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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1015回をお送りします。
7月の9日、火曜日の8時30分です。めちゃくちゃ暑いですね。
このポコッという音は聞こえたかわかりませんけれども、ペットボトルが膨張する、冷やしきったやつをそこら辺に置いてある音なんですね。
もう本当にまずいだろうという、何かがないと厳しい、そういう感じがします。
お知らせがありまして、まもなくTo-Doリストは捨てていいという本が発売になるんですが、その出版記念イベントを7月21日、日曜日10時時に行います。
こちら参加無料で、ただ初詩をZoom越しに掲げていただくと無料、つまり本買ってねということですね。
本買っていただいた方には無料という形になっております。
あんまり厳密にやるような話ではありませんから、気軽に見に来ていただければいいと思います。
この日やりたいお話はですね、過酷な締め切りを逆算せずに守る方法です。
こういうタイトルにしてもう1回ぐらい本格的にどこかでセミナーしてもいいかもなとは今思いました。
今回の本の締め切りはめちゃくちゃタイトだったんですよ。
あらゆるタスクシュートのデータを書き集めてきても、間に合わないだろうなと。
間に合わなくても正直いいなともはや思ったんですね。
4月30日締めだったんですけど、じゃないと7月12日なんかに本出ませんからね。
4月30日締めだったんですが、後ろにゴルデンウィークもあるから最悪ここを使おうと。
編集さんには悪いけど、もともとの要求に無理がある。
私も5月31日締めくらいに思ってたんですよ。
1ヶ月切って4月30日で、5月30日だとしても難しいというかほとんど不可能だなって思ったのが4月だったんで、もう無理だと。
最初から無理だと思ってたんですけど、無理なんでね。
逆算は一切絶対やめようと思ったんですね。
無理なものを逆算したからできるようになるっていうのは理屈に合わないと僕は思うんですよね。
要するにそれっていうのは死ぬ気でやれというのと何も変わらなくて、
逆算とは言わないと思うんですよ。
それは何かを計算してるっていうのではなくて、
ただ自分に鞭打つ素材を一つ増やしているにすぎなくて、
意味ないなと思ったので本当にしなかったんですね。
こういった話をしようと思います。
で、間に合ったわけですよ。
しかしよく間に合ったなと思うんですけれどもね。
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間に合うことはできたと。
なぜなのかというのをその日お話しようと思います。
まぁあの、ヨタ話かもしれませんけど、何しろ無理不然で、
ヨタ話を聞きに来たと思っていただければ、
時間もったいないかもしれませんけどね。
そこはもう、どこかは諦めましょう。
まぁそういうことです。
そのお話の延長線にあるような話なんですけど、
これ僕、どっかで喋ってるつもりでいたんですけどね。
これが私の悪い癖でね。
どこにも喋ってなかった気が最近してきた。
これもどっちだかわかんないですよ。
まぁいいや。
ジョン・シュタイナーというですね、精神分析家が、
ハンナ・シーガルさんとの教育分析を受けているときの話なのかな。
本にある一節で、一節というか一文で、名言だと僕は思うんですけど、
優しさのない真実は本当の真実ではないという言葉があるんですね。
素晴らしいと思うんで、
是非多くの方にお伝えして、
いたつもりでいるというのが僕の悪い癖ってやつで。
これはですね、もしかして諸出かもしれませんね。
あくまでもこのポッドキャストではですよ。
対象関係の話とかでは非常に有名な言葉なので。
ビヨンとかフロイトの言葉ほど有名じゃないですけどね。
ジョン・シュタイナーさん、そもそもそこまで有名じゃないんで。
でも有名な方ですよ、シュタイナーは。
ハンナ・シーガルとどっこいくらい有名なんじゃないかとは、
その有名度を測るのは無理なんだよ。
もう一回言っておきますと、優しさを伴わない、優しくない真実は本当の真実とは言えない。
とてもいい話だなと。
折に触れてですね、特に抑鬱ポジションの入り口で苦しんでいる人には、
折に触れて思い出してほしい言葉かなと思いますね。
長時間に苦しめられがちな人ですね。
そういう方はですね、そういう方に僕これを言ったことがなかったか。
そんなはずないんだけど言ったことがなかったかもしれないのが怖いところなんだよな。
しょうがないですね、これはね。
名言集を全部喋れって言われてもだいたい土台無理なんでね。
あるじゃないですか、よく引用先をちゃんとやれって。
私こういう時にね、もちろんそうなんですよ。
特に学術論文などを書く時には、だから学者さんがこういうことに厳しいのは仕方がない。
後で面倒なことになりますからね、参照先がはっきりしないと。
もうやっぱりこういう時にもですね、間違いますよね人は。
私のこれもハンナ・シーガルの言葉だったかと時々思っちゃうんだけど、
確かジョンだったはずだと。
イギリスで流行ったから対象関係論とか先進分析は。
ジョン・ボールビーとかもジョンですよ。
それはいいんだけど、有名な引用の元をちゃんとたどれと言われても結構無理で。
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特に聖書とかがそうで、目から鱗とかね、聖書の言葉なんですけど、
仏典も多いですよ。多いですけど、だって仏教とかね、考えてみると、
紀元前、1000年近く紀元前じゃないですか。厳密には700ですけど紀元前。
3000年前の話を誰が言ったかとか、厳密な引用とか、
あれですよ、石に誰が掘ったかとかを一生懸命調べている人は偉いと思いますよ。
もうめちゃくちゃ偉いですよね。
でも普通に考えれば、それはまあ無理な話をしているわけだから、しょうがないとも思うんですよ。
優しさのない真実は本当の真実とは言えないんですよ。
人はそれを逆を言いたがるんですよね。
現実は霊言なものでなきゃいけないみたいな、そういうことを言いたがるんですよ。
だからこれは名言なんですよ。
もう一つ言っておくと、言っておくとじゃないんだけど、
精神分析家が言ってるからすごいんですよ。
分析家が聞く話というのは、クライアントから持ち込まれる話ですからね。
だいたい霊国な現実ばっかりなんですよ。
そういうことになりやすいじゃないですか。
親はね、ずっと覚醒剤やってたんですとかね。
なっちゃうんですよ、そういう話にね、勢い。
なのにその人が、事実とか現実というものがですね。
すいません、ちょっと伸びますね。
事実とか現実というものがですね、霊国だと考えるのは簡単なはずなんですよ。
そういう人が、優しさのない真実は、真実、本当の真実とは言えないと言うんだから、
やっぱりそうなんだって思いやすいじゃないですか。
そしてここをそのように捉えられるかどうかは、
特に不屈的になっているときには響くと僕は思うんですよね。
現実を見ろとかってよく言われるではないですか。
だから現実を見ろっていう。
これを言うってことは、前提として現実は厳しいんだよっていう話があるんですよ。
これを言うってことは、それを言ってるのは自分の長時間なんですよ。
ほぼ確実だと思うんですよね。
それが良くないわけじゃないですか、多くの場合ね。
この本、ジョン・スタイナーのこの言葉を引用している本も、
セドラックの本から最近読んだんですけど、
はっきり言って同じような言葉をいろんな人が引用してますからね。
セドラックから私は読んだんですけど、
そのセドラックさんが苦しんだときにやっぱりこの言葉を思い出してるわけですよ。
なんで苦しむかっていうと、先日もお話ししましたけれどもね、
クライアントに厳しく詰められたから。
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なんで詰められたかというと、やめるということを言わなきゃならなくなったからですね。
これを言っちゃダメじゃないですか。
続けられなくなりましたって言うんだけれども、
普通それはクライアントの言うべき言葉であって、
カウンセラーが自分の都合で続けられなくなりましたはないわけですよ。
しかも往々にしてこうなんだけど、
このクライアントは一番まずい相手だったんですよ、それを言って。
見捨てられ恐怖におののいているクライアントだったんですね。
おそらくというか、私が書いてあったと思うんですけど、
未幼少期に、これも非常によくある話ですけど、
母親に見捨てられたみたいな経験があるわけですね。
母親に見捨てられた経験がある、
それなりに良識的な感じの女性だったんですけど、
こういうクライアントさんはなかなか、
これは恐れと不安になっちゃうんですけど、恐ろしいわけですね。
なぜか、それはですね、
表現することが起こりやすいんですね、やっぱりね。
見捨てられるとなると。見捨てないからこそ、
丁寧に、強調的にやってたけど、
見捨てるんだったら容赦しないよ、みたいなところがあるわけですよ。
それは、やっぱりですね、
赤ちゃんにとって見捨てられるという親を容赦するわけにはいかないからなんですね。
クリングって言葉もありますが、
しかみつくっていうのは、やっぱりホールディングもそうなんだけど、
ホールディングって言うと抱っこしてるってイメージだけど、
やっぱりですね、赤ちゃんを育てたことのある人はよくわかると思うんですけど、
赤ちゃんは無駄に暴れるんでね。
ホールディングというのは、抱っこしてるんだけれども、
やっぱりこう、簡単に逃げさせないぞっていうのがあるわけですね。
だって簡単に逃げて転落とかしたら困るわけですよ。
だからホールディングというのは、
当然こう、接触障害なんかではよく出てきますけど、
その後に非常に関わってくるわけですよね。
赤ちゃんじゃない人をホールドしてしまってはまずいというケースがあるわけですけれども、
私も身内のことでそういうことでは苦しんでますけどね、
要するに、なんていうのかな、
ホールドしてしまうと家から出られなくなってしまうわけですね。
それにすっごいややこしい問題があるじゃないですか。
お母さんは、私の年齢で以降50になった息子を、
いい加減というか、もうとっくの昔に外で働いてくれるもんだと思っていたんだけど、
なぜか家でゴロゴロしていると。
だけどね、ホールドしてるのはどっちだってことなんですよ。
クリングしてるのかホールドしてるのかっていう話なんですよね。
その人、結婚したいって言ったこともあるかもしれないじゃないですか。
18とかでね。
それに対してお母さんが、お前あんな女と結婚してどうするんだって言っちゃったことも知れないじゃないですか。
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昔々。
これがホールドですよね。
だからその人は、そうかお母さんは自分から話したくないんだなと思って、
まだ家にいるということが起こってるかもしれないじゃないですか。
いくつの時にどんな女ならいいのかっていうことを明言しもしないのに、
その年でその女ではダメだとは言うわけじゃないですか。
私はお前の自立を支持してるっていうこのダブルスタンダードが人を混乱させますよね。
特に自分の親の発言だということになってくるとね。
混乱しますよね、こういうことを言われれば。
そういう混乱がもっと今のように分かりやすい形では出てこないわけですね。
はるかに難しい。
例えばそういうことは言っていないけど態度で示したとなってくると、
いや態度で示した覚えなんかないと親は言うかもしれないし、
いやあなたは確かにあの時反対の顔色を見せていたみたいなそういうことが起こるわけですよね。
だから大事なのはですね、こういう時にですね。
現実の厳しさみたいに見ちゃダメだと思うんですよ。
もう50になっちゃったし、今更外に出て働こうとしても現実は厳しいしってこういう時にサラッと出てくるじゃないですか。
こういう時に逆なんですよ。
優しさのない真実は本当の真実とは言えないっていうのがサラッと出てくるようにならないと動けなくなってしまう。
こういう動きにくくなった時ほどここで逆の言葉が出てきちゃいけないんですよ。
このジョンシュタイナーさんの本でもそうですし、セドラックもすごくここで大変な思いをしたんだろうと思うんですよね。
つまり、いやもう本当に言っちゃいけないことだったと。
あのお前は患者を見捨てるのかと。
患者を絶対見捨てないというのが唯一の約束事ではないのかと。
ですよね。今までも構造の話してますけれども、
週に何回とか何時間絶対とか何時に開始も絶対守らなきゃいけないとか、
キャンセルしてもキャンセル料取るぞとか、
こういうふうにとことん押し付けていってるのはですね、
すべてこの構造はしかし永遠に続けられるんですよっていう、
永遠はないんですけど、そういうものを逆に提供しているからなんですね。
そもそもクライアントさんは、
世に見捨てられた経験が多い人が少なからずいるわけです。
変な言い方になったけど、そういうのはなさずなんですよ。
世の中にすごく適応的で、どこに行っても人に好かれて、
上司にも可愛がられ、部下にも恵まれみたいな人は、
なかなか精神分析なんか受けに来るはずないじゃないですか。
そんな週に4日もですね、高いお金払って、
何事も上手くいってますっていう話をしても、
すぐ尽きてしまいますよね。
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ここで話が尽きないというだけでもですね、
なんか訳があるはずなんですよ。
いろんな愚痴がここでものすごい大量に排出されるということになったら、
排出って言ってしまいましたけれども、
やっぱりですね、それの出どころが他にどこにもないから、
そういうことが起こってるんではないかと考えるのが妥当で自然ですよね。
だからあらゆることを押し付けていくわけですね。
精神分析家は。
これをちゃんと守れるようになりましょうねっていう意味も一つ大きいんですよ。
しかし、私はここに永続して敵にいますと。
そんな愚痴は聞きたくないとか言いませんと。
なんならお前殺すぞみたいなことを言われたとしてもここにいますと。
結構厳しくなってきますけどね。
なんなら藤山直樹さんの方に出てくるんですけど、
本当かそうか知りませんけどね。
いきなり殴られたみたいな話も出てきますと。
でもここにいますっていう。
あらゆることを守らせる代わりに、
自分が守る唯一の徹底的に最終的に守る話。
だからそれ自体に価値があるっていうのは、
人生相談に価値があるわけじゃないんですよっていうのは、
人生相談は人生相談で別途価値があると思うんですけど、最近私は。
でもここにいるっていう。
かわいい早尾さんが繰り返し言ってたことですけどね。
黙ってそこに座っていることが何より大事なんだ。
これをできないって、
ごめんなさい。
セドラックは言ったわけですね。
すいませんちょっと家族と引っ越すことになりましたと。
なりますよね。
ここが難しいところですよね。
これは一体逆転意なのかって言われても困っちゃいますよね。
だって家族と引っ越す。
ついにロンドンに住めるぞみたいな話ですよ。
で、実際対面法ですから。
精神分析は。
特にその時代は1960年だと思うんで。
もちろんオンラインとかないわけですよ。
オンラインあってもオンラインじゃダメなんじゃないかと思うんだけど。
私はオンラインでやってるから精神分析じゃないんですけどね。
Zoomでやりましょうとかって言えないわけですよ。
だからロンドンに引っ越すからあんたのことは見捨てていくことになりますけど。
いい医者紹介しとくからみたいな。
ダメなわけですよ絶対に。
いい医者紹介するっていうのは一般的にはいいかもしれないけど。
こういうケースではじゃあお前のことはもうおばに育ててもらってくれと。
私は育てるのやめるからって親が言ったらとんでもないじゃないですか。
いいやいいおばだからお金もあるし優しいし絶対通らないですよ。
こういう話になってくるわけですね。
絶対通らないんですよ。
だからそのクライアントさんはですね。
やっぱり最後のクライアントさんなんですよ。
また面白いことにテドラックさんは正直に書いてますけど。
この患者さんにはなかなか言い出せず最後にいかにもまずい雰囲気がありますよね。
でクライアントさんはやっぱりですね案の定というか。
承知しないわけです。
これは倫理的な問題で倫理委員会に訴えるべきじゃないかっていう話を。
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それを検討するっていう。
育ちのいい人なのか。
こういうことを言うわけですよ。
叫び出したりしない。
でも倫理的に訴えるぞっていう話をするんです。
でそれでテドラックさんは普通に困っちゃうわけですよ。
ここが面白いんですよね。
精神分析ってのはプロっぽくないところがプロっぽいっていう世界で普通に困っちゃうんですよ。
いや本当困ったなどうしようみたいになるわ。
スーパーバイザーいますからね。
こういう時のためにスーパーバイザーがいるんですよ。
普通に困るっていうのは普通に困らないような人でないようにするってことが精神分析家に多分求められてる漢字が本読んでるといつもするんですよね。
普通に困らないようにするための手はいっぱい打てるじゃないですか。
倫理委員会に根回ししておくと。
そこで毅然とした態度をとっておくと。
いろんな方法ある。
結局見捨てても絶対大丈夫なように世間一般では手を打つんですよ。
自分非難されないように。
ありとあらゆる手を。
これを一切打たないように自分でしておくっていうのが多分精神分析家というものなんじゃないかと思うんですよね。
だから普通に困っていく。
本当に困る。
ここが難しいんですよね。
それって縁起なんじゃないかって感じもしなくはないんですよ。
だからエナクトって言葉が精神分析で一時流行ったんでしょうね。
そこに縁起的なものはあるってことなんですよ。
困らないように手を打つってことは多分できるはずなんですけれども、
そういう手は打たずにただ普通の人のように普通に困る。
そういう体験を患者さんにしてもらうってことがここでは大事なんですね。
とにかく普通に困っていて同情されたのかわかんないですけど、
寄付陣みたいな人はやり方変えるんですね。
話を変えるんです。
せめて来なくなる。
別の話題としてオッドの心配っていうのを始めるんですよ。
これはもともとの取総にあったのかもしれないけど、
オッドがですね、すごいオッドなんですよ。
昔ね、コチカメで読んだことがあるんだけど、
アイアンマンレースみたいなのに出るオッドなんですよ。
あるじゃないですか、砂浜で重いバーベルみたいなのを後ろにつけながら
100キロ走るみたいな。
正確じゃないんですよ。
つけてきとうなことを言ってますけど。
リョウさんがそれに出ていて優勝してましたけど、
そういう奴に出るオッドなんですって。
でも心配だと。
まあそれは心配ですよね。
リョウさんじゃないんでね。
死んじゃうケースもあると。
多分あるんだと思うんですよ。
なんかはいいのってありますよね、世の中にはね。
F1だってある意味そうだけど、
最近見たやつでも細い普通の道路をスーパーカーで超速スピードを出して走るみたいな。
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すげえ事故るわけですよね。
ああいうやつ。
ああいうやつではないんだけど、
そういうアイアンマンレース、
24時間耐久レースみたいなやつですよ。
そういうのにオッドは出ると。
何が何でも出ると言って聞かないと。
でも本当に健康的に不安、
すごい健康診断とかのチェックも厳しくあるらしいんですけど、
不安だというのであればオッドは出ないって言うんだけど、
その友達がそそのかして、
いや死んでもいいから出ようぜみたいな。
そいつにそそのかされると、
男ってそういうところありますからね。
アブラブロ的なやつですよ。
自分の身体能力に万能感を抱きたいという人がいっぱいいるので、
いややっぱり死んでもいいから出るとか言うわけですけど、
死なれたらめっちゃ困るじゃないですか。
それがすごい心配で、
これをどう考えたらいいものなのかというテーマに移ったわけですね。
これがいろんな言い方ができるんじゃないかと思うんですけれども、
やっぱ投影ではあるでしょうし、
いろんなことが起きてますよね。
まさに精神分析が起きてるとはこういうことなんだなって思うんですよ。
私も最近読んでてそんなに少し理解できるようになったんですよ。
森博さんの小説をいっつも読んでると、
このカラクリきっとこうだなみたいなのがなんとなくはわかってくるっていうね。
一生懸命推理しませんけどね。
パターンがありますからね、やっぱり推理小説のやつ。
作家さんごと。
やっぱり同じように、
なんていうんだろうな、
特に分析家ごとのパターンがあるんですよね。
面白いことにね、
推理小説じゃないんで、
筋書きはそこにないはずなんだけど、
そういうパターンが、パターンのようなものがあるんで、
瀬戸楽さんのほうをずっと読んでると、
多分こういうことなんだろうなっていうのは、
なんとなく想像がつくようになります。
これ聞いてる方もなんとなくはあるんじゃないかと思うんですけど、
要はそのアイアンマンレースに出ます。
夫はそれに勝手に出て行ってしまって、
私を見捨てようとしてるんだっていうのを訴えてるわけですよ。
こういう形で。
これはつまり、
お前ロンドンに家族で行っちゃうのかという、
ドイツメンガーとやってるのと何ら変わってないんですね、
言ってることはね。
それを夫に置き換えて言ってるに過ぎないんですよ。
この上品な奥様はね。
つまり、
お前、友人にそそのかされて私を見捨てる夫のように、
家族にそそのかされてロンドンに行ってしまって、
それでいいのかっていう話なんですよ。
私はまたこういう形で置いてけぼりを食らうと。
そして、アイアンマンレースですからね、
灼熱の多分暑いんでしょう。
暑さの中でバッタリ倒れると。
そういうことになっても知らないよっていう、
知らなくはないんだけどね。
そういうことになっちゃうんだよって、
これはどういうことかというと、
これはセドラックさんの解釈なんだけれども、
私はすごく長時間に責められて、
ものすごい罪悪感に身が焦がれるようになったっていう、
ここで英語を書いてあるんですけど、
要するに暑さにやられるわけですよ、長時間のね。
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それと太陽にやられるご主人が重なってるわけですね、
この話の中で。
なんかよくわかんないけど、
うまくできすぎてないっていう話かもしれないんですけど、
真実かどうかはこの際どこでもいいんですよ。
これをどう解釈するかの話なの。
だから解釈ってことが、
多分しつこくしつこく言われるんだと思うんですよね。
この解釈をしてみて、奥さんにしてみて、
さあどうなるかって話。
めちゃくちゃハラハラドキドキじゃないですか。
そんな解釈をしても、奥さんが逆切れしても全然教えないじゃないですか。
何をくだらない話をしてるんだってことになりかねないじゃないですか。
でもスーパーバイザーの人も言ったんですよ。
あなたは罪悪感で熱くなってるというふうに、
スーパーバイザーにセドラックが言われるんですね。
それでちょっとピンとくるわけですよ。
そういう話を聞いているうちに、
おそらくもっといろんなことがあったんだと思うんですけど、
まあ突き詰めていくとこういうことになっていくわけですよね。
で、その夫人に実際こういう解釈をしてみて、
あなたはその梁さんみたいな夫が自分を見捨てるというのと、
私がロンドンに行ってあなたを見捨てるというのと、
重ねてないかっていうような解釈をすると、
で、その女の人が静かに納得してですね、
そうでないとは言えないって言うんですね。
これが解釈が多分ですけどね、
解釈がヒットするみたいな話のことなんですよ。
本当なのかどうかじゃないんですよ。
そういうふうな情緒に自分が動かされていたと、
自覚が持てるかどうか、
そういう話の展開にできているかどうかってのが、
多分大事なんだと思うんですよね。
そうでないとは言えないっていうふうに言って、
だから要するに何が起こればいいかというと、
見捨てられ不安に耐えられるようになれば一番いいわけですから。
だからそういう意味では、
このセドラックがロンドンに行こうが行くまいがいいんですよ。
こう思えてしまえば、
このロンドンに行ってしまうという倫理規定違反みたいな問題は問題ではなくなる。
これがちょっと美しすぎる気もしますけれども、
うまいこといったカウンセリングなんですね。
この時、倫理的には問題がないとは言えないわけですよ。
セドラックも書いてますけど、
患者を見捨てて自分の都合を優先するわけじゃないですか。
家族でロンドンに出ると。
結局そっちが第一優先になってるわけですよ。
第一優先になってやむなしという内容ではありますけれども、
とにかくそうであること。
違いはないわけです。
患者ファーストでなければいけないという規定がある中で、
どういう事情があるにせよ、
患者ファーストではないということになってしまってるわけですね。
ここにナルシズムって問題も出てきますよね。
患者さんの方にしてみると。
ナルシズムの一つの定義ですけれども、
現実が自分に合わせなければいけない。
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つまりそういうことが難しくなるような設定を作っておくことで、
患者さんは自分のナルシズムに気付きやすくなるってことなんですよね。
自分ファーストにしてねって言ってるわけですからね、結局ね。
倫理がどうであろうと、規定がどうであろうと。
引っ越すわけですからね。
その引っ越しにすら留めてでも自分の世話をしろっていうのってすごいじゃないですか。
まさにナルシシズムなんですよ、ここには。
ナルシシズムもあるってことですね、ベースにはね。
そこはこのセッションではあんまり話題として出てきてませんし、
一番ここで問題にしたかったのは、
ゼドラックさん自身の長時間の問題だったんで。
お前いいのかそれでと、自分を責めたわけですね。
その時さっきの言葉が出てくるわけですよ。
優しさのない真実は本当の真実とは言えないってことですよね。
つまり真実として、ゼドラックは見捨てちゃうんですよね、患者を。
それは非倫理的だというのは真実なんですよ。
でもここを過酷に言い募るってのは優しさがないわけですね。
それが本当の真実とは言えないってことなんですよ。
だから本当の現実はもっと別のところにある。
もっと優しい形で見出せるはずだっていうのを探っていかなきゃいけないということでもあると思うんですよ。
これはですね、私は相互的長時間と言ったりするんですけど、
とにかく長時間が言うことっていうのが事実に基づいているときというのは、
容赦ない長時間の猛威を振るいやすいわけですよね。
特に精神分析の場なんかではそうなりやすいわけです。
なぜならそういう目にあってきた人と一緒に協業、共同作業しているからですね。
親がうんを言わせないわけですよ。
例えばなんだっけな、何でもいいんですけどね、
お前東大に行きたいって言ったのはお前だろっていうようなあれですよ。
ああいう言い方をすると、もうちょっと勉強つらくなってきたし、来年落ちると二郎だしって言うじゃないですか、子どもがそういうことを。
そういうふうに言いたくなることありますよね。
それに対して、そんなこと言ってて何になるんだみたいなのは、それは事実ですよね。
事実、そんなこと言ってても何もならないし、
お前がそもそも行きたいと言ったから、
俺は一生懸命働いて、お前のための予備講題も出してるんだ。
これも事実ですよね。
こうやって事実に基づいているときは容赦なくなっていくんですよ。
これを言ったんですよ、シュタイナーは。
そういう真実は本当の真実ではないということなんですね。
これがですね、大好きな人が何故かいっぱいいるんですよね。
過酷な真実をどんどん突きつけて追い込めば、人生うまく回るみたいな。
私はそれがいろんな人生を台無しにしているとしか思えないんだけど、
だから、極めて逆説的なんですよ。
優しくない真実は本当の真実ではないなんていうのはですね、
滅多にそんなことを言う人はいないし、
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滅多にそんな風に聞くこともできない。
だからやっぱりですね、私はこれは名言かなって思うわけですね。
最初に言いましたけれどもね、
こういう名言は本当にシュタイナーが言ったのかどうかっていう話を詰めていくっていうことをやると、
私は優しくはなくなると思うんですよね。
真実の追求にはなると思うんだけど。
だからすごくこういうのっていうのは私たちの世の中にあちこちに実際にはあって、
非常に私はこの言葉を読んだ時は、これは実に矛盾してるっていう風に思ったんですよ。
非常に矛盾した言い分だと。
なぜなら真実っていうのは大体の人にとって客観的心理を指してしまうので、
2×2は4ってやつなんで。
事実そのものっていうのは客観的じゃないですか。
優しいかどうかっていうのは多分主観的じゃないですか。
だからこの長くて短い鉛筆みたいな非常に不安定な表現に見えたんですけれども、
だから非常にいい表現なんですよ。
我々が生きていくっていう上では、多分欠かせない態度なんじゃないかって感じがするんですね。
明言ない事実については、明言でもなんでもないじゃないですか。
言ってる本人はどういうつもりであるにせよですね、明言冷酷な事実を突きつけるっていうのは、
みんなやってますよね。Xとかでも。
つまりあれは相当誰にでもできるんですよ。
やってる人の気持ちはともかくとして、あれほど簡単なことは実はないと思うんですよね。
相互的長児画って言葉がそれをよく物語っている。
相互的ですからね。
もう後半ですよ。
つまり幼い長児画のやりがちなことなんですよ。
おそらく4,5歳とか、よくて7,8歳の、
そういう子供っていうのはすごく事実に基づいた詰め方をできた時に、
ものすごく嬉しくなってしまうんですね。
そのまんま親とかになってしまったり、
あるいは親がそういう一種の対抗に近いと思うんだけど、
相互的な長児画に頼って教育とかしつけとかしたがるんですよね。
残念ながら。
それはめんどくさいからとか、いろいろ事情があるんだと思うんですね。
普通のところでそんなのをバンバン振りかざせるっていうのは、
よっぽど立場が強い人であって、
普通は絶対無理なんで。
だから立場が強くなった時に対抗が起こると、
周りにめんどくさい目に遭うということはあるんだろうと思うんですけれども、
こういう時にも、このシュタイナーの言葉っていうのは威力あるなって思うんですよね。
これを外に向かって言うのはほぼ無理ですよ。
そんなこと言っても、
多分全然伝わりもしなければ通じもしにくいと思うんだけれども、
これを内面で言えるっていうのは、
一つの力になるだろうなっていう感じがするんですね。
だいたいセドラックさんが、
こういう目にいっぱい合うんですよ、精神分析化っていうのは。
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そういう構造になってるわけですから。
さっきのは、そういう相互的な長寿がという観点から見てもいいし、
優しくない真実っていう観点から見てもいいと思うんですけど、
もちろんウィニコットの構造化された失敗みたいな、
あるいは予告されていた失敗みたいな考え方をとっても、
悪くはないと思うんですよね。
精神分析化は失敗しなければいけないっていう。
この失敗は大きなチャンスになるわけですよね。
セドラックさんそのことは書いていて、
これは非常に自分は辛い目にあってるけど、
ここが大きなポイントになるに違いないという予感があった、
みたいな書き方をしてるんですけど、そういうことなんですよね。
だからあれこれ手を打ってはいけないんですよ。
黙って困ってなきゃいけない。