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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
時々バイブスって言ってるような気もしますね。
6月分、あと1枠あったんですけど、
もう7月分も、あ、あれですね。
60分、Shogo Sasakiと対話するっていう、あれです。
7月分も用意しました。
6、7月分合わせてという形にさせていただいて、8枠。
このぐらいが自然かなと思いました。
お値段も趣旨も何もかも今までと一緒ですので、
TwitterかFacebookかで確認いただけるとありがたいですね。
ノートもやろうかなと時々思うんですけれども、
そんなにあちこち書くほど、時間的に余裕がわっさりあるわけでもないのに、
ノートにまで書くこともないかなと思ったりもして、
その辺、あれこれ悩んだり悩むっていうのかな。
ノートは本当私、出したり引っ込めたりが激しいんですけれども、
そういうもんだなと思うように今なっています。
これ以上発信する場所を今増やそうとは思わないので、
この辺、確認ちょろちょろしていただければ見つかりますので、
よろしければぜひチェックしてみてください。
あとですね、もう一つ、これちょっとまだ先なんですけど、
J松崎さんと100日チャレンジというのをやることにしました。
これは要はタスク集とクラウドの有料カウントに登録していただければ
自動的に参加できるといったものです。
自動的っても強制参加ってわけでは別にないです。
有料にしている以上全員100日チャレンジやるんだよっていう話じゃないんで、
そこはご希望に応じてなんですが、
無料アカウントの方はご参加いただけないといったものです。
参加料は特にこれには必要なくて、
有料に登録いただきさえすれば100日チャレンジはご参加いただけます。
なので、要するに有料ユーザーを増やしていきたいという趣旨なわけですよ。
当然開催者側としてはですね。
同時に有料になって一番タスク集とで引っかかってくるのは
たぶん続かないといったことだと思います。
しかもあれは続ける続けないという選択ができないものですからね。
やる以上絶対続けなきゃならないというツールなので
続かなかったら有料にする意味は全くなくなってしまうわけですから
無料としても同じなんですよ。
続かないとあれは意味のないものになってしまうので
本当はみんなそうなんだけど
あのツールに関しては続けるということ自体が
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ツールの機能の一種みたいなところありますから
そこが最大の願望の一つだと思うんですけども
そういうわけで100日チャレンジと
100日続けば続くでしょうとそういう意味なんですよこれは。
だから100日続かなければ
有料ユーザーでいなくてもいいかのみたいなところもあるかなとは思うので
その辺もあるじゃないですか。
忙しいとか忙しくないとか
こういうものをやる意味があるないというものも含めてですね
100日やってみましょうと。
だから100日というのは至って綺麗な数字でざっくりなんだけど
3ヶ月ちょっとということでですね
1週間2週間という話ではないので
これだけ続けばですね
少なくとも続かないってことはないよね
っていう風なことは言えると思うんですよ
続けていきたくないってことはあったにせよ
そういう趣旨です。
のものが7月24日スタートといったことになってますので
登録いただけたらですね
こちらとしてはありがたいかなと
という感じなんです。
タスクシュートでよく言われるのは
使う人だけが時間管理できているわけではないじゃないかというですね
クレームなのか議論なのかわからないんですけど
あるんですよ。
これを言うのは当たり前じゃ当たり前なんだけど
私の口からそれは言わないよねっていう話なんですね
今の時代って面白いことに
多様性が言われているせいなのか知りませんけれども
Aが絶対ですっていうのは好かれないっていう話があるわけですよね
Aは相対ですっていうのが好かれるわけですよ
で、Aをやるのがいい
やるもやらないも自由ですっていうのがいいんでしょうけど
それを私が言うのは変だっていう意識が
私の中にはいつもあるわけです
タスクシュートとGTDどっちがいいですかっていうのに対しても
どちらでもいいんですっていうのはいいんでしょうけど
私がそれを言う気にはなれないんですよ
タスクシュートの方がいいですって言っておきたくなるんですね
だって私の立場からするとそうだから
そして私の信念からしてそうだから
どっちでもいいっていう言い方を
例えば私が開発者ならばまだしまうんですよ
タスクシュートの開発者とか
タスクシュートクラウドの開発をしてますと
Jさんとか大橋さんとかね
でも私はそうじゃないんですよ
なのにこのどっちでもいいですっていうのは
はなはな言いにくいので
本音はどうなのっていう話をされれば
本音はタスクシュートの方がいいと思ってますよ私は
だから相対的っていうのを
相対的って答えるのが正しいわけじゃないような気がするんですよ
06:03
結果としてはそうかもしれない
あらゆる人が判断すればそうなのかもしれないけど
ある人が相対的ですって言っておきながら
自分の中では絶対GTDよりタスクシュートの方が
有効だと思っているというのは
むしろ嘘ついてる感じがするんですよね
だからそういう意味もありまして
私にとってはというのが必ずついているけれども
そんなのは当たり前だと思うんですね
この話自体はそれだけのことなんですが
絶対そうした方がいいとか
私はそのようにするのがいいと思うと
言った言明というものを
人が発したときに
それは自分の中で
自分の中で
自分の中で
自分の中で
自分の中で
それは意味付けなんですよ
昨日散々話した話の
延長線みたいなところがあるんですけど
意味付けなんですよ
その意味付けというものは
私はそれがいいと思ったら
記憶に投入するべきだというふうに
よく思うことがあるんですね
よく記録するじゃないですか
記録するべきだと
記憶は歪むから
でも記憶というものは
事実の写食じゃないと思うんですよね
写食はおかしいかな
事実の単なる焼き直しじゃないと思うんですよ
歪むことを含めて
歪むというのはおかしいと思うんだけどそういう意味では
歪みを含めて記憶じゃなきゃいけないと思うんですね
つまり
例えば
倉須野さんが
グッドバイブスで一つ意識と言った時と
私がその通りに受け止めたつもりでいる一つ意識は
違うはずなんですよ
だからこれを記録しておけば正確だが
記憶は歪むという言い方はできないと思うんですね
で、こういう話があるんですよ
よく臨床の話で
フロイトは読まなきゃいけないと
何度も繰り返し読みましょうと
できれば言語のドイツ語で読みましょうというぐらい
もうバイブルなんですよ
ある意味
でも臨床の場でフロイトのことを思い出すとじゃダメです
私はこれはとっても正しいと思うんですよね
絶対そういう風に考える必要があると思うんですよ
よくあるじゃないですか
ライフハッカーとかの記事でも
プレゼンに心がけなければいけない必須の7項目とか
あれは別にそれがいいと思ったら
採用したらいいと思うんですよ
その7項目を
ただ私はそれは何度も何度も読んで
09:00
バッチリ覚えて
直前になってそのメモを見返すってのはダメだと思うんですよ
ダメってことはないんだけど
そんな余裕はなくなっていくと思うんですよね結局
プレゼンの直前に見返したって
忘れてしまうじゃないですか
それを防ぐために最中文を見るみたいな話に
だんだんなっていくのかもしれないんですけど
その記憶されていないような
過剰書きは
役に立たないような気がするんですね
そして同時に
一度でも記憶した過剰書きは
そのことを思い出せなくても
プレゼン中に役に立っているとも思うんですね
もっともっと瞬間性というのかな
その場その場での対応が要求されるものほど
こういうことはできなくなっていくんですよ
例えばラグビーの最中に
ラグビーのルールをメモしたメモを
読みながらプレイするとか
絶対できないじゃないですか
相撲どこも右前三つを取るみたいな
メモを直前に読むっていうのは
もうナンセンス極まりないじゃないですか
これはもう叩き込むってやつなんだけど
つまりその人のものになってなければいけないんだけど
もしなってなかったとするならば
なってないのが正解なんだと思うんですよね
スキーとかそうなんですよ
それは本当に瞬間瞬間の対応が
対応なんですね
対応の連続なんだけど
対応が要求されるものなので
どう滑るっていうのはありますよ
ビデオで見るとかもありますが
そんなものは滑ってる最中には
頭では思い出さないものなんですよ
これは当然のことだと思うんだけど
しばしばですね
デスクワークだからなんでしょうね
これをギリギリまで思い出してやっていこう
っていう発想になるというケースがあるみたいなんですね
グッドワイブスとかもそうなんですけど
私はやっぱりそういうもんじゃないだろうな
と思うんですよ
一つ意識の話を
なんていうんですかね
思いっきり聞くっていうのがいいと思うんだけど
これを書いておいて
何か教訓の書みたいにして
奥さんとのやりとりの直前にも
一つ意識であって思い出すっていうのは
私はあんまりやりたいとは思わないんですよね
そういうふうなことまでしなければならない状況というのも
状況が差し迫ってくるとか
厳しくなってくるとないわけではないんだけれども
できれば避けたい発想ですよね
よく車の教習でそういうのを習うじゃないですか
S字クランクではこうするとか
いろいろあるじゃないですか
幅要請ではこうすると
あれは繰り返し繰り返しやって覚えるんだけど
私なんかもそれこそゴールドになってから
もう10年くらい経つんですが
運転しない日ってほぼないんですけど
幅要請をする時にどうするこうするって
教習所でどう習ったかって一切思い出さないですけど
幅要請はできますよ
というものだと思うんですよね
12:01
人に説明しろとなると
多分いろいろ思い出すんでしょうけれども
つまりそれっていうのは
なんていうんですかね
嘘なんですよ
意味づけなんですねやっぱりね
幅要請する時に私は
一番大事なことは言葉にできないなって思うんですよ
幅要請程度の理屈であっても
好きだったら絶対無理だっていう
変な自信があります
よく言うじゃないですかこの話も
一番大事なことは言葉には直せないって
それは特にこうやっぱり
瞬時に何かの技術を要求されるものほど
確実に出てくる話だなって
思うんですよ
昔私かなりの苦労をして
竹馬乗れるようになったんだけど
竹馬に乗れる方法って
いくら伝えても
例えば妹とかは
決してできるようにならなかったんですよ
これはもうしょうがないんですね
多分竹馬っていうのは
性能でやる部分が大きいと思うんで
性能でやることっていうのは
ほぼ言語化できないんですよね
一輪車乗るのは
言語化して教えてあげても
決してそれだけで乗れるようにならないのと
あるんですよ
自分の中では
一定の言葉になっている部分が
だけれども
それを人に伝えてみたところで
それによって竹馬に乗れるようにならないんですよ
ということは
その言葉は嘘だってことですよね
嘘じゃないんだけど
本当じゃないんですよ
こういうものをですね
少しも大事に過剰書きにするっていうのは
悪くはないのかもしれないんだけれども
十分役に立つとは言えないだろうなと
運転の技術ってほんとギリギリだなと
よく日本の教授場は
すっげえ体系化して頑張ってますよ
アメリカにあるのないですね
はっきり言って
あそこあれほどまめまめしく
細かく詳細に
がっちり書いていてくれているものは
だから私あの技術教授ってすごいなと
受ける度に思ってたんですけれども
まあでも
20年30年運転して
あの技術教授を
生きて運転している人がいたら
私はその人に同情するのは
あんまりやりたくないですね
ちょっと不安になります
そういうものだと思うんですよね
あの
倉佐野さんの今書き上げ塾というのを
6期まで来ていて
ずっとやっていて
つくづく勉強になると思っているんですけれども
あれもそうなんですよ
あの赤が入っているものは
私はいちいち見返して
えっと
いちいち記憶しておくんですけれども
あのですね
何かの表現のようなものにまとめて
書く前には必ず暗唱するとかは
やめたほうがいいと思うんですよね
私ならしないです
えっと
なんていうんですかね
例えばBコースに相当する
何々だから何々である
AだからBであるっていうのは
書き上げ塾では
15:01
書いちゃダメってことになっているんですよ
この理由までは
知りたければ塾入ってほしいんですけど
とにかく書いちゃダメってことになっていて
私も実に最もだと思うし
えっと
原則私も避けて
書かないようにしてきたので
非常にこう
納得感が高い
禁じ手の一つなんですけど
禁じ手って言うんですけどね
でもそんなことは書くときは
覚えておくことではないと思うんですよね
書いてしまったら
それなりに
それについて書くか書かないかは
後で考えるにしてもですね
自分が書いたときは
OKとするべきなんだと思うんですよ
でも禁じ手なんですよ塾では
だし書かないほうがいいような気もするんですよ
気はするんですね
この二つは矛盾しないと
僕は思うんですよね
非常に微妙なところでは
あるんですけれども
矛盾しないと思うんですよ
結局
なんて言うんですかね
ある人にとって正しいことは
確かに正しいんだけれども
別の人にとっては
やっぱり正しいとは限らないんですよ
で
さっきのフロイトの話が
そうなんだけれども
私は思うに
記憶っていうのは
フロイトの考え方では
一度記憶したものが
失われることはないんですね
歪むとかもないんですよ
ただし表層には
登ってこないことはあるんですね
それを無意識って言ってるわけだけど
だから無意識というのは
記憶と言ってもいいんですけれども
そういう捉え方を
しているところがあるわけです
で
私はですね
最近かわいはやまさんの本で
久しぶりに読み返して
前々からこのことを
よく考えさせられたなと思ったのが
私たちは外界で起きていることを
全部は知らないじゃないですか
最近テレビがあるから
ウクライナではこうなってるとか
詳細に分かるけれども
結局世界中で起きていることが
両者ないじゃないですか
もっと言うと宇宙中で
起こっていることとか
絶対分かってないじゃないですか
ところがですね
どこまでは分かっていると
言えるのかというと
途端に怪しくなりますよね
半径5メートルなのかと
6メートルより外は分かんないのか
というとそういうわけじゃないですよね
この形は綺麗な円を
なしているわけじゃないですよね
1キロ付近でも分かることはあるし
それこそウクライナとか
全然疑問ですけど
それにしても例えば今
ちょうどチリで起きていることとかに
比べると分かっているわけですよね
形が歪んでいるわけですよ
大事なのは
どっちにしても全部分かっているわけ
じゃないんだけれども
でも何かが起きていることは
確かじゃないですか
最近ずっと言ってますよね
ウクライナで起きていることは
私たちに無関係ではないと
18:01
実際無関係じゃないですよね
物価高くなったりするから
ウクライナで起きていることは
私にとって必ず何らかの形で
関係していると
運と遠くてもね
例えば太陽の活動とかそうですよね
運と遠くても
私たちの健康に直結したりするじゃないですか
と同じように
私たちは無意識下で起こっていることも
全部知っているわけじゃないんですよ
内界って時々言うんだけど
世界では
内界で起きていることを
全部知っているわけじゃない
そうですよね
内界で起きていることを
全部把握できているわけじゃないし
到底理解しがたい夢を見るし
何よりも夢って
大概忘れるじゃないですか
記録しておこうとしても
ごく断片しか記録しておけなくて
しかもですね
これはユングとかフロイトの発想ですけれども
夢で見ているのは
無意識の一断片なんですよ
もっと得体の知れないものが
我々の内界にはあるって考えるんですね
ちなみに仏教にも
そういう考え方ありますよね
あれ面白いことに
イスラム教にも似たような発想があるんですよ
全く完全にこうしているわけじゃないんですけど
下へ行くと結構いろんな世界があるんですよ
これは自分の中にあるんですからね
全部
で、それっていうのが
カイハムさんが言うにはですね
外界を全部把握できていなくても
外界の起きていることは
何かしら自分に影響しているように
内界で起きていることが
全部把握できていなくても
内界で起きていることって
全部影響を汚していると
いうことを考えるとですね
私たちは
忘れてしまっているとか
何かを思い出して
自分の行動を変えるというのは
どのくらい妥当で
やったほうがいいことか
はなはな疑わしいってことになるわけですよ
だってどういう影響で
どんなふうにして
自分が今
カイハムさんこう言うんですよ
そうやって
世界中で起きていることが
いろんな巡り巡って
自分を今
生きるようにしている
存在できるようにしているのに
支えになっているし
役に立っていると考えるようになったと
これ結構万年に仰っていたような
気がするんですけどね
だってそうなっていたら怖いじゃないですか
ヘダのところをいじると
何が起きるか分かったもんじゃないですよね
一般的に
極表面的には
こうしたほうがいいとか
言う理由によって
自分を取ったりするんだけど
それによって
自体が変な方向に動くってことも
ないわけじゃないと思うんですよ
ここでだからグッドワイブスみたいに
でも現実というものは
自分に良くしてくれるってことに
しておけばですね
そういう信頼感を得ておけば
ある意味何をしても
大丈夫だってことになるんですけどね
多分なるんだと思うんですよ
だけれども
とにかくこう
21:01
簡単に表面的に
自分の記憶する
何かを覚えておいたほうがいいと
言わんばかりに
何でもかんでもログ取っておいて
記憶していくっていうのは
果たして無意識にどういう影響を及ぼすか
僕らは分かってないのに
結構平気でやってます
かなり表面的な働きだから
問題ないのかもしれないんですけど
でもああいうログとか
ライフログみたいなのも
この場としてありますが
取ってみるとよく分かるのは
現実の模写なんて
目の前にあるものを
正確に模写するだけでも
1日かかりますからね
出来事は必ず断片ばっかり
記録していくことになるはずなんだけど
そんなものは
この内海で起きている
さっぱり分かんない
それこそ荒屋敷みたいなところで起きている
さっぱり分かんない出来事の
膨大さに比べると
すっごく小さいことかもしれないわけですよ
逆にそれがすごくでかいと
結構たやすく手に
手出しできない
手出しできなくなるので
困ったことになる気もするんだけれども
でですね
思ったんですよ
記憶をするということは
つまり
何をどう記憶しても
ある意味いいわけですよ
グッドバイブスを信じるならね
このグッドバイブスを信じるも
同じなんですよ
信じておいて
全く違うことをしても
大丈夫だって理屈の上では
なると思うんですよね
でもやれないんじゃないですか
ある意味下手なことは
できなくなる
今の世の中で
難しいなと思うのは
損と得
正解と不正解みたいなもので分けて
何ですかね
アドベンチャーブックみたいに
捉えられている考え方が
強いからだろうと思うんですよね
私はそういう考え方は
至って無理があると思うんですけれども
強いんですよね
無理ですというか
ノーというか
こうするとどのくらい得をするか
ゴールで天国と地獄のような開きがある
というのが
すっかり受け入れてしまうと
全然選択できなくなるじゃないですか
それだったら
何をしても大丈夫
という風に思っておかないと
とてもじゃないけど
安心して生きていけないですよね
さっきの家計二塾の話のように
戻ると思うんですよ
別に何々だからって書いても
何々だからって書かない
という原則で
とりあえずそれを
自分にインストールしてみるわけです
そしてそれを
無意識の底に沈めて
あとはどうなるかを
見てみていく
という感じなんだと思うんですよね
これがなんとなくなんだけど
技術を進歩させる一つの方法だな
という感じがするんです
してもしなくてもいいんですよ
これは私
わりとスキーで学んだことなんですね
24:01
スキーって結構いいんですよ
結構いい
つまりハノジにして
めちゃくちゃ
初心者で滑ってても
かなり楽しいし
いわゆるウエデルンみたいなところまで
行っても十分楽しいんですよ
というのがいいんじゃないかな
って思うんですよね
正直ウエデルンできるようになれば
暴言で滑るよりも楽しいかというと
別にそんなことはないんですよ
楽しむだけであれば
あれできるようになるか
どうかは大したことなんですよ
こういうのって両立すると思うんですよね
結局これを両立するっていう風に
意識しておかないと
技術が上達しないんだったら
やる意味ないみたいな感じになっちゃう
じゃないですか
これがずっと広くなっていくのが
今風の
アドベンチャーブックみたいな
ライフ
なんていうのかな
ライフ感みたいなものなのと思うんですよね
ライフスキルを
アップしていった先にしか
いい人生がないみたいな
そういうある意味とても
やってられない
世界観だと思うんですよ
多分そうはなってない気がするんですよね
どう見ても
そういう感じを自分は受けないし
多分そんなことはないだろうなと
そうだとすると
ごくひと握り以外の人は
みんなすごく不幸みたいな話にならざるを得ないです
で
あの
私がただ言いたいのは
そういう
社会問題的な話ではなくて
要はですね
何かのアドバイスなり
スキルなりっていうのは
それはそれとして
何らかのシチュエーションに限定すれば
常に正しいんだと思うんですよね
ある意味では
タスクシュートしかり
GTDしかりですよ
グッドバイオスもそう
かき上げ塾の話もそうだと思うんですけど
あれなんかすごく
狙われてますからねやっぱり
ただ
自分がそれをするときに
絶対それを採用したほうがいいかどうかは
また別問題だと
そう思ってると
やんなくなっちゃうかもしれないんで
とりあえず少なくとも
参加してやってるときは
これがベストだと信じてやりましょうと
だいたいそれでいいと思うんですよね
でも一旦その感覚を
自分の中に投入したら
あとはそれを信じて
いちいち思い出そうとしなくて
いいんじゃないかという風に
思うわけですよ
最近こう流行っているんですけど
再び記録取るみたいな話
あれはあれで全然
何の問題もないと思うんだが
だけれども
あれをですね
ここというときに
引っ張り出すということで
苦労するくらいなら
その苦労はなくていいような気がします
ここというときにあれを思い出せなくたって
っていうか
ここというときにあれを思い出したからといって
そのことがいいことかどうかは
わからないと思うんですよね
そういうなんかですね
27:00
私は
ライフ感っていうのかなやっぱり
人生感と言えばいいんでしょうけど
なんかこうライフ感みたいな感じが
するんですよね
アドベンチャーブックみたいな感じが
するんですよ
狭くなっていく道を歩ける人は
ごく限られた人であるという
あれ
そういう感じがするんです
最後まで
昔そういうテレビなかったでしたっけ
よくありますよね
最後の最後になると
3人とか2人とかに絞られていくやつ
1人以外はみんな落ちるみたいなやつですよ
最終的には
あの発想を取っていくと
なんかそういう方向に
向かっていく気がするんだけれども
なんかすごく
大変そうじゃないですか
しかも
なんかですね
そうやって
得をして得をして得をして得をした人は
めちゃくちゃ幸せそうで
なければいけないと思うんですよね
そこまでするのであれば
こういう時には
こうする方が得みたいな
なんかこう
例えば
iPhoneの充電器買うなら
アンカーのこれを買うのが得みたいな
その時に
なんかよくわからない
不思議なちょっと
リップスティックみたいなものを買ったやつは
不幸になるから
ここで脱落みたいに
していく
そういう風に考えると
最後の最後まで得をできた
ごく一握りの人が
めちゃくちゃ幸福な感じがするんだけど
私が見てた感じ
そういう印象を受けないんですよ
なんとなくこの
究極のライフ
ハックライフを送っている人が
すっごく羨ましいなと思ったことは
私はここ20年くらいを通じて
一度もない気がするんですよ
幸福な気がするんですよね
ハワードヒューズの例を出すのも
そういうことなんですよ
ハワードヒューズだよね
お金持ちの話ですよね
ベガスのスイートルームに
こもって手袋をはめて
ポーランドスイート
幸せそうじゃないとは思うんですよね
本人がどうだったのかは
究極的にはわからないし
ただその最終的な
ギリギリの成功を掴んだという意味では
彼はそうだし
もう一つ
彼のような
結局それは
分岐点に対して
こうでなきゃいけないという
考え方じゃないですか
何々を触るときには
手袋をはめなきゃいけないと
孫徳で考えて
彼はそれが得だと思っているから
そうしたわけですよね
サバイブするのに
より健康的で
衛生的で
長生きできる方向
それがいいとされているんだけど
やはり問題がある
考え方のような
気がするんですよね
そうやって考えてみると
結局どっちでもいいじゃん
30:00
という話になるんだけど
そのどっちでもいいのは
どっちでも大丈夫ということが
信頼できているということが
多分ベースになっているんだろうな
という話なんですよ
だから話を聞いて
一度自分の
どこかの意識に
インストールしてしまえば
あるタイミングで
絶対思い出さなければいけない
ということは別にないんだろうな
そういうふうに思っていないと
アドバイスというのは
必ずアドベンチャーブックみたいになって
辛いものになっちゃいますよね