ライブセッションの概要
おはようございます。 佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1280回をお送りします。
11月18日火曜日8時6分です。 私でもこのライブ放送というやつをやっております。
事前に何もお知らせしていないのはいけないんですけど、今のところ0名ですね。
収録をついでにそのまま取って出しにしちゃおうというだけの回なんで、回というかしばらくやるつもりですけれども、
別に何もいらないと思うんですけどね。 お知らせですが、100日チャレンジの第12期というのを現在募集中です。
この100日チャレンジの第12期はですね、一番リーズナブルなコースを除きまして、全てのコースで少なくとも私と一緒に
1on1セッションを1回はご参加していただくことができます。
お試し4回25,000円というのがあるんですよ。
ご存知な方はいらっしゃるかもしれないけど。 お試し4回というのは25,000円なんだけど、これより安くて100日チャレンジはご参加できますので、
スタンダードであればですね。 こちらでお試し1回になりますけど、プラス100日チャレンジですからね。
比較するものではないんですけれども、3ヶ月チャレンジに試してみたいという方は
お試しだと10度効くんですけど、この100日チャレンジはさすがに10度効かせるわけにはいきませんが、
ぜひですね、一度やってみたいという方がいらっしゃいましたら、 1on1は別にそんなに、昔はどうだったかわかりませんけど、特に何があるっていうほど
緊張しなければいけない理由はございませんので、 まあ人と話すのはとにかく何でも緊張するという方も結構いらっしゃるのはわかるんですけれども、
なるべくね、私も慣れてきておりますから、 これまで延べ、何セッションくらいやったのかな。
少なくとも、 週1回は絶対やってますから、3年はやりましたから、1000セッションはやってるんですよ間違いなくね。
本当は全然もっとやってますけどね。 1000セッションで全然多くないですからね。
2000セッションは行ってるんじゃないか、言うにっていう感じがします。 ちょっと数えてないんで、なんですが、そういうわけで、
今はもう1週間に 20セッションは確実にやってるから、月に直すと80セッションから100セッションやってるんですよね。
そうすると年間で200ぐらいにはなるわけじゃないですか。 もっとやってると思いますけど。
プラスこの100セッションを追加しますから、さすがに慣れてきてますよ。 3000はやってると思うな、トータルで。
3000回やれば人間、そこそこできるようになりますから。 1万時間の法則ってありましたけど、時間に直せばですね、1万時間は絶対行ってますんで。
だから天才的であるということは全然ないんですけども、 セッションの天才ってよくわかんないけどね。
あれは身体活動とは違いますから、英語喋れるようになるとか、そういうものはないですけど、
お試しいただければと思います。 それではですね、本題にちょうど1名入っていらしたところでお知らせが終わりました。
メラニ・クラインのアプローチ
100日チャレンジという12期の募集をかけておりました。 ここから本題ですね。
3ヶ月チャレンジでは何をしているのかという話を昨日してるんですが、 3ヶ月チャレンジでは何をしているかというよりも、
この精神力堂的にビジネスコンサル、対人支援をするとはどういうことなのかと、 一気に言ってしまいますけど、まずですね、メラニ・クラインという、
これはフロイトに直接学んだことのある女性なんですけど、 非常に精神分析の世界で、非常にビッグネームですよね。
アンナ・フロイトに匹敵するわけですから、 アンナ・フロイトはフロイトの娘さんですね。
アメリカの自我心理学の、基本的に素ですよね。
カイソとシュソって言いますけど、シュソみたいな感じですよね。 カイソはフロイトですけどね、もちろん。
ジーク・ムント・フロイトですね。 で、このメラニ・クラインという人が画期的だったのはですね、
フロイトは基本的には精神分析というのは神経症のためのものなんだよと。 日本語で普通に、神経症というより通りがいいのはなぜか、日本語じゃないんだけど、
ノイローゼってやつですよね。 ノイローゼというものに精神分析というのはやるんだと。
フロイトは間違いなく精神病全体にこれを拡大したいと思ってたと思いますし、 あの人神経内科の人だから、これを脳科学、今でいう大脳生理学から
吹き起こして、いずれはゆくゆくは精神病というか精神障害全域に精神分析が有効であることを科学的に証明してやるぜっていう野心を、
まあ僕の誤読かもしれないけど、おそらく確実に抱いていた日がもう壮大な野心ですよね。 だって今ならわかりますけど、そういうことは確かに行われていますけどね。
あの精神分析からというよりはそういう考え方が今ではもう普通になってきてますけれども、 1800年代にそんなことを考えている人はやっぱりほとんど誰もいなかったと思うんですよね。
1900、早くったって第一次世界大戦より前なわけだから10年いってないわけじゃないですか。 明治時代ですよね。ちょっとそれはもう古代妄想感があるじゃないですか。
古代妄想ではないんだけど、だって日露戦争の頃ですもんね。 1800、1900、
4年とかでしょ。日露戦争って確か。 そういう頃ですよね。その頃にそんな壮大な計画、そこまで当時考えてたかはわかりませんが、でも野心はそのぐらいだったと思うんですよね。
なかなかそんなわけにいかないですよね。 だってマクスウェルがあの頃なんとか時期なんとか、ジバノとかなんかそういうエネルギーがどうたらこうたらみたいな、
今ではそれはもう常識っていうか、 知ってる人なら小学生でも知ってるみたいな話じゃないですか。
それも相当なもんだと思うんだけど。 そういうことをメラニクラインがさらに拡大して、
神経症じゃなくて先進病もいけるからっていうことで、どうやったかというと言葉を使って言語連想両方だから言葉でやり取りして、ある意味人生相談ですよね。
あなたのどうしましたかみたいなこれ言葉ですよね。 こうこうこうでってこれも言葉ですよね。言葉で説明して先送りが止まらないんです。これも言葉ですよね。
朝起きる気がしません。上司をぶっ飛ばしてやりたいです。すべて言葉ですよね。 そこに感情が入ってるのはわかるけど言葉ではあります。
じゃあということで問題なのは言葉が通じない人、つまり精神病水準の人の語ることはよく意味がわからないってことがあるのと、よく似た人たちとして、
4歳以下の人たちがいますよね。うちの子もそうですけど、なんかうちの妻に言わせるとシュワシュワシュワシュワって言うわけですよ。
何言ってるのかさっぱりわかんないんですよね。 このらの人たちに対して言語連想両方が成り立つはずがないんですよね。
そこで出てくるのがプレイアナリシスっていう表現。 つまり自動精神分析みたいな言い方もしますけど、
遊戯療法ってやつです。プレイセラピーってやつですよね。遊戯療法ってあれを直すと、なんかよくわかんない感じになりますけど、プレイセラピーだとプレイアナリシスとも言うんですけど言ったりしているのをよく聞きますが、
とにかくプレイ。つまりおもちゃ使ったりして遊んだりして、そこに転移が起こると。起きる。これは絶対起きると僕は思うんですよね。
娘育てた経験からしても、だって幼稚園の先生をお母さんのようにしてしまう子って別に普通にいっぱいいるじゃないですか。
保育園の先生をお母さん代わりにしちゃう。全然驚くようなことじゃないんですけど、転移ですよね。
逆転移も起きますよね。普通にね。だから要するに児童相手に精神分析するというのは、こういうと全く異常なことやってるようだけど、そんなおかしくないんですよ。
でもアンダフロイトという人はこれは到底受け入れられないって感じたんでしょうね。そうじゃなくて、子供は精神分析の考え方を踏まえるにしても、精神分析やるんじゃなくて、
遊ばせようよみたいな考え方だったんですよね。遊ばせて学ばせようよみたいな。だからすごい教育的ですよね。
教育的だったわけですね。そういう方向にアンダフロイトという人はすごい力を入れました。
今思えばどっちも妥当な感じがしますが、およそ心理臨床という観点から見ると、やっぱりクラインがやってる方が
少なくとも生産的というか拡張的な目論みとして感じられる感じは、私は素人目にはします。
遊戯療法と精神分析
なんかその正常に人を保育するとか養育するという方向、つまり教育的な形で精神分析を扱うっていうのはわかるけれども、
偉い穏当な試みと言いますか、少なくとも挑戦的って感じはあんまりしない気がします。
で、神経症水準より上の人を言語連想両方でがっつり扱ってるんですよ。手厚いけど、なるほど、やっぱり発想としてすごいブルジョア人だなって感じが、
なるほど大卒でヨーロッパ、アメリカでですね、欧米風の高度な教育を受けてきた人の発想としてはわかりやすいけど、
クラインっていろんな意味で肩破りなんで、今では絶対分析家になれない、高校卒業しただけっていう人ですもんね。
やっぱりなんかちょっと違う感じの出自っていうのがあるんだろうなと、それだけじゃないと思うんだけど、非常にだから野心的だったと思いますね。
この発想がすごく後々生きてる感じがするんですよ。私のやってることって結局どっちかっていうと、やってること自体はアンダフロイドさんの方の発想に近いと思うんですよ。
精神分析の知見を踏まえて、ビジネス、コンサルタントっていうか仕事術に活かしましょうって発想を持ってるわけですね。
だからその当然いらっしゃる方は神経症水準の以上の方ですよね、古典的に言えば。つまりフロイドの時代からそうなんだけど、特にドイツってなんかそういうところがあったっぽくて、
でかい精神病院に精神病の人収容しちゃうんですよね。ということはどういうことかというと、開業しているフロイドのところには来ませんよね、それらの人は。
これとよく似た構造が現代にはちゃんとあって、だって精神病選手の人は精神病院に行って内服されていますから、注射とかされる方もいらっしゃいますけど、
注射とかするケースもありますけど、普通は内服ですから、今で言うとリスパダールですよね、リスペルドンとか言うんだっけ、市販では知らないけど、そういうこの薬で対応するという、これすでにあったわけですよね、1900年代から、初頭から、ドイツには初頭じゃないかもしれないけど中4にはあったと思うんですよ。
すごいなーって思うんだけど、当然今よりは大きめになって真っ黒に扱ってたと思うんですよね、しかもその後ナチの時代が来ますからね、怖いですよね、この辺のことを考えてみると、だからフロイドによっていることってめちゃくちゃ手厚いと思うんですよ、で、幽霊神サークルだしね、いろいろ感じさせられるものがありますよね、イヤでもオウでも、いやあんまり嫌ですけど。
まあこの辺の話をコンコンとしていると、とてもとても生しくなっていくんで、この辺にしますが、要は3歳児以下の神聖というもの、この神聖というものの中にニュアリーイコールで精神病な心理状態があると考えるわけですね。
精神分析の理論
で、ここからなんですよ、それはいわば保育して養育して扱ってはあげるんだけれども、精神分析的に言ってみれば前導っていうのかな、していくと、言ってみれば卒業するって発想があると思うんですよね、つまり発達ラインに沿ってベースがどんどん進展していくわけだから、これはこれで一つの見方だと思うんですけど、確かにそういう面はあると思うんですが、
私は対処関係をメラニー・クラインが開発して発明して、ヴィオンがそれを拡張してくれた時代の後の人間としてですね、読んだばっかりってこともありますけど、後の人間としてはやっぱりやることがアンナフロイト的に結局なるにしてもですね、三ヶ月チャレンジに事実上精神病で困ってここに来ましたって方いらっしゃらないので、普通に考えても、これはどんな大臣支援でも普通はそうなると思うんだけれども、
それであれば少なくとも専門家のところに行きましょうになりますから、今は診療内科さんっていう、また非常に中間領域的なものも存在してますからね、そうじゃなくて、しかしやはり仕事に行き詰まったという人にも、
3歳時診生ってものが、何て言うんかな、不活化って言うんでしょうけれども、活性化しちゃうってことがあるわけですよ。つまり、これがですね、対象関係と私は自我心理学を大きく分けているポイントだと思うんですけど、診症がですね、卒業しないんですよね。
たんざんこの番組で言ってますけど、PSポジションというものにしても、解不解原則にしても、だって私たち夜寝てるとき、明らかにかなり幼児的、夢がすべてフロイトが言ったみたいに、幼児的な無意識的万能空想の重則なんだとは思いませんが、でも明らかに夢にはそういう部分はあるわけじゃないですか。
つまり、好き勝手やるぜって感じですよ。だからこの好き勝手やりたい部分がですね、やっぱり私たちの少なくとも半分ぐらい心理の3分の1はになってると思うんですよね。寝てる時間のこと考えると3分の1はになってると思うんですよ。
この3分の1がですね、扱いアグネルと言いますか、この3分の1を。幼児申請が出るのは絶対出ると思うんです、私は。どんなにあんなフロイトの言った通りであったとしても、やっぱり完全に脱却するなんて考えられないような気がするんですよ。
だってやっぱり我々閉じとるとある意味絶えなくなっていくじゃないですか。これはつまり卒業ということではないからだと思うんですよね。結構立派な人だって絶えなくなったりはするわけですよね。
この幼児申請というもの、つまり回復会原則というのは、私はそのビオンとかの言ってる通りで基本的に並行して今もずっと、今私の中でもずっと動いていると。だから足りなくなるんじゃなくて、どっちが優先になるかの問題だと思うんですよね。
基本的にはもちろんこれをやってる私もそうだけど、現実原則、いわゆる成人的な私、二次家庭ってやつ、神経症水準の上の方が優先で、そこが全域を投与している。それは確かにそうだけど、だけれども、さっきも言いましたけど、でも上司ぶん殴ってやりたいとか、もうこんなのは全部やめてしまうんだみたいな、あとは知ったことじゃないんだみたいになるじゃないですか。
あるいは、ミーティングの最中に、いろいろあります。要するにお菓子食べたり、幼児っぽくなるわけですよ。いいじゃん、別にっていう感じになっていくわけですよ。一次家庭になっていくわけですよね。
で、この一次家庭になっていくというのが別にいいんですよ。その枠組みの中で行われている、この枠組みというものをもはや意識するのも嫌になっちゃうと。だから突然起きるわけですね。今の時代はこの一次家庭をどう扱うかについてですね、全然精神力動的な観点を持ちませんから、なんか不思議なむしろ表現を取るんですよ。
発達障害とか言い始めてみたり、これ発達障害に対する批判ではないんですよ。ただその文脈でそれがいるかなって感じなんですよね。HSPと言ってみたり、あるいはミドルクライシスと言ってみたり、あるいはこう体調がおかしくなりました、ストレスが過剰になりましたとか、突然心臓が病になりましたとか、そういう話になっていくんですよね。
なんかそれまで何の兆候っていうのも変なんだけど、だから兆候兆候言うんですけど、今の時代は人間ドックとかで兆候を見つけましょうみたいな感じなんだけど、全部が全部体の兆候で説明がつくのかっていう、その観点むしろ科学的じゃなくないかっていうぐらい極端に兆候主義なわけですよね。
全て体のことは体で勝手に進行していて、本人だけでは絶対気づけないんだっていう、で突然心臓が悪くなるわけですよ。急に具合が悪くなるっていうやつですよ。そういう本のタイトルもありますけど。それおかしくないかって思ってもいいと思うんだけど、ガンとして見つけないんですよね。それはおかしくないんだってことになってるわけですよね。
だけどここに幼児心性っていうそのメラニックラインの、今では別にアメリカの自我心理学の方でも対人関係的な関係分析的な考え方で、つまり関係ってここに持ち込んできてますからすでに。その人の心の中だけで発達ラインが決定するっていうのは不自然なわけですよね。
で、その例えば夢を見るみたいな夢を見るだとちょっとあれか、例えばですね、こう情緒的な関係、特にプレイアナリシスとかになってくるとあからさまになると思うんですけど、なんかこの子の相手するのうんざりだわって母親が思ったりすることもあるわけじゃないですか。
その前にうんざりするってことはこの子はなんかさっきまで機嫌良かったのに急に機嫌が悪くなって泣き出すとかあるわけですよね。これを外から解釈するのと一部その人の身になって解釈するのとではやっぱりすごく違うと思うんですね。
この子は1歳だから今グズっているんだろうってこれはもう完全に観察的な視点ですよね。一人の心の中での発達ってことだけを捉えていくならばそうでしょ、そりゃ。
だけれどもその子を前にして自分もそこの中にある意味巻き込まれて子育てて完全にそうですけど、もうこれは本当同じことの繰り返しばっかりこの子とやらされていてってなったときこれがやってること発達観察では決してないですよね。
もちろん観察的な観点はあるんですけど、うんざりだわってことは明らかに巻き込まれてますよね、その子の世界に。
ただただ外から観察してるだけではないですよね。それじゃ子育てできないですよね。
親になるとこれは痛感するんですけど、だからこの2つの観点は違うわけですよね。で、私たちはこの自分の心の中の幼児心性に巻き込まれちゃうんですよ。
これはしょっちゅう起きてることだし無視してるかもしれないけど、決してそれを発達障害とか潜在すぎるからとか急に心臓の具合が悪くなったとかだけでは説明できないんだと思うんですね。
幼児心性の影響
私はこれを扱う場所がいるって思うんです。幼児心性というものを扱う場所がいる。
そして一時家庭というものを扱う場所をあつらえておかないと、この一時家庭が眠るときだけしか出てこられないことになっちゃうんですよ。
だから7時間だけここ用意したんだからそこで幼児心性満足させてねと。起きてる時間は全部大人の時間にするからみたいな17時間はすべて生産的に動くんだよっていうね。
そういうスーパー超自我、スーパー超自我っておかしいけど、スーパーエゴが超自我だから。
非常にこの超自我支配の強い起きてる時間っていうものをあつという状態になってしまって、そこで妙にメジレンスが弱いとかになった場合は、
幼児心性の平行して存在している幼児心性を満足させるために使うっていうのではなくて、抑え込みにかかっちゃうんですよね。
なんか妙なことになってるから抑え込もうみたいな。キックリストで抑え込もうみたいな。
うっかり何かをミスするってことは許されることじゃないから、絶対にそういうことが起きないようにしましょうってことになってしまう。
なんかですね、力動的な観点からするとすごく無理をすることになるわけですよ。
偉い脅迫的になってみたり、うまくいかないと全部体のせいにされてみたり、あるいはうまくいかないと全部パーソナリティが異常なんだみたいな話になってみたり、
その観点の方がよっぽど変わってんなって思うような見方を我々はしがちな時代に生きてると思う。
寝てる時間以外は全部二次過程っていう風に従うんでしょうね。
でも実際は絶対そうじゃないと思うので、一次過程で起きている時間が必要なんだと思いますよね。
で、なんかね、これをセックスの時間だけにここを集約させようとか、そういう無理なことをやろうとするケースがとても多い感じがするんです。
で、これを何とかするのが私は精神分析だと思うんです。精神分析のすべてではないんですけど、受管領域としての場所の確保ってあると思うんですよ。
一次過程がここで出せますと、ここなら幼児対抗できますと、それは対処関係の考え方の中には完全にあるものだから、明らかにそういう風に扱ってもらえると思うんですね。
これを風俗的に扱うとレンタルお母さんとかになっていくんだと思うんですよ。レンタル恋人みたいな、ああいう感じで。
まあいいのかもしれないけど、わかんないですから私には。なんかそうじゃない扱い方が必要なんだろうと思うんですよね。
で、もう一つが中間領域でここで扱うという考え方の他にもう一つ取れるのが、そういう時間を自分の中でも増やしていきましょうねと。
そういう話を少なくとも三チャレではするんですね。精神分析でどうするのかわかんないんだけど、わかんないっていうか、精神分析で違うやり方をするのかもしれないし、その辺も人それぞれだと思うんですけど。
つまり神経症水準できている人は神経症水準的に問題を扱うんだけども、同時に人はいってもこの幼児申請の問題がない人っていないはずなんで、神経症が重度になれば両方の問題に必ずまたがっていきますから。
だからそれをボーダーと言ったりするんだと思うんですが、そうなってきた時にはやっぱりそれをどういう風に扱うかの話もそこで結局話ができる水準でやってますから、話もそこで扱わなくても他でその時間をなるべく多く確保しましょう。
ライフハックの実践
つまり幼児対抗ができる時間場所を増やしていきましょうという話をするわけですよ。これが私は3ヶ月チャレンジなんだと思うんですね。
で、いざとなったら二次過程で動かなきゃ人はならないわけですから、特に職場ではね。これが仕事術になるっていうのが私の発想なんだなっていうのが最近ようやく固まってきたわけですね。
夢も同じなんですよ。夢を扱うというのは夢を見ているという時間、まあ二次過程でも夢は見てるんですけれども、微音的に言えば。
でもまあとにかく一次過程の夢というもの。つまり一次過程の夢について語れるということ自体が二次過程的ですから。
だって夢について言葉で説明してるじゃないですか。夢を見るっていうのは先日藤山直樹さんも新しく出した本でまさにそこを強調されてましたけど、
夢見るっていうのは夢の物語を読むのとは全く違いますよね。夢の中で夢体験してるじゃないですか。
これはこういう物語です。また私はこのような夢を見てますと後からならそのように言葉で説明するかもしれませんが、夢を読むわけじゃないですよね。夢を見るものですよね。
あるいは夢はその中で遊ぶものですよね。これについて後で言語で説明できるというのは二次過程なわけですよ。
二次過程がなければほとんどの仕事はできないと思うんですよね。だからこの二次過程でする仕事のために一次過程の時間がいるんですよ。
この時間にダラダラしているとか怠けているとか、この時間をなくすべきだとかそういうことをやると、さっき言ったように突然心臓が悪くなるとか、
聴講を見逃してましたねみたいな話になってみたり、水泳が起きてますとか、体になってみたり、すごく動きが脅迫的になってみたり、
中年の危機が訪れてみたり、あるいはこうすべてが嫌になってみたりするんだと私は思うんですよね。
だから一次過程をどう扱うかの話を二次過程の中でする。あるいはその場を一次過程の場にしてしまう。
どちらは三チャレでやるというよりは、三チャレがそういう場面になっていくという方が私の感覚にはフィットしているんだけど、
どちらにしてもこの両方は確かに三ヶ月チャレンジの機能だなと。それは心理臨床のやることでしょうって言われればそうかもしれないけど、
私はこれを精神分析と対象関係の知識を活用してビジネスコンサルをやるんですという話にしているわけです。
それは考えようによっては、見ようによっては、アナフロイトが保育園に持ち込んだ考え方と非常に通定しているのかもしれないなと。
私は自我心理学よりではないつもりでいるんだけど、でもやってることはそういうことに近いなと。
ただその精神分析の知識というものの中に対象関係の知識も入ってきている現代なんで、そういうことなんだなと。
言ってて相変わらずやだらと専門的で作装しているように見える、聞こえると思うんだけれども、意外とシンプルな話なんですよ、これは。
やっぱりこの3歳児以下申請、ニアリイコール精神病申請というのが私たちの中でも普通に平行的に動いていて、
そのための時間がとにかく特に現代で仕事をしている人は減らされているし、減らすべきだと思われていると思うんですよね。
対人関係でややこしくてめんどくさい人とは距離を空けるべきだって考え方あるじゃないですか。
考え方というか、時々Xで推奨されているような、こういう人には距離を空ける必要がありますみたいな。
空けられるんだらそれもいいでしょう。
ただこの距離を取るべきだという考え方は、やっぱりとても何つうんですかね、いざやるときにはですね、
幼児的な防衛のやり方になりやすいと思うんですよ。
法的防衛であったり、突然にあったりするじゃないですか。
だって距離を空けることを確信しない相手にはいきなり距離を空けないですよね。
むしろ自分からアプローチしたり接近したりするじゃないですか。就職活動っていうことだと思うんだけど。
つまり本社に行きたいですって言うわけじゃないですか。
それほど熱烈に行きたいですって言いながら、明日からいきなり来なくなる。
こういう形を取りやすいですよね。距離を取るっていうやり方をしたとき。
距離って徐々に取るのはすごい難しいと思うんで、職場と等でも。
いきなり取ることになってしまうと、それはすごく総的防衛っぽく、つまり幼児心線を発動している感じになると思うんですよ。
やっぱり現実的にはですね。
なんかこう唐突にこの人起こり始めたとか、今までと全然態度が変わるみたいな。
本人の中では私にはこういうところが昔からあったのに、
あなた達が全然気づいていないのが悪いみたいになるかもしれないんだけど、
それは当人からの視点であって、客観的に見るとこの人は突然評変したみたいになると思うんですよね。
それは見ようによってはすごくこう、何て言うんですかね。
二極に分裂しているように見えたりしますよね。
で、この二極っていうのが何かっていうと、現実原則と快不快原則なわけじゃないですか。
面が不快なわけですけどね。
自分を不快な目に合わせるところから距離を取るというのは、
つまり快不快原則に、なんていうのかな、優勢で動くってことだと思うんですよ。
別にそれが良いとか悪いじゃないと思うんだけど、
それがそのままになって突然出てくるというのは、
それまで扱い切れてなかったからだということがやっぱり一般的に多いと思うんですね。
同じ話が回ってきたので、この辺にしておこうと思います。