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おはようございます。みんなのセラピー心理学です。
今気づいたんですけどね、タスクシュートで、私これまだ、
グッドモーニングボイスっていうのの頭文字を取っていたまんまなんですよね。
みんなのセラピー心理学とかに入れ直してなかったんですよ。
自分の中では、GMVって固まっちゃってるんで、
これで、これの方が分かりやすいということがありましてね。
それで、全然気づかずにGMVで、そこに疑問を持たなかったんですけれども、
考えてみるとこれは、どういう風に変えればいいのかな。
まあいいや、みんなだからMTPとかなんか、
多分そうすると分かりにくくなるんですよね、私的には。
みんながMっていうのもどうかと思いますしね。
そんなような感じで、あまり意味がないことを喋っております。
こういうことをやってるから40分とか平気で言っちゃうんですよね。
なんとか30分以内にね、10分縮めればいいだけじゃないかと思うんですが、
40分喋った時の方が、喋り切った感というのはあって、
だからなんだっていうこともあるんですけどね。
長いっていうのは思ってます。思ってるんだけど、
意外にこれぐらいかかっちゃっているんですよね。
同じことを重複して喋ってもいるんですけどね。
一つお知らせというか、別に目新しくないですが、
12月中の60分対話はまだお申し込みいただけます。
それで一つ分かったんですよ。
この対話の役割として非常に大事なものが一つ。
これだけではないんだけど、というかどんなお悩み相談であろうとも、
心理学の話であろうと、タスク修道の話であろうと、
およそ私が喋れそうなことであればなんだって構いませんが、
一つ、最近何度も受けているうちに、
私に求められているものってこれが一つあるんだなというのが分かったんですけど、
カウンセラーじゃない人が、しかしカウンセリングっぽいこと、
セラピストっぽいこと、アドバイザーっぽいことをやらなければならないことは、
専門の資格を取る以前にやらなければならないんですよね。
学校の先生がそれに相当します。
特に大学の先生、大学生って大人ですから、
そこからの相談って必ず受けるハメになる。
ハメって言ったら悪いかもしれないけどね。
なると思うんですよ。
その時にどういうことを考えておくと良いかみたいなお話は、
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私は割と受けられるなと。
なぜなら私も専門の資格を持たない、こういうことをやっている人間だからですよ。
いや、それ専門の資格持ってなきゃダメでしょうって言われるかもしれませんが、
専門の資格を持っているというのは、いわば臨床の専門家じゃないですか。
だからもちろんその受け答えに関することとか、
いくらでもアドバイスできるという面もあると思うんですけど、
それはカウンセリングとはまた違うわけですよね。
この世の中にはカウンセラーではないんだけれども、
そういうことから逃れられないという職業って実はかなりあるんじゃないかと思うんですよね。
だからこれはもう余計なお世話なんですけど、
世の中の臨床心理の方々には、
もちろん臨床というのが引く手数であるというならば別として、
仕事にちょっとことを欠いているという場合には、
ここは仕事になるんじゃないかなというふうに思いますね。
私が今言ったような募集というのをうまくできれば助かる人というのは
いっぱいいるんじゃないかなという感じがします。
いわばスーパーバイザーになるってことなんですよね、これは。
スーパーバイズなんだけれども、
スーパーバイジーはカウンセラーではない。
カウンセリングをこととする人ではない。
大学の先生とか高校の先生もありだと思いますね。
あと私意外とあると思うのはお坊さんとかね。
いやそれもおかしいだろうって思えるかもしれませんが、
ヨーロッパではウィニコットに牧師が聞いたという話があるんですよね。
牧師の人が懺悔で、
どういう内容から精神分析なりカウンセリングの専門家に回すべきなのか。
これ偉いなって思うんですよ、質問としてこれを出すっていうのは。
ウィニコットの答えがなかなか古っててですね。
話聞いててあまりに退屈だと思ったら私のところに回してくださいと。
あるいは私たちのところに回してくださいと。
話聞いてて興味深いなと思う限りはそちらでやっていただいた方がいいと思います。
みたいな答えがあって、これはすごいいい答えだって私は思うんですよ。
今日はその詳細は省きますけれども、
話を聞く仕事ってのはそういうことだなっていう風に私は強く思います。
その話の流れなんだけれども、
だから私の方に対話で持ち込んでいただいて、
意外と良さそうなのが、
例えばですけど、学生さんがですね、
一番ありそうなのが論文書かないとか、
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提出物持ってこないとか、
あるいは提出物の話をすると連絡を立つとかね、
そういったお話は少しは私の方では役に立てるかなと。
ある意味これ先送りだし、
非常に対人的な部分における神経症的な部分もありますし、
しかもいかにもありがちなことなんですよね。
全く同じじゃないですけど、
これ私のやってきた中で言うと、
こういう読んできたものとして臨床的な話でもあるし、
私が考えてきたタスク管理的な話でもあるんですよね。
両方被っているんですよ、この問題っていうのは。
なのでこういう話は話すことだったらいくらでもあるなって感じはします。
そういうCMでした。
これで7分だもんな。
やっぱりこれ使い過ぎ感がありますね。
今日のテーマは甘えなんですよ。
私この甘えというのは2023年ではかなり取り上げたいと。
僕が言っているこういう予告めいたものは、
大体全くそれをなさないまま終わるっていうケースが、
よく倉園さんにいじられるんですが、
そうは言っても取り上げたいと今思っていることは間違いないので、
甘えの構造っていう本があるんですけれども、その甘えです。
で、大分頭の中でまとまってきたっていうこともあって、
最近ちょっとこれ喋ってるんだけど、
何がこれのいいかというと、
やっぱり日本人にとってこの番組で何度か言ってる通り、
日常語であることが非常にいいんですよね。
一時ナルシシズムとか一時愛と違って、
あるいは受け身的対象愛とかいう言葉と違って、
説明は必要としませんよね、甘えといえば。
甘えというのは、そしてネガティブな響きがありますよね。
ここが今回の願木なんですよ。
どうして甘えというのはネガティブな響きがあるのかと。
全然ネガティブなものではないはずなのに、
なぜこの言葉は日本語では特にネガティブなのか。
思うにですね、そこに逆説があるんですよね。
甘えが満たされているとき、
我々はそれを自多共に自覚しないからなんですよ。
よく喋ってる、こっちは説明を必要とする言葉ですが、
環境としての母親との兼ね合いで、
私たちはそれにすっかり頼り切っていて、
しかもそのことに何ら罪悪感を抱かなくていいっていう、
なんて言うんですかね、
なんと言えばいいんですかね、これは、という願望があるんですね。
つまり満たされている甘えについては、
自分が甘えているという自覚がないんですね。
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そして満たされている限り、
それを周りもことさら問題視しないんですね。
これが甘えなんですね。
甘えはベースとして自覚されない、
自覚もしにくい、つまり不可視なんですね。
見えない。
で、意識もしにくい。
だから悪い意はそこには出てこないということです。
で、それは満たされている場合にしかし限るんですよ。
ここに逆説があるんですね。
見えないときは満たされているわけです。
ということは、満たされていない甘えというものがあって、
これが見えちゃうんですね。
そして見えたときは悪く見えるんですよ。
だから甘えというものが言葉になったとき、
言葉として発されたとき、
他人が注意を引き付けたとき、
他人がそれを見たとき、
認めたとき、
自覚したときは、
それはネガティブな響きを帯びちゃうんですね。
ここに大きなポイントがあると思います。
日本人と甘えとすみませんというのは、
私はセットだと思うんですけど、
多分ですね、これは日本人がここを逆説的に使うのは、
日本人がやっぱり甘えというものをよく知っているからなんだろうなって思うんですけどね。
世界中にあるものなのに、
日本人はこれをやっぱり見抜いたというのかな、
とにかく日常に持ち込めるところまで持ってきたっていうのかな、
そういうところがあるんじゃないかと思うんですよ。
とにかく私が考えるのは電車の中で席を譲られたときなんです。
断ることが多いと思うんですよね。
ありがとうございますと言って座れる人は少ないと思うんですよ。
座ったとしてもすみませんって言うと思うんですよ。
でも結構ですからっていうパターンが多いんじゃないかと思うんですよね。
これが外に出たときは甘えはネガティブな響きを帯びるっていう、
なんて言うんですかね、
現象をよくよく表していると思うんですよね。
なんて言うんですかね、あえて説明するならばですよ。
これは不自然ですけど、
私は座りたいと思うほどあなたに気を使わせてしまってごめんなさいっていう意味だと思うんですよね。
つまり、私は座りたいというのをにじみ出させてしまってました。
甘えていましたっていう意味だと思うんですよ。
で、満たされていない甘えなんですよね、これ。
座りたいわけだから。
座りたいのに座れてないってのは、満たされてないですよね。
満たされていない甘えと言うのは悪いんですよ。
満たされていない甘えを出してしまった人は、そのことについて謝るんですね。
でも、その人は甘えてないわけじゃないわけですよ。
例えばその人は電車に甘えてるわけですよね。
まあお金は払ってますけどね。
この辺がだから環境都市との反応とよく似てるんですが、とにかく電車には甘えてますよね。
でもここを問題視する人は誰もいませんよね。
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いや、私電車に乗っててすみませんっていうのはちょっとこれは自己卑下しすぎみたいな、そういう感じがあるわけですよ。
電車に乗ってるというのは誰もそのことをことさらん問題にはしない。
つまり私たちはデフォルト甘えているんだけど、そのデフォルトの甘えはほぼくぶくりん満たされているので、
自分でも自覚はない、申し訳ないとも思わない、
人がお前甘えてるなということもない、
人がお前甘えてるなって言うとするとそれはよほどなんですよ。
よほど外に漏れ出てしまっています。
別に漏れ出てもいいと思うんだけどね、漏れ出てはいけないというのが日本の文化なんだと思うんですよ。
ということはね、日本の文化というのは実は人が甘えが満たされていないという状態に放置しない、理想を言えばですよ。
そういう状態に置かない、完全にその人が甘えたいという自覚がなくなるところまで甘えさせてあげる。
これをおもてなしって言うんじゃないかなって思うんですね。
行き届かないとかって言うじゃないですか。
行き届かせようという意志がそこにはありますよね。
つまりその人が甘え満たせてないなっていう風にかすかでも思っちゃダメみたいなね。
だからとことん甘えさせてあげるおもてなしっていう感じになるんじゃないかと思うんですよ。
というわけで甘えが外ににじみ出ちゃったらお互いがやまんなきゃならないんですよ。
あっ気がつきませんって、いえいえそんなことはっていうやつをやんなきゃならないんですよ。
なんかちょっと、何て言うんですかね、いつ終わるんだそのやり取りはっていう感じもするんですけどね。
だから甘えが外に出ちゃいけないわけですよね。
この甘えが外に出ているかどうかをやたらと気にするのが僕は強迫症ってやつに日本人の場合はなると思うんですよね。
申し訳ない感じがするわけですよね。
甘えがにじみ出てしまったみたいなね。
それに対して手当てをしなくても、手当てをしてもいいよって相手が言っても
それでは私の気が済みませんからっていう気が済まない問題が登場しちゃうわけですよね。
それは甘えさせてあげられなくてすみませんのことはわかりましたけれども
こちらとしては気が済まないから返礼をしなければならないみたいな
そういう甘えがにじみ出たことに対するけじめをつけなきゃいけないというようなところまで行っちゃうわけですよね。
この辺のやりとりって僕は多分英語でするのはほとんど不可能か
できる人でも相当困難なんじゃないかというふうに思います。
そして理解されないと思いますね。
もし適切な表現というものを仮に使うことができたとしても。
でもここは先に行くとして、まずここまでは正常の範囲内だと思うんですよ。
ちょっとやってることに息苦しさなど心苦しさなどが若干感じられるかもしれないけど
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全然病理じゃないですよね。
どうもすみませんとお礼を言うっていうのは病理じゃないと思うんですよ。
ありがとうって言える人の方がいわゆる自己肯定感は高そうな感じがするんだけれども
だからつまり人に容易く甘えられるというのは自己肯定感が高いんですよね。
自己肯定できている。最近流行りの言葉で言えば。
別の言い方をすると甘えられる。
つまり席を譲られたときありがとうと言ってサラッと座れるっていう
例えば子供なりがいたとするとその子は相当健全度が高い感じがします。
にじみ出ている甘えというものを人からケアされてもそれを受け入れることができるから。
逆ここを考えてみると受け入れられない甘えというのは
どこか甘えというものに線を引いて悪い甘えというものを意識しているわけですよね。
ちょっと文脈が変わりますけど
ここに最大のポイントがあると思うんですよ。
悪い甘え、いい甘えを区別するにせよですね。
そこに客観的な区別できる線とかあるはずがないわけですよね。
そこがその人その人であやふやなわけですよ。
ある程度の社会的文化的なこの辺かなみたいなのがあるんですよ。
そこに厳密な線は引けないと思う。
だから脅迫症の人はそこに厳密な線を引こう引こうと頑張って苦しむわけですよ。
これは元々原理的にできないことを無理やりやろうとしているからそういう事態を招くんですよね。
でも、にじみ出てしまった甘え、つまり甘えというのは
満たされていて見えない状態になっていなければならないのに
それが見えるように外に漏れ出てしまった
その部分は悪いとみなして申し訳ないという風に言う。
つまり自分のにじみ出た甘えについて
それは悪いからそこについて悪かったですねっていうのが正常な状態だとすると
ここにややこしい問題が発生する原因があるわけですね。
もしある種の人がこの半径を非常に狭く捉えた場合
つまり良い甘えと悪い甘えっていうのは結局
満たせているか満たせていないかで決まってくるわけだから
満たせている半径が広い人ほどあまり苦労せずに済むし
悪いと思う半径が小さい人ほど
つまり良いと思える半径がでかい人ほど
人に頼ろうという形を取るじゃないですか。
電車に乗るここまでは電車に乗っている人みんなが受け入れられる
でも責任を譲られる
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ここまでは受け入れられる人と受け入れられない人といる
害して受け入れられる人
つまり受け入れてしまえばそれは全部は良い甘えですから
ここが主観と客観の微妙なやり取りなんだけど
受け入れてさえしまえばそれは良い甘えなんで
つまりそこが個人の裁量権なんですよ
ここがだから客観的に決まらないんですよね
いやもうありがとうございますって感じよくできるっていうのは
受け入れるのが上手いっていう言い方をするのはちょっと変かもしれないけど
でも甘えが良い悪いについて良いと思える範囲が広い人なんですよね
で狭くじゃあ逆にぐーっと狭くすると何が起こるかと
僕はこれをロイさんの本読みながらずっと考えていて
いろいろ見えてきたものがある気がするんですね
人によりもぐっとこれを狭くすると
ストイックで良い人ができるかというとそうは絶対にならないんですよね
ぐーっと受け入れられる甘えの半径が狭まるとですね
当然その人が自分で満たし得る
あるいは一つの置かれた状況で満たし得る甘えの面積が
ぐっと狭くなってしまうわけですよ
さっき言ったような意味で言うと電車に乗ってるにもかかわらず
電車に乗って自分は甘えている
本来は歩くべきなのにとか思っているとですね
その人はめちゃくちゃストレスがかかってきますよね
だからうつうつとしてくるはずなんですよ
さらにこれを狭く狭くしていってみると
ある限界がありますよね
生きててすみませんになってしまいますよねだんだんだんだん
さらにその限界を狭めようとすると
つまりそれってどういうことかというと
甘えとは悪であるっていう感じにだんだんだんだんなってきますよね
受け入れられる甘えの半径がほんのちょっとしかなくて
その外にあるものは全部悪だったら甘えすなわち悪ですよね
そうすると自分すなわち悪になっていってしまいますよね
このような状態には我々耐えられる限度があって
おそらく耐えられないと思うんですよ
ここで一気にある意味限界点を超えてですね
ある種の正気の発想というのか
ごく当たり前の発想ではなくなってしまう点があるような気がするんですね
どういうことかというとこのストレスに耐えられないので
私は甘えてないという発想に切り替わってしまうんですよ
もうあまりにも辛いから甘えているという自覚どころではないわけですよね
多分甘えを受け入れられる人ほどある意味甘えの自覚ってあるわけじゃないですか
席譲られた時にありがとうと言ってサッと座れる人は
俺甘えてんだって感じがして
しかもそれを肯定的に受け入れられるわけですよ
全く逆のことを考えてみるとものすごく狭くなった場合
私は全く甘えていないという感情に囚われる感というか
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そこに逃げ道があるわけですよね
ある種の万能感なんですよ
万能感に逃げるしかないわけです
とても辛いか万能感に逃げるかというのは
今までもよく依存の話で申し出してましたよね
あまりにも辛いからマッチを吸って
素晴らしいご馳走があるとか
優しいおばあちゃんがここに来てくれたとか
そういうことをやるわけですよ
あるいはあまりにも辛いから万能なパチンコ屋に行くとか
いろいろあるわけですよ
万能なお酒に頼るとか
万能なiPadをいっぱい買うとか
いろいろあるわけです
その中で全く自分は甘えていないという幻想に浸るっていう人が
当然登場しうるわけですよね
甘えは許されないわけだから
この人にしてみると
実にすごいことが起きちゃうわけですよ
俺は全く甘えていないという
例えば電車に乗っていながらね
電車に俺は全く乗って甘えてなんかいないってことになると
例えば料金を払った分しか
自分は電車に乗って快適な移動というものを享受できていない
こんなに理屈っぽくクドクドと考えないかもしれないけど
そういう発想になりますよね
そういう発想になるわけですよ
そういう発想になるとどういうことが起きるかというと
ものすごい電車での旅が苦痛になります
不快になりますよね
享受できている部分以外は
善悪ですよ
自分が善悪だと
全部の悪いものだって考える
自分は悪者そのものだって考えるのには
そのギリギリなんですけどね
そのギリギリが欲打つの限界点だと思うんですけど
そこを超えてしまうと
私は全く悪くない
この電車に無理やり乗せられたんだみたいな
そういう発想にだんだんなっていくと思うんですよね
私この種の
統合失調症的な迫害妄想なんだけど
この種の言葉を聞くたびに
これは一体どういう意味なんだろうといつも思ってたんですよね
例えばエヴァーノートというものが
昔大変流行った時に
エヴァーノート社にすごく
理解に苦しむような
クレームが結構いろんなSNSとか見ていると
目にしてですね
これがその電車に俺は無理やり乗せられた的なのと
えらい似ているんですよ
例えばこんなに有効なエヴァーノートだから
ユーザーとしては使わないわけにはいかない
この段階で乗せられた電車とよく似ているんだけど
それなのに一体どういうことなんだと
例えばアイコンがなぜあのようにダサい緑の像なのかとか
本当にこのまんまの
ほぼこの通りのを読んだことがあるんですよ
とても不思議だなと思ったんだけど
そんなことはないわけですよね
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よーく考えてみると
不思議なんですけど
エヴァーノートを使っているということは
その人にとっては当然甘えなわけですよね
やむを得ませんよね
だって自分では作れていない
システムでありプログラムであり
便利なツールなわけですよ
だけど私はそれに依存してしまっている
甘えである
でも甘えは悪であるから
許されることではない
ので私はエヴァーノートのユーザーとなった
けれどもギリギリ許容できるところ以上のことは
一切やっていない
なんかねこの辺は多分無意識に起こると思うんですよ
さすがに意識的にこれやったら
喋っててもこの説明が十分通るかなって
なんかいい例ないかなと思うんだけれども
こういう感じになっていくんですよね
多分その方はエヴァーノート全く使ってないと思うんですよ
ただ便利で使うべきであるとは信じているんだけども
甘えられる部分はミニマムになっているので
甘えは悪いことですからね
使えば使うほど自分は悪人になってしまうので
これもすごい不思議なんですけど
使わせられるんですよね
何か理解に苦しむが
洗脳されているとかこういう表現取りますよね
誘導されて使わせられてしまったとか
あるいはよくこういう話もありますよね
1年分お金を払わされてしまったと
だからもう使わないわけにはいかない
だけれども私はこのようなものを好きで使っているわけではない
つまりそういう発想にだんだんなっていくんですよ
このことは実はドイ先生の本に書いてあるんですよね
ちゃんと
例えば会話をしていて話が伝わると
自分の話が盗み取られたという風に言い出すわけですよ
これも伝わるというのは本来いいことなんだけど
よく考えてみると話が伝わるためには
甘える必要があるんですよね
例えば相手に日本語が伝わるという風に
我々は甘えているわけですよ
これを甘えとは我々は全く考えませんけれども
確かにそのはずなんですよ
向こうは日本語わからないかもしれません
それに私もこのポッドキャストでまさに甘えているんだけど
甘えているから喋ってられるんですよ
絶対わかってくれない
甘えることはできないという風に考えると
どうしても伝わった時には
私は全然甘えていないのに伝わった
ということは相手は何らかの方法で
俺の考えを盗み取ったに違いない
こういう風に僕は思うようになるしかないんですよね
甘えが悪であるならば
よくこれもあることだけど
聞き手がみんな馬鹿すぎるから伝わらなかったとか
どっちかにするしかないわけですよ
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うまくいったことは認められないという部分が
甘えが全部否定されると起こってくるので
操られたとはよく言いますね
そういう話はよく聞きます
操作された利用された
相手の意図に乗ってしまった
もう一つこの種の人の話は
当然ですが甘えが認められない
異心伝心的なものが一切ダメなので
話が非常にくどくなります
私のポッドキャストもくどいけどね
とにかく伝わらないと思っているので
自分のことを一生懸命喋るんですよ
でも伝わってしまうと被害にあった感じがする
あるいはやっぱり伝わっていない
それは相手の甘えですよね
甘えは悪なのでものすごく怒りだす
というようなことが起きてくると思うんですね
つまりこの甘えというものが認められないというのは
最初は責を譲られた時の罪悪感のように
まず自分に対する罪悪感からスタートするんですけど
これがずっとエスカレートして
甘えられる領域が狭まれば狭まるほど
なかなか他の人には理解に苦しむような
他者に対する攻撃的な気持ちというものが
一気に出てきます
そのベースにあるのは
全く甘えられないとすると
私たちがどれほどストレスをこむるか
ということを考えてみるといいと思うんですよ
非常にストレスフルですよね
さっき言った通り電車に乗ってても申し訳ないわけだから
非常にストレスフルです
ものすごく申し訳のある人が
ものすごく理不尽な攻撃を周りの人に広げるという
心理状態というものが
多分説明がつくような気がしたわけですね
これを甘えの構造という本は
なるほど書いていてくれてるなと
そしてようやくなんかそれが
分かったような気がしたんですよ
これは私たちの結局心理状態のある種延長線上にある
多分私だって甘えられる関係というものを
むんと狭くとればこういう心理になる
非常に自分がやってることは
自分は小さな人間で申し訳なくて
縮こまって暮らしているんだけれども
それでもやっぱり周りを攻撃せずにはいられない
そういう迫害されているという
こんなに自分を大人しく悪いことはしておらず
甘えてもいないのに
なぜこんなに迫害されるんだろうという
心理状態になるそういうことなのかなと思いました