2021-09-20 25:25

【GMV 461】なぜやる気が出なくなるのか?

罰されたくはないが、罰の恐怖に頼る
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ちょっと朝起きて正気気を受けてですね、
8時ってまずくないと思ったんですね。
娘の学校どうしようとか思ったんですけど、
休日でした。
昨日一昨日、東京に出て、珍しく連日東京出たんで、
仕事をして、多分、よくわからなくなってきてたんですよね。
曜日感覚的なものが。
ちょっと朝、びっくりしてしまって、
今、急いで支度をして収録中という流れです。
昨日第4回、第3回の4期の書き上げ塾というのをやってきたんですけど、
さっき言いました通り、まもなく、まもなくではないですが、
5期始まりますんで、その辺ちょっと色々考えておいていただいて、
よければご参加いただくと大変ありがたいと思います。
今もまさにそうなんですけど、
最終的な目標は一つ本を書くということなんですが、
ある意味あれは精神分析的でもあるなって、
昨日またちょっと余計なことを考えたりしたんですね。
というのは、書いている内容が、そうじゃないんじゃないみたいな感じで言ってくるんですよ。
書けなくなるというのが昨日のテーマだったんですけど、
書けなくなる原因の大きな理由の一つはこれだなと思う時があります。
どうしてそれがカウンセリング的かというと、
カウンセリングというのは、よくカウンセラーがまずやることとして、
解釈するというのもありますよね。
これは絶対どんな分析じゃなくてもあると思うんですね。
あなたはこういうふうに育ってきたから、今こういうことで悩んでいるんです。
という一種の物語を描きますよね。
その物語はどんなに腕のいいカウンセラーがいて、
どんなにその判断力があって知識もあったとしても、
事実そのものではないですよね。だって物語ですからね。
つまり嘘ぶくみですよね。
しかもそれは他人がする解釈だから、
完璧に当たるなんてことはないはずですね。
だから昔からこの話があってですね、
言い当てられることによって治るのか、そうじゃないのかみたいなのもあるんですよ。
これは結構大事な議論だと思うんですけど。
で、完璧には当たらないじゃないですか。
ここは大事な点で、
違う、そうじゃないんだってもし患者さんが思ったとすると、
それはカウンセリング失敗なのかというと、
そうではないと思うんですよね。
違うって思うということは、
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違う何かをその人意識したってことになりますよね。
こういうのが大事なんだと思うんですよ。
で、本を書いている時にもよく思うんですけど、
書いているうちに違うって言われているような気がするんですよ。
そしたら、違うことを書かなきゃならないじゃないですか。
でも違うなと思ったからといって、
じゃあ違うことをバンバン書けるかというと、
そんなことはないわけですね。
だって違うなと思うだけでは、
相手の解釈が間違っているからといって、
正しい解釈が自分からバチッと出てくるなんてことはないわけですよ。
あなたはお母さんに、家保護に育てられすぎたから、
そうやって何でも女の人に頼るようになったみたいなことを言われて、
いやいや、そんなことないよって思ったとして、
じゃあどうなのかって考えてみると、そんなにすんなりは出てこない。
で、物書くっていうのはそれとちょっと似たところがありますが、
文章っていうのはしかし書いてしまって、
時間もかかるし、期限もあると。
書き上げ塾そのものに期限はないにしても、
6ヶ月という一つの設定がある。
4ヶ月経って、全体の8割ぐらい書いたところで、
違うなと思ってもちょっと困るじゃないですか。
で、その違う程度もですね、丸々全然違うのか、
それとも部分的に何かちょっと違う方向に来たのかでも、
やっぱり対応の仕方は違うわけですよね、それこそ。
だから、この違うなというのを書いてみて認識するというのは大事なプロセスで、
しかもこれをですね、避けて通ろうというのは無理があると思うんですね。
事前に分かっているぐらいならば、そっち書かないというわけですからね。
で、それが無駄にならないように事前にきっちり考え抜いておこうというのが、
書き上げ塾と全く反対なんですよ。
書き上げ塾はノープランライティングということなんで。
で、カウンセリングもまさに僕はそうだと思うんですよ。
カウンセリングをプランするというのは絶対ありえなくて、
患者さんがこれから何を言うのかは、患者さん自身が多分絶対分かっていないはずですからね。
そういう意味でも事前に決めておくことはできないし、
間違うということ、間違いではだからないんですよね。
解釈を言い当てられないからといって、
そもそもそれが致命的なことではないようにですね。
だって100%当たるなんてことはありえないことですからね。
相手は当たったからといって納得するとも限らないじゃないですか。
これはカウンセリングの話ですけど。
でもこれも本を書いている時もあるんですよ。
間違いなくこうだろうという風に書いているのに、
いまいち手応えが感じられないみたいな。
この話はちょっと微妙すぎるんで、
今日深掘りするわけではないですけれども、そんなこともあるわけです。
だから書く前に全く間違いのないことを書こうとしたら、書けないのは当然です。
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書いている最中にも全く正しいはずだがしっくりこないとか、
何か違うように言われているような感じがするといったようなことは起こるわけです。
そこでUターンしなきゃならないっていうのを含んで書くってことだとやっぱり思いますね。
だから書き上げ塾ってそういう発見がある。
これは書けばありますけれども、設定はすごくしっかりしていて、
クラスの系統さんがすごくしっかり設定してくださっているんで、
これしっかり設定するってすごい大事なんですよ。
事前にですね。しっかり設定するというのは書くことをしっかり設定するというのではなく、
書く環境をしっかり設定するということですね。
最初に規格を決めるということや、赤をカッチリ入れるといったことや、
どういう方向性で書くということを決めるとか、
文章の構成の水準をどこに設定するとか、そういう設定ですね。
そういう設定がカチッと決まっていると、今みたいなことが起こりやすくなってくるので、
何が違うのかとか、どういうところが釈然としないのかを自分で見出しやすくなるってことです。
たぶん私はこの設定が、ここで類似関係を感じるんでしょうね。
カウンセリングにも様々あるけど、精神分析というのはある意味一番カッチリした設定だと思います。
カウンセリングにも様々あるけど、精神分析というのはある意味一番カッチリした設定というものがあるので、
だからそういったことが解釈に対する来た人の、言われた人の反応みたいなものが非常に見えやすくなっているんだろうと、
そういうことを参照的に考えたわけです。
それとはまた違って、
昨日、駆け上げ塾で出てきたお話に、
内なる指導者という言葉がキーワードとしてあったと僕は思ったんです。
クラスのさんが挙げてくださったんですけどね。
内なる指導者というのは、私たちは普通にみんな知っているものだし、非常に人間的なものだし、
多分分析で言う長児がそのものではないですが、とすごく関わりが深いもので、
これの扱いにすごくよくも悪くも私たちを色々煩わせたり、しかし頼ったりしている、
いろんな形でやっているなと思ったんですね。
この内なる指導者を非常に簡単に言ってしまえば、
から自由になろうとまでは言わないにしても、内なる指導者べったりはやめようぐらいな感じはあるんですね。
グッドマイナスは僕は最終的にやっぱり自由になるっていうことを、
方向性としてはそういうことになるんじゃないかなと思いながら聞いていたんですけれども、
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どういうことかというと、私が一番イメージがしっくりきたのは部活の顧問の先生なんですよ、内なる指導者っていうのは。
要するに厳しいんですよ。
ここの番組で盛んに言っている言葉を使うなら、非常にエリプス的なんですよ。
父親が息子を強引に現実にした、簡単に言うと、
自分に従わせるんですね。
その過程の中で言ってみれば厳しい現実に立ち向かっていくみたいな、
そういう図式があるんだと思うんですね。
現実ならなんとかなるというような話をしているグッドマイナスは、だいぶニュアンスが変わるんですね。
ただどんな原理でも、ここが私はすごい大事だと思います。
たとえそうだとしても、つまりどんなに良くないことをやっても許しましょうみたいな、
そういう考え方で非常に母性的で、つまり母と子の一体感みたいなのをすごく大事にしたいと思うんですよ。
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たとえそうだとしても、つまりどんなに良くないことをやっても許しましょうみたいな、
そういう考え方で非常に母性的で、つまり母と子の一体感みたいなのをすごく重視している、
こういう文化であっても、そういうエリプスみたいなものが全然出てこないということは不可能なんですよ。
出てきちゃうんですね。
どんなに優しい宗教だとしても、それは宗教だったりするから、
原理として働く。一見それはどうでもいいことのようなんだけど、
例えば自分が中学1年で、相手は中学3年です。
でも中学3年はある意味お父さんより偉いんですって、おかしいじゃないですか。
でもそれは現実ですよね、そういう場では。
だから、そういう現実が現実原理として動き出すという時にはいつもエリプス的なんだと思うんですよね。
嫌なら辞めるっていうのがすごくエリプス的じゃないですか。
虚勢恐怖っていうやつですよね。
つまり一番最初にやってくるのが、
あなたはこの家族でいるのが嫌なら家から出て行きなさいと。
これが虚勢恐怖ですよね。
これと同じ図式が働くところは全部三角形なわけですよね。
だから2点しかなければ、私とお家とか、私とお母さんとか、
2点しかなければこういう問題は発生しないんだけど、
3点目が働く時、お父さんと部活の先生とか、
どっちの言うことを聞いたらいいのかみたいな話になった時に
エリプス的なことが起こるんだけど、
みんな嫌ですよ、そりゃ。
僕もそう思います。
これはみんな嫌なんですよ。
これがみんな嫌なんだけれども、
でもどうするかっていう問題が現実には起こるわけじゃないですか。
自分はずっとそういうやり方ではやってこなかったのに、
いきなり会社の先輩が今日からこうやれと言うと、嫌ですよね。
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しかもそういう時は、実はお互いに恐怖があるので、
かなり威圧的な調子になるケースが少なくないわけですよね。
エリプスっていうのは本当に微妙な形ではどんなところでも発生するんですよ。
どんなところでも発生する。
例えば私、前もこの番組で言いましたけれども、
自分の書いた本を父にも見せたりすると、
父は簡単に否定すると。
これはエリプスなんですよ。
私がこういうふうなのがいいだろうと思って、
それは正しいってことですよね、ある意味では。
少なくとも価値があるとかね。
そういうふうに思って書くと。
思って書くってことはある意味、
思っている対象に使えている。
仕事って言いますけれども、事に使えているわけじゃないですか。
ところがお父さんですから、
世話になっているとはもはや言い難いところもありますが、
そうは言ってもお父さんなので。
お父さんというものが、
特にうちの父はそれなりにエリプス的な人でしたから、
坊さんですからね。
こういうのが正しいんだっていうのは、
かなりの程度そういうふうに思い込んでいるというか、
そういう言い方はあれですね、ちょっと違うな。
要するにそういうものを持っているわけですよ。
で、ぶつかった時にどうするのかと。
正しくないことは取り下げるのかっていうことになったら、
私、ものを書けなくなるんですよ。
エリプスってそういうところが多分にあるんですよ。
全ての人の意見を正しいと思っていたら、
多分文章って書けなくなると思うんですね。
だから、そういうことってマイルドであったり、
微妙であったりはしますけど、
うちの父ももう70過ぎてますからね。
昔のお父さんがすごいエバってるみたいな態度では出たいわけですよ。
そんなエネルギーもないですしね。
だけれども、だからといってないわけではないわけですよね。
で、ない方がいいのにって思うシーンは多々あれど、
結局あるあっちゃうので。
それが第3点ですから、第3点この世の中にはありますよね。
2点だけでやっていくということができない以上、
第3点ってあると思うんですよ。
といいたけおさんが甘えの構造でこの辺のことをすごい書いてます。
甘えっていうのは基本的に母子ですからね。
そこに不正はどうなるんだっていう議論って
絶対に入り込んできます。
で、その都度その都度、
特にそれこそうちのある指導者みたいな人は、
俺が絶対正しいんだから、間違いないんだからって
いうような言い方をするじゃないですか。
これは一つのメリットを、
メリットというのはどうかと思うんだけれども、
それでもやっぱりもたらすんですよね。
迷いが立てますよね。
あと、大変なことをやる根拠になります。
それこそランニング10キロなんですけど、
ランニング10キロというのは要するに
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仮定された現実みたいな感じもするんですが、
現実は厳しいんだから、
これぐらいサラッとやらなければいけない
って話になってしまったときに、
そう信じている方がはるかに楽になれるということです。
で、昨日クラトンさんと掻き上げ塾でやってたのは、
掻き上げ塾なんで、丸々グッドバイブスではないんだけども、
うちなる指導者に頼るのはやめましょうねということなんですよ。
で、これが結構難しいというわけではないんだけど、
一見すごく気持ち、
このうちなる指導者というのはどう考えても
素敵なものではないので、
それを投げ出してよければ楽になれそうなものなんですが、
でも私たちは大変だと思えるようなことが
割と日々やってくるわけです。
ドーンと。
その時うちなる指導者に頼るんですよ。
朝起きられないとかいうときに、
なんかしないとか思っている人いるじゃないですか。
大変な起きろみたいなことを言われると起きられるわけですよね。
それは結局私はエリプスだとしか思えないんですけれども、
起きないんだったらこの家から出て行けみたいなね。
そういうふうになれば起きますよね。
これを私たちがやると。
極端に言えば目覚ましだってそうかなって思わなくはないんですよね。
非常にマイルドではありますが。
僕なんかすごい思うんですよ。
すごい極端に言えば朝起きを失う指導者にしちゃう人すらいるんだろうな。
私なんかこれほどエリプスみたいなものが言ってみれば苦手な方ですよね。
男性ってのは軟弱の形でその葛藤を持つと私は思うんですよ。
私はちっともエリプスの妖精に出ないんですね。
出ろって言われるなら出て行くからと言いつつ出ないみたいな。
そういうエリプスなんですよ。
私のエリプスって。
すごいぐじゅぐじゅっとしてるんですね。
ということにコンプレックスがあります。
エリプスコンプレックスがよく言ったものであるんですよ。
これをだいぶGOOD VIBESで整理しているけれども
だからと言ってっていうのかな。
ゼロになっているとは言い難い感じがする。
でもほぼしゃしゃり出てこなくなっている感じはするんですけどね。
とにかくこの内なる指導者にべったり頼るというスタイルの人はいるってことです。
この場合、僕がそういうケースを見ていて
私は内なる指導者がいいのか悪いのかって話はないんですけれども
ただ私はコンプレックスがあるというだけだから
みんなあると思うんですけれども
この内なる指導者的な話になった時に
一番私が感じるのはパーソナルでなくなるのが問題だと思うんですね。
結局朝起きるし仕事もしますし
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ランニングはしませんけれども
うさぎ跳びもしませんけれども
まあまあいろいろするじゃないですか。
その時に極力力技に頼らないと言いますか
こういうエリプス的なものに頼らないと
内なる指導者に頼らないというのの良さは
パーソナルなものになるからだと思うんですね。
これはわかりにくいかもなんですけれども
どうも私はやっぱり指導している方もそうです。
俺が正しいんだから黙ってやれっていうのって
個人的じゃない感じってするんですよ。
何かよく取り憑かれたようなって言い方するじゃないですか。
あれがやっぱり問題なんだろうなと。
武道みたいなのもそうですよ。
なんかその人は武道になっちゃってるみたいな感じが抱く
印象の人っていらっしゃるんだけど
そうすると何かですね
何かですねそれはしかも
良いことのように思われることもあるんですけど
私はそれはもうほとんど病理だと思うんですよね。
何でかっていうと東洋ドイツ課だからなんですけれども
そういうふうに説明できるようになってきたのは
私の最近のちょっと新しい発見なんですが
自分が結局うちなる指導者そのものになってしまう
というような感じを抱くということはですね
他人になってるってことじゃないですか。
すごい私はやばいことだとやっぱ思う。
この番組でもよくやってますよね。
ほぼ問題にしてるのは内的な母親ですけれども
どっちであってもダメなんですよ。
自分じゃないものに丸々なっちゃってるというのは
どう考えても奇妙なんですね。
非常に現代的な言い方をすると
脳のそれこそ10%になっちゃうみたいな感じなんです。
だって内的な母親ってすごい部分的なものじゃないですか。
しかも多分うんと子供の頃に得たものですよね。
インストールしたものです。
それっていうのは多分自分の全人生の中でも
ほんの一握りの部分ですよね。
うちなる指導者もきっとそうなんですよ。
部活で培ったものなんで
3年長くて6年とかじゃないですか。
自分50年ぐらい生きてると
50分の6ぐらい
しかもその50分の6全部そのうちなる指導者で
生きてたわけじゃないと思うんですよ。
実際には3%ぐらいですよね。
それになっちゃうのがいいことだっていうことは
多分きっとおかしいわけですよ。
残りの97%の部分に自分っているわけなんで
すごくパーソナルなものでなくなるというのは
すごく部分的なものになってしまうという感じがします。
ただなぜかですね、これいいとされているケース
多々あるんですよね。
自分がうちなる指導者に乗り移られてしまって
それによって朝バシッと起きられて
すぐに着替えて
朝からやや血圧高めで
どんどん仕事をこなしていける感じがするんですよ。
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というかそういうふうに慣れちゃう人もいるわけです。
投影の力ってすごいんで
これもグッドバイブスではそうですけれども
私は毎度毎度自分の肉体に投影しちゃうんです。
丸々ですね。
肉体以外の何物でもないような気がしちゃう時があるわけですよ。
これを撮っているみたいなところがあるんだけど
投影って本当にすごいんですよね。
自分の上司がうちなる指導者っていう話を
倉園さんが昨日なさってたんですけど
全くそういうふうになりますよね。
上司がうちなる指導者。
これは上司が怖い時のお父さんであり
部活の市内に持っている古文であり
笛とか持ってる。
持ってないはずなんだけど持ってる。
そういうふうな人の元でやってるから
どんどん仕事ができるっていう
そういうふうになると
頼り切りたくなりますよね。
でもそれはやっぱり
どう考えても投影ドイツかだろうと
そういう感じしかしないんですよ。
だからこそ私は思うんですよね。
時間がないとか現実は厳しいとか
そういう言葉がポンポンポンポン出てくる。
それは結局そういう言葉を
昔聞いたという話であって
実は事実時間があるとかないとかいう話は
どうでもいいんじゃないのかという感じすらします。
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