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  2. 先送りたくなければ未来の想像..
2023-09-20 47:54

先送りたくなければ未来の想像を止める【GMV847】

正しい未来の姿は、現実を惨めにする。

サマリー

彼は昨日月曜だと思っていたが、実は火曜日であったため、危うい状況だった。彼はポッドキャストを2回飛ばしてしまったが、偶然のことであり、SNSの利益の観点から見てもどちらでもよいかもしれない。彼は大手の私塾で行われているPDCAについての話題から、先送りについて考えている。PDCAは重要であると認識されているが、なぜ重要かという説明は明らかであり、実際に実践するかどうかは個人の自由のようだ。彼はポストを作ることになるのかと思っているが、先送りを続けていてもよいのかについて話し合われる。そして、彼は先送りを絶対にすると思っており、それが話の中心である。彼は実体験から未来の空想と現実のギャップ、先送りの問題について考え、長寿との関係性を探求する。彼は空想を止めることで惨めな現実から逃れられると思っているが、彼は空想を楽しんでいると考えている。

曜日感覚の混乱
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月20日、水曜日、朝の7時26分ですね。
すいません、月カード飛ばしたんで、しかも、後ほど言いますけどね、
月カード、これね、全然飛ばしてる気はなくてですね。
つまり、僕は曜日を一つ間違えてたんですね。
危ないところだったんですよ、いろいろと。
いや、昨日月曜日だと思ってたんですよね。
月曜日の経路の日だ、大きめのセミナーやりましたよね。
あれをやってしまったために、あれがすっかり日曜日だ感がね、
僕の中でもう根を下ろしてしまって、
学校が始まる日は月曜日ってやっぱ感覚がですね、
どっか古臭いんだけどあってですね。
昨日学校が再開、3連休後の再開で、
いやーってなって月曜日だと思い込んでいてですね。
しかもその昨日、だから18日はですね、
休日はやんないっていうこともあるんだけど、
そもそも日曜だと思ってた感が強いんですね。
昨日はそうは言ってもアップするやつはなくはなかったんだけど、
ちょっとね、これは訳あって途中で途切れてるんですけどね。
僕これも最後までやってアップしたという、
これは多分夢かなんかを見たんですね。
そのためにすっかりアップしたと思ってたんですよ、月曜日だと。
19日、しかもそれ火曜だしね。
もう知りめずれずなんだけど、そういうことがあったんですね。
で、2回問わすという結果としてなったんだけど、
別に僕の中で1回も飛んでることになってないという、
でも2回飛ばしてるというですね。
そういうことが起きたんですね。
で、これたまたまなんですけど、
クラウドのけいそうさんがなんか体調が優れないとかで、
そういうことあると思うんですけど、
ポッドキャストを1回、まあでもこれは休日ですけどね、
スキップされていたので、1回かな2回なのか分からないですけど、
まあでもそうは言っても2回ですからね。
最大でも。
なんか最近グッドワイブス的なのがないなみたいに思われてる方も
いらっしゃったかもしれませんけど、
もうめっちゃ単なる偶然で、
私の中ではもう1回も飛ばしてないことになっていて、
実は2回飛ばしていたというね、ことでした。
すいませんね。
なんかこう、まあしょうがないなっていう感じですね。
ほんと昨日月曜だと思ってたんですよね。
危ないところだったんですよ。
危ないところっていうか、ややトラブってるんだけど、
本当にこう、曜日感覚がですね、
フリーランスってなくなって、
家族の人に会わせてるから、
なんか強引にねじ込まれる曜日感覚が、
やや正確でないというね。
いつもいつもこうきちっとカレンダーを見ていた、
昔の、
そうは言ってもやらかすから、
ポッドキャストの飛ばし
結構当てられないですよね、私はやっぱりね。
別にタスクシュートきっちりやってたから、
やり漏れはないですとかは全くないですし、
カレンダーちゃんと毎日見てても、
平気で日付を間違えますから、
しょうがないんですよね。
しょうがないところあると。
まあでもそのぐらいはあると思うんですよね、人間ね。
人間ってのはやっぱりこう、
普通に動物ですからね。
これをチンパンジーとか一切やれないわけだから。
脳の構造的に見ると、
大のでかいですけどね。
そうは言っても、
2キロ3キロでかいとか言うじゃないんで、
しょうがないんじゃないかなっていう感じもしなくはないですね。
はい、えーとですね。
まもなく29日。
29日をまもなくと呼んでもしょうがないんですけど、
おかげさまで少しお申込みいただいておりますので、
引き続きですね、
お申込みいただけると、
大変ありがたいなと思います。
セミナーやりますということですね。
えっとなんだこれは。
この上板橋のやつですね。
山崎孝明さん。
最近のポストっていう、
多分あれ山崎さんが書かれたと、
ちょっと当日問いただしてみようと、
伺ってみようと思ってるんですけど、
山崎さんのポストという本は、
非常に僕は、
いろんな意味でいいなと思ったんですよね。
まず、登場人物の名前が、
ウサギさんという名前で、
カメさんとかタケトリさんとかですね。
AさんBさんとかに比べて、
真実味がないじゃないですか。
だから一体誰がモデルになっているのかが、
一層分かりにくくなっているという意味で、
やっぱり取り上げられた方っていうのは、
何らかの形で参考にされている人は、
実際の患者さんの中にいらっしゃるはずだから、
気にされる人は気にされると思うんですよ。
プライバシーに一切、
提供されていない人は、
いらっしゃると思うんですよね。
そういう意味で、
やっぱり、
プライバシーに一切、
抵触しなかったとしてもですね、
自分に注目されたと思うだけでも、
心の負担になりかねないというところは、
なくはないと思うんで。
あれがタケトリさんとなってくるとですね、
心理療法の紹介
もうタケトリさんとウサギさんとカメさんに
なってくると、
この辺はいいよねっていう感じがしましたね。
あとちょっとユングっぽさもありますしね。
ユング派じゃないんですけどね。
あとは、
これはね、
なんていうんですかね、
よくも悪くもって感じなんだけど、
まさにね、
虚無芸師のように、
精神分析ではないっていうことが言える、
言えるカウンセリングみたいな立て付け、
というか、
そういうものの紹介なんですね。
不思議ですよね。
これは精神分析じゃないぞ、ないぞ、
っていう精神分析的なね、
心理療法なんですよ。
それって別に、
受ける方からすると、
どうでもいいような話じゃないですか。
精神分析なのか精神分析的なのかなんてことは、
どうでもいいようなところなんだけど、
会話にとってはさぞこれ、
よっぽどどうでもよくないんだろうなってことが
伝わってくる、
そういう内容なんですよね。
読みようによってはですね、
それ、
なんつうんですかね、
ある意味、
例えばですよ、
Lifehackで言うと、
いやこれGTDじゃないですから、
これはGTDじゃないですからって言って、
GTD的なことをね、
一生懸命こうやっている、
Lifehackメソッドみたいな感じでね、
苦労があるんだろうなと思いつつも、
普通の観点からするとね、
それどっちでもいいのになって感じがしますよね、
やっぱりね、
普通にタスク管理する人にとって、
それが真のGTDなのか、
元祖GTDなのか、
それともGTD的タスクシュートとかなのか、
どうでもいいじゃないですか。
ところがこれがですね、
やっぱりね、
やっぱりね、
どうでもいいじゃないですか。
ところがこれがですね、
どうでもよくないわけですよ。
その、
打ち際的な世界って言ってしまうと、
という感じもしないではないんですけどね。
難しいんだと思うんですよね、
そういう、
僕はこれをエディプスと、
これをエディプスと言うべきだと思うんですけども、
本家と元祖の互いが、
そこには多分、
互いなのか分からないですけど、
まあでも、
気遣いは絶対ある。
そういう意味でやっぱり、
土居さんの甘えの構造を思い出しますよね。
顔色を伺ってるっていうのが、
どうしても、
どこかに見え隠れにする。
そうではないのかもしれないけど、
一読者的には、
素人的にはそう見えるっていうところがあって、
やっぱりこう、
ポスト、
ポストって、
Pはサイコアナリティックなんだけど、
P、
オリジネイティッド方なんですよ。
精神分析に、
機嫌を持つ、
Sは、
Sは、
あれですね、
サポーティブな、
支持的なセラピー、
良好ですね。
支持的良好ってところに、
ロジアスさが感じられますよね。
当然では当然のことなんだけど、
サポーティブ、
つまり来た人の利益を、
何よりも優先するみたいな感じ。
その人を支持する。
世教が欲しいことを言って、
結構ですね、
これ面白いことに、
なんだ、
アメリカで、
自我心理学系の精神分析ですけど、
この番組でも繰り返しお伝えする、
人。
平気で嘘をつく人たち。
彼なんか、
精神分析やってるんだけど、
決してサポーティブって感じではありませんからね。
すごいサポーティブな人ですけど、
それも必死と伝わってきますけど、
めちゃくちゃ積極らしいですからね。
あなたは弱い人間です。
もうそんなんじゃダメですみたいなことを、
割と平気で言ってますからね。
上から目線どころじゃないな、
みたいな感じですよ。
ノンディレクティブって言いますけどね、
非支持的。
日本語って困りますよね。
サポーティブも支持的なら、
ダイレクトも支持的で、
ダイレクトの方は命令的かな。
だからノンダイレクティブっていうと、
非命令的。
めちゃくちゃ命令的なんですよ。
平気で嘘をつく人たちの。
コットさんかな。
精神分析の人。
カウンセラーでもありますけども、
もっと強くなりなさいみたいな。
そんなこと言われてもね、
普通の人だって困るじゃないですか。
あなた弱いです。
あなた卑怯です。
みたいなことを言うんですよね。
びっくりします。
あの人は他の患者さんでも全然普通にそうなんですよ。
そういう感じなんですよね。
牧師タイプ。
でも牧師ってそうなのかな。
知らないで言うのはどうかと思うんで。
いわゆる牧師の説教みたいなのは
あんま聞いたことがないですか。
違うんじゃないかなって感じがするんですよね。
でもカウンセラーって結局
ある意味人を見てるんですよ。
そういう言い方をするとずるいように見えるんですけれども、
うちの父もそうでした。
やっぱりサポーティブな時もあれば
PDCAの自明性と先送り
ディレクティブな時もあるんですよ。
命令的な時もですね。
もっとしっかりしなさいみたいなこと。
これが聞くって人も、
これがつまり支持的だって人も
当然聞くって人も
これがつまり支持的だって人も
当然いるわけですよね。
いわゆる父親対象みたいなものが
欲してる人は
思い切り父親になっちゃうわけですよ。
お父さんってのはね。
そういうところありますんで、
今は非常にこうやっぱり、
なんでしょうか、
トータルではそういうことを
原則避けるべきってのは
割と徹底してるし、
あんまりカウンセラーの人も
したくないとは思うんで、
あんまりわからないですけどね、
いわゆる命令的な人で、
上から的な人はいるだろうと
思いますけどね。
そこを避けるという意味で、
ロジャーズ的に民主的だっていう
言い方もするんですけど、
サポーティブセラピーということになって
ポストなんですよね。
だからポストでは、
ポストではって繰り返し言ってて、
これは精神分析ではありませんよ
っていうことをですね、
断ってるわけですよね。
特に転移というものが
前面に出てきそうなところでは、
まず念頭に置くが、
転移は用いないとかね、
転移をここで使う局面かもしれないが、
転移は用いないみたいな、
そういうですね、
転移使うと精神分析になっちゃうっていうか、
精神分析的にやってるくせに
精神分析と同じことをしやがってと、
誰かが言う、誰かが言うのかな、
誰かに言われることに
恐れと不安があるっていうべきですかね。
そういうことが、
でもしょうがないと思うんですよ、これは。
やっぱり業界的なものが
そこにはあると思うのでね。
でも面白いです。
非常にそこらへんが、
こういう分かりにくそうな話が
分かりやすく書かれているという意味で、
画期的な本だなと思うんです。
こういう話がですね、
昔からなかったわけじゃないし、
いや、いっぱいあったんですよね。
イギリスのクライン派の人と独立派の人は、
私はクライン派として
こう言うみたいなことを
断ってんですよね。
全く同じような構図だなって思いますね。
ただし当時のやつは分かりにくいです。
どっぽど事情に通じてないと、
よく分からん話になっちゃうんですけど。
今回のこの山崎さんの本は
分かりやすいって、
全然事情に通じてない人でも
多分分からんってことはないと思うんですよ。
うん。
ただまあ、
そうは言っても、
業界裏話的な話でもあるので、
業界内の人の向けの本なのかなとは思いつつも、
一般読者向けにもなっているというのが、
今回の読みどころだと思いますね。
で、その読みどころは、
山崎さんをお招きするという告知なんですよ。
これはね、29日ね。
よろしくお願いします。
はい。
で、今日はですね、
先日のこれ、
これをアップしようとして失敗してたんだな。
何を考えてたんですかね、僕はね。
多分月曜だと思ってたのと寝ぼけてたのと
2つが混じってたんですよね。
でも月曜だと信じてた感が強いな。
しょうがないですね。
これはね、月曜だと信じてたんだから
気持ち悪いんですよね。
特にもう昨日のですね、午後からは
もう月曜だモードで
いっぺんとで行ったためにですね、
不思議なんですよね。
それで何とかね、
正しく行動してた部分もあるんですよ。
その時だけ火曜日っていう認識に
切り替わったみたいなね。
でも終わってからすぐまた月曜日に戻っちゃう。
特に娘が帰ってきてから
夕方帰ってくるんだけど、
その時だけ火曜日っていう認識に
切り替わったみたいなね。
でも終わってからすぐまた月曜日に戻っちゃう。
特に娘が帰ってきてから
月曜だモード満載なんですよ。
何でかっていうと娘がその
月曜日に口走ることを
昨日火曜日に口走ってたからですね。
しょうがないですね、これね。
何の話をする?
そうそう、先送りの話をします。
何でかっていうと
これは分かりきっておりまして、
私塾におけるPDCA
先日タスクシュートジャーニーというね、
18日にセミナーをしたわけですが、
これがチェー・マスザキさんの
独壇場的な講演で
しかも大変面白かったんですよ。
私これを聞いてて、
それにしても、
それにしても、
こういうと両方にとって
あれなのかなと思うんですが、
両方にとってあれかもしれないけど
倉園さんに似てること言ってんなって思ったんですよ。
これはですね、
でもお互いが何かを参考に
しているときに
何かを考えているときに
何かを考えているときに
何かを考えているときに
お互いが何かを参考にしている
という感じはしなかったんですよ。
僕の印象ですよ、これはね。
これは多分、
どうしてもやっぱり
ここに行き着くルートがあるんだろうなと
これも僕の印象なんだけど
思ったんですよね。
結局、
倉園圭三さんがおっしゃっている
Good Vibesを
少なくとも断片をですね、
僕が喋るのは容易なことなんですよ。
別に、
聞いてそれを喋るというのが
難しいということはないんですよね。
だってそうじゃないですか。
愛は大切ですとかって
そういうふうに倉園さんはおっしゃらないけど
言うのは簡単なことじゃないですか。
別に
それほど突飛な
評価話でもないですしね。
みんな一つだったんだから
一つ意識を大事にしましょうとか
こうも言わないけど
こういうのは
別に難しいことではないと思うんですよね。
だから
この種の話って結局
するかしないかだと思うんですよ。
ということはつまりですね
信じてもないまま
この種の話を
そうそうしないと思うんですよね。
するメリットが
いまいち見当たらないですよね。
一歩間違うと
これまでずっとタスク集と
タスク集と言ってきた人間が
それと別に矛盾するってわけじゃないんだけど
急に
今ここですとかって
言い出すと
は?って感じになっちゃうわけですよ。
だからむしろ
これには覚悟がいるわけで
それを頭から感覚的に
自分のものになっている
いるわけでもなく
信じてるわけでもないのに
今ここがしかないんですって
言わない
いうメリットがないから
未来よくすることが大事だよなと
内心で思ってるんだけど
いまここのほうが
グラゾノさんも言ってたし
今ここって言い出さないんですよ
人は
少なくとも僕みたいな
僕みたいなつまり
ライフハック好きな人は
未来をよくするために
やってるんだろうって感じを
別にそういう話を
誰かが明言するとは限らないんだけど
それはもう自明なんですよね
実は自明ってこれ
すごい怪しげなんですよ
自明というのは
自ら明らかなんだけど
実は誰もそれを明らかにしていないという
私が
何よりも痛感したのは
割と最近のことで
goodvibesそれこそ聞いた後なんだけど
直接の関係はない話なんですが
ちょっと名前出すのやめよう
大手の私塾ね
大手の塾で
いまPDCAってやってるんですよ
これがもう本当に
PDCAそのものなんですよね
あれって考えてみると
受験とえらく相性良さそうじゃないですか
ところが私が
これがいかに実は自明なもの
でないかというのを
わざわざと痛感したのが大事に
塾ではやっぱり
なぜPDCAが大事かっていう説明が
よく読むとあるようでないんですね
PDCAは大事です
っていうところから入っちゃうわけですよ
相手が子供であっても
というのか子供だからなのか
僕らに対してのそれと
よく似てるんですよね
自明になっちゃってるんですよ
だから誰も
誰一人として
それがなぜ大事かという説明は
吊っ飛ばされてるので
いや自明でしょう
ってことで
今の成績を見て
将来何点取りたいかをプランして
現状を反省して
改善に努めましょう
これ自明でしょう
ってことになってるわけですよ
PDCAでその目標を書いて
目標の点を逆算して
別にこれは新しくはないですよね
そこにPDCAという名前をくっつけただけで
昔私が中学受験のとき
つまり今から40年ぐらい前に
やったことと
何にも変わってないんですけど
名前は新しくなった
受験の世界でのPDCA
ところがですね
これが私の娘も含めて
そうなんだけど
一番最上位のクラスの子たちは
やっぱり頭が抜群にいいわけじゃないですか
このようなことをですね
いいダクダクとやる子は
はっきり言って
一人もいないに等しいわけですよ
彼ら何をするかというと
絶対に到達できる
限りのPというものを
後からデッチ上げていくんですよね
現状に照らし合わせて
決して逆算はしないんですよ
彼らは
頭がいいから
つまりPは必ず
先生が最も喜ぶレベルで
到達可能なラインに
設定されることになるわけですよ
最上位のクラスの子たちの手により
全員が全員そうやってるか
知りませんけど
私の見てる限り
過半を遥かに超えて
これ会社だったら
多分認められないと思うんだけど
意外と受験の世界では
これを認めざるを得ないところ
ありますよね
結局はこれ
PDCAになってはいないんですよね
タスク収得できないんですよ
先送りを続ける人
まず取った点から考えていく
っていう考え方を取るんですよ
かわいそうなのは
比較的中間よりやや下の子で
彼らはPDCAをやっちゃったり
するわけですよ
大真面目に
やりたいところからそこに
最上位の子は会議が
起こらんようにするわけですよ
しかも頭がいいから
どの程度に持っていけば
人が喜びかつ会議は起こらないか
というのを見極められちゃうわけですよ
簡単に
それをPDCAと称して
みんながやるわけですよね
何万人って数ですよね
面白いなって思いますね
多分こういうことを
僕らはいつもやってきてるんだろうな
って気もしますね
どういうことが言いたいかというと
簡単だってことですよ
メソッドについて語るだけだったら
実態がどうであれ
それはPDCAです
っていうようにするのは
信じてようと信じてないと
簡単なことなんですよ
そういう意味ではでも
私塾で小学校4年生にまで
広がってきているのに
PDCAが
僕はこれはむしろ
アーリーアダプターじゃなくて
レートマジョリティに近いと思うんですけど
その辺りで
プラグがあってから
何かが浸透し始める感じがするので
でも
もうPDCAは
いわば市民権に入ったんだなって感じが
レートマジョリティですからね
するので
この鬼を呼んで
いや今ここですっていうのは
逆張りっていうのもありますけど
いや何て言うんですかね
信じてもいなきゃいわないんですよね
得することがほぼないですよね
こうなってくると
小学校4年生にまで
教育しているこの状況の中で
今こここそが大事で
未来の時間などないとかね
そんなことを
言っても
メリットがないって
やっぱりこれは何かあったんだろうな
と思ったんですよね
Jさんの話を聞いていて
それを彼までが
あんなに熱心に語っていると
しかも過去の自分の言ったことと
愛入れなくなるじゃないですか
やっぱりそういう話が
もちろんすっごい
どちらかというと
神話性の高いセミナーの中でも
やっぱり出るわけですよ
昔のブログはどうされるんですか
みたいな
だって昔BDCへって
彼は言ってたわけだから
逆さんもね
昔の自分は他人ですからって
さらっと彼は言いましたけど
この観点を彼が取るようになったってのは
何かあったんだろうなっていう風に
何かあったんですけど
やっぱり
一貫性っていうことに
僕らはこだわるように
仕向けられてるじゃないですか
これもでも実はね
私は
例えば学校に行って
先生が一貫性を持たないと
駄目だぞと言った先生は
極少数だっていう記憶はあるんですよね
僕らが教育を受けてるから
そういう風に信じてるって
信じるほど
たくさんの人が
そういう風に信じてるって
信じるほど
それを明言されることがあるかっていうと
微妙なんですよね
微妙なんですよ
未来こそ大事だぞっていう先生
何人いたかなって数えてみると
すごくはないんですよね
私の学校経験ですよ
小中高大学と合わせて
実は
洋服を思い出す限りでは
今ここ派の方が過半なんですよね
僕の経験では
これをみんなが
信じてるっていう風に
信じているこの中で
本当なのかなそれっていうね
人の信じてるっていうのは
実に怪しげですからね
本当に
まあいいや
とりあえずそういうことで
愛と攻撃の選択
先送りの話なんですけれども
百日レンジを念頭に置きつつも
彼はほとんど念頭に置いてませんでしたけどね
ある意味では
それはメソッドとして捉えているんだ
昨日は
昨日じゃない一昨日は
その辺なんですよね僕の
さっき言ってた月曜飛ばした感
一昨日は
彼はもっと
パーソナルな話をしてましたね
僕はほとんど喋んなかった
聞いてもらえば分かるんですけどね
聞いてもらうことはできるんで
有料ですけど
私はほとんど喋ってない
私聞いてたんで
本当にこれは本当に聞いてて
よかったなと思ってたんですけど
でも考えてみると
同じじゃないんですよ
同じではない
グッドバイブスと喋ってたわけじゃないし
エッグハルトトールというね
JさんやJさんでまた別の
そういうのがないわけじゃないんですよ
エッグハルトトールの方は
僕も読んでないんで
聞いていただいても分かんないんですけど
全くエッグハルトトールという
名前しか知らないんで
あんまり読む気も今のところないんですよね
仮にこれがですね
グッドバイブスとよく似てたと言っても
あんまり僕にとっても
結論がこの話の話は
もう大事じゃないと思うんですよ
どういうわけでとか
どういうルートっていうのかな
アプローチにあっての
これを自分が納得するかしないか
ということだと思うんですね
だって愛と攻撃
どっちを選びますかって
普通の状態で聞かれれば
攻撃っていう人って
よっぽど攻撃大好きって
しか考えにくいじゃないですか
って言っても
やっぱりこれは愛と攻撃を
同時に選びたいとかね
盗作的な心理で
SM的な心理なんだけど
同時に選びたいとか
攻撃以外は選択の余地はない
みたいな
もう核が飛んできてますみたいなね
そうじゃないんだけど
まるでそんな気がするぐらい
過程が荒れてますみたいな感じ
そういう時に
愛と攻撃どっちを選びますか
だから意味があるのであって
普通にしゃべると
しゃべるだけならば
今僕がこうやって
しゃべっている時であれば
倉殿さんなり先日Jさんが
言っていたようなことを
ただ言うだけなら簡単ですよ
Jさん愛とはあんまり
言ってないですけれども
思いって彼が言ったのは
ほとんど同じ意味だろうなって
思うんですよね
これもそうですよ
尊徳感情で生きるのがいいですか
思いで生きるのがいいですかって
ただ言うだけならば
簡単じゃないですか
この今のように
私が何にも困ってなくて
しかも
気分よくしゃべっているというか
別に気分悪くもない状態で
それを選べって言われれば
それは思い大事ですとかって
言えますよね
だからそういうことではないんですよ
どうしてそういうふうに
信じるようになったのかの話が
大事だと思うんですね
兎役理事は
もう少しテクニカルに
聞こえてくると思うんだけど
話としてはやっぱり
同じで
倉園さんなら
罪悪感っていうのは
やっぱりキーワードとして
挙げると思うんですね
どこかで
Jさんは
自責の念っていうのを
すごいすごい言ってましたね
自責しないって
これも
自分責めると
いいことないですよねっていうのは
簡単じゃないですか
僕もこれも信じてもいるから
一層簡単なわけですよ
一つ意識でもそうだし
愛の選択も
信じてないわけじゃないですよ
フィルターの操縦
今では信じてますけど
長らく信じてこなかったから
新しさがあるわけですよ
自分の中で
必ずしも自分の中に
フィットしない
まして他の人が言っていることが
言ってたときに
事実にこの人が言ってたことは
そこで
自分の中で
自分の中で
自分の中で
自分の中で
自分の中で
ポストを
ポストを
作る
ポストを
作る
ポストを
作って
ポストを
ことだとは思うんですけど そもそも 罪悪を意識するようなことではない
だろうと思うんだけど 何か先送り を続けていていいのかって話を
されますね 先送る人はどうしても 難しいことではないのに 例えば
よく最近立て続けに出たんでこの 例を出すんですけど エアコンの
フィルターの掃除 多分これ エアコン を最近めちゃくちゃみんな使ってる
から気になるんですよ きっと そして 何か知らないけど これは
大事なんでしょうね 何てことない ですよ あれは本当に 水じゃーっと
かけて エアコンによるから 一般 路はないですけど でも難しい
仕事じゃないっていうのがいっそう 本人の罪悪感になってくんですよ
やってもやらなくてもいいんじゃない ですか あるいは業者に頼んでも
いいような気がするんですよ これは 多分業者にも頼まない でも
やらずにいると罪悪感が募るという のならば やっぱり私の印象という
か私の考えではそこに長寿がを 置いてるんですよ 正しさって
Good Vibesっていう Jさん何て言って たかな Jさんが言ってたのはほとんど
変わらないんですよね 言葉として は やっぱり正しさか それとも正解
と言ってたかな 同じことなんですよ これは 何が同じかというと 判断
できるっていうのは本人のものではない と多分言う話なんだと 僕はそういう
ふうに考えてるんですね 判断してるんですよ フィルター
の操縦をしたほうがいい 必要である ということですね フィルターの操縦
をする必要があると フィルター もうちょっと先へ進むと多分先送り
を生むんだけど フィルターの操縦 をしてきれいになったエアコン
の部屋っていいよねっていう未来像 を作っちゃうと 多分僕は先送り
を絶対にと言っていいレベルで 確率 ですると思う ここがあの日 Jさん
が一生懸命しゃべっていた話で 皆さんはどう感じたかなと私が
考えたところなんですね これは 今回の100日チャレンジ まもなく
未来の空想と現実のギャップ
今回第5回やってますね 延べで 400人の方が修了されていて 痛感
したんですよね 私が ずっとそう 思ってましたけど 間違いなくこれを
やるとダメなんだっていうのが 未来の空気がきれいになった空間
はとても気持ちがいいって思ったら 僕はアウトだと思うんですね これは
ハードル下げるためとかそういうこと とは違うんですよ ハードル下げる
ために言ってることではないんですよ この未来が良くなった状態を思い
描くのは2歩先を行ってると思うん ですよね その前の段階にまず そう
することの方がいいという判断をした 瞬間があったはずなんですよ その
さらに前にそうすることがいいという 存在を自分の中に作り出したっていう
段階が それは長寿がなんだけど 私の表現としては長寿がと言いたい
んですけど 正しさでもいいんですけど 正しく判断できる私ではない
私 私ではないってところがポイント なんですけどね でも私なんですけど
ね とにかくこの人が登場し 多分 親ですが しかも自分が勝手に想像
してる親ですが 親対象を作って その親対象が判断し その親対象
と一緒になって 一緒になった 気になっていい未来というもの
を想像するところまで行ったら 僕はアウトだと思うんですよね
少なくともこの前にとどめなきゃ いけない そうしないと先送り
って多分止まらないと思うんですよ 罪悪感はさらにこの次に来るんですよ
という未来を作り出せなかった だめなお前っていう形で自分を
捉える これが罪悪感だと思うんですね ここまで行ったらもう僕は100パーセント
先送り5の話になっちゃっていて しかも次の先送りを誘発してもいる
と こういうことが言ってたんだろう し 私も言いたい とにかく
この2段階で前の段階 罪悪感は問題外に近くて その前の段階ですね
いい未来を想像しちゃったという これをここに入ったときに僕は
先送りはおそらく起きる 90パーセント ぐらいの確率かな で起きると思うんですよ
しかもさっき途中で言ったPDCAっていうのは これを作り出すんですよね
だから僕は賢い子といえば賢いんだな って思うんですよ これを作らないように
ちゃんと工夫をしてからPDCAを提出する 別にバカなわけじゃ全然ないんですけど
先送りの問題
市塾に行って平均取ってるっていうのは ずいぶん賢い方なんだけど
無のみにしちゃう子もいる 僕は彼らは成績が伸びに悩むだろうなって
やっぱ思うんですよ これをやった分だけ これを言うと結構もう何かを批判してる
ようにしかならなくなっちゃうし どってことないんですけどね
些細なことなんですよ これ本当にね
でも確実に些細には違いないんだけど 自分も昔先送りを嵐のようにやってた時代
つまり20代後半から30代の本当に最初の 一番ひどかった時代思い出すとずーっと
これをやってたんですよね 未来のことを空想してはそうできない自分を
なんて言うんですかね これはね 罰するんだけど
下げ進むって感じでしたね 私の場合はね
で この下げ進むまでいくともう本当に 次の先送りを作り出しているようなものなんで
そのやっぱり前の段階に立ち戻って その前に何したかというと
未来の状態は今より良いぞっていう すごく快適だぞっていうその空想をしてしまったと
長寿がと一緒になってですね 良い未来が来たねーっていう空想をしてしまった
何でもいいですよ とにかく今より先の状態が良くなってるっていう空想をする
これを これをやめましょうねってことです
はっきり言ってね 先送りしたくなければね
これやめる一手に近いと思う 少なくともこれをやったら先送ると思っていいという人の方が多いと思います
あの 統計取ってないから 9割とかいうのも所詮体感ですからね
今回私は100日チャレンジで一応見たから
なんとかやれているというケースにおいて 最後までっていう意味ですね
100日間やっていただけたというケースにおいて こうでなくなっていくという
その筋道があったんですよ あるケースが多い
やっぱりこれ全部とかは言えないんですよね だって分かんないわけですから
相手の人を真横で見てるわけじゃないからですね
ただ論拠はなくても論拠に近いものはあるという感じはするんですよ
つまり長自画というものがいけないんですよ
で長自画ってのは正しさなんですよ
正しさでもあるし その快適な未来みたいな空想を作り出すための根拠なんですね
こうした方がいいよと だってほらいいじゃない こんな風に世界がいいじゃないですかっていうこれです
長寿がととの関係性
これを作ると 作るんですよ ありとあらゆるシーン
例えば今今回テストで返ってきたのが62点とか59点とかばっかりでした
これが全部100点100点100点だったら ほらいいじゃないですかってこれをやるんですよ
これほどいけないことはないと思います
これは長自画というものはさっきも言いましたけど 自分であって自分でないんです
この長自画というものは 指示しかしないんですよ 指示っていうのはまあ私たちとも同じですね
サポートも指示ならば命令も指示ですね これしかしないんですよ
何をしないか 例えばさっきのテストで言うと勉強をしない 長自画は絶対勉強しませんね
100点を取ったらいいって話しかしないんですよね その光景を見せるってことしかしないんですよ
取れなかったら下げすぐとか罰するとか攻撃するとか叱りつけるとかしかしないんですよ
ダジャなんですよそういう意味でね 勉強するのはあくまでも自分なんですよ本来そこにいる
今ここにしかいられない自分なんですよ 未来とかに行くことはできない
長自画に引っ張ってって空想上の未来を見せつけられることはあっても 決してそこに行くことはないんですよ
鉛筆を持って勉強する私ってのはですね 長自画と一体になることはできないんですよ
長自画とあくまでも別々にあるんですね でいいという判断をしたのは私ではなくて長自画なんですよ
私は思いますよ
有名私立中学とかに入るのがいいって私は本音で思ったことは一瞬もなかったです 思い込んだんですよ
当時は長自画的な存在は実態としてありましたけどね 周りに大人はいましたそれがいいぞ
特に強く進めた父の親友というわけのわからない人がいました あの後父はあの人と仲が悪くなったんで僕は一体何なんだって感じでしたけど
いたんですよそういう長自画に相当する人がですね そこのおじさんにみんなが丸め込まれてうちの父とか母がみんな
そうした方がいいぞうちの父が一番それに懐疑的だったんだけど実は だけどお前の友達だろって話ですけどね
そういうやがて塾に行くようになるといかにいいかっていうことをみんなが吹き込んでるんですよ
僕は11歳だったからやっぱりそれはいいことなんだと思うんですよ どれほど内心懐疑的でもなぜなら勉強させられるのは僕なんで
非常に懐疑的になるんですよ あんなに嫌なことをしていていいって言われても
いろいろと子供心には納得がいかないわけですよねファミコンが当時出た頃ですからね なんかこう
外の天が悪いとファミコン隠されるとか私の家にはファミコンなかったからそれはなかったけど 同じようなことはいくらでもあるわけですね
で、いいのかってことなんですよ 僕の場合ですけどちょっともいいことはなかったんですね
だから非常に懐疑的になるのは当たり前なんだけれども
その長寿がってものに僕はやっぱりこう当時は 勉強したってことは同一化したんですよ
で、同一化するんだけれども あんまりしすぎるとしなくなるんですよ勉強って
これは非常に面白いことなんだけれども だって長寿がは勉強しませんからね
勉強しろっていう存在ですから あの時私は片鱗は学んだんですよね
させられて殴られるのが怖いから殴るんでね本当にね 母も殴るんで殴られるの怖いから勉強をするってことはあったんだけど
それは長寿がなんだけど いい未来を見せてくれている長寿がとはまだ別じゃないですか
ほとんど無知で撃たれるのが嫌だから走ってるようなもんであって すごくある意味生々しいわけですよ殴られるって生々しいですよ
だけど空想上のいいことっていうものに引っ張られているのっていうのはやっぱり 空想の中にいる間が一番気分がいいのであって
空想の外に出てフィルターの埃吸ったりするのは全然気持ちよくないわけですよ
このキャップを私だけが死になんですよねこれはね 長寿がと一緒にいる時にはいい空想の世界に入っちゃうんだけど
フィルターの操縦している時って惨めじゃないですか この惨めさがいけないんですよ
この長寿がとの同一化っていうものを果たしてしまう 果たすことは絶対できませんけど長寿がは他人なの
そうですよねえっと例えば蔵園さんがなりが一つ意識って話をされた時に 裏園さんになろうって僕がしたら一つ意識は絶対無理なんで僕は思うんですよ
だって彼は私じゃないわけです 私が勝手にイメージする彼になって彼になることはできないわけです
まあどうやっても慣れないんですけどだからこのルートでえっとその人が言ってることと同じ状態になろうっていうのは
およそ無理なんですよね いざやる時は一人になってしまうっていうのに僕ら直面するわけです
立中学に入るとこんなにいいんだぞって言われている時と勉強する時は別なんですよ 勉強する時は一人になるわけ
この時あんなに長寿がと一緒にいた自分は気持ちが良かったのに今こんなに辛い 惨めだって感じがするんですよね
見捨てられた感じがするんです これを掃除とか特にですね辛い仕事とされていることをやるときに僕らが
味わいがちなあのイリュージョンなんですよ コイレ掃除とか
コイレ掃除とかエアコンのフィルターが惨めなわけではないんですよ これが惨めなのは長寿がと一緒にいられなくなっているという不思議な現象が不思議じゃないんだけど
不思議な現象があるせいで つまり正しい未来においてはすごく綺麗なエアコンと私は一緒にいたわけじゃないですか
今のこのエアコンすごく汚い こうして夏か地下って言うんだけど地が下がったところには長寿がはいない
散った激励を横でしてくれる まあそんなことしてくれてもまた迷惑だけど
大概においてその時は現実の世界にいるから目が覚めていて そういう変な空想世界にいないんで一人でやらなきゃなんだ
これが嫌なんだと思うんですよねすごく でしかもその惨めな現実というものに取り残された
挙句 しなかったとするじゃないですか掃除
対外そうなるんだけど そうすると惨めな現実というものと一緒に取り残されて長寿がお前は本当にダメなやつ
惨めな現実と長寿が
だを見捨てるからって言うんですよ 多くの場合これが罰になるんですよね
この言い方もありますけどいずれにしてもダメな現実とダメな自分がそこに取り残されるんですよ そして
8 もう1回それに取り組む日がいずれはやってくると先を振るじゃないですか
これだと これを僕らは
いろんな名の下にですねずーっとやってる気がするんですね だから私はこの惨めな現実を作り出した
8 唯一のというかあの現況というか原因は
長寿がだったとしか 言いようがないです長寿がこの惨めな現地とこの惨めな現実というのは
長寿がの判断によることでありその空想世界との比較の結果 惨めになったんであって最初に惨めな世界あったわけじゃないはずなんですよね
無意識にどんどん長寿がの8活動許すかな こういう事態もあっという間にあの私たちは直面するけど
多分そんな事実はもともとはなかっ これをやりさえしなければ
多分そこにあるのは 埃を取り除く必要のある
2のフィルターがそれも結構新品のでただですねこういう話をわざわざする必要は本当は ないと思うんですよね
僕は 僕の現状の経験では
正しさなり良い未来なりあるべき未来なり 必要なタスクなり長寿がなりの存在を認めさえしなければフィルターの掃除などという
何の苦労もなくできます これは8
別に 庭に降りて
小映えの処置をするそういうことであっても 矢深がいっぱいいるところで8雑草し抜くとかそういうことでも全部同じです
それなりの体力の必要とかはあるかもしれないけど 見示さというものがそこに変臨も入ってこなければなんてことはないんですよ
みじめすってのは今だとおりなんですよ自分で勝手に 自分でも意識に作り出すものですね
んで本気これも同じ話になっちゃうんですけどねいつもね 本当に止めたければ止められます
間違いなく 少なくとも空想している段階でこの辺は空想だから止めようって思うのは可能です
空想な 空想というのは絶対に絶対じゃないのかもしれないけど
8完全に頭がもうろうとしててもいない限りはですね 8
近くに 決定だを与えることはないんですよ
目をつぶるじゃないですか本当本気で人が空想しようとした時には近く邪魔だってこと ですよね
目に見えているものを空想に優先するってことはそれは何でもいいですよ別になんて ことないものでもいいです
目の前にあるものが雑巾とかでもいいですよ どれほど素晴らしい空想でも雑巾の近くには勝てないんですよ結局
頭の 心理状態であれば
これができないっていうならば 多分ですねこれはできると僕は思うんですよねできるとできないって思い込みさえし
なければですねこの空想は何も生み出さないだけでなく 自分の気分を一段と落ち込ませる以上の何かをしてくれないので
空想を止めること
8だってそうじゃないですか あの
すごくいい学校に入ってすごくいい大学生活私で言うと彼女がいっぱいできた生活 みたいなのを思い浮かべた直後
のけもしない 理責の問題とか解き出すとみじめになるじゃないですか
これをやりたくなかったらそういう空想をしなかったらいいんですよっていう 簡単に言うとそういう話なんですよねで
それを8僕はですね思うにこの空想やっぱり好きでやってると思うんですよね でこの空想を作り出すからクリを私が一生懸命コマゴマと説明すると長寿がとの
同一化を目指しているっていう説明になるんですよ
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