ラジオの概要
おはようございます。
力動系ビジネスコンサルが精神分析について考えるラジオ、第1278回をお送りします。
11月13日、7時50分ですね。
力動系ビジネスコンサルっていうものは、今のところ僕ぐらいしかいなくはないと思うんですけど、
名乗ってないと思うんですよね。他にも名乗っていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、
とても説明的で、あまりPR要素はないですね。
精神分析について考えるっていうのは、僕が勝手に考えるってことでして、
これによって何か意味があることをやってますっていう、僕はあると感じてるんだけど、
あるということをやってますという意味合いもあまりないですね。
つまり、ひとりごとに近いものが勝手に流れていくという、そういうこれはものですね。
でも1200回もずっと違うタイトルでやってきましたけど、1200回、まもなく1300回になりますが、
やってるわけで、かつYouTubeで始めましたから、以前よりは少しアクセス数も伸びてきましたけれども、
そうは言っても、私の活動の中でも少なめですから、私の活動の中で多めのものって時々バズりますけども、
それは本当にわずかなことで、とりあえずそういうものなのかなと思いながら、
あと1万回ぐらいやれればいいかなというふうにも思っています。何のためにはわかんないですね。
公文記的性格の考察
まだ昨日も言いましたけど、いちいち自己紹介する手間はこのタイトルで省けてるなという、
確かにやってることはこういうことだなと。
リキドー系のビジネスコンサルに今私はなりたがっているのかもしれなくて、
いつも考えてることは精神分析のことばっかりという、ほとんどですね、
1日の7割は精神分析のことを考えている気がします。分析家でもないくせに。
あと3割は家族のことなので、別に僕そういう性格じゃないんですけど、
精神分析のことか家族のことしか考えてないような気がするんですよ。
精神分析のことの中には3ヶ月チャレンジのことが入ってきますから、
それ以外の起きてる時間がないみたいな、その上夢にまで見ますから、
どうしてそうなったって感じなんですけど、
さっさとね30代の頃からこれだけやっとけばよかったんだけど、
でもね今思うとそうじゃないのかもしれないなと。
だってこの世の中にノラカウンセリングっぽい精神分析マニアの人っていると思うんですよ結局。
いやそれ正規になれよって言われるかもしれないけど、
世の中に正規の人だけが存在する世界ってないんですよ。
ブラックジャックみたいに無免許医って腕を振ってすげえ有能な人って、
そんな人は今時世の中にすごい少ないかもしれないけど、
あれは特殊で、だいたい医者と軍人は特殊なんですよ。
野良軍人とかって今時そのザイヤの軍人みたいなのっていないじゃないですか。
あんまし、ほぼ犯罪者みたいに扱われちゃいますよね。
僕もそうかもしれないけど、
でも結局のところこの野良医者って絶対いなくならない、
この絶対いなくならない現実には何かがあると僕は思うんですよね。
そういう感じで僕はそういうふうにしかきっと生きられないんではなかろうかと。
そういうなんか運命づけられてるっていうのはどう考えても僕にはピンとこないんですけど、
でもこういう人たちが、
どうしてもそうなってしまうみたいな。
気が付くとそうでしたみたいなね。
昔なんですけどライフハックをずっとやってて、
ビジネス書を書いてた時に割と売れてた頃に、
強い批判をされたことがあって、
その時にこいつは、
世の中で文章を書く人はみんな、
詩を書く人はみんな詩を書く人が多いんですよ。
何の資格もなくこいつはこういうことを喋ってるけど、
そういうのはやめさせるべきだみたいなのがあって、
相変わらず中身についての批判ではないところが批判されるんだなって思ったんですけど、
これってつまり公務員以外もの書くなに近いレベルなんですよね、実はね。
例えば税議士さんとか、
公認会社さんとか、
福祉士さんでもなんでもいいんですけど、
ものすごくいっぱい世の中には公的な資格ってあるじゃないですか。
なんで公的な資格もないのにものを書いていいと思っているんだっていう。
この公って公やけっていうのは僕は、
結局はある種平安朝廷の名を持っているんですよね。
だから、
公的な資格がないのに、
ものを書いていいと思っているんだっていう。
この公って公やけっていうのは僕は、
結局はある種平安朝廷の名残だと思っておりますね。
つまり天皇陛下に雇われている人以外は、
ものを言うなっていう理屈に近いなとも、
ちょっと皮肉っぽく思っちゃうんですけど、
僕そういうことすぐ思う癖があるんで。
これでもやっぱりこういう感覚って世の中にはあるんだなっていうのを、
中はちょっと感心させられたんですよね。
ギリシャってあれなんでしょう。
9割は公務員っていう国家なんでしょう。
なんかちょっとね、
共産権を思い起こさせられますけれども、
だから逆に言うと共産権って、
全ての人に野の医者は許さないっていうシステムなわけですよね。
何らかの形で国家の労働者以外は存在しないっていう世界なんで、
のはずですよね。
でも世の中って不思議で、
北朝鮮の総選挙って、
ほぼ100%が総書記の支持されてるんだけど、
なぜか99.9とかって書いてあるんですよね。
この0.1の人は大丈夫なんですかって思っちゃうんだけど、
あれどういうことなんだろうって思うんですよね。
一応楽だと不自然で、
でも99.9だって不自然じゃないですか。
話飛んでるんで元に戻しますが。
というわけで、ビジネス、
要するに精神分析系って書くのは、
あまりにも分析系じゃない人間なんで、
精神力動系なんだけど、
精神力動系とか書かなくても、
力動系って精神力動系しか今は意味しないと思うんで、
自己認識と適応性
力動系のビジネスコンサルが精神分析について考えるラジオ。
で、いいなって思ったんですよね。
まさにこのまんまだなと。
で、つまり僕ってズボラなんですよ。
すごいキチッとしてないんですよね。
今回そのことを久しぶりに思い出したんですけど、
なんで思い出したかっていうと、
この本、音だけで聞いてる人のためには、
音だけの方の方が多いと思うんで、
説明させていただくと、
今かざしてる本のタイトルが、
松木邦博さんの本じゃないんですけど、
松木邦博さんがほとんど喋っているのを書いた本で、
臨床談議、松木邦博とのQ&A。
編集さんという形になっていて、
編ですね。
岩倉匠さんと佐藤幸恵さんと、
佐藤幸恵さんなのかな。
あの幸せって書く方ですね。
ちょっと僕名前が、
佐藤幸恵さんですね。
の編によるもの。
これはめちゃくちゃおすすめです。
なんかですね、
バウンスリーニングってこういう本を読んだ方が
わかる気がするんですけどね、僕はね。
臨床談議ですから、精神分析談議じゃないんで。
混合出版さんですね、得意の。
僕の書棚に大半が混合出版に参加してきている。
あとは岩崎学術とかそういうところ。
3200円しますね。
まあこれが妥当な値付けなんでしょうね。
私はやっぱりビジネス書畑なんで、
パッと手に取った感じがソフトカバーなんですよ。
ページ数としては、
234ページが最後に振ってあって、
もうちょっとあるけど、
1900、1800円くらいならだと、
高くて2200円かな、2400円でしょうね。
3200円となってくると、
でもおすすめです。
これはおすすめできます。
難しくないから。
めっちゃいいところあります。
先生はオリンピックを見ないというのは本当ですか?
好きだったんですけど、一切見なくなりました。
っていう帯。
この帯がもう何だろうな、
ビジネス書ではないなって感じがしますね。
あと、副題が学会では聞けない質問。
松木先生にぶつけてみた。
なんかこう、独特の内輪感がありますよね。
内輪なのか、一般でも松木先生で通るのかってのが、
よくわからないけど、そういう人しか買わないだろうって、
まんまと僕買ってますけど、
僕の頭の中で松木先生になっちゃってますからね。
向こうは僕のことを生徒だとは思ってないはずなんですけど、
先生になっちゃってますからね。
だからこれで買うわけですよ。
でも学会でこれ聞けなくはないんじゃないって気も。
学会ってそんなに難しいことしかしゃべっちゃダメなのかなって、
思わなくもないですけど、
僕学会に出られない存在なんでわかんないですけどね。
そんなことは全てどうでもよくてですね。
松木邦博さんがこの本の中で、
公文記的性格だっておっしゃっていて、
それは言われなくてもよくわかるわけですね。
絶対そうだろうなと。
そうでなければこの種の仕事できないだろうなって思うんですよ。
さっき自分はズボラだって言ったじゃないですか。
それはここと絡むわけですね。
公文記的性格っていうのは、
この本の中ですごい面白い、
僕は今のところ一番面白いのはここだと思ったんですけど、
アブラハムってすごい早い方の人ですよね、新聞的で。
フロイトとほとんど一緒に、
一緒じゃないんだけど、
フロイトの一番最初のお弟子さんたちみたいな、
お弟子さんというよりはフロイトのお仲間さんたちみたいな。
そのアブラハムが公文記的性格について書いていて、
朝、これちょっと聞いてる人申し訳ないんですけど、
朝背弁すると、これ書いてあったことなんでね、
生まれ変わったような気がするっていう、
すごい性格だなって思うんですよね。
生まれ変わっちゃうんだ、そこでって。
気持ちはいいのはわかりますよ。
でも生まれ変わらないですよね、別に全然全く。
僕はそういう感覚全くないです。
僕はやっぱり、絶対お昼は同じうどんを食べてみたいな、
松木さん書いてるんですけど、
完全に一郎と同じことやってますけど、
こういう人で成果出してる人は、
今の世の中で一番適応的で好ましいとされる気もしますね。
尊敬されますよね。
だから僕は真似てたんですよ。
昔ライフハックで、朝4時に起きて、
自己表現とキャラクターの重要性
いつも同じハンデをしたような時間に起きて、
執筆してみたいなのやってたんだけど、
村上春樹的なやつですね。
すっごいやだったんですよ。
全然やだったんですよ。
なんで俺こんなバハなことやってんだろうって、
思いながら数年やってたんですけど、
もう本当に辞めたくて辞めたくて辞めて、
今すごい幸せなんですけど、
もう絶対ね、
カーソナリティって大事だって、
キャラクターでもいいですけど、
本当にアナルキャラクターでない人が、
真似ちゃダメなんですよね。
尊敬されたいと思って真似るなんて、
本当にナンセンスで、
いずれ辞めますよ、そういうことやってると。
僕やんだんで、思いっきりやんだんでね。
絶対辞めたほうがいいなって思うんですよね。
ズボラな人は、
ズボラななりに生きていく必要。
この本の中で松木さんが、
その人なりにみたいなことを、
結構強調されてるんですけど、
これはすごい大事なことで、
たまたま適応度がいいキャラクターと、
そうでないキャラクターあるんですよ。
それはしょうがないんだけど、
僕はどんなキャラクターでも、
キャラのせいで不幸になることは、
本当はないなって思うんですよね。
こんな僕みたいな、
しょっちゅうタイトルも変えて、
やる時間もどんどん変えていく、
ズボラな人間が、
いわゆる拷問機的な性格の人が、
尊敬されているだろうということで、
真似たら、
そこをライフハックで無理やり真似ていくと、
ろくなことないです。
本当に、ろくなことなかったですもん。
あの時、いいことなんて、
ほとんど何にもなかったですからね。
ただ自慢ができるみたいな、
夜に起きて本を書いてるんですよとか言うと、
自慢にはなる。
それで死にかけた気がするんで、
本当に割に合わないです。
人にちょっと褒められるために、
死ぬことないじゃないですか。
コントロールと自己管理
死なないまでもね、
富士の病って感じがしましたからね。
絶対良くないなって思いますね。
スティーブン・キングの映画家なんかで、
僕映画見ないんですけどほとんど、
妹に無理やり見させられたような、
ミザリンっていうような映画がありまして、
妹は無理やりは見させませんけど、
まあいいよって強く言ってくるから、
見たわけですね。
よかったんですけど、
私あなたのナンバーワンのファンなんですっていう、
すでにちょっと不穏なものを感じる。
本書く人はナンバーワンのファンですって言われると、
嬉しいかもしれないけど、
ちょっと不安になりますよね。
何をもって君がナンバーワンなんだって思うじゃないですか。
そこを言ってくるってことは、
過剰なものを感じるんですけど、
その女性はめちゃくちゃ過剰で、
たまたまその映画の中の著者をですね、
うまいことを怪我をしていたんで、
看病すると称して、
歓迎しちゃうわけですね。
で、やばいこれは何かおかしなことが起きているぞってことに、
著者は気づいて脱出しようとするんですけど、
脱出しようとして色々探っているうちに、
家の様子を、
パッとは抜け出せないわけですよ、
その人足怪我してるから。
しょうがなく、
家の様子を探りながら探っていると、
じれーんって、
その家は整えられてるんですね。
で、
ガラスのペンギンか何かの置物をちょっと忘れちゃったら、
コトッと落としちゃうんですよ。
やばいやばいってことで、
パッと直すんですよね。
これが命取りになるわけです。
命を落とさずに過労死って済むんだけど、
これが大変な出来事になるわけです。
そういう人は、
家の細々したところの全ての状態を、
完全に把握しているんで、
あれですよ、
肛門奇力性格って言うべきなのか、
分からないですけど、
この女性がそういう性格かどうかとはまた別に、
この女性はちょっと違う、
何か過剰な支配感に乗ってるんですけどね。
でも、
絶対自分の財布の中身は、
一円単位で把握しているタイプだと思うんですよね。
もちろん、
使ってるクレジットカードの金額も、
全部一円単位で把握してそうなタイプなんですよ。
で、
そのペンギンの置いている角度を見て、
あの男動きやがったってことに気が付いて、
何で勝手に動くの?
みたいな感じになって、
その男性は怪我してるのにボコボコになって、
という、
非常に可哀想なお話なわけですけど、
で、
ナンバーワンのファンなんで、
殺しはしないんですけど、
小説書けと、
私が望む通りに書けと、
支配力すごい強いから、
こういうあらすじでこういう風に書いたら、
素晴らしいでしょうって言って、
その通りに書かないとまたボコボコにするみたいな、
そういう恐怖感があるんで、
書くわけですけどね。
そういうお話です。
で、
えーと、
つまりですね、
汽笛っていうのは、
コントロール球がすごい強いってことなんですよね。
だってコントロールできないと、
お漏らししちゃうじゃないですか。
つまり、
排泄っていうのは、
何か食べることに比べて、
よりコントロールを意識しないことには、
できるようにならないわけじゃないですか。
これをフロイトが指摘したわけですよね。
トイレとトレーニングっていうのは、
その人のコントロールっていうことが
できるかどうか、
このコントロールの失敗が社会的な、
そうですよね、
どんなに偉そうなことを
喋ってても、
壇上でお漏らしとかしちゃったら、
やばいじゃないですか。
そういう風にコントロールができるぞっていうことを、
社会との関係の中で
知らしめていくっていうか、
自分にね、
そういうことをしていくと。
だからあまりにも過剰になってくると、
そこがコントロールするっていうことが、
以前この番組で喋ったことがあると思うんですけど、
トイレでトイレをすることに、
親が喜ぶんなら、
自分がお漏らしすれば、
親は苦しむだろうし、
なかなか出ないってことに、
つまり出し入れをすることで、
人の気持ちもコントロールできるっていう、
これが自分の機嫌によって
人を支配できるっていうところに
繋がったり、
病的になるとですね、
繋がったり、
繋がらなかったりするって話と、
関係が出てくるわけですよ。
だから非常に貴重面な人は、
当然非常に
コントロール力が強いわけだから、
ある意味非常に支配力が強いっていう、
だから松木さんはその辺のことを
ものすごく気をつけていらっしゃる感じで、
その段階ですでに
拘問既的性格って言われると、
ピンとはきますよね。
つまり、
いや、社会運動ってPSっぽいじゃんみたいなことを
どっか別の本でおっしゃっていて、
社会と個人の関係
そうか、社会をコントロールするっていうのすら、
基本的に避けるっていう意識があるんだなって、
それってすごい立派だなって感じがするとともに、
やっぱり過剰だなって感じも
少しするじゃないですか。
社会なんとか、
社会運動とか、
僕は社会運動って
決してしたい方じゃないですけれども、
社会正義みたいな、
社会正義って聞く他者をコントロールすることを
絶対含むわけじゃないですか。
人々の意識を変えようっていう、
まるで人々の行動じゃなくて、
意識を変えることはいいことだって
いうニュアンスありますけど、
いや、行動を変えさせるより
意識を変えさせるって、
それってもう内面の自由に
踏み込んでいこうって話してますよって
いう感じがするんですけど、
でもあんまりそういうことは
気にされないって人もいっぱいいますよね。
で、結局のところ、
人の起源をよく、
僕よく思うんですよ。
人を起源でコントロールする人と離れましょうみたいな。
でもそれって、
人の起源でコントロールしようとしている
その人を変えようとしてませんかって感じが
やっぱするんですよね、私はね。
いや、人の起源でコントロールする理由って
いうのもその人たちにはあるような。
だって結局のところ、
自分が不快な思いしたくないから、
人が不快な思い、
人に不快な思いをさせるのを
やめさせようっていうわけじゃないですか、
ある意味。
まあ距離取ろうっていうのは
やめさせなくてもいいから
距離取るのかもしれないけど、
どこかそれは距離を取ることで
その人を孤立化させればしようとして
ないでだろうかって感じが
ちょっとしますけどね。
まあちょっとですけどね。
起源が悪い人に近づきたくないっていうのは
それはそれでしょうがないと思うんだけど、
だからその、なんていうのかな、
誰が我慢するかみたいな話って結局
あると思うんですよ。
その、結局のところ
不起源っていうのは苦しみですからね、
苦しみがその
本人の問題なんだって言ったら
それはある意味
こう、社会的な暴力を
容認する感じがするし、
いや、社会のせいなんだっていうことを
言うと多色的だし、でも
どっちも避けましょうってのは土台無理がある
って思うんですよね。苦しみはあるわけだから。
どこかには。
まったく苦しまずにみんな
結ぶんならそもそもそんな議論してないはず
ですからね。
どっちの責任を重く見るかっていうのは
その人その人の、だからキャラクターとかにも
よると思うんですけれども
私は多分それはキャラクターに
性格と行動の影響
沿っていった方がいいんじゃないかという風に
思うんですよね。
朝5時に起きて出筆するのは
松木さんがやってると素晴らしいですって
ずっと拍手を送りたいですけど
僕はやりたくないですよね。
っていうのは大事だと思うんですよ結構。
あのー
こういう風になれるようになったのには
40代の半ばぐらいまで
費やしましたけど、なんか脳々とあっさり
村上春樹でもないくせに
なんか春樹の真似はだけは
する人になってましたけど
やっぱりそうしてこう体中にジムマシン
できるみたいになってみて初めてですね
気づくんですよ。
自分の性格変えようとするのはダメだなという
とにかくこう
自分の性格をなんとか社会に
愛入れさせて、入れてくんないって
ところだけはなんとかかんとか
しのいでいくみたいな
なんかこう抑え込むとか
性格を変容させるとか
やるということは
一時的にできた
気がする時があっても
同じようじゃないと思うんですよね。
だからこの朝に
トイレに行って拝面すると
生まれ変わった気がする。
一回もないですもん。
自分そんな気持ちになったこと
びっくりしました。
そういえばそのことを
確か書いてる人がアムラハムだったんだって
思ったのと同時に
いやないわって感じがしますね。
つまるわけないじゃんって感じが
いやすっきりしますよそれはね。
それだけのことですよ。
そもそも松木さんが書いてるのは
自分がどんなにおいしいものを食べる時よりも
トイレで拝面する時のほうが
はるかに気分がいいって
この感覚がすでにものすごく
拷問期的ってやつなんだなって
思うんですよね。
拷問期じゃないと思うんですけどね。
それはもうキャラクターでしかないような気がする。
発達段階ではないんじゃないかっていう
その形で成熟しているだけであって
私は絶対おいしいものを食べたほうが
全然いいですね。
僕は全然好愛的な人間なんで
やっぱり松木さんよりははるかに僕は
その量積とか能力
以前に
自分が幼い人間だって思うんですよ。
そのまだ
おっぱい飲んでねんねしてのほうが
僕にはピンとくるんですよね。
だからその
全然うまいものを食べるほうがいいなって
トイレに行くほうが幸せだなんて
一瞬も思ったことないですね。
絶対おいしいもの食べるほうがいいじゃん
って思います。ごく自然に。
生まれ変わるとかないですよね。
取り込み型ですよね。
取り込み同一性のほうが全然
僕にとっては納得感が高いですね。
食事と満足感
生きていてよかったって思うのは
トイレ行ったときじゃないですね。
やっぱりね。
おいしいものを食ったときのほうが
はるかに生きててよかった感がありますね。
なので
なんていうのかな
だからといって
別に
高愛嬌であることが望ましい
とか思ってるわけではないですよ。
別に。
そうではなくて
単にやっぱりキャラクターなんですよね。
僕は全然スキゾイドのほうが
自分にはピンとくるんですよ。
スキゾイドの項目読んでるときは
言われるまでもないみたいな感じがするし
DSMとかでも
DSMで例えば
一番わかりにくいのが僕にとっては
演技生とかあの辺になってくると
そういう人もいるんだみたいになるんです。
こういう風に考えるんだ。なるほどねみたいな。
スキゾイドは全然そうじゃないですよ。
いや人間でこうでしょうって思っちゃうんですよ。
自分がそうなもんだから。
僕の場合ちょっと激しくスキゾイドなんで
そこは気をつけてるんですけど
やっぱり
その項目だけは
全然違って読めるんですよね。
いや当然そうだよねっていう風になっちゃうんですよ。
そういう意味では
肛門期的な人っていうのは
どうなんだなるほどねみたいな感じが
するんですよ。
例えば家計簿つけるでしょみたいに書いてあるんだけど
いやいや家計簿って
相当努力してつけるからって感じがするんですよね。
正直どうでもいいから
って思ってるんですよ。お金なんて。
その肛門期的な人に
比べればお金なんてどうでもいいやって
思ってるところあるんですよね。
お金の使い方を知らないんですよやっぱり。
あのよくお金は
うんこだからって言うじゃないですか。
つまり自分のものだったら
好きなようにしていいよねっていう
ニュアンスがそこには強烈に
あるわけですね。
だって自分のものじゃないですか。
トイレで流すだけなんだから。
自分好き勝手にしていいわけですよね。
そういう風に他人に対しても
あまりに思っちゃうと
ウィザリーに出てきた人みたいになっちゃうわけですよ。
いやあのその小説は
私がナンバーワンのファンなんだから
私のものでしょみたいな。
どうしてそうなるんだって感じもするんだけど
家中にあるものはもうペンギンの置物だって
もう絶対この角度じゃなきゃダメみたいな。
みんながペンギンを同じ方向向いてるのみたいな。
横向いてるペンギンがいるってことは
他人がいるってことは
あいつらは許せないみたいな。
いやそれってどういうことだよって感じがするんだけど。
そういう風に
私の支配下にあるものは
全部私の所有物で
全て私が完全にコントロールしていいの
みたいな感じになってるわけですよね。
でこの漢字ってやっぱり
お金に対して人が持つ漢字とよく似てると
お金って全く自由自在じゃないですか。
だって私のものだもんっていう
所有権の感覚ですよね。
だからこれについての
執着というのかな
コントロールがすごく
これで人の気持ちもコントロールできるとか
そういうことをよく知ってる人は
ある意味お金の使い方を
よくご存知なわけですよ。
私はある意味
お金っておいしいものが買えればいいじゃんみたいな人間だから
正直どうでもいいわけですよね。
多分たくさん稼ぐようになると
家計物がつけなくなるわけですよ。
なぜならどうでもいいから。
まあ別にしたくなったら
所有感覚とコントロール
トイレに行ってすればいいしと
何にも変わらないわけですよね。
赤ちゃん的なわけですよ。
まあお金よりミルクの方が大切でしょうって。
これは僕は完全にそう思ってますから。
よく言うやつですよ。
お金なんて食べられないじゃんってやつですよね。
言ってる。
何それおいしいのってやつですよ。
あれを言ってる人ってのは幼いわけですよね。
言ってみれば。
その人が無能だとか
心の一番幼い部分が
かなり幼いようになってるってことなんですよね。
素直でもある。
僕スキゾイドって基本素直だと思ってるんで。
0歳自信性なんですよね。
少なくとも
トイレで頑張るっていうのは
2歳自信性じゃないですか。
その人の心の幼い部分が
0歳なのか2歳なのかってのはやっぱり
2歳の方がお兄ちゃんお姉ちゃんですよね。
そういう感じがあるんですよ。
他完全に
幼い部分が0歳自信性なんで
何それおいしいのでしょうっていう。
赤ちゃんって生まれた時から
おっぱいだけは分かってますもんね。
自分がトイレに行くとか
もちろん全く分かってないし
親が誰かとかすら分かってないけど
おっぱいだけは分かってる。
めっちゃ幼いわけですよね。
でもそれがないと生きられないですから
やっぱり口が大事って思ってるわけですよ。
だって口から空気も吸うし
水も飲むし
口大事だよねっていう。
人間は人間
生物は幻光だから
肛門からできたのかもしれないけど
排水できなきゃ死んじゃうけど
でもやっぱり口大事だなって思ってしまうという
口を愛するタイプですね。
口愛的ですね。
基本これで今日
喋るべきことはほとんど喋った気がするんですけど
きちっとしているっていうことが
業績とかにも
徹底的に現れていますよね。
松木さんはご自分で
精神分析
養護辞典みたいなもので作っちゃってるわけですから
やっぱり
あれを藤山直樹さんが作るって
イメージは湧かないんですよ。
どっかの項目を書いてたな確か。
長寺画とかの項目は担当したみたいな。
項目書くってのは分かるじゃないですか。
お好み警護さんがそうですよね。
ほとんど自分で書いちゃってますよね。
全部の仕事を自分でやる。
だからやっぱり
それだけコントロールしたい気持ち
強いと思うんですよ。
ものすごく優秀じゃない人でやれないけど
フロイトに関する日本の著作は
全部俺がやるんだみたいなのが
どっかに耳に出てるというか
もう溢れ出てますよね。
どうしたって。
だって僕の全く読み方が
何これ
ここに何とかって読むのっていう風に
敬語は読めたけど
思ったんで
の時代からフロイトっていう本を
とると必ずお好み警護って書いてあるんですよ。
そのぐらい
そこ知れないというか
すさまじい人だな
っていう感じが
宇宙については全て私が記述するみたいな
そういうニュアンスがありますよね。
それはつまり
世界とは私のものであるっていうのが
どっかちょっと感じさせられるところがあるわけで
だからやっぱりそれは
所有感覚っていうものは
強くないと
できないことだと思うんですよね。
あざっぱらから起きて
長寿がとはとかって
書いてられないじゃないですか。
僕だったら絶対嫌ですよね。
今だったら
娘のための弁当作り
こんなに朝早くて暗い段階で
起きて寒くてやってるのは
娘の弁当作るからこそであって
まさに僕は好愛的な人間なんで
いろんな意味で
娘の弁当だからあれ息子のだったら
作ってないだろうなって気がはっきり言ってしまうから
娘のおにぎりだったらやるけど
その後速攻出ますからね。
これはやってますけど
これはもう僕は
3ヶ月チャレンジは
このポッドキャストは
ある意味夢見
これこそ夢見ることだなって思うんですけど
夢みたいなもんなんで
何の価値もなくても
情報価値はなくても
ただただ自分が自由連想的に
ここで喋っているってことが
僕にとってとても意味があると思ってるから
やってるんで
人のリクエストに応えてるわけではないんですよ
これはリクエストこれに出してる方
よくご存知だと思うんですけど
リクエストにこいつチッと答えないなっていうのは
この番組は
まさにこう僕がただ
まどろんで喋ってるからなんですよ
本当にまどろんでますもん
頭半分くらいしか起きてない
以前は
たびたび夜撮るってやってたんですけど
ダメなんですよね夜は
静電としすぎて
それがいいんじゃんって思う人は
僕よりは拷問機的なんですよ要するに
コントロール大事じゃんって思ってらっしゃるんですよ
私は口からで任せなんですよ
本当に口を愛する人間だから
口から出るに任せるんですよ
そんなもの垂れ流すのは
外役だって思う人はやっぱり
コントロールっていう意識が
強いんですよやっぱり僕はどっか
空間は公的なもんだと思うんですよね
私のものだとは思わない
だけれども
だけどもここで生きているんだから
私に
私を甘えさせてくれないと困るっていうのは
どっかにあってだから
フワフワフワフワッと
ここで喋っちゃうってことをやって
受け入れといてねと
受け入れるの嫌なら聞かないでおいてねっていう感じが
どっかあるわけですよ
これは人を突き放してるわけじゃないんだけど
スキーゾイドってこういう風になりやすいんですよ
非正規の心理臨床
すごくね僕のようなスキーゾイドは
本当に
嫌なら聞かないでくださいとか
距離感ができちゃうじゃないですか
でもそうじゃないんですよ本当に言いたいことは
愛しといてねって言ってるんですよ
これでね多分
だからこれがないと
私やっぱり
本当に寝るだけの人になって
その中でこう
排泄的万能空想の中で
自分一人とイチャイチャして終わっちゃうんで
それはよくないなって思う
そこを気をつけないと本当に
排泄型の万能空想って
本当によくわかるんですよね僕にはね
なんかこうね
勝手なんですよある意味
みんな勝手なんだけど
恐愛だろうとアーナルだろうと勝手なんだけど
でもやっぱりそういう
僕には勝手さがあって
それがここで
ある意味たまには
まともなものを出すと思うんですけど
解説されていく
これを皆さんに拾っていただく
拾っていて
拾っていられるという
人は拾っていただく
そここれが多分ですね
耐えがたいとなると
3ヶ月チャレンジは耐えがたいと思うんで
これを
通じて3ヶ月チャレンジの
リトマス試験紙にしていただく
っていうのはやっぱり
今合ってるんだろうなと
だったらもっと3ヶ月チャレンジ向けにしたらって思われるかもしれないけど
そうすることが
できないからこそ
このバランスが
バランスじゃないですよね
この
プロセスが
妥当なんだと
適当なんだと思うわけですよね
適切と言うべきなのかな
適切だと行き過ぎてる気がするんですよね
だと思うんですよ
だからね
結構私は
頑固だって言われるし
頑固なんでしょうけどそうじゃないと思うんですね
本当はキャラは変えられないということだな
っていう風に
臨床談義の本
Q&Aの本読んでですね
この本本当に
松木さんが難しくないことを
喋っていて
しかも徹底的に
言われるじゃないですか
あの本実にいいんですけど
この本と
時点を営業して読むと
ある意味
松木邦博ワールドを通じることになりますけど
通って精神分析を理解する
対象関係論ですけどね
理解するっていう流れになるなと思うんですよね
で
僕その
途中言いましたけど
野の医者いなくならないと
で
どこまで行っても
ノラカウンセラーというか非正規のやることって
どこまで行っても
ダメだという風に言われうるものなんですよね
僕は最近
なんかね
この愛遺伝なさが
大事だなって思ったんですよね
松木さんが
1対8か
2対何て書いたかな
1対9か1対10かもしかして
1対20でうまくいってないっていう風に
心理臨床実践で書かれてるんですよね
これは
僕みんなそうなっちゃうと思うんですよね
心理カウンセリングって
だから精神衛生上良くない仕事です
それがね
若干同意できないんですよね
気分が悪くなることと
精神衛生が悪いことは
松木さんはそんなことは100も承知でない
風におっしゃってるんでしょうけど
この本の中では
気分が良くなることは
精神衛生にとって良いことなんだろうか
気分がずっと落ち込むってことは
ものすごく多々あるんですけど
それって精神衛生的には
良いことなのかもしれないような
気がするって思うんですね
でその
1対20でうまくいかないのは
当然
松木さんの場合は
理想が高いからなんだけど
面白いことに別に
理想をそれほど高く持たない私だって
やっぱり
1対9ぐらいで
失敗しかしないな
この仕事って思うんですよね
でも非正規ってそもそも
成功したと思っても
いやそれは成功じゃなくて
あなたの思い込みですからって言われる立場なんで
要するに100%失敗するわけですよね
成功の定義と挑戦
で
体の病気と違いまして
良くなった良くならないは
意味わからないものなので
良くなったと思ってるのは思い込みですからって
さらっと言われて終わっちゃうんで
だけど逆に
なぜそれを非正規の人は言えるかって
それは正規だからなんですよ
ここ大事なんですよね
僕はそういう風に今解釈してるんですよ
これは正規と非正規が
実力が変わらないって言ってるわけじゃないですよ
ただその判断の最終基準は
なおまだコンセンサスが
得られてないって思ってるだけですよ
藤原直樹さんの本読んでると
そこをつくづく考えさせられるんですよ
彼は非正規がやるのは
もう全然だめだ
っていう感じで書かれるけどでも
ではなぜ正規がやるのは
素晴らしいのかっていうことに関しては
不明瞭であるっていう感じなんですよ
本当に
これは最初から
非正規と正規を分けることによって
正規しか成功できないっていう
そうはおっしゃってないし
そんなことはないんですけど
でも成功というものが
究極的には言語的に記述されない
っていう感じなんですよね
であるならば
結局のところなぜ
ある心理臨床は成功するか
正規がやったからなんですよ
ちょっとしか言えない気がするんですね
こういうことが起きたから
良くなったんですとか
その人の気持ちがすっきりしたから良くなったんですって言っても
いやそれはあなたが一時的に思ってるだけです
僕がやった場合はそう言われる
そう言われるという可能性を
排除できないってやつなんですね
でも僕はですね
それが事実じゃんって思うんですよね
だから
松木さんもどっかで書いてたんですけど
これが一番近いなと
そういうことではないんですけど
松木先生もスーパーバイザーとかつけたくなることあるんですか
って聞かれて
ありますありますって答えて
だけどつけないみたいなニュアンスなんですよね
つけるということは
つけたほうが
引退は良くなるかもしれないし
気分も楽になるかもしれないし
進展ももしかするとするかもしれないんだけど
どこかそこは
自分で限界を設けて
諦めてしまってっていう風に書くんですよ
やっぱり
自分の責任で考え抜くべきなんではないだろうか
っていう
これって僕は近いと思うんですよね
なんて言えばいいのかな
保証のない世界だなって思うんですよ
ありとあらゆる意味で
なんかこう苦しむしかないみたいな話を
してるなみたいな
結局ですね
松木さんのそれこそ正確かもなんですけど
最後は覚悟ですみたいなノリになってんだけど
でもこれは本当にそういう感じは
どっかするんですよね
だから
ある意味ではこれはまあちょっと
ナルシスティックな言い方なんですけど
でもある意味では確かに
非正規だからいいってこと
非正規だからいいってのは
よりなんか
公平にわかるとかそういう話ではなくて
絶対に
成功だと言われないという
状態
変なストレシイズムみたいに聞こえると思うんですけど
そういう意味でもあるとは思うんですけどね
でも
絶対に成功ではないという風に
されてしまう世界の
中でやるってことはつまり
なんつうんですかね
逆に言うと
永久に挑戦し続けられるみたいな
ニュアンスがあるじゃないですか
なんかこのぐらいのことがないと
こう
生きることと正義の関係
打開できない事態にぶつかっちゃう
世界なんだなこれはっていう
感じがするんですよね
生きるってある意味そういうことだしな
っていう気もするわけですよ
なんかだって結局のところ
私が生き延びるってことは
他の生物がどっかで殺されるってことになるわけだから
それって避けられないじゃないですか
そうするとどこまで行っても
貞木将王は生き延びることが
いいことですっていうのは貞木将王の勝手な
言い分ってことになるじゃないですか
どっか必ず
そういう問題が常に生きるってことには
つきまとってるじゃないですか
だから死んだ方がいいってことにすら
ならないじゃないですか
僕が死んでみたところでどうせ死ぬことになって
他の生き物にとっては
何にも救いになるわけじゃないじゃないですか
だからそういう
なんかですね
いわゆる社会
正義的な意味での
救いってものを求めてたら
究極的には成り立たないと思うんですよね
ユートピアは永遠に来ないみたいな
違う観点が
どうしたっていると思うんですよそこには
でその違う観点取るのは無理だから
生きてる限り
でこの無理な観点ってあるから
でもその観点に挑戦し続けられる
させられるっていう
非正義ってそういう存在ですから
正義だったら
これでうまくいきましたって言って
そこでこう
うまくいったという
なんて言うんですかね
ゴールにたどり着けるんだけど
引き付けないから定義上
で自分で信じるしかないんですよね
最終的には
他の誰もそれを認めてくれなくても
自分はそれを信じるしかないみたいな
でもこれが結局
生きてるってそういうことだよな
と思うところなんですよね
で
それの話って結局
自分でそれをやり抜くしかないっていう
スーパーバイザーは
つけるってことは
どっか
そこで
自分は無理だっていうのを認めてしまっているんだ
っていう話に
通じるなと思うんですよね
だから誰かが
それこそ正義の偉い人とかが
その人はそれでいいんですよって
言ってくれるからいい
って思いたいわけじゃないですか人って
でもそうじゃないじゃないですか
それでもし
どんなにすごい人だって
これ結局言語的に
最終的にうまくいったことの
言語的記述ができない世界なわけだから
どんなにの人がそれを
受け合ってくれたからって
実は良くなってないんだよねって
クライアントさんは思ってるかもしれないわけじゃないですか
僕の場合クライアントさんとは言いませんけど
利用者さんは
ユーザーさんは思ってるかもしれないわけじゃないですか
どんなにその人が
わかってる人だって
その可能性はゼロにはできないわけだから
そういう意味では非正規って立場は
ある意味すっきりしてるんだなって
思うわけですよね
結局最終的には
自分で納得するしかなくて
しかもその納得が
完全に間違っていないって可能性は
最後までなくならないという
まあ
一番僕は
その精神分析的だなって思う
最近文だったりも
しますそうじゃないのかも
あってかそうじゃない
僕がそれを言っても何の意味もない
っていうのが意外といいなってこと