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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日、つい顔色を伺う私を手放す方法が、ようやく発売になりました。
もうちょっと、ネットの方でも告知していこうと思うんだけど、
思えばですね、個人の作家って、このような活動もネットですし、
ネット上しかできることないなと。
昔ですね、書店巡りとかしてみたこともあるんですけど、
売れてる本だといいんですよ、それなりに。
簡単に、形式的なものかも、社工術的なものかもしれませんが、
簡単にしてくれるムードはあるんだけど、
まるで売れていないような本を書店巡りしてお願いしに行っても、
なんかもうこう、名刺交換ぐらいはしてくれるけれども、
後の話に聞くところによると、
著者には回らせないように、みたいなことを言われるケースもあるらしいんですね。
だから、いろいろ小耳に挟んだものを総合すると、
決してそう歓迎されるものじゃないんだなということを知って、
それを知ってやめたというよりは、
あれはとても大変な上に効果がさっぱりわからないので、
やらないようになっちゃったんですけど。
リアルでできることってほとんどないので、
ひたすらネットでアイデアを考えつくしかないなといつも思っています。
ただし、これはほとんど全ての人が考えてそうなことなので、
モノ売る関係の人は今時はですね、
なかなか妙案で思い浮かばないなと思いながら、
この季節をいつもこの時期を迎えると、
こういうことを証拠にもなく考えなきゃならない時代、
時期、時代、じゃあ時代なんですけど。
まあ、いろいろあります。よろしくお願いします。
10月31日に、
昨日も倉澤圭祐さんと収録したときに話題になったんですけど、
やります。出版記念セミナーやります。
これを結構面白いんじゃないかと思っているので、
ぜひですね、お時間がありましたら、
来ていただけるといいんじゃないかと。
これはやる方は常に思うことだけど、
いつもよりも終わりと思っています。
なぜならば、多分久しぶりにリアルでやるからだと思うんですね。
せっかくまだ第6波とかも来てなさそうだと思うので、
よろしければお願いします。
最近はその話の流れで、
今日ちょっと変則的でですね、
どうしたって9時には切り上げなければ。
今8時38分なんですけど、
切り上げなければならないんですね。
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この切り上げなければならないのが、
エディプスだと僕は思うんですね。
すげえ唐突なんですが、唐突なのはこの番組の特徴です。
不正というもの。
日本ではですね、なぜか嫌われていると思われているというか、
嫌っているという人は多分少なくないと思うんですね。
先日セミナーの時も、
僕がグッドバイブスは一番何に似ていると、
仏教的に何に似ていると言われれば、
善だって言った時に、
ちょっとこうですね、
あれ?って感じの空気があったことがあったんですね。
こういうことを僕がすごい気にしているとは、
この話も昨日本当はしなきゃいけなかったんだけど、
気にしていると思われているかもしれませんが、
僕は別にそういうことは一切気にしていないので、
この話を聞いていて、この話題を振ってくださった方は、
僕はそれをネタとして使っていると思っていただければ、
だから大変ありがたいお話なんですよ。
これを喋っている時以外は、
外してこの種のことは全部忘れています。
グッドバイブスをやるようになって、特にそうですけど、
僕はその細かいことをよく覚えておけるタイプでは全くないんです。
なので、そんなにショックを受けたとかでない限りは、
大体即忘れてしまうんです。
僕の性格って、僕はつい顔色の本も書くくらいだから、
気が小さいと思うんですよ、自分でも。
だけれども、例えば夜寝つけないとか言うことはないんですね。
ほとんど布団に入って30秒で、ほとんど寝落ちしてしまうんですよ。
それくらい僕は引きずらないんですよ、本当のところ。
1日ぐらいは引きずるし、
引きずっていることをひどく僕は根に持つようなところもある一方で、
現実には大して引きずってないんですよ。
3日も経てばほとんどのことは忘れてしまうんですね。
そして、グッドバイブスを知って以来、
そのことに全く悔やまなくなったので、
以前はそういう自分が少し問題なんじゃないかと思っていたから、
引きずるようにむしろ心がけていた面があるんですけれども、
今は引きずるということに何のメリットも見出さなくなったために、
即忘れちゃうので、全然僕は気にしていないので、
いろんなことをもっと気にしろと言われても、
たぶんグッドバイブスを知っちゃったから、
当面全く気にするようにはならないと思います。
何の話をしていたかというと、不正なんですね。
不正原理というものは、好むと好まざるに関わらず、
悪人症季節みたいな話があるにも関わらず、
僕は関係なくそこら中にあると思うんですね。
これはむしろ僕は仏教的な話から感じることなんです。
うちの寺だという話はよくしていますが、
非常に不正的な宗派です。
そういう方面から見ると、うち浄土新宿じゃなくて、
浄土教的な、いわゆる日本の母性的だと言われている、
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あれは偉い人がみんなそう言ってるくらいだから、
そうなんでしょうけど、
僕には割とそうは見えないんですよ。
というのは、結局あれは近世のものですね。
近代よりさらに前ですね。
ビフォア近代なんですよ。
その時代にポストモダンみたいな考え方であったとは、
僕は思わないんですね。
だからそういう意味で母性だと言われて、
言われているんでしょうけれども、
この話すごいどんどん起溢して、
何の説明もせずにガッときちゃいましたけど、
要は何でも許すってわけじゃないですか。
今時で言えば許しがたいみたいな話いっぱいありますが、
何でも許すと、浄土教ってそういう宗教だと、
ある程度見なされていますよね。
だからそことグッドワイブスが類似してるんじゃないかって話があると思うんですけど、
僕はそういうふうには見ないんですよ。
グッドワイブスは悪夢の中で、
そういうふうには見ないんですよ。
グッドワイブスはあくまでもポストモダンに登場してきたもので、
今登場するものが本格的であろうとしたら、
この言い方を取らないわけにはいかないって私は思うんですね。
私は近代以降で、特にポストモダンの現代にあって、
これが正しいんだっていう話は、
基本信用されることはありえないなって思うんですよ。
何が正しいかは、言えないという時代にすっかり入った後なんですよ。
原爆とかありますからね。
正しさにこだわっていると人類がみんな死んじゃうという、
そういう状態にあってですね、
でも正しいのはこれですって打ち出そうっていうのは、
考えが甘いと思うんですね。
甘いっていうのはこの文明符では使わないようにしてるんですけれども、
考えが足りないとやっぱ思うんですよ。
これは、これを言って許されるのは、近世とか近代のものに限ると思うんですよ。
うちの仏教とか鎌倉仏教だから、鎌倉ですから何が正しいって言っていいんですよ。
その時代のものを700年も引っ張ってきてるから、
何が正しいって言っちゃえばしょうがないと思うんですね。
だけれども、今から打ち出そうとしているものが、
正しさを手放せないようでは多分全然ダメだと思うんですね、正直。
ジャック・デリダですよね。
どうしてこういう時代にどういう風に哲学って成立するんだろうみたいな、
脱構築とかって言い出した人ですけど、
ああいう人があれほど一生懸命考えている中にあって、
ちょっと考えついたようなことがこれが絶対正しいんだよって言って、
受け入れられるはずがないと思うんですよ。
その人にとってどうであろうと、それは構わないと思うんですけどね。
ただ、僕もこの番組を言っていて、時々メッセージをいただくんですよ。
何が正しいか分からないというのは、
例えばヒットラーみたいな絶対これが正しいというものすら、
間違っているとは言わないってことなんですかっていう話が出るんですよ。
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そうだと僕は思うんですね。
ここに例外を簡単に設けるようでは全然ポストモダンにならないと思うので、
絶対的な正しさを振りかざすような人も、
だから間違っているというわけにはいかないと思うんですよ。
これをだから間違っているとか好きになれないというのは、
個々人の自由で全然構わないと思うんですね。
ここまでは僕は現代の常識だと思っております。
だから僕はグッドバイブスみたいなものを全く打ち出さずにきたんですね。
これは常識だから、
オリンピックをやったのは間違っているとか、
オリンピックは絶対やるべきだったとか、
どうしたってそういうことになるはずなんですよね。
そして決着はつかないと思うんですよね。
決着をつけようということは危機感極まりないことなんで、
一歩間違うとある島がどっちの国のものかっていうだけで、
もう何万人も人が死んだり一瞬でしたりしなきゃならないわけじゃないですか。
そういうところにあって、
どっちが正しいっていうことが確かに言えるって思うのは、
よっぽどいろんなものに目をつぶらないと無理だろうなって思うので、
ので、ライフハックだったんですね、自分は。
非常にそういう部分は大きくあったわけです。
ライフハックならば何が正しいとか言う必要は一切ないじゃないですか。
たとえ整理術がどっち正しいって言ったって、
殺し合わずに済みますよね。
タスク管理がどっち正しいでも、
結構喧嘩になりかねないんですが、
というか喧嘩になっちゃうんですけどね。
でもタスク管理がどっちが正しいって、
殺し合いたいと思う人はいないと思うんですよ。
正直言って。
だから僕はそこに手を振れなかったんですよね。
少しでも倫理的なことを問われる話には、
基本手をつけずにおこうと。
で、僕はこれは常識だと思っているんですよ。
この先に行こうとすると、
非常識な領域に足を踏み込まないわけにいかないと。
で、私はこれはコストモダンの考え方であって、
全てを許しているわけじゃないと思うんですね。
全てを許しているわけじゃないと思うから、
浄土教的な話ではないと思うんですよ。
母性社会だという話じゃないと思うんですよ。
河合ハヨウさんが、
母性社会日本の病理って本を書かれましたね。
あの人はいろんなことが分かっているから、
病理って書きながら、
これ病理というつもりで書いてないんですよ。
これ病理というつもりで書いてないじゃんって気が、
私は高校の時に読んでしたんですけれども、
要するにうまくごまかしているじゃんと、
高校時代に思った記憶があるんですけどね。
要は何でも受け入れましょうっていう話ですよね。
そういう文化的な傾向はあると思うんですけれども、
一方で河合ハヨウさんはですね、
不性的だと言わずに、
暴力的な母性的だみたいな言い方をするので、
それも分からなくはないんだけど、
私は一方で、
例えば明大のラクビーブで、
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四五期で人が何とかとかって話あるじゃないですか。
ものすごくこの国はですね、
エディプス強いなと思うんですよ。
高則とか、
篠本先生とか、
今の時代あんまいないと思うんですけどね、
私の時代には普通にまだいましたよ。
私の学校はすごい新学校でしたけど、
やっぱり生活指導部ってものがあり、
生活指導部の先生っていうのがいて、
なんか本当に、
昭和の中期のおじいちゃんみたいな人が
市内に持って出てくるわけですよ。
当然頭はほとんど髪なくて、
いかにもって感じの人が出てくるんですよ。
僕はあれを、
暴力的な母性の現れだとは思わないんですよね。
やっぱあれは不性っていうものの、
とっても一つの何て言うんですかね、
カリカチュアに近い何かだなと。
本人もほとんど、
なんて言うんだろう、
コミカライズされる存在だってことを、
知っててやってるんじゃないんだろうかって思うくらい、
格好がついているというのとは違うってことなんですね。
不性なんだけど、
僕が顔色を伺うというのは、
つまり不性問題だと思うんですね。
でも不性原理って言われてるもの、
精神分析でよく言うエリプス的なものっていうのは、
あくまでも現実原則って話をしてるだけで、
本来ニュートラルじゃないとおかしいと思うんです。
グッドバイブスだってそうだと思うんですよ。
グッドバイブスは正しさを手放すから、
不性的なものが全くないように見えると思われると思うんですけど、
正しさを手放すっていうのは、
やっぱり一つの正しさみたいなものを思考せざるを得ないじゃないですか。
こういう言い方をするしかないんですけどね。
デリナがこの辺をすっごく詳しく書いていて、
よくわからんのですよ、私も読んでて。
ずらすずらすって繰り返し書くんですよね。
ずれみたいなことを言うんですよ。
とにかくそういうポストモナン的なもの。
私が基本的にはそういうものに触れると、
こういう話になるしかなくなって、
犬も食わないなんとかみたいになるから、
絶対ライフハックでいこうとかなり頑張っていた時期があるんですね。
たとえ誰が何と言おうとライフハックでいこうと、
ライフハックは正しさはないんだと。
ただ便利なだけなんだと。
便利なのが正しいわけじゃない。
ただ便利なだけなんだと。
どっちがいい、どっちが好きとか、
どっちが価値があるとか関係ないんだと思ってたわけですね。
超整理法で書類を整理する方がQOLが高いんじゃないんですよ。
そっちの方が気分がいい。
ただそれだけなんですよ。
快楽原則書ここにはないと私は思ってたんですね。
ここできちんと整理されています。
お金の管理もバッチリです。
時間管理もバッチリです。
でも人生が良くならないんですよ、別に。
いいじゃないか、それでって私は言っていたと思うんですね。
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より良い人生なんてわかんないんですよと。
より良い人生言い出すと、
共産主義か資本主義かみたいなことになって、
挙句の果てには1万発の核ミサイル持つみたいな話になっちゃってるじゃないですかと。
そうは言いませんでしたよ、一度もね。
でも結局そういうことが背景にあるじゃないですかと。
どっちが正しい、どっちの生き方の方が価値があるとか自由だとか質が高いとかって言うと、
ああいう話にいつしかなっていくのに巻き込まれたくないでしょうと思ったんですね。
巻き込まれないでいるためには、
どっちが価値があるって言っちゃいけないと思うんですよね。
どっちが価値があるって言い出したら、
どっちが価値がないってことになるから、
いいんですよ。
ゴミ屋敷だろうと、何にも片付いていなかろうと、
構わないんですよ。
構うべきじゃないみたいな感じなんですよね。
でもなぜか調整理法をしちゃいます。
それでいいんじゃないですかと。
とにかく工夫と便利さ、そこには何もないんですよ。
だから私はここには独特のすっごい虚しさがあるんだとはずっと思ってたんだけど、
この虚しさに耐えられないと核ミサイルになっちゃうから、
私はこの虚しさに耐えつつ生活空間を儀礼に保つっていうことだけに、
自分の役割を固定しようとしてたんですね。
これはつい最近に発見したとかいうことではないです。
グッドバイブス以降、グッドバイブスを喋れるように、
つまりそっちの方を開放して楽になってるけれど、
精神分析もそうですね。
楽になってるけれども、これはもう無意識にやってたことではなくて、
すごい意識してました。
絶対にこの先に何があるとは言わない。
だから問われた。
僕は何度も問われたんですよ。
すっごい身近な人からも問われました。
ライフハックのその先には何があるんですか。
ない。
ないっていうとすっげえ、
下げすまれるような感じに空気に包まれちゃうんですよね。
佐々木が言うんだから許すけど、
ないっていうのはもうほんと軽蔑に値するよねみたいな。
でもここを頑張らないと、
大変嫌な目に遭うと僕は思うんですよね。
人生の失意出すほど、
現代で受け入れられないことはほんとないと僕は思います。
だからグッドバイブスもそういう意味で、
すごくクラゾンさん気をつけられてるなというのは、
最初に僕はやっぱり意識したことなんですよ。
気をつけても気をつけなくてもいいんですよ。
グッドバイブスだってそうなんです。
ポストモダンなんだから。
ここに例外を設けちゃいけないと思うんだけど、
自分がそれにコミットするならば、
やっぱりポストモダンの常識は踏まえた上のものじゃないと、
もうちょっとコミットできないよねっていうのは僕の中に、
これが僕の言ってみれば正しさなんでしょうね。
なぜなら僕は生まれ落ちた時から、
絶対正しいものはこれであるってところに家に生まれちゃったから、
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他のものに入って同じことをやるくらいなら、
やりたくないわけですよ。
家のものをわざわざ心理的に距離を置いて、
他のものは無限地獄に落ちるんだって平気で言っているものなんですよ。
これを本当に言うし、書くし、新聞みたいなものにね、
口にしてるし、本当に面と向かって、人に向かってこれを言うんですよ。
そういうところに生まれ落ちておきながら、
なんか別のものに手を出して同じことを言いたくないじゃないですか。
お前そのQOLの低い生き方をしていると地獄に落ちるぞみたいな話、
結局する羽目になるわけでしょう。
そういうものは、もしそれを言うくらいならば、
家にいますよって話なんですね。
坊主になっときますよと。
坊主になるかどうか、第一回目は中学の時に選択しなければならないんですけど、
中学の時にこんなものを選択できないんですよね。
だからなんなかったから、私は代わりにライフハックしかやらないよってことなんですよね。
タスクシュートやったからって人生が良くなるわけじゃないんですよっていう話なんですよ。
時間守れるようになるだけです。
でもそれでいいじゃないですかと。
何て言うんですかね、ペン字みたいなもんですよ。
字が綺麗に見えるようになりますと。
字が上手くなってるかどうか知りませんし、
ましてそれでQOLが上がるなんてとんでもないけれども、
でもペン字が書けるようになりますと。
それでいいじゃんっていうことだったんですね。
グッドバイブス以降、それでいいじゃんじゃないところに踏み込んだから、
ますますむしろ気をつける部分があるわけですよね。
グッドバイブスが正しいんですって言ったら、
正しさで話す話はどうするんだっていうことと必ず勝ち合うと思うんですよね。
勝ち合わないわけにはいかないと。
だからある意味何でもいいっていうところは前提として持っておかないと、
良くないだろうなと。
結局ヨーロッパはそうやって大変苦しみましたからね。
ヒットラーとかスターリーとかみんな苦しみましたから、
よっぽどあれ気をつけるようになったと思うんですよ。
で、性原理っていうやつを、
ヒットラーみたいな話をすぐ連続するように僕らは教育されてきたので、
嫌なんですよ。
生活指導の先生にしないで殴られれば嫌になりますけどね、それだけでも。
つまり、現実原則というのは、
ルール化された時、まず嫌な感じが帯びるんですよ。
拘束問題みたいなのもあるじゃないですか。
スカート丈がどうしたとか。
昔結構ああいう話で騒いでいましたよね。
だから顔色を伺うようになるということは、
この拘束がまずできるわけですね、一つ目に。
次に拘束を守らせようとするようになると。
で、いつしかヒエラルキーができちゃうと。
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つまり誰それの言うことを聞きなさいになってしまうと。
この話、どういうところに問題があるかというとですね、
僕が思うにパーソナルじゃない不正原理を持つようになると、
多分問題が起きると思うんですね。
もともと不正原理というのはあるんですよ。
しょうがないんですね。
エディフスってそういうことを言ってるんですね。
お母さんが愛していようと、いまかろうと、
自分が生まれて欲しがって、生まれを望まれていてもいなくても、
でもお父さんとお母さんの意思の結果として自分ができてしまうと、
できてしまったというのが現実ですよね。
だからお父さんの言うことは何でも聞かなきゃいけないとかいう話じゃないんですけど、
現実原則というものはどうしても不正的な、
しかもかなり悪いお父さんみたいなものを連想させずに置かないところがあって、
多分僕はこの悪いお父さんを意識している人がHSPなんだと思っているわけです。
究極的には。
だから怒りがあるって本に書いたわけです。
その悪いお父さんに怒ってるから。
その悪いお父さんの言うことを聞かせられて悔しいっていう思いがきっとある。
それが欲打っぽくなってるってこともはっきり全然書いてないんだけど、
あの本には含み込まれているわけですよ。
腹立たしくて悔しい。
なんでこんな親父の言う通りにさせられなければならないんだって思う機会がとっても多くなっているっていう意味なんです。
なぜそれが起きるかというと、
その人の中で不正というものが全然ニュートラルじゃなくてパーソナルじゃないからだと思うんですよね。
最初から悪いイメージがついちゃってるってことです。
生活指導の先生みたいな、あるいはもうちょっと良くなくて戦前の日本の軍人みたいな、
多分見たことある人は誰もいなくて、だからこれは思考なんですよ。
思考の万能感でそういう色をつけちゃってる。
そういう視点でそういう色眼鏡をつけたまま会社に行くから、
会社の現実原則みたいなもの、会社によっては社束みたいなものがあるわけでしょ。
そういう現実原則が悪いお父さんの色合いをグッと濃くして登場し、その人を苛むと。
その人からしてみると不正原理は全て悪って感じが絶対すると思うんですね。
そういうふうに見るという見方を避けるためにどうしてもいるのはですね、
僕はこれで結構苦労したんですけれども、つい最近まで苦労してるんですけど、
不正をパーソナルなものにしていかなきゃならないなと思うんですよ。
パーソナルというのはつまり個人的なものですよね。
子供に親の言うことを聞かせるっていう不正、ルール、現実原則みたいなものがあったとして、
これをどういうふうにカスタマイズ、またアレンジして行うかというのは、
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その人に実は任されているはずなんですね。
で、非常に個人的にこれをやってしまうと、一本間違えると娘をしないで殴るみたいな。
これはね、なんかカリカチュアなんですよ、やっぱり。
何かこう、伎画化された世界みたいな感じになってる。
全然個人的じゃないものがそこに入っていくと、奇妙なものになっちゃうんですね。
ものすごく個人的にこれをすることだってできるはずなんですよ。
ものすごく個人的。
いや、どっちにしたって不正原理に違いはないじゃないですか。
例えば、今日は学校に行こうねっていう話をする。
ただそれだけでも、朝7時に起こすというだけでも不正原理ですよね。
もしかするとどうしてもっていうなら休ませるっていうのすら不正原理ですよ。
快楽原則じゃないですもん、これ。
で、休ませるという選択を取った時に、家に、学校に電話するとか、
そういう時にお父さんというのがどういうふうに振る舞うのかというのはですね、
実はとっても個人的にやればいい話だと思うんですよ。
これがニュートラルでないと、お父さんを大棒で全部お母さんに丸なりしてるとか、
こういうのは漫画なんですよ。
イメージだと思うんですね。
で、このイメージの中でも、多分お父さんの顔色を伺うというイメージは大変強い。
そういう絵はいっぱいあると私も思います。文化的にね。
でも、文化ってのは個人じゃないじゃないですか。
いろんな文化がありますが、生活指導といえば、
これを聞いている方にもパッと浮かぶものがある人が多いと思うんですよ。
生活指導部の先生といえば。
非常に不正原理的なものが、非常に漫画化されて出てきたような世界ってあると思うんです。
これが個人的になっていない不正ってやつで、
個人的にしていけばですね、きっと元々はニュートラルだと思うんですよね。
昨日私はその話をちょっとしたんですよ。
畑でトマトは等間隔に植えるとか、プランターに植えるとか、これが現実原則なんですよ。
快楽でやってるわけじゃないですからね。
なぜ等間隔なのかと。
等間隔にした方がうまくいくという現実があるからですよね。
ここニュートラルじゃないですか。
ここからルールを作って、さらにお父さんが言う通りにしなきゃダメというような話になっていって、
だんだん不正がパーソナルなものじゃなくなっていっちゃうんですよ。
ただただお父さんの言うことをひたすら聞かなきゃならないみたいな。
それは全然パーソナルでも、つまり具体的じゃないですよね。
ただすごく抽象的になってしまって、ルール化されていくと。
こうする動きを逆転させればですね、不正そのものが悪いお父さんとイコールになったりすることは多分ないと思うんですね。
そういう観点を取ることができれば、人の顔色を伺うということは多分やらなくて済むようになるということを
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全然違う文字で書いたのがあの本だということです。