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2022-02-04 32:33

【GMV 549】自分のニードをはっきりさせる

GTDを連想ゲームにしない
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
おかげさまでですね、無事受験も終わりまして、ここからは私にとっては一月遅れた年明けがスタートした感じなんですが、
最近ちょっとご無沙汰はしてないですけれども、このことを久しぶりに考え直させられるというか、
ドイタキオさんの甘えの構造ではなくて、精神良好と精神分析というタイトルだったかな、かなり専門的な本がありまして、
これがですね、名著なんですよ。何がどう名著かというと、めちゃくちゃセキララというか、精神分析のリアルって絶対こうだろうと思える感じなんですね。
ほぼうまくいった事例が、完全にうまくいった事例っておそらく一つも載ってなくて、全くうまくいかなかったように見える事例ばっかりガンガン出てくるんですよ。
さぞやってるとこういう大変さが、本読んでいてもその進展の無さに延々付き合わされる読者の感覚ってくるんですけど、
ああいう本がなぜ名著なのかは、私は多分若い頃には分からなかったと思います。
この年になったから少しは分かるんですよ。先日失敗と成功の定義は無理があるという話を昨日したと思うんですけど、
そういうことなんですよね。精神分析ってのもうまくいってると思うし、意味があると思うんだけれども、
それが全く見えてこない状態が延々続く話なんですよ。
その時に精神分析家が何を思うのかというのも、すごくやたら正直に書いてあるために不思議な感じがしてくるんですよ。
例えば、あの時私はこう言えていればよかったと思って、こういう文章がひどく多いんですね。
こう言えていればよかったと思うっていうのは、よく上司とかに怒られた時に私たちが考えることじゃないですか。
あるいは喧嘩した後で思うことですよね。
あのように言っておけばあいつはもっとへこんだに違いないとかって後から思ったりするじゃないですか。
あれは何かというと、心の余裕が戻ってきたってことなんですね。
セミナーとかでも残念ながらよくあるんですよ、これは。
あそこの質問にはこれを言っておけばよかったんだって後から思うんですよ。
これを今日テーマにしたいんですけど、まさにドイさんはこれをテーマにしてるんですね。
つまり余裕がなくなってしまうというのが一つの問題であって、
その余裕を失わせられるんだということを書いてるわけです。
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特に精神分析に、今の日本で精神分析にかかるという人も、軽度の人は多分いないと思うんですね。
本人の自覚運動も関係なく、周囲の自覚運動も関係なく、余裕を奪われていくような人相手にさせられていくわけですよ、きっと。
その余裕のなさというのがいっぱいいっぱいにさせられていくという状態を、ある意味人工的に作り出すのが精神分析の場だという感じがするんですね。
精神療法の本を読んで一層その感を強くしたんですけど、よく漫画とかで、
それこそこの番組でもよく引用する、ドコンチョコエルの娘のカウンセラーさんも、
カウンセラーの人って涼しげな顔してるイメージがあるじゃないですか。
あれがないと思うんですよね。
もちろんそれなりに健常な人もいけば、健全な人もいけば、ああいう感じでいられるのかもしれませんが、
まあああはならないはずなんですよ。
ああであったらダメなんだって言わんばかりなのがドイさんの本なんですね。
つまりカウンセラーは何もかも分かっていて、どうすればいいのかも分かっていて、
患者さんだけが大変で、それを客観的にアドバイスしてくれるという、ついそういうイメージで私たちは考えちゃうんだけど、
そうじゃなくて、もう患者さんが強烈なので完全に巻き込まれていくわけですよね、精神分析の人も。
そうして初めて患者がどういう気持ちでいるのかを身をもって共感させられる。
この話はよくしますが、身をもって共感させられるというのがとっても大事なんですよ。
患者さんのしたいことはそれなんで、誰かを身をもって自分と同じ立場に置きたいんですよね。
これをしてくれない相手には満足できないという、そういう一つの不健全な状態だと思うんです。
とらわれっていうのはそういうことで、そうじゃない立場の人がそうじゃない状態にあるのをいくら見てもダメなんですよ。
虫怖い人ってそうじゃないですか。虫が怖くない人の話を延々聞かされても意味がないんですよね。
やっぱり怖いんですよ。怖いだけじゃなく、それが目の前にいるという状態。
それに近い心理状態でずっと生きさせられるというのはどういうことなのかということを誰かに身をもって体験させたいんですね。
これができるかできないか、つまり一緒になって体験し、かつそこで頑張れるという状態を2人で作り出す。
という多分営みなんだと思うんですね。
先送りとかも多分にそうなんですけれども、病的になっちゃう人っていらっしゃるんですよ。
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ずっと何とかを大脳してますとか、私の知っている友達に昔いたんですけど、
例えばレンタルビデオ屋のビデオを返せなくて、延滞料が何万円になっていてもうだから返せないとか、
そういう話と近いものがあるんですよね。
これってさっさと返せ!以外のアドバイスは存在しないと思うんだけれども、返せないという人は多分いろんなところで同じ問題にぶち当たっていると思うんですね。
このことは結局いろんな説明ができるんですけど、一つはコンテインというやつでして、心のスペースを作る必要があるわけです。
ドイさんが繰り返し書いているのは、スペースが作れなくて残念だったってことなんですよ。
こういう人に要するに甘えられてしまうと、分析家としてはその甘えを受け止めることができないと。
できないから、例えばしばらくこのセッションはお休みにしましょうとかを口走ってしまって、後で後悔するみたいな話をするんですね。
これが要するに投げかけられているものであって、こういうことをつい口走り後で後悔するという世界で生きているのが、つまりその来ている人の心理状態なわけですよね。
それをドイさんが投影されて、自分も苦しくなってしばらくこのセッションはお休みにしましょうと。
それは分析家の立場としてはいろいろ言えるわけですね。
なぜお休みにするのかとか、もっともらしいことを言えるんだけれども、本音を言うと、要はその患者と離れていたいというところがあったんだと。
でもこれ以上は耐えられないというふうに思ってたんだと、こういうことをあんまり書いてないですよね。
そういうことが節々と書かれていて、本当は私はあの時このように言うべきだったのに、そうはしなかったからこのセッションは失敗に終わったというふうに書いてあるわけですよ。
これがいっぱい出てくると、しかもそれを精神分析の用語に織り混ぜて書いていくので、なるほどこういうふうに考えているんだなということが伝わってくるんですね。
転移解釈みたいなことでどんどん出てくるんですけれども、それを専門用語とこういう事例、言ってみれば失敗事例に限りなく近いんですよね。
でもそういうふうにしても、患者さんはなぜか来ると、休みにすると言っているのに同意してくれないとか、そうすると相手がすごい、多分キレるんですよ。
そういうふうにして何とかかんとかやっていくと変化が起こってくるんですね。
そして何となく分析でよく言うような理論が何となく浮かび上がってきて、でもそういうことをしていてもなかなか進まない、進まないというのは結局本の中ではわからないじゃないですか。
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ここまでに2年かかったとか言っても本では数ページで済んでしまうのでわからないんですけど、これをやるのはさぞ大変だろうなというのは何かやっぱり伝わってくるんですよね。
ちっとも良くなっている感じがしないケースって本当に出てくるので。
ただ患者さんというのか来団者の人が言っていることというのはある意味確かによく似ているんですね。
要するに一つはこの番組で言うところのニードをニーズに自分で変えられないというお悩みなんですね。
ニードをニーズに変えられないというのは昨日たまたま鎌倉を車でぐるぐる回ったので、大船とかもそうなんですけど特に鎌倉ですね。
回ったのですごく感じるんですけど擦りそうになるわけですよ。あそこに行くと気が切れないんですよね。
車幅がえらい狭いんですよ。小道ばっかりなんで。しかもそこに平気で車が入ってくるんで。
しかもだいたい相手の車は高そうなんで本当に嫌なんですよ。
これをやっていてつくづく分かったんですけれども、これがニードってやつだと。
だんだん何を考え始めるかというとですね。行き先がそういう小道であるにもかかわらず早くここ抜けたい。
早く鎌倉を抜けたいと思うようになるんですね。あれがニードなんですよ。
ニーズになってないんですよね。ニーズとしては鎌倉を出るというニーズは存在しないんですよ。
鎌倉に来たんだから。だからニードなんですね。ニードってこういう厄介なものなんです。
つまり車を擦ったらニードが発生しますよね。
日本では盤金屋に頼むとか保険屋に連絡するとかいうニードが発生するわけですよ。
でもそれは保険屋に頼むということになればニーズになるんだけど、できればやめておきたいじゃないですか。
そもそも擦った瞬間というのはとにかくうわーっていう感じしかしないですよね。
うわーがニードなんですね。赤ちゃんはそこで泣き叫ぶわけですよ。
本当にうわーって言うわけですね。なぜならばどうするというのがないから。
どうするというのを解釈してくれるのが、これを母親というと社会的には問題があるのかもしれませんが、
とにかく誰かなんですよ。赤ちゃん自身じゃないってところがポイントなんですね。
その誰かというのを母親と命名しているんですけれども、実母だというふうには別に言ってないわけですね。
祖母である可能性は多々ありますよね。祖父とか。とにかくそういう存在が周りにいるわけです。
環境としての母親と。なぜ環境かというと赤ちゃんの主観から一本も出ないように頑張るからなんですよ。
赤ちゃんに言わせればそれらは環境であって人格とかであってはそんなことあり得ないわけですね。
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祖父とか知らないんですからね、そういう言葉を。
これは1日目とか10日目とかその辺までの話としてまず考える必要があるわけです。
とにかくうわっとなったと。
あの赤ちゃんと同じ心境に僕らも一瞬どころか日によっては1日とかなることがあるわけです。
でもああなったら困りますよね。ニードがニーズに変えられない自分のニードがあるんだけど、
車擦った状態のように自分の何か心が擦られたんですよ。
そういう感覚って運転しているとあるじゃないですか。
なんかもう本当ちょっと間違ってるんだけど、バンパーのあたりが自分の身体の一部みたいに、
これは脳科学でもそうなっているってこともFMRIで見られるんですけどね。
身体が拡張感を持つわけです。拡張現実みたいな世界ですよ。
そういうのってあります。ただいくらでもあると思うんですよ。
私スキーやっててしょっちゅうスキー板の先っぽが足先とほぼ一体感を持つっていう経験は頻繁にありました。
だからあるんですよね。こういうのって。
あの道具使っていると。長い棒とか持っているときに突っ返る感じがちゃんと人間はするわけですよね。
あれ正確じゃないですけど、あれが完璧に正確なら車擦ることはないと思うんだけど、
完璧には正確じゃないからやっぱりミラーを見るのが正しいんですよね。
でも私の知っているスクナカランドドライバーはミラーを見たくないとか言うんですよ。
ミラーに目をやっている余裕がないと。それはとても危険な感じがするんだけど、
つまりそれは感覚で行きたいということなんですね。
この感覚の中で擦るということが起こるとニードになっちゃうんですよね。
まずどうするべきかっていうのが即座には思い浮かべられない状態になる。
2つ意味があって、1つはそれを意味付けを正確にするというのに落ち着かなくなる。
もう1つは心の、同じことなんだけど、心のスペースが失われる。
この状態にカウンセリング中がなるはずだという話がドイツさんの本の中にあるわけです。
つまり本来であれば解釈をするわけだから、つまり精神分析家は意味付けをしなければいけないわけですよね。
赤ちゃんがウワーと、要するに傀儡断者さんは赤ちゃんだわけです。
そういう比喩なんですね。ウワーって言ってるとか、ドイツさんは女性じゃないけど、その場合も母親なわけですよ。
だからそこでウワーとなっている患者さんのNをニード、ニードをニーズに変えてあげなきゃいけない。
それが解釈なんだと思うんですね。
だけどもそんな余裕はなくなると、そういう風に理想的な図式には当てはまらない状態になるわけですね。
ウワーとなるわけです。
でも一緒にウワーとならないとニードがそもそも何だかわからないわけですよ。
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考えてみればですね、赤ちゃんがウワーと言ったニードをヨシヨシって言いますが、ヨシヨシとは何なのかと。
要するに赤ちゃんのニードがわかってないわけですよ。
わかってないから私もやってよくわかりました。
すなわちうちの娘が叫んでいると、何が言いたいのかわからないわけです。
これ全部わかったらいけませんよね。
全部わかってしまったら娘は自分の欲求不満が何であるかを自力で突き止めようとしなくなるじゃないですか。
こういう病理も別途あるんだけど、それよりも普通に起こることはですね、
この人何を言わんとしているんだか全然わからないということが起こるわけです。
それでも親なので突き止めようとしますよね。
突き止めようとしますよね。
これがつまりグッドバイブスでいうところのグッドバイブスだけが言っているわけではないけど、
傾聴なんですよ。よく聞くということなわけです。
相手のニードをニーズに変えるべく、この人が訴えていることは、この欲求不満は何なのかをよく知りに行こうと。
これって傾聴なんだけど、共感でもありますよね。
同じような気持ちになれば、その相手が何を望んでいるかがわかってくるわけです。
だから分析家とかカウンセラーは一緒になってうわーっとなんないといかんわけですよ。
ここに妙なアンビバレントがあるわけですよね。
うわーっとなったらダメなんだけど、ニーズに変える母親の立場があるから。
でもうわーっとなってみないと一緒に、相手が何を望んでいるのかわからないわけですよ。
いい成人になってニードをまき散らしている人がいっぱいいますけれども、
特にそういう状態になっている人、つまり自分のニードが何であるかがわかったら苦労はないわけですよ。
自分のニードが何であるかがわからないから我々はみんな困っているわけじゃないですか。
これが、私の欲求はこれこれこういうものであり、これを満たせば私は満足するんですってことが人に言えるぐらいならば、
大体その気持ちは自分で何とかしているはずなんですよね。
例えば水飲むとか、例えば飯作って食うとか、そういうことなんですよ。
だって赤ちゃんの欲求ってそういうことじゃないですか。
だけれどもどういうわけかよくわからないものになってしまうケースがありますよね。
私たちは社会生活というややこしいものを営んでいるので、ニードがですね、このニードをニーズに変えるのがはばかられるとか、
例えばこの上司をギタギタにしてやりたいとか、そういうニードが発生するわけですよね。
だけれどもそれは抑え込むか、少なくとも何か上手く紛らわしておくより他ない、もっとややこしいのはあるわけです。
戸畑海人さんが書かれた、心はどこに消えたでも出てきました。
私は夫と一緒にいたくないということがわかったと。
だけれどもそれは生活上は上手く覆い隠されているために、本人の気づく余地がないわけです。
夫は優しいし、お金もあるし、引き分けもいいし、うんたらかんたらということになると、一緒にいたくないというのが出てこない。
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どういうふうに出てくるかというと、例えばチックになって出てくるとか、
あるいはガスコンロの線路、音線を止めたかどうかがすごく気になって眠れないとか、そういう形で出てきちゃうわけですね。
これニーズではないので、気にしなくなりたいわけではないので、本人は気にしなくなりたいんですって言うかもしれないけど、
だいたいそうじゃないので、どこ行っても話がよくわからないので、最後はカウンセラーのところに来るわけですが、
カウンセラーのところに来たからといって、カウンセラーがそれはご主人と一緒にいたくないんですねと、
まあそんなふうにはスパッとわからないということが、どいさんの本に書いてあるわけです。
じゃああんたは何のためにいるんだというふうに言われるわけじゃないですか。
現にどいさんはしょっちゅうそのセリフをされているわけですよね。
ここに来て時間もかかってお金もかかっているのに、治るかどうかすらあんたはわからないと言うし、
いつ治るかもちろん見当もつかないと言うんでは、そんなのはダメじゃないかと言われると。
どいさんはそれはまっともなことだと思うというふうに書いているわけですよ。
それじゃあ相手の立場としては詐欺同然じゃないかと言われてもしょうがないなと思いながら、
でもそうじゃないはずなんだと思って、だから例えば一旦お休みにしましょうかと言うと相手は怒りだすと。
つまり相手は何を望んでいるのかがわからないわけですねお互いに。
このわかりもしない望みを抱えるということ自体が現代社会で生きている上では厄介事になりかねないわけですよ。
本当だったら自分で何を望んでいるかは明らかにして、その望みを叶えるべく努力をしなきゃいけないはずなんだけど、
なぜかそうはならないと、あるいはそれがよくわからないと、そういうふうになるわけです。
だってそれがはっきりわかっていて、その欲求不満を解消する手立てが自分の中で明瞭ならば、
少なくとも精神分析科のところにはいかないですよね。
来ているということはそれがわからないということを意味しているはずなわけです。
私がよく最近それについて思ったのが、GTDの洗い出すってあるじゃないですか。
洗い出すとすっきりするってあるじゃないですか。
気になるモヤモヤしていることを紙にガンガン書いていって、あるいはアウトライナーとかにガンガン書いていくと、
なんか妙にすっきりすると。
このすっきりするがあるから、あの方法は人気なんですけども、
書き出したことが全部できるかどうかは別としてね。
まず書き出すというところで頭がひとつすっきりするというのが人気なんですが、
なんですっきりするんだろうというのを私よくよくいつも考えているんですよ。
確かにすっきりすることもあるんで。
だけどなぜすっきりするのかの説明が不十分だといつも思っていたんです。
覚えておかなければいけない記憶を、記憶は緊張を生みますからね。
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これを覚えておいてと言われても、常に覚えておけるわけじゃないことを覚えておくのは緊張感があるから、
書き出すことによって緊張から解放されてすっきりするという面はあるんでしょうけど、
それであれば別にですね、カレンダーにただ書いておくっていうのだけでも同じくらいすっきりするはずだと思うんですよ。
あるいはタスクリストにただひたすら並べておけばすっきりすると思うんですよね。
GTDの2時間もかけて洗い出すというのですっきりするって言っているのは、なんかちょっと違うような感じがするんですね。
現に書き出したという人の中にはいろんな書き出しを僕は立場上見せていただいたことがあるんだけど、
ひたすらひたすらこう、いわゆるなんていうんですか、アイディアマラソンみたいにガンガンガンガン書いてあって、
必ずしもあれば覚えておかなければいけないことを紙に書いたからすっきりするっていう、
つまり記憶からの緊張解放とは違うような気がしてたんですね。
そこで苦し紛れ感があってMPとかいうのも出てきたけど、
MPはもちろんバーチャルなものなんで、RPGの概念ですからね、マジックポイントですから、
マジックポイントで説明するのはちょっとオカルトすぎてよくないだろうと思って、
私はしばらく放置していたんですが、あれはつまりGTTでの洗い出しですっきりするのは、
ニードを浮かび上がらせるという作業なんだなと最近思うようになりました。
つまり、もやもやしたりしているのは忘れたくないことというよりは、
むしろ洗い出されたものを読んでいてつくづく思うことがあるんですけど、
これむしろ忘れたいことなんじゃないのかと思うケースがあるんですよ。
だからあれ、洗い出したものをサムデイリストとかに入れたからといって、
なかなかそれに手がけられないのは当然だと思うんですね。
忘れたいことということは、つまりその不満は満足させられないことなんだけど、
不満なので満足させたいんですっていうような話に近いんですよ。
さっきの戸畑さんのが大きなヒントにもなったんですけど、
夫と一緒にいたくないといったって、夫と一緒にいるのが理想的であることは誰の目にも明らかなんです。
ここで人は悩むわけですよね。
夫と一緒にいたくないということになると別居か離婚ってなりますよね。
これを洗い出してタスクにしてしまったら、つまり別居か離婚をしなければならなくなるけれども、
そうしたいかどうかはまた別の問題。
こういうことが小さい中でもいっぱいあるわけです。
さっきの上司をぶん殴りたいとかも同じですよね。
そんなものはそういう願望を持つということはもちろんあると思うんですけど、
じゃあそれをタスクリストに書いていつかぶん殴れるかというと多分そうはいかないですよね。
そうしないほうがいいに決まっているんですが、
この種のものをいっぱい抱え込むと全部ニードにしておくしかないですよね。
これを言葉に直して、自分が母親代わりとして自分のモヤモヤを言葉に直してみて、
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それを実行できる段取りを取り付けられるかというとそんなことはできないはずです。
つまりニードになりそうなものをまた一旦心の底に沈めてニードにするわけですよ。
これをいっぱいため込めば心の中のスペースはどんどんなくなっていくから、
当然苦しいし、当然モヤモヤするしに決まっていますし、
それに加えてここにしなければならないたくさんの仕事も一緒に心のコンテナなんですけど、
この中にどんどんどんどん詰め込んでいき、やがて心がいっぱいになると。
そうするとその度胃酸が精神分析の場でやらされていた状態、
つまり何の余裕もなくなり、あの時こう言えればよかったのにとか、
あの時こうすることができればよかったのにと、
後から10回するしかない心理状態に、いつも現在は心がいっぱいな状態に追い詰められていくわけですね。
ここでGTDの書き出すというのが役に立つわけですよ。
一旦一時的にしてもニードをニーズに変換し、言葉に直して紙に洗い出しているわけだから、
ここで母親機能が復活するんですよね。
そうして心のスペースがまた空いてすっきりするわけですよ。
次にやるのはこのニーズが本当に満たせるものかどうかの検討を始めるという、
わけだから、いわゆるこれは何かという第一ステップが始まるという、
そういう仕組みになっているんですね。
私はデヴィト・アレンさんが精神分析をベースにしたとは考えませんけれども、
たまたまそうなっただけだと思うんですけど、
これはそれほど驚くほど偶然の一致だとは思わない。
多分こういうことを私たちは何らかの形でいつも意識しているんだろうと思うんです。
だってみんながやっていることですから、ニードをニーズに変えるという、
もちろん無意識にせよ、自分の体内の血糖値が下がってきただけではお腹が空いたとは思わないんですよ。
下がってきたという段階でニードが発生しますが、
これに全然気づけないという人は現実にいるわけで、お腹が空いたと。
お腹が空いたと言ったって子供がよく言いますよね、お腹空いたって。
お腹が空いたからと言っても、食べられるように物を作って何とかかんとかという話をしています。
作って何とかかんとかという話、料理するという話ですね。
にするにはまた一つのスキルがいるじゃないですか。
その段階でもやっぱりニーズに変えるというのが難しいというタイプの人もいるわけですね。
ここで私はつぐつぐ思ったんですけれども、赤ちゃんがニードをニーズに変えるというのが適切に行われないまま、
しかし必要なニードはことごとく満たされていくという状態に置かれると何が起こるだろうということをちょっと考えたんですよ。
つまり赤ちゃんに必要なものは肝断を整えることであったり、睡眠させるということであったり、
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それこそミルクをあげるということであったり、非常に単純といえば単純ですよね。
これを非常に機械的に赤ちゃんのニードは全くニーズに変換され満たされるという形式を踏んでいないのに、
その点で至って不適切なのにもかかわらず赤ちゃんに必要なものは全て満たされるという状態は実現し得るなと思ったんです。
そしてそれは私たちの人生でも起こり得ることだけど、大体良いことのはずはないじゃないですか。
至って嫌な感じがするんだけれども、でもこうなると私たちの精神というのはどういうふうな状態になるだろうというのを
先日お風呂の中で考えていたんですね。
つまり分かりにくいとすれば、例えば赤ちゃんがぐずっていますと赤ちゃんとしては寝たいんですよ。
ところがその子はその時にタイミング悪くミルクを飲まされると。
こういうことがあっちゃいけないわけじゃないです。こういうことは絶対あるんだけど。
常にこうなってしまうというのは問題だと思うんですね。
次に赤ちゃんがお腹が空いているとやっぱりぐずると。
その時は今度は寝かしつけられると。
寝たり食べ物を食べさせてもらったり飲み物をもらったりということはしてもらっているから必要なことは全部行われるんだけど
ニードは全部無視されている。
こういうケースって極めて極端ですがないわけじゃないような気がするんですね。
私たち多分これをやられるとものすごい心の中はダメな感じがしてくると思うんですよ。
つまり自分のニードは一切ニーズに変わったり満たされることはないんだけれども
でも自分の必要は全て満たしてくれると。
これがドイさんが昔甘やかすって書いていたことなんだろうかなと最近ちょっと思っているんです。
甘えと違って甘やかすというのはすごく問題があるように甘えの構造の中で彼は書いていたんですけど
そういうことなんだろうかなと思ったんですね。
つまり必要性って私たちの時代はすでにお金があれば満たされるわけじゃないですか。
だけれどもそれは必要性が満たされるだけであってニードがニーズに変える。
これはつまり経調とコミュニケーションがいるんですよね。
ここが大事だろうなとやっぱりなんとなく感覚的には思えるわけです。
GTDでこれは何かが大事だって言われるのは割とあのステップは重視されてないからなんだろうけど
やっぱり思うんですね。
ガンガン洗い出すというのはすでにあまり健全な状態ではない気がするんですよ。
それでスッキリするというのは。
一度や二度は必要だと思うんですけども
本来必要なのはやっぱり自分のニードをはっきりさせることだと思うんですね。
それがガンガン出てくるということは自分のニードがよっぽど無視されていた証拠だと思います。
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だからじっくり聞いてみるということが必要なはずで
じっくり聞かないと分かんないですから。
やっぱりあなちゃんがグズってるだけで親はしょっちゅう誤解しますよ。
つまりこの誤解を減らすべく努力はするべきだと思うんですね。
無くなるべきではないんだけど誤解があったほうがいいんですが
常に誤解であるというのはいいはずはないので
自分のニードは特にそうだと思うんですね。
つまり自分のニードを継承するというのが
どうしてもああいうステップの時にも特に必要なんじゃないかと
洗い出しをする時に連想ゲームみたいになっちゃいけないと思うんですよ。
あれもやってないこれもやってないというのをただただ洗い出してみて
タスクがあふれ返りまして困ってますっていうのではなくて
要するに自分がずっとまやまやしているそのニードは何なのかと
どういう表現に変えてあげるのが最も適当で
ニードをニーズに言葉で変えるというのは100%救われるということには決してならないと思うので
少しは必ず言葉だからずれると思うんですね。
ましてそれを完璧な形で満たせるかどうかは大変疑わしいわけです。
だけれどもとりあえずそれをやると
その時に1000個も2000個も出てくるというのはやっぱりおかしいわけですよ。
そういう風になるとするならばそれはニードではないと思うんですよね。
赤ちゃんではない2000を私たちの本当に必要とすることって
そんなに山のようにいろんな種類があるとはとても思えないわけです。
そういう意味であれを全部を洗い出して全部を実行すれば
これは全然文脈的にダメだと思うんだけど
全部を洗い出して全部を実行すれば人生の質が向上するとか
そういうものではないような気がします。
むしろこれを僕らは一番やるべきなんだけど
外視で一番怠りがちなのは
自分の心が真に望んでいるもの
そういうものを傾聴していくと
変な言い方になっちゃうんですけど
自分で自分に強く共感するっていうのかな
そういうことがドイさんの精神療法と精神分析には
あったんじゃないかなっていう風に読んでて
いろいろ思ったわけです。
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