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2022-06-28 25:31

【625GMV】「居る」のがどうしてつらいのか?

何かしないと!
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月、7月のShogo Sasakiと60分対話セッションのやつですね。
8枠儲けましたので、よろしければTwitterでもチェックしていただけるといいと思うんですけども、あるいはFacebookの方、どっちかがいいかなと思います。
ノートにも書こうとか思っているんですが、ノートに書くのは結構ですね、気が向かないと書かないんですよね、ノートには。
今もなんかこう、これもそうなんですよ。
無料でやる、いわゆるメディアは、気が向いた時にだけやろうと思っていて、気が向くかどうかが全部を決める。
だからタスクシュート的にはですね、最初から書いてないんですよ、このグッドモーニングボイスも。
やる時にだけ書き込むという形をとっているやつは、気が向いた時だけやるんですよね。
私、本当は全部これが理想的だと思うんだけど、やっぱりこう、特に今娘を送り出すにあたって5時半起きの7時にはもう送り出し終わっている状態だから、結構ここでですね、気が向いたらをやっていると、
私はいいんだけど、娘が遅刻しか出ないのでダメなんで、ここが一番タスクシュートのやりどころなんですよね。
あとはもう本当、割と気が向いたら仕事する的な感じなんですよ。
このまま入っちゃうんですけど、そういうわけでセッションの方、よろしければ。
残りすでに6枠になってしまったので、7月に多分入ってからになるとは思うんですけども、この20何日とかだから、もう30日近いんで、7月よろしければお願いします。
気が向いたらっていうのは、
最近、倉園さんが弾き語りのやつからシリーズ化されている中で、歌を歌う、弾き語りじゃないのかもしれないんですけど、歌を歌うのとライブと、
グッドバイブスのセミナーを密体化させたようなやつ、あれなんだと思うんですね。
基本目指すのは割とあれだと思っております。
つまり、何がいいですかね、あれですね。
いるのはつらいよっていう、昨日も紹介した東方カイトさんの割と前の方の本があるんですよ。
ちょっとですね、最近の作に比べれば読みやすいとは思えないかもしれないんですけど、私は一番好きな本で、
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あれでだいぶ引きこもりというものが、私やっぱりこの引きこもりが今ホットなんでしょうね。
今というかしばらくずっとホットだったんでしょう。
多分私も本当にやばいことが起こると、そうなるタイプの人間だと思うので、
自分のことのように感じる面があるんですよ。
知ってる人にも何人もいます。はっきり言って何人もいるんですよ。
多いとは言えませんけどね、パーセンテージで言えば。
知ってる人全体の中で引きこもってる人が大量にいるってわけじゃないんですけど、
でも一定数いるというか、いるわけですからね。
例えば、イヴ・ホワイトみたいな多重人格みたいな話は、話こそ出てきますけど心理学の教科書に。
実際に私は知ってる人にいるかというといないんですよ。
だけど引きこもりはいるので、うつもいますけどね。
そういう意味で注意を引かれる。
ですが、いるのはつらいよ、このタイトルが引きこもりっていうある意味、意味なんですよね。
暗示していると言ってもいいと思うんですよ。
で、あの本の中核はケアとセラピーは違うんだって言ってるんですね。
というかケアとセラピーの違いを意識しなければいけない。
すでにこの話をじゃあ誰に持って行ってるのっていうと、カウンセラーじゃないですか。
分厚い本ですしね。
ただ一般の人が読んで、そう読みやすくないんですけど、
戸綾さんはその辺にチャレンジされているんですよね。
誰が読むための本なのか。
私、出版業界では常識中の常識で、ターゲット読者は誰なのかって常に問題になってるんですけど、
僕はそれがはっきりしない本ほど面白いとよく思うんですよ。
最近では家族ゲームって本、その前に山田太一さんの異人たちとの夏。
あの辺の本ってターゲット読者誰よっていうと、小説が好きな人なんでしょうけど、
だいたいあの本を褒めたたえてるのは、かわいはやおさんとかね、カウンセラーとかなんですよ。
じゃあカウンセラーがターゲット読者だったのかというと、全くそうではないと思うんですね。
ああいう本が面白いと、私なんか思うんですよ。
そのかわいはやおさんだったと思うんですけど、
カフカの変身、あれは引きこもりの話として読めるっていう風に書いていて、
それと全く同じようなことを他の誰かも書いてたんですけどね、
ああいう本がやっぱ面白いよなと思うんですよね。
一体あの変身のターゲット読者は誰よっていう話になったら、結構困るじゃないですか。
あれは一体何の話なのかも、不条理劇とかって言いますけど、何の話なんだかもよくわかんない。
だけどあれ引きこもりの話だと考えて読むと、実にしっくりくるんですよね。
ザムザが不気味なでかい虫になって、結局家族は兄だということがわかってるんだけれども、
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どう考えても兄のようには扱えなくなり、
遠まきに部屋の中に閉じ込めているんだか、何なんだかわからないようにして、
餌だけを出しに行くという、あの状況ってそうですよね。
そういうことになってる。カフカがそういうことを意識して書いたとは思わないですよ。
第二次大戦前ですからね、あの本は。
だけれどもそういうふうに読むとそうなってるんですよね。
ターゲット読者層は今時の引きこもっている日本人家というともちろん違いますよね。
ああいう本が面白いとやっぱり思いますね。
あれはそういうシチュエーションになっちゃったんですけど、
いるのが辛いじゃないですか。
ザムザのその悩みがカフカが書くとそう深刻じゃないように読めてしまうんですけど、
いるのが辛いですよね。
あの状態で部屋の中にいて落ち着いていられるということはありえないじゃないですか。
で、いるというのが、
あの本のいるのが辛いよのテーマなんですが、
いるというのがケアなんですね。
彼が考える、尚方さんが言うのにはいるということができるようにしてあげるのがケアなんですよ。
で、セラピーは何かというとするんですよ。
セラピーはするものなんですね。
時間と場所を設定して、普通は料金も取ってするんですね。
だからさっき私がPRしたというかCMさせてもらったあれは、
セッション、対話で60分だからするんですよ。
ただいるだけじゃないですよね。
ただいるというのにはオンラインはひどく向かないと思うんですよ。
だから私は、話があちこち飛べようですが、
クラゾのサマーグッドバイブスの日語りのやつをですね、
あれをいるということをそこに含み込める意味でも、
オンラインではやりにくい形式をあえて選んでいると思ったんですね。
そういうことってあるんですよ。
いるっていうのは、
いるっていうのが今の時代では、
非常にいつの時代でも同じかもしれませんが、
今の時代では特にですね、
価値が認められてないものなんですね。
無意って言うじゃないですか。
尚方さんですら、とっても辛いと言ってたんですよ。
和室のテレビしかないところにケアの人たちが来ている。
そしてケアの人たちはめいめいよくわからないことをやってるわけですよ。
面白いから読んでるわけじゃない新聞をいつも読んでは折り畳むとか、
なんだか一人でトランプ遊びをしているというところにポツンといるわけですね。
そしてテレビは更新がやっていて、
全くそこには時間の流れている感じがしないっていう表現が何度か出てくるんですよね。
薙のような時間って言うじゃないですか。
そのまんまの表現が出てくるんだけど。
その時間が止まった感じ、これもグッドバイブス的な話でもあるんですが、
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仏教的でももちろんあるんですが、流れていないんですよね。
それが我々にとっては苦しみになってしまう。
何かしていたいわけですよね。
何かがしたくなる。
だけれどもすることは何にもないんですよ、その空間は。
なぜならばセラピーの空間ではなくてケアの空間だから。
ケアとはそういうものなんだっていうのを彼はそこで見出していくみたいな話なんですね。
ケアってどういうものなのかって言われても困るじゃないですか。
戸畑さんは教大の博士課程を終えているような方だから、大変何かをするのが、生まれつきそうなのか分かりませんけれども、
するのが能力を発揮しどころなわけですよね。
そういう人にとっては、ただいる、何にもせずにいるっていうのは辛いんですね。
そして引きこもりという問題っていうのは、ただいることができれば解決するはずですよね、本来。
実質にこもって、そこでただぼーっとしていればいいっていうのは、まさにその通りの状態はすでに実現しているわけだから、
引きこもりの問題だというのは、何かしろっていう話をそこでされているからなんですよ。
あるいはされている気がするからなんですよね。
何にもせずにそこにいちゃだめだぞっていう、割と軽い言葉なんですが、このプレッシャーがでかいと。
だけど自分は何にもできない、すでに。
例えば結婚ができないとか、就職ができないとか、あるいは学校で勉強することができないとか、そういう気になれないとか。
先日もお話しした家族ゲームという本、あれは人が引きこもっていくまでの過程を書いているんだと思うんですけど、非常に面白い話で、
二通りの主人公が、主人公は一人なんだけど二人いるんですね。兄弟。兄と弟。
で、兄も弟も引きこもっていくという話なんですよ。
それは家族の問題なんですけど結局。引きこもりって家族の問題だとは思うんですけどね。
家族の問題って言ってはだめだっていう話は、社会の問題だっていう話ですよね。
だけど社会の問題と家族の問題なんですよ、そういう言い方をするならば。
家族が特殊だというような話とは言えなくて、要するにいるのが辛い問題だから、いるのが辛いっていうのは社会の問題と言ってもいいでしょうし、家族の問題と言ってもいいわけですよね。
結局一つには社会に居場所がない。二つ目は家の中に居場所がない。なのにどこかにいなきゃならない。だから辛いんですよね。
いるのが辛いんですよ。それで何かしなきゃいけないという思い、その思いがまずいけないわけです。
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それを家族の人がやたらとこう言ってくるのか、何なのかはわかんないですけど、とにかく何かしなきゃいけないと思っている。
そういう意味では、僕のような人間も最近ようやくマシになってきたけど、同じなんですよ。何かしなきゃいけないと思っている。これが問題なんですね。
ただいちゃいけないと思っている。今日はあんまりミニコット的な話を持ち出さないようにして心がけているわけですけど、だから戸畑さんもそうだと思うんですよね。
ミニコットは引用されてくるんですけど、いるのが辛い世の中にも、なるべくいるとするっていう言葉で説明しきるように持っていっているわけです。
これがわかりやすい表現を使うっていうやつなんだと思うんですよね。これもチャレンジの一種ですよ。
家族ゲームの中で弟と兄が両方引きこもっていくんですけど、弟は出来が悪いんですよ。だから引きこもる。兄は出来がいいんですよ。めちゃくちゃ。なのに引きこもるんですよ。
ここのところが話の時空なんですね。兄は要するにPDCAなんですよ。すごいんですよ。30分刻みにノートをつけて、そのノートの通りに行動するという設計で受験を乗り切ってきて、ずっと今日までやってきた高校生なんですよ。
すごいじゃないですか。まさにタスクシュートとちょっと違うんだけど、タスクシュートを連想する人が多そうだなと思うんですよ。まさに逆算手帳なわけですよね。この言葉久しぶりに使いましたね。
これを回している。実はお母さんがそうしていたからその通りにやって、優等生中の優等生。多分あれは明治はされませんけれども、いわゆる五三家クラスの学校に行って必ず将来は東大に行くということになっている人なんですね。
この人がそのPDCA通りにできなくなっていく過程を描いているんですけど、それが直接は描かれていないんですね。それが弟があまりにもその兄に対して対照的に出来が悪いので、これはもう明らかに兄の出来の良い部分の影を彼が一生懸命生きているということになるんだけど、その影が揺さぶられてしまうわけですよね。
暴力的な家庭教師を雇うということで、この暴力的な家庭教師が面白くて、庭編の大学でしかも何年も留年しているという教師なんですね。つまりこのカラクリは全部揃っているわけです。
この価値観がこの問題を生み出していることは明らかで、しかもその家庭教師は何もかも承知の上で、やだら弟に対して暴力を振るって無理やり成績を上げていくんですね。
そうすると反比例するように兄の成績がどんどん落ちていって、最後は兄は学校に行かなくなると。弟は逆に優秀になってみんなに褒められるんだけど、入った学校でうんぬんという話なんですよ。
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つまり、することの価値をうんと高めることで、いることの価値が全然認められない家の中で、兄は結局、お兄さんの方がいるということが分からなくなってしまうんですね。
あくまでも彼は学校に行きたいんですよ、結局。なんだかんだで。何かをしたいんですよ。ただ、何をする意味も全く見出せない中では何もできないんですよね。
結果としていることになる。自分の部屋に。いることになるんだけど、このことの意味がこの家の人には分からない。特にお母さんには分からないんですよね。
何のためにそうしているのかという問いになっちゃうわけですよ。お父さんにも分からない。何のためにそうしているのかと。そうしているぐらいだったら働けという話になってくる。つまり何かしろって話ですよね。
このいるってことができないんですよ。こういう人はしかしですね、一体全体一番最初どういうふうに育てられたのか興味深いじゃないですか。そう思いません。一番最初に赤ちゃんは何もできないわけですよね。
じゃあ赤ちゃんは100%無価値な存在なのかって話になっちゃいますよね。そういうふうに育てたら大変なことになりますよね、きっと。
どんなことになるんでしょうね。っていうことに興味を持ったのが多分フロイトなんじゃないかなっていう気がするんですよね。
ミニコットとかがそうなんだろうと思うし、メラニー・クラインとかもそうなんだろうと思うんですよ。
だってお腹の中にいる赤ちゃんって本当に全く何もしないじゃないですか。何もできませんからね。読む本もなければ、遊ぶおもちゃもないんですよ、きっと。
ただいるだけなんですよね。でもずっと寝てるわけじゃないですよね。起きていることもあると思うんですよ。
その時何してるのかっていうと何もできませんよね。何もすることができない。僕ら全員そうでしたよね。例外ないですよね。
どれほど何かの生産性に、生産的なことをするのに長けた人であっても、どれほど24時間を生産的なことで埋め尽くせるライフハッカーであっても、
やっぱり一番最初は何にもできない時に生きてましたよね。ゴインゴンビーングだったわけですよね。
その時にお前はそのままだったら無価値だからなって繰り返し浴びせられてたらどうなってたかというと、きっといいことは起きない感じがしますよね。
そういう風なでも価値観が最初からある家では一体どういう風に育てるんだろうと思うんですよ。
それがお兄さんの一番解かなければならない謎なんですよね。
彼は途中までは分かるんですよ。子供時代に逃してしまったいろんなことを今のうちに全部取り戻してやろうという気で今やっているというような表現が出てくるんですね。
滑り台で滑るとか、砂場に行って幼稚園児と一緒に砂場遊びをするとかですよ。
でもこれでは不十分なんですよ。これって結局イルになってないんですよね。なおスルなんですよ。
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対抗というやつなんですけれども、これが対抗なんですけれどもね、この人はすっごく頭のいい人なので自覚的に対抗していくしかないんですよね。
私は滑り台で滑るとかブランコ遊びをするという人は知らないんですけど、意識的に対抗を今のうちに頑張るというようなことを大学時代にやっていた学生がいました。
非常に変わった人だったけど大変なんだろうなと今思えば思いますね。
アニメとかポンキッキーとかを見るわけですよ。一生懸命。
たぶん家では見られなかったんだと思うんですね。そういう無意味な番組。
つまり無意味ということができないわけだから、家では認められていないわけだから、やっぱりすごく欲打つっぽいところがあったんですけれども、
砂場遊びとかじゃなくて、幼児番組を見るんですよ。子供の頃見られなかったから、見せてもらえなかったからといって見たがるんですね。
友達の家に行っても盛んに見るんですよ。非常にそれをからかわれていたんで面白がられていたんですけれども、面白がられているのでよかったですよね。
浮きますよね。もうちょっと行くと。その辺が微妙なラインだと思うんですけれども、要するにいるってことができないっていうのは、
いるってことができないときに僕らは対抗していくんですけれども、その対抗が謎を解けるところまで戻れば済むのか、なかなかそうはいかないのかで話がこんがらがってくるんだろうという気がします。
つまり、ある程度まで行けば取り戻せるっていう人ならいいんですよ。それだって色々な周りとの摩擦は引き起こしますよ、絶対に。
例えば多くの場合、青春時代を取り戻したくなっちゃう人っているじゃないですか。よく小説とかには出てきますよね。
実際にもいるんだけど、寺とかにいるとそういう話よく出てくるんだけど、青春時代を取り戻したくなっちゃう人っているんですよ。
必ずしも不倫とか浮気だけが目標じゃないんですよね。不倫とか浮気は絶対目標のうちに入ってきちゃうんですけど、でもやりたいことは要するに青春時代を取り戻したいわけですよね。
その人は青春時代を違うことやってたんでしょう。これぐらいならいいんですよ。自覚的に取り戻せるから。
ブランコ遊びとか砂場遊びでもそれで取り戻せるならいいんでしょうね。自覚的に尚取り戻せるから。それでもやっぱりキーじゃないですか、高校生が砂場で遊んでいると。
いろんな目で見られるわけですよね。この対抗というのは必ずこの種の揉めというのかな、炎症を引き起こさずにはいないんですけど、それでも尚取り戻せなくなってくると、もう自覚的にはできないんですよね。
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あとは戸端さんが一生懸命頑張ったような、ああいうデイケアの中で薙のような時間を延々過ごすと、地獄のようだったというふうに書いてあるんですけど、そういうことなんですよね。
それは自分の価値観と真逆だから、すっごいつらいことになるんですよ。不思議ですけどね。ただ何もしないでぼーっとしていればいいんで、できる人にはいくらでもできるんだけどできないんですよね。
よく言うじゃないですか。自分の時間がもったいない。この表現を使うことによって、私たちは実は何かを手に入れているというのではなくて、薙のような時間を過ごせないということをごまかしているんだと思うんですよ。
薙のような時間を楽しく過ごせないという、一番基本的な現実に戻ったとき、基本的な現実に一番戻るとここに戻るしかないじゃないですか。
お金もなくて、物もなくて、何もなくて、そこにポツンといるだけですってなったときに、この時間が苦しいってことは結局自分自身でいることはつらいってことになってしまいますよ。
だから僕らはここにいるときに割と耐えがたいから、何とかしてでもごまかしたくなるんですよ。ソリティアしてでもごまかしたくなるんですよ。
田畑さんはここで、沖縄の高校の応援をみんなでしているというところでいるということをつかむという話になっていくんだけど、いい話なんですよ。
これができるようになれば、たぶん、いわゆるこもるって問題は解決するんだと思うんですね。なぜならば、こもっていることそれ自体は問題じゃなくなるし、こもらなくてもよくなるからなんですよ。
だけれども、まずこれほど恵まれた状態に僕らは置かれることはないので、常に世の中からの親衆ってやつが入ってくるので、何かしろって言われるので、そこにいてないで何かしろと、そこから出てきて何かしろと。
とにかくそういうふうになっちゃうので、このいるってことをつかみ切る前に何かさせられるか、それとも何かさせられないようにバリケードを作るかっていう話になってしまうんですよね。
そういうことなんだろうなと。
その時にいるっていうことを可能にするケアということをやってくれるところがあったり、周りの人がそれをしてあげたりできるといいんですけれども、周りの人もそれには慣れてないので、
つまり自分がいるっていうことが非常に不毛に感じられるので、この感情を抱いたまま一緒にいても多分ダメなんですよ。何にもならないんじゃないかなっていう感じがします。
それでもその努力ってのに意味があると思うんですけどね。いずれできるようになるはずなので。
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なぜならばこれ難しいことじゃないじゃないですか。スキルゼロですよね。これにスキルがいることになってるけどでもこれはスキルゼロですよね。
スキルじゃないですからね。スキル未満なので常に。だからこの段階、私はこの番組を通じてそれをある程度実行しようとしているわけですよ。
セッションも矛盾なんだけれどもやっぱりそこを目指そうとはしているわけですよ。
理想を言えばですね、全仕事がいるでやるように。矛盾なんですけどね。仕事はしないと出来上がらないので、しなきゃいけないんだけれども。
いるだけじゃ仕事が進まないんですけど、でもこのいるという感覚のままするってことができるようになればですね、先送りってものは多分消失するはずなんですよね。
なぜなら先送りというのはあることをすることが嫌だとか、あることをすることよりも他のことをする方がいいとか、そういう感覚が必ずそこにあるんですよ。
で、これは我々は常識だと思っているんですよ。でもこの常識のおかげで生産的なことをすることは無意に過ごすよりもベスト、ベターである。
これはもう自明であるってことにしちゃってるじゃないですか。これがあるから先送りをしちゃうんですよ。無意に過ごしても、生産的なことをやっても100%同じだってことになった瞬間に先送りという問題は消え失せるんですよ。
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