい目に遭うとか、
破産しちまうとかそういう話では実はないんですけどね。
でもまあああいうことってよく言われるわけで、
私もその辺ですね、結局つまんない考え方だなとは思ってたんですよ。
昔からその油断をしているととかって。
つまりまずそれって誰でも言えそうなことじゃないですか。
調子に乗ってると痛い目に遭うんだからねって。
オカルトによる得られる議論
これは一つはですね、これはインドの方にもある考え方なんですけど、
私子供の頃何しろ家があれ、寺で親父が僧侶なんで、
こういう話を山の日にまたしてくるわけですよね。
してくれるっていうか、父は多分ね、
調子に乗ってると云々とかそういうどうでもいいようなことが言いたかったわけじゃなくて、
単にあの人はそういう人なんだけど、
知ってる話で面白い話があるとすぐにそれをしゃべりたくなるという。
しかも彼もですね、結構アレンジメントが好きで、
読んでみると結構すごい違うぞみたいな。
一番僕が笑ったのは、昔プーシキンのトランプのね、
あれも芥川隆之介がまた話書いてるんだけど、
さらにそれを父が書いてお風呂場でやたら長い話にしてくれたことがあって、
すごい面白かったんだけど、相当物の話とは違うんですよね。
まあいいんですけど、脱線しまくってますが、
要はいい気になるなっていうことって、
アレなんですよ。
インドでは大成功を収めた人は破産するまで人に奢るみたいな習慣がある村があった。
今もあるかもしれませんけど。
それつまり社会学なんですよね。
そういう流れで、まあ言ってみれば税金金持ちから取るみたいな話ですよね。
そうしないと結局こういろんな意味でですね、
金庫が狂っていくから、
日本では大体成功した代は4代までデボス落するみたいな、
そういう統計みたいなものがあるみたいなんですよ。
その割にね、昔名家だった藤原家は今も実は結構いいところで頑張ってるみたいなのもあって、
その辺どうなってんだよと思うんだけど、
そういう社会学みたいなのの研究はあるんですよね。
で、まあそれと陰陽ははっきり言えば関係ないと思うんで、
それってつまり他人の嫉妬の話をしてるだけなんで、
あんまり面白い話ではないなっていうのが正直なところなんですよ。
僕はそもそも陰陽っていうのはあんまり関心したことがないんですよ。
あれは仏教の理由だと思うんだけれども、
倉野さんとの相談から引き出されたもの
どっちかっていうとあまりにも世俗的すぎるような感じがするんですね。
あの韓国の国旗がそうですよね。
テグキってあれ対極旗って書きますけど、
あれ実は横にある線のチョンチョンチョン、あれ液晶の線ですよね。
陰系と陽系のやつの、当たるも8系のやつですよ。
表と裏があるから、で、6あるわけですよね。
だから2×2×2は8じゃないですか。これが8系ですよね。
8×8で64系が出せるんだけれども、
まあそういうユングとかが大好きだった。
タロットともなんか絡むよ、そういう話です。
僕はこういう話、オカルト話はやだらすきで、
高校と浪人の時代これに懲りまくって、
浪人の時代にこれに懲るってのは、
つまり自分の合格を益で判断しようとしていたっていうことなんだけど、
しかも父はこういう当然のことだから、益とかは絶対否定できだから、
お前そういう馬鹿なことやってないで勉強しろなんですけれども、
仏教ってちなみに益ダメですからね。
占いっていう概念が仏教には原則実はないんで、
まあ占いは明らかに仏教をベースにしてますけどね。
まあそういう感じで、私は反抗期だったんで、
そうやってタロットとかですね、益でですね、親に反抗していて、
しかも勉強を全くしないで浪人をしていたと、
そういう時代があったわけですよ。
だからものすごくそういうの大好きなんですよ。
僕はそっちからコリン・ウィルソンとか入っていったわけですよね。
だから僕は陰陽というか、全然信用ならないなと思ってはいたんですが、
どうしてもやっぱりよぎるんですよね。
それで倉野さんに相談したことがあってですね、
それでこう人が作ったものっていう得意のですね、
得意って言っちゃいけないんだけどね、
そういう話が出て、そうだよな、つくづくそうだよなって思ったあれですよね。
あれが宇宙にあるっていう概念そのものが人が作ってますよね。
先送りの問題と解決法
何よりも最近思うんですけれども、いけないのはですね、
心配になるとああいう考え方に頼って、
自分を無駄に消耗させる気がするんですよ。
つまり、確かに甲府町っていうことってあるような気は未だにするんだけれども、
圧倒的に好調な時間が増えたんですよね。
たとえそうだとしても、つまりこの甲府町の波があるから、
心構えを持っておかなきゃなと思うと不調になりやすいんですよ。
人にもやるかもしれないんで、こういう話を僕は別に、
みんなに信じてほしいというわけじゃないけど、
自分はもうああいう甲府町の波みたいなの一切無視するという風になると、
調子良い時間が圧倒的に長い。
これが比較する意味がないレベルでなんですよ。
甲府町の波みたいなものを閉会してですね、
今はちょっと調子が良いけど、
だからね、人間っておかしなこと考えるんですよね。
調子が良いからビオヘルミに飲んでおこうみたいに、そうなりやすいんですよ。
過剰に心配する。
そこまで昔ないですけれども、やっぱり心配するんでしょうね。
そうするとですね、もう3日周期ぐらいで甲府町の波が来ちゃうんですけど、
今は来ているとしても半年周期ぐらい。
半年と3日って全然ダメじゃないですか。
で、調子が悪くなるという回数自体も減ってるし、期間も短くなってるんですよ。
だから半年好調で半年不調とかじゃないですよ。
半年好調で2日ぐらい不調。
これが前は2日好調で2日不調みたいな、そういう感じだったんですよ。
波は確かにあったけど、全然これ何にも肯定できる部分がないじゃないですか。
これでは。これだったら波信じない方がマシなくらいで。
で、実際マシなんで信じなくなったんですよ。
信じてはなかったんだけど、無視することに完全に決めて無視できるようになったんだろうなと思うんですよね。
だから不調にならなくなったんですよ。
いろんな意味で、体調はもちろんなんですけど、これ一番分かれば体調に懸念があったんですけど、
それこそ仕事でもお金でもですね。
だいたい全部、全面的にですね。
家庭内不和的な話でも、これも大きいんですよね。すごくね。
ほとんど昔みたいな、昔の警戒ってものすごかったですからね、僕はこれについては。
散々喋ったんで、その話は今日は全然しませんが。
そんな感じです。
で、今これを喋っていても思うんですけれども、
調子の良し悪しというのとはまた別に、
最近私、いろいろまた3ヶ月チャレンジとか募集かけたり、
要するにコロナ空けたと思うんで一応。
3ヶ月チャレンジとコミュニティ
外でやるっていうのを、これから確実に増やしていこうと思っていて、
その募集自体はそんなに上手くいってるわけじゃないですけどね。
さっき校長とか言っておきながらそうなんだけど。
それで、何をそもそも僕は今打ち出そうとしているかというと、
まずこれは前にも絶対喋ったと思うんですけど、
先送りというものを入り口にしたいと感じたんですね。
先送りというのは多分、私たちのメンタルが調子が、
これも調子って言っちゃうんですよね。本当はそうじゃない。
本当はそうじゃなくて、それこそ、
これも僕は違う言葉が欲しいと思ってるんですけど、
グッドバイブスで言えばバッドバイブスなんですよ。
この時先送りは必ず起きるはずだと思っているんですね、私はね。
だけれども、それをど真ん中で言っても、
多分納得もされなければ信じてももらえないから、
先送りというものに今困っているならば、
ちょっと興味を持ってみてくださいという、
こういう立て付けにしているわけです。
とにかく、僕が思うに先送りという問題はですね、
ライフハックでは無理なんですよ。
うまくいく場合もありますし、それはそれでいいんですよ。
行動科学とかでも行動心理学って言葉はおかしいと思うんだよな。
でもまあいいや、行動心理学。
つまりラットですよね、ラットの絵付け。
あとレスポンデント反応みたいなやつ。
レスポンデント分析みたいなやつ。
あれでやっていくっていうのは僕は無理だと思っているんですよ。
限界がすぐ来るはずだと。
で、来なければそれでいいと思うんですよ。
来た時はちょっと興味を持ってみてくださいと。
こういうことなんですね。
家庭内不和とか、あるいは子供が学校に行かないとかね、
そういうのは多分まず僕のところに相談しようというか、
僕のセミナー聞きに来ようという発想にならない気がするんですね。
先送りは接点になるっていうふうに私は思うんですよ。
だから先送りに悩んでいる気がする場合はですね、
どんな先送りなのかっていう問題もあるんですけれども、
気がする場合、あるいは何か仕事が滞っているんだけどそこに手がつかないみたいな話があり、
しかもタスク管理とかもしてるんだけどな、
ちゃんとっていうような方に興味を持っていただけるとありがたいなと。
で、4月30日からの3ヶ月チャレンジというもので、
これコミュニティだっていうからますます分かりにくいのかもしれませんが、
話す話としてはね、私は精神分析をやっぱり話したいですね。
行動主義は話したくないんですよ。
認知行動療法とかでは拉致開かないっていうかな、
ちょっと違うんだけど一言で無理やり言うと拉致が開かないんですね。
で、3ヶ月チャレンジで、なんでコミュニティなのかというと、
これもいわゆるコミュニティにおける励まし合うとかもないわけではないと思うんだけど、
大事なのは、それを今日から話します。
大事なのはですね、専門用語になってしまうんだけれども、
象徴的透過物っていうあれ、あれに近い何かなんですよね。
あれもね、わけのわからない、言葉もわからないし、
解説されている実例を見てもよくわからないんだけど、
わかったときはそうだなって思ったので、
この象徴的透過物というものを考えるには、
僕はコミュニティが必要だと、
少なくとも精神分析の専門家とか、
子供の好奇心と象徴的透過物
心臓心理分析とかを実際にやって受けてみた人でないと、
これはやっぱり概念だけ説明されても、
僕らみんな知ってることなんですよ。
みんな知ってることなんだけど、なかなか理解できないんですよ。
不思議なんですけどね。
でもこれ簡単なことです。
あの、象徴的透過物というのはですね、
子供はどうしてうんちの話が大好き?
例えば、あれはなんだっけ、漢字でうんこどりっていうのがあって、
うちの子がね、ものすごい嫌ってたんですよ。
このものすごい嫌ってるっていうのは、
子供がものすごい好くてるのと全く同じことなんです。
えーと、なんだって漢字の勉強するのにあたって、
ただ漢字の勉強すれば、うちの子はずいぶんその辺、
なんかこう、僕なんかよりははるかに健全だなって思うんですけど、
うんこの辺のついてるドリルでやらなきゃいけないんだっていう話をしてたときがあるんですけど、
そのとき僕は、そういうのがあるのかと思って調べてみたら、
20万部と書いてあって、
作家としてはものすごく興味深い現象なわけですよ。
うんこドリルって、ドリルに4個書いてあるだけで20万部変わって、
当時20万部だから、今多分100万部とかいってるんじゃないですかね。
何で測るかにもよるんですけどね、
シリーズ類型とかいろいろありますから。
それで、このうんこドリル、なんで、
すいませんね、食事中聞いてる人はいないと信じているわけですけど、
それにそんなに別にね、ドリルの話だから、
これを選んでみたんだけど、
子供はなんでこれが大好きなのかというと、
これ象徴じゃないですか。
まさかね、本物であったら子供だって嫌がると思うんですよ。
やっぱり象徴だと思うんですよ。
でも子供ってのは、このエログロナンセス大好きですよね。
もうゲラゲラ笑いますよね、大概の子は。
うちの子は幼稚園の時から危機してたんだけど、
まあ珍しいタイプですよ、はっきり言って。
私なんかは子供の頃はゲラゲラ笑う口だったんで、
昭和って本当そうでしたよね。
子供はああいうものをですね、
アホみたいにこう持って遊んではゲラゲラ笑ってたんですよ。
なぜかってことですよ。
このなぜかってすごい大事だと僕は思うんですよね。
誰かの精神分析じゃないんですけどね、
スクールカウンセラーの先生かなんかがそういうことをおっしゃってましたね。
これをいかに子供と一緒に遊んだりできるか、
あるいは子供を以上にこれを楽しめるかが、
こういう職業であってとても大事だみたいなことを書いていて、
そうだろうなと思ったんですよ。
あのうちの子となんかね、
公立の学校時代だったときに張り合ってた女の子は
うんこドリルで頑張ったみたいなんですよね。
あれ負けたくないみたいな不思議な対抗意識を燃やしていて、
でも負けるんですよ。
やっぱね、その子もすごい真面目な子だったんですけどね、
うんこドリルで漢字満点取ってくるんですよね。
すごいやっぱりね、子供ってこれ好きなんですよね。
なぜなんでしょうね。
そのスクールカウンセラーの先生なのかな、
子供というのはとてもめちゃくちゃエッチですからね、
エッチ比べですからみたいなのがあったんですけど、
これフロイトなんですよね。
要は僕らにとってある種のものって完全には抽象化されきらないんですよ。
もうどれほどこれによって嫌がる方がいるかということを知ったから、
もう口に出すのはやめるようにしてますけど、
あの虫ね、虫。
もうこういうのが我々は抽象化できなくなっていくんですよね。
抽象であることは確実じゃないですか。
だって多分生まれながらにしてそれを恐れていた人ってまあいないと思うんですよ。
で、人間以外でそれをいわゆる抽象的な意味で恐れるか、
例えば絵に書いてあるものを恐れるか、
そんな動物がいるはずがないですよね。
どんなに賢くてもチンパンジーでも多分画面に出てきている虫だとというものを恐れは絶対しないと思うんですよね。
エログロナンセスと抽象物への恐怖
だからどこかそれは抽象物の僕らは恐れてるんですよ。
でもそれにしては生々しいじゃないですか。
これがいわゆるエログロナンセスなんですよね。
生々しいんですよ、ものすごく。
抽象物なのに。
これって変な話ですよね。
抽象物っていうのは記号と同じだから、
それが何と表現されようと、
それについて気持ちが悪いとか恐ろしいとかって本気で思う理由はさらっさらないはずなんですよね。
にもかかわらずそれについて考えただけでも嫌だみたいな。
私は以前、性的な話について暴露したような哲学者の本、
というかタイトルを言えようなんだけどタイトルを思い出せない。
渡辺さんという著者だったと思うんだけど書いていて、
人がいてですね、
父親のマスターベーションを想像することが気持ち悪すぎてできないっていうのがあって、
私はあれがですね、
それを僕は実は大学時代に努力して克服した時代があるんですよ。
この話もそのうちしたいんですけど、
したい話いっぱいあるんですよ。
770回も喋ってる割にはですね、
してない話ばっかりだなっていう感じがしちゃうんですけど、
まあいいです。
そういうことなんですよね。
これも同じ抽象じゃないですか。
なぜ父親、父親のって世の中には父親は人の数だけいるわけですよ。
なのにパッと自分の父親以外に何も思い浮かべられなくなる。
これが象徴的投下物だと思うんですね。
で、マスターベーション。
これも記号ですよ。記号以外の何物でもない。
なぜ同性の親のマスターベーションを思い浮かべるのは気持ち悪いのか。
全然説明になってないと僕は思うんですよね。
説明ができてない。
公理的でもなんでもない。
その人哲学者ですからね。
でもまあ哲学者だからこそこれを本に書いて問題提起するんですけどね。
多分。
象徴的投下物の視点
あの、朝っぱらから気持ちの悪い話だったら恐縮なんですけど、
僕は結構ノリノリでしゃべっちゃってますから。
大事なことだと思うんですよね。
象徴的投下物というのは。
つまり、象徴なんですよね。記号でしかないものなのですが、
それが何か本人にとってそれそのものになってしまった。
一度も抽象化されていない。
ちょっと立派めいた話をするとですね。
昔、これも誰か哲学者かなんかですけど、
ゴッホの椅子っていうのは椅子ではなくて椅子そのものなんだと。
何かを言わんとしてるんでしょうけど、
何言ってるのか全然伝わってきませんよね。
あれは椅子じゃんって感じなんだけど。
よくよく見ていると、調子がそういうことにすっごくこだわって見ていると、
本物を見たときは分かるような気がすることがあるんですよね。
僕らは物そのものってほぼ見ないんですよ。
浦佐野さんの意味付けですけれども、
パッと何かがかかっているものを見て、これはタオルって言ったらもう、
その布そのものとかそこに書いてある絵が何かとか、
そういうところを概ねすっ飛ばして記号化しているものを見る。
こっちが普通の人間がやっていることですよね、我々がやっていること。
これやらないと不便ですから、
信号を見ていて信号の赤の美しさとかにとらわれたりはしないんですよ。
やっぱりこれは記号なんですよね。
それが信号の赤だということが伝わりさえすれば、
色は赤じゃなくてもいいぐらいで、記号でありさえすれば、
僕らはだいたいつつがなく生活していける。
これが全然成立しないものが子どもにとってのうんこなんですよ。
記号じゃないから、何かどこかですごくそれはおかしなものだみたいな、
そういう反応を引き起こさせざるを得ないわけですよね。
だからポルノ系のものは全部そうです。
あれも記号化したら僕らにとっては何の意味もないものになってしまいますよね。
だって我々はたぶん馬の裸とか見ても何にも反応しないじゃないですか。
それが不思議だとも思ってないじゃないですか、豚とかね。
全然これが正規があろうとなかろうと興味を持っていないんですよ。
普通そう見えても別におかしくはないはずなんですよ、人間にしても。
でもそうは見えないとすると、
それはやっぱり象徴的投下物っていうものになっているわけですよね。
ハンナ・シーガルって人が書いていた、人前でバイオリンを弾くっていう話をすると、
激動し始める統合主張症の患者さんがいて、
その統合主張症の患者さんにとってみれば、
バイオリンを人前で弾くというのは人前でマスターベーションするということに
投下になっている、そのことと投下になっている、象徴している。
それは自分がいい気持ちになって人前で演奏する、
いい気持ちになって自分の演奏にうっとりするということと、
Gってことが象徴的な意味だったんでしょうけれども、
統合主張症なんで、それが投下になっちゃってる。
完全に人前でマスターベーションするということとそのものになっていて、
そう言われているように受け止めざるを得なくなるっていう話なんですよね。
これが象徴的投下物で、この話をなんでしているかというと、
3カ月チャレンジのオンラインコミュニティはなんでコミュニティなのかって話ですからね。
僕が考えているのはつまり、万能空想だの、部分対象だのって言葉を
ここら辺が散々述べていて、また今後も述べていくわけですけれども、
例えばそれこそグッドバイブスで倉園さんが言う言葉は、
こういう持って回ってなんじゃなくて、
罪悪感とかストレートな言葉ですけど、でもやっぱり罪悪感にしてもですね、
記号なはずなんですよね。
具体的にどういったことが意味されているのかっていうのは、
その時その時その場その場なんですよ。だって抽象ですからね。
罪悪って言ってみたところで始まらないわけですよ。
何かをするからそれが罪悪だとかそうでないとか、
そういった話になるわけじゃないですか。
罪と罰と言ったってドストフ式の小説のタイトルやってるわけじゃないんですよ。
やっぱり罪と罰っていうと何かをして何かをされるみたいな、
そういう具体的な何かを伴ってないと意味ないわけですよね。
象徴的投下物がむしろある程度は意識されなきゃダメなんですが、
これを自分ごとについては意識しにくい、とっても見つけにくいんです。
だから他人の力を借りる必要があるんですよ。
ここでコミュニティってものが、
オンラインコミュニティの役割
僕はものを言うケースがすごい多いんだということを最初目論んだんだけど、
想像以上にそうだった、という一面があるんですね。
これコミュニティの全面じゃないですよ。
あげむしあうとかそういうのもないわけじゃないし、
必要なわけでもないんだけど、
絶対欠かせないなと思ってるのが、
うまく説明できないけどまだ、だから専門用語を使うしかないんだけど、
象徴的投下物というものが人のを通じて見えてくるからなんですよね。
そういうふうに言ってみると、
例えばフェイスブックで投稿していただくんですけど、
その日その日の先送りについて、どうかうまくいったことについて、
いやそんな告白するみたいなのは困りますって言われる方はしなくてもいいんですが、
多分告白する必要はないんですよ。
象徴的投下物というのは人にとっては象徴でしかなくて、
ただ具体性を帯びつつある象徴というのは他人にはわかるし、
他人にはわかりにくい。
それを何というのかね、
概のない形でシェアしあっていても、
気づくことはとても多くなっていくはずなんです。
理屈の上からしてそうなんですよ。
だって結局お日様が昇ってきましたって人に言っても、
全然困らないじゃないですか。
困らないじゃないですか。
告白でもないじゃないですか。
しかしですね、これよく考えてみると、
いやいやお日様が昇ってきてないよって人に言われたらどうします?
これは告白になってしまいますよね、その人にとっては。
言葉の使い方について
そういう勇気がいる、この話わかりにくいですかね。
私たち主観について報告するのをコミュニケーションと呼んでいるわけですけど、
そこには常に実は一定のリスクを伴っているっていう意味なんですよ。
欧米の言葉を使っている人は時々ですね、
日本人の言葉の使い方は統合主張症のそれみたいだって、
これはどういうことを言っているかというと、
しょく省いたりする。
あと状況というものについて、
例えばザみたいな、定感詞のザみたいなものはないわけですよね。
なくはないんですけどね。
でもまあないように聞こえるんですよね、アメリカ人には。
日本人は実際にザとかアをしょちょ省いちゃいますからね。
英語を堪能でないと、堪能になっても省きますからね。
そういう小説がありました。
日本人というのはなんで感詞を書かないの?
だって我々は伝わるとそれで思ってますからね。
でも私なんか実は言われたことがあるんですよ。
やっぱり僕も省いちゃいますから。
今日は本当に車が混んでいてって言った時に、
昌吾って言って、五角の先生だったんですけどね。
混んでいるというのに、カーのズを省くな。
気持ち悪いからって言われたことがあるんですよ。
なるほどなって、その時以来僕はかなり気を付けるようになりましたね。
確かに言っちゃうんですよ。
要するに僕が言いたいことは、道が混んでたから、
これはやっぱり日本人的なんですよね。
道が混んでたからここに来るのに時間がかかったということを、
要するにエクスキューズしているわけで、
日本人的にエクスキューズが通ることが大事じゃないですか。
罪悪感と象徴的投下物について
この情景を客観的にも伝わるように描写することが、
どうしてそんなに大事なのか。
これ習慣の問題なんで、そんなこと言ってもしょうがないんだけど。
その時にカーにアも付けず、Sも付けないということをやるから、
プルーラルだから混むわけでしょ。
しかも液体とかじゃないからね。
道が詰まってたわけじゃない。
この辺日本人って、道が詰まってたみたいな言い方をしても、
なんとなく通るじゃないですか。
つまりアメリカの人からすると気持ちが悪いわけですよね。
道が液体で詰まっているのと、
車が並んでいるのとは異なる現象なわけですよ。
そういうことに敏感になっていくんでしょうね。
そういう言葉の使い方をしている以上。
だからプルーラルということにうるさいわけですけれども、
複数形ですね。
日本人はそういうのに全然ピンとこない方だから当然、
基本的にはそういうのにピンとこないので、
ついゆっかりそういうことをしゃべっちゃうわけです。
それがつまり、自分の主観的世界に閉ざされている人の
言葉の使い方のようだと。
そんなことはないですよね、日本人の場合だって。
現に伝わるか伝わらないかは大事な問題です。
だから朝日が昇ってきましたとさらっと言えるというのは、
実は幸せなことだということですよ。
伝わるという暗黙の信頼感があってこそ、
そして自分は現実というものの中にいるんだという
暗黙の自己信頼があって初めてこういうことが実はできる。
言いにくいことを口にしようとするときに、
僕らこのこと分かりますよね。
この人にこれをこう言っただけでは伝わらないかもしれない
というふうに思うと言い淀むじゃないですか。
不審感が生まれると言い淀むわけです。
この場合不審感は、これも倉野さんがよくおっしゃる通りなんですが、
罪悪感というのは同時に2つに対して持つ。
自分と他人に対して。
自分の言い方がまずいのかもしれないし、
相手の理解度が足りないのかもしれないって思うから、
罪悪感を持ってどちらかを罰したくなるというところまで
行っちゃうわけですよね。
これは朝日がによる罰ですけれども、
僕のこの文脈で言うとそうなるんですけど。
で、象徴的投下物というのは伝わりにくいわけですよ。
当然のことだから。
だって虫取り網で虫取りに行く子からすると
虫をそんなに恐れるという観念は、
観念なんですからね、これは。
伝わらないわけだから。
象徴的投下物というのは、
うちの子がうんこドリルをとっても嫌っていたのと一方で、
対極的にあれをこう、
あれだったら感じのめきをするよっていう子がいるように、
象徴的投下物というのはシェアしにくいものなんですね。
だからこそですね、
でも象徴的投下物というものがシェアされたときには、
いろんなことがお互いについて、
お互いの話の中で分かってきて、
これが僕は先送りというものだと思っているんですよ。
見ていくことの重要性
先送りという行動の中に必ず現れる。
先送りって、
どんな感情的なものも持たずにする人は誰もいないはずなんです。
ニュートラルに先送り、
今日も先送り、
静かに黙って、
気分が悪いわけでもいいわけでもなく先送り、
なんてことありえないんですよ。
絶対気分悪くなってるんですよね。
なんかそこに象徴的投下物とまでは言わないまでも、
他人には全然理解できない嫌悪感のようなものとか、
なかなか厳しい恐怖感のようなものとか、
そういったものがあって初めて、
例えば今日も明日も明後日もですね、
税務の紙について何も書き込む気がしなかった。
だから確定申告の日はもう3月12日なのに、
まだ3ヶ月分あるのに、
見るのも嫌だ、おかしいじゃないですか。
見るのも嫌っていうのは何かととってもよく似てるわけですよ。
それこそ同性の親の爺とか、
見るのも嫌だとか、言葉を読むのも嫌だとか、
そこに強い変な思い入れみたいなものとか、
変なとらわれみたいなものと、
無縁ではいられないものがあると思うんですよね。
そういうことがあるからこそ、
なんか何でもないものを、
つまり他人から見るとそれは何でもないものなんですよ。
そういうのを通じて見ていかないと、
コミュニティで理解することの意義
反応空想だとか、いいおっぱいだとかいうことの意味って、
ついにわからないと思うんですね。
ついにわからないと、
このコースは全く無駄なことになりますから、
そうならないためにもですね、
やっぱり1対1だけではどうにもならないですね。
僕が山のように自分の事例をしゃべるしかなくなってしまうので、
そして伝わらないとどうしようもないので、
これがですね、やっぱり今回やってみてですね、
よくわかったんですよ。
お互いの困り事や構造は、
まるっきり似ていない職業も違うし、
気にしていることも違う。
なのに同じ現象がここに、
同じ概念で説明できる現象がここにあるっていう風になった時、
僕らはこれを自分事として理解することができるんですよね。
これをやりたい。
だから3カ月チャレンジはコミュニティなんです。
やっぱりこういうことに本気で取り組みたいという方に、
10人とかである人は全然ないですよね。
でもなんとかと1名、2名、3名っていうぐらいの方がいらっしゃってくれると、
充実するんです、要するに。
お互いに充実する。
だからこのサービスの質は、
ある程度参加者さんが決めていくところがありますから、
今回すごく充実していたわけですよ。
僕の感覚の中ではですね。
みんながみんなそう思ったか分かりませんが、
僕の中では充実していたから、
こうやってCMを絡めてポッドキャストで、
物の価値と捨てられないもの
延々と毎日毎日25分ぐらいに縮めておいたほうがいいんでしょうけど、
実際50分ぐらい喋っているわけですよね。
ここで終わりそうなもんですが、
今日はこの先を喋るんですが、
さっきから言っている万能空想とかいうのは、
何度も喋っているからいいと思うんですけど、
もう一回整理しておきますね。
多分これを繰り返し僕らは考えていくしかない。
頭では分かっているんですというのは、
全然ダメだってことなんですよ。
うんこが汚いのは頭では分かってますっていうことではないからこそ、
ドリルが20万部も売れるわけですよ。
分かっててもしょうがないことってあるわけですよね。
それ見てゲラゲラ笑い出すぐらいでないと。
つまり、確定申告は時期が過ぎちゃいましたからね。
まだ苦しんでいる方いらっしゃいますかね。
つまり、何でも本当にいいんですよ。
何でもいいんだけど、
僕がそれに身につまされて、
身につまされてなくてもいいんですけどね。
例えば物が捨てられないって方もいらっしゃるじゃないですか。
割と長く愛用してきたもので捨てるのに忍びないとか、
そもそも物を捨てるということが悪いことのような気がする。
これは罪悪感ですけどね。
だから家がゴミ屋敷みたいになっちゃうという、
この実に不思議な逆説的な、
こういう時に現れるんですよね。
そういう時、捨てようと思うとストレスが発生するわけですよ。
この時に大活躍されているのが長寿がというものなんですね。
おそらく物を大切にしなさいとか。
この推しストレスは全うですよ。
問題なのは物を大切にしなさいという人格みたいなものが
自分の中にできちゃったことなんですね。
それは親が本当にうるさくてとか毒親でとか言うんだけど、
親じゃないじゃんって話ですよ。
物を大切にしなさいという声を発しているあなたの脳ですよね。
それは無分対象と呼ぶべきものなんですよ、やっぱりね。
無分対象というのは私たち、
一般にやっぱりポルノグラフィーが一番ね、
こういう事例になっちゃうからいけないんだけど、
やっぱりおかしいじゃないですか。
あるいはバストアップだけ写ってるところに妙にやたら興奮する。
ある意味ではそれでほぼセクシャルなことができちゃう。
これは対象にリビドというものが、
リビドというのは性欲と訳されてますが、
欲求と言っていいと思う。
欲求がリビドに向かってダッと走るから、ダッと流れるから。
対象は部分的なものの方がむしろいいんですよ。
僕ら物を食べる時そうじゃないですか。
対象というものに向かう傾向があるでしょ。
パンケーキとか言葉だけでも、
もうパンケーキなんて人によっては
象徴的投下物だと思うんですよ。
パンケーキというのが単なる記号にならずに、
もう食欲を必ずかきたてる何かみたいになっちゃう。
でもそれっておかしいじゃないですか。
パンケーキだけ食べる人っていないですよね。
いなくはないのかもしれないけど、
普通皿に乗っかってたりしますよねって言いたいわけですよ。
全体像が消え失せてますよねって言いたいわけですよ。
だから部分対象になっていないと
リビドがすいすい動くことはできないんですよね。
だから部分対象は便利なので、
扱い兼ねる対象のストレス
僕ら何でもかんでも部分対象にしては
そこにリビドを向けたり、怒りを向けたり、
嫌悪感を向けたりするわけですよ。
の中にですね、
捨てられないものっていう部分対象があるわけ。
これ部分対象じゃないですか。
捨てられないものとは何ですかって言うと
だいたい答えられないんですよ。
いくつかあげられるだろうけど、
全部きちっとあげられることは滅多になくて、
なんとなくモニャモニャとしたいろんなもの。
使えなくなったUSBケーブルとか、
埃でいっぱいになったなんとかとか、
なんかよくわからないバッグみたいなやつとか、
ごちゃっとくっついているもの。
これがつまり部分対象であり、
扱い兼ねる対象なわけですよね。
この扱い兼ねる対象というものが
頭の中に思い浮かぶと、
そのもの自体を目にしなくたって
ちょっと思い浮かんで、
あれちょっと整理すると
ハウスダストでせき込むんだよなとか
思った瞬間にストレスが発生する。
この程度のことならなんてことはないんですけど、
家中そんなのばっかりで、
ストレス発生のメカニズム
家のどこを見回してもストレス、ストレス、ストレス
になってきますというときに、
僕らはこのストレスを一掃したいって考える、
感じる生き物なんですね。
これができたら万能なんですよ、その人は。
ストレスを発生させておいて、
そのストレスを解除したら
万能だと感じさせるために、
例えばミトコウモンとかを作るわけですよ。
わざわざすごく悪そうな人が
すごく悪そうな顔をして、
壺から酒飲んで女の子に手を出す
みたいなのを見せておいて、
そしてそういう人がですね、
3日後に金取りに来るからなとか言って
みんな困っていて、
すごいストレスフルな状況を作り出しておいて、
そいつらを一掃するとすっきりする。
これを万能空想と言うんですよ。
で、この万能空想を僕らは
毎日毎日やっているわけです。
焚き送りをしている人は
必ずやっているはずなんですよね。
今言ったように捨てられないものを
頭に浮かべてストレスを貯めると。
ストレスを発生させるんですね。
このストレスを発生させているのが
長寿がなんですよ。
もっときれいにしておくべきだとか、
もっときちんと片付けておくべきだとか、
いるものといらないものを分けておく。
分けておくっていうのは
長寿がの最も原始的で
最も得意とする部分なんですね。
分けておくべきだとか、
まだ使えるものは使う。
売れるものはメルカリで売る。
そういうふうにきちんと扱うべきだ
っていう主張が心の中に、
無意識の中にあって、
そうできていない状況というものを見て
ストレスを作り出しているわけです。
お前はダメな人間で、
ここはダメな状況だと。
薄汚くなっているとか、
整理されていないとか、
混沌としているとか、
いろいろな無駄を生んでいるとか、
いろんなことをですね、
勝ちつけてきては
安定させて、
そして心の中に
嫌な思いというものを作り出している。
ちなみにこの嫌な思いというのを
作り出しているのは、おそらくは
扁桃体だと思うんですよね。
ある種の物質、
長寿がによるストレス
コルシゾールが絡む物質を
鉄柱に流したりして、
嫌な感覚というものを
体内に作り出している。
こいつを、
自分ですよね、
教授側は。
例えば親がそう教えたんであろうと、
教師がそう教えたんであろうと、
今その場にいるのは自分だけなんだし、
おそらくその親を引っ張ってきて、
ほらここを見てよ、汚いでしょって
言ってるわけじゃないですよね。
だから、
自分の長寿がを自分で駆動させて、
自分の体を自分で
気分悪くさせているわけです。
そしてその気分を良くすることを
万能って言うんですよ、僕らはね。
で、この長寿がを
駆動させてしまったんで、
つまりこの長寿がが
目覚めてしまったんで、
気分悪くなりましたと。
そしたらですね、気分良くするためには
どうしたらいいか。長寿がの言う通りに
片付けたり、綺麗にしたり、
メルカリで売ったり、
目録を作ったりすればいいと
思っちゃうわけですよ、我々はね。
そうじゃないと思うんですよね、本当は。
長寿がのスイッチを切ればいいんだけど、
そうはしない。僕らは必ず
長寿がの方の言う通りにする。
これを同一化って言うんです。
自分と長寿がが一体化して、
まあ言ってみれば、
親に自分は親そのものになって、
自分を叱りつけつつ、
メルカリとかを
やり始めれば一番いいわけです。
でも大変ですよね。
そんなことはしたくないですよ。
そこで、我々はですね、
この原因を他のところに
移し変えるわけですよ。
自分がこうやってだらしないから
いけないのだろうか、本当に。
それでは自分がどんどん
辛くなるだけなので、そもそも
このケーブル買ってきたのって夫じゃねえとか
そういう話を始めるわけですよ。
あるいは、このケーブルを買った方がいい
とか言ったのは、友達のあいつだった
みたいな、そういう風に
原因を考えていくということは、
このストレス源を
移し変えていくわけですね。
そうすると、我々が長寿がと
一体化したときにやるべき方向性が
先送りの重要性
変わるわけです。メルカリを売るんじゃなくて、
夫を殴ればいいんではないかと。
これは極端ですけれどもね。
片付けようとしているところが
全部自分のものであれば、やや逃げ道がないけれども、
これが子供の部屋だったら
どうですかね。
この状態にあるということが
悪くないんだって仮にしてもですね、
子供を叱りつければいいんじゃないかと。
子供を叱りつけてみるとですね、
そして子供が
さっさと動き始めると、とてもすっきりする。
これが万能空想による
万能感というものなわけですよ。
この
とてもすっきりするということはですね、
ここに効能化学が出てくるんです。
ネズミはチーズを食べると
レバーを倒す癖がつくように、
もっと簡単なところを言うと、
寝る前にチョコレートを食べる習慣は
すぐに身につくように、気持ちいいから。
子供を叱るという習慣を
すぐに身につくわけですよ。
万能感をそこで得るから。
この週の話は子育てと
関係がないわけじゃないんだけど、だから
私はこの話をですね、
私にさせてもらうというよりは
先送りの話をするっていう話の方が
セミナー等に来ていただける可能性が
高いと思うから
先送りを
表看板にするって話を冒頭しました。
で、こうやって
子供を叱りつけるとすっきりするじゃないですか。
先送りと報酬の関係性
そうして長寿型同一化するって
気持ちのいいものだなと思う。
そしてそれが
言ってみれば習慣になり、夫に対してもやると
夫もニーナーになって
片付けてくれるとますますすっきりしますよね。
なおこれを
信仰させて夫は何もしないんだっていうことを
友達と喋り合うとやっぱり
気分がいいとか、いろんなことが
ありまして報酬刑が
入るので、この週の行動が
習慣化していくのは
そう時間がかからない。
これは多分子供の頃から体験してます。
例えば親にものすごい怒られて
自分がパパパパッと片付けたらすっきりして
その後親はもう機嫌が良くなった
っていう体験をしていると
怒られたにもかかわらず
一括するという行為の価値を
私たちは信じるようになるものなんですよ。
この辺ちょっと
ワンプロセス
多く入ってはいますけれども
やってることは変わらないはずなんですね。
そして長寿が
つまり親対象とか
言うんだけど、自分がそれと
同一化することによって
要するに肛門様になって
陰謀を出して悪者を一掃させたり
心を入れ替えさせるということと
ほぼ同じようなアナルシスを
得るわけですね。
先送りの形態
っていう心の構造みたいな
話を私はするんですよ。
これをただ自分ごととして
理解するのは結構厄介で
人がこれと
同じ構造で困ってるという人を
私自身も含めて
どんどん見ていくことで
だんだんそういう意識が
意識というのかな
つまり象徴的投下物なんですけど
陰謀は象徴的投下物
なんですよ、あれは。
長寿がっていうものが絡んだときには
しょっちゅうその種のものは出てきます。
なんか道具立てみたいなものですね。
ひどい先生になると
竹刀とかを持ち出すじゃないですか。
あれはまさに象徴的投下物だと
思うんですけどね。
そうやって
習慣化していきますよね。
一括すればすっきりするっていう
例えば習慣。いろんな習慣ありますよ。
例えば完璧にきれいにしたら
すごいすっきりして
完璧主義が習慣化するというケースは
非常に多いです。
これは脅迫症に近い話なんですけれども
あるいは
その時に
引っ越しをするみたいな
引っ越しをしないまでもですね。
要するにその場を
持っていくっていう
そういう習慣がつくケースももちろんあります。
あるいは
これはあんまりあれなんですけれども
その時に休むという習慣ね。
心配しては
休むみたいな習慣というのが
身につく人もいますし
もう一つがよく私が持ち出す
ファンザみたいなやつね。
テトリスみたいなのでもいいですよ。
ソリティアとかね。
非常に簡単なゲームというものをやり始めたり
移動して
向こうに向かうっていうやり方もあります。
何でもいいんですけど
とにかくいろいろある中で
でも一番やっぱりよく見られるのは
長寿型同一化して
状況を一括することによって
抜することによってですね
すっきりする
という万能感を得る
自分は万能になった感じを抱く
これは当然
報酬がそんなに強いんだから
習慣化しても不思議はないんだけれども
それによって次に起きる
ということがあるわけです。
人のせいに絶対できないシーンが
訪れたとき
それまでやってきたものすごい強力な
長寿が同一化という
強い罰が
全部自分に向かうんですよ。
この状態が僕は
よく打つ状態だと。
これが先へ進行していくと
防弾っぽさというものになっていき
さらにその先へ行くと
相打つ的な話になっていくんだけど
そこまで行くケースは
なくてやっぱり
自分が欲打つ的な気分に
苛まれやすくなるということ
この辺りが
一番先送りから
我々が
一般的に味わう
つらい
心理状態の
一番典型的なパターンなんじゃないか
と思います。
これを私は
行動主義とか
長寿型同一化と心の構造
認知的な操作とか
ハックとかでは
拉致が開かないと思うんですよ。
この種のケースに関しては。
そもそもこの説明そのものが
私は不足しているとずっと思っているんです。
まともに他の文脈で聞いているのは
倉園さんのGood Vibesぐらいな
もので
他に一般の先送りについての話は
この辺の構造的な説明が
すごくすっとんでるなと。
単に先送りを
自己肯定感のせいぜい問題にしているか
習慣化の問題にしてしまっている
習慣化の問題というのはつまり
行動主義の問題にしてしまっている。
ただただ先送りに報酬があると言っているだけで
それがどんな報酬で
どうしてそれが報酬になるのかの
説明が全然
入ってきていないと思うんです。
結構こみった説明を
要するんですよ。
で、先送りには
しかも確定申告みたいに
分かりやすいものばかりではなくて
例えばフリーランスにとって
新しい私のまさに
今月チャレンジのように
コースで8万8千をしますみたいなものを
こういうところで告知できないとか
いろんな先送りの
形態があるわけですよ。
この先送りは常に決まって
長寿がってのが
そこに暗躍しているはずなんだ。
そんなことをやってはダメだとか
そういうことをやるべきだと
マストとシュットを繰り返している
存在があるはずで
そのマストとシュットに自分が
一体化することで
生きてきたというヒストリーが
絶対にあるはずなんです。
そこには。
そういう話をしないで
例えば
ライフハックの価値観問題
とてもバッシングされなさそうな
ところにだけ
こっそり告知するとか
あるいはそも告知をしないで
済むような条件を
整えるとか
あるいは違うことで稼ぐとか
そういう話にしていくことで
僕はその問題は
解決したことにならない気がするんですね。
これは別にそういう方法を
取っていいとか悪いって話ではないですよ。
全然いいと思うんですよ。
それほど宝くじ買ってお金を儲ければ
告知しないで済むっていうのも
立派なやり方だと思うんですよ。
僕が言いたいのは
そういう話ではなくて
正面突破をしたいって話ではないし
正面突破するべきだという話
ですらないんですよ。
そのシュットとマストを使って
暗躍している
おそらく無意識に大活躍している
長寿がというものに
長寿がというものと
同一化しなくていいんじゃないのか
っていうことを検討するべきだ
と思うんですね。
なんかよくわからないんだけど
もともと私はライフハックってのは
ここと決別できるんじゃないかと期待したんだけど
そうではないことがわかったんですよね。
ライフハックの世界でも
もうバッチリ
暗躍しちゃってるんですよ。
きっちりやるべきだとか
計画的に売るべきだとか
どうライフハックをするかじゃなくて
最初から
ライフハックをする
方向性とか価値観が
最初に決まっちゃってるんですよね。
そこが僕は
偉い気に入らないわけですよ。
気に入らないと言ってしまうとまた
ひどく簡単な言葉を使っちゃってますけど
偉く気に入らないわけですよね。
僕はきっとそういうところが。
なんでメルカリで売るべきだと思うんだ。
なんで物を大切にする
っていうその
モラルみたいな価値観が
先頭に立っちゃっているのっていう
その大前提はどっから来たんだ
って言いたくなるわけですよね。
つまりきちんとやるのの
きちんとの意味が始めから
決まっちゃってる感じがするんですよ。
それは全部
多様な価値観の受容
僕はその本人の価値観じゃないと
信じてるんですよ。
この文化とその人の親とか
その人の先生とかの価値観だと。
別にそれはいいんですよ。
この方が誰が
どんな人がで非常に多くの
人がなんだけど教師だろうと
日本文化だろうと
封じたい価値を好きに封じるのがいいんですよ。
それが民主的ってもんですよね。
僕が言いたいのは
それを僕が封じる理由は
さらさらないってことなんですよね。
あなたの価値観を喋ってほしいって
よく思うんです。あなたの長時間の価値観
ではなくて。