1. グッドモーニングボイス
  2. やり直しは効かない【GMV830】
2023-08-16 34:30

やり直しは効かない【GMV830】

巻き戻せない、否定できない、否定するいわれもない。

サマリー

8月26日、スクシュとオンライントさいたまアリーナでのセミナーを紹介しています。また、ピクミン4や広島阪神戦のエピソードを通して、やり直しの概念について考察しています。限られた場面での改善の善についても考えています。ピクミンにとっては良いことかもしれませんが、全ての視点を考慮すると必ずしも善ではないことを示唆しています。過去を否定することが世の中全体を変える可能性があるため、巻き戻しは改善とは言えません。また、自分の視点だけでなく他の人の視点も考慮することが重要です。

00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
7月16日、水曜日ですね。朝の8時です。
いろいろ、うよくよく説あるんですけど、今日は4時台起きているんですよ。
非常に、なんて言うんだろうな、長い時間経過しちゃった感じがあります。
4時間くらいですけどね、3時間くらいか。
早速、CMからいこう。
8月26日ですね。
スクシュとオンラインセミナー
この日、私はスクシュとオンラインというのもやるので、両方合わせて、
8月26日土曜日の19時から手送りしないための心理学というタイトルにしているだけなんで、
すごいタイトル悩んでるんですよ、これ。
何度も申し上げている通り、精神分析の山崎孝明さんをお招きするわけですね。
オンラインでもOKで、当日ご参加いただけなければ、動画配信もその方にはします。
以降の配信、配布はしないということね。
当日人望帳にもあと2、3席あるので、こちらもぜひ。
あと2、3席全部埋まってほしいかというと、微妙なところもあるんだけど、
あと2席ぐらいは埋まってほしいなという、ものすごくこっちの都合を、
今日そういう話を少ししようと思うんですけどね。
喋ってますが、その前に私、タスクシュートオンラインをこれを家でやってから
一旦では間に合わなくなるので、人望帳に直行して、
そこでタスクシュートオンラインというのもやって、
そのままの流れで、そこでセミナーもやるという感じにしようと思ってます。
だから、予約してあるわけですね、その時間も両方とも。
これはなんかあれですね、昔だったら多分、
当日そこに集まるみたいな話もあると思うんだけど、
最近コロナ以降、ありがたいことでもあり難しくなった面もある、
このオンラインがリモートが主体となってしまったって、
少なくとも現在はそう感じられるんで。
私だけがやるわけじゃないから、タスクシュートオンラインは、
私のいるところにみんなで集まってもしょうがないんですけれども、
昔だったらこれなんかやったかもなーみたいなことを考えたりもしました。
だからこの日は14時ぐらいには二宮を出るみたいな感じなんですよね。
もしないと間に合わなくなってしまうという感じ。
こういうの時々やるんですけどね。
怖いんですよ、それがまた。
まず、すんなり入れなかったりするんですよね、難しい。
なんか独特の規制感はあるんですかね。
マンションみたいな一室にワンルームで入るっていうところって、
あんまり時間が直前だと入れなかったりするので。
そこはもう勝手知ったるところなので、
まずここに入れないということはある場合というところでやります。
そういうほうが安心でいいですよね、そういう面もある。
そういうことなので、その次の山崎さんのやつをぜひお願いしたいなと思っております。
他に何かあるかな。
今のところ考えつかないので、これくらいにしておきましてですね。
そうだ、100日チャレンジ5期の募集が間もなく始まると思いますので、
ただ、もうウェイティングリストがすでにいっぱいですからね。
ウェイティングリストのほうに登録しておいていただければと思います。
これは多分タスクシュートクラウドの公式のブログのほうに
ウェイティングリストページがあると思うので、
そっちのほうにやっておいていただかないと、
多分一般告知される前に埋まるんではないかというふうに思うので、
そんなふうにしておいてください。
もし興味ある方はですね、これ聞いてる方で興味ある方は、
ウェイティングリストのほうにこれ登録もしていない、
今初めて聞きましたという方は少ないかもしれないけど、
でもPodcastって今日から聞き始めるみたいな方もいらっしゃるかもしれないので、
言っておきますね。
ピクミン4とやり直しの概念
さっき言ったのはどういう話かというとですね、
俗にいうPDCAに関係することなのかなと思ったけど、
巻き戻すっていう発想なんですけどね、あれね。
ゲームにあるんですよ。
最近ピクミンやってるって。
最近ですね、ディスコのボスキャラみたいなのがいてですね、
踊り出すんですよ。
ピクミンを狂わせて踊り出させてしまうという。
そして狂ってる最中に踏んづけて、
みんなピクミンがあの世へ行くというですね。
そういう手強いやつがいる。
手強くもないのかもしれないんだけど、
やや手強いやつがいてですね。
繰り返しそいつ倒せない場合は、
3分前に巻き戻すとかをやるわけですね。
大変便利なセーブですよね。
要するにセーブなんですよ。
今のセーブって本当によくできていて、
巻き戻すとかって言い出すんですよね。
3分前に巻き戻すとかって。
昔私ザナルーというゲームをね、
FM7でやってた時代は酷くて、
突然ある場所でセーブをされた時にですね、
フロッピーディスクがちゃんとはまってないと、
デバイサー用エラーとかを吐き出して、
二度とそこのセーブを起動できなくなって、
しかもセーブが一箇所しかないから、
もう1からやり直すしかなくなるという、
ロールプレイングゲームなのにシューイングゲームみたいなね、
そういうとんでもない時代もあったのから比べると、
なんてすごいね、この1分刻みってどういう風にやれば
こんなほどができるんだろうなっていう気がするぐらいなんですけれども、
ローディングの時間ちょっと長い気がしますけどね、
ピクミン4の方も言いましたが。
こういうものでゲームすることに慣れちゃうんですね。
なんかこうPDCAみたいなのが当たり前じゃんって思うところがあると思うんですよ。
世界線とかっていうのかな。
ここの時点に戻ってやり直そうみたいなね。
だからそのためにも記録をちゃんと取っておく。
記録がセーブみたいな意味に感じられてくるんだと思うんですよね。
僕らは万能空想の生き物ですから、
基本的に現実自覚というのを空想を織り混ぜちゃってますからね。
イリュージョンと意味付けの世界にまみれているわけですね。
こういうことをやってると、
いやここでさらわって奥さんと喧嘩になったからさらわる前に巻き戻そうねみたいな
風な気持ちになるじゃないですか。
それは無理なんで。
たとえどれほど時代が進むのよ、そんなことはそう簡単にはできないんで。
何をするかというと、
さらを二度と割らないように記録をつけておき、
記録をつければ人生が改善していくっていう発想が出てくるわけですよ。
多分これがPDCAがタスク管理に、タスクシュートにもね、
適用されたときの発想だったと思うんですよね。
私これ鼻肌むちゃくちゃだと思うんだけど、
全然これが普通に受け入れられつつあるという世界もある。
世界っていうのかな。
考え方もあるっていう感じなんですね。
私は別にこのPDCAの発想で生きているよっていう人と議論したいとは思わないんですよ。
ディスカッションがしたいとも思わないんですね。
無理だろうなっていう風に僕は思ってるってこともあるし、
ディスカッションをしてみたところで、
なんとなくそれでうまくいってる人を解き伏せるところまで、
私が熱っぽくできるとも思わないし、
私の考えがそれによって変更される気もあんまりしないんですよ。
だからディスカッションするほどの価値はないなっていう気がしなくはないんですけど、
今日その話をでも訴状に一応挙げているのはですね、
この発想には昔から精神分析でもよく言われている、
一期一会というのを頭から罰をつけている感じがあって、
この考え方って行き詰まらない間はいいと思うんですよ。
これはGood VibesでKurasunoさんが時々おっしゃっているんですよね。
それでうまくいってる間そうしておくのがいいみたいな。
結局僕らは何もかも分かっているわけじゃないから、どんな人であったんですね。
うまくいくと感じられている方法で生きていくっていうのは一番都合がいいと思うんですよね。
正解がない以上、正解が分からない以上かな。
私は特にPDCAっぽいやり方というのはずっと見聞きしてきていて、
私自身がそれを採用したと思うことってほんの短期間にやってみようと頑張って失敗したという程度のことでしかなくてですね、
もともとそんなにこれを受け入れる気持ちにはなってないんですね。
というのはあれはそもそも、とことん精密に言うとあれはニュートンの発想を借りてこないとならないんだけど、
ニュートンってすでに否定されてるじゃないですか。
アインシュタインに否定されてますよね。
その分量子力学にも否定されてる。
要はああいう発想ってあり得ないと思うんですよね。
だからもともとこれっていうのはどこか疑似的なものでしかない。
厳密性というのは最初から書いた話なので、
どこか疑似的、人間社会に切り取って、
さらにこの場面だけに限定して初めてPDCAみたいに、
例えば車の工程において車の性能だけにこの話を適用するとか、
それでも本当にそうなってるのかなという疑問は車の運転してるとむしろあるんですけどね。
車って全く同じように見えるけど、
全く同じ車種、全く同じタイミングで作られた車種に乗ってみると違うんですよね。
違うということが体感ではわかる。
所詮ものですからね、はっきり言って。
どれほど精密に作られていたとしてもですね。
日本車すごいですけどね。
アメリカに行くとびっくりしますよ。
全く同じ、これはプリウスですっていう、ただし外国製のプリウスね。
プリウスという名前じゃないですよ。
乗るとまっすぐ走んねえって思うんですよ。
まっすぐなんて走る車ってそうはないんですよ、世界的に見ると。
なんかこう、今ここでブレーキを踏んでるんだけど、
かかるタイミングが違うみたいなね。
ちょっと速いとかやや遅いとか。
慣れるんですけどね、はっきり言って。
慣れて上手くなりますから心配いらないんだけど。
まっすぐ走んなくても大丈夫なんだけど。
そう思えても日本車ってすごいんですよ。
狙ったタイミングで止まれるし、
まっすぐ走りますからね。
なんでまっすぐ走るんだろうって考えてみるとね、
道路って全然まっすぐじゃないのにね。
アメリカの道路なんかめちゃくちゃまっすぐですから。
だからまっすぐ走んないことはすぐ分かっちゃうとも言えるんだけど。
いや僕も本当、こんな半額で買えるプリウスなんだから、
全然いいじゃん、何せいでもと思って乗って、
まっすぐ走らないことに衝撃を受けることがあったんですけど。
何の話をしているのか、PDCAね。
だから質を良くするとかはできると思うんですよ、当然。
ただ巻き戻すことはできないと思うんですね。
で、巻き戻せたら大変なんですよ、実は。
なんで私たち、PDCAでもそうですし、
のび太君のタイムマシンでもいいんですけど、
自分の時間だけ戻ると思っちゃうのかってことですよね。
ピクミンやっててもそうじゃないですか、全部戻っちゃう。
あれ、倒す側の立場になってるからあれでいいかもしれないけど、
倒される方にしてみるとたまったもんじゃないですよね。
やっとこの訳のわからんピクミンをね、
再類合しじゃないけど、変なドラッグで踊らせて昇天させたというのにですね、
また3分前に巻き戻されて、また1からボス側の観点に立てばね、
やり直しをさせられるわけですよ。
自分が倒されるまでやり直しさせられる。
この観点から見たらたまったもんじゃないと思うんですよね。
大体あのピクミンっていうゲーム4をやってて、
これどっちが正しいと思って行動してるのか。
昔の悪いドラゴンを倒すやつは基本的に主人公は正義の側にいるけど、
ピクミン4はこれは正義なのかっていう感じがすごい見ててするんですよ。
やばい生物にしか見えないなっていう時が時々あってですね。
これは多分そういうコンセプト絶対考察している人たちいるだろうなと思いながら、
楽しくやってるんですけど。
広島阪神戦の本塁打とやり直しの概念
昨日ね、広島阪神戦が、野球興味ない人すいません。
2分ぐらいで終わるんで。
あったんですけど、佐藤照明という去年から活躍中の新人さんがですね、
新人に近い人がですね、ここというところで本体したんですよ。
あれは痛かったよね、瞬間から見ると。
ここだなっていう、NHKで勝負願とか言ってるこのタイミング大事ですみたいなね。
外せられることもあるんですけどね。
解説の人が掲げるまさに勝負願的なタイミングで本体したんですけど、
あれやり直させられたら終わったもんじゃないですよね。
広島の側からすれば、カープファンにしてみれば、
ここでテルワ球打ち取ったのに、
なんかよく分からないけど時間も巻き戻されてやり直しになりました。
打たれましたって、終わったもんじゃないじゃないですか。
だから、いろんなことがこの世の中では起きているわけですよ。
どこかに時間って限定できないじゃないですか。
だから私の皿を洗ってしまった、これはいけないと。
ちょっとPDCA的にここを巻き戻そうと。
いや何、2分のことだから大した問題じゃないでしょうと言うかもしれないけど、
この2分の間に佐渡テルワ球はボンタリしてたりするわけですよ。
そういうことを全部やり直させることになっちゃうじゃないですか。
時間を戻すということをやるとですね。
つまり改善というのは、
限定された場面だけにしか成り立たない話なんですよ。
なぜそれが善なのかってことなんですよ。
結局それはピクミンにとっては、
ミラーボールみたいなミラーボールが生物化したやつを倒すのは善かもしれないけど、
倒される方にとってはそうではないわけですよね。
世の中ではいろんなことが同時多発的に起きているわけですから、
私の人生を改善するために時間をいちいち巻き戻していたらですね、
大変なことになっちゃうじゃないですか。
そういうことは実際はできません。
そして、これは空間的な横の広がりの話ですよね。
藤沢さんが大いに防衛をしたというのにですね、
時間、いやいやちょっと、僕はこのタイミングで先にトイレ入って、
シャワー浴びてからトイレ入っちゃったんだけど、
ちょっと順番的にやっぱりトイレに行ってからシャワー浴びたほうが
お尻綺麗になるしねということで、1時間ほど巻き戻したと。
そしたら藤沢負けちゃったっていうのは困るじゃないですか。
そういうことを全く僕らは考慮に入れてないわけですよ。
なぜかというと、多分僕らはですね、
自分だけが前傾にいて、他は全部背景だとでも信じているからなんだと思うんですよね。
ゲームっていうのは確かにそうなんですよ。
ピクミンが主人公であれば、あるいはマリオが主人公であれば、
他は全て背景なんですよ。
もっとも今のゲームってすごくて視点移動ができちゃうんで、
主人公以外の視点になって主人公を見てると、
ちゃんと主人公は正しいところで戦っててね。
自動ですけどね、戦ってて。
その時にリアルタイムに起きていることを異なる視点から見れると、
これ進んだらすごいだろうなって思いながらもですね、
演出はそうはないわけですよ。
主観に前傾があり、客観は所詮背景だから、
だから巻き戻すなどという平然とするをやれる。
私が巻き戻してる間にJさんが何か告知文書き上げてもですね、
30分前に戻ったから告知文白紙になりましたみたいなことが起きちゃう場合ですよ。
そういうことに気づかないでしょうけどね。
このようなことが本当に起これば。
自己矛盾と精神分析
とにかくそういうことがいくらもあるわけだが、
改善前といったときは実は自分勝手な観点を取ってるわけですね。
しかもそれをものすごく限定しているわけです。
ピクミン死んだ方がいいという人っているのかな。
ゲーム中のものにはいっぱいあるわけなんだけど、
それは絶対許されないから何度も何度もやり直されて、
結局のところは自分が倒されるまではやり直す。
これが善なわけですよ。ピクミン的に見ればね。
だから僕この改善の善、
本当にうさんくさいなっていつも思っているんですよ。
なんでそれが善だと。
どういう観点から見るとそれが善になってる。
しかも絶対善みたいになってるじゃないですか。
PDCAっていうのはね、
必ずいい方向に人生を方向づけますっていうわけですよね。
その時はっきり自分にとって良いと言える成果が出た時だけを
記録の上で残しておいて、
そこを追求していきますっていうわけですよね。
それってやっぱりピクミンのやり直しと
全く同じ発想に基づくものだなと。
ピクミンはいいんですよ、あれで。
ああいうシステムなんだし、
巻き戻しってのはそのためにあるわけです。
あれが昔のXanaduみたいにね、
デバイスIoエラー出ましたみたいな。
困ったもんじゃないですよ。
僕一度酷い目に遭ったんでね。
レベル10まで行って、
急に最終ボスがいて、
10に行ってから急に戻るってシステムで。
10に行くまでには、
この話したことがあるような気がしてきたけど、
6ヶ月以上中学生の段階ではかかってたんで。
パワーですよ、それが。
デバイスIoエラーとか。
本当にすごいシステムだった。
あれはシステムじゃないな。
システムの不備ですね。
ゲームはそれではたまらないので、
やり直せないとダメですが、
現実はやり直せないんですよね。
全体に同じ、全く同じものは。
このことをですね、
一番激烈というか、
激烈でもなんでもないんですけど、
強い調子というか、
本当の意味で、
私たちに迫っている発想が精神分析にあって、
こういうことですよ。
あなたは父母のセックスを、
この業で一番素晴らしいものだと思わなければならない。
って言うんですよ。
「気持ち悪い」という発想
これができないということは、
それを言っている自分を否定することになっちゃうから、
言えないってことになってるんですよ。
こういうカラクリが精神分析多いなって、
よく思うんですよね、私は。
これは本当につくづくそうだって思うんですよ。
いや気持ち悪いでしょって言った瞬間というか、
言っているっていう行為がすでに、
自己矛盾の塊なわけですよ。
気持ち悪いということは、
それを否定するってことになるじゃないですか。
しかしそれを否定するということは、
気持ち悪いという発想ができなかったということになりますよね、
当然。
生まれてないんだから。
生まれるためには絶対必要なものですよね。
生まれるために絶対必要なものが気持ち悪いのであれば、
その気持ち悪いという発想は、
生まれていないってことになりますよね。
気持ち悪いという発想を生み出しちゃったんですけどね。
言い方を変えれば。
だからこの種のこと、
これがなかったらよかったと言っているのは、
なかったらよかったという発想自体が、
なかったことになっちゃうわけですよ。
発想するためには生きてなきゃならない。
生きるためには生まれなきゃならない。
生まれるためには不防がしなきゃならないでしょ。
それを否定することは、
からくりからしてできないということなんですよね。
原理的にそれはできないことをやろうとしている。
これがPDCAにあるなという感じがするんですよ。
少しずつ少しずつ巻き戻していくと、
結局そういうところに行き着かざるを得なくて、
そこを否定するってことは、
今を否定してしまってるから、
今はないってことになるんで、
今がなければ、
否定するということ自体ができないわけですよね。
ということは、
否定するという行為は、
存在してないってことになるわけですよね。
なんかこう非常に何かの問答みたいではありますが、
それは僕は確実にそう言えるなと。
だから、
どこのセックスをこの世で最高のものだと思えるかどうか、
という問いが、
精神分析、フロイトではないんだけど、
いかにもフロイト的ではありますけどね。
フロイトではなかったと思うんですが、
この問いがあって、
僕はこれすごい重要だと思うんですよ。
クラゾーのケドさんがグッドバイブですね。
従前従尾って最近おっしゃってますけど、
要するに、
自分は最高のもので勝ちマックスって思える。
これが思えるってことは、
当然その前にあったことは、
最高のものだってことになりますよね。
最高のものでなかったって思うのは、
大変、
傲慢といえば傲慢って言い方ができるかなって感じがするんですけど、
とにかく凄まじい発想なわけですよ。
例えば、
もうちょっとマイルドにして、
自分のマスターベーションはOKだが、
親父のは許せないってなると、
これも相当な意見になるじゃないですか。
何の権利があってそれが言えるんだろうって感じが、
やっぱちょっとしますよね。
これは今のほど、
原理否定的にはならないんだけれども、
やっぱどっかおかしいだろうって感じはするんですよね。
自分の肯定するなら、
親父のは当然否定できないことになりますよね。
僕はやっぱ感じるんですよ。
だから自分が勝ちマックスだということになると、
当然それは勝ちマックスだということになるんだけど、
果たしてそう感じられてるだろうかって言うと、
鼻肌歌が欲しいと。
ただ以前に比べると自分はですね、
もう50にもなって、
ここが気持ち悪いとかっていうことは、
さすがにないなって感じはするようになってるんですよ。
これがですね、
もし気持ち悪いと感じるとすると、
それはそう感じさせられるように、
私が何かを教え込まれたに違いないなと思うんですよ。
ここがすごく精神分析だろうなっていう風に、
私はやっぱ思うんですよ。
これが気持ち悪いっていうのは、
たぶん生まれながらにして持った感覚とは、
ちょっと信じられない。
これが気持ち悪いというのは、
おそらくは作り出された、文化的に教え込まれた、
何かしらの表情なんだろうかと。
ルールと言ってもいいに近いものなんだろうなと。
みんな当然そう感じるよね。
でもこれってそう感じるっていうのは、
鼻肌矛盾しているものなので、
なぜそう感じなければならなかったのかと、
そういう風に感じさせることに、
具体的にどんなメリットがあるんでしょうっていうのを
考えていくのは、
ちょっとフェミニズムっぽい考えかなとは思うんですけども、
私はすごい大事かなと思って、
いろいろ探ったりはしているんですよ。
自分の感覚に寄り添いながらというのかな。
気持ち悪いとか否定的になりたいという気持ちがあるとすると、
おそらくそれを教え込むのは、
おやなんだと思うんですけどね。
そこに何かがあるんだろうなって感じがする。
気持ち悪いと感じるって時には、
もう物心はついていたんだ。
当然教え込んだのは物心がつく以前だった。
よく女の子が春季に特に中学生ともなると、
男親を気持ち悪いと感じるようになるっていう、
鼻肌マコト氏役に言われているですね、
面白い都市伝説みたいなものがあるんですよね。
ハテナとか読むといくらも出てくるんですけど、
これもそれに関連しているなと思ってたんですよ。
私はその現象がどのようにして起きるのかに、
非常に興味深かったんですよね。
というのは、私と娘の関係は良好だったので、
ずっとこれが否定的になるという時には、
まず何から始まり、どういう展開を経て、
どういう風に成立していくんだろうというのに、
非常に興味があったんですけれども、
実際にはそれは起きないんですよね、現段階ではね。
中学になってるんだけど。
これは昔は当たり前のように起きていたんだとすると、
今は起きにくくなったんだろうなって感じがするんですよ。
ということはですね、
社会的に以前あったメリットの何らかのものが、
今はもうメリットではなくなりつつあるんだろうな、
っていう風に思うんですよ。
そうとしか思えないんですよね、これは。
だって多分、教えとしてはないと思うんですよ。
自分化された教え、
思春期になったら女の子はお父さんを気持ち悪がりなさいと、
いやこれはもう常識だから、
これから学校で教えますみたいな、
僕は聞いたことがない気がするんですよね。
例えば40年前だとしても、
そういうのが明治的に習ったという記憶はないなって感じがするんですよ。
同じようにお父さんとお母さんのセックスは、
良くないものなので気持ち悪いと思いなさい、
っていう風に僕は習った記憶はないんですよね。
やっぱり40年前からもずっと習った記憶はない。
過去を否定することと巻き戻し
気持ち悪いよねっていう人はいましたよ。
でもそれは教えではないですか。
その人がそう感じてるんだよ。
あなたもそうでしょうぐらいなノリなんで。
別にどっちでもいい、じゃあどっちでもいいわけですよ。
どっちでもいいものは教条とは言わないですよね。
教える条ね。
あ、私はその辺すごく興味深いと思うんですよ。
社会文化的なこれは何か伝えていかなければいけないと
昔は思われていた何かに違いないんですよ。
これは多分男尊女卑との絡みがあると僕は思うんですけど。
その辺のことを全部考慮に入れて考えてみると、
少なくとも過去って否定できないって感じがするんです。
結局過去を私の都合で否定してしまうと
世の中全体を変えなきゃならない。
なりかねないのが一つと、
自分が今生きているということが相当怪しくなってくる。
ほぼのそれは思いっきり直接引っかかってくる。
でも本当はそうじゃないと思うんですよ。
私たちが生きているというのは
結構微妙なものの集合によって成立している感じがするので、
この一部、動く一部の皿割ったとかだけを切り取って
ここだけ無しにするってことをやると
何かやっぱりですね、
よっぽどまずいことだって起こりかねないんじゃないかっていう感じが
私の中でやっぱりするんです。
実際にはそういうことは試すことはできないから
それについて心配する必要はないんですけどね。
試すこともできず否定することもできず
心配する意味も全くないとすると
残るは一個しかないと思うんですよね。
前行程しかないと思うんですよ。
精神分析の人が言った通りなんですよね。
予防のセックスを最高のものという風に
みなす以外はないんですよね。
そうしないと自分は存在しないか
最低のものになっちゃったりするので
しかもそうしなければいけない理由は
今言った通りないわけじゃないですか。
自分を最低のものとみなさいとか
そういう気持ち悪いものとみなさいっていう風に
社会から指令が出てるわけじゃないんですよ。
自分が趣味としてですね
自分を苛むのが大好きとかね
これはマゾキズムなんだけど
自分が最低最悪のものだと考えると
とっても気分がいいとか言うんだったら別なんだけど
そうでないならば
一体これは何のためにやるのか
誰にも求められておらず
誰にも命令されておらず
しかも結局のところは不可能なことをですね
趣味以外でやるんだとすると
理由が一切なくなってしまうんですよね。
だから僕PDCAというのは大筋無垢だと思うんですよ。
つまり改善の余地はない気がするんです。
最高のものを改善するということはできない。
改善するということは否定をやっぱりそこに含むと思うんです。
否定できないんですよね。
多分。
一見したところ
お父さんとお母さんのそれに比べると
ダイレクトに脳つながりが分かりにくいから
あれなんですけれども
多分皿を割らなかったら
僕は今存在できてないって可能性はあり得ると思うんですよ。
それを含めても割らないのが改善だとは言えないと思うんです。
どっちにしても同じことになっていくんだけれども
さっき言ったように横で起きていることがありますからね、実際にはね。
視点を変えれば何が善かが変わるだけでなく
かなり大事なことが同時刻に起きている可能性があるんで
全部戻さないとおかしな話になりますよね。
僕の部分だけ戻るといった場合
僕の部分ってどこなんだって
話も実はあるわけですよ。
私の肉体だけなのか
私の肉体だけ巻き戻してもダメですよね。
皿も戻さないと。
皿と私の肉体だけなのかっていうとそうではないですよね。
家族の時間も戻さないとダメですよね。
こう考えてみると
巻き戻すってのは実はすっごい
広がりを持たないとまずいわけですよ。
宇宙空間全域とは言わないけど
地球ぐらいは戻さないとダメだと思うんですよ。
もう一つが巻き戻しじゃないのであって
これ全く同じことが起きたら
その時改善するって話なんだけど
全く同じことが起きたにもかかわらず
ある事件が起きる直前だけ
変えることってできるのかなってのはありますよね。
全く同じことってのはそもそもなんだってこともあります。
同じ皿は割れませんからね。
割れてしまった皿と全く同じ皿を
もう一回割るってのはおかしいんで。
巻き戻しと変わらないんで。
似たような皿ですよ。
さっきも言いましたけど、一番最初の方に言いましたけど
全く同じ車であっても全く同じではないですからね。
皿は全く同じと言ってもいいかもしれませんけれども
それを割る全く同じシチュエーションがやってきた時に
まさに割るしかないという時にですね
そこで割らないという行動を選択できるものなのか
っていうのもありますよね。
自分の視点と他の人の視点
条件がそこまで完全に一致しちゃっている段階で
私の行動だけを取り替える。
結局この辺のことって全部ですね。
私の主観だけが前傾に回り
他の客観は全て背景に退いているというか
その私が生きるための舞台装置かなんかだという認識が
ここにはあると思うんですよ。
だけどこれは私の目を通すからそうなのであって
さっきのミラーボールのラスボスみたいなやつね。
あのキャラから見るとは全然違う光景なわけですよ。
結局僕らは自分の観点以外の人の観点が
全部この世の中にあるわけで
客観というものは多分ないと思うんですよね。
全てという多種多様な主観があるだけで
それも膨大な数ありますからね。
これを全部背景だっていう風に考えるっていうのは
やっぱり著しく無理がある。
よくとそれは私が大事だっていうことになるし
それはそれでも悪いことだとは思わないんですけども
確かにピクミンやってればピクミンがすげえ大事ですけれども
一匹も殺さないで最後までいけると思うなみたいなこと
ツイッターで書いてある意味がよくわかったんですけど
そうは言ってもですね
やっぱり大事なのは自分だけではないだろうと
ごく常識的にそういう風なことを思うと
やり直せないだろうかって感じがするんですよね。
そしてこの話は今日はこれでおしまいにしますけど
この話は結局事前の決める通りに動くことも
同じ意味でできないという話とつながりがあります。
これに関してはまたそのうちにってことにしますね。
この話もちょっと前に結構突っ込んでやったような気がするので
こんな感じです。
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