夫婦関係についての議論
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1151回をお送りします。
3月7日、金曜日、朝の8時3分です。
そうそう、8月15日、土曜日の山崎孝明さん、新井さんと私で、カナエ団でお送りするイベントですね。
会場は満席となりました。どうもありがとうございます。
本当にこのタイミングで満席は全く想像してなかったので、大変嬉しいです。
渋谷会場は、これ以上変更も増額も難しいので、今回はこちらでも完了とさせていただきまして、お申込みはですね。
引き続きお申込みいただくには、オンラインから、もしくは動画の販売、動画アーカイブを予約購入していただくのがいいかなというふうに思っています。
3月16日以降の動画販売に関しましては、まだちょっと引き続き検討中と言いますか、基本は避けたいというところからなので、避けたいと思っておりますので。
できればですね、3月15日までにご購入いただくと大変助かります。
はい、でですね、先日その新井さんとの間でもお話ししたんですけれども、この精神分析の知識というものについて、あらこうだと、非専門家たちが喋ることに、
山崎さんはほぼ専門家ですけどね、何か意味があんのかということについて、ちょっと今日はその意味の方から迫ってみようかなと、無謀な試みなんですけどね。
まあ、やるだけやってみようと思って、これから考えてるんですけど、
例えば夫婦といったことについて、私もこれは結構ですね、
いろんなエッセイ漫画とかを読んだり、今100日チャレンジでも、なんとなくそれにまつわるこれはお悩みなのかなっていうようなのを読んでみたりしているうちに、
これは力度、精神分析からアプローチするのが一番いいだろうなと思うんですね。
先日、夫婦関係学ラジオというので、勢力的に活動されている、これはこれからちょっとビッグになっていくんじゃないかなと勝手に思っているアツさんという方がですね、
僕が勝手に思ってるだけなんですけど、なぜそう思うかというと、彼は夫のために、男のために活動されてるからなんですよ。
これが今まで非常に少なかったんですよね。どうしても夫のためとかになってくると、じゃあ家事にチャレンジしましょうとかになるんですよ。
そういうことも全く言ってないわけじゃないんですけど、そうじゃないんですよね。夫のためにというのは。
2つ大事なポイントがあるんですよね。1つは夫が全く気づかないうちに、奥さんの怒りを蓄積していく。
これがですね、耳覚えがなさすぎて理不尽な感じしかしないんですよ。これを私はですね、やっぱり物理的に僕は考えるからね、押し付けられた抑鬱不安と僕は思ってるんですね。
基本それは抑鬱不安なんですよ。妄想分裂、PS系の不安ではない、迫害不安ではないと思うんですね。
夫はもしかすると妻が怒るからとか妻に迫害されてるって思ってるんだけど、でも夫が心配しているのはおそらく夫婦の未来なんですね。
だからこれは抑鬱不安だと私は思うんですよ。自分の不安じゃないから。自分が責められているという多色思考とはちょっと違うんで、
自責が入っている感じが非常に強くするんですよ。何か他者のを含む世界なり関係の未来を心配しているから、強く不安に思っている、行き通っているかもしれないけど。
だけれどもこれをどう考えても自分の身に覚えがないっていうところがあるんですよね。そういう意味で押し付けられている感じがするんですよ。
押し付けられている分迫害的になっていく。そもそもこういうふうに考えること自体が非常に分析的であって、夫婦関係学的ではないんですよね。現代的でもない。
だって今のはいくつかの用語を自明のものとしちゃってますから、まず抑鬱不安って言葉は一般的じゃないね。
抑鬱ポジションにこれは基盤を置いていて、完全にこれは対象関係論にしか出てこない言葉ですから、最近は自我心理学の方でも出てくると思うんですけどね、アメリカの方でもね。
でもいずれにしても精神分析知らない人には何のこっちゃってことになる。雨の日の心理学に出てきますけどね。妄想分裂ポジションというのと迫害不安でしょ。
もう完全に精神分析の観点を取らないとこの発想自体が違うものになっていくんですよ。
例えば夫がなんだろうな、無神経だみたいな、そうは言わないにしても男には見えていない育児の大変さがあるみたいなね。それはそうなんですよ。それはその通りです。
ただ私はそれをなんで抑鬱不安とか迫害不安とか押し付けられた抑鬱不安とかいう言い方をしたくなってるかというところがミソなんですよね。
別にこれらの用語が大好き、僕これらの用語はいいと思ってないです。迫害とか抑鬱とか、イニコットも言ってましたけどいい名前じゃないと思いますが、専門用語ってのは下手に動かさない方がいいと思うんですよ。
僕は簡単にどこからか出てきたようにしてしまってはいけないので、いけなくはない、いいんだけど、私はそれを避けたいという強い気持ちがあるんですよ。
やっぱりですね、ナルシシズムを安易に自己愛と訳した、安易じゃないんですけど、すみません怒られますね。自己愛と訳したり、余ったナルシストとか言ってしまうとですね、
だんだん元の意味の非常に大事なポイントがごっそり抜けて、雰囲気だけ伝わっちゃうようになっていく。
私はそうなってしまうと精神分析をせっかく勉強する意味がそれこそ全くなくなるんで、それは本当に単なる通俗的な何かの批判になっちゃうんですよ。
それを避けたいんですよね、私としては。だからやっぱりここの用語は元の用語がいいとは思わなくても、あんまり動かさない方がいいと思うんですね。
夫婦の問題となってくると、どうしても、でもご主人のこと愛していらっしゃるんでしょうとかね、あなた好きで結婚したんでしょうとか、この話になりがちなんですね。
これは個人に主体性があるということを大前提においているから、この発想をするのはともかく当然として、さらに他人に突きつけてもいいみたいになっちゃう。
結婚と自己責任
いいことになってしまう。でも私はこれは親習的だと思う。これもまた精神分析的用語なんですね。
これを言われると相手にとってはトラウマをかすめることになるから、その問いは私は立てたくないわけですよ。
私たぶん3ヶ月チャレンジで、夫婦関係のお話になった時に、なぜ結婚したのかとか、ご主人を今でも愛しているのかみたいなことは言ったことがないはずなんですよ。
言っていたらすみません。言った記憶はないんですよね。なぜならばその問いは主体が相手にあるということにしてるから、でも私はそれを信じてないんですよね。
結婚のエッセイでもね、やっぱりこんなに夫のことが嫌いになって、ほら何年も口も聞かないみたいなのあるじゃないですか。
私は一体なぜ結婚したんだろうってなった時に、わりとしょうもない理由で結婚して、ああ本当にあの頃の私はダメだみたいになるんだけど、これが私は嫌なんですよ。
そんなはずはないだろうって思うんですよ。このね、真に大恋愛をしたからいい結婚生活が待っていたり、その後ダメになってしまったのはあの時、いやこの男イケメンだからいいやみたいな、安直だったからいけない、それはナンセンスだと思うんですよね。
学校選びにしても、友達選びにしても、友達選びって特にそんなに考え抜いてやるか。あるいは就職活動だって結構安易に選ぶじゃないですか。
で失敗したり成功したりはそれはしますよね、当然。それは調査が足りなかったから失敗したんだろうか。
そこで、課長に肩触られましたみたいなことが起こることが予期できるか。事前にどんなに調べたところで予期できるだろうかと。僕は絶対無理だと思いますね、そんなこと。
後から市長が入ってきて、知事が入ってきて、後からですよしかも。その時はその人が知事になるなんて絶対わからない知事が入ってきて、こんなことが起きるんです。そこにNHKなんとかなんとかっていうのも入ってきて大変なことが起きます。わかるわけがないじゃないですか、事前に。
調査をいっぱいするってことにそれほどの意味があるとは僕は全然思わないんですよ。何度もこの番組では言っていて、彼にも大変恐縮ながら、私はやっぱり3.11の事件がですね、すごく僕の中では響いてるんですよ。
あの私の仕事のパートナー、名前出しませんけどこういう名刺は、あれほど慎重で予防的で保険をかけて間違いのない生き方をする人が、よりにもよってあのタイミングで私と同じ場所にいる。これは予防というものに僕は何の意味もないことの重大な証明だと自分の中では決めてあるんですよ。
彼ほど私は人生で慎重に生きることは決してできないが、生死を分けるタイミングでは同じ場所にいたんですよね。同じ場所にいたってことは、それだけ無謀なことはなし得るってことなんですよ。
どれほど先読みをすることに神経を配っている人であっても、私のようにめちゃくちゃうかつな人間であっても、生死を分けるほど重大なタイミングで同じ場所にいるんですよ。
人生そんなもんだなって私は思うようになってから、この種のことについてつまり未来について予見できるという考えを完全に捨てることができたんですよね。あれはいい事件でした。
無理なんだということがよくわかったんですよ、あの瞬間。他の人がどう思うかわかんないけど、僕の中では彼ほど私は十分な予測、十分な予防、十分な備えができるタイプの人間ではない。
全力を尽くしても彼には及ばない。でも生死を分けるタイミングでなぜか同じ場所にいる。それは良かったのかもしれないし、生きてたんだから良かったのかもしれないですね。
だから無意識に任せとこうと思うようになったわけですね。無意識に任せるというのはつまり私には何もわからないということです。
無意識ってのはそういうものなんです。潜在意識とか全意識とかとは違うんですよ、無意識は。見えない、想像もできない、無意識でも直感ではわかるとかは関係ないんですよ。
無意識はわかんないから無意識、意味ないんですよ、無意識って言葉には。意識されてないんだから。
意識してないものは知覚もしてない。知覚もしてなければ存在しない。存在しないものは当てにはできないじゃないですか。だから存在しないんですよ。
不安には形も色も何もないっていうビヨンの言葉、もう少し踏み込んでるなって思うんだけど、私は無意識というものはそういうもんだと。
この世の中意識してるものだけでできてるんですよ、私にとってはね。
だから意識してないものはどうしようもない、使いようがないんだけど、ただそれを信用しておくことだけはできる。なんだかよくわかんないけど、未来は良くなるんだろう。自分の未来はね、きっと大丈夫だろう。
このきっと大丈夫には何の根拠もないんですよ。根拠があるならばそれは意識されてるじゃないですか。根拠がないからこそ無意識なんですよ。
ここまではただそれだけのこと、未来のことはわかんない。わかる人はいるかもしれないけど、私はわかる人がいるとは信じない。信じないけど、きっと未来は何とかなっているだろうと。根拠もなく信じておく。
なぜなら、これはグッドバイブ素敵ですね。その方が生きてて楽だからですね。
ここまではまあいいとして、夫婦関係に話を戻しますと、未来は良しできない以上、どんなにこの旦那が好きだろうと、大恋愛だろうと、スペックが素晴らしかろうと、資産家だろうと、誠実そうだろうと、頭が良さそうだろうと、そんなことは幸せな結婚生活を保証するいかなる根拠にも僕はならないと思うんですね。
ということは、つまり結婚に成功や失敗もないということ、少なくとも結婚に成功や失敗を見込もうとしても無駄だということですね。
ただ、だからこそなんですけど、だからこそそこで主体性とか自己責任とか自由意志について問われると困るってことなんですよね。
僕は問われるんですよね、この話で悩むと。なぜ結婚したのかと。
これはね、あれも思い出すな。
昔、私ピアノってものを習ってた時代があったんですよね。
で、母が言うんですよ。
お前ピアノやりたいって言ったじゃないか。
これですよね、これ習い事で言われたことありません?
あとペット買うとき言われたりしませんかね。
お前が買いたいと言ったんだろう、世話しろってことですよね。
自己責任だってやつですよね。
未来への信頼と無意識
だけど世話そんなに大変だとは知らなかったんですよ、子供だからね。
ピアノもまさかこんなめんどくさいものだとは知ってたら絶対習わなかったわけですよ。
やりたいと言ったんだから最後までやりに。最後っていつだよって話なんですよ。
まあ私はやめましたけどね、無理やりでも。
水泳だろうとピアノだろうとなんだろうと同じですよね。
そんなにやってられるかっていう話なんですよ。
もっと楽しくやれるなら話別ですけどね。
これはですね、事前に事後に何が起きるかを予期しなければ自己責任は取れないってんだったら誰にも取れないって私は思うんですよ。
まして夫婦は関係だから、そういう風に切り、割り切れるわけがないと思うんですよ。
成功するであろう結婚の戦略とかに、僕は意味があるとは全く信じないんですね。
だからと言ってまだ愛しているならば、これから関係を修復するために努力しましょう。
それは確かに最もなんだけど、その努力ができないっていうところが私の考えね。
その努力ができなくなる日がやってくると僕は思ってるんですね。
本来なのは好きだからその努力ができるっていうようなロジックが僕は成り立たないと思ってるんですよ。
そうではなくて、その努力ができない日がやってくる。
冷戦状態のまま結婚生活を続けるということになりかねない。
で、だったら別れた方がいいという結論ではないんですよ、私は。
そういう結論を私は出したくない。
だったら別れた方がいいっていうのはやっぱり僕は思想的防衛の一種だと思うんですよ。
本当にだったら別れた方がいいのかと思ってしまうんですよ。
好きではない。冷戦状態が続いている。
この人のためには家事はできないとか、この人のためには金を稼ぐ気がしない。
稼いだところで感謝されない。
ここまでは私は必ず怒りうることだと思うんですよ、はっきり言って。
必ずはいい過ぎか。
でも十二分に怒りうることだと思いますね。
だからこれは理不尽だって捉え方は変えられると思います。
で、それは諦めるってことかっていうとそうではないですよ。
その諦めるってこととか、どうせなら別れた、こんなんだったら別れた方がマシだとか、
こうしているのはむしろ精神衛生上良くないと思いますけどね。
良くないと思いますが言うのは全部個人に主体の責任はあるっていう考え方とどっか必ずつながってるはずなんですよ。
絶対つながってるはずなんです。
そうじゃなければこれによって責められる理由はないと僕は思うんですよね。
自分を責めてるはずですし、自分を責めるための根拠も持ってると思うんですよ。
こんな人と私は結婚してしまったとかね。
あるいは私には見る目がなかった、まあ同じか。
そうですね、同じですね。
それって個人に責任を期してるじゃないですか。
そして自分で自分をそうやって責めてるじゃないですか。
多分これ人に相談でもしない限り冷静状態の夫婦関係なんて外から絶対見えませんから、
本人しかわからないことなんですよね。
その本人しかわからないことについて責める人がいるとすれば、それは本人なんですよ。
私はこれを長寿がと呼びたいんですけれども、長寿がは自我なんですよ。
長寿が他者じゃないんですよ。
まあそれは自分の中の他者だっていう人もいるかもしれないけど、そういう言い方でしかないんですよ。
長寿が決して他人じゃないんですよ。
お前、結婚して幸せになれると思っていただろう。
実はその見方は間違っていたぞって親父は私には言ってこない。
絶対言ってこない。一回も言ったことないもん。
なぜなら知らないからね、実態を。
知る気も彼にはないし。
母は言い出しかねないけど下手な相談の仕方をすると、
でもそれは母得意の通りいっぺんのやつなんですよ。
だってお前結婚したでしょ。
うちの母の得意中の得意なんですよ。
これはもういつも同じなんですよ。
で、それに相談してもしょうがないからしませんが、
つまりですね、これもよく思うことなんだけれども、
というかよく思うというか、やっぱり分析的な視点になっちゃうんですけど、
関係の主体は私は関係者の中にしかないと思うんですよね。
私にあるはずがない。
夫婦関係の主体は夫婦関係にあるはずなんですよ。
ここに主体を置かないと、
自己責任論みたいになって、
自分が責められてばっかりいる感じになるんだと思うんですよ。
だからこれをまずやめることだなと。
とにかくこれをやめること。
親の影響
関係の主体が云々というのはわけわかんなかったら置いとくとして、
これを聞かれてしまうんだけど、
これを聞かれても聞かれて答えられるようなことじゃないんですよね。
やめるべきは私に主体と責任があるんだっていうその発想ですよ、まず。
これをやめないことには何も始まらない。
関係の主体が云々なのがわかりません、教えてくださいっていうのが、
そもそも個人に主体性を置いちゃってるんですよ。
なんかそれをですね、イメージできる何かのように思うのは、
無理があるとこかと思うんですよね。
3ヶ月チャレンジで、
私は大好きなんだけど、
ご覧いただいたときに反応がはかばかしくなくて、
欲打ち的になった私の一つの動画がありまして、
でも懲りずに何度も何度も見せてお見せしているんですけど、
一歳児がですね、お相撲さんの発揮よりの姿勢をとって、
力士のおでこをチョンと突くと、
力士が高転をしてくれてゴローンって転がってくれてですね、
でその一歳児とみんなで復讐するっていう、
まあ割とバズった動画があるわけですよね。
私はこれだと思ってるんですよ。
間違いなくこれだと思ってる。
意味全然わかんないかもしれませんが、
夫婦関係とは基本これだと思うんですよね。
一歳児に主体性はないんですよ。
しかし一歳児に主体性がゼロなわけでもないんですよ。
だってお相撲したんだから。
お相撲というものがわかってない一歳児が、
お相撲というものをするんですよね。
で勝つか負けるかということは、
もちろん勝てるわけがないじゃないですか。
でも一歳児の頭の中ではきっとあれは勝ったんですよね。
なんかの形で勝ったんですよ。
ちょこちょこちょこって言って、
ポンっておでこをつつくと、
お相撲さんがゴローンってしてくれるわけですよ。
どっちをやってもいいんだけど、
どっちかをやらないわけにはいかないと思うんですよ。
夫婦関係というものを。
で私は、じゃあお相撲さんは一歳児が好きなんですか?
好きだろうと思いますよ。
だけれども好きなら何でもできるかっていう問いに
してしまってはいけないと思うんですよ。
やっぱり一歳児がお相撲してくれるつもり気に多少は
持ってくれないとあれはできないんですよ。
いくら好きでも。
家事も育児も全部そうだと僕には思えるんですよね。
一人でやるとか犠牲になるとかいうのは
個人に主体性がある。
手伝ってくれないとかそれも個人に主体性がある。
で今の時代にはジェンダー論にしても
フェミニズムにしても全部
個人に主体があることはもう大前提なので
議論を始めるとここで議論が終わってしまう。
だから私はここでは議論をしないんです。
勝手に僕がここで喋るだけです。
主体は個人にはないはずだ。
関係の中にしかないはずだ。
それの意味は分かってもらえないし
僕もよく分かんないところもあるんだけど
それについて考える意味はまず先に
この個人に主体があるという発想そのものを
廃棄するべきだと思っているだけなんです。
まずそれだけをとにかくやらないと
この苦しみからはなかなか逃れがたい。
3年も口を聞かないなんてやってるのは
間違いなく自我と超自我がタッグをがっちり組んで
こいつとは口を聞かないというルールを
お前絶対守れよと自分に
言い聞かせて言い聞かせて言い聞かせて
もう違反したら懲役刑だからね
ぐらいな感じを自分に課すことによって
それを実現しているに過ぎないと思うんですよ。
そこに愛とか憎しみという話を持ってくるのが
そもそも僕は筋違いだろうなって感じがする。
それは憎んでる決まってる
そんなことは100も承知ですが
なぜ私はこの人と結婚したんだろう
いやそんな問いは
自分をただトラウマにするだけじゃないですか。
わかんないですよそんなのはね
友達がその時たまたま結婚ラッシュだったから
悔しかったからそこら辺の男と結婚したのかもしれない。
それで十分じゃないですか。
でもそれは私は理由になってないと思うんですよ。
それはあくまでも個人の主体性というものに
重きを置きすぎた結果なんですよ。
結婚というのは一人でするもんじゃないじゃないですか。
相手あってのことですよね。
そしてこれもまた批判の対象でしかないと思うんだけれども
絶対に親同士は何らかの関係を持ちますよね。
自分の家の親と相手の家の親が
つまり結婚をしたいと思うからにはですね
親の意思がそこに介在していない
介入していない可能性は僕は
生きている限りはあり得ないと思う。
はっきり言えば亡くなっていたとしても
親御さんの意思はそこに明確に入っている。
だって私が生まれてきたのは親の意思で100%ですから
私の意思関係ないからね。
親がセックスした結果じゃないですか。
これをみんなが嫌がるんだよね。
そもそも親がセックスした結果だとか
口に人がするのも嫌がる。
生物学的観点
でも80億の人間は
そういうことが80億回が行われない限り
これはもののない数じゃないですか。
しかもそれが10万年とか2万年とか3万年とか
知らんけどに渡って
2万年に渡ってその数億回から数十億回の
これが行われることによって
これを否認して何になるんだろうって思うんですよね。
私は本当に最近はもう全然
いやらしいとか全く意味がわかんないって
最近は思うんですよ。
ようやく。
いやらしいもヘタクレもあるかって感じがするんですよね。
アリさんのセックスってのも私はよく想像するんですよ。
気持ち悪いかもしれないけれども
確かにそれは多分生物学的脅威ってやつなんだと思うんですけどね。
まあ子供いっぱい頑張って作ってるじゃないですか。
あれ椅子は全部一族のはず。
というか親子のはずですからね。
家族ですよねあれはね。
社会とかって言ってるけれどもあれは家族ですよねどう考えたって。
娘たちですよね。
これだろうと思うんですよ。
原理原則としては。
現実。
一次家庭二次家庭のいわゆる現実原則としてはこれだろうと。
ありには何かがわかってるかは思いませんけど
でも何もわかってないってこともないじゃないですか。
何も全くわかってなければ
ああいう集団で蛇とかやっつけたり
肉、巣に運んだりは一切できなくなると思うんですよ。
もちろん考えてやってるはずはないですよ。
考えるのはないわけだから。
でもやってることは確実じゃないですか。
我々だってああのはずなんですよ。
どう考えても考えてやってるはずないと思うんですよね。
考えてやってたらこうはなってないだろうなという気がします。
本人らは考えてやってるつもりになってますけどね。
昔アンリュベルクソンっていう哲学者が面白いこと書いてたんですよ。
アリをもし言葉が使えてね。
アリにアリ働きアリを捕まえて
お前なんで働いてるんだって問うたら
いやわからないなどとは答えないと。
アリは必ずこう答えるはずだ。
夫婦の主体性
働かなければいけないから働かなければならん。
っていうあれは私すごい衝撃を受けたんですよね。
全くそうだなと思うんですよ。
全くそうだと思うんですよ。
他は全く意味をなさないでしょ。
アリさんにしてみると。
我々だってそうじゃないですか。
やらなければいけないからやらなければいけない。
損してはいけないから損してはいけないでしょ。
断言明報じゃないですか。
昔この番組で盛んに私あれ気に入ったからずっと言ってたんですけど
ウィニコットって人がね。
アドックイズアドックイズアドックってのがいつまでも続く。
つまりどん詰まりだと。
これがね、なんで臨床でそれがそこまで生きるのかなと思ったんですけど
私臨床じゃないつもりなんですけどね。
3ヶ月チャレンジで何回もいろんな方とやっているうちに
ものすごくアレが響いてくるんですよ。
すぐどん詰まる。
なんでなのかわかんないんだけど。
確かに理にかなった話してるつもりでいるんだけど
それこそね、家事がしたくないとか
いろんな話を聞いているうちに
こうしてみたらとか、してみたらとか
こうこうだからとか、お母さんがとか
いろんなこと言ってるうちにどん詰まる。
必ずどん詰まっちゃうんですよ。
行き詰まっていく。
アドックイズアドックイズアドック
犬は犬であるは犬である。
っていう感じになっちゃうわけですよ。
やっぱり私は動きたくないは動きたくないから
動きたくないから動かないんだ。
っていうような世界になっていくんですよ。
そして何を言っても何かが返ってきて
結果としてはその人が動かないという結論が出てくる。
無駄だって感じが。
ものすごいです。
ここがスタートラインだって教えてくれたんですよね。
藤原直樹さんは。
家庭内の関係
カウンセリングとは全てそこがスタートラインだって教えてくれた。
人に悩み相談する意味ないじゃんってことですよね。
自分で解決しちゃいますよね。
で、なんでお相撲さんコロンの話が出たかというとですね。
これをやるのが嫌だってなってしまったらアウトだってことなんですよ。
あの一歳児がいやいやそんなギャーって泣くよみたいな
路標なんかで手つかない。
僕はギャーって泣くよってなったらもうどうしようもないじゃないですか。
無理やりやらせる方法全然ない。
ぶっ飛ばしたって無理じゃないですか。
ただ泣くだけじゃないですか。
で、お相撲さんにしても同じじゃないですか。
子供に疲れたってね。
そんなだって子供に疲れて倒れるわけがないじゃないですか。
だから俺は倒れないよってなったらもうアウトじゃないですか。
で、じゃあお相撲さんの主体性を発揮すればあれができるか。
できないですよね。
一歳児の主体性そんなものはそもそもあるかどうかも疑わしいですよ。
でもトトトってやってやった。
コロンってなる。
そしてみんなでなんか楽しかった。
一歳児は大満足して拍手する。
そしたらバズる。
そういうもんですよね。
文化的な営みというものは。
無意味だっていう考え方も当然あると思いますよ。
昨日オランダ対日本がやってたんだけど、
何のためにオランダからはるばるやってきて、
9対0でやや一方的に日本が勝って、
それを何万人が見て、
うわぁ素晴らしい。
何がどう素晴らしいのかって言われれば、
そうだと思いますよ。
あれは全部人工的に作り出された。
言ってみれば大真面目にやってるけど劇ですからね。
筋書きのないドラマとかかっこいい言い方しますけど、
筋書きはないんだけど、
でもまあ日本が勝つだろうなっていう筋書きはある意味ありますよね。
何のためにそれやってんのっていう言い方をしたら、
かなり難しくなる。
ただ誰にも主体的責任が100%あるってことだけはないですよね。
ピッチャーは昨日ロッテのタネイチってピッチャーだったんだけど、
彼がやれば、彼がやるぞって言えばできるか、できるはずがないんですよ。
大抵でも18人には野球いりますから。
で、あの選手たちが主体的にお膳立てをしたわけではないですからね。
国際マッチは特にそうですけど。
じゃあコミッショナーとかが決めればできるかって言うと、
そうではないですよ。
しかもあそこで有名な古田さんっていう人が解説してましたけど、
解説者っていう人が作ったわけでもない。
で、テレビ番組を作った主体もあの試合を作ったわけではない。
結局主体は何なのか。
僕主体をね、球場だなって時々思うんですよ。
これを作ったのは球場だなって思うとだいぶしっくりくるんですよね。
野球大好きな人間にはちょっと伝わるかもしれない。
藤山直樹さんがやっぱり精神分析で効果を出すのは、
この精神分析をやってるルームだよっていうのはですね、
私はすごくしっくりくるんですよ。
そうだなぁと思うんですよ。
それを言われてしまうと3ヶ月チャレンジはオンラインだしなっていうのあるんだけど、
感主体性ってのはやっぱり僕はすごい大事だなって最近は思う。
特に夫婦はね、間違いない。
夫婦は特に今のように、
夫婦は建前だとしても対等だっていう時代になってきたら、
夫に主体性があるはずないから。
やっぱり夫婦だの家族だのは家が主体かな。
だから喧嘩をアレンジメントしてるのも家なんですよ。
家屋。
そう考えて、だからそこで口を聞かない奥様を作り出したのも家なんですよ。
僕はそう考える。
そう考えることによって、この怒りってものがほとんど意味をなさなくなる。
だから夫のために家事をするというよりは、家のために家事をしている。
だからこれがですね、江戸時代のお家みたいな考え方みたいになってくるとあれなんだけど、
なりかねないんだけどね。
物に主体性を置き始めるとですね。
だから本当は関係の間に置くのが一番いいと思うんですけど、
なんて言うんだろう、この空間にある感じ。
家のような物、物自体だとすぐペータ排出の対象になってしまうんで、
この家を憎み出したらもう、
なんかあるいはお家様みたいになっちゃって、
家は全てなんだみたいになって、
家を綺麗にしておくために、
私たちは要するに家に戦亡しちゃうわけですよね。
家を防衛の対象にしてしまうんですよ。
そして私たちが行き届かないから、
お家が成り立たないんですみたいになってしまうと、
完全に江戸時代になっちゃうんで、
そうではないんだけど、
でもやっぱり私に主体があると思うぐらいだったら、
だってこのなんて言うんですかね、
ここからみんなが撤退してしまったら、
もうこの家って何の意味もないものになる。
本当に単なるものになっちゃうじゃないですか。
空き家みたいな感じで。
今空き家の活用みたいな話もされてますけど、
でもそれってつまり、
空き家のまんまであったら、
本当に物自体でどうしようもなくなって、
犬は犬であるは犬であるみたいな、
空き家は空き家であるから、
空き家であるみたいになっちゃうわけですよ。
何もただ立ってるだけで、
それに何の意味も見出せないみたいな、
世界になってしまうじゃないですか。
でもここん中で、
それこそ夫婦と子供がわきあいあいでいったら、
めちゃくちゃ意味あるものになるじゃないですか。
こういう感じなんですよね。
で、それは選択の問題とかではない。
少なくともそれだけではない。
これからじゃあその方がいいからわきあい、
どっちがいいですか。
引き切った夫婦がいいですか。
それでもわきあいがいいですか。
好きな方を選んでください。
そうですよね。
わきあいがいいですよねっていう感じにしてしまうと、
全てを未来思考にしてしまうと、
なんで3年も口を聞けないようになったのかってところを、
そんなにすっぱり落とせないと思うんですよね。
つまりそれは主体だけの問題では絶対ないと僕は思うんです。
それは関係の問題で、しかもその関係には関係者というものがいて、
つまりその2人が生まれたいきさつというものがあり、
産んだのはそれぞれの親であり、
その親にはおそらく結婚させたいという子に結婚生活を送ってほしい。
だって自分ら結婚した結果、子ができてるわけですから、
その子に幸せになってほしいと思えば、
その子に結婚するのは悪いことじゃないよって言いたくなるじゃないですか。
そんなに単純じゃないですけど、
そういう気持ちはどこかに流れてきてるわけじゃないですか。
夫婦お互いにですね。
つまりご先祖様なんですよ。
この話をたどっていくとご先祖様に行き着いてしまうと思うんですね。
僕はそれがある種の欲打つポジションってことだと思うんですよ。
欲打つポジションはやっぱりミニコットが言った通り歴史的ポジションなんですよ。
私の歴史っていうのはそんな大した名家でもなんでもないから、
実に明治以降の家だけど佐々木家なんですよ。
私の歴史というのは。
だから佐々木家の意思というものがそこには明らかにあるんですよ。
私がここにいるということの意味はですね。
向こうは向こうであるんですよ。
歴史的ポジションにいることを考えると、
私が決めたわけではないし、
奥さんが結婚ラッシュの友達に置いていかれるのが、
先祖の影響
そういう気持ちあったかもしれないけど置いていかれるのが不安だから、
そこらへんの佐々木とかいう奴と結婚してみたっていうことだったのかもしれないんだけど主体的には。
でも歴史的にはそうじゃないんですよ。
この歴史は嘘じゃないじゃないですか。
確かに今我々がここにいるということは、
ご先祖様の意思があったわけですよね。
ご先祖様もセックスしたかったわけですよね。
だからものすごく残すに言うとそういうことになりますよね。
私はこれを持ってここだけを否認することほど、
なんか虚しいこともないような気がするんですよね。
否認できないと思うんですよ。
ここだけ否定して、そこだけなかったことにするとかね。
いきなりここに2人だけいて、
いわゆる近代的自我っていうのが2人ボンといて、
それぞれがロマンティックラブに陥った間だけは成立する。
むちゃくちゃ無理だと思うんですよね。
そんなことができるわけがないと思う。
2万年高の歴史は一切ないことにして、
ここに唐突に個体があって、
その個体の自由維新だけがよりどころになっている。
それが結婚生活ですって考えようとすると、
わきあいあいとした断乱のほうがいいか、
みたいな問いでしかなくなっちゃうと思うんですよ。
そんなのは危機的状況に陥ったときには、
何かのコマにはできないような気がするんですよね。
すごい簡単に消し飛んでしまうと言いますか。
到底納得できなくなっちゃうと言いますが、
だから納得できなくなるんですけれどもね。
個人の納得が問題になってしまうのは、
個人の自由意志が根拠になっているからだと言いたいだけなんですよ。
私が納得するかどうかが大事なんだっていうのは、
みんなそう言うじゃないですか。
私が納得できるかどうかが大事なんだと。
そんなはずないだろうって思うんですよね。
両親と子供の関係
それほどの根拠をお前持ってなかっただろうって言いたくなるわけですよ。
私が納得できるかどうかなんて全然大事じゃないなと。
これがないがしろにされたって、我々近代人は思いたがるんですよね。
僕はここを手放すというのが第一歩のような気がしますよね。
お前が私が納得できるかどうかなんだよねみたいな。
そんなはずないじゃないですか。
私が納得できるかどうか。
お前はどれほど自分を重大な存在で重物だと信じる。
実存主義ってありますから。
私が納得できるかどうか確かに大事ですよ、私としては。
でも夫婦関係、家族関係において私が納得できるかどうかが大事ではないと思うんですよね。
そうするとしょい込みすぎてる感じがやっぱりします。
相手の家の意思みたいなものが、それも何千年以上の意思っていうものがそこにあるのに、私が納得できるかどうかがそれの全てだ。
こっちの意思もここに至るまでに何万年もの意思がそれに関わってきた人間全ての意思がここに結集されてるのに、
私がここにいるかどうか、私が納得できるかどうかが全てだとはならないような日がするわけですよ。
子はかすがいとかって言いますけれども、子供ができちゃってるわけじゃないですか。
ここも歴史的ポジションですよね。欲打つポジションですよ。
つまり経緯があるわけ。突然できませんよね。
ヤベス畑から拾ってきました。ではないですよ。
作るのに多大な労力を要求したでしょう。
子はかすがいっていう、要するに夫はもうダメだけどこの子が一緒にいるからここにいたいんだよみたいな、結局そういう話ですよね。
それだって、一つ私の意思、私が納得できるかどうかだけではままならないってことを強烈に言ってるわけじゃないですか。
で、一人じゃ作れないでしょ。
これもまたすごい大事なポイントですよね。一人では絶対できやがる。
一人でできたと思いたいというのが、要するにナルシシズムの極致なんですよ。
私が全てを作ったと思いたい。良いものは全部私から出てきたと思いたい。
ここに僕らは根拠を置きすぎるんだと思うんですよね。
自分が納得できるかどうかだってことは、自分が善悪の徹底打に成り得るってことになってますよね。
少なくとも自分の世界においては。
そうすると、良いものは全て自分発なんだっていうような話になってますよね。そこでは。
だからこの子は私のものなんだっていう不思議な感覚があるじゃないですか。
明らかにそうではないですよね。
この子は少なくともその子自身のものですし、両親両方のものですよね。
そしてということは、ご先祖様のものでもありますよね。
たぶんこれを僕らは認めるのが、明らかに嫌になった時に、
全てが綺麗であってほしいとなった時に、
どこからか我々の良いものがやってきたと信じたくないんですよ。
僕は両親のセックスが気に食わないっていうのはそういうことなんだと、
突き詰めると思うんですよ、やっぱり。