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2023-08-15 34:03

閃くつもりがあればひらめきが得られる【GMV829】

私たちには正解より前意識が役に立つ。

サマリー

彼は全意識を使って自由に発想し、状況に合わせて選択することが重要だと考えています。例えば、タスクリストや乗り換え案内はあくまで全意識の代わりであり、最終的な判断は全意識を使っていることを強調します。彼は甘えというものがコントロールできないことに気づき、生物である人間関係をコントロールしようとする考え方が無理であると認識しています。彼は人間関係や甘えに対応策がなく、その場の状況や相手の状態に応じて新しい判断をすることが大切だと考えています。彼は自分の思う意味でひらめけないマインドマップに代わるひらめきの方法を探すために、現実と自分の意識を組み合わせることの重要性を説明しています。

全意識を使った発想
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
8月15日か、8月15日ですね、の、朝8時40分です。
ここのところはどうしてもこう、なんていうんですかね、ばらけると言いますかね、
この日になったりならなかったりっていうのが続いているんですけれども、
お盆期間だからみたいなところはありますよね。
平日なんですけどね、私にとっては。
で、んーと、なんだっけな、台風来てるけど、まあそれはいいとして、
えー、そうそうそう、最近ですね、ピクミンにハマっているんですよ。
フォーですね。
あの、この話をするメリ、意味がどこにもないような気がするんだけど、
とりあえずこう、結構時間を使っていて、まあ僕タスクシュートがあるから測れるんですよ。
トータルでどのくらいっていうのはまだ算出してはいないし、別に算出する気もないんだけど、
まあでも5、6時間は優に今超えていて、まだしかも全体の5%もいってないんじゃないかという、
一つ思ったことがあって、いや今のゲームってすごいなというのはもう十々承知なんだけど、
あの、ロードに時間がかかる。
えーと、まあ昔々僕が本当に昔やってたゲームってカセットテープとかだったから、
えーと、こんな時間は経てもないっちゃそうなんですけど、
もう本当にこう、最近ゲームって早いじゃないですか。
だからいちいちロードに時間がかかるというのを見ると、
あの、これってすごい容量なんだろうなと思いますね。
実写みたいな、映画みたいなのがものすごい容量入ってんだろうな、この中にというのを。
あの、テープのやつとかは本当、なんていうんだろう、一瞬で読み出せそうな、
今の機械だったら本当に一瞬で読み出せるものばっかりなんだけど、
30分くらいかかってましたからね。
そして途中でコケると一からやり直さなきゃならないという、
あれは本当にひどいシステムだったなと思うんですけど、
あのもうテープ効いてるのと変わらないんで、
あの、逃走とかだとそうなっちゃうんで、その後倍速とか出てきてたけど、
まああの、フロッピーディスク出た時は感動しましたからね。
えー、しょうもない話はしてないで本題に入ろうと思うんですけども、
あの、今日はですね、まあ昨日の続きではない、
僕、昨日の続きとかを喋ってる日はほとんどないんですよ。
なぜかというと、昨日喋ったことはもう記憶の結構彼方なんで、
もう朝喋ったことなんて、夜には記憶の彼方なんで、
全然こう、正直、喋ったと言われれば思い出せるんですけどね、
全意識なんだけど、相当無意識の方に行っちゃってるんでね。
あの、一から全部考え直すんですよ。
これはですね、無駄と言えば無駄な感じがするんだけど、
すいません。
あの、なんて言うんだろうなぁ、
喋る時って絶対に、たとえメモが手元にあってもですね、
全意識に引っ張ってあげないと喋れないじゃないですか。
メモに書いてあることをまんま喋る人ってのは、
ほとんどいないと僕は思うんですよ。
それは、いや原稿読む人いるよって言われるかもしれませんが、
その時何か思い出してる人が、
もうその原稿の中身が意識に入ってないっていう人って、
よっぽどだと思うんですね。
もはや完全に喋る、人前で喋るのは嫌だっていう。
あるいはこう、あの、原稿を読み上げなければいけない理由があるとかですね。
で、私はもう長い間、セミナーとかでもメモとかを読むことはしなくなったので、
なぜかというとですね、その方がネタとして良いことはあるんですよ。
なんですが、ネタとしては良くても、
その場には感触的に合ってないってことがあるんですよね。
で、全意識。
僕がずっと最近言ってるのは、要は思い出し合おうと思えば思い出せることなんだけど、
その中で今どれを思い出したいかは、
本当にその場の感触というのかな、
リアルとしか言いようがないんですけどにしか聞けないというか、聞かないんだけどね。
その場の人の顔ぶれとか反応とかを見て決めるんですよ。
で、これはスキルに多少とも違いないと思うんですが、
スキルじゃないんですよね。
スキルなんだけど、大したスキルじゃないってことなんですよ。
これができないと思われてるんですよね。
難しいことを僕はやってると思ってる人がいらっしゃるのはですね、
その原稿読み上げ形式にすっかり慣れているというか、
それがですね、正しいやり方なんだとされてしまったために、
僕のやり方はよっぽど上手くできる人しかやっちゃダメなやり方になっちゃったんですよ。
それが大きなおかしさで、それはまるでですね、
なんですかね、
誰でも平泳ぎはできるのに、
なぜか理由はわからないけどクロール以外は禁止された世界で、
名人以外は平泳ぎ泳いじゃダメみたいなね。
そういうことなんですよこれは。
誰でもそれなりの身を見真似でやればできるやり方というものを封じるとこういうことが起きるんですね。
だから全意識というのは結構スロイト的用語で物々しい感じがしますけど、
みんなやってることなんですよ。
僕は昔このポッドキャストでよくですね、
夫婦の会話をするように人前で喋るようにすればですね、
少なくとも原稿を読む人はいないわけですよ絶対。
夫婦の会話で原稿を読む人っていない。
何なら子供に自分のですね、向かって話すように話せばいいと思うんですよ。
僕もいつもそれができるとは言いませんが、
これができてるほうがいいに決まってるとは思ってるんですよ。
そうじゃなくて、今日は大変な集まりだから原稿を読むことにしましょうっていうのはおかしいだろうなって思うんですよね。
多分そうすると、より面白くないことをより下手にやることになってしまう。
これを皆さんの一般的な世界で強要されているうちに、話がこじれたと思うんですよ。
これは人前で話す話をしたいわけではないんですよ。
でもね、私は無駄にまたぐじゃぐじゃ喋っておりますが、
人前でうまく喋りましょうねっていう話をしているのではなくてですね、
全意識を使っていきましょうねって話をしているんですね。
例えばタスクリストとかを使う場合でもそうで、
この話を昨日少ししたつもりなんですが、
昨日の話聞かなくていいんですけどね。
タスクリストを使うときにも、このリスト通りにやろうっていうのはおかしいって思うんですよ。
たとえそのリスト通りにやるにせよ、
あくまでも自分の全意識から探しましょうねってことなんですね。
で、自分の全意識にはノータンがあるはずなんですよ。
その現在の状態によりマッチしたものと、
今の状況でそれを選ぶというのは可能ではないけども、
えーと、なんていうんですかね、
ここでさっきのピクミンが出てくるんだけど、
それを選ぶのは都合良くないよっていうのがあるんですよ。
あのゲームはそういうゲームなんですよね。
段取りというものを問うという変な、実に変わったゲームだと思うんですけどね。
要はこの部屋にいて、
今手に届くもので飲み物を済ませるか、冷蔵庫まで行くか、玄関席まで行くか、
どれを選んでもいいんだけど、
今飲みたいものが手近なところにあるならば一番いいよねってことなんですよ。
僕はですね、グッドバイブスでクラズノさんがひらめきっておっしゃってる時に、
このことを意識するんですよ。
なるべくならば、
今まさにやりたいと思っていることが、
このここにあったよって、このここってどこだよって話もあるんだけどね。
昨日そういうお話がある方としてたんですよ。
全意識というものに、全意識って言葉では使ってないんだけど、
空間、空間というものが意識されている人といない人といて、
僕はあんまり意識できてないんですよね、空間というものが。
でも全く意識できてないわけではないんですよ、今言ったとおりで。
つまり近いか遠いか、本当はおかしいと僕は思うんですね、やっぱりね。
頭の中にある記憶のどれが近くてどれが遠いとかいうのは、
非常に奇妙な発想ですよね。
自分が頭のどこにいるっていうのがないわけだから、
当然頭のどこにあるから近いとか遠いってのはないんですよ。
でも明らかに無意識の底に、無意識の底って言うじゃないですか、
実際に無意識に底があるのかよっていう話も当然あるはずなんですが、
底があるっていうのは当然じゃないですよ、底はないはずだっていうことですよ。
底なんてないはずなんだけど、人間は三次元的にものを考えるのが得意だから、
水槽みたいなのを思い浮かべてですね、下の方ほど思い出しにくいというような、
そういうメタファーを使いたがるんです。
で、僕は空間というものを把握する力が現実世界でも下手で、
内心の世界ではますます下手で、
三次元ってほとんど無理なんですね。
二次元が精一杯なんですよ。
だから、底というのも本当は下みたいな感じなんですよね。
上下はなんとなくあるんですよね。
で、奥行きもあんまないんですよ。
ただ向こうの方とかあっちの方とかこっちの方っていうのはあるんですね。
で、何が言いたいかというと、ひらめきっていうのは結局、
自分のすぐ近くに一番自分が今使いたい発想があるみたいなのが、
ひとつひらめきって言われると思うんですよね。
もうひとつ、ひとつ意識が分かったみたいなときに使う、
リストの使用と全意識
グッドワイプスで合宿とか行くんですけど、年に2回ぐらいかな。
そのときに体験ワーク的にやるんですけど、
分かったみたいな感じもひらめきに近いわけですが、
あれは何かを記憶から引っ張り出してきたというよりは、
その人が伝えんとしている意識状態と自分の意識状態が、
ほぼ一致した気がするみたいな。
その気がするって言っても、一致した証拠を見せなさいって言われると、
そんなことはできないんですけどね。
そういうことを我々の時代ってしたがるじゃないですか。
何か知らないけど、悟ったときの境地には、
ノウハウのガンバー波がどのくらい出ててとかっていうふうに従うんですよね。
それもいいと思うんだけど、面白いと思うんですけどね。
ただ、そんなことをしても、
ある心理状態に至ることはできないような気がするんですよ。
しかもですね、そのノウハウを合わせることの方が優しいとても思ってるっていうのも大きな間違いだと思うんですよね。
ノウハウを合わせる方が難しいかもしれないですよ。
でもしないノウハウってありますからね、普通の状態では。
というわけでですね、
全意識といったものを、まず僕が思ってるのはなるべく自由にしておきたいと。
だからあまりリストを使わないっていうのではないんですよ。
例えば、タスクリストなんか使わなくたって、
私乗り換え案内とか使うわけですよ。
乗り換え案内ってリストじゃないですか、結局。
ひらめいて家に帰っているわけじゃないんですよね。
どの電車で帰るっていうのも、
意識と判断の関係
すごい詳しい人はひらめくと思うんですけど、
僕も首都圏ならいくらかはひらめきますけどね。
でも、乗り換え案内ほどじゃないですよ、当然。
僕は常に頼りますね。
つまりこういう時に僕らは、実は全意識というものに頼る。
でもいいところも、何か別のものに頼っているわけですね。
地図に頼るっていうのは同じですね。
地図ってのは結局、全意識の代わりですから。
より正確かもしれないけれども、
決して地図の代わりが全意識ではないですからね。
あくまでも地図とか乗り換え案内は、
全意識の代わりですから、
最終的には全意識使うわけでしょ。
そうですよね。
こっちの方が早いんだなっていうふうに思って、
この判断のために既に意識使ってますから。
決して乗り換え案内でこれが一番早いですっていうのに、
出た瞬間に自動的に体が動き出すわけではないです。
その間に意識が挟まらないことって絶対ないですよ。
だから絶対に全意識使うんですよ。
その時に僕はですね、
なるべく使う方向に向かおうと思うんですね。
発想の転倒
これがなんつーんだろうな、
グッドバイブスとか一つ意識でもそうですし、
愛による選択とかでもそうだと思うんですけれども、
およそ選択というものが入ってくる以上は、
ここの使い、使うなんつーんですかね、
筋力ではないんですけどね。
でもそういうトレーニングをしておいた方が、
使い勝手は良くなるというか、
使えるようになると思うんですね。
ここのところで私は別にそれが良い悪いっていうか、
良い悪いではないんですよね。
訓練する機会を、
例えば地図なり乗り換え案内なり、
何ならタスクシュートなりに委ねたとしても、
それはそれでいいんですよ。
良くないのは良くないというか、
全意識を使わなくなってしまう方針としてですね、
このリストに沿っていくっていうことを大前提に置いてしまうと、
そのリストをやってやることが正しいとしても、
間違ってるとしても関係なくアレだっていうことです。
なぜならば全意識を使わない方向に向かってるからです。
で、使わない方向に向かうと、
このリストが手に入らない原理の時ですね、
そこで無理やりリストを作り出すというライフハックになってしまうんですよ。
でもそれをやっても、
大事に妥当なものが手に入るっていう降参が下がってるんですね。
例えば原稿ですよ。
ずっと原稿読んでるというのは、
間違ったことは喋んないかもしれませんが、
その場で一番いいことを喋れる降参はかなり低いと思うんですよね。
同じ人間が事前に考えていたことだからといって、
その場で考えたことよりもそもそも妥当性が高いっていう保証って別にないじゃないですか。
まして考えてなかったらですね、どうかと思うわけですよ。
その人がそこで喋ってる意味ってほとんどなくなっちゃいますからね。
で、そういう時にリストってないわけですよ。
チェックリストがあろうとなかろうとあまりこう役立つとは思えないシーンってあるわけですよね。
これが例えばそのもっと遥かに細かいやつ。
例えばですね、そうだなお腹が痛くてトイレに行きました。
リストないですよね。
まずこういう姿勢で踏ん張りましょうとかないじゃないですか。
意味がない。
こういう時に僕らはやっぱり意識を使ってるんですよ。
多分そうじゃなければほとんど何もしてないってことになる。
何もしないでいるのも辛い時ってあるじゃないですか。
そういう時は間違いなく意識使っていると思うんですよね。
その時は辛いから自分が好きだった漫画を読むとかするじゃないですか。
その時に自分が好きだった漫画って既に記憶じゃないですか。
こうやって僕らはですね、その全意識を使うということをした方がいいというかせざるを得ないというか、
その時に使えなくなれば使えなくなるほどその人の意識状態はピンチに陥っちゃうと思うんですよね。
人と言い争った時とか、すごく日頃から親しく、私で言えばJさんとこじれたみたいな時にリストないわけですよ。
で、こじれたようなリストみたいな、孔明が開けろと言った袋みたいなですね。
開けても無駄なんですよ、そういう時って大体。
やっぱりそういう時には、そういう時に、不思議なんですけどね、そういう時にひらめくっておかしいような気もするんですけど、
僕はそういう時にまさにひらめくんだと思うんですよ。
その時にひらめくためにどうしても全意識を使うんですよね。
全意識の組み合わせに答えがある点でもないんですよね。
この状況というものを認識して、一番適当だと思える何かを全意識を使いながら発想するって感じなんですよ。
学校に行かせることの難しさ
だから完全に発想になるんですよ。
その時に既にあるリストに沿っていけば相手の機嫌が治るというような発想、それ自体が何か無理がある。
この無理のある発想にタスク管理で持っていかないようにしましょうねっていう話を実は僕は割としょっちゅうしている気がするんですね。
この流れの中で昨日お話しした甘えというものも出てくるわけですよ。
何でかというと甘えというのは相互関係だから。
つまりこのタスクリストに、タスクリストじゃないんだけどね、回答リストみたいな手順のリストが先にあるみたいなものに頼り切るというのは、
自分で全部の答えが分かるのが先だっていうところに発想が転倒してしまってる感じがあるんですよね。
相手だっていうことだから、相手の状態、これはもう生物ですよね。
昔でもないんだけど、でもまあ昔だ。
かわいはようさんが兄弟の最終講義というところで、YouTubeの動画を僕見たんですけど、この話もお前にしましたね。
息子が不登校です。学校に行かないんだと。
そのお父さんが、これは本当の話なんだと思うんですけど、面白い話だなと思うんですけど、
そのお父さんが今は、今はといっても多分僕が生まれて埼玉にやっと引っ越した頃、つまり5、6歳だった頃だったんですけど、
今はボタン一つで、3000キロだ4000キロだ、物騒な話ですが、ミサイルが飛んでいく時代じゃないかと。
で、ロケットは月まで飛んでいくと。月までって何キロなんですかね。
うーんと、多分7万キロとかじゃないかな。違うかな。
秒速、7万キロはないのか。
7000キロ、そんなに短くはないよね。わかんないですけどね。
まあとにかく月までロケットが飛んでいく時代だと。アポロ宇宙船ですよね。
最近飛んでないと思うんですよね。昔飛んでたんですよ。やたら。やたらでもないけどね。
で、なぜうちの一発で1.2キロしか離れてない学校に行かせることすら、今の技術ではできないのかと言われたことがあると。
本当かどうかはわかんないですけどね。
これがね、いかにもその発想だなって思うんですよね。答えがすでにあるという発想です。
何か、ま、河合俳夫さんはカウンセリングと臨床心理の専門の人だから。
どうやったら、親はこの学校に行きたがらない子供を学校に行かせる、レシピをよこせってことなんですよ。
この発想、非常に今風でもあるけど、実はもう今から40年前からあったってことですよね。
当然あったですよね。あったに決まってると思うんですけどね。
で、これが無理なわけですよ。ロケットをボタン一つで宇宙に行かせることはできるんですが、
なんならこう、当時のソビエトとかね、あのミサイルをかなりの精度で落とすということもやろうと思えば、それやると終わっちゃうんですけど、できる。
でも、1.2キロ先の学校に行きたくないと言ってる子供を行かせるってことはできないんですよね。
で、どうしてなのかと。それは簡単なんだと河合さんが言ってたんですけど。
人間は生きてるからですと。そうだと思うんですよね、これはね。
僕らはよくその時にレシピはないわけですよ。
こうすればこういう望んだ結果が出ますよという回答はないんですよ。
かつて同じような人にこう言ってみたら学校行ったと。
それと全く同じことを言ってみても行かないんですよ、多分。行かない状況にある子はですね。
同じ子だってですね、その時はその言葉で言ったように見えるかもしれないけど、
その言葉で言ったかどうかなんてわかんないし、
同じことを言っても翌日だったらダメかもしれないんですよ、そういうような話は。
河合はやおさんのその一冊丸々ですね、不登校の子だけを扱ってる。
あれはすごい壮絶だなっていう。やっぱりこういう体験ってこういう先生あるんだなっていうのを思ったんですけど。
本当に河合はやおさんはですね、引き受けたがらないんですよね、最初ね。
うちの子がどうしても行かないんだというのを聞いてもですね。
前にその子に関わった先生が何かスクーターの事故かなんかで死んだみたいなことが書いてあって、
こういう子に下手に関わると、命に関わると。
この辺の発想はユンハらしい発想で、
普通の人がこれを読んでもなんか訳わからん神がかりだと思われるかもしれないんですけど、
そういうふうに考えるんですよね。下手に関わると死にかねないと。
自分はどうせ自分が関わったって河合はやおさんが書いてたんですけどね。
どうせ自分が関わったってこの子が学校に行かせることができそうにないと。
だからせめて自分の命ぐらいは守りたいというわけで断るというふうに書いてたんだけど、
結局断れずに気がついたらですね。
河合先生はそう書くんですよね。
気がついたらその子の面倒を見ることになって、家にまで行かせられている自分がいたみたいな。
ここの親御さんたちは本当に大変な人たちだと。
要するにそういう力があるんだっていうことなんですよね。
そういう力があるんだけど子供を学校に行かせることはできないんですよ。
だからつくづくですね、そういうところ、そういう話ってのは、
相手が物なのか生き物なのかでもう全然違ってくる。
まして生き物でも、メダカと人間じゃ全然違うんですよね。
メダカだって結構思い通りにはならないんですけどね。
自分ガーデニングの真似事やってて、
茄子だとかキュウリだとかオクラだとかやってるとつくづく思いますね。
全然思った通りになってくれない。
レシピは作りますよ、それなりにね。
過去どうやればうまくいったか。
でも毎年電気は違う。
今年とかまた唐津湯でしたし、やたら暑いですしね。
毎年買ってきた苗もそもそも違う。
全く同じ苗って一つもないですからね、当然ながら。
同じ種類はあってもね。
土壌が変わる。
いわゆる連作障害とかもあるけど、土壌が変わるんですよ。
だからもう何もかもがある意味違うので、
同じようにはならないんですよね。
不思議なことに、活躍する虫が違う。
甘えとコントロール
害虫の種類が少しずれるんですよね。
だから同じ害虫対策は効かないんですよ。
本当にややこしいなって思いますね、生き物ってやつはね。
だから我々は生き物にすっかり燃え尽きてしまうと、
物に向かうんですよね。
物は一番自分のコントロールが効くから。
中でもITに向かうと思うんですよね。
私たちがコントロールするための対象みたいなもんですから。
昨日もピクミンやっててやっぱり思ったんですよね。
ピクミンは言うことをよく聞くなと。
ピクミンが言うことをいかに聞くかを強調しているようなゲームだなとも思ったんだけど。
そういう人をコントロールしたいという願望がですね、
僕らものすごい強いんですよね。
それをやってるだけで何時間も遊んでられるわけだから。
だから甘えというものがいかに不人気になりやすいかというのを感じるんですね。
甘えというのはコントロールでは無理だから相互関係に入っていくわけですからね。
人間関係を僕らやっぱりコントロールしたいんですよね。
支配したいわけですよ。
それはまあ自分が思った通りになるというのが、
幸せになる近道のような感じってしてしまいますよね。
だからそうなんですよ。
そういう意味でタスク管理といったようなものになった時も、
極力そこをですね、それじゃあ何のためにやってるんだろうって思うのはわかるんだけど、
ここを頑張って控えておくみたいな感じですよね。
するはしますよ、私も当然。
でもなるべく控えておく。
自分で自分をコントロールしようとしないということ。
自分は生物ですからね。
しかも目高じゃないんでね。
ピクミンでもないんでね。ピクミンは生物じゃないけどね。
コントロールなんてできないんですよ。
1.2キロ先の学校に親が行かせることもできないほど、ある意味頑固なんですよね。
これをですね、やっぱりコントロールしようとしてもうまくいかないですよ。
ので甘えるという発想の方がいいんじゃないかなと。
その時その時で新しい判断を。
これがですね、多分難しい大変だと。
なんか倉田野さんの聞き用によってはですけれども、
マインドマップの限界
宗教的ワークをやらないとひらめきってものは手に入れられないだろうっていうことで自分には無理だから、
あまりにマインドマップでひらめこうって思うんだけど、マインドマップじゃひらめけないんですよ。
僕の思う意味ですよ。
僕の思う意味、そういうノートとかではひらめけないんですよ。
理由はそこに現実はないから、一部しかないからですね。
マインドマップがあるから、マインドマップの現実はありますけど、
現実というのはこの今僕らが包まれているこの世界そのものなので、
ここと自分の中の全意識を組み合わせないと出てこないものがあると思う。
それにこういうといかにもややこしいようだけれども、これは非常に簡単で、
だからあの一歳児がお相撲さんをパチンと胸のところを叩いたらコロンと転がったと。
これがひらめきなんですよね。一歳児にとってのひらめき。
一歳児でもやれるんですよ。
あの場で一番適切なことは何かということが彼にはわかっている。
あれをやるのが彼の能力の多分限界だし、一番やってふさわしいことなんですよ。
わかるんだと思うんですよね、それは。
僕らにあれがわからないわけがないって僕は思うんですよ。
コロンと転がってあげるっていうのもお相撲さんなんです。
あれはみんな今ではテレビで見てればやっているのをいくらも見られるから、
何もひらめく必要ないようだけど、
あれ最初にひらめいた人は絶対いたわけですからね。
現実と意識の組み合わせ
しかもそもそもあそこに一歳児を呼んできて、
お相撲さんとお相撲を撮らせるっていうのも誰かのひらめきですからね。
あれを一番最初にやった人が何にもアイディアをひらめかせることなく
あれをやったってことは考えにくいと思うんですよ。
とっさに誰かが何かひらめいたんだと思うんですよ。
当然テレビもない時代から始まっていたことだと思うんですけどね。
だからそういう意味で、いろんな意味でですけれども、
現実というものには先に立つべき甲斐がない。
先に立つべきじゃないんですけどね。
だから子供を生かせるレシピみたいなのも当然ない。
そういうのがないんだけど、なくて全然困らない。
なぜなら僕らはその場に一番ふさわしいことを
その場で生み出すことができるという能力を多分持って生まれているので、
その時に僕の言葉で言うとですね、
甘えという観点が絶対欠かせなくなるはずなんですよ。
それをするためには相手の協力というか、そもそも相手あってのことで、
しかも相手の協力あってのことで、
気の独りでライブはできないといったようにですね。
セミナーもそうなんですよ。
だから原稿を読むというわけにはいかないです。
原稿を読むだけなら一人でできるじゃないですか。
誰もその場にいなくても。
その場に誰かがいないとできないことをそこでやらないと、
その場に人が来ている意味がないですよね。
今リモートだからここが見えにくくなってるんだけど、
例えリモートだとしても、原稿を読むだけなら聞きでいらないじゃないですか。
誰かが聞くんである以上は、やっぱりこの聞いている人に向かうという何かがいるんですよ。
だから今私が喋っているようにですね、
今私が喋っているのは直接誰も聞いてませんが、
これから聞かれるんですよね。
それはタイムラグなんだけど、
このこれから聞かれるということを念頭に置きながら喋るのと、
用意しておいたと同じになるじゃないですか。
ぱっと見は。
用意しておいた原稿を読んだって、
私これの動画じゃないわけだから、
わからないじゃないですか。
聞いている人にしてみれば。
でも僕はわかるんじゃないかと思っちゃうんですよね。
そしてそれだったら実につまらないんじゃないかなとも思っちゃうんですよ。
だから何にも決めておかない。
結局原稿を読まないということは、
決めておいたことを喋るっていう方向から逆に行こうとしてるので、
決めておくってこともしない方がいいし、
決めておくということをしないということは、
頭の中は何かが詰まってない方がいいってことになるし、
これから読むぞという何かみたいなやつですね。
これをやるための手順書みたいなものもない方が絶対いいと僕は思うし、
そうするといきなり始めるという結論になるわけですね。
そうやって800回まではやってきているわけですね。
つまりこのやり方に無理があるから、
800回から先はできなくなるってことは僕はもう思わないんですよね。
これをできなくなるんだとするとわかりませんけど、
Spotifyになるポッドキャストの日にTwitterに起こったみたいなことが起きるとか、
何かしら特殊な要因がやっぱり外部で、
つまり僕の中ではないところで起きて初めてそういう、
まあならないですけれどもことが起こり得る。
これがたぶんネタが枯渇するとか、
正しいやり方を見失うからとかいう理由によって、
つまり僕の内的な理由によってですね、
できなくなるなんてことはないんだろうなと。
不良の事故とかは別ですが、
それもでも外的な要因に近いと思うんですよね。
だから要はこれを禁止でもされない限りは、
これやり続けることに何ら不足というか、
障害はないということなんですよ。
これがようやくここに来たんだけど、
よくよくですね、これを聞いてくださっている方の中に、
聞いているかどうかわかりませんが、
書籍の原稿を書くとか、論文を書くとか言った時にですね、
このことをよくよく意識していただければ、
意識されないかもしれませんが、
意識していただければですね、
書けなくなるとかずっと先送るなんてことは、
起こり得ないという感じを僕は今思っているんですよね。
これが長期における先送りの話に、
一応つなげたつもりなわけですね。
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