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2022-01-31 32:12

【GMV 546】母子一体だから母が大好きというのは少し違う

愛情いっぱいということももちろんあるとしても
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
受験シーズンなんですね、中学受験は。これ関東の話ですけどね、関西は多分すでにピークは過ぎてるんじゃないかと思うんですが。
うちもそうなわけですよ。
僕は実は別に緊張する理由はないと思ってしまうんで、僕が受けるわけじゃないですからね。
自分は受けましたしね、昔、昔々ですけど。
特に実は受験についてこれといった考え方はないし、受けて受かればいいよねと思っているだけなんですが、
2年半の娘が基本的には塾に行くという体制で見てきて、
つくづく思ったのはやっぱり餅は餅屋だなということですね。
専門家ってこういうシーンでは非常に大事だと思います。
私自身はもう40何年前ですかね、40年前よりは後か、だから37年前ぐらいなんですが、
いわゆる段階ジュニアの受験で、当時は最難関とかって言われていたんですよ。
当時も自分も塾に通ってはいたんだけど、今に比較してみればですけどね、全然デタラメだったなと思うんですね。
めちゃくちゃではないかもしれないけど、かなりめちゃくちゃだったんですよ。
今の問題と比較してみて難易度自体は下がっているとむしろ下がってはいないかな、
でもほんとギリギリの線っていうやつで必ずしも上がってはいないんですよね。
特に最難関向の問題の難易度っていうのはそんな変わってないかなという感じがしますが、
今はめちゃくちゃ手厚いんで、すごくよくできているというか、子供が解けるようになるにはどうするべきかというのは、
少なくとも私の時代に比べればはるかに真剣に考えられているからいいわけです。
いいんだけれども、そういう体制で臨んでいるのはうちの子だけじゃ当然ないので、
塾で全体的にやっているわけですから、当然これは追いついているんだけれども、
もちろんみんなが手厚いわけだから、レベルそのものは高くなっている感じがします。
つまり出している問題の難易度はそうは違わないように見えるんですけれども、
結局取り組む姿勢はかなり向上してしまっているので、
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頭の良かった子の頭の良さというものを比較した場合は、そこまで大きな差はないと思うんですよ。
一番レベルが高いという意味ですよ。うちの子とか私とかではなくてね。
一番レベルが高い子のレベルの差は大きくはないんじゃないかと思うんだけれども、
今の方がぐっと高いとも思わないんですけれども、
ただこの手厚さがやっぱりこう、中間層というのかな。
偏差値でいうと、この偏差値というのも塾によって難易度が違うんで分かりにくいんですよね。
60ジャスト前後のところは非常に分厚いなと思います。
昔の60の子というのは賢い子にひたすらスパルタみたいな、そういう世界に近かったけど、
今は全く違うんで、よくできているし、大人がやっぱり子供のことをよく理解しているなと思いますね。
昔は頭の良い子というものは、おまかせモードだったんですよ。丸投げだったんですね。
頭が良いから丸投げでも結構いける感じなんですけれども、
結局子供は子供なんですよね。
よく分かっていないこともいっぱいあるんだけど、そこも丸投げされてしまっているんで、
結局そこは頑張るモードになってしまうんですね。
それが今の子の方が明らかに手厚いと。手厚ければ手厚いなりにいろいろ出てくるんでしょうけれども、
とにかく手厚いことだけは確実なんで、
60の子を比較すれば今の子の方ができるだろうなって感じがやっぱりします。
昨日そういう話題がちょっと出たんですよ。この話続いちゃってますけど。
学校の勉強との兼ね合いみたいな話もあるんだけど、
それは非常に難しいなっていう感じがやっぱり僕は、
これはもう難しいとしか言いようがないなという感じがします。
すごく勉強で考えるとなぜか見えにくくなるんですけど、
今は学校は大半勉強してますからね。
サッカー見に行ったことがあるんですよ。
事業参観で。昔はああいうことを見なかったような気がするんですけどね。
やっぱり上手い子ってすごいわけですよ。
今はやっぱりどこの世界も手厚いわけですよね。
上手い子見てると、いやこの子はどうなるのか将来知らないけどプロになるんだろうなと。
昔から上手い子っていましたよね。めちゃくちゃ上手い子って。
今もやっぱりいるんだけど、そういうことを一般の子と比較してもある意味しょうがないじゃないですか。
その子は半分コーチみたいなもんなんですよ。
あの辺も今の子ってある意味よくできてるんだなって思うんですよね。
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昔はできる子ってただ呼ばってた感じなんですけど、あれはあれで面白くていいんですけどね。
今のできる子ってコーチをしてくれるんですよ。
うちの子は明らかにコーチにかかる係であって、
うちの子とあの子を比較しても始まらないわけですよね。
あのような現象が算数とかで起きる、
多分算数の場合はもう少し差が開いてしまうということもあるから、
それを同じラインで競わせるというのは土台無理があるっていう、
うちの子のようにサッカーとなるともう冗談のような、
ただ僕だって冗談のようだったから、
それが女子だから一層冗談のようになっているというだけなんだけれども、
しょうがないですよね。こういうのを得て増えてというしかないだろうと。
一般の体育ではあまりないですけれども、
あれは要するに中学受験をサッカー上がりではテストできないということなんだと思うんですよ。
もうオリンピックに行きそうだという子を捕まえて、
サッカー上がりできますかというテストをしたのでは全員できるから、
比較の仕様がなくなりますよね。
もしかしてその日たまたまちょっと調子が悪くて、
きれいにできなかった子が落ちるんだけど、
その子は実は一番上手いですということはあり得ない気がしますが、
そういうことになっちゃいかねないようなものになるので、
そういうことでは無理なんだなという感じですね。
ただそれは別に今に始まったことじゃなくて、
36年前からそれはそうでしたよね。
私、学校のテストというのは100位以外は取ったことがないし、
でも100位以外は取ったことがない子というのはザラにいて、
その子と私と比較をしようとした時に同じテストじゃ無理ですよね。
子供の今ぐらい手厚くシステマティックにやれば、
藤井壮太さんみたいな人が出てくるわけですよね。
あの子は小学生の時に8段に勝ったじゃないですか。
段級という意味で言うと、
たぶんプロの段持ちって素人には1万回やっても1万勝という形になるはずなんですよ、将棋って。
だから小学生の段階で8段に勝つという話になってきたら、
もうそれは全然他の子と勝利をさせててもしょうがないわけじゃないですか。
そういうことになりかねないなと思うんですよね。
今みたいに手厚く手厚くやると、
10歳代でも完全にその世界の最高峰みたいなところに行ってしまうので、
たぶんそういうことは僕は算数の世界とかでも起きていると思うんですよ。
今の私も娘の第一志望の学校を見ていると、
この問題を時間内切られたら、
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自分で6割取れるかどうか疑わしいなと思います。
すっげえ訓練していけば8割はいくと思うんだけど確実に。
6割いくかどうかパッとやったら疑わしいなと。
僕これでも現役時代はセンターで国立で理系でしたからね。
数学はセンター試験で9割は行ってたんですよ。
その頃に比べればそういう能力は下がってますけど、やっぱりそういうもんじゃないんですよね。
僕当時から中学受験の能力だけで言えば、
自分の能力が最大レベルだったのは小学校6年の時だったと思うんですよ、自分自身の中では。
決してその後伸びてはいかないんですよね。
同じような問題はもうあんまりやらないんで、
ああいう特殊な世界ですよ、あれは。
私自身、方程式使えば解ける問題は増えてるのは分かるんだけど、
今の問題は非常によくできていて、
小6はみんな少なくともそのレベルの子は方程式は十分に使いこなせることは分かってるから、
方程式使うだけでは解けないようになってるんですよね。
解ける問題もありますよ、たくさん。
その辺を、これはちなみに明日の参考とかにしないようにしてくださいね。
持ちは持ちはなんですよ。専門家が一番いいです。
私全然専門家じゃないんで、ただ受験を経験したというだけなんで。
これが方程式で解ける問題なのかどうなのかを理解するということが問われてる感じがするので、
方程式で解けるやつは方程式立てればいいんでしょうけれども、
立たないやつにまで立てても解けるようにはなってないんですよね。
仮に立てて解けるにしてもですね、むしろ手間がかかっちゃうというように作られているんですよ。
あの辺もすごくうまいことを考えるよなと思うんだけど、
やっぱりその辺も子供っていうのは面白いなと思うんですが、
これにはこの解き方、こっちにはこの解き方っていうのを教えると、
そういうふうにできるんですよね。
僕はあれは到底無理だなと自分は思うんですよ。
ああいうふうには私はやらなかったから可能な限り比で解くとか、
あからさまにその場合分けのやつはあからさまに場合分けて解くんですけれども、
なんていうんだろう、このよくわからない課題を何算っていうのが増えてるわけですよ、言ってみれば。
あの鶴亀算みたいなやつがですね。なんかやたらあるわけですね。
だけど全部使い分けられるんですよね。
だからこういうのも専門家の視点ってやつで、私にない視点なんで、
私だったら強引に方程式で解くっていう感じになる気がするんですよね、今の私ならばね。
で、その段階ですでにアドバイスにならんわけですよ。
だから専門家っていうのは大事だなと、ああいう人工的な世界ですからね。
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人工的な世界そのものなので、人間技に対してやっぱり人間技なんだなと思います。
そしてそれを何年もやってきた人ってやっぱり強いんですよね。
話を聞いていると先生もそうですけど、塾のスタッフってほんとすごいなって思います。
これを20年間やってきてるから、いろんなことがその世界の中でに限ってみれば見えるんだと思うんですよ。
ここにお任せするということになるんだなと。
やっぱり将棋を我流でやってちゃどうにもなりませんよね、今みたいな時代には。
ああいう人が出てくるっていうのも、この専門家育成的な世界のなせる技なんだろうと思います。
なんかこう見ていると、昔はなかったじゃないですか。
10代で5冠とかって、あんまりそもそも5冠って聞いたことがないですもんね。
昔なんか本当に60代とか50代とか、その辺の人たちが明治とかなのが、僕の子供の頃はザラだったような気がするんですけど、
今はもうそういう人の、おじいちゃんおじいちゃんしてる将棋指しっていう方は、あんまり第一線で見なくなったっていうのから久しい感じがするんですよ。
やっぱりこれは専門的に突き進むという道がある世界は、だんだんこうなるしかないよなと、思いますね。
で、盛大なまま十数分が過ぎているんですけど、そういうわけで私は、私自身はですね、これでも受験って5回ぐらいやってきた気がする。
アメリカを含めればですね、アメリカの大学院センター試験みたいなのがあるんですよ。
あれは本当地獄というか、なんというか、あれもだから専門的にやらないとダメなんですよね。
自力でやってたんでは、あんなのに歯が立つはずないのに、あれを自力で僕はやっていたから、ああいうところが自分的なんですよね。
だから、PhD取れないわけですよ。
これも余談なんですけれども。
この話を聞くときもですね、グッドバイブスとタスクシューとはやや別としても、
精神分析とかはぜひ専門的な話ではないということをよくよく含んでおいてほしいんですね。
僕はむしろ世の中に将棋というものがありますよというラインなんですよ。
このレベルで精神分析というのは世の中から無視されているんですね。
そして今、ますますした美になっているという状況がありまして、
昨日のような話なんかも、昨日のっていうのはごめんなさい。
15:00
昨日、フジミノでお母さんが亡くなってお医者さんを殺しちゃったという事件がありましたよね。
昨日あったわけじゃないですけど、だんだんそういうことが分かってきて報道されてますよね。
あれもすごく精神分析的に見るとそう見えるはずなんだけど、母子一体というものがまずキーワードとしてかすめるじゃないですか。
あの報道の情報だけでは全然物足りなくて、本当は何だか全然分からないですよ。
本当のことは分からないというのはまさにその通りですが、
でもあれで母子一体という母子ユニットとか母子というものが配分付くやつね。
かすめないとは思えないんだけれども、一般的な報道ではそうではないでしょう。
なんかこう、お母さんを出来合いした異常な人みたいになっているじゃないですか。
ここに世の中に精神分析な視点というものは、今お呼びじゃないに等しいんだということが何となく感じるんですよ。
感じるというか何となくあるんですよ。
つまりそういう風に見ている人はいっぱいいると思うんですよ。
母子ユニット的なものがかすめるような感じでは少なくとも、かすめて見ているような人っていうのはそれなりにいると思うんだけど、
表に出てこないんですよね。
そういう人がテレビの専門家として、専門家ってさっき話をしましたけど、専門家のはずなんですよ。
一番ある意味あの世界の専門家は精神分析家だと思うんだけど、呼ばれてないですよね。
ここに僕はそのやっぱり今風っていうものがあると思うんですよ。
昔だったら呼ばれたのかというとそれは分かりませんが、少なくとも今呼ばれてないということは確かなんですよ。
だけれども、あれはいろんな解釈の仕方があの段階ではあるし、全然情報等しいし、推論に推論を重ねる世界になっちゃってますけど、
それにしても精神分析観点が薄いどころかゼロだなっていうのが気になるわけですよね。
なぜお母さんにそんなに固執するのかっていうようなニュアンスになってるじゃないですか。
そうでは全然ないだろうって僕は思うわけですよ。
で、そうするとマザコンって話になるじゃないですか。
この言葉もですね、言葉っていうのは実に厄介だなと思うんだけれども。
私、あの方は知りませんが、母が亡くなって悲しいかどうかって話と違うんですよこれは。
いやあなたはお母さんに大切に育てられたんでしょうって言われれば、違いますとは言いませんけれども、そういうことではないんですよ。
私はあの方の気持ちは分からないですよ。気持ちは分からないというのはつまりそこまで亡くなったからといって、
特に高齢であればね、あそこまで取り乱す理由を僕は持ってませんが、
どうしてああなるのかというのがそこまで理解不能なものではないと思うんです。
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それは親子の愛情っていう言い方をしてももちろんいいんですけれども、
もうちょっとそこには特殊なものがあると思うんですね。
その時に一つ意識とちょっと違うかもしれませんが、一体というのが非常に大事な鍵になるんですよ。
こういう人がいるんです。
これはアメリカで私はビデオで見たんですけど、自分の体の一部が死んでいるって。
死んでいるってエソって意味じゃないですよ。死んでいるというふうに思い込む精神障害っていうのがあるんですよ。
その患者さんってすごいんですよ。私の足が今死んでいるんだと。見れば分かると。
医者に言うんですよ。早く蘇生してくれと。
昨日蘇生という言葉も出てきてましたけれども、早く蘇生してくれないと足だけ死んで切らなければならなくなってしまう。
だから蘇生すれば生き返るから、蘇生しろって訴えているという障害があるんですね。
私これビデオで見たんですよ。すげえ驚きましたね。やっぱり。
この死んでしまったという妄想というのしかないんですけれどもね。
結構頻繁に見られるもので、よく考えてみると私たちは何をもって死んだっていう判断をしているか。
非常に曖昧ですよね。脳死っていう話もありますけど、ある人がある人を死んだとみなすのはどういう観点なのか。できないと思うんですよ。
ここもまた専門家ですよね。今や専門家領域となっていると思うんです。
生体反応がないとか心肺停止とかいう表現が最近続々と出てきてますけれども、
つまりあれは死んだという定義はかなり難しいということを案に示してますよね。
私たちは死んだというシーンを、もちろん人間以外であれば全く縁がないはずはなく、
私も祖父の死というのは立ち会ってないわけじゃないんだけど、
でも私が死んだことを判定することはできないし、したわけでももちろんないわけですね。
そうすると結局死んだっていうのは結構パッとわからないんだけど、
一方で私たちは生死っていうのをパッと分けているわけじゃないですか。
そこにはオカルトが入り込んでくるはずなんですよ。
ロジカルに他の全ての人も納得する、これが死んだということですっていう説明ができる人は、
そんなに多いとは思えないんですね。
そういうことがあるわけだから、あるいは言うじゃないですか時々、死の世界って。
死の世界ってなんだよって感じじゃないですか。
誰もそんなものは他の人と共有してないですよね。
その人その人なりの生死感なり死の世界があるわけですけれども、
例えば自分の足が死んだってのはどういうことなのか、
21:00
そんなことは訴えられても他の人には分からないわけですよ。
見れば分かると言われても見ても分かるわけがないですよね。
あの方もそういうところを考えてみるとですね、
これはあくまでもあの乏しい情報とワイドショーのネタを見てただ感じただけですよ。
ただ一体ということを考えてみるとですね、
一体なものが死んだというのはこの足が死んでいるっていう訴えと似てくるじゃないですか。
その人は早く蘇生してほしいとでも思っていればですね、
そこに異常な切迫感があるわけですよね。
この話が理解できない人とか、この話を理解しようとしない人とか、
あるいは見ているのに見て見ぬふりをする人とかいうものがですね、
何かこう非常に、何て言うんですかね、
絶え難い相手のように感じ得るという話は分からなくはないような気がするんですよ。
少なくともこの話を単にマザコンで片付けるのは無理があるだろうと思うんです。
世の中にマザコンの人なんていうのはですね、男女含めて山のようにいますよ。
でもああいう事件というのは山のようには起きない幸いなことに。
どうしてかというと、私たちは一体であるとあったということは普通多くの人が知っているんですけれども、
これもですね、一体であったというのは愛し合っていたという話ではないですよ。
一体であったんです。
例えば自分の歯を抜くとかがあるじゃないですか。
歯と自分が一体であったのは間違いないところですよね。
歯と自分が愛し合っていたかどうかはこの際大した問題じゃないじゃないですかというか、
そんなことは言わないですよね。
一体であるというのは当然そこには愛情があるし、あるに越したことはないんですけれども、
一体であるというのはそれ以上に有無を言わさないものというところがあると思うんですね。
一体なんだからしょうがないわけですよ。
嫌いであろうとなんだろうと。
ただ一体では既に無くなったと。
その時に愛情があってもなくても痛みはあるんですよ。
一体で無くなるわけですからね。
だからこれは身体的なという意味ではないです。
精神的な痛みです。
トラウマがそこにあるはずなんですよ。
やっぱり母子一体であったところから離されると、
それは精神に関わる問題ですよね。
3歳児である頃には一人で生きていかなきゃならないということがどこかで余儀ると。
私は3、4歳の頃に、昔このポッドキャストでも何度か話題にしましたけど、
マロの家なき子を何度も読んで、すっごい恐怖感と安心感の工作というものを味わった記憶があるんですね。
どうしても今思うとですね、あれにそれほどの衝撃を受けたその時の自分の気持ちがよくわからないところもあるんですけど、
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とにかくそうだったんですね。
家がなくなるということが非常につらいことだったし、
自分にはとてもやっていけそうにないという気持ちが3歳半か4歳の頃に猛烈にあったんですよ。
私は多分それの頃に一つ目のですね、分離の恐怖というものを明瞭に自覚したんだと思います。
もちろんその前からあったはずなんですよ。
ただ分離の恐怖というものをはっきり今でも覚えている形で意識したのは多分その頃なんですよ。
そうなればですよ、母が好きだろうと少々気に入らないやつだろうとなんだろうとしがみついて痛くなりますよ。
だって放り出されたら死んじゃうんですから。
このしがみついて痛いという気持ちは当然一体であって叱るべきだという意味ですよね。
だってしがみつくのは赤の担任じゃダメなわけですよ。
しがみつくべきであるというのは、もともと自分はここに一体としてあったんだと言っているのと全く変わらないじゃないですか。
この気持ちに苛まれた時にここに戻りたいと思うものだと思うんですよ、人は。
古い懐かしい家みたいな話ですけれども、とにかくここにいると落ち着くんだというところに戻りたいと思うのは
自分が何か辛い目に遭うとか頼りない思いをしたとかそういう時だと思うんです。
それこそ今日、明日とかで受験で不意に心細くなるとかそういう心理になる時ありますよね。
大人になるとしても頻繁に起こると思うんです。
その時に戻りたいというのってこれは心理的なものなんだけれども、その戻りたいという対象がものすごく具体化しちゃった場合、
これが僕はその意味の具体化ってやつで、私たちが持つ一つの危険な状態なんだろうなと思うんですよ。
赤信号イコール、絶対止まらなければならない何かみたいになってしまうような独特の融通の効かなさと、
中傷が具体化するという大きな問題なんですよね。
これも私たち結構頻繁に経験するし、経験して当然なんだけど、これを言い出す人は発狂者みたいに扱われ、
そういう言い方も全くできないわけではないでしょうけど、おかしなことではそんなないと思うんですよね。
つまり象徴としているものが全然象徴じゃなくなって、それ自体になっちゃうみたいな、この説明の仕方は非常に分かりにくいですね。
ATMが秘密基地で自分を睨んでいるんだとか言い出す時のそれですよ。
これを言うと精神病院に行きましょうみたいな話になりやすいんですけれども、あると思うんですよ、私たちにはそういう部分が。
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子供がこのお人形だけ特別っていうような何かですよ。
それは普通の表現をとれば愛情の対象とか思い出のなんとかって言うんだけど、そうではないんですよね。
それだけは特別なんですよ。他とは全く違う、なんていうんですかね、意味付けをグッドバイブス流に言うとね、意味付けの対象なんだけど具体的であるみたいな、そういうものなんですよね。
自分の意味がそのまんまそこに込められてしまっているから取り返しがつかないみたいな、あるいは取り替えが全く効かないっていう、そういうもの。
そういうふうになってしまうと大変なんですよ、やっぱり。私は患者さんにとってお母さんがそういう対象になぜかなってしまったんだと思うんですね。
普通の母親というのは象徴的なんですよ。やっぱり長らく一緒にいればいるほど、いろんな意味で象徴的なんですよ。
それが、おかしな意味でっていうのかな、あまりにも象徴が有意義で、有意味にありすぎて、意味付け丸出しみたいになってしまって、
なんていうんですかね、そういうのって僕はあると思うんですよね。酒飲みとかがこのお酒とかにやたらこだわるとか、ありますよね。
なんかこう、私たちは紙棚みたいなものを持つじゃないですか。あれもそうですよね。紙棚には、例えば座っちゃいけないとか、
私の家は寺だったんで、そんなのばっかりだったんですけど、ああいうふうにして人は自分の象徴機能を具象化していくんだなっていうのがあるんですよ。
例えばお供えしてからじゃないと食べちゃダメとか、それですね、ただの決まりごとのように思うと思うんですけど、
例えば寺の人間で、お供えしてからじゃないと絶対食べられないリンゴをお供えする前に食べると、実に驚くような感覚が生まれるんですよ。
すぐに僕はそういうのを実験的にやったことがあるということなんですけどね。
そういう感覚ってのは、まさに僕らは忌み付けしているんだなと。リンゴはリンゴですからね。
リンゴの味しかしないと思うじゃないですか。そうではないんですよ。忌み付けというものを徹底的にやっていくと、舌が痺れるとかそういうことが起こるんですよ。
それを起こすのは別に簡単だってことです。そういうことがあったと僕は思うし、そういうふうな事件に見えるんですけれども、
だったらもうそこは精神分析の人が少なくとも何か研究してくれて叱るべきだよねと思うんだけど、誰も出てこない。
いっぱい報道されているのに、多分一人も出てこない。やっぱりこういう不在しているものみたいなのが、
だからこの観点であれを見るということは、社会的にはもう全然正当じゃないんですよね。
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でもやっぱり自分は今言ったような、あれは忌み付けだし、母子一体感というものを如実に感じる、何があったのかわからないですけどね。
彼にしてみると、いきなり母親から切り離されてしまったら、この世で生きてはいけないんですよ。
お母さん何かしてくれたのかというと、そういうことではないんですよ。
ただあえて言うならば、私はやっぱり二つあると思うんですよね。
一つは彼のニードがニーズに変わるには、あのお母さんが生きているということが大きな意味を持っていたと思うんですね。
もう一つは、彼の甘えというものを象徴的に受け止めてくれるのは、彼にとっては亡くなったお母さんだけだったというのは、違和感がありますが、だったんだろうなという感じはするんですよね。
ここはわからないんですよ。所詮本当のことはわからないです。僕にわかる話でもないんです。
ただ、私に言えることは、そういう存在が私たちの中というのか外というのか知りませんがありまして、この機能が損なわれるというのはそれほどの大問題だということなんです。
私のニードがニーズに変えられるそういう仕組みがこの世の中にはあるし、私の心の中にもあって、ちゃんと機能している。
これはもう超大事で、全てのベースになると思うし、そこに、中にですね、象徴的に甘えを受け止められるということが日々というか、ほとんど今ここで瞬間瞬間にないと、それが剥奪されると、私だって銃は撃たないと思うんですけれども、桜んぐらいはして叱るべきだと思うんですよね。
それくらいのことがここにはあるはずだと思うんです。
とりあえず、そんなふうに思ったということです。
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