出版の忙しさと書店訪問
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
3月11日、月曜日、朝11時です。
昨日ね、ちょっと用事がいろいろ立て込みまして、出かけていたんですけれども、
比較的近いところにあるTSUTAYA書店、TSUTAYA書店っていうのはローマ字じゃない方で、
漢字で書く方のTSUTAYA書店さんはあんま多くないんですけれども、
そこで私たちのJさんとの先送りゼロが、なかなかオンラインではビジネス書一位とかになっていて、
なぜなのかはよくわからないんだけど、そういうこともありまして、
ちょっとお邪魔してですね、ご挨拶をしてきたと。
挨拶をしてきたからたくさん売ってくれるとか、そういうことかどうかは別といたしまして、
ちょっと挨拶をしてきたという感じだったんですよ。
この辺のことをですね、可能であればJさんと今週来週、
彼はそんなにずっと日本にいるわけじゃないので、
多分今週来週あたりで回れればいいかなというふうに思っているところです。
そうですね、現在のところ、非常にレビュー好評で、好評な上に数字の増加も早くてですね、
今ちょっと厚いでの本なんでやはりね、厚手というのは単に紙が厚いというだけでなく、
録画あるというだけでなく、ページ数が300ありますから、
しかも全編読む場所なんでね、ここから先はちょっとアペンディックスみたいなやつです、
みたいなのではないんで、非常に厚いんですよ。
ほとんど読むっていう場所になってるんで、
これを読んでいただいてから、またコメント、感想いただくまでは時間かかるだろうなと思っておりましたから、
こんなに早くこれだけたくさんのAmazonレビューいただいて大変ありがたい。
娘の本選びとバナナフィッシュ日和
しかも大変こう、かつて自分が経験した中ではおそらく一番いい状態かなと。
レビューの例とかなと思います。
この段階ではね、引き続きぜひ何か先送りということがテーマになっているところで話題にしていただけるとありがたいです。
で、昨日そのTSUTAYA書店に行ってですね、
うちの娘に中学2年なんですけれども、なんか好きな本買って買ってくださいと言ったんですね。
なんでかというと駐車場料金取られるから、
自分の本買ってもよかったんだけど、それはさすがにやめまして、娘に何か本買ってって言ったらですね、
JDサリンジャーのですね、バナナフィッシュ日和を、
バナナフィッシュ日和は短いんで他8編なんですけれども、
これなの?みたいに思ったんですよ。
これはですね、私は苦い、苦くもない、ほろ苦い、甘苦い思い出がありましてね、
大学時代に、私、英米文学ですから一応、実際には英語学科なんだけど、
語学だけやってられませんから、国際コミュニケーション論とかのほかに英米文学というのがね、あるわけですよ。
その3本柱なんですね。英語学、国際コミュニケーション、英米文学。
私はもう、国際コミュニケーションに私が行くわけがないじゃないですか。
そこはね、女子いっぱいいたからそっちに行きたかったんだけど、どうしてもね、国際コミュニケーションに行くというモチベーションでいたら、
大学多分、いつまで経っても卒業できるはずが僕ではないと。
英語学というものは、私がやっていてもですね、もう普通の人の反応なんですよ、私は。
いや、英文法を学習、学問したいということじゃないでしょうと、単純にそれで。
で、英米文学。幸いここは非常に波長があったんですね。
いや良かったですよね、本当に。
こう、なめた理由で大学行ってたんで、大学に行き続けられるのがすっごい苦痛になってたんですけど、
シェイクスピアを読むとか、そうだな、それこそサリンジャー読むとか、
あるいはこう、何だろう、まあ何でもいいんですけれども、ヘミングウェイ読むとかね、
あるいはこう、ホイットマンとか全然行けたんで、
嵐が丘も非常に行けたんでね、帰って良かったんですよ。
偶然なんですよ、完全に偶然なんですけど、本当に良かったなと思いました。
それで、えーと、それは良いんですけど、その時サリンジャーの例のですね、バナナフィッシュ日和を。
バナナフィッシュと言えば、日本人だったら普通、先にあの吉田明美さんのバナナフィッシュをね、
アッシュリンクスのやつを読むに決まってるじゃないですか。
うちの子だって当然そうだろうと、中をくくっていたら、
バナナフィッシュの漫画を吹っ飛ばして、バナナフィッシュ日和の方を読み出すという、
えーと、そう来るのかと思ったぐらいですね。
さすがにこれはちょっと無理ないかって思ったんですけど、
まあ、なんか買ってって言って買って引っ張ってきたんで、
もうこれは買ってあげないっていうのも変なんで、
いやそれはちょっとパパ的にはホロ苦いんでやめましょうっていうのも変なんで、
バナナフィッシュ日和の解釈と大学時代の文学授業
買ってあげて行ったら早速もうなんか持って行っちゃったんですよね。
いやーあれは僕には非常にこう、単に分かりにくいというだけでなく、
サリンジャといえばやっぱりライムギ畑じゃないですか。
ライムギ畑とバナナフィッシュ日和はもちろん関係が深くてですね、
一見したところ全然何の関係もないような作品になっちゃってるんですけれども、
そんなことはやっぱりなくてですね、
ライムギ畑で接続して読むとすぐに、
だから私よく大学の友達が訳わかんねえ言ってたからですね、
だからライムギ畑を読むのもカッタルいわけですよ、大学生は。
でもライムギ畑はですね、大崎豊じゃないですか。
そういう言い方をちょっとものすごくざっくりしてますけど、
要はあれは盗んだバイクで走り出して校舎中の窓を叩き割りたいわけじゃないですか。
そういうののアメリカ版ですよね。
結局バナナフィッシュ日和ってのは、
じゃあそういう人を盗んだバイクで走り出しそうな子供を捕まえて、
お前戦争行けみたいなことを言って、
ドイツとかに戦争行かせて帰ってきたらどうなるのかという話だと思うんですよね。
そう思えばあの話が難しいってことは別に全然なくて、
なんで大学の先生はこういうふうに教えてくれないのか不思議でしょうがなかったんですよね。
言ってることは確かに同じなんだけど、なんか全然難しいんですよ。
難しくもあるんだと思うんですけれども、
でもやっぱり別になんてことはないですよね、あの小説も。
ある意味TSエリオットなんかを読むよりも無理はないような気が私はしたんですけれども、
大学生的にはっていう意味ですけどね。
大学生が読む上では、別にサリンジャーって見た目のちょっとやたらしゃれている部分を取り除けば、
普通の作品だと。ただ中学生はどうかとは思うんですけれどもね、さすがに。
雰囲気を楽しむっていうのも小説、その辺だと小説ってすごいですね。
私はその話はラストが衝撃的なんですけれども、
私は最近やっぱりすごく精神分析入ったせいなんだなというか、せいってことはないんですけどおかげで、
やっぱり昨日もバナナフィッシュ日和を、日和っていうのかな、バナナフィッシュに最高の日とかね、
バナナフィッシュパーフェクトデイとかいろんな薬具のタイトルがあるんだなというのも昨日知ったんですけれども、
これ結局精神分析で読んじゃうんですよ、もう私は。今ちょっと避けられない。
大学生の時精神分析とかで読まなくて本当に良かったと思うんですよね。
めちゃくちゃとんがっててめちゃくちゃやばってたから、内心だけでですよ。めちゃくちゃやばってたから。
さぞ今読むと恥ずかしいレポートをガンガン書いただろうな、それはそれでいいんですけどね、別に大学生のやることですから。
いいんですか、そんなことを思いながら昨日読んだわけですね。今やってる言葉も変わらないのかもしれませんけどね。
それでバナナフィッシュというよりはバナナフィッシュっていう表現で比喩されてるのはあの時代のアメリカのですね、要はスノップですよスノップ。
お母さんもですね、マティーニとか飲んでるわけですよ。つまり異気なもんなわけですよ。戦争から帰った人の目からしてみると。
で、戦争から帰った人、シーモアっていう人なんですけど、このシーモアさんは簡単に強靭扱いされてしまっているわけですね。ここが非常におかしい話なわけです。
やっとドイツとの戦争にね、日本とドイツの戦争に勝って、もう国中で英雄のように言われていたはずじゃないですか。
時々白黒で見ますよね。アメリカ中が沸き上がってますが、そういうふうに迎えておきながら病院に送っちゃうわけですよ。ちょっと戦争神経症だって言うだけでもう病院行きなわけです。
で、それを心配すらちゃんとしてくれないというね。奥さんと奥さんのお母さんは、特に奥さんのお母さんはですね、その心配だというのでひたすら電話をかけてくるっていうところから小説始まるんだけれども。
心配だ心配だと言ってるんだけど、合間合間にドレスの話とかファッションの話なんですね。入ってくるわけです。
で、みんな女性誌を読みながらファッションをやって、ホテルで、とにかく当時のアメリカは戦勝国ですからね。景気もいいわけじゃないですか。だからこう、バカンスを楽しんでる。
で、シーモはもう一緒にバカンスを楽しんでいるんだけれども、とにかくバカンスを楽しみましょうねっていうことなんだけど、そんなことで戦争神経症が癒されないじゃないですか。
だけれども、わからないわけですよね、そういうことは結局。経験したことがないから。
つまり、このすっごく大掛かりな形での、どっちが悪いのかというか、どっちが正気なのかっていう話なわけです。サリンジャーですからね。
ライムギー畑の時代からだいたい尾崎豊って結局そうじゃないですか。どっちが正気なのかって言ってるわけですよね、あれは。
みんな大人は正気だってことになってるんだけど、本当に大人は正気なのかという話じゃないですか。
だけれども、強い方と多数の方が基本的に正気の権利を持ってますからね。
この話はどこまで言ってもいつもある話なんですけれども、これを社会、要するに社会問題として見ると、
どっちが正気だとは言えないよねっていうことを、要するにこう、何ですかね、抗議の文化っていうような表現を取ってましたけど、そういうことですよね。
小説として抗議すると。
だけども、ラストのシーンを見るとやっぱりですね、なかなかこう難しいわけですよ。
この種の話は全部そうなんですよね。この種の話が簡単なはずはない。
シーモアの戻ってきた状況と矛盾
で、私は今は分析をかじりながらこれを読みますので、当然当たり前なんですけれども、
いかにこのシーモアのね、戦争から帰ってきて、このアメリカ人がやってることはみんな狂ってるよっていう側から見るとどう見えるのかというのが、
実にこう、何ですかね、巧みに描かれているんですよね。
結局大学の先生はこれを大学生に読ませなかったわけなんでしょうけど、何しろ我々はスノップですからね。
私だって彼女を作るために大学行ってるようなそういう人間だったわけだから、
あの時代1980年代、ギリギリ最後90年代が始まったばかりの日本は全然スノップで大学生なんてやってられるに決まっておりますから、
この小説を読んでみんながバナナフィッシュだって思う人の方が大学生としてもやっていられないわけですよ。
ここに先生というのは一体何を望んでこの本を読ませたりするのかなというのが、
すっごく深く捉えるとですね、めちゃくちゃ良い教育とも言えるんだけど、
すっごく危なっかしいことをやっているとも言えなくはないですよね。
現に私の友達、私の友達ですから、やっぱりすごくアウトロー化している人もいるわけですよ。
要するに盗んだバイクに乗って大学に来ちゃってるような子もいるわけですよね。
そういう人たちにこういう本を読ませるってどうよっていうね、
スノップやってる人たちはそういうところを小切れにまとめてBもらっていくわけですけれども、
もうなんか全く提出しないか、ひどく尖ったものを提出する子のどっちかしかできないような子もいなくはないわけですよね。
大学の先生はそうじゃいないと思っていない前提でレポート書かせてるのかもしれないけど、
まあいるわけですよ結局。
しかも当然イライラしているわけですね。
シーモアほどではないかもしれないけれども当然イライラしているわけです。
このイライラって何なんだろうなっていうふうに思うんですね。
で、バナナフィッシュというものに象徴されているのはつまりスノップなんですけれども、
マティーニとかリゾート地で飲んでそれでいいと思っているということが許せないって話なんでね。
バナナばっかり食べている、バナナっていうのがまたね非常に分析的ですよね。
夢判断では、夢分析フロイトのですね、バナナって出てきたらもうそれは全部男のアレですからね。
バナナばっかり食べている魚がブグブグ太って穴から出られなくなって、
鼻に入るが簡単だったのに出るときは出られなくなって死んでしまうという、
そういうですね、シーモアはそういうバナナフィッシュをですね語るわけですね。
こんなことを言っていては、戦勝国のアメリカでこれを言っていてはですね、
バナナフィッシュと投影同一化
そういう態度を撒き散らしていては、すぐこう病院に行ったり来たりしなければならなくなるんだけれども、
そこはおかしいわけですよね。
と、まあシーモア的には思うわけですね。
で、この分析で読もうと読む前と、それはいいわけなんだけれども、
結局僕がここで、とりあえず一番原理的に感じるのは、ここでは投影が起きるわけです。
で、不愉快なわけですから、そもそも戦争体験というのが不愉快なわけですから、
その不愉快な記憶を全部持ち帰ってきて、で、全く非現実的なところに叩き込まれて、
私これ思い出すとですね、あれですね、
しんたにかおるさんのエリア88、88。
あれをやっぱりですね、思い出しますね。
風マシンさんは騙されて、なんか傭兵にされて、
もう激戦地に戦闘パイロットとして送られるっていう過酷なスタッフなんですけど、
しんたにかおるさんらしいんですけど、
そしてこう戦闘費バリバリかけるという、戦闘費おそらくすごいかきたいわけですよね、しんたにさんは。
だからバリバリ書いて、すごいこう視線をさまよい続けてきた人が、
急にそういうすごく平和なところに行くと、
順応できないという話を彼も書いてましたけど、
まさにああいう感じのもっとひどいバージョンが起こるわけですよね。
順応できないわけですよね。
で、この順応できないときは、そのなんちゅんだろう、
光景が平和すぎるんで、平和でしかも贅沢すぎるんで、
夢のように文字通りになってしまうと思うんですよ。
ヘミングウェイでさえそういうこと書いてますもんね。
で、この全く夢のように見えている世界が、
しかもみんながそれでいいと思っている世界が、
当然到底耐えられないときに、こういう人たちはつまり何かを投影するんですけれども、
世の中とか身の回りの人たちとかにいちいち投影していくんだと思うんですよ。
自分の不愉快さ。
まあこれは完全にスプリットオフで、
そしてその自分の中にある罪悪感のようなものは当然あると思います。
怒りもあるし恐怖もある。
全部それを貼り付けていくわけですよね。
なんかこう、なんすかね、リゾート地にホラーを出現させるような、
だからそのバナナフィッシュなんだけど、
そういう感じになると思うんですよ。
で、つくづくですね、
不不感といったものの関係であっても、
これがどうしてもね、
あとはこれを、なんていうんですかね、
その瞬間をどう見るかだなってよく思うんです、最近。
つまり不愉快なことってどうしても僕らはあるわけじゃないですか。
例えば今でいうと花粉症があるということになりますよね。
花粉症って何かっていうと、目が痒くなったり、鼻が出てきたりするわけですよね。
眠くなったり、さまざまあるわけです。
で、これって要するに現象だけ取り上げるとですね、
原因がわからない段階だとしましてですよ。
原因がわからない段階だと不快だってことになるわけですよ。
で、次にこの不快を切り離したいわけですよ。
自分が不快なのは嫌だから。
だからこの不快というものをせめて原因だけでも外に置く。
で、幸い現代はね、そういう原因解明にめちゃくちゃ進んでいるので、
不快だってなった時に不快の原因まで全部自分で処理込むのは非常に辛いので、
せめて原因を外に追い出して、何かのせいにしたい。
今から誰かのせいにしちゃいけませんみたいなそういうね、
倫理的な話だと思われやすいんだけど、
僕は精神分析では倫理解いてるわけでは、
結局倫理的でないといけないと思うんだけど、倫理解いてるわけじゃなくて、
倫理解いてると誰かのせいにしちゃいけませんで終わってしまうじゃないですか。
そしてそんなこと言われても誰かのせいにするじゃないですか。
で、花粉のせいにしているわけ。
まあこれは花粉症は花粉のせいだというのがおそらく本当なんだけど、
でも切り離して投影するという意味では、
原因解明するというのも基本は同じなわけですよね。
やらんとしていること。
これが人間関係になるととってもわけわかんなくなるわけですよ。
自分が不愉快なのは何のせいだと。
で、目の前に夫がいて、
この夫のこのわけわかんない間抜け面のせいだとか、
そういう風にすることによって、
この夫という対象に対して攻撃を繰り広げると、
スカッとする気がすると。
これをやるとPSポジションの戦いが始まるわけですね。
だからこれを投影された側が、
ここが非常にみんな納得がいかないと思うんですよね。
話聞いてて、投影された側がこれをこらえるというか、
持ちこたえると。
最初は持ちこてるっていうことになるしかないのかなと思うんですよね。
これを愛だっていう話をしていいと思うんだけれども、
持ちこたえたら愛じゃないですか、すでにある程度は。
持ちこたえるということは相手のためにやってるわけですからね、基本的には。
自分は不愉快でもなんでもなかったのに、いきなり何かを投げられて、
不愉快にさせられるわけですよね。
投影同一化なわけです。
お前は不愉快なやつなんだって、目の前の人に言われたら不愉快ですよね。
カウンセリングの重要性と子供の役割
こうして投影は必ずある程度以上、投影同一化が起こるわけですね。
だからこれをですね、バナナフィッシュの人は、
あらゆる人と社会全体に絶え間なくやっているわけですよ。
だからお前らみんなバナナフィッシュだっていうわけですよね。
当然言われた方は不愉快だから、バナナフィッシュに同一化していくわけですよ。
こういう話なんだと思うんですよね。
バナナフィッシュだと言われるまでは平穏に、のんきに暮らしていけるんだけれども、
バナナフィッシュだと言われて、それを投影されるとですね、
しかもそこには罪悪感があるわけじゃないですか。
だって、シーモアを戦争に駆り立てたのは、そこら中にいるアメリカ人がやったことですからね、結局は。
それはしょうがなかったとか、いろいろな理由はあるにせよ。
そういうからくりがあることに違いはないですよ。
そしてだから戻ってきたら、みんなでお祝いをするわけじゃないですか。
よく生きて戻ってきたねってわけなんだけれども、
その後の扱いが、あれは戦争でおかしくなったからといって病院に入れて、
みんなもティーに飲んでるわけですよ、ファッションの話をしながらね。
非常に嫌な言い方をするとこうなるわけですよね。
でもこれをもっと嫌な言い方どころではないぐらい、
嫌な感じで小説化すると、ああいう小説になるんだと思うんですよ。
で、これを持ちこたえるということは、
つまり少なくともまずその人の話を聞いてあげなければいけませんよね。
カウンセリングっていうのは結局、話を聞くことが大事というよりは、
これに持ちこたえるつもりはあるよっていう姿勢を見せるってことが、
何より先に来るだろうと。
これをまたやるのがですね、鋭いと思うんだけれども、
サリンジャーの小説の中ではこれをやってくれるのが唯一子供なんですよね。
3、4歳の女の子たちなんですよ。
当然これを畳から見ると、非常にまた美容によってはですね、
非常に健全な光景に見えるわけじゃないですか。
そういうところも含めて、しかもその小さな女の子に向かっても、
バナナフィッシュの話
このシーモアさんはバナナフィッシュの話を、というか、
まさにその小さな女の子に向かってバナナフィッシュの話を展開するわけですよ。
でもまあ、すでにアメリカ人で4歳の女の子だから、
結構負けてはいなくてですね、
チビクロサンボのド、トラの話が出てくるんですよね。
で、6匹しかいなくてつまらないみたいなことを言うと、
シーモアが驚くというシーンがあるんですよ。
6匹もトラがいて、しかって君は言うのかっていうやり取りがあってですね、
すでに4歳にしてですね、いろんな意味で欲が深いわけですね。
それが、そういうものが結局、シーモアがひどい目に遭わなければならなくなった、
大きな理由になってるわけだから、
あの話は非常にですね、そういう厄介な象徴に満ちてるんですよ。
大学の先生、こういうの大好きですよね。
これをどのくらい大学生が解けるのかというか解けないのかを見るという、
まあこれも嫌味な言い方になりますけれども、
そういうのが好きだよなというのは、学生時代もつくづく思いました。
最初は面白いんだけど、こればっかりやらされてると、
なんかほんとこの人たちはこれ好きだなって感じに、
だんだんどうしてもね、やっぱこっちは課題出されている側だから、
やっぱりそういう、この生きどりがあるわけですよ、どこかにはね。
これで評価が全く関係なければ楽しむだけで済むんでしょうけれども。
で、まあこういうところででも持ちこたえてくれるのは結局、
まあ持ちこたえるというのはですね、
正気か狂気かということにそこまでこだわっていないからって意味が当然あるわけですよ。
イノセントってことになるんだろうかと思うんだけど、
3歳児、4歳児の女の子たちが、まあそういう話にも乗ってくれるわけです。
だいたいそうですよね。
こういうバナナフィッシュのお話みたいなのも子供は大好きじゃないですか。
非常に僕はやっぱり考えさせられるなと思うんですよね。
この子たちだけが、実際は違うと思うんですけどね。
実際はアンナフロイトとかが自我心理学を率いて、
率いたわけじゃないんだけど、
アメリカに勢力を拡大していくのは、
たぶんこの人たちが重要なクライアントになっていくからなんだと思うんですけれども、
その小さな女の子が相手をしている。
この小さな女の子がまさにカウンセラーなんですよね。
もうちょっというとこの小さな女の子は何しろバナナフィッシュ、
バナナを食べる魚の話を聞かされてるんですから、
完全に僕は精神分析に付き合わさせられているように、
そういうふうに書いてるんだろうなと思うんだけれども、
そういうふうに書いちゃってるんですよ。
そしてすごく僕は当然そうなるんだけれども、
そうなるなというものが反復的になっていくんですよ、こういう話って。
結局どっちが正気かっていうのは確かに問題なんだけど、
それは社会問題ですよね。
それも問題なんですけど、ずっと同じことの繰り返しになってしまう。
シーモア、すごく面白いシーンがあって、
この小さな女の子がシーモア・グラス、
これがシーモア・グラスさんの本名なんだけれども、
お母さんの前で鏡を見て鏡を見てっていうシーモア・グラスですよね。
これはつまりこの子はオシャレのために言ってるんだけれども、
小さな女の子のカウンセリング
反復的なんですよね。
このお母さんも娘に向かって、
あの夫は大丈夫なの?病院に入れなくていいの?っていうような調子で電話をかけてきて、
反復的なんですよ。すべてが反復的なんですね。
だから最後のシーンがすごく効いてくるんですけれども、
でも私が思うに、これは短編で終わってるんだけど、
これを短編で終わらせるとああなるしかないんで、
この本の教訓とかはないんだけれども、
あるとするとやっぱりですね、
短編で終わらせないっていうのは大事だよなと。
だから新聞説とかカウンセリングっていうのは、
非常に時間がかかるというのは当然だよなと思うんですよ。
何しろ女の子が、小さな女の子がですね、
同じことを言うのって本当に壊れたレコードって言い方がありますけど、
そんな感じじゃないですか。
繰り返し繰り返し同じことを、同じところをぐるぐるぐるぐる回っているわけですね。
で、シーモアさんはつまり寝られないわけじゃないですか。
戦争という体験から寝られないんですよね。
フロリダの青い空とか、リゾートホテルとか、マーティニとか、
そういうものに囲まれているとなおさら出たくなるんだけど、
要するに寝られないんですよね、自分自身から。
で、社会問題的には、
彼の方がある意味正気なのかもしれないんだけれども、
コリー・ウィルソンがアウトサイダーって書いたときに言ったことと全く同じなんだけど、
そうなのかもしれないんですけど、
やっぱり彼が少なくとも十分に正気だと言えないのは、
自分から出られないってことなんですよ。
もちろん周りの人も同じなんですよね。
ファッション誌の話から出られなかったり、
女の子はシーモア・グラスという言葉から出られなかったり、
いろいろと僕らは出られないところにいて、
それがナルシシズムってことなんだと思うんですけど、
他者とはエンカウントしないんですよね。
遭遇できないと。
遭遇するとなると、そして短期間に無理やり遭遇させるようなことになると、
この話の結末みたいになってしまうので、
それを避けなければいけないとなると、
やっぱり持ちこたえるしかないんですよね、お互いに。
お互いがお互いに持ちこたえると。
精神分析とかカウンセリングであれば、
専門家に持ちこたえてもらえばいいわけですけれども、
セッションとかね、専門家を持ちこたえてくれますから、
少なくとも持ちこたえる力を持っていなかったら、
それはカウンセリングにならないので、
なるんだとすると持ちこたえてもらえるんですけれども、
夫婦間の間では持ちこたえるというのはもう、
ある意味ボランティアじゃないですか。
だから愛なんですけどね。
つまり持ちこたえなければいけない義理はないわけじゃないですか。
でも持ちこたえずることなく放置して、
人を強靭扱いしていると、
ああいう話にしかなっていかないわけですよ。
バナナフィッシュにしかなっていかないわけですよ。
持ちこたえることの重要性
だからやっぱ持ちこたえなきゃいけないわけですよね。
いろんな不愉快なことっていうのは、
今日だから3月11日っていう日の話はしてないですけれども、
今日は3.11ですね。
思わぬ人生で持ちこたえるしかないことというのは、
起きちゃいますよね。
先日鳥山明さんが亡くなりましたけれども、
何かいろんなことが起きるわけですよ。
持ちこたえるということは、
結局は愛なんですけれども、
なぜならば持ちこたえる義理ってないわけですからね。
ない人にしてみれば。
でも投げられた、
誰かによって自分は不愉快な存在というものにさせられた。
させられる、いわれはないわけですよ。
たとえ生き方が植物的であろうと、
バナナフィッシュ的であろうとですね、
だからといってお前は不愉快だから不愉快な存在になれと、
言われる義理はないわけですよ。
あるとするとカウンセラーなだけ、
カウンセラーさんたちだけなわけですよ。
彼らはお金をもらうことで、
この不愉快な存在にさせられるのというのに、
引き受ける仕事を仕事として選んじゃったから、
彼らが愛を発揮しなければいけないのは、
仕事だからぐらいな勢いなんだけど、
普通に生きている人は、
別にその義理がないって言ってしまえばないわけですよね。
だからこの母子関係っていう比喩っていうのは、
適当だなって思うんですよね。
やっぱり母は子に対して愛情を注ぐ義理があるわけじゃないですか。
なぜならもともと自分から出てきてますからね。
そういう意味では義理があると言えばあるんだけれども、
その意味でどこかで義理があるっていう状態っていうのは、
一つだったっていうしかなくなるんですよね。
だんだんGoodBIOSに近づいてるんだけど、
そうでないんだとすると、
義理が本当にないことになってしまう。
だからスプリットオフという分離ですよね。
切り離して投影するという言い方が、
その逆に向かって働くっていうのは、
他にも正しいわけですよね。
で、いつもよく思うのは、
そうはいっても我々はバナナフィッシュのシーモアさんほど
難しい立場には立ってない。
あそこまで行ってしまうと本当に難しいので、
やっぱり小さな女の子をカウンセラーとしているようではですね、
拉致が明かないわけですね。
小さな女の子を3歳児とか4歳児をカウンセラーにするようでは、
どうしようもない反復が続くばかりになってしまうので、
ここから外に出るには時間がかかるし、
ある種の結局1Gジャンプを飛ぶみたいな話になってくるんですよね。
そういう瞬間も必要で、
だけれども致命的なことが起こってはまずいんですよね。
そこが厄介なんだと思うんですよ。
だから致命的なことが起きないようにするためにも
持ちこたえて、持ちこたえた上で投げない。
できればですね。
多分なんですが、
世の中これを我慢するとか理不尽な我慢を強いられるって言うんですけど、
これを意欲的に積極的にできればですね、
もうそれはかなりのレベルまでいけるはずなんですよね。
自分自身に対してっていう意味ですよ。
自分自身のケアとかセラピーに対して、
決定打はもう一個先があるのかもしれないけど、
基本僕らはこの辺で相当イライラしている。
イライラしていたり、
なんで俺がって思っちゃうと思うんですよ。
分別のない世界を求めて
で、なんで俺がって思うからある意味いいわけですよ。
なんで俺がって思わないということは、
別に理不尽でもなければ、
投影されてもいないわけだから、
癒す力っていうのとは違うと思うんですね。
別にギリがなくて人に優しくできるのが、
つまらないことだってわけじゃないです。
でもどっちでもいいにもかかわらず、
引き受けてそこに対してケア、
手当てができるということはですね、
このシーモアがなんとか生きていけるのは、
やっぱりあの女の子みたいな人がいたからだと思うんですよね。
だからあの4歳児とか3歳児の女の子でない方がいいんだけれども、
でもそういう話を聞いてあげて乗ってあげることができるというときに、
分別しないっていうことだと思うんですよ。
なんで私が相手しなきゃならないとか、
思わないわけじゃないですか。
そしてなんでこの意味不明の話を聞かなきゃいけないとかも、
思わないわけじゃないですか。
で、スノブ扱いされるということも、
意味がわからないからなんだけど、
気にしないわけですよ。
そういうことがどっかないとダメなんだろうと思うんですよね。
大人になってしまうと大体そうじゃなくなりますよね。
わけわからん話は聞きたくないし、
自分が悪役を振られたくもないし、
そして自分は全然悪くなく生きていると簡単に思えるし、
その割には区別はしちゃってるわけですよね。
正常と異常。
正常と異常の区別をしてしまうということは、
今は自分が正常なのかもしれないけど、
可能性を開いちゃうじゃないですか。
可能性は当然開かない方がより、
自分がイノセントでいるっていう方向性でいたければですね。
いたくないなら別なんですけど、
でもいたくないならっていうことになってくると、
自分はシーモアと全く同じでもいいって話になっちゃうので、
話元に戻ってくるんですよ。
なので、どこかぐるぐる回り始めてる。
それは結局何かを避けているからなんですけど、
例えば怖いものを避けるとか、
僕のでいうと精錬器を避けるとか、
そうやってぐるぐる回り始めるわけですよね。
私大学時代に彼女欲しかったっていうのも、
結局この現実に直面するのを避けたかったっていう意味なんですよ。
今から考えてみるとね。
ひたすら現実に直面するのが避けたかったから、
反復的に同じことをする羽目になってしまうわけですよね。
これを断ち切りたいと思ったらですね、
同じことを繰り返したくないではないです。
結果として同じことを繰り返すような道に
はまり込みたくないと思ったら、
やはりどこかでですね、
致命的でない形で致命的な方向に向かうっていうのが
大事なのかなと思うんですね。
その時にこの幼い子供たちみたいな
カウンセラーの中にそれが見出せると一番いいんでしょうけれども、
幼い子供たちみたいな、動物みたいなのでもいいんですけどね。
分別のない世界っていうのが
一つ大きなヒントになってるなというのが、
今日はちょっと重めの日なので、
そういう話をしてみたいかなと思ったわけです。