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おはようございます。
堕落人に贈る精神分析チャット、第1027回をお送りします。
7月29日午前の朝の7時45分ですね。
もともとこのポッドキャストはグッドモーニングボイスと言っていて、
その前はさらにその前身がグッドモーニングバイブスと言っておりました。
これは、倉澤慶三さんのグッドバイブスを実践中の私が朝、思いついたことを喋るというそれだけのポッドキャストだったわけですね。
それが長らく話を1000回言ってますから、トータルでは。
しているうちに毎回毎回グッドバイブスの話をするとネタが届かなくなり、
なんかもう千葉ロッテの気のひどい負け方しましたね。
6対0から6回一挙に7点取られて逆転されるというとんでもない負け方をしまして、
こういう話をしているうちにグッドモーニングバイブスじゃないじゃんって自分でも思い始めて、
ボイスにすればVは変えずにGMVね、グッドモーニングボイスにすれば名前変えずにそれっぽくなるということで、
ボイスにすればロッテの話をしても別にボイスだからいいよねということで、
長らくそれで1000回を超えたんですけど、
途中でグッドバイブスの強化で私が自分の中で縛ってきたですね。
これについて喋るのはやめようと縛ってきた精神分析の話を、
いや、あるがままでいいからということで僕の勝手にあるがままに喋るようにしていたら、
めちゃくちゃそっちの方で仕事をしていきたくなり、
しかもその方が滑らかに進むということがだんだん分かってきてですね、
精神分析チャットになっちゃったというものです。
といういきさつがありますからね。
まさかいない、分かんないですけど、
誰も知らないわけではない、聞いてる方の何名かは知ってますけど、
全員は知らないわけですから、
現在Spotifyによりますと潜在的には200何十名の方がリスナーさんとしていらっしゃってくださっているわけらしい。
これは大変ありがたいわけですが、
これをもって心理学の勉強に当てようとか、
精神分析の臨床心理の試験対策にしようとか、
間違ってもやめた方がいいと何度も言いますが、
これはこの知識が正しいという保障は全くどこにもありませんからね。
私はいわゆるノラカウンセラー的な人間であり、ビジネス著作家であり、
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つまり公的な資格という意味では本当に全く何者でもありません。
スキーのライセンスが取れそうになったことがあるというのが公的な資格に近づいた最初の経験で、
しかもそれ取れてないし、
あとは英研が2級で、
これは公的な資格に入れていいのかな、他に何にもないですからね、私ね。
あとはもう大卒ってだけですよ、日本においてはね。
アメリカにおいても一応大卒なんですけれども、大卒なだけですから本当に。
何にもない人間なんで。
昔これをちょっとネタに生きていこうかなと思ったことがあるんですよ。
何にもなくても生きてはいけますというね。
資格欲しいっていうお気持ちはよくわかるし、
別に資格を今は取らんとしているのに、
佐々木は何でもなさそうでも大丈夫だから資格やめようとかはしない方がいいと思うんですよね。
資格を取った方がいいと思いますが、
どうしてもそういうのは向かないんだという方も、
やっぱり世の中広いし、人もいっぱいいるんでいるわけじゃないですか。
資格ゼロでも専門性がなくても本は書けるし、何でもできます。
いやそういう生き方本当やってるやつ見ると腹立つよねって方もいらっしゃるかもしれないけど、
腹立てるほど私は人生ですごい良い目を見てるっていうわけでもないんで、
そこも多分安心していただいて、何が安心なかわからないですけど、
結構だと思いますが、
とにかくなんとか食っていくってことなら、
いろいろあると思うんですけど、なんとかなりますね。
いろんな手をあれこれあれこれあれこれ駆使すればなんとかなるものなんですね。
それが僕は40代ぐらいでなんとなく理解するようになってから、
生きるの上でですね、生きていけないんじゃないか恐怖はなくなってきたんですよね、さすがに。
生きてはいけるなという、それだってわからんのですけれども、
なんとなくでもそういうふうに20代の頃とか本当僕めっちゃおかしいなぐらいその辺恐怖していて、
生きていけないだろう自分じゃみたいな、だから自分は、
昨日ジェームスさんがくしくも変、同じような変なことを言ってたんですけど、
27歳で人生終わる説。
あれなんか音楽やってる人27代か9代かちょっと忘れてたんですけど、
聞いてて音楽やってる人はそういうのがあるらしいんですけど、
僕は全然違う理由で27ぐらいまでしか生きられない説を勝手に、
それはあれですよ、ノストラダムスの大予言が当たるとするとその年でお亡くなりになると、
向かい物を全く信じないくせに、とりあえずそこにちょっと賭けてたところがありまして、
1999年まではなんとか生きていけるなみたいな、そういう考えでいたんですけど、
あっさり2000年を迎えて、だから僕は多分ですね、
わりと恐れおののいてアメリカとかに逃げちゃったわけですね。
それが留学になっているわけですよ。
多分そうなんだ、少なくともそういう面があるなと思います。
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頭悪いんでね、僕はね、決して頭のいい人間ではないんで、
そういうろくでもないことばっかり考えては、
ろくでもないことをそのまま行動に移してしまうんですよね。
行動家ってやつですね。こういうふうに行動家を適当に喋ってるんで、
これを何かの資格取得に役立てるというのは、多分難しいと思いますから、
ちゃんと教科書を読んだほうがいいかなと思いますね。
で、臨床心理とか個人心理師、わからないですけど、
僕全然わからないです、そういうことは。
受けるという方がいらっしゃったら、それはすごい素晴らしいことだと思います。
ただこれを聞いても、それのプラスにはそうだな、
その単語が出てくるというのをしょっちゅう耳にするみたいなのも役に立つかもしれませんね。
何かと日露戦争のマニアックな話を従う人っているじゃないですか。
そういうことが日本史の何かに役に立つかどうか疑わしいじゃないですか。
東学道の乱だけはやたら詳しいみたいなね。
僕もそういうところがあるんですけれども、しょうがないと思うんですよ。
三国志ばっかり読んでたみたいな話で。
そういうところでは若干の役に立つかもしれないけど、本当そういうのって若干ですからね。
そんな感じで、何を言ってるのかよく分かりませんが、そんな話でした。
来週8月4日の日曜日に渋谷でタスク集と手帳術セミナー第3回を行います。
ここの中で、まだまだ浸透してませんけど、私の中ではここで展開していく、私の役割ね。
他に認定トレーナーさんが数名いらっしゃるし、全体で作っていく回なんで、
基本アナログ、タスク集と手帳というものもベータ版ながらできてますから。
アルファ版かあれは。できてますから。
そういうものを使っていくっていうのもありだと思うんですけど、
私はここではもうタスク集とクラウド2を中心にしたノート術というのを、
これからじわじわとやっていきたいと。
また変な混乱を界隈にもたらすだけなんじゃないかと思われるかもしれませんが、
僕はこれがノート術では一番利にかなってるって最近はもうほぼ確信している。
これはタスク集とクラウド2だけを使いましょうって話では別にないですが、
大事なものはそこに集約できるっていう。
そして大事なものはここからおそらく見つけ出すことが容易にできるようになっていくというふうに私は思っているんで。
エヴァノートなり何なりが併用ノーションでもいいですけど、
されるとは思うんですよ多くの場合。
メモに隠ってきてもいらっしゃるでしょうから。
それはそれとしてタスク集とクラウド2はノートの中心になり得ますよということを、
ここでは展開していきたい。
私のこれは一つの役目だなと。
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もう一つはこれはタスク集との話になっちゃうんですけど、
そもそもExcelベースで始まったタスク集とというものの集大成の一つがタスク集とクラウド2だなと。
もう一つが僕はライトだなというふうに思っているんですけれども、
結局ここらへんに今は最終的な範が集まってくる。
なぜならばどのガジェットからでも使えるからですね一つは。
そして一番タスク集とでやらなきゃいけないことは確実にやれるからと。
いったことになります。
これは多機能・高機能性の逆の話になるんですけど、
そういう話も合わせてですね。
あとカレンダービューがタスク集とクラウド2にはついてくる。
これも非常に今までにはまずなかった形で、
僕はここに本当はカレンダーを全部集中させてみたいんですけれども、
これはまだ難しいなと。
なぜなら私はGoogleカレンダーの共有というものを必要とする人間ですから、
これがなくなってしまうとさすがに厳しいなというのがありますが、
それはそれとしてタスク集とクラウド2に情報管理のメインをここに置くことができるっていうのは大きいかなと。
そんな話もしていきたい。
だから8月4日オンライン参加も大歓迎ですが、
オフラインで渋谷に来ていただくのも悪くないんじゃないかと思います。
もう10分経っちゃったのでさっさと本題。
本題は相変わらずあまりないんですけど、
今日は投影という話をしつこくしていきたいと思います。
投影は精神分析の概念の中でも抜群に私たち一般人が知っておくと役に立つ概念のコンセプトの一つで、
もしかすると一番役に立つかもしれないなって感じがしますね。
これこそ精神分析なんじゃないかというぐらいに思います。
投影にはもう一つ非常に扱いにくくて私扱いたくない課題があるんですけど、
これ社会問題との兼ね合いなんですね。
もうすべてがここに集約してきてしまう感じってありますね。
単に社会問題だけじゃなくて、
いわゆる精神障害、心理障害、心身障、神経症か神経症をどのように捉えるかという問題も、
この投影というのと深く深く関わってきておりまして、
昨日たまたまタスクシュートジャーニーというのをJ松崎さんと共催し、
合わせて古川武さんという方をゲストにお招きして、
彼もタスクシュート、割と子さんのユーザーだった時期がありまして、
今ではもっとバリバリ紙に書いていて、
まるでこれはタスクシュート手帳の詐欺掛けみたいな紙の使い方だって思いながら見てたんですけど、
すごい大きな紙にカレンダーみたいなの書かれるんですよね。
GoogleカレンダーがA3版の紙になりましたみたいな感じですよ。
そういうものを彼は今使われているらしいんですけれども、
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その古川さんね、それはそれとして、
古川さんの昨日のお話を伺っていても、
やっぱりこの投影って問題が私がしゃべる中でも一番極右的なのか極左的なのか分かりませんけど、
一般とずれているところなんだなっていうのを感じたんですね。
一般とずれているというのは、やっぱり一般は認知行動的であり、それでいいも何も、
それがもう99%ぐらいなんじゃないかって思うんですよ。
世の中全体の課題解決的な作戦、戦略、方略としてはですね。
それに対して私が言っているこの投影というのは、
私が言ってるわけじゃなくて、フロイト以来の精神分析の世界で言われている話だけれども、
投影というのはどうしてもですね、当人にとって納得がいかないし腹が立つし、
だから批判もされてきたし、今はその一部の、どのくらいの一部なのか分かりませんが、
界隈の人を除くと何かこう違う話になりやすいと。
で、私は感の主観的な意味での考えられないことが中空に浮いているみたいな、
それを考えるんだっていう、あれでもいいと思うんですけど、
そのどっちであったとしても、あんまり今時受けないことは確か。
だけれどもこの投影というのを追っていかないとですね、
私はですね、やっぱりその当人が腹が立つと言っている、
当人にとって救いがないなって僕は思うんですね。
僕は社会正義を、社会正義と言ってもいいんですが、社会問題でもいいですけど、
解決するまで自分の問題を放っておけるほど余裕のある人ってどのくらいいるんだっていうのがね、
いっつもものすごい気になるんですよ。
頭がいい人も平気でやるんだけど、私はその余裕をなかなか持てないんですね。
だいぶ前にほら幼稚園落ちた日本死ねみたいなのあったじゃないですか。
気持ちはわかるんですよ。子供うちもいるしね。
でも、いや幼稚園探さないわけにいかないじゃないですか。
日本が良くなるのを待っている暇はないと思うんですよ。やっぱりね。
この議論を始めて、しかしっていう感じでけんけんかくかくになっちゃうのもわかるんですよ。
私もその余地入れたからね。それなりに苦労するんですよ。あれは確かに。
うちは都心でもなければ、いわゆる郊外の中でももっと遥かに外なんで入れないってことはないんですけども、
でもこういう地域に住めば住んだで、いろいろな課題は発生しますから。
子供にとっても、親にとっても、私の実家にとってもね。
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だから結局そこはトレードオフ的な話になってくるんだけど、
とにかく何であってもですね、日本が何かを改善するにしても、最低1年はかかるじゃないですか。
どんなに迅速にやってもらったとしても、落ちたから明日改善しなさいっていうのに対応してくれないじゃないですか。
私たちにとっての課題というのはですね、大体全部そうなんですよね。
だから新自由主義的だとか権力にすり寄りすぎているという不思議な、ある意味不思議な批判がカウンセリングに向いてくるんですよ。
結局カウンセリングっていうのは、多くの場合、特殊な事例を除くとですね、
でも特殊な事例ばっかりとも言えるんですけれども、
でも少なからぬ場合、社会への敵を実現してしまうじゃないですか。
その人の人柄が変わり、今までつらかった会社に勤めているものができるようになりました。
はい、ラッピーですとかおめでたいことですってことになると、
部落企業の放置にならないかって話は絶対に出てくるわけで、
そこに投影という概念はね、非常に社会問題を放置する方に加担するように見えるんですね。
しかしそうは言っても、本人が会社に行けなくて仕事がなくなると、
お金がなくなってすげえ困るんですという時に、
企業の是正を目指せないんですよ。
そういう余裕がなかなかないと思うんですね。
全部そういう問題になっちゃうんですよ。
この個人の問題か社会の問題かって話ですよね。
で、私は実はそういう話は、しかもしたくないんですよ。
なぜしたくないかというと、別にそこに議論を集中させるアドバンテージというのかな、
モチベーションが私の方に全然ないからで、
この問題はタスクシュートでさえしばしば実は指摘されることがあり、
タスクシュートでさえというかライフハックがね、
GTDだって言われてたから、私はそれを聞いたことがありますからね。
直に聞いたことがあります。
でもそれはね、やっぱり僕はおかしな議論を始めちゃってるとしか思えないですね。
仕事術をすることでブラック企業への適応度を高めてどうするんだ、
ということを言われても、でも仕事術をしている人は、
現実に明日会社に行って上司に詰められるのが嫌なんだよっていうね、
それに対してこう、なんか違う運動を起こしても、
しばらくの間、キューバーどうしてもしのげなければならないじゃないですか。
やっぱり僕は幼稚園に子供を入れなければ、
明日困るっていう人って実はたくさんいてですね、
それらの人がTwitterで国なり自治体を罵るのはいいと思うんですよ。
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ただそれによって自治体や国が変わるのを待つことはできないとも思うんですよね、やっぱり。
こういう問題が東映というコンセプトには絡みついてくるんだよね、
っていうのがずっと言われてるなと。
結局のところ、夫婦間の問題は旦那が悪いことに現在のところ、
なんていうんですかね、統計上しておいて間違いはないと思うんですよね。
それがたとえ51対49で夫が悪いんだとしても、
夫が悪いことにしておけば五分五分よりは正しいっていう風には言えると思うんですよ。
ただ仮に夫が98%ぐらい悪かったとしてもですね、
夫が良くなるのを待てるかなっていう、
すでに今喧嘩している、この喧嘩している心が苦しいのに、
夫が良くなるというのに手をかけていくっていうのは、
どうしても遠回りになると思うんですよね。
ましてそれが日本の男とかにしてしまったら、
日本の男が意識改革をするのを待てないでしょうっていう感じが、
やっぱり私はするんですよね。
この話はアメリカでクライシスインターベンションの時にものすごい言われた話で、
それを何回も言われるだけじゃなと思ったんですけど、
あれは夏休みに集中講義ってやつで、
1週間受ければ単位取れるんだけど、
その1週間の間、朝から晩までクライシスインターベンションってやつを聞いてないのに、
聞き介入って言うんですけどね。
アメリカほら、この番組でも1回話したことありますけど、
何回か、もっと1回じゃないですね、何度も話したことありますけど、
従社会なんで夫打つんだよって話になっちゃうんですよ。
妻も打つんですけどね。
で、夫婦喧嘩で打つ前に介入しないとダメじゃないですか。
で、そこで学部生はみんな心理学部生だったんで、
あんたたち心理学は役に立たないんで、そういう時ってことを、
この授業では盛んにある女の先生にガンガンガンガン詰められてたわけですよ、私たち。
そんなこと言われてもなっていう感じだったんですけれども、
とにかくそういうことに近いんですよね。
この場で打つべき手を打たないと、
時代は破局しますみたいな時には、
従社会、従規制みたいなのは当然、私も日本人ですから、
全米ライフル協会の言ってることは、
もうどう考えても、私の目からするとですよ、
無理があるだろうという、
大英みたいなところで鍵が、
欄金錠がついてるとはいえ、銃打ってちゃダメでしょって感じが、
弾どこももう、そんな弾は絶対いらないだろうっていう弾が、
120ドルぐらいで売っちゃってるわけですよ。
2万円ぐらいはするかもしれないけど、
そんな値段だったら、僕だって出せてしまいますからね。
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とか思うんですけど、でもやっぱり、
全米ライフル協会のあり方を変える前に、
打ち合ってしまいますからね。
クライシスインターベンションというのはそういうことなんですよ。
私もその話を聞いて、
どんなにカウンセリングの技法を進めてみたところで、
手元に銃があるっていう状態はまずいよねっていう、
でもあるんだよねっていう状態を考えなきゃいけないわけで、
そこにもやっぱり僕は、
その場合もクライシスインターベンションは、
血清分析やってる場合じゃないっていうのは正しいと思うんですけれども、
でも投影ってのはかなりいい戦役。
打つのをこらえる上でね。
打つのをこらえるっていうの大事じゃないですか。
打つ直前とか打った後の話も大事だと思う。
その話、だから授業で受けるんですよ。
信じられないんですよね。
その場合、例えば下手に家に入り込むと、
これもすごい話だなと思うんですけど、
アメリカってのは非常に個人の権利がでかいんで、
危機介入の名を語った住居不法侵入罪で、
たとえ打ったとしてもこっちからなって、
もう監獄にいられるからねみたいな。
絶対危機介入できんわと僕は思ってしまったんですけど、
その場合の細かな細かな規定を習って、
全部忘れましたけどね。
僕関係ないんで。
関係ないと思っちゃいましたからね。
そこまでは入っていいとか、
アパートメントのここまではとか、
全部忘れましたよ本当に。
覚えても無駄だなと思ったんでね。
私は刑事とかじゃないんで。
そんなわけで、
何の話をしてるのか分からなくなったんですけど、
要するに投影をするんですよ、私たちは。
今日は最終的な話をするのは珍しいんだけど、
トイレットリストは捨てていいの話に持ってきたいんですけど、
要するに僕らはまず一番簡単なところで、
何でもいいんだけどな、何がいいですかね。
最近ですとトラと翼とかがいいのかもしれないけど、
僕あれタイトルしか見たことがないんでやめよう。
何がいいかな、スパイダーマンになっちゃうんだよな。
でもスパイダーマンってジャッキーチェーンにしましょうか。
ジャッキーチェーンを見てるとジャッキーチェーンになった気がするんですよ。
僕とかビニール袋の粘着とか、
ぬん着とか買っちゃいましたからね。
つまりそれが投影ですよね。
投影というのはまず私という人間の、
ごくごく一部だったとしても投げてるんですよ。
分離させてるわけですよ。
人間はこういうことができるんですよ。
これはオカルトでは全くないんですね。
我々が知覚をする何かの像をイメージして脳内に置くということは、
既に一部を何かの形で変更させてるわけじゃないですか。
私でないものにしてるわけじゃないですか。
私今目の前のミニトマト見てるんだけど、
ミニトマトが脳内に入るっていうか脳内のイメージを結んだということは、
24:00
私の本当にごく一部がどんなやり方であれ、
どういう形であれミニトマトになってるわけですよ。
で、すぐなるじゃないですか。
ジャッキー・チェンとかにはね。
映画見てると、ならないとすると、
映画見る面白さってほぼなくなっちゃうと思うんですよね、私は。
やっぱり北東のケント君を見てれば、
ケンシロウから王になるはずなんですよ。
三国志読んでればソウソウとかになってると思うんですよ。
少なくとも一部は。
それが東映であり、私の一部がソウソウになったんだから、
東映同一化なんですが、
これを松本邦博さんという先生がですね、
精神分析の大河野先生が、
東映これを同一化というよりは、
同一志だと。
なってしまってるというよりは、
同じように思ってるだけだと。
極めて健全な形であって、
私の一部がソウソウだと思おうとしているぐらいに留まってるから、
一部だし、丸投げしてないって意味ですね。
なってるというよりは、
なった気になってるだけだから、
東映同一志と呼ぶといいんじゃないか、
というふうに書いてる本があります。
で、東映同一志だというのは、
つまりそこら中で起きてるってことですね。
そこら中で起きてはいるんだけれども、
ここに質検討式が含まれてるのは間違いないですよね。
だって私はソウソウじゃないし、三国志に生きてないし、
ジャッキーチェンでもないし、めちゃ弱っちいし、
ヌンチャクとかも全く使えないわけですから、
ビニール袋のヌンチャクで妹と遊んだことがあるというだけですからね。
だからジャッキーチェンになったわけではないのに、
なった気に、わずかでもなっているということは、
これは現実検討をその分失ってるわけですよ。
私が生きてる時代も間違ってるし、
本人が佐々木正吾であって、
ジャッキーチェンではないということも、
どこかで少しは忘れているから、
これを精神病部分って言うんですよ。
つまり一部自分でなくなるということは、
すでに一部現実を失うということなんですね。
ここから全てが、こういう風なところに全ての課題があるはずなんですよ。
だから私たちはこのように投影することができるということからしても、
すぐ目の前の人間が誰であるかを間違えるし、
目の前の人間がその人であるという現実も、
いくらかは確実に見失っていく瞬間がある。
付き合いが深くなればなるほど、
だからさっき申し上げた通り、
付き合いの長い夫婦とか、付き合いが長い先生とか同僚とか上司とかですよ。
すべてにおいて彼らの現実というものを無視する。
無視して私たちの精神病部分というものを活性化させる。
現実というものを見失う方向に一部であれ向かう。
その時に一番やるのは何かというと投影なんですよ。
多くの場合、親を投影するわけですね。
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とにかく自分の一部を相手の何かに変えてしまう。
そしてその相手の何かの中でも、
自分が最もそれに思い込みやすいということですけどね。
適切なといえば適切な。
つまり上司がお父さんそっくりだからお父さんだと思う。
これはもう現実を検討を書いてますよね。
でも適切ですよね。だってそっくりなんだから不適切ではないじゃないですか。
だから非常に悪名高いかもしれませんが、
目の前の奥さんが昔の自分のお母さんにそっくりだと思って、
お母さんだと思ってしまう。
私、奥さんに聞いてますから、
奥様のお父様は私のことを間違ってしょっちゅう時々、
母さんと言う。すごいよね、娘を。
でもこれおかしくないですよね。
悪名高いかもしれませんけど、
これ社会問題なのかと、
日本の男が変わるべきなのかって言っても、
無駄な感じがするんですよ。
マイルドにとはいえ認識を入り始めてるし、
変わる。変わることによって変わるか。
社会運動をしている間、
自由、生きてさえいらっしゃらないのでは、
みたいなところがあります。
投影は必ず投影同一化というものが始まっていくんですよ。
目の前の人間に投影していくということは、
ジャッキーチェーンなら相手は全然変わらないですよ。
映画だから。
だから投影同一化じゃなくて、
投影同一死でいいんじゃないかっていう風に
松木さんは書いたんでしょうね。
私がジャッキーチェーンになった気がする以上、
それだけですよ。それだけなんだけど、
これが目の前の生身の人間にやってしまうとですね、
やってしまうんですけれどもね。
例えば私が上司の女の人にしよう。
女の上司さんにアンビバレントな気分を抱いているとします。
すっげえいろいろ指摘されて腹が立つんだけれども、
どっかビシッとしていて好きみたいなね、
そういうものがあるとします。
そうすると私はほぼ確実に、
かなり全力を挙げて辞めようとしない限りは、
やっぱり昔自分が出会った母親なり、
おばさんなり、おばですよ。父親の妹さんです。
そういう感じの人だったので。
を投影するんですよ。
相手が私のおばだという感じを抱く。
これはほとんど無意識にやります。
だって私たちジャッキーチェーン見てて、
ヌンチャヌンチャかかってくるとき、
ほとんど無意識じゃないですか。
意識はできてるけれども、やめるのは無理でしょ。
コントロール完全にして、
俺は絶対ジャッキーチェーンじゃないからみたいなのだったら、
映画見ないほうがいいじゃないですか。
映画を見てるってことは、
ある程度無意識にせよコントロールされる、
自分がコントロールされていくのを許してるってことですよ。
だからやっぱりそういうことは起こるわけですね。
特に相手を憎く思い始めるときには必ず起きてます。
30:03
ここが本当に困るんですよ。
相手を憎く思うときには投影が起きている。
ところで相手を憎く思うというのは、
上司が憎いってことは、
上司ハラスメントだって思ってるじゃないですか。
今の時代では。
上司が憎いってことは、
上司にいじめられてるってことじゃないですか。
いじめられてないかもしれないけど、
とにかく指導されてる、出席されてる、
なんでもいいけど、
とてもポジティブなことだけが起きてて、
憎まないじゃないですか。
上司が憎いというときには、
今の時代で言えばですね、
極めて多くの場合、
十中八九はハラスメントって言葉が、
使わないにせよ人の能力を逃げてると思うんですよね。
そのときに、それは本当にハラスメントなのか、
それともお前の投影なのかっていうのは、
僕は全く筋違いだと思うんですよ、この場合は。
それはハラスメントでもあるだろうし、
投影でもあるということに違いないと思うんですよね。
ハラスメントは全然起きてなくて、
すっごいいい関係だけど、
たまたま非常に適切な、
非常に優しい指導が行われたんだけど、
その人はすっごい投影を絶大にしてしまって、
鬼にしか見えません。
ということもあるでしょう。
でも私はそういうケースは、
稀だと思います。
むしろ指導になるものには、
適切でない部分があって、
うんたらかんたら、うんたらかんたら、
で、同時に私は自分のお場をそこに大量に投影します。
この方がよっぽどありそうな気がするんですね。
だからこのときに、
主観性というものを切っぺがして、
個人対個人のモデルだけで見ようとすると、
むちゃくちゃな形になっちゃうというか、
救いようがないと思うんですよね。
そしたらもう、
そのハラスメントで、
コンプライアンスに則って訴える云々の話を、
まずしなきゃならないというか、
そこに向かって真っ白でありながら、
同時に自分の投影について、
分析で一生懸命直していきます、
っていうモチベーションを両立させるのは、
困難だろうなと思うんですよね。
ほとんどそれって分裂ですよね。
心の中では、
相手が100%悪いと思ってるのに、
やってることは自分が100%悪い、
っていうような考えでやろうって話ですから、
それにはとっても無理があると思うんですよ。
だから名付けないほうがいいと思うんですよね。
究極的にはやっぱり。
つまり分からんことにしておいたほうがいいと思うんですよ。
これは社会問題は、
自分の投影を問題にするときは、
一旦棚上げにするということ。
離れるとか距離を置くとか、
会社休むとかは、
むしろするべきだと思うんですよね。
それぐらい辛いのであれば。
でもその会社を休む理由が、
たとえ投影だったとしても、
自分が悪いってことではないんですよ。
私たちは投影しないということのほうがおかしいんですよ。
投影しないで映画を見ていたら、
つまらんじゃないですかって、
33:00
ただそういう意味で、
映画を見るときだけは投影しますけれども、
会社に行ったら投影しませんってことは、
絶対無理なんですよ。
というかそういうふうに脳ができていたら、
私たちは多分違う生き物になっていると思いますね。
全然違う生き物。
私たちはいつも投影と近くを混ぜた上で、
活動していて、
そしてこの投影というものは、
主観的にだから起きることであって、
だって映画がそうじゃないですか。
ジャッキーチェーンは、
ジャッキーチェーンらしく振る舞っていて、
みんながジャッキーチェーンに投影してくるような、
作りに映画ってなってるじゃないですか。
たまに誰だっけ、悪役だっけ、
よくわかんない、
一撃で倒されるような人に、
でもそんな役に投影する人っていないと思うんですよね。
どんなに自分が雑魚キャラだと思っていて、
社会の葉っぱ役だと思ってても、
やっぱジャッキーチェーンに近い存在か、
せいぜい悪い親玉みたいなのに自分を投影するのであって、
わーって言ってすぐに倒される人に投影するようには、
映画は全く作られてないと思うんですよ。
つまり投影同一化というものは、
協調作業なんです。
相手がパワハラであるということは、
必要なんですよ、この場合には。
この必要とか適切って言葉が、
非常に逆説的になっちゃってるのが、
今喋ってて困ってるんだけれども、
でもそうなんですよ。
コラボレーションなんですよ、
投影同一化というものは。
どんな場合でも。
一方的に投影だけが行われてるとか、
一方的にハラスメントだけが行われてるっていうのは、
おかしいんですよ。
それは映画が、
ジャッキーチェーンがですね、
全然軟弱も持たず、
普通に平和に歩いてるんだけど、
見ている人は、
俺はジャッキーチェーンだからって言って、
軟弱を振り回すみたいな感じになるかって言うと、
ならないじゃないですか。
協調作業になってないじゃないですか。
向こうにはこういう意図があり、
こっちにもこういう意図があります。
その合体が投影同一化なのであって、
独立していたら、
投影も同一化もないんですよね、そこには。
何かそこには、
コラボレーションが起きやすい、
仕組みというものがありまして、
仕掛けというものがありまして、
間主観的に両方が相互に影響を与えて、
かつ人間の知覚というのは、
そういうふうになりやすいようにできているから、
こそこの種の現象は起きるんですね。
投影同一化というのはそういうものなんです。
私がおばを上司に投影し、
上司は私のおばであるかのように振る舞う傾向がある人で、
あるいは私がそういう投影を強くするから、
だんだんそういう振る舞い方をさせられていくように、
これが私の原因がでかいっていう話になってくる場合なんだけれども、
同じだということなんですよ。
これはこの時たまたまそういうことが起きるようになっているから、
これは相性って人は呼んじゃうんだけど、
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僕は違うと思うんですよね。
これはそのタイミングだって思うんですよね。
そういうタイミングだったんだとたまたま。
だってハラスメントする人が他の人にはとてもいい人だってことは、
よくあることじゃないですか。
だからあの人はいい人なんだろうか、
それともハラスメント上司なんだろうかって問いほど、
なんていうんだろうな、
この事態から遠くなっている考え方もないもんだと思うんですよね。
それはたまたまその時に、
その人とタイミング的にそういうコラボが起きちゃってるんですよ。
それは私が悪いのかっていう話でもないんですよ。
それは本当にたまたまなんですよ。
偶発的なことなんです。
ジャッキーチェーンだってずっとジャッキーチェーンやってるわけじゃないですからね。
あれは役者だからそういうことをやってる。
役者なんですよ、私たち。
そのハラスメント上司も役者なんですよ。
なんで私の場合でそういう役をやるのって言ったら、
そういう役をある程度はやらせているからであり、
やっぱりやるっていう資質なり性質なりはその人にもあるんですよね。
この合体によってそこで上演されている、
一種の演技的空間がそこに成立しているという考え方なんですよ。
これを使ってカウンセリングしましょうねというのが精神分析なんだけど、
精神分析でだから東映ドイツカっていうのはよく観察されるから発見された概念で、
私はこれはでもどの空間においても行われていて、
それを理解しておくとどういう筋書きとどういう台本がそこで流れているかが見えてくるから、
これが見えることは人間関係を乗り切っていく上でものすごく役に立つから、
社会問題なのか私が悪いのか相手が悪いのかっていうのは一切互いにして、
だって映画でジャッキー・チェンがいいのか、
それともあの悪い奴は本当はどうなのかって考える必要ないじゃないですか。
あれは所詮演技だから、
でも僕らのやり取りの大半は実はそういうふうになっちゃっていますっていうふうに僕は考えてるんですね。
To Doリストは捨てていいの?本でなぜそれが大事だったかというと、
あの編集さんがですね、私にすごい厳しい締め切りをセットし、
もともと厳しかったのをさらに1ヶ月も前に詰めてきたという、
あのメールをもらった瞬間に私は、
あの本を作り出さないという筋書きを考えることも容易にできたんですよ。
私のそれまでの養育歴からしても、
こういう編集さん、世の中の一般の今言われているそれこそナラティブですよ。
アドバイスって言ってもいいですけれども、
そういう考え方にのっとって、
こういう人とは仕事をするとトラブルになるから、
なりますよね。よく言うじゃないですか。
もともと2ヶ月という締め切りだってむちゃくちゃなのに、
それを1ヶ月切る状態にしてきたというのは、
本当にそういう人はやめたほうがいいと。
やめることはできるんですよ。私は著者なんだから。
それでは無理です。書きませんってメールを一発送って、
あとは全てブロックすればこと足りるんですよ。
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そういうふうにする方も、
著者さんの中には全然いておかしくないと思うし、
現にそういうことが起きてると。
今この瞬間にもリアルに起きてると思うんですよ。
でも僕はそれは筋書きだと思うんですよ。間違いなく。
そういう人と一緒に仕事をすればひどい目に遭うとか、
グッドマイブス的になってきましたけどね。
ひどい目に遭うとか、トラブルの元だとか、
搾取されるとか、そういう筋書きを、
私が心の中に用意して、
そしてそれを投影していく。
具体化していく、困った人とか、
能力のない人だというふうに、
今までの私の能力のない人とか困ったとかいう経験を、
全て総動員してその人に向かって、
無意識のうちに大量に投げていく。
すると相手はそういうふうになっていくんですよ。
ここはオカルトではないんですね。
オカルトと言われた人は、
ジャッキーチェーンをうまく演じることができるように、
私がそういう筋書きを相手に向かってどんどん投げていけば、
言動も変わりますから。
直接顔を見なくたって。
チームスとかで対面でオンラインのですけれども、
打ち合わせもするから顔も見るわけですよ。
言葉も喋る。
こういう筋書きをどんどん与えていけば、
そういう人になっていく。
これは別に驚くようなことでも、おかしなことでもない。
私が投影したものに同一化していく。
これが投影・同一化の一つの形なんですよね。
この流れでどんどん進めていけば、
それはもう無理だからやめます。
ごめんなさい。他の人に当たってください。
もっとマイルドに言うかもしれない。
もっと礼儀正しくやるかもしれないけど、
そういうものになっていた可能性というのから、
そういう筋書きは成り立つんですよ。
私はGood Vibesの弟子でもありますから、
ここを真逆にしたんですね。
とことん良い投影をしていく。
なぜならば、本を作りたかったからですよ。
とことん良い投影をしていくというのは、
要するに最良の筋書きを与えていく。
ただ、私ここで悩みがあるんですよ。
投影をしないことが、つまり全てを現実に任せるのがいいのか。
たぶん倉殿さんならきっと、
倉殿圭三さんならGood Vibesの文脈ではきっとそうおっしゃる。
だけど私はことが1ヶ月切っている締め切りでは、
それだけでいけるかどうかに自信がなかったから、
良い筋書きというか良い投影をあそこでの時は、
やっぱり僕は与えた記憶があるんですよね。
この短く切られたという締め切りは良いことなんだと。
そして私はそれを十分理解できる、
良い著者と言ったらいけないんだけど、
そういう感じはしなかったから、
カウンセラー的な著者なんだみたいな感覚を持ったんですよね。
もっと言うと母親的ですよ。環境としての母親になろうと。
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この編集さんは非常に怯えているから、
今まであれですよ、
水風呂とかに虐待された子みたいな感じで、
おそらくそれはそう間違ってないと思うんですよね。
7月に何が何でも作らなきゃいけないというのは、
一つの妄想でありイリュージョンだと思っていたので、
そういう妄想を見ているというのは、
そういう目にあってきたという人であって、
そういう目にあってきた子供をイメージした時、
その子が無能なのか、
IQが遅れているのか、発達が遅れているのかって考えるのは、
少しおかしいと思うんですよね。
むしろメラニー・クラインのように、
体験、エクスペリエンスを充てることによって、
この人の子供が急にIQが伸びるように、
一日で伸びるんですよ。
ガラッと代わり得るということに欠ける、
そういう筋書きをここで書くということをやった気がするんですよ。
それは上手くいったんですよ、たまたま。
たまたま上手くいったんですよ。
これが僕は、土井武夫さんが、前の講座を書いた人が、
精神分析はいつもハラハラドキドキっていう言葉だと思うんですよ。
再現性はないよって言ってるんですよ。
そのあなたの次の言葉で、
どんなに教科書的に正しくて、
どれほどあなたの今までの蓄積から考えても、
ここではこう言うべきだっていうことを言ったとしても、
破局するかもしれませんよっていう、
そういうジェットコースターっていうのかな、
恐ろしいことが起きるかもしれないし、
素晴らしいことが起きるかもしれない。
投げてみると、何かが起きると。
それを見守るときのあなたは、
ハラハラドキドキしていなかったら、
分析家としてはもう終わってるっていうのが、
土井武夫さんがすごくよく書いてることだと、
私は思うんですよ。
これは絶対正しいと思うんですよ、僕は。
再現性があるんだったら、
ハラハラドキドキする理由は全くないんですよ。
心が穏やかになるって言葉があるんだったら、そうしますよ。
でもそんなのは分からないから。
分からないからいいんですよ。
分からないということは、
何かすごい良いことが起きるかもしれないじゃないですか。
今回私がたまたま間に合ったようにね、
たまたま4月30日になぜか7万8万字近い文章が書けたように、
そしてそれは大幅な修正をしなくて済むようなものになったように、
そういうことが起きるかもしれない。
コラボレーションなんですよ。
東映同一化なんですね。
私がここで怯えている編集さんを救い出すということによって、
この私と編集というカップルが何か良いものを生み出す。
これが子供って言うんですけどね。
そういうことが起こるんではないかという筋書きを、
枠全体を描きながら事態に入っていくことで、
東映同一化が起きて、
通の意味とちょっと逆なんだけど、
変な話なんですけどね。
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いい東映同一化みたいな、私が見たいと思っている姿に、
だんだん編集さんが変わっていってくれて、
私が想像するような、いわゆる編集さんが持っているような能力では、
全然ない能力を、
今回の編集さんがやたら発揮してくれたんですよ。
最終盤になって急激に。
こういうことが起きるんだなっていう体験なんですね。
これは。
私がどういう筋書きで、
どういうイメージした通りの編集さんとかではないんですよ。
すごく意外なところから、意外な能力を発揮して、
触れて、これでね、
ミリオンセラー行きましたってなったら、
素晴らしいお話でまとまるんだけど、
そこまで売れてないんで、あれなんですけれどもね。
いい話に無理矢理持っていっているようにも、
聞こえなくはないと思いますけれども、
この本は自分の中でも、
かなりいい類に属するなっていう感じを抱けているのも大事だったんですよ。
これはやっぱり、
いい投影というものは、
僕はちょっとハットかなと思いながらも、
今回はあえてそっちにかけてみたってところが、
本当は投影をしないようにするっていうのが一番いいと思うんですけれども、
今回はもういい投影をしちゃう。
あれはいいおっぱいなんだということにしてしまう。
いいカップルというものを最終的に誕生させて、
いい子供というもの。
それがつまり私の作品になるんですけれども、
トゥードゥリストは捨てていいになるんですけれども、
トゥードゥリストは捨てていい、
最初は昨日、Jマサキさんが思わずおっしゃったように、
トゥードゥリストは捨てなさいという本を、
ササキさんは書きましたがっておっしゃって、
わざとなのか、うっかりなのかわかりませんけど、
そういうタイトルだと、最初は編集さんもそういうのを提示してきたんですが、
いや、捨てていい丸にしましょうと、
彼女がパッと言ったんですよね。
言ったというか、メールしてきたんですよね。
こういう随所にですね、
私が想像しているような方向よりも、
もうちょっといいものっていうのが、
どんどん出てきたんですよ。
本来、少なくとも何らかの形で本来、
あんなに怯えてなければ、だってそうじゃないですか。
子供がですね、ニグレクトを受けていたり、
虐待されていなければ、
その子はどんなに素晴らしい子になるかなんてわからないじゃないですか。
でも、どんな子供でも徹底的に不安にさせられたり、
恐怖に落とし入れられていたりすれば、
そこで萎縮して、
それ以上の能力を発揮しようなんて気には、
さらさら起こさないんですよね。
そこに向かって悪い投影をして、
ガーッて批判するっていうことほど、
不毛なことはないと思うんですよ。
コラボしないなら別ですよ。
ただひたすら攻撃して破壊してしまう。
つまりこれが破壊なんですけど、カップルの破壊なんだけど、
批判的なことを言って、悪口を言って、
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夫婦喧嘩をして、相手の痛いところをズバズバ突きまくって、
で、破壊するとなったら、人間のある種の能力ってすごいですよね。
後進サディズムって言いますが、
口から出てくるサディスティックな攻撃ってものに任せれば、
かなりの破壊能力を人は発揮できると思うんですよ。
これによってすっきりして、
私の人間関係は私を大事にする人しか置かないのだと。
つまりそれは精神分析的に見ると、
環境としての母親だけにぐるり取り囲まれて生きていくっていうのも、
悪くはないと思うんですよ、私は。
そういう生き方も可能であれば、
気分もいいし、それなりにいろいろと
やっていけるのかもしれないじゃないですか。
でも、私は土台そういうふうにはできてないんですよね。
この破壊能力を盛んに発揮するとですね、
グッドワイルドのプラズノケイソンさんのようなところまでは
行き着かないかもしれないけれども、
たぶん結構厄介なことしか残ってこないと思うんですよね。
なんかこう身の回りが高齢を落としてきましたみたいな。
それだったら本を書いたほうがマシだと僕は思います。
ここに作手的なものを見ることもできるのかもしれないんですよ。
そうやってあなた、
2、3ヶ月足らずで書かされて、本を書かされて、
結局ある程度現金手に入れて、
それでも十半がかかりもしない本を書く片棒を活がされただけだよね。
っていうこのぐらいのことは
考えつかないなんてことはありえないですよ。
著者を何年もやっていればですね、
十半がかかりもしない本を書く方法を活がされただけだよね。
そういうこともあり得ると思うんですよね。
でも果たしてそれが損かと。
だって同じようにして本を作って、
十半かかりもしないで、
いくらかの現金を出版社が手に入れるだけに終わりましたなどというのは、
作手意識が全くない出版社だってしょっちゅうやってることじゃないですか。
だからそれをもってなお作手というのであればですね、
やっぱりあんまりこう、
自分の本を作って、
意味のない怒りをそこに持ち込んでいるようにも思うんですよね。
いずれにしてもコラボしないならばまだ別です。
でもするんだったら、
そこに悪い母親を見るメリットって何にもないと思うんですよね。
東映は同一化を生むんで、
相手を悪く見れば相手は悪くなっていき、
自分を攻撃してきますから。
なぜそれが起きるかというと、
私が悪いと思うというものは、
私が攻撃的になり、
その攻撃というものを投影するんだから、
その攻撃というものによって、
つまりそれは自分の攻撃力だってことですよ。
これは相手が全然悪意がないとか悪くないって意味では全くないんですよ。
だからやっぱりこの2つは、
個々バラバラに話したんでは意味がないんですね。
相手は私と良くも悪くもコラボできる、
良くも悪くも相互に作り上げるものでありますから、
私がその引き金を引けばですね、
全てがぶっ放されるわけですよ。
そのミサイルに自分だけ当たらずに済ませるってわけにはいかないんですよ。
引き金を引いているのが自分である以上は。
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現実の世界もそうじゃないですか。
戦争みたいなものもそうじゃないですか。
そしてあそこには良し悪し絶対ありますよね。
どっちが侵略しているとかはあるかもしれないけれども、
投影抜きにそれが行われることだけはやっぱりないと思うんですよ。
そして私たちは戦争の話をしているわけじゃないんですよ。
人間関係の話をしているわけですね。
人間関係はマシテアだと思うんですよ。
実際に殴り合ったりするなんてことはほとんどないからね。
私だってどれほど高審査リズムで口で罵る、
メールに相手の批判をバリバリ書くってことはあったりしても、
出版社に乗り込んで行って、
女の編集スタッフの殴りには絶対行かないですよ。
相手もそれに対して私のところに来て、
棒を持ってボコボコにするとかはないわけですよ。
そういうことはあり得ない。
だから本当に我々の戦いというのかな、
人間関係のこじれっていうのは、
投影合戦になって叱るべきなんだと思うんですよね。
決してそれがリアルな事態そのものであり、
相手の人間性の本質みたいなものであるみたいな、
そういうパターンっていうのは、
私はそうですね、
過ぎてから覚えている限りの人間関係においては、
皆無だった気がします。