1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 私がノートを取りたくなくなっ..
2025-04-10 39:03

私がノートを取りたくなくなった理由【1165】

私はいつもそそのかされている。
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サマリー

このエピソードでは、著者が3ヶ月チャレンジを通じて、参加者の人数やスケジュールについて考え、精神分析の重要性について議論しています。接触障害に関する対談本の感想を述べながら、自身の経験と関連させて考えを深めています。 続いて、認知行動療法における体験やメモを取ることの意味について掘り下げており、自分が別人になってしまうという感覚を語ります。環境による行動の変容と自己の一貫性の錯覚についても考察しています。 また、メモを取ることをやめた理由や、その背景にある内面的な対話について探求しています。接触障害や内的対象の多様性が影響し、思考の自由を求めつつ、自己の一貫性の欠如に悩んでいる様子が描かれています。 最後に、ノートを取らない理由について、主体性や意識の変化がもたらすリスクについて考察しています。

3ヶ月チャレンジの進行
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1165回をお送りします。
4月10日、木曜日、朝7時48分です。
おかげさまでですね、3ヶ月チャレンジの、繰り返し申し上げているからだと思うんですけど、
第10期がちらほらと予約が入ってきつつありまして、お試しも併せてですね、
これで皆さんが大体参加していただけると、ほぼほぼ僕の想定しているぐらいにはなるかなというふうに思っております。
大体ですね、3ヶ月チャレンジは、僕は目安として10人で、最大の枠を20枠はいかないと思うんですけど、
それでも最大集20枠は対応できるなと。
私一応年中無休なんで、7日で割ると、1日3セッションやれば21枠いくわけですよね。
そんなに綺麗にはいかないですけど、重複されるところがどうしても出てきますから。
でもまあまあ、21枠ならば何とか調整が効くわけですよね。
夜、例えば20時付近というご希望が2人いらっしゃったとしてもですね、
19時半から20時半、20時半から20時半というふうにやれば、ちゃんと2枠そこに入れるんで、
そうすると夜だけに、たとえ絞っても7日あればですね、
これも土日はちょっと同じようにはいかないとは思うんですけど、
14枠いくわけじゃないですか。
だからこの10名ぐらいがいいかなっていう感じで、
週3、一応申し込みいただけるようにするんですけど、値段は大相談ということでですね。
だけど週3の方はさすがに10人が週3だと30セッションってことになるんで、
これはもう頑張るしかないですよねってことになるんですけど、
実質そうはなりませんから、そういったわけで、
なんていうんですかね、まあまあ大体計画しているぐらいのところに、
なるべく先読み次第っていうのはあるんですけど、
着地点を別に見出してるわけじゃないので、
何枠まで行くぞみたいなのはないし、
何人に制限するぞっていうのも厳密にはないんで、
まあ限界というものはあるんで、たぶん20人は無理かなと思っております。
スイミングスクールの経験
やっぱりそうですね、パッと思い出せる人の数の限界ですね。
私の場合やっぱりパッと思い出せるとなると10名。
だから学校の先生ってすごいですよね。
40人の顔と名前が一致していくっていうのは、
やっぱり独特の世界なんだろうなと思いますね。
昔50人近くいた学校いましたもんね。
私の学校もそうだったんで、
まあ余談をやってると時間がなくなるんで先へ進みますが、
というわけでですね、ぜひまだ枠は全然取れますんでですね、
大事なのはこれは人数だけじゃないんですよ。
同じ曜日の同じ時間というものに過剰に重ならないことが結構大事だったりもするんで、
だからフレキシブルにやっていただける、
精神分析じゃないんで私は曜日固定とかをしませんから、
フレキシブルにやっていただけるという方の場合は、
枠はむしろ広くなっていくっていう、
まあこれもですね、でもこれもね結構いい感じになるんですよ。
すごいフレキシブルな方と、やっぱり固定的にいきたいという方と、
お勤めされていて、しかもお勤めの時間がすごい厳密だったりした場合、
在宅ワークかどうかにも大きく左右されると思うんですね、この辺は。
まあただオンラインなんで、結構フレキシブルにいけるんですよね。
そういうことも併せてですね、こういった方法論もね、
一度マニュアル化して、マニュアル化っていうのかな、
本ぐらいにしてもいいのかなと思うんですけども、
でもなんか野良カウンセリングのハウツー言ってどうなのって感じもすごいしますよね。
どうしたってこれ世の中的には3ヶ月チャレンジじゃさっぱりわかんないんで、
一番わかるので野の医者になっちゃうんですよ。
それも東肌カイトさんのおかげなんですけど、野の医者、野の医者ハウツーつったって、
これをハウツーにするとは限らないじゃないですか。
やっぱり本当は占いがやりたいんですって方はいらっしゃると思うんで、
何だろうな、オンラインワンワンセッションのハウツー本、
なんかでもすごい狭くなる感じがしますよね。
まあまあいいや、まだそういうことについては一切考えてないんで、
僕の中でも固まる日は来ないんじゃないかなと思っているんですけどね。
先日というか先日買っただけなんですけど、
例の週1回という本を買って、あの本はとても良かったです。
3ヶ月チャレンジ的にはもうマイルストーンに完全になったなと。
僕の週1回という考え方に関する考えが大きく変容させられたのがこれですね。
だから私最近割と精力的にと言いますか、
必然の流れでこうなってもいるんだけど、
このポッドキャストに気合を入れているつもりなんですよ。
またそういうのがろくでもない結果を生むのかもしれませんけど、
それはわかんないんですけどね。
でもこれを週1回とかはもう絶対ないなって思ってるんですよ。
最低週4はやろうと。
これを週4やるということが、
少なくとも私の中では週1回という本を読んだことに対する、
山崎孝明さんがよく使われる言葉で言うと応答なんですよね。
レスポンシビリティというのかな。レスポンスなんですよ。
それだと責任になっちゃうんだけど、
責任だとちょっとさすがに重すぎると思うんですよね。
応答は本当のところ正規の方が応答すればいいのであって、
僕のような人間が別に応答してもある意味しょうがないわけで、
しょうがなくはないのかもしれないですけどね。
とにかく週1回というのはもう抜点みたいな感じで。
いや週1回が悪いって話では全然ないんですよ。
ないんですけど、
今日これから話す話にも絡みますけど、
なるほど精神分析というのは週4回以上であることが、
そもそも何点ですかね。
動かしがたい事実としてそこにあるみたいな話なんだなということなんですよね。
あのこれむしろ思い出したんですけどこれも僕も、
一番ね選手コースということでしごきにしごかれていた頃、
水泳教室週3回だったんですよ。
週3きっついですよ。
マジでなんかもう泳ぐために生きてるみたいになってしまいます。
あんなね幼稚園年長ぐらいの時に週3回でスイミングスクールに、
しかも1回行ってしまったら2キロは泳ごされるんですから。
幼稚園生ですからね。
小学校1年ぐらいの時も結構やってたんですけど、
本当にあれはねダメですよね。
オリンピック選手になるとかいうならあれしかないでしょうけど、
別に僕は県大会とかにすら出る気がない人間がですね、
そんな将来にわたってですね、
そんな変なプール熱みたいなのもらうのがオチで本当、
ただのギャグになっちゃうのでね。
本当にただのギャグだったなと後から思うと思うんですけど、
でも週3というのはね週1とは全然違いますよね。
だって泳ぐって他のところでトレーニングしないじゃないですか。
水泳教室に行く以外はないわけで、
週1回しか行かないのと週3回行くのと、
月水金月水金と泳いでるのとじゃもう全然違いますよね。
あの時泳ぐことに関してだけは痛みはついたなと。
全く自信がついたとかそういうことではないんですよね。
根性ついたとかナンセンスでただ板についた。
根性とか自信って意味ないなって僕は思いますね。
板につくってのはそういうことではないんですよね。
歩くように泳げます私は。
今でも多分心臓のことがちょっとあるから、
あと僕プールも大っ嫌いですから、
基本プールなんかに行って泳ごうという、
泳ぎたいという気持ちには子供にせがまれるから行くみたいな感じで、
あと子供に聞かれるからもう泳げなくたっていいんだよっていう風に言うんですけどね。
泳ぎようになりたい理由から教えるんですけど、
泳ぎって教える必要とか実は全然ない。
我々普通に歩行訓練とかしないじゃないですか。
特別な理由がなければ。
それとそっくりなんですよね泳ぐというのは。
泳いでれば絶対に泳げるようになるし、
泳ぎ方を人は知っているんですよね。
ということが分かったんだけど、それが分かっただけだっていう感じ。
よく言うけれども津波とかになると泳げてもダメだと。
泳げる方がダメです。泳いじゃうからね。
泳いじゃうとダメなんですよ。体力使うんで。
泳げない方がいいかって言うとそこは大変微妙なんだけど、
多分どっちにしても助かる確率とかがだんだん奇跡的になればなるほど、
泳げない人が気を失っているうちにどっかに浮かんでいて、
たまたまうまいこと言ったっていう方が生存率高いんじゃないかなっていう感じが、
泳げるというのは意味全くないですね。
接触障害についての考察
溺れそうになった時の場合にも。
それはなんて言うんだろう、溺れないだけみたいな感じですね。
意味がよく分からないけど、どうせいつか溺れるっていう感じがするんですよね。
本当に考えたくもないですけど、
まず服着てるっていう段階でかなりもうダメですよね。
服着て泳げるようにならないと本当はダメなんで。
結構自分は泳げるし服着ても泳げますけど、
服着てる時はまず脱がなきゃダメなんだけど、
寒い時は服脱ぐのがそもそもまずいんじゃないかみたいな話も、
まあでもこんなこと言っててもしょうがないんで、話が全く知りめずれすなんでやめますね。
接触障害の話を本を読んだということですね。
接触障害との出会いと挑戦という本で、
この本は私は接触障害だから買ったのではなく、
松木邦博さんと鈴木智美さんという方が、
カナエ団なんでもう一人、滝井雅人さんっていう、
多分読み方は滝井だと思うんですけどわからんので、
気になる方は調べてください。
松木邦博、滝井雅人、鈴木智美さん。
で、私は鈴木智美さんと松木邦博さんの対談っていうので、
これはもう買うしかない。
今の時代だったらYouTubeとかPodcastとか、
私とJ松崎もやってますけど、
Podcastとかでいくらでも聞けるから、
そこに特別な希少性はないと思うんですよ。
でもこれがあったのは最近のことであって、
昔はやっぱりテレビにでも、
二人がテレビに出るとかじゃない限り、
対談するところを見ることができなかったわけだから、
対談本は貴重なんですよ。
私とJ松崎だって両方が本に載ってるっていう本は、
一冊しかまだこの世の中にはなくて、
もしかすると生涯にはだって一冊しかないかもしれない。
先送りゼロしかないわけですよ。
本出すとなるとそういうことになるわけですよ。
しかもあれは対談してないですからね。
この本の中で、
タキーさんがいるところが、
僕は鈴木智美さんと松木邦博さんの対談が読みたくて、
この本買ったんだけど、
だから接触障害に非常に強い興味があったからというよりは、
この二人が対談してれば多分どれでもあっても買うんですけどね。
そこにタキーさんっていうこの方は普通に、
接触障害を中心に見られている精神科医さんなのかな。
認知行動療法を中心に考えているっていう専門だって感じの方なんだけど、
でも認知行動療法ではなかなか良くならないからうんうんみたいな感じで、
この精神分析科の二人に囲まれるというか、
そういうことなわけですけど、
別にプロレス的な話ではないんですけどね。
皆さん知的で温厚な感じだから、
本当のところは知りませんけどね。
ここですごく面白いというか、
認知行動療法の経験
ありきたりなエピソードなんですけど、
私はすごいこういうところがやっぱり肝だって思ったのが、
認知行動療法のすごい徹底したコースで良くなる人もいるんだって話が出てくるんですよね。
松木さんと鈴木さんがいらっしゃるから黙っちゃいないだろうなって感じがしていて、
ワクワクして読んでいたわけですが、
それで松木さんが最後のところにですね、それに対する返しにした形で、
認知行動療法で特に行動療法のコースをきっちり数週間やって、
良くなりまして、ちゃんとした食べ方ができるようになったということで、
めでたく退院しました。
その人が退院したら早速食べまくって吐きまくるってことが、
実際に私は患者さんとして経験してますからねっていうので、
症が終わっているのがありましてですね。
それなんですよね。
これはだから認知行動がいけないとかそういう話じゃないですよ。
つまり私は行動主義というものが狙ってる狙いとは何で、
それが暴き出すものがこういうところに現れているだろうと思うんですよ。
私がノートとかノート術とか多分にも自分の中では何ていうのかな、
まず私のメモを取る量が圧倒的に減ったし、
ライフログとかも一切やってないんですよ。
別にやってもいいんですよ。
ただ今の話ととても関係があるわけですよ。
それを誰が読むんだっていう、読み返す読み返さない話じゃないですよ。
読むたびに私は別人であるという問題はどうなるんだっていう話を考えるときに、
私はメモを取るというのは相当昔私が考えていた意味に比べると減ると。
なくなりはしないんだけど、減るなって感じがするんですよ。
結局我々は別人になってしまうからメモを読むっていう考え方を取ってたつもりなんですね。
少なくとも私はそうなんですね。
記憶が食い違うって話もそうなんだけど、
要するに自分が別人になってしまうから、
その自分の別人を修正していく。
いつも元に戻すっていうある意味で狙ってメモを取って、
過去のお前はこう言ってるぞっていうか、
その過去の私にある意味戻せるっていうような、ある種の幻想があったわけですね。
これが明瞭に打ち砕かれる事件が、
事件が例のジムマシンと私の中での大騒動なわけですよ。
メモの意味の変化
これはイベントでお話ししたし、
これを話すと2時間くらいどうしても要するんでちょっと端折りますが、
要するにGood Vibesを必要とした理由だったわけですね。
元に絶対戻るわけがないわけですよ。
私は別人になってしまうんだけど、読んだ私も別人になってるわけですよ。
つまり別人の書いたものを別人が読むんですよ。
これがですね、一種のメタファーだと思われるんでしょうけれども、
精神分析が言ってるのはこれはメタファーではなくて、明瞭な事実なんですよ。
つまり、ある意味演技してる面もあるんでしょうけれども、
行動療法で良くなってるという人は、入院してる間は確かにそうなんだと思うんですよ。
だって全然言うこと聞かない人もいるわけだから、
言うこときっちり聞いて、ちゃんとした食事ができるようになったというのは、
それはそれで一つの変容じゃないですか。
ただし、その自分は永続するわけではないんですよ。
元に戻ったっていうふうに人は言いますけれども、
必ずしも元に戻ってるわけじゃないですよ。
新しく、接触障害が退院後にまた即座に現れたのかもしれないんですよ。
そういう解釈もできるじゃないですか。
で、私たちはどんどんどんどん別人になって更新していくんですよ。
そのことを忘れたかのように元の自分に戻ったとか、また病気が繰り返したとか、
平気でそういうことを言うんだけど、同じじゃないだろうって感じがするんですよね。
だってそんなに接触障害コースみたいなものをきっちりやってきたわけじゃないですか。
全く同じってことは考えられないんだと思うんですよね。
ただ、接触障害が治ったと言うんだったら、これじゃダメだよねって話になるんですよ。
またもう一回同じことしなきゃならないよね。
これをフロイト反復と言ったわけですけども、
この反復が起きるというのはですね、考えてみると常に別人に更新していく私たちとしては大変不思議な一面でもあるわけですよね。
だから、例のポジション論みたいなものが出てくるわけですよ。
我々はPSになったりDになったりする。
でもそれはポジションなのであって、問題なのはですね、
主体とか言われているいい加減な言葉で、
人はですね、自分が自分だって思ってる時のこの思いというのがですね、
いろんな自分になる割にはいつも私は私だっていう思いだけはいつも一貫してる気がするんで、
一貫した自分があるような錯覚に簡単に落ちるんですよね。
でも明らかにこの一貫した自分言うのはもはや何て言うんですかね、
ある種の自己啓発でしかないんですよ。
根拠が何にもなくなっているんですね、今の時代。
もともとなかったと思うんだけど、もともとは根拠があったけど今はなくなったっていうのは変なんで、
もともとなかったはずなんだけど、
つまり脳科学を読む限りどこにも一貫した自分があるらしき証拠は見つからないわけですよ。
始末皮質、頭皮質っていうの、
あの辺に自己らしきもののなんとかかんとかみたいなのはあるんだけど、
まあ全然脳にセンターはどう考えてもないよねっていうのは確実な感じがするんですよね。
だって前頭腰に自分っていうものを持つとすると、
たぶん私は猫も私は私だぐらいの感覚に近いものを持っている気がするんだけど、
猫の前頭腰はそれこそ猫の額ですからね、めっちゃ小さいんで、
あれがなくたって別に主体性みたいなもの、主体性みたいなものですよ、自己意識じゃないですよ。
そういうようなものってのを持っちゃうと思うんですよね、ある意味では。
だから統合はされているってことなんだと思うんだけど、
統合ってのはある意味3次元的な話じゃないですか。
この瞬間は統合されてるけれども、つまり知覚と記憶と、
なんとかは私の知覚で私の記憶で、この私のってのは多分他の動物ないと思うんですけどね。
でもバラバラじゃないと思うんですよ。
例えば私がホットケーキが好きだみたいなの好きっていうのは、
好きなホットケーキを見るのであって、
ホットケーキを見て好きという感情があってみたいな、
それを繋いでいる感触を私は持ってますみたいな、そういうわけじゃないですよ。
一体化してますよね、平均の中で。
だからそれを統合って言うんだと思うんですけれども、
統合はされてると思うんですよ。
むしろ動物の方がされてる気がするんですよね。
でも統合がされてるのはその瞬間の話であって、
行動変容と環境
寝てた時の私と起きてる時の私は全然別のように振る舞うじゃないですか。
あるいはものすごくお腹が空いてる時、恋愛が一番いいですよ。
別れると言ってる時の恋人同士と、
くっつくと言ってる時の恋人同士は本当に別人になっちゃってるじゃないですか。
全然統合できてないですよ。
でもそれはみんな知ってることじゃないですか。
我々はこの四次元的な意味では全く統合されてない。
そこで一貫した自己っていう夢を見始めるわけですよ。
一貫したらかっこいいよねみたいな。
なんか日々訓練をして大谷翔平のようになるみたいな、
一貫したストーリーが欲しくなるんだけど、
大谷翔平さんといえども、寝たいと思う時と起きたいと思う時では、
当然統合はされてないわけですよね。
そのバラバラの向こう側に本当に操ってる私がいるんだという夢を見たいんです。
だから私は神様みたいなものが出てくるんだと思うんですけれども、
あれはまあ、これは宗教的な論争になるからやめますが、
少なくとも脳の中には神様が脳を作ったという痕跡は
いまいち見当たらないわけですよ。
一貫した計画性みたいなものが欠けてるんですよね。
私は今の認知行動療法の接触障害の話は思いっきりそのままに
ハマってる感じがして、行動をどれほど変容しようとも、
つまりSRってやつですよね、究極的にはね。
今の認知行動療法はそんなに単純じゃないと言われると思うんですけど、
でも刺激統制っていう考え方はベースにあったと思うんですよね。
つまり私に対して食べ物を提示するタイミング、
不適切なタイミング、夕方の4時とかに食べ物を提示しちゃうから、
その刺激に引っ張られて食べちゃうんだと。
つまりもう行動主義ってある意味主体性ってものに期待してないわけですよ。
人間は環境次第で動いちゃうものなんだと。
ただしですね、その動いちゃうものなのは一貫しているように、
ある意味あれも想定してますよね。
行動は変容するかもしれないけど、なんかそこには一貫した主体、主体ではないんですよ。
一貫した何かがあって、刺激の提示の仕方次第で、
この人こういうふうに引っ張っていくことができるんだよっていう幻想がありますよね。
それを打ち砕いている感じがするのが、
松木さんが言うところの家に帰った途端に全く元に戻ったかのようにして、
食べては吐くを始めると。
つまりこれは多分一般的なものの見方によると、
この人は演技をしていて、後ろ側に自分が密かに引っ込んでいて、
先生の言う通りですって早く退院したいから、
そういう面はあると思うんですけど、
先生の言う通りにして、
さんどさんどきちんとして、ものすごくきちんとしている、
礼儀正しく回る、退院しても大丈夫だってなって、
めちゃくちゃ食べて、めちゃくちゃ吐くみたいなことが起きると。
それは隠れていた自分みたいなものが、
そこで前面に出てくるんだっていう言い方になるんでしょうけど、
見様によっては、
環境が入院環境から家庭環境に変わったから、
その人のSR反応によって行動が変容されたようにも見えますし、
どういう認識をしてもいいと思うんだけれども、
私はその行動変容をひたすら環境が決めるっていうことになってくると、
どう考えたって、
行動主義によって直してもらうという以外に、
何も期待できないじゃないですか、ある意味では。
これを自分でプログラムしようっていうだけ無駄ですよね、
どう考えたって。
どう考えてもそれはおかしいと思うんですよ、私は。
だから、私は自分がやるという、
自分がやるって発想を持つならば、
人に強制されるってなら別ですが、
自分がやるっていう発想を少しでも持ってしまう以上は、
この考え方を中心に押し進めてもしょうがないなって思ったんですよ。
行動をとにかく変えさせられる、
こういう行動をするのがいいんだという人がいて、
ほとんど警察ですけども、
僕を無理矢理引っ張っていって、
どっかの収容所にいて、
右を向けて、右を向くと何かがあり、
左を向けて、左を向くと何かがありっていう風にするっていうなら別ですよ。
しかもそれが望ましいっていうならね。
でも多分これを望む人はほとんどいないと思うんですよ。
何されるかわかったもんじゃないです。
だから結局、これってしかもそれを決めている人は一貫しているっていう、
また幻想がそこにあるわけじゃないですか。
そんなはずないじゃないですか、この5人を呼んで。
メモを取ることの意味
人は少なくとも見た目は一貫したことをとらないわけですから、
この接触障害の人の例が非常に良い、よくわかるようにですね。
だから、やっぱり私は人は少なくとも複数いると考えるしかなくて、
複数の主体があると考えるというのは、
しかし、要するに私の中にいっぱい小人がいるというホームクルースの話になってしまうんで、
その小人の中には誰がいるんだって話がまた始まるんで、
そうではなくてですね。
やっぱりコンステレーションみたいな話になるしかないと思うんですよね、最終的にはですね。
で、僕はよくそそのかすって言葉が好きなんですよ。
好きっていうか、いやもういっつもそそのかされてるよな、俺はって思うんですよね。
で、なんていうのかな、ある種の抗議性なんだと思うんですよね、主体みたいなものっていうのは。
まあこれは思いっきり精神分析的な考え方だし、それも対象関係論の考え方で、
別に僕の発明でも発案でもないんですけど、やっぱりどうしてもそそのかされてる感っていうのが否めない。
行動の刺激っていったって、要するに刺激の提示に対して見ている私が変わってるわけですよ。
だから私メモを取るのをやめたっていうのはそういうことなんですよね。
同じメモを同じように見ることは二度とできないんですよ。
だから取ったからなんだっていうのを言うのがすっごい難しい。
取ったから無意味だとは言いません。むしろ意味はあるんだと思うんですけど、
内的対象の葛藤
あんまりそれをやりたくなくなったってことなんですよね。
元の自分に戻すような錯覚を持ってみたところで、元に戻るわけじゃないし、
何がやりたいのか分かんなくなってしまうんで、
多分私は少なからず、最低でも4人から5人の自分、自分というか対象ですよね、内的対象。
主張したがるのが超自我でこうしろあしろっていう、その価値観を握ってるんである意味で。
大した価値観でも大した存在でもないんですけど、とにかく持ってるわけですよね。
で、そいつに注目されるんですよね。
かなり退けてきてるっていうか、かなり発言力弱めてる。
つまりそういうことなんですよ。
内的対象がいろいろ国会みたいに論戦してるわけですよ。
高木祥吾はこれから3チャレをやるのに週4にするべきだとか、週1でいいんだとか議論してるわけですよ。
で、この議論に負けても簡単には退かないわけですよ。
さっき週1を塗って決まったみたいだけど、それもいいけどねみたいな感じで、そそのかされるわけですよ。
僕絶対接触障害の人はそそのかされてると思う。
先生の言うことも一理あるけど、ちょっとやっぱり痩せてないとみたいな感じで、少しずつ少しずつやられていくんですよ。
で、この力関係はダイナミックに動いて決して決定的な結果を導かないというか決定づけないから、
その都度その都度、だから人はブレるって言うんだけど、ブレるどころではないと思うんですよ。
もうめちゃくちゃジグザグだと思うんですよ。
で、それが嫌だという自分もいる、自分というか対象もいるんですよね。
長寿が結構これを嫌がるんですよね。一貫した自分であろうみたいなことを言ってるわけですよ。
で、何をしたがるかというと脅迫症っぽくなっていくと僕は思うんですよね。
一貫させるためにまず環境のブレも少ない空間に住めみたいな、そっからお前出るなみたいな。
で、同じものを同じ時間にいつも見て、だからさっきの何かの収容所みたいに自分で自分を追い込んでいく感じが、
私はそれも全然好かないんで、もっと自由でありたいと正直単純に思うんです。
意外的対象に私はそそのかされてるんでしょうね。もっと自由であろうよみたいな感じで。
でもこれも決定権は持ってないんですよ。だからいきなり裸の対象みたいな行動は僕は取れないわけですね。
いやいやっていうまた長寿が出てきて、お前はライフハッカーだったし、こここうだったじゃんみたいなことをそそのかしてくるわ。
これをずっと続けてるんですよ。
これをずっと続けてるうちに、ものすごく落ち込むっていう結末にいつも至ってしまうような方もいらっしゃるわけですよね。
抑鬱症ってのはそういうことだと思うんですよ。こういうやり取りをして、もっとポジティブに考えようとか、
今日だけは胸を張って生きていこうとか、なんかいろんなそそのかしが、議員が100人ぐらいいて、
だからまあ300代元なわけですけど、そんな風にいてですね。で、なんか決まっていく、決まってやる。
でもなんか言われると言われたら、いやこういう時はこう言い返せばよかったんだとか何とかまたこう大議論が起こるんだけれども、
いつもなんとなくやっぱりほら、日本もそうですけど、いつも自民党が勝つみたいなそういうのあるんで、残念ながら。
結果としては残念なのかどうか知りませんけど、あんまりしょっちゅうしょっちゅう変わるとね、
この人、畳からの一貫性があまりにもない人になっちゃうんで、それはそれで問題だから、この統制が大体一定の環境ならば一定の統制がやっぱりあるんでしょうね。
こういう議論の中で。で、気がつくと夜はもう死にたくなるみたいな、そういうことになってしまいがちな内的対処の力関係がありまして、
それを行動変容で動かすような僕はナンセンスに近いだろうと思う。認知を変えるとか、刺激を変えるとか環境を変えるとか、無理じゃんって思うんですよね。
特に環境を変えるとか。だってそこでものすごくお金がたくさん入る仕事に就いてる人は結局そこに行くじゃないですか。
例えば弁護士さんとかだったら弁護士の仕事するじゃないですか。弁護士の仕事をしているうちに最終的には夜死にたくなるのかもしれないけど、
だからといってもう足からがもう弁護士なしみたいな。それはそれでええなんですけど、そんなに簡単に環境って変えられないと思うんですよね。
奥さんもいて子供も3人いてみたいになると、もう全然変えられないと思うんですよ。
外視で僕が見ているかとですね、独身で一人で自由気ままに生きて良さそうな人が判断したような生活をしていたりもするわけですよね。
非常に内的対象の長時間のモニタリングで厳しいわけですよ。
そんなことやるとくだらないことになるぞとか、お金を損するぞ、みんなの笑い者になるぞとか、いろんなことをそそのかしてきてですね、
結局は毎日毎日そうしなければいけないと誰も言ってないのに、その人は自分で自分に強烈な強制をかけて、結局は判定をしたようなことになると。
ほとんど強制収容所に近いことになりかねないということは起こるんですよね。
で、これも反復なんで、そこに介入という考え方が出てくるわけですよ。
分析的な介入という考え方。
つまりあなたはいつもこのパターンにハマってますよねとか例えば言うわけですよね。
しかも忘れてはいけないのは、この介入している人もダイナミックにどんどん変わってるから一貫性はないんですよね。
つまりある意味そこは疑似現実なんですよね。
すっごく設定された疑似的な現実世界なんですよ。
多分精神分析の世界というのは。
で、疑似現実をその人が外で生きているリアルな現実というのはおかしいね。
リアルな現実とぶつけてそっちで接触障害しちゃうんだけど治すために分析受けてるんですっていう場合、
あなたはこういうふうに思ってこういうふうになったから、
例えばお母さんに対して本当は良い子でありたいんだけど良い子であることができないから一発逆転狙ってこういうことしてるんでしょっていうことを言われて女の子がふざけんなと言って、
お前みたいなやつは顔を見たくないみたいなことを言うと。
でもここで起こっているやりとりそのものが疑似現実なんで、
ある意味別の親が現れたと言いますか、別の現実が現れたわけですよね。
これは環境と刺激の話というよりはその人がいつもやってることがミニチュアのようにそこで再現されて、しかも相手も動いていくわけですよ。
政治分析が一貫した私っていう概念を持ってないから相手も動いてくるわけですよ。
こういう一種の摩擦というか不安定ななんとかの中で不意にカチッと何かがはまる瞬間というのがあってですね。
ああそういうことなんだみたいな。
何か繰り返し繰り返し同じことやってるんだから気づきそうなもんなんだけど気づかせまいとしている自分もいますから内的対象の中に。
いやいやこれでいいんだから、余計なことを考えるんじゃないよっていうそういうのに近い。
なんていうのかな。
いろいろあるわけですよ。
例えばショーレイ・ドーラみたいな話で言うと多分この先生の言う通りにしてるといいこと何もないよみたいなことを多分ドーラさんの内的対象の中で密かにつぶやいたやつがいたんだと思うんですよね。
そしてやめてしまう。
こういうダイナミックなことが起きるわけですよ。
このダイナミズムは全部基本いいことなんだと思うんですよ。
思考の自由と環境
中断さえ起きなければ。
中断起きるんですけれどもね、こういうことがあるから。
こうやっていくうちに考えてみるとですね。
コンステレーションなんですけど、つまり自分というのはある意味星の星座の点のようなもので、この点とこの点をこう繋いでみればカニ座だけど、こう繋ぐと獅子座になるよねみたいな。
そうなんだけど。
そういう話なんですよ。
この時この時に現れた私っていうものは、もっと自由でいいんだけれども、なぜか同じパターンを好んでしまう。
それは環境の問題ではないんだと思う。ないんだと言ってるんだ。
なぜならば、そのコンステレーションの組み方を変えると環境そのものの意味が変わるんで。
だって我々は、パン屋さんにパンがいっぱいいるからそれにバンバンかぶりつくってことをしないじゃないですか。
でもする人がいてもおかしくないですよね。
つまり環境が刺激を持っていて、その刺激がその人の行動を決めるというならば、もっともっとそのバラエティに止まないものになりそうなものですよ。
犬猫連れてくれば絶対パン屋さんに行って、ただ黙って散歩してますなってことは考えられないじゃないですか。
だけれども人間は大概そうしますよね。
でも接触者の人はいきなり盗み始めるわけですよ。
そして後ろから家族がお金を払いまくっていくっていう、割とある種のシュールな光景みたいなものがよく取り沙汰されているというか。
本では出てきますけどね。
僕が見たというのは、本当にそういうのは滅多にないですけど。
なるほど、そういうの見たことあるなっていうのはあるんですけどね。
あれがそれなんだっていう、なんというか独特の感覚を感じさせられますね。
だって盗んだと言ったって盗んでるシーンを僕が見てるっていうことはもう盗みにならないですよね。
万引きとかとすごい違いますよね。
ある意味なんかこう、のぼーずに食ってってるみたいな感じですよね。
でも見たことがないわけではないんですよね。
でもあれって自然な振る舞いですよね。
そこを素通りしている人たちの方がよっぽど不自然だけど、マジュリティですよね、間違いなんで。
案に刺激に応答してるって言うんだったらば、相当無理があるような気がするんですよ。
で、明らかに後継の見え方が、接触障害の人というのは、いわゆる認知症の人とかではないですから。
自分が何してるのかは知っているはずなので、つまり刺激の見え方、刺激の環境の意味付けの仕方が違うんですよ、私たちとでは。
主体性と意識の変化
それは私たちとが違うというよりは、私のある条件によって変わっていく、内的対称の層、力関係から生まれる、生成される私の在り方によって、現実の意味付けの仕方が変わっていくんだと思うんですよね。
だからこれはですね、僕からすると対称関係論で見るより他、つまり心というのかな、主体というものは、そうやって都度都度作り出されるものであって、
内的対称のホムンクルスみたいな、ここに主体があるんですってことはないし、まして一貫した主体があるわけではないし、その一貫した主体になるものに提示する環境次第で私と行動が決定されるなんてことは全然ないし、
あるんだったら、一回治療して治って接触障害で退院した人が、いきなりその日のうちとかその翌日に全く以前やっていた通りの行動を繰り返すって変ではないですか、と思うんですよね、私は。
それは何かこう、そういう治療に意味がないとするか、何か説明が完全に欠落しているかのどっちかだと思うんですよ。
私はそういう治療に意味がないという感じはしないんで、むしろ説明が完全に欠落している感じがするんですよ。
つまり、一貫した事故みたいなものを少しでも想定するから、そういうこと、そういうふうに捉えてしまうんだと思うんですよ。
そんなはずはないと思う。自分が生きててそうじゃないことはわかってるじゃんって感じが、私はしてしようがないんですよね。
なので、私はメモはノートも取らないし、読み返すことはましてしないし、読み返したいと思ったら別ですけどね。
つまり、その時に現れている私の、私だと思っている私のコンステレーションは、以前それを書いた時とはもう違うんだし、
次にそれを読む時ともまた違うんだし、その次にそれを読む時ともまた違うんで、
これを考えると、この読むという行為によって、その時私がやるべきでないことをやってしまうリスクというものをわざわざ取ることになると思うんですよ。
わざわざそれを私に提示し直すということは、これが僕は行動主義の中で一番引っかかる部分なんですよね。
同じ意味を持っていないものは、何を意味するかはその時になるまではわからないはずなのに、あたかもわかるかのようにそういうことをやっていってしまうことは、
行動の変容は生むかもしれませんけれども、なんか好ましい、好ましいっていうのはすごい難しい言葉だと思うんですけどね。
好ましいコンステレーションを実現するという保証をどうやったってできないですよね、そんなことは。
あり得ないことだと思うんですね、そんなこと。
誰かがそれが好ましいコンステレーションだとわかってますって言い切れる人が必要になりますよね。
でもそれを言い切れる人がいるはずがないですよね。
だってその人のコンステレーションもまた次の時には変わっているはずなわけですからね。
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