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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日はですね、撮れると思ってたんですよ。
撮れると思ってたんだけど、結果的には撮れなかったと。
なんかそういうとっても不思議な感じでした。
一応まだタスクシュートやってるから、撮れるという目論みにほぼ間違いはない。
もちろん、よほどのことが起きれば別なんだけど、
昨日はよほどのことは起きてませんから、私にはね。
不思議だったんですけど。
今日もだから時間をですね、相当変えているわけですよ。
今日は撮れるようにしようということで。
毎日はやっぱり変わるなと思いますね。
今日は7時半じゃないですか。
通常これ8時半にはスタートしている感じなんですけど、
別に8時半スタートって決めてるわけじゃないんですけどね。
8時半にはスタートさせていることが多い。
遅くとも9時。
9時になっちゃうと、やっぱり奥さんを起こすみたいなのもないわけじゃないので。
なんかね、別に9時始めて半に終わるならいいんだけど、
長い時は結構10時近くなんじゃないですか。
それはちょっといろいろ問題があるので、9時になるのはいけないなとは思っているわけですね。
まあほぼどうでもいい話なんですが、いろんな事情があって、
私、時間術ってこういう話をすることだといつも思っているんですけれども、
なんかですね、響かないか却下されるかのどっちかな、あるいは両方なんだろうな。
でもですね、時間術って多分こういうことをやってるんですよね、本当は。
逆算って言うじゃないですか、逆算できないんですよ。
なんでできないかというと、
Googleマップとかの立体のやつあるじゃないですか。
一歩歩くごとに状況が変わっているわけですよ。
大まかに見れば行き先から逆算しているんだし、マップってそういうもんなんですけど、
例えば車の運転でも、前の車がどういう運転をしているかで、
多分着く時間は秒単位なら絶対変わると思うんですよ。
変わりますよね。
で、このズームインなんですよね。
この解像度じゃないと時間管理をする意味ってあんまりないと私は思うんですよ。
ところが細かすぎるって言われちゃうし、
こういうのを事例で示すのってものすごい無理がありますよね。
一個一個が違いすぎて、
この1階1階の異様に細かい小さいズレがバタフライ効果的なんですよね。
でもああいうちょっと蝶々が羽を3回やったから竜巻が起きるとかいう話ではないんで、
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でもバタフライ効果的なんですよね。
そうだ、こういうふうに描けばいいのかな。
思わぬところで思わぬ話をしているんだけれども、
そういう話をしようとは全く思ってなかったんですね。
で、今ですね、セッションがおかげさまで結構好調で、
好調というかご好評いただいていて大変ありがたい限りで7月もやることにします。
7月は8回、前も言いましたけど8回取れるかわかんないので、
6回から8回の間でキンキン出そうと思います。
もうすぐ7月になりますので、今日下旬ですので。
で、もう一つ7月の9ですね。
これちょっと踏ん切りがつかないかもわからないというのもあるんですけど、
その踏ん切りなんですよ。
例えば、まだ早いですけど全然、
確定申告をここまでにまとめておくのを1ヶ月で集中してやりたいとかあるじゃないですか。
もう確定申告の話だけをしておきますけれども、
今日は気がつくと、なぜか12月になってたり3月になってたりするじゃないですか。
これは別に不思議なことでは全くないと思うんですけど、
で、これはですね、やっぱり意志力とかの問題でもないと思うんですね。
あるいは、そうだ確定申告の話だけと言いながら違う話しちゃいますけど、
体のこととかね、
えーと、私もそうなんですけれども、
やっぱりこう、今はそうでもないですけどね、
昔はこうやっぱり、
歯医者の治療じゃないですよ、治療は今でも先延ばししたくなりますが、
あと先日グラドノケゾウさんは、ここは克服されたらしくて大変羨ましいんですが、
昔は、
歯科衛生師にやってもらうやつ、歯石取り。
あれすらも、なんか1年ぐらいは先送っていったんですよ。
あれめちゃくちゃ嫌だったんですよね。
今は、あれがまだ嫌だったんだろうぐらいになってるんで、
やっぱりこういうのって意味づけなんですよね。
あれほど明確に事実そのもののように思えることでも、
やっぱりこう、イリュージョンなんだな、
イリュージョンの役割でかいなと思うんですけど、
まあそういうことですね。
そういうことも含めて、結局イリュージョンなんで、
結局イリュージョンって言われても、いけないじゃないですか。
ここをどうにかするっていうような趣旨も、
1ヶ月集中コースにはあります。
例えば、さらに他の例も出しちゃうんだけど、
お金を貯めたりとかね、使っちゃうとかもあるじゃないですか。
これも使わなきゃいいのは明らかですよね。
先送りとはちょっと文脈が違うかもしれないですけど、
でも心理状態は近いだろうなって思うんですよ。
先送りだってそうですよね。
今日も書きませんでした。明日も書きませんでした。
書けよって話なんだけど、
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書けよっていうのは誰が言っても同じなんですよ。
だけども、実際には書けずに1ヶ月とかが平気ですぎるわけです。
これはもう、私はプロの作家でも平気で過ごしてる人が
いっぱいいると思っているんですけど、
そういう人に2万円安くない?って思うわけですよ。
だってそういう人が書いたら、
まあこれはですね、そういう書き方としてはダメなのかもしれませんけど、
そういう人が書いたら100万とか入ってくるはずなんですよね。
これを、ものにもよりますが、
書を逃すのはもったいないというのもあると思うんですね。
今書かないと本にならないというか、
なったとしても売れ行きが大きく落ちるみたいなのもあると思うんですよ。
それに左右されただけで書くってのもどうかと思うので、
難しいんですけど、そういうところは。
まあまあでも、良ければそういう方面からでも大丈夫ですと、
大丈夫だと思っております。
で、その話と関係があるようなないようななんですが、
あるんだけどね、
なんていうのかな、自己肯定感って言えばいいんですかね。
自己肯定感が低い人ってよく言うんだけど、
まず僕は低い人ってのは言いなくて、
低い時ってのがあるだけだと思うんですね。
低い時ってのも誤解のようなものなのですけれどもね、
自己肯定感が低い人って言ってしまいますけど、今は。
人は時々ですね、ひどくこう、
これ全く不思議はないんですが、
昔は私もちょっと不思議だなと思ってたし、
不思議だと思う人もいらっしゃると思うんで、
ひどく批判的なところがあるんですね。
私、これ体の調子の悪さと実は関係しているという話まで、
今日思わせるかどうかわかんないんですが、
この話、この種の話は何度かホットキャストでももちろんしてますけれども、
だいぶですね、
GOOD VIBESのみならず、
のみならずってところに私はこう、
一定の、なんて言うんですかね、
私なりの理解ってものを含めているつもりなんですけど、
臨床心理的に理解できるようになりつつ、
あるんですね。
で、なんで臨床心理とか精神分析をここに持ち出してきたかというのは、
これ聞いてる、何度も聞いた方には自明かなとも思うし、
そういう話を先日セミナーでもしたんですけれども、
GOOD VIBESをやることによってやるというか、
理解して実践していく中で精神分析というのがわかってきたと。
これもさっきのですね、時間術の解像度の話とよく似ていて、
やっぱり現実に、運と現実を拡大して、
ズームインして見るところに、
精神分析のものの見方っていうのがあったんですね。
で、GOOD VIBESは現実を業種形状って言うけれども、
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要するに現実をよくもっとよく見ろって言うわけですよね。
そこに解決というか、
そこに自分の苦しみの原因なり、
突破口なりがあるから、必ずあるから、
そこに見て、そこに入っていこうって考え方とも言えるんですね。
これをやろうとすると精神分析が見えてくるんですよ。
だから私は多分ここに精神分析を持ち込むんだなと思うんですね。
で、それが私がGOOD VIBESを実践したという一つの証っていうのもあれですけど、
ちょっと違う感じがするけど、
まあでも証ってことになるんだと思うんです。
現実に近づくって言ったって、
客観的に現実に近づくも遠ぬくもないわけですよね。
私は現実から外に出たことがないわけだから。
でも自分の注意を向ける方向として、
つまり自分だけが知ってることだけど、
主観的な注意をどこにどう集中させるかと言ったことが、
事態を変えたわけですよ結局。
そういうプロセスには精神分析って出てきたんですね。
私の人生の中で、精神分析は結局かわいはやおさんを読んだとか、
加藤大蔵さんはあんまりいっぱい読んでないけど、
まあちょこっとは読んだし、
フロイドも無理矢理読んでたし、
お好みさんの本も読んでたし、
これは学生時代って話ですよ。
ドイルタゲオさんの本は中学の頃に読んだのが最初かな。
とにかく読んだことは読んだわけですよ。
で、小学校の方に読んだかな。
とにかくグッドワイブスも、
それこそインターネットすらない時代から、
精神分析には僕はすごく傾倒していたわけですね。
さっぱりわかってなかったし、
わかってなかったと思うんだけど、
そもそもわかってもいないのに、
そんなに読んできたっていうこと自体が、
変じゃないですか。不可解じゃないですか。
気にはなってたってことなんですよ。
で、これが私の人生にはあったから、
それが不意に意味を以前よりも、
意味を帯びて登場してきたっていうのかな。
それも不思議な、
自分でも言ってて不思議な言い回しだなと思うんだけど、
そういうことなんですよね。
それは、あれはやっぱり私の現実の、
やや、
言ってみればこう、
広域地図で見る限りでは意味はなさない話だったんだけど、
それこそ、
バードビューじゃないやつね。
アリの視点に入ってみると、
とてもよくわかる話になったと。
で、そのアリの視点にならないと、
グッドバイオスの実践ってできなかったから、
そういうことだったんですね。
で、前置きが長くなっちゃったんだけど、
いつものことですけどね。
えーと、意味づけと言ったことがあるわけじゃないですか。
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で、意味づけというのは、
はい、すいません。
なんか今、アラームが鳴ったために焦って停止してしまって、
どこまで喋ったか忘れたんですが、
えーと、意味づけというのは多分ですね、
意味づけの話をしていたと思うんですよ。
自己肯定感が低い人が、
なぜ、なんかこう、クレーマーっぽいというのか、
やや批判的な調子が強まるのかという話をしたいんですね。
してるつもりなんですね。
で、それはですね、
意味づけというもののズレが、
もう極端に言うとそこに悪を見るんですね。
意味づけをずらしている奴は悪だと。
なぜか、
えー、例えばそれはつまり間違ってるからだってことになるんだけど、
まあ非常にわかりやすい事例で言えばですね、
えーと、男は女より偉いとかね。
これ意味づけじゃないですか。
間違いなく意味づけです。
えー、天地改革以来の法則とかではないんでね、
そういう法則が数式で示せるというものでもないから。
で、この意味づけの間違いによって私は不利益を被ったと言ったことに対して、
まあこれはもう多くの人が言うんだけれども、
どのくらい強く抗議するかというよりは、
人によってまちまちなわけです。
もちろんそれによって利益を被るというケースもないわけじゃないですからね。
問題なのは、その意味づけってのは今の言ったように、
常に現実とイコールということはありえなくて、
常に現実とはイコールじゃない話なので、
間違いを指摘しようと思えば必ずできる。
で、その間違いを指摘したいという気持ちが強い時というのは、
自己肯定感が低い時であることが多いってことなんですよ。
私が先日考えたことなんですね。
意味づけのずれが許せない。
意味づけがずれてるというか、罪悪だと。
いった気持ちが強い時は、
自己肯定感が低くなっている時だと思うんですね。
そういうふうに見ると、いろんなことが納得がいくんですよ。
納得いったからどうだって言われるとちょっと困っちゃいますが、
とりあえず納得がいくんですね。
で、意味づけと自己肯定感がなんで関係があるのかというと、
究極的に、さっきの男尊女卑的な話だと分かりやすいんですけど、
あれだとすぐに話が違う方向に向かってしまうので、
もう一例出しますね。
例えばジェイ・松崎さんが、全然そういう事実はないのに、
ごめんねジェイさん、悪いんですけど、
この番組を聞いてる人には分かりやすいと、
でもみんなが知ってるわけじゃないから、
いい事例じゃないんですけどね、
他にうまいことを持ち出せないんですよ。
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ジェイさんのタスクシュートクラウドというのを私も使っててですね、
もしこのタスクシュートクラウドのバグがあるという事がみんなに出回ったと、
そうすると売れ行きに響くと、これが意味づけなんですよ。
いやそれ事実じゃって言われるかもしれませんが、
これは意味づけです。
なぜならばバグがあるというのは事実かもしれない。
これも意味づけっぽいんだけどね。
だけれどもそれによって売上が下がってるかどうかは分からないんですよ。
これから買う人がそのバグを気にするかどうか、
知ってるかどうかそれは分からないじゃないですか。
そして今時アプリでバグのないアプリって私見たことがないから、
バグがある事によって売上が下がるという言い方は難しいと思うんでね。
相当無理があると思うんです。
しかしそういう事が実際に起ころうと起こる前に、
それは良いんですよ。
こう言うと分かりにくいと思うんだけど、
意味づけってのは現実とは違うって事なんです。
現実に意味をつけたでしょうって事なんですよ。
売上がバグがあるために間違いなく下がったという現実そのものは何も語らないんですよ。
語ってるのは人間の方であって、
その事実に対して何か説明するなり、
今のように大体は未来予測を勝手に含むんですよ。
それはまだ起きてない事だから未来予測ですよね。
これは言い逃れでもしているように聞こえると思うんですけど、
ものすごくここが大事だと僕は思うんです。
どうしてこれがこの話の中で、
今回の肝は自己肯定感が低いって事と関係があるのかって話なんですよ。
意味づけの中で一番自己肯定感に関係あるのは何かというと、
自分という意味づけなんですね。
バグがあるから売上が下がると、
自分が困るっていう話になっていなければ、
この事をわざわざ議論にしたりするはずがないんですね。
例えば、佐々木老貴さんはまだ高卒新人に近い人なので、
一定期間を空けてローテーションを組んで選抜しているために、
しばしば登録抹消になって二軍に落ちる。
多分この言葉の意味はすごく響く人と、
全く理解できない人とに分かれていると思うんです。
そしてさっきのJ松崎さんのタスクシュートクラウドは、
これよりもはるかに多くの人が理解できない話に決まってるんですよ。
佐々木老貴さんの今の話は、分かんない人からは分かんないと思うんだけれども、
野球ファンのほとんどがある程度の理解ができるんですよ。
そうするとですね、毎日毎日5万人とか入っている球場もあるわけだから、
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数十万人単位で今の話はサクッと理解できるはずなんですよ。
Jさんの方は残念ながら1万人には届かないと思うんですね。
バグがあると売り上げに響く。
多分全くどうでもいいと思う人と、
さらに全く理解できないという人の数は圧倒的多数だと思うんですよ。
意味付けっていうのはこういうことなんですよね。
ある世界、ある文脈、ある内容に対して理解していると、
それは事実にすごく近いように思えてくるんだけど、
実はそもそもその事実が事実として認定されるはずがないというぐらい、
大抵の人にとっては遠慮いい話だったりするわけです。
さっきのゾフィローキの話でわかると思うんですよ。
ロッテファンにとってはさっきのような話はものすごく重大なんだけど、
まあどうでもいいですよ。
タスクシュートクラウドのバグはもっとどうでもいいってことなんですよ。
そう思えないとするならば、
ものすごく強い意味付けというものに対する、
その意味をつけたことに対する自分のエネルギーが入っちゃってるということなんです。
要するに、これは事実なんだって言いたいという気持ちがものすごく強い。
そして、なんでそんなことがものすごく強いのって言ったら、
自分が困るから。
ここで自分が出てくるんですよ。
他の人はともかく自分が困るっていうわけじゃないですか。
人は人、自分は自分ですよ。
自分があるってことなんですよ。
この状態は健全なんです、まだしも。
ここから先へ行き始めると、
どういうことが起きてくるかというと、
自分という意味をつけたのは誰だってことなんですよ。
いや、私だよって言うかもしれないけど、
それは嘘なんですね。
私が自分の意味をつけられるくらいであればですね、
私たちは自己肯定感なんかのことで絶対困らないはずです。
いや、俺は十分優秀で、
生きていくのに十分ふさわしい人間だし、
他の人はともかくとして、
俺はこの地上で最後まで生き延びる能力が間違いなくあるって言える人は、
自己肯定感低いはずないじゃないですか。
自己肯定感が低いってのは結局、
自分ということの意味付け、定義がですね、定義ですよね。
他人にかなりの部分に委ねられているからなんですよ。
さっきのバグをわざわざJさんすいませんと言いながら、
わざわざ事実そんな話が出てるわけでもないのに、
あいつを無理やりここに引きずり出しているのはですね、
これは他人の評判と関係がある事例だからなんですよ。
で、他人の評判と関係があるのはツールですよね。本人じゃない。
でも本人がそれを気にするというのは、
つまり人は自分というものを定義に、
他人を大いに介在させている証拠なんです。
だからあいつはおめでたいとかって言われるのが嫌なんですよね。
あいつは自分では立派な人間だと思っているようだがって笑われるのが嫌なんですよね。
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自己肯定感の高さの問題なのが大体こういう文脈ですよね。
これってつまり他人が評価をするのが当然だっていう含みが当然あるじゃないですか。
自分だけで自分というものを定義しちゃいけないという含みが当然あるじゃないですか。
そういうニュアンスがですね、あるはずなんですよ。
これがまあいけないっていうか、いけなくはないけど、いけないわけですよ。
僕らを苦しめるわけです。
で、他人と今言ったんですけれども、
その他人の中でも最も自分というものの定義を主体することに大いに関わった、
おそらく一番最初に決定した人は誰だっていう話。
ここからはもうさっきのバグの話とかもういいですよね。
バグがあると自分の評判なり、顧憲なりに関わると。
古い言葉ですいません。
顧憲なりに関わると。
それは人が自分というものを定義するからだ。
で、その定義によって自分が貶められるのが嫌だって話をしているから、
人の意味づけに敏感になっていく。
意味づけというものが客観的でないと、そこに罪を見出す。
私は誤解されていると言いたいわけですよ。
自分というものがもっと客観的には高く評価されるべきなのに、
他人はそれを誤解していると言いたいわけですよ。
自己肯定感というのはこういう問題ですよ。
だから現実というものをもっとよく知って、
お前は私のことをもっとよく扱えと言っているわけですよ。
現実の私をもっと高く評価しろと言っているはずなんですよね。
だからそういうことを書いている人、
そういう能力を書いている人は感受性が低いとか言い出すんですよ。
あるいは無神経だとかね。
で、その無神経なのはまあいいとしても、
それによって私が被害を被るのは困るって言いたいから、
やっぱり自己肯定感の問題になってくるんですよね。
つまり意味付けというものは、
なぜどうせ間違っているの?
そうですよね。どうせ現実じゃないんですから。
赤信号は止まれじゃないんですから。
人が勝手につけた意味なんですから。
赤信号にすすめにしたっていいわけですから。
こういうことも何回か言っていますけど。
それなのになぜそれが客観的に正しいとか、
常識的だ、非常識だとかいう話になってくるのかというと、
正しい側に自分の方が近いという意識が必要だからですよね、
その人にとって。
私の方が客観に近い現実に、
間違っているかもしれないけど主観だから、
意味付けだから。
でも私のしている意味付けの方が客観的現実であってほしい、
事実であってほしい、真理であってほしいって、
そういう気持ちが働いているから、
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他人の間違った意味付けが罪悪だと思えてくるわけです。
これがとても強い不快感なわけです。
つまり、とても強い不快感というのは、
この番組の文脈ではニードなんですよ。
説明を要するとは思っているんですけれども、
長々と説明しているとそっちで終わっちゃうんで、
ニードというのは必要性です。
コンピューターがバグを発したときに、
直してほしいとは思っていない。
直したいと思っているのは人間の勝手な意識です。
つまり、直すというニーズを提供する。
ニードというのはトラブル、バグ、問題、不快感なんだけど、
直すという、だからこういう部分を直すというのがニーズです。
提供するニーズ。
それをやるのが環境としての母親。
お母さんである、実母であることは多いですが、
お父さんでも構わない、兄弟でも構わない、
お兄ちゃんでも結構。
実証として、精神分析ではこれを環境としての母親と言うんですよ。
環境としての母親は提供するんです、ニーズをね。
ニーズは常に正しいとは全く言えないというか、間違ってます。
そういう意味でニーズとは忌み付けなんですよ。
さっきも言いましたよね、忌み付けは間違ってると。
でも環境としての母親は忌み付けをして、
でも提供しないわけにはいきません。
コンピューターが壊れてるんだから、
どこをどう直すかというのが完璧にわからなくたって直します。
そもそもコンピューター直してほしいと思ってなくたって直します。
赤ちゃんはうずってるとか、涼しくしてあげようとか、
お腹が空いているのかもしれないとか、眠いのかもしれないとか、
当て推量をする。これが忌み付けですよ。
当て推量をしてニーズを提供する。
この時のニーズは当然ニードと完璧に一致するはずはないです、原理的に。
なぜならば赤ちゃんは自分がどういう状態であるかも知らないから。
もう一歩言いますと、自分というものを知らないから。
ここでお母さんのやること、環境としての母親ですね、
でも多分実母であることが多いです。
環境としての母親のやることは、あなたという意味をまずつけるんですよ。
あなたはうずってる。あなたはお腹が空いているのね、と言うんですよ。
これは一方的な言い分なんですよ。忌み付けなんですよ。
あなたはお腹が空いている。あなたは眠い。あなたは抱っこしてほしい。
そんなものを赤ちゃんは知らないです。私という概念はまだないんですからね。
こういう風にしてでも、私という概念が徐々に出来上がっていくわけですね。
そうですよね。あ、自分もお腹が空いているんだな。
これは人に教えられることなんですよ。自分は眠いんだな。
赤ちゃんなんか寝かせようとしたって寝やしませんからね。
この問題、しょっちゅう問題になりますけどね。
27:01
私は眠いなんて思ってないんですよ。
でも、あなたは眠いんだということを気につけてしまうわけですね。
なんて気につけるしかないじゃないですか。そして大体お母さん正しいからね。
この時に自分というものが成立するということはですよ。
自分が成立するということは甘えてるってことなんですよ。
甘えてなかったら自分はなくなっちゃうんです。
この話もどいたけおさんがしょっちゅうするんですが、
たぶん聞いててそんなもんかなぐらいな感じしかしないと思うんですよ。
非常によくわからない話だと思われるかもしれないんだけど、
私も最初読んだ時はよくわからなかったんですよ。こういうところがね。
中学生とかに読んだってわからないですよ。こういう話は。
その、頭だけの問題じゃない。経験してみないとわからないです。
で、私はグッドバイブスを通じて、そして子育てを通じてわかってきたわけです。
こういうことが。あ、そうか。ニーズを提供する私だってしますよ。
母親だけがするわけじゃない。今時の時代はですね。
例えば公園に遊びに連れて行くと。遊びに行きたいとは娘は言っとらんわけですよ。
でも遊びに連れて行くと喜ぶ。だからそれで正解なんですけれども、
ニードとニーズはぴったりは一致しない。
あなたは公園に遊びに行きたいのねというわけで一緒に行くわけですよ。
これがニーズですね。その時に娘は徐々に自分というものが形成されていくわけです。
つまり自分というのはただの概念ではありえないんですよ。
欲望と一緒じゃないとセットでないと登場しない。
だから自分というものは自分の領域における願望というようなものが
徐々にその人の心に形成されていくそういうプロセスなんですね。
そこには常に甘えがある。なかったら自分はない。
甘えさせるという姿勢があるわけです。
周囲という環境としての母親にこの子を甘えさせてあげようという
そういうふうには思いませんけど宣言もしませんがそういう意思がある。
なかったらその子は自分が成立しないんですよ。
あなたはお腹が空いているのね。だからミルクを飲ませてあげるっていうのは
一方的かつ意思なんですよ。態度なんですよね。
それもなるべく正しいことをやろうとやってあげようとするじゃないですか。
その姿勢が甘えさせるということなんですよ。
これなしには人は生きていけないと精神分析では言ってるんですよ。
この場合大事なのはミルクは大事だけど一番大事なのはミルクじゃないんですよ。
この意思なんです。甘えさせてあげようという意思。
つまりこの子のニードに対して全面的に責任を負おうという意思ですね。
正しいようにしてあげようと。なるべく近づけようと。
この時必ずあなたという忌み付けを含むじゃないですか。
私あなたじゃないしって言ったら相当なもんですよね。
赤ちゃんはそういうことは絶対言いませんね。
つまりこれをエリクソンは基本的信頼って呼ぶんですけど
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とにかくこの時にあなたという意味を付けろです。
ついでにあなたは何々だという意味まで付けちゃうんですね。
これが、これがですよ。
ずれているという罪悪を親に子供は見出すようになるじゃないですか。
なりますよね。
私は思いますが、子供を育てていて思いますけどね。
あなたは大学に行って幸せになるよ。知ったことじゃないって言うじゃないですか。
意味付けが間違っている。お前には罪があるって平気で言うじゃないですか。
で、間違っているのが正しいのかなということが分かるはずがないですよね。
大学に行けば幸せになれるのか、行かなきゃ幸せになれるのかなって分かっているはずがないですよね。
でも分かっていることにしますよね。
赤信号は止まれとよく似てますよね、この構図は。
で、自己肯定感が低い時というのは、これに対して戦いを挑み始めるわけですよね。
強烈に戦いを挑み始めるわけです。
いや、私はそんなこと知ったことじゃないし、っていうわけですよ。
この時この人はすごく私があるようで、そうではないんですよ。
最初に申し上げた通り、というか途中何度も言った通り、ある程度以上私という意味は他人がつけるものです。
他人のつける自分という意味を全部排除してしまうと、私というのはなくなっていくんですよ。
そういうケースってよくあるじゃないですか。
怒っている時だけやたらと自己主張をするんだけど、いざ一人になってみると自分というものが見えなくなっていく。
この番組でもおなじみのオグデンさんと言われても困るっていうことはあると思うんですが、
オグデンさんの事例で、あれも有名な心理学者なので精神分析家なんですけど、
実質にこもっている時はとても落ち着く。
ただし、その時には年上の奥さんが家にいてくれなきゃいけない。
だけれどもその仕事をしている最中に奥さんがどこかに出かけると奥さんが帰ってこないかなと気もそぞろになってしまって、
一人では仕事に集中できない。
だけれども奥さんがその所在に入ってきて仕事の様子を見たりするのはすごく落ち着かないからやめてほしい。
これがまさに自分がないという状態なわけですよ。
この人は自分があると思うんですけどね。
特に奥さんがおそらく所在に入ってきた時なんかは、
ここは私が仕事をする領域なんだから人がボンボン立ち入ってきては困るので私のスペースなんだって言うでしょうけど、
なのに奥さんがいなくなったという、しかも買い物に出かけたという程度でそこに一人でいられない。
全然私のスペースというものが奥さん抜きでは成り立っていないわけですよ。
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これは情緒的な問題でしょうって言われるかもしれませんが、
これなしには人はやっていけないと言ったのが野井さんなんですね。
この人甘えてますよね奥さんに、完全に。
人はうまく甘えられないと自分がなくなるというのはそういう話なんですよ。
なぜならば自分というのは他人が規定しているからなんですよ。
僕らここをしばしば誤解して自分というのは自分で定義するものだと思おうと頑張るんだけど、
そうすると輪郭がよくわからなくなってくるんですね。
だって自分って自分の肉体だけ意味するはずがないじゃないですか。
明らかに今のエンジニアの話も自分というのが肉体で定義できるんだったらば、
奥さんが言おうと言わないとその書斎で仕事をするのに何の不都合もないですよね。
それどころか奥さんが書斎に入ってきたって物理的には何も問題ないですよね。
これ心理的な話じゃないですか。ほとんど情緒的な話ですよね。
情緒的な話だということは、つまり情緒的に甘えているという話ですよ。
自分というものの輪郭がどういうものであれ、そこには情緒を非常に大いに含み込んでいると。
そういうことですよね。
だから自分に対する意味づけというものを我々は引き受けて生きてきたわけです。
その話なんですよ。一番最初からそうですから。
あなたはお腹が空いている。こういうところから始まったあれですから。
あなたというものはお腹が空いているだけなわけじゃないんですよ。
うずっているときに。ニード、つまり不快感を感じたときにはいろんな不快感があるんですよ。
生まれてきたことが不快なのかもしれないじゃないですか。
でもそんなことはここでは問題にしてくれないわけですよ。
あなたは生まれてきたことが問題なのかと。
これ譲る悩みという本が何しも武雄さんがあったんですけどね。
私あれも読んだのも早すぎるんですよ。中学のときの課題図書でさっぱりわかってなかったんですけど。
こういうような話ですよね。
あなたというものを勝手に定義するなという不快感、これもニードなんだけど、それは全く最もなことです。
あなたは四代に行くべきだとか、あなたは女の子なんだから大学に行かず三代に行って結婚しなさいとか。
私の世代では平気ですよと言ってましたからね。私が中学科や高校のときには。
そういう意味づけを拒否したいというのはとても当然なんだけれども、意味づけというものはどうせ間違ってるんですよ。
ここが非常に重要ですよね。
自分の意味づけだったら正しいとかいうことは子育てしてるとわかるんですけど、絶対ないんですよ。
ないんだけれども、絶対相手の意味づけが間違ってると思ったときに、意味づけというものは正しくないならするべきじゃないんだという主張になっちゃうんですね。
そうすると自分というものはなくなっていくわけです。
36:01
だって自分というのは間違った意味づけなんですから。最初から。
完璧に正しい意味づけじゃないんですから。
これはつまりグッドイナフだってことですよ。
グッドイナフっていうのはミニコットが母親というものすべからくグッドイナフで十分だっていうか、それしかいないんですって話なんですけどね。
パーフェクトな母親というのはいません。
理由は今言った通りでパーフェクトな意味づけというものはできないからですね。
パーフェクトな意味づけができないのにパーフェクトな母親っているはずがないじゃないですか。
赤ちゃんの願望を100%間違えることが一回もなく叶えなければパーフェクトにならない。
それを目指す人って時々いらっしゃって必ず子供がボーダーぐらいにはなるような気がするんですよね。
つまり相互に甘えるというのはそういう意味なんですよ。
お母さんは間違う。
そして自分はそれを許容する。
この前の自分というのはつまりかなり曖昧な意味づけによってセットされているっていうことです。
それが思春期になると起こり始めるわけですよ。
お前はパーフェクトじゃないと。
パーフェクトじゃないわけですよ。
赤信号は止まれじゃないから。
止まれ以外のいかなる意味もないってことは絶対無理だから。
現実というものはそういうものじゃないですからね。
意味づけによって100%定義できるものではないので。
だから間違うわけですよね。
で、間違うというのはしかしグッとイナフなわけですよね。
意味づけというのは間違うと。
間違っちゃ困るじゃないかと言った時の自己肯定感が下がっているというところまで来たところで
基本的におしまいなんですけれども
どうしてこれでなお食い下がりたくなるのか。
どうして自分も間違うからですね。
倉賀夫さんが言うところの見逃すとか見過ごすとか許すなんですが
全部そういう意味です。
意味づけはパーフェクトじゃないよねと。
それで十分だよねと。
そうすれば相手を甘えさせることができるわけですよ。
相手が提供してきたニーズを受け入れるということによって
相手を甘えさせるということができるわけですよ。
相手が提供してくるニーズというのは間違った意味づけを必ず含むと。
そういうような意味ですね。
昔、私が大学時代だったと思うんですよね。
こういう話を盛んにふっかけられたことがあったんですね。
つまりどういうことかというと
意味づけは絶対正しくなきゃいけない系の方だったんですね。
自己肯定感がひくいっちゃひくいわけですね。
何だったかちょっと覚えてないんだけど
とにかくそういうことって頻繁にあるじゃないですか。
意味づけが間違うなどということは
大学の単位の話だったと思うんですけどね。
39:02
何かの課題で
うち英語学科だったから
課題っていうのか
単期留学ができてたんですね。
単期留学から帰ってきてみたら
何かの講座の単位が取れなかったんですよ。
それ大体がきくんですけど。
でもその後講座で取りたいとその人は主張して
生きていけないって言うんですよ。
こういうことが起こっては。
この辺が意味づけというものに対して
パーフェクトな要求を取ろうとすると
こういうことが起こる。
彼が言っていたことは別に間違っちゃいないんですよ。
単期留学の制度を設けておきながら
帰ってきたら講座が締め切られてますが
おかしいっちゃおかしいんですよね。
だけれどもそういうことってあるじゃないですか。
そこがグッとイナフなんですよ。
で、生きていけないって言うんですよ。
こういうことがあっては。
この種の言い分って非常に面白くて
つまりそういう風にしてですね。
単位を落として留年すると。
うちは金を出してくれないと。
多分そんなことはないと思うんですけどね。
意味づけなんですよ。
うちは金を出してくれない家なんだと。
そうすると私は卒業できなくなると。
私のような人間はこういう言い方をするんですけどね。
大卒でなければ生きていけないんだと。
ここでこの講座の単位が取れないと死んじゃうと。
私はそれを聞いた時にですね。
今までもこういうことってなかったのって言ったら
もう山のようにあったと。
言うから。
だって君まだ生きてるじゃんと。
言ったことがあるんですよ。
その時の僕は
あの、冗談言ったつもりなんですよ。
もしかすると怒られるかなと思ったんだけど
いい加減うんざりしてたんで
つい言っちゃったんですよね。
そしたら非常に不思議な反応だったんですけど
私からすると
はっ!とかって言うんですよ。
えー!と思ったんですよね。
それは驚くようなことかと思ったんだけど
驚いたんですよ。
どういう戦いだったのか
どういう印象があったのか知りませんが
以降彼は私にはその種の話をしなくなりました。
今思うと
ちょっとカウンセリングっぽいシチュエーションだなとは思うんですけどね、自分でも。
ただ、思い出したんですよ、先日このこと。
非常に不思議な反応だなとは思ったんですよ。
私は冗談言ったつもりしかなかったし
もしかすると殴られはしないだろうけど
ちょっと怒らせちゃうかなと。
怒ってもおかしくないじゃないですか、今のやりとり。
マズったなとも思ったんですよ、正直。
僕はこの種のマズリをよくやる人間ですけど
つまり、生きていけないというのは意味づけなんですよね。
生きているというのは事実なんだ。
これが事実なんだと思うんですよ。
意味づけがずれていたら
生きていけないと思い込むほどに
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自己肯定感が低いというのは
多分、親御の両親との関係に何か難しいことがあったと思うんです。
最初に言った通り、最初に原始の自分という意味をつけるのは親なので
あなたお腹が空いているのに
弁当の親とかってよくないじゃないですか。
寝たいのに、抱っこして欲しいのに、全部魅力をあげるみたいな
そういう意味づけ。
グッド・イナフなんですよ、これでもね。
でも、まあ問題がないとはいえ。
こういうグッド・イナフというのはどういうことかというと
生きてるじゃんってことなんですよ。
死んでないじゃんと。
ミニコットは確か言ってたかな。
オコノイジエゴさんは確かに確実に言ってると思うんですけど
人一人育てるのは大変なほどだと。
どういう育て方をしたのであれ
もちろんこれは虐待の問題ってあるんだけど
どういう育て方をしたのであれ
まだ死んでないということはグッド・イナフなんだ。
納得いかないとは思うんですよ、人によっては、この言い分は。
でも、意味づけなんてそんなもんだっていう意味なんですよね。
自分だって間違うわけですよ。
間違っていましたよね、さっきの私の驚いた人は。
このようなことが頻繁にあったら死ぬと言ってんのに
そのようなことが今まで頻繁にあったと言ってんのに
生きてるわけだから間違ってるわけですよ。
自分だって間違うのに
人の間違いは絶対に許せないっていうのは
ちょっと妙じゃないですか。
だから許すって話に
多分なるんだとしか思えないわけですよね。
だから許すしかないんですよ。
で、それを甘えさせると言ったのがトイさんだし
自分が亡くなるって言ったのもトイさんなんですけど
もう考えられなくなるみたいな話をしたのは
ウィニコットなんですけどね。
先日エフタさんという方が
乗っ取られるって言い方をしました。
乗っ取られるってのはそういうことです。
意味づけはパーフェクトでなければダメだ
っていう考えに乗っ取られるんですよ。
そうすると私ってものが消えていくんですね。
後でハットを持った時に
グッドバイブス実践中だったのにとか
そういうことを思った時に
思い出すんですね。また再び。
そういう心理的な動きがあるとは思うんです。
一瞬我を忘れるって言うじゃないですか。
我を忘れたり
どう失うという言い方もしますけど
そうして人と喧嘩したり
言わなくていいことを言っちゃったりして
その後で気づくという話ですよね。
気づくのは自分が帰ってくるからなんですね。
その時におそらくは一番最初に
母親に規定されていた私というものが
蘇ってくる。非常によくできてますよね。
つまり我を失う時は
ニードだけになっちゃうんですよ、私は。
不愉快だ。
勝手な意味づけをされて不愉快だ
っていうニードだけになる。
ニーズが提供されると自分が戻ってくるわけですよ。
あなたは怒っているのねっていうことなんですよ。