1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
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2024-07-10 45:55

ナルシシズムは「ナルシスト」ではまったくない【1016】

一次過程を「卒業」することはできない。
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おはようございます。
グッドモーニングボイスに戻すかをちょっと悩んでいる、働く人に送る精神分析者、第1016回となります。
まあまあ、えー、ちょっとね、もしかすると扇風機の音が入っちゃうかもしれないんですけれども、
ただいま7月の10日、8時5分ですが、おはや扇風機ないのはまずいなということが改めてわかってきましたので、
昨日あたり撮っててですね、これはちょっと勘弁してもらおうと。
私は昨日、倉園圭三さんとのグッドバイブスファクトリーというところでテレビ収録というのかな、グッドバイブスTVというのを動画収録してきたんですけど、
倉園さんはすごく音質とかにこだわる方で、いろいろやっていただけるんで、
空調なんかも切って撮ってるんですけど、さすがに昨日はその倉園さんでさえつけて撮ったんで、
やっぱりこう、今年の暑さはすごいんだなというのを痛感しつつですね、
私ももう諦めようと、まあ私は遥かに彼よりは諦めが早いパーソナリティなんで、
ここはもう諦めて、皆さんにもしうるさかったとしたらすいませんが、
勘弁していただくことにします。何しろもう既に外気が30度っていう状態なんで、
この状態ではどうしようもないですからね、もはやね。
なしでは、私の体では持たないので、頭が持たないって感じなんですけど、
ネッククーラーとかしてるんですけど、これなかったらもう全然ダメなんで、
そろそろぼんやりするぐらいなんで。
おかげさまで3ヶ月チャレンジはお申込みがちらほらとございまして、
もう本当にありがたい限りで、これで来季も普通にいけるなっていう確信を得られるとともに、
今、精神分析チャットにしてから、じわじわと回復基調にありますけれども、
一時に比べると、タイトルが良くないという毎回の込み出しのね、
昨日おとといといい、昨日の優しくない真実は、優しさがない真実は本当の真実ではないか、
これも全く受けていないらしいんで、
でも、負けないかなとは思うんですよね。
こういう長くて短い鉛筆みたいな、ポエムみたいなことをタイトルに書いてもですね、
なかなか受けるものではないと思います。
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非常に大量の複雑なコンテクストの上に立って、ようやく成り立つ表現なのでね。
でも、これは大事な言葉なので、タイトルにまでしてみたわけです。
いつもいつもこの観念で生きていけるわけではないんだと思うんですよ。
でも折に触れてこれをですね、
今日はその折に触れて思い出す話をしたいと思うんですけど、
3ヶ月チャレンジでやってることも結局そうなんですね。
ここで私が一生懸命精神分析について喋り、
精神分析の普及に努めているかのような顔をして喋っているのもですね、
別にこれにそこまで多大な効果が期待できているとは、
私は全然思わないんですよ。
インフルエンサーとかではないですし、
インフルエンサーであったとしても、
そうそう世の中をですね、
違う方向に邁進しているような方向性に、
多大な影響を一人で与えようなんてのは土台、
ドンキホーテでして、
現に精神分析家の人たちがいっぱいいらっしゃって、
そういう活動をされている中でですね、
なんでもない私がそんな話をしてみたところで、
そういうこともあるんねっていうところだと思うんで、
この話を私が懸命にしているわけは、
こういうのを普段からこういうふうに考えて生きていきましょうってことではなくてですね、
突然思い出すものの一つの素材として、
これが入っている入っていないかの違いを、
私としては意識しているから、
一生懸命これについて喋り考えておけばですね、
ふと出てくるというのを期待しているんですね。
サンガリスチャレンジでも精神分析の話を多大にするセッションもあれば、
ほとんど出てこないセッションもあるんですけど、
私が目論んでいるところはですね、
こういう話を普段からいっぱいしておくと、
不意に知識が正しい正しくないということではなく、
精神分析のカウンセリングをしているわけではさらさらなくてですね、
そうじゃなくて、不意にその人が生きづらくなった時とか、
あるタイミングでガーンとショックを受けるようなことがあった時に、
他に何も、他の精神分析的な考えが一切持ってないというのに比べると、
いっぱい持っているという方が、
いろんな意味で自分の情緒というものと、
共に生きていくしかないので、ガーンとなるというのは情緒なんでね、
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ショックを受けるというのも情緒ですから、
そういう情緒のエネルギーというものにやられてしまわないというか、
粉々にされてしまわないと言いますか、難しいんですけどね、
それが理由で例えば、自分の人生を荒らぬ方に向かわせていかないようにするとか、
何ならその場合も結構平安に保てるとかね、
これはちょっとgoodvirus寄りになりましたけど、
goodvirusも同じだと思うんですよ、私は。
普段から、私も最近goodvirusの話題そのものを、
このポッドキャストで出さなくなってきてますけれども、
出すところを今考えてるってところがあるんですけどね。
普段からフラザ野圭三さんの文章を読むなり、
お話を伺うなりしていると、これを大量に持っておくとですね、
なんか徹底的なというのではないんだけど、
純徹底的な人生において、
なんかちょっとキロっぽいところに来たなってときにですね、
大体最初はネガティブな気持ちとともにそういうところに入っていくわけだけれども、
違う景色を見る手立てが得られるわけですね。
普段から攻撃しない攻撃しないとか、一つ意識一つ意識とか思ってるわけでは、
愛による選択って常にこう思って、
食事の時もガーデニングの時もとかっていうわけでは私はないんですよ、別に。
おそらくそうなっているだろうぐらいになってるわけですね。
マジでその3ヶ月チャレンジでセッション中に、
これが一番大事な話だと思ってるんですけどね。
大事な話というのはこの今しているような話のことで、
ここで定員が起きていてここで長寿がかとか思ってないですよ、全然全く少しも。
普通にコーチングではないんだけど、
マイルドに仕事の仕事か仕事に影響を与える生活状況を、
その人にとってスムーズになるように解きほぐすっていう方向性を、
基本的には意識しながら、
意識しながらマイルドにセラピーしていく。
このセラピーはめちゃくちゃ行為な意味でのセラピー。
少なくとも精神分析じゃないし、精神分析的療法とかでも全然ないし、
なんなら心理療法でもありませんね。
そういうものをする、そのためにやってることがですね、
精神分析の話をするってことなんですよね。
そうすることで、それは全て情緒というもののもつれに関わる話なんで、
多くは病理に関わる話なんですね。
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それ自体は直接の関係がある場合もあるかもしれませんが、ない場合も多いわけですね。
でもそれについて突っ込んだ話をするという機会は、
日常生活にはほとんどないんですよ、今の時代は。
訳がありましてね、その訳についても話すんですけどね。
訳があって、そういうことをする機会は大筋ないわけです。
例えば、上司から、上司でもなくてもいいな、取引先なんでもいいんですけど、
辛辣なメールを、辛辣だと思えるメールをもらって、ガーンとなりましたと。
これに対して、例えばグッドバイブスというところのイリュージョンですってただ言われても、
多分あんまり心としてはケアされないと思うんですよ。
でも今の時代はそれすらないんですよ。
イリュージョンですってことすらないんですよ。
なんかこう、なんつーのかな、
ブラックなのかどうなのかとか、
パワハラなのかどうなのかとか、
それとも自分が悪かったのかどうなのかってこれぐらいしかないんですよ。
これじゃあ、大人社会をやっていくのには、何て言うんですかね、
素材が不足しているのにも程がある。
これでは小学生しかやっていけないじゃないですか。
小学生には単人の先生、これがスーパーバイザーに相当すると僕は思ってるんですけどね、今はね。
単人の先生と親がいるから、そして事態があじょうなほど複雑になってないから、
例えば小学生のやり取りは喧嘩が起こったとしても、そこに金銭は絡んでないんですよね。
金銭による解決みたいなものもないし、
ないから逆に生々しいやり取りが起こるんだけれども、
基本的には警察沙汰とかもなければ、いろいろないわけですよ、契約とかもね。
だからいいんですよ、なんとかなるわけです。
なんともならないケースもないわけじゃないんだけど、
大筋ほとんどの場合なんとかなるわけですね。
直接介入できる存在もいるし、それが許されてもいますから。
我々の生きてる世の中は二次家庭っていうことになるわけだけど、
当然そうじゃないじゃないですか。
どっちが悪いのかを即座に裁定してくれる人もいなければ、
いろいろと難しいわけですよ。
どっちも別に悪くないとかね、いろいろありますから。
契約上のなんとかがあるとか、どっちかが悪いんだけど、
向こうの方がご機嫌損なうと金銭的に厳しくなるから、
ここは向こう立てておかなきゃならないとか、いろいろあるわけじゃないですか。
こういった物凄い複雑になっているところに、
小学生がやっていたみたいな情緒上の解きほぐし方しか知りませんっていうのは、
困ると思うんですよ、私は。
現に我々はみんな困ってるんですよ。
僕もずっと困ってたわけですね。
主に人間関係というもので。
この問題に対してライブハックでいきましょうとかいうのは、
僕はそもそもその発想がおかしいと思うんですよね。
有効かどうかを議論する以前の話だと思うんですよ。
この前にもっと我々は持っておくべき手鶴と言いますか、
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知見というか知識があるはずだろうと思うんですよ。
ここでタスクシュートを投入するっていうのは良いかもしれませんよ。
良いかもしれないけれども、かなりトリッキーじゃないですか。
考えてみればですね、ここでiPhoneで何とかしましょうとかって、
そういうことができる人もいるかもしれないけど、
サーカスだなって思うんですよ、ある意味。
いきなりサーカスからやるべきではないと思うんですよね。
なんかここの間の飛躍がおかしいっていうのが、
多分私の元々あった問題意識、
このポッドキャストを始める前からずっと続いている問題意識の一つなんだと、
重要な一つなんだなって思うようになって、
これをやっているんだなということが分かってきたんですね。
やっているうちにね、
小学生がやるような人間関係調整能力というか調整スキルしか、
私たちは身につけてこないんですね。
あとはもう割とレッセフェールなんですよ。
自由本人的に中学、高校、大学と社会人とどんどん複雑になっていくんだけど、
基礎的なことはどんどん我々は情緒的な扱いについては知らない。
情緒なんて言ってることは、
あれですよ、いい大人になったんだからお互いがきちんとしましょうとかは、
割とそういうスキルは伸ばしていくんですよ。
そうじゃなくて、その時に持ってたモヤモヤはどうなるとかがスルーされてるんですよ。
考えても仕方がないでしょうぐらいで置いていかれてる感じがあるんですよ。
で、次の瞬間になるといきなり幸福代飲みましょうになる。
これってものすごい行動ですよ。
情緒的なところに薬物を入れることによって調整をかけるっていうのは、
薬をきちんと飲めば良くなるんだみたいな、
これって受け取った方はやっぱり小学生から変わってないじゃないですか。
それはビオヘルビーを飲めば腸の調子は良くなるから、
心配いらないからねってお母さんに言われてるレベルと何ら変わってないですよね。
だから一生懸命頑張るわけですよ。
夜の1時まで働きましたとか、
でもその割に何も伸びてる気がしませんとか、
上司をめちゃくちゃ詰めてきて取引先も酷いですみたいなことがずっとありながら、
この話はすごい高度なんですよ、情緒的には。
で、なんだけども、社会人だから頑張ろうよとか、
昔はもっと酷かったブラックガーとか、
そういう全然高度じゃない話が情緒的に与えられるだけなんですよね。
家族との間でお互いやさしくしましょうみたいな、
それは小中学校にも書いてあったような話じゃんっていうレベルから一歩も先へ進んでなくて、
ついに感情的なもつれがほぐせなくなって、
体が動きませんとなった瞬間に三感性の構図体とかいう、
それがどのように、どういうプロセスでどうなっていくのかというのも一切わからないのがポンと与えられて、
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これでなんとかしのぐみたいな話になるんですよ。
間が空いてるんですよ。
この間はもっともっと埋められる知見が実はあったわけですよね。
連綿と1900年ぐらいから始まって、
1900、特に2、30年から一気に花開いたカウンセリング文化、
これを精神分析と呼ぶんだけど、
から先へいろいろなものが分化してつながっている、いろんなものがあるんですよ。
ここのことを我々はほぼ知識として持たずにくるんですよね。
これっておかしいわけですよ、僕の感じからすると。
今では正式と、いわゆる臨床心理師と公認心理師を除くのをほぼ野良扱いみたいなところ。
もうちょっと他にあるんだけど、ほぼ野良扱い。
私なんかは野良もいいところですよね。
世が言うなら、しょっぴかれるんじゃないかぐらいのことをやってるんじゃないかという、
幸いにして今はいろいろなところがもつれているので、
わりと私ものびのびとやれる。
インターネット例明記と似てるんですよね、これはね。
これでも何かに似てるなと思った。
僕は野球の世界好きだったから、
アマチュアとプロの交流が禁じられてた時代の野球と似てるんですよ。
すいません、今はなし脱線してますけど、
今はあれ解禁されたから一郎とかが普通に女子高生とかに野球を教えちゃってますけど、
あれ絶対できなかったんですよ。
プロに関わった人はアマチュアを教えちゃダメみたいなね。
特に現役のプロ野球選手とかも絶対ダメみたいなのもあって、
この交流が禁じられていた時代が結構長くあったんですよ。
これと似てるなみたいな。
プロフェッショナルで正式の臨床心理師が野良のカウンセリングを指導するなんて、
表沙汰にできない。
プロ野球とかと違って別にそういうのに対する何か法的根拠とかはないですよ。
多分あれをやると、その界隈でやりにくくなる何かが絶対働いてるに違いないって、
僕はなんとなく想像はつくんですけどね。
でもこれ想像なんで。
しかもこれが何だろうな、
法的に徹底的に禁じられてるとは思えないんですよ。
でも多分タブーに限りなく近い、ひたすらグレーな感じです。
昨日ちょっとあるセッションでボーダーラインっていう言葉がすごくホットになったんですけど、
まさにボーダーなんですよ。一線があるんですよ、そこに何か。
政治分析はそうなんですよね。
素人がやっちゃいけないんだみたいな。
だから素人による分析みたいな。
僕あれ読むとですね、フロイドは果たして本当にそんな風に考えていたかなっていうのが、
あの人の書くものと考えてることっていうのはすごく微妙ですからね。
読んでみると、言われているほどこれ原稿かっていうのがすごい気になってくるような、
僕原文とかじゃ読めませんからね、読む気がないというべきですね。
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仮にフロイドがどう考えていようとね、やっぱり100年前の話だから、
今は同じルールが適用されてるわけではないですし、
いくらフロイドとはいえです。
今言ってるようなことが全て僕は私たちの情緒に強い影響を与していると思って、
今言ったようなことを含めてですね、思うんですよ。
例えば間違いなくもう私の目から見ればですね、
サンチャレに限らず、例えば日本語で話した中でもセミナーにいらっしゃってる方とか、
昔の話ですよ、2013年の頃にザカンにお目にかかる人の数も多かったですから、
1セミナーにつき3,40人という方がいらっしゃってたんで、
この方はライフパックとか仕事術じゃなくて、いわゆるカウンセリングだろうっていう、
実際にそういう話をすることもあったんですよ。
相談を受けるとかね、私に相談する筋かなみたいなのを考えながら会ってて、
でももうパッと適応障害っていうのはすぐ言えるっていう、
アメリカで学んできた育てな知識でも全項目に当てはまっちゃうみたいな、
そんな風にならないですよやっぱり、そんなに簡単には。
なのに何かこう、じゃあ残業なしで仕事してみるかみたいな話になってて、
そういうことなのかっていうね、2013年って本当そういうある種の風かいきだったと思うんですよ。
今だったらもうあれは信用ないかって話になるんだけど、
当時はまずそうは普通はならないみたいな、
なぜなのかということよりも、もう誰もそれを望まないみたいなね。
そういう人事部の上司とその人と、なぜか私と社長さんみたいな、
4人で話してるみたいなことすらあってですね。
話していて、じゃあ残業なしでやってみるかみたいな会っていう感じで、
なんかこうそういう僕がね、恐る恐るちょっと精神科みたいなのはっていう感じなんだけども、
3人ともいやいやそれは、なんかこうそんなところに行かせるわけにはいかないみたいな、
なんかこう親心としてダメみたいな、本人ももう絶対嫌ですみたいな、
あのなんかこうイメージが全然違うんですよね。
なんていうのかな、これは精神療法をやってる人からするとショックかもわからないですけど、
これ聞いてると思ってないですけどね僕はね。
なんかもう鉄格子のところに閉じ込められて電気ショック与えられてみたいな、
うつにこう電気療法みたいなのがアメリカとかにもあったしやってないかったですよ。
私の見聞きする範囲内ではどこかでやってたかもしれないけど、
でもそのなんかもう鉄格子みたいな、その鉄格子にも電流が流されているところに閉じ込められるみたいな、
に近いイメージですよあれは。
いやそんなのは進めないだろうと思うんだけど、
あのやっぱり今時代変わったんですよ、
ここ10年で大幅に。
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そういうふうに割とこう普通にみんなが信じているっていう世の中も普通にあったわけですよ。
同時に高時代とかがすごい流行ってた時代でもあるんでね、
だから非常にわかりにくい話だなこれはっていう。
で別の感じだといやそんなの言っても聞かないでしょみたいな。
そういうなんかこれもなんかやっぱイメージって怖いなって思うんだけど、
なんかかわいいかやおさんのグリム堂みたいなの読み聞かせさせながら、
なんか横でギターを弾いてくれるカウンセラーって、
なんじゃそりゃっていう感じなんだけど、
なんかそんなことやったって、
そんなのやらせると考えないでくださいよみたいなノリで、
なんかこう解きほぐすって厄介だなっていうふうに私は当時思いましたね。
いろんな方とお話ししたってことですよ。
みんながそう信じてるって話ではもちろんないですよ。
そういうふうに思われている方が結構普通にどんどんいらっしゃっていたから、
新聞積的支持的心理療法がどうたらこうたらって話にここまでつなぐには、
当時からそういう発想はすでにあったと思うんだけど、
そこまでつないでいくとなってくると、
もう2日ぐらいレクチャーしないとみたいな、
でも私に許されてる時間は15分ですみたいな話なんで、
いやまあそうですねみたいなことにしかならなかったんですよね。
そもそも私が当時してた話だってタスク修道ですからね。
全然関係ないわけですよ、ある意味ではね。
私は大いに関係があると思うんだけれど。
今日はこのお話のついでにですね、いろいろ出たんで、
昨日Good Vibes TVの収録でクラゾンさんと喋ってきたんで、
いろいろ刺激されてるんですよ。
そうすると頭が拡散していくんですね。
放散って僕は呼ぶんだけど、放つに散じる。
散っていくんですよね。
だから話があちこち散ってるんだけれども多分。
今日はですね、この話のついでにナルシシズムについて、
もう一回整理しておきたいと思うんですけど、
多分これはナルシストって言葉がいけないんですよ。
あの言葉があるために、
いや私ナルシストじゃないしみたいになってしまうんですが、
そういうことでは全くないですね。
特に精神分析の世界だよな、
でもカウンセリングの世界にも出てくるから、
必ず意識して欲しい言葉があって、
一児と二児。
要するに一児関数二児関数みたいな一児と二児なんですけど、
一児と二児って出てきたら要注目なんですね。
二児ってのはダメ。
ある意味ダメなんですよ。
二児の病理っての。
一児ってのはしょうがないよねってノリなんですよ。
だから一児って一児家庭ってのは誰もがそこ通るよってことなんですよ。
それがどんなにダメそうに見えたって、
一児家庭というものは精神分析では少なくとも非難に値しないというか、
非難しちゃダメだよねって話なんですよ。
例えば私たちはどんな人でも、
まず確実に言えると思うんですけど、
どんな人でも泣いてたんですよ。
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そうですよね。
ここを批判されても困るじゃないですか。
泣くってのは一児家庭じゃないですか。
多くの場合ね。
一児家庭において私たちは泣いてきたわけですよ。
だから人前で泣かないみたいな文化もあるかもわかんないけど、
基本的に赤ちゃんは人前でも泣くんですよ。
一児家庭だから。
これが一児なんですね。
だから一児なんたらってついてきてるってことは、
それは本能とまでは言えない。
つまり生まれつき絶対だとまでは言えないけど、
ほぼ確実にその道はみんな通るよって言ってるわけです。
カウンセリング的には。
一児ナルシシズムって言葉があるんですよ。
これはナルシシズムを通らない人はいないよってことですよ。
だからみんなナルシシストですよってことですよ。
二児ナルシシズムって言ったらこれは病理に近いわけ。
つまり二児っていうのは意識すれば避けられるってニュアンスがそこにはある。
大人だったらそうしないみたいな。
だから大人は人前でいきなりうわーって泣かないですよね。
二児家庭に生きてるから。
でもだからといって泣かずにはいられないっていうシーンもあるじゃないですか。
そしてそのシーンがその人にとってどういうシーンであるかわからないじゃないですか。
例えばうちの親父なんて厄斎映画見て泣くんだけど泣くんですよ。
私厄斎映画とか見て絶対泣かないですよ。
だからといってつまり父親には一児家庭に戻る。
これを対抗と呼ぶんだけれども自我心理学的にはね。
でも対照関係論では対抗とは言わないわけですよ。
二児家庭のポジションにいる人も一児家庭に。
つまり両方持って我々は二児家庭に来たからって一児家庭を卒業するわけじゃないんですよ。
対照関係論的に言うと。
ここの辺が自我心理学と。
自我心理学やそういう発達ラインを意識する世界と違うんですよ。
エリック・エリクソンが一番私は典型的だと思うんですけど。
70になるとこうなるとか80になるとこうなるとかそういう。
いちいちステップを踏んで卒業していっちゃうわけですよ。
そうするとお前は人前で泣かないか絶対二度と泣かないと言えるかみたいに思っちゃうわけですよね。
僕みたいな人間は。
そしてそれに対して自我心理学的な世界では対抗とか言う子供は子供に帰っちゃうんだよ。
赤ちゃんに帰るんだよみたいなノリがあるんだけど。
僕はそれに納得がいかないわけですよね。
そうじゃねえだろって思うわけですよ。
人によってそういうのって違うじゃないですか。
ポジションが変わるんだ。
ポジションが変わるんだっていう方がポジションチェンジってのはね。
あれはあのそれこそ大谷翔平さんはピッチャーになってみたりバッターになってみたりしますからポジション変わるよねっていう。
一時過程のポジションはポジションで大事なわけですよ。
でここでいろんな意見が出るからナルシシズムってのは特にややこしい概念で。
一時ナルシシズムってものをまず言っている人フロイトも言ってるんですね。
一時ナルシシズム。
ただこれはナルシシズムオッケーと言ってるわけじゃなくて一時ナルシシズムってのはあるから。
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そこ通るから。
まあ我々は一時ナルシシズムの心理状態というかそういうまあコンステレーションと言ったらいいんですかねこういう時に。
そういうポジションに入ることもあるよねと。
ヤクザ映画見て子供のように泣く父親とかいたりするんだけど私はこれ見ていいなーって思うという。
でもそれは人に様々で私も私でいわゆる類戦が緩む瞬間は多々あるわけですよ。
それは一時過程に戻る瞬間ってものがあると。
それはおかしな話ではないという話なんですね。
だから私たちが一時ナルシシズムというものが仮にあったとすればですね。
あったということはもうみんなそこを通過してきているわけだからそういうふうになることは別に不思議なことではない。
だからナルシシズムというものはベースに持っちゃっていて、そこには万能感というものがあるわけなんですね。
一時ナルシシズムには万能感がある。
いや俺は絶対生きていけるよ。だっておっぱいがあるからって。
このおっぱいっていうのはもうあるもの。すでに絶対的に。
でコフートなんかはもっと一時ナルシシズムみたいなものがもっといいものが健全なものなんだみたいな言い方を。
健全なナルシシズムみたいな言い方は古いともしているのかな。
それが独特の、例えばメラニ・クラインみたいな人は一時ナルシシズムなんてないんですみたいなことを言うわけですよ。
意見が割れてるわけです。
彼女に言わせると二次しかナルシシズムはなくて、だからナルシシズムはすべからく病気なんですよ。
クライン的に言うと。クラインって厳しいなって感じが僕は受けるんですけれどもね。
まあでも僕これはですね、クライン派ってでかいからそれ自体としてはでかいなと思うんだけど。
でもクラインに相当影響を受けていて、ほんど弟子くらいなウィニコットは一時ナルシシズムOKみたいな。
全然言ってることが違うんで、だから刃物になったりするんですけどね。
一時ナルシシズムOKって言ってるわけじゃないけれども、でも明らかに彼は万能感というのがそこまで否定的じゃないんで。
やっぱりこの辺って少なくとも議論の余地はあると思うんですね。
そうでないとやってられないみたいなことってあるわけじゃないですか。
それにこの辺って本当に抽象的な議論をいくらしてても無駄な感じがするんですけれども。
やっぱりですね、部屋清潔にして、あんまり汚いもの置かないようにしてっていうのはある意味万能感なわけですよ。
自分の都合のいい空間を作り出しておいて、いや俺ここで快適にやってますからOKみたいなのって。
でも普通じゃないですか。極めて健全な感じがするわけですよね、そういうのって。
だから自分の生きていく空間を整然とさせておいて、自分にとって都合のいい世界に。
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虫とかが入ってきたらコックローチをかけるみたいなのって本当は相当ナルシシックですよ、ある意味。
現実を俺に合わせろって言ってるわけだから。お前入ってくんなみたいな。
しかもこれといった害もない虫を強力な薬で殺すみたいなのってすごくナルシシスティックなんだけど、一生がないじゃないですか。
だからそれに対して完全に現実を受け入れて、自分のナルシシズムというものを対して基本的には認めないみたいな。
虫と私は共生するみたいなね。
あるんだけどそういう生き方も。別に僕はコックローチかけてるから病気だとは思わないわけですよ。
この辺はクライン派の人たちっていうか特にメラニ・クラインとか本当どう思ってたんだろうと思って悩み始めるんで僕は本読むわけです。
こういう話をするってことがですね、クライン本当はどう考えてたかが分かる点ではなくて、
こういう話をするってことが私たちが情緒という問題を扱うときには必ず出てくるはずの割とこういろんな考え方があるんで、これが僕は欠かせないと思うんですね。
そしてこれが一番あるのが僕の中では対照関係論と自我心理学が大論争時代して、論争した時代のあの論争を読む中に出てくるって思うんですよ。
だってこういうことについてかなり頭の良い大人たちが真剣に議論し合ったんで、一時ナルシズムはあるんだないんだとか、そういうナルシズムはそもそも健全なのかどうなのかとか、
万能空想に良い大人が浸っているのは良いことなのかそうでないのかとか本気で喋ってたから意味あると思うんですよ。
万能空想に浸りますよ僕らは。
例えばその野球場とかあれ万能空想の、ディズニーランドだって思いっきりそうじゃない?万能空想を具現化してるわけですよ、プラスチックとかガラスとかを使って。
その中に入り浸ることによって、でも何か幸せな気持ちになれるみたいな、つまりそれをどう捉えるかなんですよね。
ほとんどそれをやろうとすると、四六時中ゴーグルつけてる人みたいになるし、もしそれが破られると、四六時中怒ってばっかりいる人になっちゃうわけですよ。
権力を持ったナルシシストみたいな人っていうのは、つまりずっと怒ってるはずなんですよ。
鏡見てうっとりしてるってことはありえなくて、だって現実が自分の望む通りに常に動いているってことはありえないわけだから。
もう極端に言うと、ある種の状況のスターリンとかヒトラーってそうなってましたけど、お前なぜそこを今歩いてる?死ね!みたいな、そういうノリになってしまうわけですよ。
自分の情緒に世界が合ってくれてるかどうかってことを誇りに追求していくと、合ってないことばっかりじゃないですか、普通に考えても。
だから鍵を閉めて家を出ると。
でも鍵閉まってるかどうか、自分の心の中の不安と現実の鍵が閉まってるかどうかの状況が一致してるかどうかを完璧に認識する方法はないわけですよね。
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その時に、例えば召使いが鍵を閉め忘れたから無知で打つみたいなことになるわけですよ、権力があれば。
だからこのナルシシズムというのは、周りにとって困るから病理だってことになされやすいんだけど、我々だって多分そういうところはありますよねっていう話なんですよ。
ウィニコットとか、コフートはどういうつもりでそう言ってるのかわかんないけど、そういう感じなんですよね。
だからナルシシズムを極力認めようね、認めあおうね、みたいな感じなんですよね。
で、このナルシシズムを極力認めあおうねという、クラインさんみたいにナルシシズムをとにかく脱しなさいと、克服しなさいと。
それでこう、あなたは今生きているだけでありがたいと思いなさいみたいな。
ああありがたいです、みたいな、そういうのが大人の態度なのよ、みたいなノリがあるんですよ、彼女が言ってることには。
どのくらいこれを信じてたのかなと。
だって病理の人がやってくるのは確実なんだから、これをとことんお説教するみたいになるはずはないんですね。
それで事態がなんというか収集するわけがないのは彼女は間違いなく知ってたはずなんで。
結局どうやって臨床やってたんだろうって話にだんだんなっていくわけです。
ここを読むわけですよ、私はね、読みたいと。
結局リアルにはそんなことは僕には関係ないですよ、はっきり言って別に。
だけれどもそこを読むことによって、結局この問題に大人が真剣に向き合うと、
何を言い出すんだろう、あるいは何を言わないんだろう、何をするんだろうとか言ったことが非常に気になってくるというか、
気にしないわけにはいかないわけですよね。
だからいい大人がそれこそですね、50しかない掲示板に陰の絵をいっぱい貼っていくっていう、
ああいうものは完全にナルシズムの世界とも言えるし、万能空想的な世界。
そもそも選挙というものに我々民主主義の社会に生きてる人はおおむね万能空想を抱いてますよね。
1になった人に長をやらせておくとかほぼ間違いないみたいな、
それはどういう根拠に基づくのかともかくとして、
そういうふうに我々は万能感を抱いているわけですよ。
抱かなかったら、それよりいい方法が実は独裁主義の国でできましたってことになると、
だいたいあんまりみんないい気持ちにならないですよ。
そういう話、ファクトフルネスって本に書いてありましたけれども、
意外とすげえ伸びてる国の多くは民主主義国家じゃないぞみたいな、
そういうことがあっさり書いてあるんだけど、
ああいうのを読んで気分が良くならない人はいっぱいいるはずなんですよね。
でもそれは万能感と自己愛ってものが働いてるからこそなんですよ。
じゃなかったら現実がそうであります。
ああそうですかっていいはずなんですけど、
そういう統計の本っていうのはいろんな意味で人の感情を揺さぶるんですよね、実は。
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ファクトフルネスなんてファクトフルネスだから、
ファクトしか書いてないんで、
ファクトしか書いてないものを人が嫌がるというのは、
つまり万能空想を持ってるってことじゃないですか。
万能空想を持っていて、
自己愛というものがすごく傷つけられることを嫌がるという意味になりますよね。
それはナルシシズムってものの態度だと思うんですよ。
これをどう捉えるかについて、
僕はフロイトをはじめとしてですね、
一時ナルシシズムはあったに違いないと僕なんか思っちゃうんですけどね、
空想ですけどね、
これはあくまでも私のおっぱい吸っていて、
おしっこもうんこも垂れ流しばっくりで、
でも自分は万能だって思っている時代はきっとあった気がする。
気がするだけですけど、覚えてるとかじゃないんでね。
クラインに言わせるとそんな時代はなかったってことになるんだけど、
でもどっちにも一理あるんですよ。
クラインに言わせると、
いいおっぱいと悪いおっぱいがある世界が最初からあるんですよね。
対照の世界が最初からあって、
で、その悪い方は排出して、
自分から分離して外に追い出すっていう最初からそれがあるんですよ。
だから最初からこんなような心理状態に入るわけですよね。
クラインの世界で半分きり捨てるんだけど、
半分じゃないかもしれないけど、
悪い部分は自分から排除するんだけど、
だから私はいい子っていうか人生いいものっていうふうに思えるんだし、
万能空想に浸っているウィニコットみたいなのも、
ここからどんどん世話を供給されるから、
やっぱり私はいい人生って思えるんだし、
こういうのがないとやっていけなくなるよねって言うんでは一致してるんだけど、
捉え方が違うってことですよね。
で、ウィニコットに言わせれば、
その万能感ってのは何らかの形で継続していく。
多分僕が思うに形は複雑になるし、
痩せ細っていく気がするんだけど、
でも何らかの形で、
なんか私なんかの場合はやっぱりこう、
ロッテとかの貯金が10ぐらいになると万能感が得られるんですよ。
こういうやり方を取るわけですね。
多分自分をヨシー監督とかに投影するんでしょうね。
知らんけど、多分するんですよ。
そういうふうに、いわゆるこう、何て言うんかな、
意向対象ってものを使って、
で、時々球場とかに足を運んで、
いや俺万能だわみたいな、
そういうふうには自覚しませんよ。
もちろん全く。
ひたすら応援してるんだけど、
勝つとやっぱり万能感が増す。
これはもう確実にありますね。
これはもう明らかにナルシシズムの世界なんですよ。
これをやるってことは、
負けた時の現実の価値が下がるから、
これを出す価値観ですよ。
起こるんですよ、そういうこと。
優勝すれば理想化されるわけですよ。
まあ日本いい国だわみたいな。
それは相当おかしいんだけれども、
あの、多少はありますよ。
で、ウェニコットリューギフト、
それは生きていく活力として割と大事です、
みたいな感じになるし、
完璧に破られると、
今日はトラウマで大変なことになります、
みたいな話になるし、
そうじゃないんだという。
ややクライン的に言うとそうじゃない。
39:00
で、まあシビアな状況になってくると、
クラインの言うことって正しいなって思うんですよね。
自分の中から悪いものを排出していますよね、
私たちはみたいな。
そういう悪いものを排出して半分ずつにしていくと、
だんだん自分は痩せ細っていくし、
その悪いものは実は全部自分だったのかもしれませんよ、
みたいな。
この話は本当にしょっちゅうしてますけれども、
やればやるほど、
心が傷ついている人には過酷な話になってしまうので、
絶対にそうなるので、
あんまりやらなくていいときはやらない。
私は今日はあんまりそれをやりたい気分じゃない。
あれですよ、要するに。
ハーハラ上司が悪いのか、
自分が本当は悪いのか的な話になったときの話ですね。
この話が明らかになるシズムの話と絡むと、
僕は信じているし、
そういう側面がないことってありえないと思うんですよ。
じゃないと、上司すなわち悪魔ってことになっちゃうんだけど、
それはどうかと思う。
この話始めると、
なんか傷つきそうじゃないですか。
僕だって傷つきそうだって思いますもん。
だからむやみにはしなくていいなって思うんですよ。
第一において、別にですね、
我々はフラインの言う通りに考える必要って別にないんですよね。
いいとこ通りでも全然いいと思うんですよ。
人生長いんで、
この発想こそ正しくて、
それに向かって自己を統合していくことが、
まず必要なんだってことはないと思うんですよね。
別に、なんていうのかな、
僕は昨日クラゾンさんで会ったから、
いきなりこれを言うのも怪しいんだけど、
別に攻撃的になってもいいと思うんですよ。
グッドバイブスを知っていればってことなんですよ。
すごい変な言い方になるんだけど、
普段からずっと精神分析だの、
グッドバイブスだの、
意識してその抽象的な原理を
お経のように唱えて生きるっていうことは
しなくていいような気がするんですね。
ただ、どこかでぶつかる何かに、
その時にそれを思い出せるものとして持っておく話を
元に戻しているんですけど、
その時にナルシズムいっぺんと音が鳴ってくると、
時代においては回避と抑鬱と
総的防衛をぐるぐる回るっていうことになりやすいので、
私たちの今の時代はね。
なぜならば、さっき途中言った通り、
情緒を扱う知見が足りてないからです。
僕らあまりにもX事情とかそういうものについて
詳しすぎてそっちに大量の知識を導入してしまったために、
関係大名詞とかについてすごい詳しいわけですよ、私たちは。
だから、その分何かがそっちに時間を回していってない部分があって、
それが大体において情緒に関わることの、
特に知識に関する部分なんですよね。
あるんですよ、いっぱい。
42:00
ほぼほぼそれらは役に立たないものとして捨てた。
代わりに我々は、リスパがあるとか、
三感規制の酵素剤とか吐き汁とか、
ああいうものが役に立つんだって信じることに決めたんですよ。
錠剤飲めばこと足りるなら、非常にラフじゃないですか。
アンハラン寿命史に詰められても錠剤1個飲んでおけば元気になれるとか、
すっごい飛んでますけど間が。
でも楽は楽ですよね、本当にそれで済むならば。
でも、私はそれに対しては実はみんな心の底では
相当抵抗を持ってしまっているなっていう気もするんですよ。
割と、割と抵抗なく今受け入れられているのは
酵素剤ぐらいなんじゃないかって気がするんですよね。
それすらも相当自体があからさまになって
初めて受け入れるっていうケースの方が自然なんではないか。
依然として。
そしてそれ以外はどうするんだと。
普段からものすごい腹が立つんですみたいなのは
鬱ではないですよね。
鬱のケースもあるんだけど、鬱ではないと思うんですよね。
むしろ相的にすごく腹を立てている。
ナルシシズムみたいな感じですっごく心が傷ついていて
今にも引きこもりたいんだけど、しょうがないから出ていって
基本的には社会に対しては復讐心を燃やしているみたいな
近くないかもしれませんけどね。
でもそういう状態で、そういう時に
ここを不安薬っていうのはおかしくないっていう感じが
多分自然の感覚としては名前から受ける印象からしても
すると思うんですよね。
そういう時に僕はナルシシズムって言葉を知ってるだけで
全然違うんじゃないかと、本人にとっては嫌かもしれないけど
でもナルシシズムってのが、一時ナルシシズムってものが
この世にあるっていうのを知っていれば
みんな同じなんで、ある意味では。
ましてその発達ラインという、そういうこう
孔子が言ったような話を受け入れなければ
僕は受け入れてないんですよ。だから始終で不悪とか
あれは孔子がそういうつもりなかったかもしれないけど
すごく僕はエリック・エイクソンと似てるなって思うんですよね。
なんかこう、ノリを超えずとか
そんな風にはならないと思うんですよ、人は。
そして何からも卒業しないと思うんですよ。
泣く時は泣くし、漏らす時は漏らすんですよ。
で、それで何がいけないのかが
よく分かんないんですよね。
だから僕ら二次家庭だけで生きるなどという
その方がよくないと思うんですよ。
二次家庭だけで生きるなんてね。
不入れでするかそうでないかの違いじゃないですか。
結局のところ。死ないようになるっていう日は
永遠にやってこないわけで。
三次家庭はないわけで。
多分その時は生きてないんですよ。
だから僕ら生き物であろうと思ったら
一次家庭がベースになければ
明らかにおかしいし
機械になってしまいますからね。
その方がいいみたいな感覚を持つと
脅迫的になってくんだと思うんですけども
僕はその方がいいとはさらさら思わないので。
基本的にどんな動物だって
一次家庭で生きてるように見えますから
二次家庭で生きるっていうのは
そもそもすごい大変なんで
45:00
非常にしょっちゅう頻繁に
一次家庭に戻るというのは
これを対抗と呼びたいとは思わないですよね。
一次家庭のせいぜい温存ですよね。
いいと思うんですよ。
別に一次家庭を温存してても。
ただ一次家庭だけで生きることにしちゃうとか
そうすると多分
白外妄想的になっていくんですけど
あるいは一次家庭を
最大化するために生きるとか
いうふうなことをすると
多分すごい無理が出てくる。
多分この無理を生きづらさって
よく最近では言われてるんじゃないですかね。
それは僕は生きづらさというよりは
生きづらさって言っても
ただ生きづらいって言ってるだけなんで
ナルシシズムっていう方が
これはナルシストと関係ないですよ
っていう言葉なんですよ。
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