2024-02-09 48:49

失敗しないと終わらない【GMV933】

投影同一化が終わる際の話。
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えー、2月9日、朝7時半ちょうど、半というのはちょうどとは言わないか。まあ、7時半です。
はい、えー、金曜日になり、なんとなくこう寒さも、えー、急激な寒さの底を迎えつつあるかなって感じがして、来週からやけに暖かくなるんですよね。
予想では、もう既に今日最高気温11度、明日に至っては14度。
あのー、あっという間に3月、これは下旬以降の気候って感じがしますね。暖冬は暖冬って感じですよね。
来週の、今手元にある予報なんですけど、15日木曜日になっては最低8度、最高の19度とか。
極端ですよね、相変わらずね、この温暖化の影響なのか分かりませんが、えー、ひどく極端だなって思いますね。
つい先日、かなり寒かったですもんね、雪降った日は。
とはいえ、今年は雪少ないとは思うんですよね、いくら関東でも。
まあ、こういう年ありましたけどね、これはあの温暖化以前からね、1日降るか降らないかみたいな日は結構、年はありましたね。
あの、覚えてる限りなんですけど、僕が小学校、たぶん3年か4年、4年かなーの時に降りました、東京で。
雪が29日ぐらい降った年があったんですよ。29日、凄まじいですよね、東京で。
もっと降ったかもしれないけど、もう本当に絶え間なく雪降ってんなーみたいな。
で、東北には寝雪って言って、雪が溶けないまま一冬越す雪が降るんです。東北だけじゃないですね、日本海側ではそういう雪降りますね。
要するに、そこの方に雪が溜まって、その雪の上に雪が降るから寝雪って言うんですよね。
その雪はたぶん1シーズン溶けることはない。そういう寝雪があの年の東京にはあったんですよ。
私は雪についていろいろ小学校時代から勝手に自由研究してたんで、そういう変な要望を知ってたんですけれども、
この年は凄いなと思って、記憶に強烈に残ってます。
東京にした4月1日に雪がちらつくということがありましてですね、
4月1日に雪が東京で降るというのは最近あった気がするんだけど、その年までは僕は関東では経験が一切なかったんですよね。
だから非常に感心させられた、そういうこともあるんだと。
これはもう温暖化よりだいぶ前の話ですけど。
関東にその当時住まわれていた方はみんな体験してると思うんですけども、もう記憶の彼方かもしれないですね。
03:03
だいぶ昔のことなんで、1990年よりは昔だと思いますね。
明日ですね、タスクシュートジャーニーというのを、これは大好評なんで、
さらに井上しんぱしさんというゲストを招きして、多分ほぼ満席なんではないかと。
なんでデジタルなのに満席あるのって思われるかもしれませんが、
ズームの上限というものがございまして、いきなり高くなるんですよね。
ズームを更新、もっと上限膨らませると。
そういうわけですね。だから上限はあるんですよ。
ただ、アーカイブ配信がありますから、当日参加できなくても、
だからあれ本当はっていうのかな、分かりませんけれども、
そこを分けなきゃいけないんじゃないかなという感じもするんですけれども、
なかなかそこまでいかないし、私自身の主催ではちょっと考えられない数字なんで、
100超えるってことはですね、一度に集まる数が100超えるってことは、
僕自身の主催ではちょっとまだまだ雲の彼方みたいな話なんでね。
Jさんとやるからこそ、そして井上さんとやるからこそ、
この数字が出るという感じなので、
お早めにお申し込みくださいっていうのもいいんですけれども、
もしかすると上限に達しますから、
明日とかだとね、私が主催のやつだと当日お申し込みって実は一番多かったりするんですけど、
こっちはちょっとそういうんだと微妙な感じになってくると、
今日明日はすごい増えると思いますので、どうぞお早めにといった感じがします。
まあ習慣的な話になるんじゃないかなと、うっすら思ってます。
続ける志向が非常にこうベストセラーで好調なんで、
井上しんぱちさんの著書ですね、新著。
こちらが好評なんで、正式なタイトルは続ける志向だったようなぐらいに今思ってるんですけど、
ちょっと調べてみますね。続ける志向だな。
井上しんぱちさんのベストセラーというこのマークがついてほしいんですよね、著者としてはね。
もうなんつーのかな、そういうのは。
なんていうんですかね、これはね。
最近ね、ピクミンブルーっていう、どんだけピクミン好きなんだって感じですけどやっていまして、
最近ちょっとだんだん飽きてきたんですけど、要するにあれですよね、ポケモンGOみたいなののピクミンバー版なんですよ。
で、金の苗っていうのが手に入るとあんまり歩かなくても咲くんですよね。
言っててもちょっと説明してもキリがないのでやめますが、要するに金の苗が欲しいんですけど、
金の苗って本当にね、頑張ってるうちに手に入るんですけれども、運が悪いと全然全く手に入らなかったりするんですよ。
全く運なんですよ、デジタルの世界なんでね。
というわけで、ベストセラーは金の苗的な感じなんですね。
06:00
この種のことと似てるなっていう。
確かに本のヨシヤシでは語れないですね。
これはね、なんかこう、なんつうんですかね。
千葉雅也さんって方いらっしゃるじゃないですか。
あの、機営の若手の哲学者。
まあ今は若手って言ってはいけないのかわからないですけど、僕も面識はないのでね。
ただ時々こう、ツイッターよく追ってるんですよ。面白いなと思ってて。
で、千葉雅也さんが最近になってようやく世の中が無印良品みたいなデザインに追いついてきたんだみたいな。
昔はデザイナーとか哲学の世界ではああいう無地のね、現代風にわびさびをやったみたいな。
ユニクロとかもそうですよね、ある意味。
いろいろ花柄とかがなくて、柄とかがそもそもなくて。
無印良品って全部そうじゃないですか。文具からお菓子に至るまで、基本的には無印だっていうのがいいわけですよね。
そういうのが流行るみたいな。
僕も本のデザインっていうのも完全にそういうもんだと思うんですよね。
なんか気がつくと今風の人にとってのいい感じってものが登場してて、それが飛ぶように売れるみたいな。
本の中身もなんかそういう感じになっているっていう。
こういうのが上手いことヒットした時に、多分ヒットって出るんだと思うんですよ。
これは僕の非常に適当に、しかも今何の意味もないことを喋ってる気がするんだけど、そんな感じの感触ってのがあるんですね。
本屋さん行くといつも思うんですよ。
なんかやっぱり上手いことを表現するもんだなっていうのに。
だから私はベストセラーっていうものには関心しないっていうのもわかるんだけど、僕は毎回実は関心させられてるんですよ。
音楽とかにも絶対あると思うんですよね。
なんか理由はわからないけども、流行。
だいたい流行の最先端って言葉ってすっごい変だと思うんですよね。
流行ってのはみんなが追ってるから流行なのであって、最先端にいたら流行じゃないと思うんだけど、
でもその最先端を追うっていうやつがですね、あるわけですよね。
この話って僕はいつも思い出すのが、妻がよく言うんですよね。
これは全くそうだと思うんですけど、大渋滞とかあるじゃないですか、東京で。
東京じゃなくてもあるんだけど、とにかく大渋滞、首都高ってのは本当ひどい時はひどくて、
ゴールデンウィークの首都高とかね、入り口から出口まで渋滞してるよっていうのがあるわけですが、
いったい先頭はどうなってるんだって、奥さんが時々言って、いや本当そうだよなと。
先頭は絶対すいすいのはずなんですよ。
なのにどうしてここはこういうことになっちゃって、全く動かないわけですから。
ノロノロでも進むんなら話わかるじゃないですか。
全く動かないってのは先頭は本当どうなってるんだろうと。
先頭は何かの出入り口のところで待ってるわけですけどね。
09:00
しかしそれにしてもだっていうことはあるわけですよね。
先頭から50キロ渋滞とかに、先頭どうなってんだよと思うわけですよね。
このことと似てるんですよね。流行の最先端。
最先端と流行は違くない?みたいに思うんだけど、あるわけですよ。
本屋さん行くと必ず、この本売れてるだろうなっていうふうに見える本は売れてるんですよね。
それはパッと見でわかる気がするんですよ。
基本的には当然、表紙のデザインとタイトルの良さなんですけど、
なんでそれが私のように流行の中にいる感じがしない人間にも
ちゃんときっちり伝わってくるんだろうっていうのがいつも不思議で、
自分の本もそれができた時があるんですよね。
スピードファックスは割とそうだったんですよ。
この本は売れそうだというのが他人ごとのように感じられる。
まあまあそこそこ売れた。ものすごい飛ぶように売れたってわけじゃないけど、そこそこ売れた。
本屋さんで見た時に、これはイケてる感じがするっていうのはあるんですよね。
ここがまた面白いんだけど、その後出す全ての本についてそうしようそうしようとするわけですよ。
それっぽくちゃんとなってるんだけど、やっぱりそうなってる時とそうならない時があるんですよね。
大きく踏み外すってことはむしろないですよね。
そんなことはしないんで、そこまで冒険を打つことは考えられないわけですよ。
例えば今ビジネス書のところで一時ちょっと存在したみたいな、銀色にしてケバケバしく赤にするみたいなのってないじゃないですか。
ピンク色にするとか。今そういうのはまあ流行らないと思うんですよね。
でもそういうのが流行ることもあるわけですよ。
例えば今ビジネス書で岩波新書さんみたいな、ああいうデザインにすることはほぼ考えられないし存在しないですよね。
多分ダメだと思うんですよ。
あるいは昔、今はそうでもないけど、やっぱり参考書とかもあるんですよね。
今こういう参考書にすると売れるみたいな。
私いつも思ってたんですけれども、岩波さんとはまた違って寸大の参考書ね。
ぐるぐるぐるぐるっていう。売る気あるのだろうかって。
あれはある意味実用が全てですから売れますけれども、いい参考書は。
でもあのぐるぐるぐるぐる、基本英文700選とかそうですよ。
青い渦巻きと緑の渦巻きみたいなので、ぐるぐる書いてあるだけの売る気あるんだろうかっていうね。
全く売る気が感じられない寸大の参考書がでも飛ぶように売れるんだけれども。
何かあるんですよね、きっとね。
中身っていう以前にあるものがあると思うんですよね。
多分これで中身もその時代の内容にマッチしていると一番いいだろうなと思うんですよ。
売るという意味においてはですね。
そんなことを思いながら明日ジャーニーをやります。
12:03
というところで本題に入ろうと思うんですけれども、
最近さも告知と本題を考えてあるかのようなことが言えてますね。
デタラメなんですけどね。
本題は今こうやって喋りながら考えてるんですよ。
でも思い出せる時はいいんですよね。
昨日話しながら思い出したんですよ、いろんなことをね。
ウェニコットの失敗についてあんまり喋ってないなって思ったんですね。
僕は失敗、彼が言うところの失敗。
彼は本当に逆説的な人なんで、困ったぐらい逆説的な人なんで、
彼が失敗って言ってるのは大成功って意味が案に込められてるはずなんですよね。
大つけなくても成功とは失敗であるみたいなね。
でも精神分析って本当そういうところは多分にあるな。
お父さんはお母さんみたいな、お母さんはお父さんみたいなね。
そういうのは本当にあると思うんですけど。
これは可能性空間とかそういった話なんですけど、
でもウェニコットはそういうののある意味僕はこう、
左右欲というのか、そういう人だと思うんですよね。
このフロイトの逆説的な部分を最も上手に説明し取り入れているという人だと思うんですよね。
もう感覚で語っているような話が多いと言いますか、
感覚で語ってると言い切れないんだったけれども、
この辺が本当に彼らしい、彼の読み物を読むときに
いつも感じさせられるこのモヤモヤとした面白さと言いますか、
スッキリしないんですよね、いちいちね。
子供はなぜ遊ぶのというごく一般の人向けに書かれている本ですらそうなんですよ。
彼はもうこういう立ちなんだなって思います。
非常に僕は好きなんですよね。
人気あるんじゃないかと思いますね、ドナルド・ウェニコットは。
移行対象でライナスの毛布ってあたりを持ち出すあたりも、
ウェニコットの名前よりも有名だと思うんですよ、ライナスの毛布の方が。
ライナスの毛布自体が有名だと思うんですけど、スヌーピーだから。
やっぱりセンスがあるというのはそういうことを言うんだろうなと思いますね。
そのウェニコットの失敗についてあんまり僕は喋ってない気がして、
当然そういうことはあり得ます。
というのもまずこの番組は網羅できてない。
もう一つは僕は臨床家ではないから、これを類推で喋っているより他はない。
ただ、このようなことは臨床では僕は経験がなかったとしてもですね、
全くないわけではないんですよ、アメリカでそれっぽいことを精神分析ではないけど、
やっぱり臨床は少しはさせられるんでね、受ける方もやる方も多少はやるんですよ。
たとえロールプレイだとしても、そしてそれがCBTであったと、
つまり認知行動療法であったとしてもですね、
15:02
じゃあ精神分析と全く違いますけど、でも全くは違わないんですよね、結局は。
そういうようなところは後から振り返るとちゃんと出てこないわけではない。
そして何よりも僕はこのウェニコットの言ってることっていうのは、
そういうふうに見るせいなんですが、出てくるなとは思います。
それでつい最近ですね、立て続けにという、これもおかしいんですけどね、
立て続けにそういうことが起きてるのではなく、
そういうのを意識するから立て続けにそういうのを見てしまうというのに過ぎないんですけど、
やっぱり最近ですね、エディプスっていう話だなって思うんですよね。
僕はあんまり人前にせよ、そういう話をする場合にせよ、
エディプスって話は3カ月チャレンジとかでもね、
基本を控えるようにしてるんですよ。
これは理由ははっきりありまして、
ここをダイレクトに取り上げられるのを現代の人はおそらく決して好かないだろうと。
どっちにみちここを取り上げたところで、
どっちも同じなんですけど、
母子を取り上げても、エディプスを取り上げても、
エディプスって結局父子だからね。
お父さんと限りませんからね。
父子という母子かもしれませんからね。
この辺はもう本当にミニコット的だと思うんだけど、
しょうがないんですよ。
なんでかっていうと、
お母さんがお父さん役やっちゃってる家っていっぱいあるから、
今の時代ですから、
上司、社長が女性、多々あります。
ただこれはエディプスなんですよ。
だからここでもう引っかかりがあるじゃないですか。
だから僕はこの話あんまり持ち出したくないわけですよ。
いや、それは男尊女卑だからって言われると困るんですよね。
これは男尊とかと関係ないんですよ。
どっちかしか性はないからしょうがないんですよ。
ファルスっていう言葉に良くなさを考える人は当然いると思うんだけど、
これをファルスと呼ばないんだったら何と呼べばいいのかっていう問題が、
出てくるんですよね。
そういうことを言わずに、
権力と言えみたいなこともあるかもしれないけど、
権力じゃないと思うんですよね、やっぱりね。
権力はその中に含まれます。
だからジェンダーとかフェミニズムって問題が出てくるんです。
しかし権力だけじゃないんですよ。
お父さんは権力者であることのみだっていうのは、
よっぽど極端なものの見方で、
だって私は父は好きだったし、
民力者だと思ったことってほとんどないですからね。
それは恵まれてるんだと言われたとしてもですね、
恵まれていても、そういう恵まれてる人はいっぱいいるんですよ。
恵まれてない人はいっぱいいますよ、それはね。
だからといってお父さんとは権力者であるっていうのはおかしいと思うんですよ、やっぱりね、私は。
社長だってそうじゃないですか。
社長というのは、私はJ松崎さんと仕事していて、
J松崎さんは社長ですし、
僕はそこの社員ではありませんけども、
18:02
Jさんは権力者だって言われると、
権力みたいなものがないわけじゃないけれども、
そんなことはないわけですよ。
でもエディプスみたいなものはここでは発生し始めたりはするわけですよ。
それこそ蔵野さんと私の関係に、
エディプス的なものが開催しないといったら、
多分嘘になると僕は思うんですよ。
どれほどグッドバイブスでやろうと意識的に感じて考えていたとしても、
じゃあそこにエディプスないですっていうのは、
無理があると僕は思うんですよね。
そんなのはあって当然だとむしろ思うんだけど、
蔵野さんが私に対して権力的であるっていうふうに考えるべきかというと、
そうは僕は全く感じないんですね。
実質ないですからね。
例えば契約関係があるわけじゃないし、
権力というのは結局、
人がコントロール下に置けるっていうことをはっきり意味して、
初めてある程度成り立つものであって、
冗長的な圧力を権力とは言わない。
だから仮に圧力がかかったって、
そこから飲まれることは難しくありませんっていうのを、
権力とは僕は思わないんですよね。
フロイトとユングの関係がまさにそうだと思うんですよ。
あれはエディプス以外の何者でもないし、
だから2人は別れることになった。
あれほど実は近い思想を持ってた。
だって出会ってすぐ13時間も喋ってた。
考えられないじゃないですか。
13時間も出会ってすぐ喋るなんて。
よっぽどあの2人でしか分からんことがあったわけじゃないですか。
でも最後は田元を分かつことになったわけですよね。
で、そこにはエディプスは絶対あったと思うんだけど、
でもフロイトはユングに対して結局、
最終的な決定的な権力を持ってないからこそ、
いとも簡単に独立されてしまうわけですよね。
精神分析学会の会長までユングはさせたにも関わらず、
最終的にはユング心理学になってしまったわけですよ。
フロイトはフロイト心理学とは言わなかったのに。
だからあるわけですよね、そういうの。
そういうのありますけど、権力的なものもそこに入るでしょうけど、
エディプスは権力じゃないと。
だから女性が社長になってても全然、当然いいわけですよ。
いいに決まっているんですよ。
ただこれは精神分析的な用語では、
父というはずだと思うんですよね、やっぱりね。
あれは母でもあるかもしれないけどケースによっては。
でもやっぱり父というと思うんですよ。
だから嫌なんですよ、この話するの、本当に。
ここに無用なものが持ち込まれている感じがするんでね、私はね。
そういう話はそういう話で、別のところできっちりやるべきだと思うんですね。
フェミニズムとか男女同権というのは、
そこの話をするところがあるわけだから、
そっちでするべきだと思うんですね。
結局のところ、この問題は女性の社会進出とは無縁ではいられない。
絶対に進出していく以上というか、
21:02
女性の社会進出が進めば進むほど、
男女どっちにとってもエリプスコンプレックスという問題が、
言うならば発生するはずなんですね。
うまくいくケースも当然あるでしょう。
けれどもうまくいかないケースも当然出てきますよね。
だってエリプスコンプレックスは良いことづくめではないわけですから。
これで苦しむっていう人は、当然男女問わず出てくる。
女性同士の上下関係でも必ず出てくる。
もうだって、この番組では何度も出てきますけど、
ウリを割るっていう非常に良く、非常に私はあれはいい作品だなと思うんだけど、
上司女の人、部下も女の人だけどめっちゃ詰められるみたいなシーン。
昔あれだったら絶対男同士なんですよ。
あれが女同士で起きてる。
でもあれはもう父ですよね。
父と子ですね。
あれは母子では全くないように見えるシーンがいっぱいあります。
そこにいるのが女性だけだとしても父子ですね。
精神分析用語的にはね。
そういうものだって。
だから女性は残念ながら男ではないって、
だからファルシというしかないわけですよ。
他の用語でもいいのかもしれないけど、
めんどくさい。
他の用語をそこでわざわざ。
権力じゃ絶対ダメだと私は思います。
だからといって武器とかいうのもナンセンスだと思うんですよ。
武器じゃないだろうって思う。
第一、武器だけだと話が繋がらなくなってしまうわけですね。
失敗ですね。
つまり何を失敗するのかというと、
これは藤山直樹さんの本に、
藤山直樹さん自身が書かれてたことなんですけど、
少なからぬケースでは、
悪いお父さん役を引き受けていけば、
天位の上でなんとかなっていくという、
女性の患者さんは確かにいるみたいな、
物のついでみたいに書いてたんですけれども、
私はそういうことだとまず一つは思うんですよね。
やっぱり古典的な理論なんですけれども、
ここは対象関係論という話をしている、
ほとんどそっちのことを書かれる方でも、
やっぱり現象というものの現実の中では、
そういう推論の相談ごとというか、
カウンセリングがすごい多いだろうなというのを、
漠然と思ったわけです。
さらっと書いてあったから。
女性が社会に普通に出るということになってきたときに、
やっぱり悪いお父さん、
つまり大棒だとかパワハラだとかありますが、
とにかく悪いお父さんという役柄を相手に投影すると。
これを引き受ける中で、
しかし悪いお父さんというものが、
現実にいるのかどうかについては、
もう一回吟味する必要があります。
これを言われると、多分相手腹立てる、
24:00
で終わっちゃうと思うんですよね。
だから言うんではなくて、精神分析をするわけだと思うんですよ。
これは僕の推測ですね。
本に書いてあったところからの推測。
そうすると悪いお父さんというのは、
つまり大棒だとか話を聞いてくれないとか、
昭和のお父さんを適当に。
これ大事なのはですね、
そのとき引き受けるとは何をするんですか、
という問いに対する答えは一切ないということなんです。
なぜならば個人における悪いお父さんのイメージは、
今私は昭和のお父さんと言いましたが、
昭和のお父さんだからと言って、
そのイメージが括弧たしたものがあるわけじゃないじゃないですか。
その人その人にとっての昭和のお父さんは、
いちいち違うわけですね。
その人その人にとっての腹立つポイントも、
いちいち違うわけですよ。
殴るのかもしれない。
まあ多分精神分析から殴ることは絶対ないんだけど、
殴るのかもしれない。
怒鳴るのかもしれない。
あるいは無視するのかもしれない。
全くこの辺は違いますよね。
いや無視されるのはいいじゃないですか。
いや怒鳴られるから嫌なんですよという人もいれば、
いや手を出されなければ全然いいですよっていう人もいるし、
いや酒飲まなければいいんですよという人もいるわけですよね。
だからこそ精神分析というのは、
七色だと思うんですね。
劇っていうメタファーは非常によく上がりますが、
劇とイコールじゃないにせよ、
台本がない劇というのか寸劇というのか、
しかも分析家はありとあらゆる役をさせられるわけですよね、
その中で。
あのなんだっけな、
手塚治虫さんの、
あれは少年チャンピオンの連載だったと思うんですけど、
七色インコというね、
天才的な俳優さんを、
あの人天才的なのが好きだから、
天才的な医者がブラックジャックですよね。
天才的な俳優さんを七色インコっていう人が、
主人公の作品があるんですけど、
七色インコじゃないですか。
あれにもありましたよね。
紅天女にもありましたよね。
何にでもなれるのがいい俳優なんだと。
当然そうですよね。
つまり、
そういう面があるんだと思うんですよ、
精神分析。
悪いお父さんやんなさいと。
まずこれをやらされるわけですよ。
ここが子供相手だと非常に実は進みやすいケースがあって、
子供ってそれやるじゃないですか。
あなたお母さんねとか、
あなたお父さんねとか、
適当なことを言って、
自分の世界に引きずり込むと。
これを実は精神分析では多分大人がやるんですよ。
ある意味だから、
ママゴトというのはいいメタファーだと思うんですよ。
とにかく七色インコなわけですよ。
いい精神分析家ってのはおそらくね。
だから悪いお父さんやってと。
私は悪いお父さんにいじめられる役やるから。
こういう発言は一切出ないでしょ。
出ないんだけど、
いつしかそうなっていくんですよ。
ケースによってはもう最初に会った時から、
それが始まってしまう。
だから大変なんだっていう話を、
藤山さんは多分、
ある本の冒頭でいきなり殴られるやつね。
藤山さんが。
殴られるのは最初から織り込み済みだったの。
27:02
つまり台本がないんだけど、
そういう台本が書いてあったんだっていう話ですよね。
だから途中でクライアントさんはボクシングジムに通いだす。
的確に殴るためですよね。
恐ろしいっちゃ恐ろしいんだけども、
そういう変異が起きてしまうわけです。
よっぽど患者さんが無自覚かつ重症だった場合には、
そういうことがクライアントさんの心の世界というものが、
悪いお父さんと戦わなければいけないという。
藤山さんは勝手に悪いお父さん役をさせられて、
挙句の果てには殴られるっていう役なんですよ。
これはきっと。
そういうふうに考えていくとですね、
これはもう夫婦間で絶対ありますよね。
という話なんですよ。
藤山さんのケースもそうですけども、
全てのケースにおいて当然精神分析ですから、
カウンセラーは母親でもある。
この辺がミニコットの言うのか知りませんが、逆説なんですよね。
悪いお父さんをやらせる。
同時にいいお母さんもやらせる。
こういう複数の役が並行して動いていくはずなんですね。
その劇の中で。
私たちもそうじゃないですか。
私と例えば妻が喧嘩した場合、
私の役っていうのは悪いお父さんに違いないんですよ。
うちの奥さんもやっぱり戦後の教育をかっちり受けてきてるから、
男は悪いお父さんになるから要注意だっていう、
そういう観念を持ってるわけですよ。
だから主人にかしずくような真似はするな、
みたいなのが絶対入ってくるわけですよ。
因に要に。
これは良い悪いじゃない。
だからそうでなくたってこの悪いお父さん問題はあったわけだから。
ギリシャ時代からあったわけだから。
現代にも当然あるわけです。
お前は悪いお父さんだっていう、
奥さんが持ってる悪いお父さん役を僕はさせられるわ。
老児にこの喧嘩が、そういう争いが、
いざこざが起きた時には、
私は妻に悪いお母さんを応援するわけです。
これは僕の18番ですよ。
私に屈辱を与える悪いお母さん。
そうすると何が起きるかというと逆転が起きて、
東映ドイツクが起きて、
私は息子になるんですよ。小さな息子。
でも妻が見てる私は悪いお父さんなんですよ。
一人二役を同時に並行させるわけですよ。
これが起きないようにするのが多分精神分析の場なんでしょうけど、
普通の場ではそんな不自然なことは起きません。
必ず一人二役、一人三役。
ごっちゃごちゃになってカオスになるわけです。
つまり精神分析の場でやってるような、
おそらく綺麗な劇にはならない。
綺麗な劇になってるか知りませんが、
少なくとも私の転移は持ち込みませんよなんてことは
私にはできないから、両者とも同時に持ち込み始めるわけです。
だから私の妻に言わせれば私は悪いお父さんで、
妻はその娘だって言いたいんでしょうけど、
30:00
私に言わせれば、いやいや、私は善良な子供で、
あんたが悪いお母さんなんだよ。
これをそもそもやるわけですよ。
お互いが圧をかけていってね。
だから力動が発生するわけです。
で、非常に引っかかることにっていうのかね、
これが起こると不思議なことに、
このようなことを僕はある程度認識しているんだけど、
この役をやらないわけにはいかない気がするっていうか、
させられていくんですよ。
こういう話を昨日ある方としたんですね。
いやもうめっちゃこれがね、不思議なんですよ。
台本はないわけですよね。
でも台本通りの動きをさせられて、
若干の逸脱も全部がその台本の中に、
台本が一瞬で書き直されて、
相変わらず悪いお父さんから逃れられないわけです。
例えば、いやもう腹が立ったから、
怒鳴り返そうって思ったとするじゃないですか。
もうこの思ったっていうのは一瞬でね、
秒単位の以下ですから、
でもいやいや待て待てみたいな、
ネットワイプスだしみたいなことを考えたとするじゃないですか。
そうしてぐっとこらえて、
やや丁寧に対応したり優しく対応すれば、
悪いお父さんから逃れられるように思うかもしれないけど、
でもそうとは限らないわけですよ。
奥さんに言わせれば、
いやそういう時に猫舐め込みで、
いやらしい声を出すのが悪いお父さんだったんだって言われると、
私は全くそのイメージ通りの動きをしてしまうことになるわけです。
意外にもそうなりやすいんですよ。
これが投影同一化なんですよね。
私に与えられた役回り通りの役回りを、
私が進んで振る舞い始める。
しかもこれが実にちょっとミラクルっぽいんだけど、
同時に私はそうやって、
そんなことをちょっと笑ってごまかそうとしてって言われると、
そう私は昔自分の母に言われたのをしっかりと思い出すんですよ。
つまり私が悪いお父さんをやり、
それによって言ってみれば、
被害を受けているかわいそうな女の子役を妻がやってると、
それがそのまんま悪いお母さんに殴られている、
弱々しい息子の役になっちゃってるんですよ。
そういうことが一瞬で成立するんですよね。
僕はこれを何回も体験、何回かじゃないんですよ。
何回も体験してきたんですよ。
後になってみるとよくわかるんですよね。
全くそうだって思うんですよ。
私、今回、去年でいっぱい葬式関連で、
法事関係で義理のお父さんに会いに行って、
ああ、なるほどなって思ったんですよ。
確かにそういう役を私はやってるなと。
で、私の妻がやっぱり私とやり合うっていうのは、
まさにそういう図になっていくんですよね。
不思議だなって思います。
やるたびに不思議だなって思います。
で、ここで大事なのが失敗なんですよ。
33:01
そうですよね。
私は悪いお父さんがあまりにも上手に、
ウィニコットがこの通りのことを言ってるわけじゃないんだけど、
これは僕のウィニコット解釈なんで、
相変わらずあれですからね、
これを持ってウィニコットを理解したって思わないでくださいね。
佐々木がデタラメなことを言ってる可能性は大いにありますからね。
この番組はそこが醍醐味だって僕は今思ってるんで、
もうちゃんとした情報を伝えるという気は僕はさらさらないんで。
これ非常に大事ですからね、僕に言わせれば。
他の人にとっては知りませんけれども。
本当にこれは全然情報じゃないんで。
これは本当たまたまなんですけど、
さっきお話しした千葉雅也さんがね、
本を書くのは情報を書くんだと思ったら、
永遠に書けるようにならない。
僕はもう全く共感します。
何でかって言われても、
今日はいちいち説明している余裕はないんだけど、
ここは本当にもう、
情報を正確に出したいだけならば、
ウィニコットの本を原文で読めばいいんですよ。
いや、それができないからうんぬんと読まれるかもしれないけど、
そんなことないですよ。
簡単ですよ。
彼は英語で書いてるし、
難しい英文は使ってないからね。
本当にただ正確な情報が欲しいならば、
絶対ウィニコットの原文で読めばそれでことなりるんですよ。
読めないなんてことはあり得ない。
だから、これは結局誰の口を通したって、
他の人の口を通してそれを聞くということは、
正しくない可能性が大量に入り込むんですよ。
精神分析の世界で生きていると、
本当にそれを痛感します。
正しいというものの意味がほぼ全くない。
ただ、話を聞くという意味はとても大きい。
この2つは、
えーと、なんていうのかな、
えーと、
世間で思われているのはほとんど逆だなと僕は思うんですね。
だから正しい情報というものを仕入れたいと思うなら、
この番組は聞くべきではない。
この番組が聞くってことは、
なんかしり滅裂な話を聞くことに
意義を認めるくらいな感覚を持っておいていただかないと、
多分、得るところ何にもないものを聞くことになっちゃうと思いますね。
で、失敗。
つまり、私は失敗したくてしょうがないわけ。
だって失敗しないと、
巧みに悪いお父さんを演じ続ける、
ひたすら喧嘩をする人になってしまうわけですよ。
無視しても笑っても怒っても泣いても、
全部、私は台本通りの役柄を演じることになるわけです。
しかし、失敗ができるんですよ。
下手な俳優が演技に失敗するように失敗ができる、
その瞬間に私は悪いお父さんという役を下りることになり、
要するに佐々木翔吾という現実が現れるんですよ。
で、これをうちの奥さんが見ると万事解決するという話が、
僕は対象君を破壊したよっていうわけのわかんない言葉なんですよ。
ウィニコットの本に出てくるんですね。
36:00
対象を破壊すると。
対象は破壊されたにもかかわらず、
その対象になった存在は立ち現れるみたいな非常に変な書き方をして、
最初何のこと言ってるのか全然わからなかったんだけど、
よくわかる気がします。
あのなんていうのかな、
時々漫画で筋肉版とかで、
なんか相手を刺すと相手がボロボロボロって崩れて、
本体が現れるみたいな漫画の表現ってよくジャンプにあったじゃないですか。
あれんな感じなんですよね。
対象に囲まれているというのはナルシシズムですから。
自分の鏡見てるのと何にも変わらないんで。
だって妻が、私がでもいいや、
私が妻に悪い母親対象を投影するということは、
私が私を見てるんですよ。
だからこそ何を言うとかが何の意味もない。
この場合どう言ったらいいのかとか、
どんな返事をしたらいいのかとか、
どういう態度を取ったら夫婦喧嘩を収まりますかというのが、
どれも何の意味もないわけです。
その人は鏡を見てるわけです。
鏡に向かって自分自身と喧嘩をしているということは、
その鏡を叩き割るしかない。
カエルの王子さんをですよね。
お姫様、カエルを叩きつけるとかっこいい王子になるか。
あれですよ。
鏡を叩き割るしかない。
鏡を叩き割ってみると、
相手がそこに現実にいるということに気づくというのを、
ウィニコットは言ってるわけですね。
その際には失敗というものが必須ですよね。
相手が常に成功してくれていたのでは、
絶対にその人はナルシシズムの中から出てこられないわけですよ。
ナルシシズムの話ですからね。
ナルシシズムは池に移った自分のかっこよさに惚れ込んで、
池に沈んで死んじゃうじゃないですか。
あれはつまりそういうことなのと。
現実に出会うことができないわけですよね。
しかもコダマのエコーがナルシシズムにわざわざ恋するんだけど、
ナルシシズムの言った通りのことしかコダマのエコーは返せないからね。
これも非常に対照関係的な雰囲気があります。
結局エコーはナルシシズムにほぼ気づかれることもなく振られるんだけど、
これがナルシシズムの問題なんですよね。
自分から出ることができないわけです。
彼はいつも自分と格闘してしまうというか、自分に惚れてみたいな。
でもそういうことを僕らもしちゃうんですよ。
人間というのは想像力の生き物なので。
相手に向かって投影した像を見る。
ひたすら相手の、自分の像を見てるだけなんだけど、
相手と関わってる気になっているわけです。
実際には一切関わりを目立てられているっていうのが、
多分ナルシシズムっていう言葉の意味なんですよね。
そういうことを何とかするためには、
相手に失敗してもらうしかないんですよね。
一旦引き受けてもらった役をその上で失敗してもらうと。
その辺のことを私は藤山さんが悪いお父さんの役を引き受けて、
その上で関わっていけば大体何とかなる。
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そういうことだといずれ必ず失敗する日はやってくるからね、
っていうことだと思うんですよ。
そしたら相手は気づくでしょう。
ここにいるのは悪いお父さんじゃなくて、
精神分析家の藤山直樹さんの現実だったんだというのに気づく。
そこで初めて現実に出会うことができるって話なんですよ。
これはエディプスコンプレックスの中の話なんですよね。
悪いお父さんを引き受けるというときに、
引き受けさせられるんだけど、
失敗してくれない間はずっと悪いお父さんと関わっていなければいけないので、
その人が悪いお父さんの役を失敗するというタイミングを捉えて、
その人は言ってみれば目が覚めて苦しみから解放されるという話なんだと思うんですね。
どうやれば失敗できるかっていうのはここでは非常に難しい話なんですよ。
多分どうやっても失敗できないんですよね。
ところが、よく考えているうちにいくつかポイントがあって、
うちの場合はほぼ子供が介在するんだけど、
先日はですね、それが起こりそうになっててかほぼ起きていたとき。
もう起きているときは手遅れなんですよね。起きちゃってるんで。
怒っても怒らなくても同じなんで。
相手からするともう私は悪いお父さんになっているわけだから。
そして振る舞いの一挙手一掃足が全て悪いお父さん風にちゃんとなっている。
何もしなければいいようなんですけど、何もしないという悪いお父さんに、
例えばご食事の直前にそれが起きるとタイミングもうまくできてるんですよ。
悪いお父さんはこういうとき手伝いもせず何もしなかったってことになるわけですよね。
手伝えば手伝ったで、悪いお父さんは下手な手伝い方をするってことで、
絶対に逃れられないと雰囲気が出てくるんですよ。発砲塞がりが起こるわけ。
でもうちの娘がね、パッとそのときたまたま、もうこれ本当に偶然なんだけど、
スーパーマリオを始めた。で、スーパーマリオを始めたときに、
私はたまたまなんですけどこれも、トイレに行きたくなる。
で、あと私は姿を消す。トイレに行ってしまう。
そしてうちの奥さんはうちの娘とスーパーマリオの何だかよくわからないのこの子レースみたいなところで
凶じている。こうして悪いお父さんは失敗するんですよ。
おそらくうちの奥さんの悪いお父さん像からすると、
食事前にゲームするんだったら食事しなさいというみたいなそういうのがあったと思うんですよ。
でも私はたまたまトイレに行きたくなったし、そんなことを言うつもりはないんで。
つまりこれが私の現実であって、
対象、イメージされた対象の振る舞いとは大きくギャップがあったんだと思うんですよね。
もちろん気づいてませんよ。気づいてないんだけれども。
そしてその時は私だって気づかなかったんだけれども、こうやって解放されるんですよ。
これが僕は失敗とミニコットが名付けたものなんじゃないかなと思っている。
同じではないけど、そういう含みは感じられるよね。
で、悪いお父さんに失敗すると、環境都市の母親に私はなる。
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つまりお父さんになってみたりお母さんになってみたり、こういう話はミニコットは絶対してると思うんですよね。
逆説的なんですよ。お父さんでありながらお母さんでもあり、
お母さんであるのに失敗した時にお父さんが現れてみたり、いろいろするわけですね。
そういう逆説があるわけです。
ところでこの悪いお父さんというのは、私でもありながら、つまり私が演じるものでありながら、
うちの奥さんが作り出したものでもあるじゃないですか。
そこには今イリュージョンなんだけれども、現実でありながら幻想だし、幻想でありながら現実的なんですよね。
そういう逆説が繰り返し繰り返し本の中で説明されているのは、
こういうようなことがやっぱり言いたいんだろうなって感じがするわけですね。
だからこの失敗を捉えるっていうのは本当に大事だし、
失敗しないと僕らは役の演技ばっかりやることになってしまって、
お互い本当にほとほと疲れ果てるみたいなことになると思うんですよ。
だからいかにそういう失敗を捉えるかっていうのかするかってことは大事だなと思いますね。
この話は現代では流行りません。絶対に流行らないと私は思います。
例えば次の観念に捉われている間は難しい。上司はパワハラ上司ですっていう間は難しいと思うんですね。
そのパワハラ上司が悪いお父さんという役を失敗してくれない。
失敗させるのはそこで怒られている人の方なんだと思うんですよ。
だけじゃないんですけどね。だけじゃないんですけど。
そしてこの内的対象は破壊されないとダメだと思うんです。内的対象なんですよ。
でもまあそう、多分そういうふうには捉えられない。
現代社会ではいやいやいや、あれは私の悪いお父さんの投影ではなく、
本当のパワハラ上司なんですっていう答えが戻ってくるんですよね。
これはその人の、私が思うにそういう現実というものがあって、
つまりその上司はどんな上司もそうですけど、理想の上司ではないんで。
つまりその人にとってのこだわりというものがそこには絶対になきゃおかしいと思うんですよ。
上司とはこうあるべきだってものがそこに1ミリもないということは考えられないと思うんですよね。
しかしそうではない。それはまあほぼ確実に。
つまり上司だって悪いところがあるでしょうって言えば全くその通りですよね。
絶対そうだと思います。なきゃおかしいですよ。
なかったら異常事態だと思うんですよ。でもまあありますよね。普通にある。
したがって投影することができます。したがって台本を書くことができるわけですね。
その台本を紙に書くわけじゃないですよ。台本はその空間の中で生きていくというような言い方しかできないんですよ、これはね。
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そうすると実に不思議なほどに圧がかかるからなんだけど、
でも僕やっぱり変な話なんだけれども、
ママごとやる時の子供の態度に一番よくそれが現れるんじゃないかなと思うんですよね。
はい、お父さんやって。そこに女の人がいなくてもお母さん、お父さんやって。みたいなそういうやつ。しょうがないからやるじゃん。
これが私は素直にパワハラ上司ってものだと。
パワハラ上司やって。思ってないと思いますよ。意識の上ではね。
だから無意識って言葉がここで意味を持ってくるんだと思うんですよ。
でも、なんていうのかな、心の中の現実というものをそこに出現させたい時に、我々はこれをやるしかないんですよね。
ママごとやりたい時に誰それの役をやらせると。
で、そのママごとにすっごいのめり込みたい子にしてみれば、お父さんはこういう時に怒るんだから怒って、みたいなことを言っても不思議ないじゃないですか。
で、その子は例えば3歳児とかだった場合、それは意識の上でそう言ってるのかと。私はそれは無意識に近い部分なんじゃないかって思うんですよ。
で、そういう3歳児の無意識みたいなものが私の心の中にも当然あって、
はいや、お母さん怒ってよと。あなたは悪いお母さんなんだからっていうわけのわかんない、現在の私にすると旗描く極まりないことを私が無意識のうちにやったとしても、おかしなことではあんまりないなって思うんですよ。
もちろんこれを両方ともやります。だから何かが始まっちゃうんですよ。
で、いったん始まってしまうと火がつくわけですよ。心の中にそういう情景を持ってしまっているからね。
そういう話でしかこれは話でしかないって言って、ことが深刻になっていったりするから余計ややこしいんだけど、ただ私はこれをエディプスと言っても現代ではどうでもないとは思います。
だから母子関係の話というのにもっぱら持っていく方がまだマシだって思ってます。
なぜならばこれもさっきの話の延長みたいなもんですけど、急にエディプスの時だけ両親が問題を持つようになるとは考えにくいからなんですね。
そういうエディプスの時に非常にややこしい親子関係を作り出してしまったということは、その親御さんは恐らく母子関係時代からそういうことをしているだろうと。
だからちょっとここ話端折りますが、精神病水準においても人格障害水準においても神経症水準においても、
身をによっては何かしらそこでのややこしさとか心の取り扱いの難しさはそのフェーズそのフェーズごとに起こっていて、
しかもそれは同時多発的に起きるんじゃないかとテロの名前みたいに言ってますけれども、同時多発的に起きるんじゃないか。
だからこの私にとってエディプスみたいな問題があるよなと思った時は、私にとってはスキゾイドみたいな問題も当然あるだろうなと。
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それがこの場面その場面ごとに適切なというのも変ですが、適当な形で現れてくる。
その時に登場している人物にふさわしい問題の起こし方というものを選択的に起こしながら並行して進行していってるんではないかと。
それを事後的にしか無理ですけれども、捕まえていって解きほぐして一つ一つ解きほぐしていけばですね、
情緒の問題と人間関係というのは徐々にではあっても必ずベタになっていくように最近は促進してますね。
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