2022-06-23 28:35

【622GMV】改「善」の善が善だと決めるのは誰なのか?

レビューでつまずくのは当然
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日も言ったような気がするんですけれども、
7月24日からだったと思うんですけどね、
タスクシュートの100日チャレンジというのを、
J松崎さんという方と、イベントをやることにしました。
もうすでにお申込みを始めているから、
お申込みいただいているんですけど、
その参加動機みたいなものを配読していて、
やっぱり同じ話になっているなと思うというか、
同じ話になっているんですよね。
そこで語られることは、もちろん一人一人違うんですが、
トータルでいうと、圧倒的にレビューを活用できないといった話なんですよ。
これは大橋さんであれ、Jさんであれ、おっしゃっているから、
そうなんですが、レビューを活用するために、
そもそもタスクシュートって作られているものじゃないんじゃないか、
というのが一つあるんですよ。
もう一つは、レビューを活用するというのがどうして難しいのかというのを、
何か誤解されているようなとも思うんですね。
今日はこっちの話をしたいと思っているんですけど、
私の話だと、そもそもレビューをしなければいいじゃないかという面もなくはないんだけれども、
この話は、なかなか受け入れがたいというところもあると思いますね。
特にタスクシュート文明だと。
タスクシュート文明に沿った話をしたいわけです。
で、なんでレビューが難しいのかといった話なんですが、
そもそもですね、あんまりこの辺の話も優しい話に終始されがちなんですよ。
ビジネス書の世界とか仕事術の世界で難しい話っていうのは、
やっぱり受けが良くはないわけです。
理由は簡単で、所詮仕事術だとみんな思っているところがあるから、
あんまり深入りされたくはないってところがあると思うんですよ。
これはもう私の肌感覚ですね。肌感覚はイリュージョンみたいなもんなんで、
当てにならんのですけど、
でもビジネス書ってはっきり言って難しいことは書いてないよなというのが、
本当のところだと思うんですよ。
これは難しいことをせずにできることならやろうねっていうノリですよね。
しょうがないとは思うんです。
少なくともビジネス書がフロイトンが書いているもののような難易度だったら、
まあ売れないよねっていうのは確かにあるとは思います。
そこでレビューっていうのは簡単なのかというと、
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レビューってあんまり簡単じゃないんですよ。
簡単にいく人にはそんなに無理ないんですけれども、
レビューというのは実はそんなに簡単じゃないと思うんですね。
レビューでつまずくということでありますと、
ちょっと難しい部分はないんだけど、
若干やっぱり真剣に考えなければならないポイントがいくつかあるんですよ。
私はそういう意味ではグッドバイブスはそう簡単じゃないってよく思ってるんですけど、
クラゾノさんには反対されるかもしれませんけどね。
私から見ればグッドバイブスはクラゾノさん文章上手で、
これの難しくないというふうに、
これは当然そう書くんですけどね。
さっきも言ったけど仕事術の関係の中の話としては
難しいっていうふうに受け止められていいことはないので、
難しくないという感じになるし、
難しくないところは難しくないんですが、
でもやっぱり理屈が仮に難しくなかったとしても、
世の一般的に主政であるような、世の体制ってやつですよね。
世の体制が例えば時間を大事にしなければいけないであるのに対して、
時間はなくなりませんとかいう話は、
仮に難しくなかったとしても難しいんですよ。
やっぱり受け入れるのはね。
レビューも僕は同じだと思うんですよね。
二度と同じことが起きないというのは、
実は難しいとは思わないんですよ。
空見てれば二度と同じ雲の動きは起きないんですけれども、
つまり前の人と同じような日というのが仮に、
その人の認識、その人の認識というのは、
つまりその人の認識なんだけど、
中では似てるのかもしれませんけど、
似ちゃいないはずなんですよね。
似てないところを徹底的に探していけばめちゃくちゃ違うはずなんですよ。
っていう話は難しくないと思うんだけど、
でもPDCAというものが体制を占める世の中では、
難しいんですよね、結局これを受け入れるというのは。
ここら辺がレビューがつまずく最大の要因なんですよ。
つまりレビューというのは絶対に有益なはずだという、
ここがやっぱり難しいんでしょうね。
逆説的に聞こえると思うんですが、
レビューというのは絶対役立つはずだと思ってやっていると、
レビューというのはまずうまくいかないと思うんですよ。
理由はですね、今言った通りで、
全く同じことは起きないのに、
基本的に同じことが起きるっていう前提でやっているPDCAは、
土台無理があるわけです。
その土台無理がある世界なのにもかかわらず、
それは絶対うまくいくはずだと思ってやっている限り、
よっぽど即座にやだらうまくいくってことが
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連発しない限り続かないわけですよ。
PDCAをやること自体の意義というのは、
頭から全く疑いがないと思っている人には難しくないんですあれば。
決してましてタスクシュートの記録が残っているならば、
粒差に見ていって改善すればいいんですよ。
問題はそうじゃなくて、
これで改善できるということについての疑いが
多少でも入っていたらもう難しくなるんですよ。
私はそのような期待を全く抱いていないからやってられるんですよ。
ここが逆説的に聞こえるはずなんですよね。
つまり、PDCAというものはうまくいきっこないんですよ。
うまくいくことがあるにしても、
それは本当に微々たるメリットしか得られないと思うんですね。
というぐらいの期待感でいかないと、
うまくいかないときに挫折するのが当然なんです。
これはですね、猛勉強したけど、
志望校のランクの下の下の下の学校に入るのが精一杯でしたと言われて、
嬉しいはずがないじゃないですか。
やらないですよ、それであったら猛勉強なんて。
だからもう勉強しちゃいけないわけですよ。
かなり軽い感じでやっていくか、
大して期待もしないけどやたらと入れ込むか、
これはだから趣味に近い感覚が必要で、
だから私がロッテの野球を見ているようなもんですよ。
2時間から3時間野球を見ていても、
終わってみると別に何が自分に残るとかいうことは期待されていないから、
見てられるわけですよ。
そういうのを期待するんだったら見ないでしょう。
だから大概の人は見ないじゃないですか。
これと同じことがレビューに実は起きているということをですね、
意識しないといけないかなと思うんですよね。
うまくいかないというのであれば、
うまくいく人はいいんですよ。
私が野球を見ていて、
毎日見ていて、
20年見ていて、
それでいいんですよ。
続くわけですよ。
なぜ続くかというと、
もともとそんなものを期待しちゃいないからなんですね。
期待するものが間違ってるってことですよ。
続く人は私が野球を見ているのと同じような理由で多分続いているわけです。
そこから得ている利益が何なのかは、
世の中でイメージされているようなものと一致しないんだけれども、
でも利益は得ている、感覚は持っている。
だから続けることができるわけですよ。
例えばエクストバイブスって、
クラゾンさんとか、
クラゾンさんに限りませんよね。
同じことを言うのは、
家が寺なんですから、
仏教でも全く同じことを言うんですよ。
同じことは二度と起きないと。
同じことが二度と起きないという確信を持っていても、
平気でやっていられるからレビューができるわけです。
つまり、
無駄一歩手前の行動であっても、
あんな差し支えがないと思っていれば問題ないんですよ。
え、そうなの?
同じことは起きないの?
無駄じゃんと思って辛くなるんだと、
レビューっていうのに、
同じことが起きる前提でレビューを期待していたら、
09:01
多分うまくいかないですよ。
これを改善したからといって、
事態が改善されないじゃないかということになったら、
無理があります。
で、
これもウッドバイブスでも言うことなんですけどね、
PDCAっていうのは工業規格から始まった言葉ですよね。
今仮に工業規格と関係がないとしてもですよ、
あれは人工物に対してやるものですよ。
間違いなく。
つまり人工物というものを改善するということは、
品質管理の話をしているわけじゃないですか。
そこは徹底的に人工的に規格化された世界において成立する話ですよね。
今将棋の渡辺くんという、
大変気楽に面白い漫画家、
渡辺龍夫ってすごい人なんですけどね、
今藤井壮太さんがあまりにもすごいために、
ちょっと影が薄くなってしまっているんですけど、
彼は天才なんですが、
彼はですね、ある意味すごいグッドバイブスなんですよ。
あんまり難しいことを考えたり、
教養がどうこうというタイプじゃなくて、
とにかく将棋で勝つというタイプなんですよ。
徹底的にPDCAっぽいんですよね。
本当にどういうことをやっているのかは漫画なので、
そこまで詳細には分からないんですけど、
とにかく研究して改善する、
研究して改善する、
もうその名人芸的なところが全然ないんですよ。
でも衛星で何か撮っているから、
相当天才的な人だとは思うんですけど、
彼は天才という言葉は嫌いというタイプなんですよ。
全部努力というわけですよ。
ひらめきみたいな話もあんまり信じなくて、
気風を見れば分かるというタイプなんですよね。
この世界でPDCAがうまくいくのは、
かなり当然なんですね。
それでも名人芸的なことを言う人がいるから、
みんながみんなこの方法を取っているわけではないと思うんですが、
この方法で確実にうまくいっている人がいる世界ではあるわけです。
でも将棋というのは全く同じことが起きる世界でしょう。
自然界とはそこが全然違うでしょう。
この気風と全く同じ気風が発生するということが起こる世界なんですよ。
いくら挿し手が無限のように見えて、
人間の知観からすると無限ですけれども、
挿し手は絶対無限ではないわけですよ。
挿し手は有限なんですよ。
それが天文学的な数字だとしても、
無限でないことは確かなんですね。
しかも人間は常識というものを作ったり、
パターンを作っているので、
絶対あり得ない表現はないんです。
あり得ない表現は取れないわけじゃないですか。
例えば二夫は許されないとかがあるわけですよね。
あり得る表現とあり得ない表現がある。
でも自然界ってそうじゃないじゃないですか。
自然界というのはあり得ない表現という言い方はできないと思うんですよね。
どんなことでも起き得るという世界だと思うんですよ。
後で勝手に人為的に作ったルールに当てはめることはできませんからね。
80ミリ以上の雨は降っちゃダメとか、
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そういうことはできないわけですよ。
ルールが無いわけですね。極端に言うと。
特性みたいなものがあるにしてもですね、
ルールというものが多分先行してこの世の中にあるはずがないんですよね。
この辺議論の余地もあるかもしれないんだけど、
私は先行して世の中の宇宙の法則に先行したルールがあるというのは、
絶対信じがたいなと思います。
この辺の話は、
ビッグバンの直後の5分の間に起きたことみたいなものを読むと、
痛感するんですよね。
こういうところから来て、今の状態とは全然違う、
全然違う法則が成り立つみたいな世界の中では私たちは生きているわけだから、
少なくとも将棋のようにはならないと思うんですね。
で、将棋は人工物だからいいんですよ。
つまり人工物にはPDCAが適用できるわけですよね。
自動車工場とか、パソコンの品質とか、全部そうです。
PDCAが成立する世界というのは、つまり人間が作った世界なわけです。
そういうことが二度起きる世界なんですよ。
で、人間は人工物じゃないんですよ。
これは倉園さんもほぼ同じことを言っていたと思うんですよね。
おっしゃっていたのは覚えていて。
カワイハヨが全く同じ文章を書いているんですよ。
人間は人工物ではない。
なのに不思議なんだけど、人間は人工的な世界の中の方が快適だと感じる、
非常に不思議な生物だと。
気がついたら非人工的なものを排除して、人工的な世界で生きていって、
それがあまりにもうまくいくものだから、
人間自体が人工的なものだと誤解しつつあるというのが
神経症の原因だというふうに書いているんですね。
もっとだから、ワイルドなものを取り入れないと病気は治らないよって言ってるわけですね。
で、ワイルドなもの、このセリフ私好きなんだけど、
サバンナを走るライオンもワイルドだけど、
野に咲くスミレもワイルドだと。
そういうことなんですよね。
ワイルドだということが生活と全く相入れないとか、
ワイルドなものを取り入れると人間社会は全部破壊されるといったことにはならないんですよ。
だから何とかして、難しいかもしれないけど、
だんだん人工化されている世界の中では難しいかもしれないけど、
ワイルドに、要するに人工的にだけ生きていくというのは無理だから、
やめましょうねという話をしているわけですね。
ある意味カムセリングの世界でも、グッドバイブスでも。
でもPDCAというのは全然ワイルドじゃないんですよ。
ワイルドなものはPDCAには向かないんですね。
だから私たちのこの生活なり、ライフスタイルなり、
これはつまり人工物ではないということですよ。
僕が人工物じゃないんだから、僕の行動も人工的には足りないんですよ。
これをPDCAで改善しようというのが、そもそも無理があるわけですね。
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かなり。ある程度はうまくいきますよ。
ガーデニングみたいな、つまり自然物を強引に、
自然物から自然部分の都合の悪い部分を排除して、
ここに既に怪しいことが行われているんですけどね。
例えば虫が来ないとか、あるいは様々ありますよ。
身だけは甘くなるとか、あるじゃないですか。
そういうことを徹底的にやれば、ある程度工業製品のように規格化できるし、
それも相当うまくいっているんだけど、
これを農作物にやるときだって、色々問題があるように言われることもあるのに、
まじで人間にそのまんま適用するのはまずいですよね、きっと。
そういうことに対して言ってみれば、自然な反応なんですよね。
レビューがうまくいかないというのは。
自然な反応の一つとして、きっとレビューというものを自分は受け付けたくないと。
仮にレビューを受け付けるにしても、PDCAは嫌だと。
心のどこかでというか、全体としてどこかで思っているわけですよ。
どこかじゃなくて、多分かなりの部分がそれに対して反抗的だと思うんですよね。
そこを無理やりやるかどうかってことを自分で考えないといけないと思うんです。
ここが難しいところなんですよ、最初に言った。
難しい話じゃないと思うんだけど、多分ここが一番難しいところなんですよ。
農作物にPDCAを適用すればある程度は、あるいは相当程度うまくいくのかもしれないんです。
そうすることで食料問題とか解決するんだから、悪いことだとは言えないわけですよ。
これ多分昔のように放置していたら、今のような人口は支えきれっこないような感じがしますから。
だから自然のままに育てるという意味はいかないし、実際に人間社会はそうはなってないですよね。
かなり教育にPDCAは投入されてきているのは現実ですし、体制というのはそういうものなので、
安易に体制には逆らえないんだけど、でもかなりの部分、これは受け入れがたいなと思っているところがあるわけですよ。
といったところに善悪が絡んできちゃうじゃないですか。価値観が入ってますよね、ここには。
それでもPDCAで人を強制的に改善するのは良いことなんだっていう考え方は当然あるでしょう。
あるから文化省とかでもやるわけでしょう。
つまり公的に認められてそれは善だって言われることになりつつあるところがあるわけですよね。
一方でいやいや無理でしょっていうか、それが良いことのはずないじゃないかっていう感覚ってあるわけですよ。
人口物じゃないんだから、人間は。
私なんかはその辺かなりなもので、PDCAなんか全然やりたくないわけですよ。
そんなことをされてたまるものかというようなタイプなんですよ、どっちかというと。
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そうは思われてないかもしれませんけどね。
まあ絶対それを自分に適用するのはごめんだなと。
非常に限定された部分にだけ、しかも自分の関わりの薄い部分にだけ、しかも一時的にやるっていうのなら、
まあまあ受け入れられるけれども、おおむね自分の全域にそれを投入するなんてとんでもないというタイプなんですよ。
価値観が違うんですね。
ましてグッドファイブス以来、PDCAは適用したくないっていうのでになっちゃってますから。
適用しなくてもタスクシュートはやってられるはずだって思ってますから。
記録を取ったからレビューしなきゃいけないってことはないんですよ。
レビューをするために記録を取っているという、これは最初の方の話に戻っちゃうんですけど、
レビューをするために記録を取っているわけでも少なくとも私はないんですね。
だからタスクシュートする以上レビューしなきゃならんということにはならないんですよ、私の中では。
でもそれでもなおやりたいというお話であればですね、まず今のことを踏まえていただきたいんですよね。
踏まえたほうがいいと私は思うんですね。
人工的なところに投入する。将棋の渡辺くんの将棋みたいに。
つまり将棋だけにそれを当てるのであればかなり妥当になるはずなんですよね。
なぜなら枠組みがはっきりしているから。
枠組みがはっきりしないところにこれをやらないほうがいいというか、
それを枠組みもはっきりしないところにやってあげる。
絶対うまくいくはずだと思ってやるから、たぶんつまずくんだと私は思うんですよね。
たぶん人工的なところだけに限定してこれをやればそこそこうまくいくと思います。
やっていいところとそうでないところと、やって有効なところと、
ほぼ無効化あるいは強い抵抗が自分の中から自然と生まれるところとに分かれるはずだと。
例えば私はよく言われる睡眠の改善ってやめたほうがいいと思うんですよ。絶対に。
あれはですね、いい結果を生みこないと思うんですよね。
睡眠というのはものすごく意識水準が下がっているときなので、
最も人工的でなくなる瞬間だと私は思うんですよ、人間が。
だから私は現代人にとって睡眠というのはすこぶる大事で、
どの本でも睡眠時間を減らすのやめましょうに近いことは書いているはずなんですよね。
よっぽど妥協に妥協を重ねても、7時間ぐらいは死守しようぐらいな感じなんですよ。
もうちょっとですね、世の中で言われてもいいことだと思うんですよね。
今のような体制を維持したいならばですよ。
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ものすごく自意識というものが強くなってきている個人主義という個別に生きていくというか、
自立というものがこんなに言われている世の中では、
睡眠というのはもう正益に近いところだと思うんですよね。
あれほど無意識にさまれることができる時間帯というのは、
起きている間は今の人には非常に少ないんじゃないかと思うんですよ。
だから寝る時間を削ってしまったらここで、
自意識ばっかりになっちゃうんじゃないですか。
これがいいことだという人は、多分カウンセラー系では僕はいないんじゃないかなと思っています。
わからないですけどね。世の中広いし、さまざまな発想がありますから。
心理学全域ではわかりません。
でも多分、カウンセリングとか心相とか臨床の世界では、
睡眠時間の重要性というのは相当意識されているんじゃないかと、
特に私は2000年以後は、睡眠時間というのは正益に近いと思うんですよ。
もうこれほどまでに脳と目と、
つまり自分の対象として世界を見る見方が先鋭化しているのに、
無意識に戻る時間が減ってしまったら大変なことになるだろうなという感じがするんですよ。
どうしたって無意識の側ってあるわけですから。
例えば身体の、そう難しいことは言わなくてもですね、
例えば背中とかがあるわけじゃないですか。
あるわけじゃないですか。
ほとんどパソコンと日頃向き合ってますという人にとって、
背中じゃなくてアキレス腱とかでもいいですよ。
あるわけですよ、アキレス腱とかも。
全然使ってないかもしれないけど。
あるいは足の指先とかね。
あるわけじゃないですか。
無意識とか私は目に見えて存在してますよね。
形を持って存在してるじゃないですか。
そういうものの存在がほとんど無視されているような生活状況の中でも、
そういうものはあるわけだから、
影響を与えてくるわけですよ、ダイレクトに。
身体の一部のあれですから。
そういうものがあるにもかかわらず、ないかのように扱っていて、
手と目と頭さえあれば生きていけるかのように扱っているということは、
そっちへの配慮というのはあまりないわけだから、
睡眠等の時間に任せたほうがいいと思うんですよね。
そういうところにも運動をするとか、体操をするという話にどんどんなっていくじゃないですか。
徹底的に目に見える世界として扱っていくわけですよね、私たちは。
そうしようとする。
全域をそうしようとしていく。
24:00
そうしても目に見えない世界がなくなるわけじゃないですからね。
目に見えない世界はどこまでもあるわけですからね。
関係ない世界という、直接関係しているようには見えない世界というものがあって、
そこの部分からの要求を叶える時間がなくなっちゃうと思うんですね。
睡眠時間といったものがないと。
たぶんそういうものを叶える時間がないものだから、
私たちは食事とか、それこそフィットデスジムとか、
身体系の時間というものをあえて無理やり相当時間を取らなければならなくなってきたんだと思うんですよ。
昔と違って。
そういう意味で、PDCAって無理があるんですよ。
今言ったような事情があるので。
何をもってベターであるということが自明じゃないですからね。
この時間、例えば睡眠時間などというものが無駄に見えます。
そういう活動生産的な価値観を取ればですね。
あるいは目に見えるということが大事だと。
何が睡眠によってあがなわれているのかは、目には見えないので。
体感としては多少わかるにしても、目には見えませんから。
私が思うには、物を見ないというのが非常に大事だと思うんですけれども。
そうは言っても、あれなんですよ。
目をつぶって瞑想する時間を15分増やすとかでは全然ダメだと思うんですよね。
それは物を見ていないことにはならない感じがします。
目をつぶればいいって話ではないのでね、これは。
物を見ないということですよ。
そういう意識水準では生きていないので、我々はもう。
意識水準をグーッと下げるという時間は、強制的に睡眠でしか取れない感じがするんですね。
でも睡眠はあるわけじゃないですか。相当長い時間。
だからこれをレビューしてしまうと、結局睡眠の価値とかいうものをはっきりさせなければならなくなりますよね。
そうしないと削るって話になってしまう。
削ろうとして削れないのはどうしてかというと、今言ったような事情なんですよ。
目に見えない世界があるから。というか、目に見えない自分がいるから。
そして目に見えない自分が要求しているものというのがあるから。
そういうものはレビューに現れっこないですからね。
PDCAって話をし始めると、どっちの方が価値があるかということを決めなければならなくなるわけです。
それは無理な話ですよね、どっちにしたって。
寝ている時間と起きている時間、どっちが価値が高いのかっていうのは、
起きている時間ですというのが、自明な人にとってPDCAは簡単なんですよ。
そういう人にとって、私の今のような戯言は一切必要ないわけです。
でも、どうしても頑張っても寝る時間が削れないんですっていう人は、
つまり自明じゃないって言ってるようなものなんですよ。
27:00
どっちの方が価値があるのかは、その人にとって自明じゃないわけですよね。
自明じゃないのに良い方に改善するってできないじゃないですか。
良い方が自明じゃないわけだから。
この話は簡単なんですよ。
簡単なのに、何か哲学的で小難しいように聞こえるとする場って、
よっぽど社会が決めた価値、例えば寝ているより起きている方が価値が高いという方を
よっぽど信じようと頑張っていて、信じられない自分がいるという分裂の中にあって、
分裂を統合しなきゃいけないという意識が強すぎるんだと思うんですよね。
朝起きる時にはもっと寝てたいと思うし、夜寝る時にはまだ起きていたいと思うじゃないですか。
これがダメだっていう風に考えてみたところで、そう思うじゃないですか。
つまり分裂しているわけじゃないですか。
分裂しているということはどっちが正しいかは決めきれないと言っているようなもんですよね。
なのにそれがダメだという話を一生懸命自分で信じようとしていれば、
今みたいな話は煙に撒かれたように聞こえて当然なんですね。
でも私は寝ている方がベターだとか、起きている方がベターだとは絶対に決められないと思うんですよ。
決められると思う人がいるとすると、よっぽど北朝鮮みたいだなって思うんですよね私は。
そうじゃないですかね。
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