1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 435】処罰感情を手放せ..
2021-08-12 42:30

【GMV 435】処罰感情を手放せれば時間やお金の損失感はなくなる

罰したいから失ったと思う
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は少し過ごしやすい感じです。
いろんなことが連日起きています。
メディアやブログを見ると余計です。
実際のところは、昨日のことをパッと思い出します。
記録を見ずにパッと思い出します。
起こったことは思い出せません。
昨日と一昨日は暑いです。
それ以外は一日が暑いです。
耳づけもあるにせよ、耳づけだけではありません。
耳づけだけではないということはありません。
肉体を持っていなければ耳づけ以外の何物でもありません。
太陽の表面温度と比較すると、この上はとても寒いです。
今日は昨日いろいろ考えたことは、ほぼ考えずにいけます。
例えば、庭に出るときは考えちゃいます。
3分経っているだけでもクラッと来るレベルと、
基本に10分作業しても全然OKなレベルは全く違います。
庭に降りるときの心理状態は全く違います。
中年50歳近くで庭作業している最中に倒れちゃったと、
そのまま救急車を運ばれるというのが結構あります。
気づかないんですよね。
テニスをしているときと違って、テニスをする前から危険意識が十分です。
テニスをする前から危険意識が十分です。
テニスをする前から危険意識が十分です。
テニスをする前から危険意識が十分です。
テニスをする前から危険意識が十分です。
コーチでも徹底してやりますからね。
コーチでも徹底してやりますからね。
ウッドバイブスで実践していて、
これウッドバイブスだけではないんですが、
自分に影響を及ぼすようなこととか、
それこそ心得みたいなものでもいいんですけど、
いろんなことをして変わっていくという実感を持つ人っていると思うんですよね。
僕のタスクシュートとウッドバイブスで、
自分が変わったなと思うところがいっぱいあるんですけど、
結婚とか子供が生まれて、人から見るとほとんど変わらないんですよ。
人から見るとほとんど変わらないんですよ。
そのことを最近強く思うことが何回かあって、
わりと長らく会っていない知人に会うと、
その人の中ではすっごい変わっているのに、
その人を外から見ると何にも変わっていないんですよ。
一つこれ、バックアクションバイアスというのがありまして、
私から見たその人はこうだというのがどうしても働くんですよね。
働かないようにしようというのもウッドバイブスにあるんだけど、
僕は働いちゃいますね。
そうするとその人を僕の記憶の中で捉えようとするから、
03:04
必ずその人らしいと思っていたところに注目し、
そうでないところを捨て去ろうとするんで、
アクションバイアスが働く。
肌から見るとその人変わらないんですよ。
でもその人の中では毎日毎日がドラマチックで、
特に変わったシーンって何回かあるはずで、
だから川合駿さんの、私この番組でも喋ったんですけど、
360度変わりましたっていう有名なやつが出てくるんですよね。
その人の中ではもう一回転しているほど変わっているんだけど、
元に戻っているから何も変わっていないっていうのも本当なんだと思うんです。
自分変わったと自分の中では感じるんですよ。
でも多分例えば親から見ると何も変わっていないんですよね。
そういうところってあるなと思います。
どうしてそうなるんだろうと最近ちょっと思ったんですけど、
例えば昨日あたり、昨日一昨日あたりと昨日だなやっぱり、
僕の中でまた大きな変化というか、
一つの確信みたいなものが起こって、
それはですね、罪悪感に関することなんですね。
でもこの罪悪感に関することなんて、
グッドファイブスでなくても、
それこそ父との関係とか、
父は寺だったと関係もあって、
うるさいところもあったわけですよね。
その正しさみたいなものについて、
我が家独特のものがありました、やっぱり。
すっごい厳しかったわけでは全然ないんだけど、
うるさいところはあったんですよ。
そういうのはどの家庭でもあるんだけど、
寺ってどうしてもそこに公的な意味ができちゃうんで、
子供にはいろいろとかかってくるところがあるんですよ。
そういうこともあって、罪悪感のことなんてですね、
昨日今日初めて考えたってことではないんだけれども、
グッドファイブスならではのアプローチみたいなものがあってですね、
そっちの方から取り掛かっていくと、
ちょうどですね、でっかい石が、
うちの庭に1個でっかい石があって、
実にどうしたものかと悩んでいるわけですけれども、
これは撤去するしかないんですよ。
これ、自力で撤去できないレベルの石になってくると、
なんか業者に頼んで数万円とかなんですね。
で、この石の感じがするなと、
あっちこっちのアプローチから一定の効果が上がって、
この石を取り除きたいわけですね、罪悪感という石をね。
罪悪感が私の中に石のようにあるっていうのとは違うんですけど、
私は別にこういう罪悪感が子供の頃にあってとか、
トラウマがあってとかそういうのではないんだけれども、
でも見つかるわけですよね、見つかる感じがしたんですよ。
それがつい昨日のことで、
06:01
なんていうんですかね、
恐れているのは肉体だけだっていう発見というものを
僕の中でしたのはですね、
今年の6月25日だったような気がするんですけど、
昨日の発見は、こう、罪悪感というものは、
その石のように撤去できるんだみたいな感じを持ったんですね。
こびりついている感じ。
最初はこれを剥がすっていうことをすると、
自分ごと持ってっちゃうって感じだったんですけど、
そうではなくて、自分が持っていけば
自分から剥がせるっていう感じをね、
昨日抱いたんですよ。
この時に強烈に感じたんですよ。
自分の罪悪感というのは、
この番組でもこれについて目当たらしたはないんだけど、
そんなのはタスクシュート段階でも言っていたことですけど、
ゼロでいいはずだっていう、ゼロにはなんないですけどね、
ゼロでいいはずなんだっていう認識が
昨日一段と高くなった。
この罪悪感というものがですね、
中心になってしまう人生っていうのがあって、
しばしば自分もそういうふうになってしまって、
その罪悪感中心の人生というものを
型をつけなきゃいけないという感じを
昨日初めて確信を持つことができたって感じがしました。
こういう変化なもんだから、
裸から見ても何にも変わった感じはしないんですよ。
別に急にそれによって私が罪悪感について
180度方針転換しましたというわけでは全くないんですよね。
方針は変わってないんですよ。
石の撤去と同じで、石を撤去するという方針に違いはないんですよ。
ただ撤去できつつあるという時と
放置せざるを得ないという時は違うじゃないですか。
それはただ多分内面に起きている石の問題であって、
外的に見ればですね、
いやあんたはその石について嫌だとか撤去したい、
害虫しなきゃとか金かけなきゃとか前から言ってたよね、
いや何も違ってないよねという感じなんだと思うんですね。
そのことからですね、昨日の発見というのは、
例えばタスクシュートとかがいいかなやっぱり、
私の例ですからね、
すると時間を損したという感じがあるわけですね。
時間は損しないはずだと思っているのにもかかわらず、
時間を損したという感じを抱いちゃうんですよ。
時間を損というのは二つイリュージョンがでかいのがあって、
一つは時間というものがあるというイリュージョン。
09:00
これがもう全くイリュージョンなんだけどひどい。
イリュージョンというのはないわけですから、
ないものがあると思い込むのは一種狂気ですからね。
もう半分気が狂っているぐらいな感じで思っておくべきだと思うんですよ。
あると思っていてあるというのがまだしもですよ。
僕はないと思っているわけですから。
しかもないものは損できないんです。
これが二つ目のイリュージョンですね。
ないのに損得感情があると。
これもひどいものなんですよ。
これで4分の3ぐらい発狂している感じがあるんですよ、どこか。
だけれどもそのことにむしろ時間は損するし、
時間はあるんだよという話を持ってこられるんだけど、
それはどうでもいいんですよ。
私の中の確信ですから。
私の中では時間はすでにないんですよ。
しかもないものについて損することはできないわけですよ。
ないという前提が立てばね。
だから他の人がそれについて意を唱えるとかは関係ないんですね。
ブラックホールの有無みたいなものであって、
ブラックホールというのは私はあると思っているんだけど、
別にあると思うとないと思うと。
ある人が、天道説と地道説と同じですよ。
どっちを信じて生活していても大した違いはほとんどの人には生まないわけですよ。
だからあるなし論争をすれば、
それはどっちかが正しいんでしょうし、どっちかが間違っているんでしょうけど、
どっちが正しくても間違っていても、
その人の人生に影響しないケースというのは結構ありまして、
私のケースで言えば、
他の人の時間について損したくないと思うのは全然いいはずなんですね。
問題なのは私なんですよ。
私が時間について損すると思うのはダメなんですよ。
損しないんで、というかないんで、そのようなもの。
これが何で生まれてくるのか、
絶え間なくしつこくしつこくないと思っているのに、
ないと信じていれば損をしたという感じを抱く。
おかしいわけですよね。
原始痛ですよ、これは完全に。
ない腕の痛みを感じるというやつですね。
その人は事故にあって腕を失ったと。
でも失ったはずの小指が痛い。
原始痛って言うんですよね、これはね。
それは腕がないと確信しているじゃないですか。
ないんだから。
なのに痛みがあるという感覚が発生する。
僕の時間に関する損失感というのは、
こいつとそっくりで非常に腹立たしい。
腹立たちますよ。
だってありもしない腕の痛みを感じたらどうしようというのか。
包帯巻くことも薬塗ることもできない。
だけれどもあるという感じはする。
そして痛いという。
だったら腕があったほうがいいですよね。
12:00
でも腕を使うことはできない。
非常にもどかしいし、
自分もその感覚がずっとこびりついている感じ。
さっきも言いましたけど、こびりついている感じなんですよね。
損をしない時間の損失感がある。
これが多分昨日消滅したかなと思うんですね。
現実というのは消えるんですよ。
なんで消失したかというと、
罪悪感というものは自分から切り離せるんだと
理解できたからという感じなんですね。
理解できていいはずなんですよ。
もっとずっと前からね。
大学生の頃であっても。
でもさっきの時間の損失と同じで
確信を持っているはずなのに
確信できていないことがありまして、
時間は私は罪悪感から損失感を作り出していたわけです。
この流れがあって初めて自分の時間を失うという
私が信じていない信念が生まれてしまうんですね。
罪悪感の方はなかなか取り外せなかったので
こびりついているからね。
この罪悪感というものは私を依然として
ある程度は迷路に閉じ込めるわけですね。
その感じが一番近いんで。
グッドワイブスで倉田正経さんが
クリーンにするという表現を
時々とられるんですけど
これがやっぱり非常に気のしっくりきました。
罪悪感というもののこの汚れた感じが
こびりついているんですよ。
実に良くないんだと思いましたね。
これを綺麗にする。
綺麗になってないんだけど
綺麗にできるんだという感じを持つことで
時間の損失感などというものが
一切自分に影響を与えることはなくなった。
これが昨日僕に起きたことであって
僕の中でこれは一大転換が起こるんだけど
畳には大した違いはないですよ。
以前から言っていることとほとんど変わっていない。
グッドワイブスを知った後だとしても
2年くらい前からそういう話はしているんできっと。
何ら変わらないんですよね。他人から見ると。
罪悪感というものを
人がどういう理由で持っているか
私の場合ははっきりしていることは
処罰感情を持ちたいんですね。
もっと言うと処罰感情を満足させたい。
この2つは同じですかね。
つまり処罰欲というものが生まれてしまっていると。
この処罰欲はほぼ間違いなく
自分がある種のエディフスを飲み込んだこと。
私たちはみんなエディフスを飲みますね。
現実原則です。
快楽原則だけで生きている人は多分いないので
現実原則というものを飲み込んでしまう。
それがそのままモラルになるとは限りませんが
多くの場合モラルになるでしょう。やっぱり。
例えば、前もお話ししましたが
15:02
優先席に間違って座っちゃったと。
前に年寄りがゴホゴホ言っていると。
今だったらちょっとこのシチュエーションに
違う意味になりますけど、特に
コロナだということではなくてね。
この時、席を譲るのはもちろんエディフスです。
座っていたいならね。
座っていたいという何が好き嫌いというのと
別の原則で動き出したらそれはエディフスですよね。
もう非常にモラル的じゃないですか。
ここで罪悪感を抱くとしてもやっぱりエディフスです。
エディフスというのは
自分が生まれてしまった時に
正常な人の心理には基本的に働くものだと思うんですよ。
道徳を習うからこうするわけじゃないと
僕は思うんですよね。
この点では僕はフロイトに全面的に賛成で
基本的にそういう性質を人は備えていると思っています。
だから人は悩むんだと思いますしね。
いずれにしても譲ろうと譲るまいと
エディフスというのは
自分の心理の中で
ここで何にも感じないという
乳腺疾患を知っていて
何にも感じないというのが
サイコパスと呼ばれているんだろうと思うんですけど
これが果たして実在するのかどうか
大いに疑わしいと思っています。
俺何にも感じないからって言うってのは
すでに全然エディフスです。
サイコパスでも何でもないと僕は思いますね。
俺はそんなの平気だからとかって言うっていうのは
言わないと思うんですよね。
エディフスがそこにないならば。
という罪悪感。
私は譲るのに
罪悪感は本来不要だという
これは譲るのが理想的で
当然だからとかいう話では全くないです。
そういう罪悪感は
当然だからとかいう話では全くないです。
そうではなくて
罪悪感というのは処罰感情とセットなんですよ。
これは倉園さんが
グッドバイスでよく言う通りセットなんですよ。
罪とは罰をセットとする。
で、罪悪感を持って辛くなるのは
自罰を始めちゃうからですね。
もし罪悪感だけで自罰が一切ないならば
それはあまりにも不自然なんで
耐える理由が全くないですけど
罪悪感を持って気分が悪くならば
自罰が始まってますね。
だからセットなんですよね。
これをしたいんですよ。
人を罰する時のためにかな。
で、罪悪感を持つと
持つというか持っちゃうんですが
何かが怖いとか
特に人に責められて怖いと言える時には
非常に自分を嫌な感じにします。
18:02
扁桃体とかコルチゾールって話してますけど
それは物質的な説明であって
とにかく
うわーってなってきたら罪悪感を持ってるんですよ。
そして自罰も始めてるんですね。
うわーってなった時のあの感じですよね。
感覚そのものです。
身体を包み込むようなというか
内側から上がってくるような
パチンとくるとか
胸が悪い
胸が悪いとか
最近で言うとキモいとかかな。
ああいうのは全部罪悪感。
どこかに罪悪を見ているはず。
そして罰しきれないという感じを持っているはずです。
人にか知りませんし
自分かもしれない。
自分の場合は自罰になり
自罰100%ということになると
ほぼよく打つかなって感じですし
処罰100%ということになると
ピンと来られないと思いますが
逃亡失調の感じが残ります。
処罰100%というのは私は異常事態だと思いますね。
大体怒っている人は自分の気分が悪い
つまり自罰と処罰が両方
股にかける感じに必ずなるはずです。
いいおっぱいも悪いおっぱいですから
悪いおっぱいの時に
悪いおっぱいをとにかくやっつければいいんだという赤ちゃんはいません。
それは自分が罰せられたと
自分に少なくとも嫌がらせ
罰だな、のようなものが来たから
相手を罰するので、ほぼ同時じゃないとおかしいんですよ。
処罰だけとか自罰だけというのは
すでに病んでいる感じがあります。
こういう構造があるわけだから
罪悪感というものは
自分にか他人にか
多くの人は重視するんだけど
比較的どうでもいいことで
ほとんどのケースでは
罪悪というのは自打同時に置いて
自打同時に罰する
そういうカラクリになっているんだと思うんですね。
あの不思議な感じ
罰するとすっきりするだろうな
あの感じで
離婚したくなったりするわけですよ。
こいつを困らせてやったらさぞすっきりするだろうと
本当に思います。
自分の中にこういうのがこれほど強くあるとはね
って思いますよ。
夢でしばしば見ます。
見るってことは持っているってことですよね。
僕もタイムリーにそういう夢を見たんですよ。
離婚ではないですよ。
街のどこか見知らぬところで
ひどく、何なのかな
21:01
宗教関与しているような人も
ひどく怒っていたんですよ。
僕の処罰感情ですね。
シチュエーションは関係ないです。
私が宗教関与を嫌だと思っているとか
そういう話ではないです。
何を果たすかなんですよ。夢で大事だと。
怒っているのか笑っているのか
そういうことが大事なんです。
なぜ怒っているのかとかではないです。
僕が処罰感情を発揮していた夢でね
これが非常に大事なんですよ。
多分昨日の罪悪感というものが
僕にこびりついていて、それを取り始めたという感じと
非常に関係が深い夢だったと思います。
たまたまですけどね。
そういうことを思ったからそういうのを見るというのではないです。
おそらく偶然の一致なんです。
ああいう夢は僕はしょっちゅう見ているんだと思いますね。
とにかく強い処罰感情があったわけです。
今もあるんでしょう。
この感情を発揮したいがゆえに
罪悪感というものをスイッチオンにするわけですよ。
罪悪感オンというわけですよね。
人に罪悪を見なければ処罰できないじゃないですか。
処罰したいんですよ。
罪悪感を持ってしまうからとも言えます。
持つと気分が悪くなりますからね。
この気分の悪さを処罰によってすっきりさせたい。
この感じが私の中でセットになっているわけですね。
依存みたいなものですよね。
これが先行しているんですよ、私の人生で。
これが先行しているから
時間の損失感みたいなものを作り出してくるんです。
逆じゃないってことですよね。
時間が大事だから人を罰したくなるんではないってことです。
昨日たまたまうちの子が休みだったんですけれどもね。
塾の帰りに買ってきたものが間違っていたんで
それを返して別のものを買いに行かなきゃということで
ちょっと囚われていたわけですよ。
そんなのは塾の帰りに自分でやればいいんだけど
僕についてきてほしいということで
結局家族で行くことになったんですよ。
これによって私は多分
やりようによっては節約できる2時間半を使ったんですよ。
スクシュートがあるからこういうことが言えるんですね。
損失感が出るともしするならば
娘は怒ると思うんですね。
怒らないにしても
娘に自分で行けよそれって言うと
それを言うのは容易ですよね。自分で行かせることは。
でも妻も一緒に行ってやってほしそうだったし
町でにいるならば妻も買い物に出かけたかったんですよね。
こういう逆にご時世だし
割と地方ですからね。
24:01
そんなに混んでないんでこの時期だったら
中途半端なんですよこの辺って。
いわゆる帰省する場所ではない。
帰省はもっと遠くに戻る。
逆に都会でも全くない。
そういう中途半端なところなんで。
だからシャッター街になっちゃうんですけどね。
中途半端なところってこんな時は特にそうですけど
人いなくなっちゃいますからねむしろ。
ほんとひときの誰もいなかったんですよ。
遊輪堂とか。それはいいんですが。
そういうわけで行ったわけです。
これ行くというのは
懲罰感情というものがなければ
時間の損失感というものは
おそらく私の中になかったんです。
これは私の特殊事業ですよ。
私タスク集でやってることも
大いに関係はあるんですよ。
ここの2時間半はでかいから
なんでも言えるんですけれどもね。
損失感って私は昔から嘘だと思ってたんです。
グッドバイを知る前からってことですよ。
だからやはり
例えば私が10分損したとか思うんですよ。
どんな時に思うかな。
電話でただただ待たされた時とか
ATMでただただ並んでた時とか
でもそういう時にしか10分の損ない
っていうのを私は決して認識できてない
っていうことをよく知ってたんですよ。
例えば
これから原稿を書きます。
すごい重い状態にありますと。
3章に入ってまるで進みません。
でも今日も書かないわけにはいかない。
今日あたりから書いていかないと
絶対間に合わないから絶対書かなければいけない。
重くなっていきますよね。
こういう時にふと
気がつくと10分ネットサーフィンしてました。
こういう時には
すげえ損したとはあんまり思わないんですよ。
しょうがなかったと感じます。
人のこの種の10分に対する
認識とか価値観
いい加減さってすさまじくひどいもので
ATMでただただ10分待たされると
大騒ぎにしかねないくらい
損をしたと思うせいに
書けない本を書こうとして
つい脱線した10分は
かなり短く感じるんですね。
僕は校舎のほうが
本当は重視するべきだと思うんですよ。
いっつもタスク仕事で
僕はそのことを思ってたんです。
このことを考え続けるだけでも
大きなプロジェクトって相当進むんですよ。
だから僕は
私は時間の損に
大変厳しくしてるんですと言いつつ
プロジェクトや論文が進みません
という人の話は
実は全く信じないんです。
1ミリも信用できないと
いっつも思います。
10分でうまくいけば
2000字いくケースがあります。
書き方雑になりますけど
2000字いくケースがあります、10分でね。
うまくやれば。
そういうのはATMで並んでる10分では
絶対発揮できない2000字なんです。
実はこの10分節約して
27:01
直ちに2000字かけて書ける人は
ほとんどいないと思うんですよね。
タイミングがよっぽどうまく合わないと。
10分取ることなら
多分どんな人でもできるって
10分早く起きればいいんですからね。
10分で必ず2000字
100%起きた直後の10分でも書けるなら
どんな人でも10分は取れると思うので
そうすると
100日あれば
20万字じゃないですか。
そんなもんだと僕は思うんですよね。
100日って3ヶ月で
3ヶ月で20万字ですよ。
1年分かけちゃいますよね。
3ヶ月あれば
1日10分で
文字数だけ取るなら
これが僕は時間の嘘だと思うんですよね。
10分だろうと100分だろうと
1文字もいかないという日も
大概の人は頻繁にあると思います。
1本違うと300分かけても
100文字とかね
あり得ると思うんですよ。
だからその
10万ができたっていうのは
デタラメであって
この10分をあれに使うべきだったというのも
嘘であって
それはもう
いろいろ考えるまでもない
イリュージョンなんです。
僕はそれでもですね
ある種の時間というものは
必ずこうこうこうだって
言えるっていうのは
いくつかは持ってるんですよ。
例えば駅までは13分40秒
早くやれば11分何秒
っていうのは言えるんですよ。
でもこれは
いつもいつも駅に行きたいわけじゃないから
大体が効くとは言えないんですよね。
一番絶対に大体が効くのは
私は28分あればオナニーができます。
ただしこれは28分を要します。
これ以下でやってしまうと
満足感がほぼないです。
でですね
28分でそれができるから
ああ
ここに31分があるなって思った時は
必ず頭によぎることがあるんですよ。
シチュエーションを選びますけどね
場所も選びますけど
でもそれを電話がかかってきて
8分取られて23分になっちゃったっていうと
その電話に対して猛烈に腹が立つんですよ。
これが私は時間の損失感というものだと思うんですね。
極めて
極めてこんなもんだと思いますよ。
大体の人はこれすらやってませんからね。
これをやったとしても
だったらそれをした方が得だったのか
その電話を打ち切ってでもそっちをする方が得なのか
議論の余地があると思うんですよ。
ちなみに他人を介在させるには何の意味もないと思います。
大体電話をしてきた人にしてみれば
電話の方が大事に決まってますからね。
だから私は他人を
時間の使い方の価値について
口を挟ませる理由は一つもないと思うんですね。
何語の勉強の方がいいだろう
何語の勉強の方がいいだろう
いやいやゲームをしていた方が
したいんだったらした方がいいだろう
30:02
情熱的だろう
論外だと思います。
他人の言い分なんてのはね
これはもう自分だけの話ですよ。
自分だけの話に限って見たところで
確実に何分あれば何ができると言えるのは
お湯を沸かす時間の11分くらいなものなんですよ。
僕の中では100%そうだと言えるのは
お湯と駅までの徒歩の時間が
この2つだけですね。
それだって電車の時間が変わってしまえば
狂ってしまえば東海道線を遅れますからね。
ほぼ無意味なものになっていくんでね。
だって14分で絶対行かなきゃいけない。
間に合うためにはそうですが
電車の5分遅れなら19分かけてもいいわけですから。
もうこういうかなりしょうもないところなんですよ。
でも娘に2時間半を使ってしまった
この間何々ができた
全部嘘ですけどね。
この間にできるのは
何々とお湯を沸かすことだけなんですけど
私この2つはよく組み合わせて使いますけどね。
30分、40分あればできますね。
合わせて。
お湯を沸かしながらはダメですよ。
吹きこぼれますから。
この2つだったら一応言えるかなっていう感じがします。
他のは一切ダメです。
シチュエーションによって変わるんで。
シャワーを浴びる時間とかだったら
良さそうなもんですけど
お風呂場に洗濯物がかかってたら
使えなくなってるんで。
そういうのを使うとまた
妻と猛烈な戦いをして
それによって1時間半くらい平気で失われますからね。
つまりシチュエーションを選ぶんですよ。
時間の使い方などというのは。
で、こういうことを認識するかどうかはともかくとして
しかしですね、時間の損失感というのは確かに生まれる。
ATMでずっと並ばされると生まれる。
なぜか?
前の人を処罰したくなるから。
こっちが先です。
特に銀行の窓口とかで待たされる。
必ず銀行のシステムとか
行員さんを罰したくなってます。
こっちが先です。
この時間を使えば原稿を書けたという理由は
その後で生まれてくるものです。
僕、これ1000回以上確認しているんで
嘘はないと思ってます。
必ず処罰要求は先に
僕の場合は生まれます。
必ず処罰要求が生まれていなければ損失感はない。
昨日それが100%そう言えるという感じを抱いたんですよ。
時間の損失という感じを持つのは
娘を罰したいという気持ちの後で生まれます。
先ではない。
先ではない。
大体、例えば私は大学時代に
彼女が欲しくてしょうがなかったという話は散々してますが
その頃は最終的な目標というのは
彼女を作ることだったんですよ。
そのために何かをするとか
33:01
服を買いに行くとか
勉強するとか全部OKだったんですよ。
つまり何かをするということが何かのためになるならば
時間の使い方によしやしというものはあるならば
どこかに最終目標みたいなものを置いちゃうんですよね。
ところがそれが逆転するんですよ。
だって奥さんと一緒にどこかに出かける時間が惜しいと言ったときには
もう逆転しちゃってるじゃないですか。
彼女のために何かをするというのは
時間が全く惜しくないという話じゃなかったのかと
その彼女とデートをするという時間が惜しいのかというのは
理屈が通らなくなっていきますよね。
こういうことも頻繁に起きている気がします。
だから問題なのはそういうことじゃないんですよね。
問題なのは処罰欲求というものが起きたときに
時間の損失感というものは起きるということです。
あるいは処罰欲求というものが起きたときに
お金の損失感が起こるんです。
理由が欲しくなるんですよ。
相手を処罰する理由が。
まず罪悪感があったんですよね最初に。
ここで余計な間違いをした娘を罰したいという気持ち。
私は娘に対しては極めて弱いので
滅多に処罰感は起きないので
むしろ気づきやすかったわけです。
あれ?と思ったんですよ。
娘のために2時間を使うのが惜しいとは
とても思えないような気がするのに
惜しいと感じている自分がいる。
惜しいとはとても思えないのに
そう感じる自分がいるのはどうしてなんだろうと
思ったときに
時間が惜しいとは実際には全く思っていない。
これに2時間半を使うのはむしろ歓迎すべきことだ。
でも自分は今2時間半がもったいないと感じた。
どうしてなんだろうと思ったときに
娘に文句が言いたくなったから
それは私にとってあまりないことだから
気づきやすかった。
これが奥さんとか他の人だと気づきにくいと思うんです。
すぐそういう感情を持っちゃって
セットでお金がとか時間がとか
言い始めますからね、自分の心が。
こういうことなんだなと思いました。
だから、処罰感情をサポートするために
損失感というものをいっぱいひねり出すんですよ。
多分他の人は知りません。
私に関しては100%そうだということが言える。
損したと思ってないんで
別に損だと思ってないんで
なのに損害感が出るというのは
とっても不思議なことです。
こうやって損した感じというのが作り出されていく。
実際のところ、奥さんとデートしたいと思っている人が
それに何時間使うと損だと思うのか
おかしいじゃないですか。
36:01
処罰感というのはあるんですよ。
いまだにこういう発見をしても
僕の中にもあるんです。
いろいろあるんですよ。
今の話は分かりやすい図しか出してこなかったから
そんなもんかなって思われると思いますけれども
ほんの些細なことでも起こる。
例えば、原稿とかでもそうですが
期日ギリギリになりそうだなと思ったときに
自分への薄い罪悪感が起こります。
そうでなければ、期日を設定した
あるいは、厚生の依頼をしている相手に対して
罪悪感を持ちますから
相手が悪いことをしていると
少なくとも若干の間違いを犯している。
もうちょっと日付を伸ばしてくれればいいのに
という気持ちの裏には
この期日は厳しすぎるという感情があるはずですよね。
そこに相手に対して罰したいという気持ちが
うっすらとでも出てくる。
この時、この次に初めて
自分はこの時間を無駄にはできないという気持ちが
沸き起こるんですよね。
実際にはそれらを一切考えることなく
やってみればいい話じゃないですか。
多くの場合、
その余裕とかは極めて雑に考えられているものです。
僕は、野橋哲夫さんは別ですが
世界で2番目ぐらいには
世界で2番目は嘘ですが
でも相当時間については
秒単位まで緻密に考えられるという自信があるので
余裕とかいう、時間の余裕とかいう概念が
いかにすごく大くくりなものかというのは
すっごいよく知っている感じがします。
これは、秒的なところもちょっとあります。
何日というのはどういう意味なのかというのも
かなりよく知っているつもりがあります。
ので、損失感というのは
それとは全く関係ないということを
よく知ってはいるんですよ。
でも、損失感を持っちゃう。
つまり、この感覚、意味ないなとは思っているんだけど
持っちゃう。
それは、罪悪感を持っちゃう。
罪悪感というものは
意味があると思っているせいなんですね。
長らくそう思ってきたんで
そう思っているということを忘れるぐらい
長らく思ってきたんで
そういう処罰感というもの
リベンジと人は時々言います。
昔いじめたとかいう話が
大いに盛り上がるのは
昔、嫌な目にあったということに対する
復習心というものも
大いに関係があると思います。
こういうことを言えば
社会的には問題なのかもしれないですけど
これは何か特定のことについて
特定の意見を持つべきだって話とは
全く関係が本当はないんですよ。
自分の中だけの出来事だと思うんです。
39:02
各人にとっては
特に僕にとってはですね
そういう経験ってあることはあるんですよ。
私はそういう経験について
人が同意してくれたり
共感してくれたりすることに
不動意だったんですね、多くの場合。
例えば、昔私が
母にこういうことをされたって話をした時に
そういうことをされるというのには
共感に値するっていうのは
好きじゃなかったんです。
そういうことをされるということと
自分がどういう罪悪感を持つかという話は
必ず分けて考えられる話なので
昨日の結論はそういうところにありますので
結局、何かこう
現実原則みたいなものを
おじいさんに席を譲るでもいいんですけど
譲っても譲んなくても
何かエリプスが関係してくるんだけれども
そういうところから少しずつ
罪悪感みたいなものを
アクティベートにしてくる
というのが私たち
逃れられないと多分思うので
絶対にそれは行われることだと思うんで
思っちゃうんですけれども
この罪悪感からの処罰感情というものの
自分がどういう価値観を持ってくるのか
多くの場合は多分損失という
だから私はですね
倉澤さんが何がそれによって失われましたか
という問いを立てたんだなと思うんです
現実なら何とかなるというのも
そういうことだと思うんですよ
あの言葉の裏には幻想だとどうにもならない
という意味が多分含まれていると
僕は思うんですけど
幻想に囚われると
もうそれは絶対になってしまうので
僕が一生懸命ごちゃごちゃ喋ったようには
時間というものは損を本当にしないんだろうか
などと我々はほぼ考えない
時間を損したという事実だけを取ろうとするんですよ
それは何かを罰したいという気持ちの
サポートとして必ず役になっている
だから少なくともですね
考えるべきだと思うのは
お金でも時間でも尊厳でもプライドでも
モラルでも何でもいいんですけど
何かが傷ついた心でもいいですよね
傷ついたと思った時に
何かを罰したいという気持ちが
そこに最初に立っていないかと
それと関係しているんじゃないかと考えるのが
やっぱり順序としてはいいのかなという風に
それともう完全にグッドバイオスと
同じようなところなんですけれども
オリジナルじゃなくていいんですよ
同じようなもんだんですけれども
そういうことをきのう
つくづく思ったということですね
だから多分亡くなってはいないから
今後も生まれてくるんだけれども
失わないというのはそういうことなんだなと
罪悪感というものがなければ
失わないんだなと
大体ですね
罪悪なはずない
間違って小学校6年生が物を買ってきちゃいました
42:02
どこが罪悪なのかと
一つ一つ検証してみれば
きっとそういうもんだと思うんですよ
ほとんどのケースでは
おじいさんの遺跡を譲れませんでした
罪悪ではないんですよね
だから処罰はいらないんですよね
本当は
本当はそこで止まるべきなんだと
やっぱり思うんですよ
42:30

コメント

スクロール