依存と自立の探求
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1164回をお送りします。
4月9日水曜日、朝の7時42分です。
ついにこの時間に戻ってまいりました。ということは、つまりどういうことかと言いますと、新学期が始まったということで、
あの学校に行かれている皆さんもお疲れ様だと思います。この時間厳しいなと、正直収録をこの時間に再現させてみて思います。
お知らせでして、3ヶ月チャレンジ第10期を、割と大幅リニューアルと言って、実は小幅なリニューアルにとどまりつつありますが、
5月1日から7月31日までの3ヶ月間、週に1回という私とのセッションが週に1回ですね。そのほか週に2回のグループセッションというのを設置して、
まあその他にもちょこちょこ特典があと、そうだテキストのやり取りをダイレクトメッセージで、これはもう随時受け付けて、
24時間以内に返事書きますなどとは言い切れませんけれども、熟読してね、何かしら必ず反応はするし、セッションで取り上げることも考えますし、
直接回答をリクエストされている場合は何かしら必ずお答えするという、そういう方針でいきます。
これがですね、7万5千円になるんですけど、3ヶ月で、その前にですね、この金額は大きいので、お試し3回、これを正規であればインテークのような顔をするんですが、
アセスメントしませんから、お試し3回、1万5千円といったものを、5月に始まるんで、4月中に3回やっていただいてみてですね、
その1万5千円で3ヶ月チャレンジまでそのままいきたくなったら、この1万5千円を重当していただいて、残り6万円を差額支払っていただければOKですと、
3ヶ月できますというような感じにします。だから1万5千円は、もし3回でやめたくなってしまったら、そのまま1万5千円を支払いただくだけでOKといったことにしますので、
これが一番僕はやりやすいんじゃないかなと思って、今そういう方向で募集をかけさせていただいております。
残念ながらというか、初回の枠は1週間後までにしてあります。つまり最大2週間ぐらいになるのかな。
来週の土曜日ぐらいまでを枠として用意させていただいていて、これはもうちょっとばらつきはありまして、私が初回受け付けられる日時をですね、
全部Googleカレンダーで指名しているんですよ。だけど空いてない日も当然あるので、その中で選んでいただくという感じになってまして、
これもやりやすいんじゃないかなと自分の中では。私が何かに予約するときはこのやり方を是非取りたいといつも思っていたので、こういう風にしているんですね。
カレンダーの中でこの中の日付の好きなのを選んでくださいとなっていると、まあ選びやすいような気がするんですよね。
美容院とか全部こうなっていると楽なんだなといつも思っていたので、これをやっております。
もうちょっと見えやすいとなおいいんでしょうけれども、とりあえずそういうことで、Googleカレンダーはちょっとですね、Googleカレンダーなんで、あれは私のGoogleカレンダーなんでね。
連動しているから非常にいいわけですよ。どこが空いているのかで、間違ってダブルブッキングにしにくいじゃないですか。
だから私としてはこのやり方が一番、承認は合っているというか、今の自分のシステムではやりやすいなと思ってこの形にしております。
詳しくはと言いますか、Googleカレンダーの方の文言を読んでいただくと、これはほぼ毎日最近はX状に上げてますんで、Xじゃないところにも上げればいいんでしょうけど、ノートとかに上げればいいのかな。
なんかでもそのあちこちに同じものを上げるというのは結構やればいいんですよね。
気が向いたらやりますということで、受付募集中といった感じです。
この3ヶ月チャレンジの10期は、とにかく昨日お話したような内容が昨日のすごかったんですよ。
スタイフではね、まだ視聴者数25名しかいらっしゃらないのに、うちいいねをつけてくださった方が11名という。
こんなにこの話は聞かれれば響くんだなと。聞いている人が極度に少ないんだけど、聞かれれば響くんだなということが感じられて、
この種の話をもっとすればいいんだが、この種の話っていったらどんな話なんだろうと。
この種がよくわかんないんだよねっていうのがありますが、3ヶ月チャレンジでですね、やっぱり私がここをもっともっと頑張らなければと思っているようになったのが、
私との接触頻度を上げていただき、言うならば私あるいは3ヶ月チャレンジというこのサービスに精神分析の言葉で言うところの依存度を高めていただくと。
この依存っていうのがね、やっぱりある種の人にアレルギー反応になっちゃってるんですけど、この依存というのは我々が生きていく上では絶対にどんな人でも避けられないと。
これがね、なんとなく避けられると思ってしまうというのが一つの大きな問題なんですよね。
僕は脅迫症的になっていくんじゃないかという、とにかく接触障害もそうですけど、ある意味人間の独立とか自立のテーマなんですよ。
私この番組ではやや冗談めかして、ヤンキーの人たちってそうなんだって話してますね。
彼らは急いでるわけですよ、独立を。
中学生でもタバコを持っているし酒も飲めるし、喧嘩もできるぞみたいな、喧嘩はできるんだけどね、僕みたいな人間でない限りは。
つまりそれは自立を急いでるんですよ、親が信用ならないから。
親とか社会とかが信用ならないから。
重力と生存の関連
でもああやってられるっていう、あの人たちだってちゃんとわかってるじゃないですか。
ああいうことをロシアの真ん中とかそういうところではやらないんですよ。
だから危ないんですけどね、ある意味では。
つまり安全なところでやるってことですよ。
安全なところっていうのは、つまりその人が依存できる場所なんですよ。
依存できる場所が減ってきているから、自立を急がなきゃならなくなってるわけですよ。
だから社会への不信とか親への不信といったものは、当然自立心を高めるわけですが、我々はでも絶対に自立できない場所ってのは、例えば地球ですね。
地球の外では生きられないですよね。
地球の外に人類出ることにまでは成功してますけど、今のところ地球の外で生きている人は一人もいません。
つまり僕らは地球に依存してるんですよ。
3ヶ月チャレンジの中の方が面白いことをおっしゃってたんですけど、我々は例えば重力に依存してるんですよ。
これはもう全く意識していないから、俺は一人で生きていけるって言うんだけど、そうはいかないんですよね。
次に行くと多分健康被害で早々になくなっちゃいますね。他のものが完備されてても。
やっぱり重力が地球の4分の1ではですね、これは到底生きられないと思うんですよね、いろんな意味で。
まず血流が多分維持できないでしょうね。
だから我々は間違いなく重力にものすごい依存してるんですよね。
重力なかったら空気なくなっちゃいますからね。
で、その空気にも依存してますよね。
そういうのも依存なんだって思われるかもしれませんが、それが依存ですよね、当然。
で、僕らは例えば電気というものにものすごい依存してますよね。
電気と通信がなければ、多分我々の生活をほぼ成り立たないって感じがしますね。
だから当然電気とかに依存してるわけですよ。
だから僕らの自立っていうのはものすごく条件が付けられていて、この条件を全部廃止で生きるというわけにいかない以上、
結局のところ依存先というものを色々と自分なりにコーディネートするというのが大人の自立の多分マックスなんだと思うんですよね。
というテーマの深化
お金がふんだんにあれば酸素なしで生きられるってわけではないじゃないですか。
そういうわけではないですよね。大谷翔平さんだって重力と酸素なしではすぐなくなっちゃうわけですよ。
この辺がですね、この辺すら面白くないって考えるならば、
世の中とか世界とか宇宙といった宇宙不審ってあんまり言わないじゃないですか。
宇宙に不審感があるみたいな。せいぜい社会ですよね、不審感があるのは。
地球不審とかってあんまり言わないと思うんですよ。
やっぱり不審と言っても人なんですよね、それはね。
ここがまた面白くない人には面白くないんですけど、
面白くないというのはやっぱり生育歴に僕は寄っているんだろうなと思うんですけどね。
情緒ですよね。情緒的に人に依存できるかどうかが最大の鍵になると思うんですね。
だからこの情緒的に依存できる人とかサービスを提供するものの一つが、
提供するものが例えば自己啓発であり、私が思うんですね。
何を謳っていようとやっていることはそうなんだと思うんですよ。
あるいは精神分析でもそうですし、カウンセリングは言うまでもなくですし、
だからそういうものをやっているとメンタルが弱いって言われるとか思っちゃうのかもしれないですけど、
これは大きな誤解なんですよ。
っていうことを昨日お話ししたんですね。
つまり不在の母親というものを何とかできるようにならないと、
不在時に私の隣にいてくれる母親というものが意識しなくても心の中に備えられていないと、
多分一人で寂しくてやってられなくなるんですよ。
これは別の言い方をすると、どんな人も心の中の母親に、象徴としての母親とかではないですよ。
不在の母親に依存してるんですよね。
この依存が意識はしない、だったら別に意識しなくてもいいんですが、
意識してもいいんですが、いないということは多分ありえないんですよね。
これが起動できなくなると、
グデンって人が本の中で書いていたような、うんと年上の奥さんをもらうエンジニアみたいに、
そのエンジニアの人は多分高級鳥なんですよ。
全然自立してるんですよ、客観的には。
でもうんと年上の奥さんをもらってしまうわけですよ。
しかもそういう具体的な年上の奥さんというものがいないと、
母親というものが不在の母親を埋めてくれるっていうものを心の中にいるんですよ、多分。
内在の母親はいるんだけど、心の中の母親はいるんですけど、不在の母親はいるんですけど、
彼はそれを起動する能力に少々おそらく問題があって、
年上の奥さんが隣にいてくれているときだけ自分の母親がいるような気がするんですね。
だから出かけてしまうと仕事手につかなくなったりするわけですよ。
完全に依存してるんだけど、依存が意識されてないし、また十分うまく依存するってことができてないんですよね。
これをうまくやっていきましょうというか、これをやるスキルではないんですけれども、
情緒的な出し入れができるようになっていくと。
だけどこれは都合によって出し入れができるというほど簡単なものではないんですよね。
という話を今日していきたいわけなんですけれども、
要するに依存できるようなシステムを備えていきたいというか、
サービスを提供できるようになっていきたいというのが、3ヶ月チャレンジのある意味一つのチャレンジなんですね。
チャレンジはいっぱいあるんだけど、3ヶ月チャレンジのチャレンジは私がチャレンジしている部分も多分にあるんで、
3ヶ月チャレンジを繰り返すことで、私がそういうものを提供できるようになっていければいいのだがと思っているわけですね。
そういうものに依存したくないんだっていう話をされるときは、
じゃあ自分は何に依存しているのかということについて、
もちろん、あのチャレンジを利用されないというのは全然利用していない人の世の中もいっぱいいらっしゃるんだから、
それで十分なんだけれども、
だけれども、何にも依存しないで生きる、さっきも言ったように重力とか空気とかにも依存しないで生きるということは不可能で、
つまり我々は〇〇なしには生きられないの〇〇はみんな明らかに持ってるんで、
この種類とかタイプが違うに過ぎなくてですね、
これから独立している人とメンタルの弱い依存している人がいるんではないってことなんですね。
まあこの話はいくらやってもですね、この話そのものが気に食わないという方にとってみればですね、
世の中にはいらっしゃると思うんですよ、実存主義のある種の専永化した先にはね、
あったんで、自分、地球に依存するのすらごめんだみたいな、
でもそれで死んでしまうんですよね。
だから僕は専永化していく独立思考というものは、
どうしても死の衝動みたいに見えているんだよなと感じなくはないんです。
悲しみと怒りの関係
タナトスってやつね、感じるんですよね、そういうものは。
だからあるじゃないですか、あのガンダーラ美術のやせ細ってこう、
骨と皮ばかりになっていく、なんか痛々しい仏像みたいなやつ。
あれが食べ物というものの依存というものを退けようとした人の姿ですよね。
つまり我々はあそこまで行っちゃうんですよ。
人間って不思議な生き物ですよね。
そんなこと動物絶対しないじゃないですか。
俺は食べずに生きるジョジョみたいな世界にはならないわけですよ。
なっちゃうんですよね。
あれだけしかも起源前に試みたことなんで、
未だに人間ってそういうところがものすごいあるじゃないですか。
灼熱の中で生きようとしてみたり、
漫画の中では油風呂の中で生きようとしてみたり、
あるいは今でもアイス風呂の中で頑張っていらっしゃる方もいらっしゃると。
つまり我々はものすごく自分を独立させたいという思考を持っているわけですよ。
ものすごいんですよ、これはね。
多分私は可能ならば月面で生活しだす人もいるんだろうなと思うんですよね。
つまりそれぐらい我々は何にも頼らず生きていきたいぞっていうね、
ものすごい徹底したある種のストイシズムみたいな、
ストイシズムってこれを呼ぶべきなのかわかんないんですけど、
強烈な独立思考ですよね。
ただ私はそれはある面ではものすごい頭の中がヤンキー化してる感じがするんですよ。
要するに何にも頼りになるものはないんだと。
世の中バカばっかりだって言ってるようなもんだと思うんですよね。
このものすごく世の中に対する絶望感という、これは絶望感だとやっぱり思うんですよ。
俺だけが何よりも素晴らしいっていうその極端なナルシシズムの形態っていうのは、
やっぱりものすごい絶望感と表裏一体だろうなと。
だからここから解放されるとめちゃくちゃ楽になるというのは、
ある意味当然なんじゃないかなって感じがする。
月面よりは地球の方が生きていくのに簡単なのはもう、
アポロの宇宙飛行士が言ってたんですよ。
ここには何もない。地球には全てがある。
この感じですよね。
でも我々は地球に行ったら全てがあるって感じにはならないじゃないですか。
例えば地球にいるんだけれども、
今日は公園で寝なきゃならないっていう人は、
月面の人からすると公園にだって何でもある。
酸素もあるし水もあるしみたいになるんだけれども、
そうはならないですよね。
やっぱり何にも俺にはない。
全てを失ってしまったっていう言い方をするじゃないですか。
だから、ないとかあるっての、
本当に情緒的な部分がものすごく大きくて、
だから私はまず不在の母親というものが、
私にはいてくれるというふうに思えるようになる。
情緒的に。
そうすれば自分が食っていく分のお金を稼ぐとか、
家族の分のお金を稼ぐというメンタルを、
気力を手に入れるのは、
もうどってことはない。
黙ってても手に入ってくる。
地球には酸素があるよ。
不在の母親の影響
私には気力があるって感じは、
そんなに難しいことではないんですが、
自転車の後ろに支えてくれるお母さんはいないんじゃないかと、
疑い始めると全てがなくなっていくんですよ。
手からこぼれ落ちていく。
このギャップの大きさなんですよね。
不思議な気もしますけどね、私もね。
しますけど、このギャップはでかいんですよね。
具体的な母親はあまりにも自分に良くしてくれなかったって人は、
この部分が確かに難しくなるんですよ。
空気とか水とか重力といったものと近いんですよ。
環境としての母親というべきなのか、
財の母親というべきなのか、
移行対象というべきなのか、
ブランケット、毛布ね。
毛布とかぬいぐるみをお母さん代わりにする子供はいっぱいいるじゃないですか。
どっちがお母さんなんだかわかんないんだけど、
まさにそこが正しいんですよ。
ぬいぐるみを抱っこしている女の子は、
自分の子供を抱っこしているような気がするんだけど、
ここで自分はお母さんになれる。
ということはそのお母さんと一緒にいられるんですよね。
ママごとする女の子も同じですよ。
自分はお母さん役をやることがとても多いです。
そうやってお母さんと一緒にいる。
これは情緒的な話なので、
具体的な話ではないので。
具体的な母親がものすごく冷たい人だということになれば、
余計こういう遊びには熱が入ったりするものなんですよ。
どうやってそれを、
人間にはそういうなんていうのかな、
潜在的っていうのは本当、
自己啓発みたいであれなんですけど、
人間にはそういうものが、
やっぱり昨日藤山直樹さんの
集中抗議精神分析を読んじゃったから、
そういう感じを僕持ってるんですけど、
なんて書いてたかな、
体験生成の枠組みみたいな言い方をしてたな。
つまり赤ちゃんはおっぱいに吸いつくけど、
ボールペンには吸いつかないと。
あれで言いたいことは要するに、
赤ちゃんはおっぱいなんてものは知らないんだと。
これからおっぱいを吸いたいということも知らないんだと。
だけれども、そこら辺は本能と言ってもいいんでしょうけどね。
吸いつくわけじゃないですか。
吸いついた後で、
おっぱいとはどういうものだとか、
おっぱいを吸うとはどういうことなのかというコンセプトを
後から得てくる。
このコンセプトの種になるようなものは、
最初から持ち合わせてやってくるんですよってことなんですよね。
だから実際におっぱいに吸いついたことがない赤ちゃんでも、
それがどういうことかは生きていれば分かるようになるみたいな話なんですよ。
なんだと思うんですよね。
つまり、母親と一緒にいるとはどういうことかというのは、
母親が生まれつき、運が悪く、とても運が悪く、
いらっしゃらないという人もいるんですよ。
でも母親と一緒にいるとはどういうことかは、
起動できるようになっているだろうみたいなのがあるんですよね。
これがたぶん体験生成の枠組みというように、
藤青直樹さんが書いていらっしゃったことだと、
僕は思うんですよ。
で、私はそういうものを、
失い方の心理的影響
そんなことまでできる。
でもこれは体験生成の枠組みを、
もし我々が持って生まれてるんだとすると、
精神分析じゃなくたって起動するに決まってると思うんですよね。
だから精神分析がエディプスコンプレックスを起動するわけじゃないじゃないですか。
我々みんなエディプスコンプレックスというものを起動するんですよね。
ついついお父さんを見てしまう。
国父とかって言うじゃないですか。
あの言い方は僕は気持ち悪いけれども、
やっぱり国のお父さんみたいな言い方をしますよね。
で、親方とかっていう言い方もするじゃないですか。
常に父親を見ますよね。
自分より目上の、特に男の人に。
そこら辺が長らく最近に至る、
前世紀あたりからユニズムの槍玉に上がってるんですけど、
それはそうなんですよ当然。
やっぱりそこを槍玉に上げるっていうのは、
極めて根幹に触れてるわけですよ。
ついついお父さんを見てしまう。
ついついお母さんを見てしまうっていう、
この体験生成の枠組みですよね。
父親とはどういうものかというのを、
必ずしも全ての人にとって父親は同じじゃないのにも関わらず、
同じようなものの見方を我々はするんですよ。
これが僕はやっぱり、
エディフスコンプレックスってものを、
我々は効果的に備えている、
みたいな言い方をしてもいいのかもしれないですけど、
そういうことなんだろうと。
これは別に精神分析受けなくったって、
みんなそういう体験はしているからこそ、
むしろ精神分析が効くっていうことになるんだと思うんですよ。
で、もうすごーく開始で20分が経過してしまったわけですが、
何かを失うってことの話なんですよ。
不在の母親だからね。
やっぱり失うことの問題なんですよ。
欲打つっていうのは、
基本何かを失った結果として現れる、
一種の心理的には厳しい状態、
しばしば病的な状態ということになるんですけど、
欲打つ症といったりするから。
うつ病じゃないですよ。
うつ病はもっとこの先にあるものだと思うんですよ。
欲打つ症ですよね。
欲打つ症というのはしばしば我々は、
怒りを持ってしまうんですよね。
この辺ちょっと、
倉園慶雄さんのグッドファイブスで、
もうかなり最初の方、
今どのくらい言われているかわからないですけど、
かなり最初の方、
あなたは何を失ったんですかっていう問いを、
割と繰り返しされてたんですけど、
あれはまさにそのことを言ってるんですよね。
我々は何かを失うと、
つい怒ってしまうんですよね。
つまりそれは被害にあっている感じがするってことですよ。
だっておかしいですよね。
何かを失ったからといって、
必ずしもそれが、
私が害されたと考えるべき理由はないんだけど、
例えばお母さんが死んでしまったと。
被害を受けた感じがする。
でも子供だったらきっとすると思うんですよ。
で、この種のことはですね、
特にこの精神力動の世界では、
失った対象という言い方をするんで、
人とは限らないわけですよ。
特に私はやっぱりお金を失った時の人は、
これにはまるなって感じがするんですよね。
お金がなくなると、人は怒り始める。
で、奪われたんではないかとか、
奪われたんではない場合、
私は自分が無駄遣いしたんではないかと、
怒り始める。
悲しむというのは、
こういう時に悲しむ能力といったりするんですけど、
本当にこの被害を感じるべき時に、
怒りを感じてしまうという、
不在の母親が不在の時に、
我々子供として泣けばいいんだけれども、
怒っちゃうわけですね。
で、なんで怒っちゃうのかというのが、
フロイトがモノアイ党の仕事と言ったりしている、
モーニングワークと言ったりするやつですよね。
あるいは、メラニクライか、
対象喪失ですよね。
要するに対象喪失の話をしているわけですよ。
で、私は、
これは3ヶ月チャレンジやってて、
ある意味、ある意味では全部これだなと。
わかりやすいところでは、
2つありまして、
1つはですね、
家庭の方からいきますと、
よく人を不機嫌でコントロールするとか、
っていう言い回しあるじゃないですか。
あれはコントロールする側に焦点を当てているから、
なんとなく精神分析的ではなく見えるんだけど、
コントロールされる側、
これを言うと今度は社会問題側から適切って言われるのかもしれないんだけれども、
やっぱり私はコントロールされる側に立ちたいんですよ。
そっちを支援したい。
なぜならコントロールする側には、
だいたいアプローチできないから。
だってコントロールする側は自分悪いと思ってませんもん。
それをこう、なんていうのかな、
ソーシャルアプローチして、
Xで批判するとかしてみても、
あまりはかばわしい効果が出る気がしないんですよね。
いや、うちの奥さん不機嫌で俺をコントロールしてくれるから、
あの、ちょっと女性にそういうのをやめさせるようにXへ訴えよって、
なんかすごい遠回りな感じがするし、
本当にそれで解決するかって感じが。
でも奥さんは今日にも不機嫌になるかもしれないのに、
怒りの心理状態
その方法だとなんか50年ぐらいかかりそうじゃないですか。
なんかその人にとってプラスになる感じがしないんですよね。
だから、だからやっぱりコントロールされる側は、
どういうふうにそれを対処していけばいいのか、
別れましょうみたいに言う人もいるんだけど、
やっぱりそんなに簡単に別れられないじゃないですか。
奥さん不機嫌だから別れましたっていうのは、
ありかもわからないけれども、
でもまあそうはいかないよなっていう人の方が、
僕はやっぱり多いと思うんですよね。
じゃあ泣き寝入りなのかみたいになりやすいっていうか、
そういう極論に入っちゃう方も少なくないのが不思議なんですけれども、
やっぱりそうではないと思うんですよ。
まず不機嫌になると、どうして、
何が、どんな心理状態に入ったのかということが、
まず大事だと思うんですよね。
その時、奥さんに対して怒りを覚えていると。
怒れないんだけど、私なんかがそういう弱小の夫なんで怒れない。
怒ることすらできないと。
でも怒ってるわけじゃないですか。
怒れないって言ってるってことは怒りたいってことですからね。
あるいは奥さんが不機嫌になった、
なんか悪いこと自分したのかなって、
これは自分を罰する準備が始まってますよね。
愛も、やはりここでも怒りですよね。
修復の重要性
つまり、怒りを妻に向けるか、自分に向けるか、
みたいな話になっているわけですよね。
あるいは奥さんの機嫌を取るべきなのか、みたいな。
これも罪悪感に近いですよね。
これを精神分析では修復って言うんですよね。
修復ってのは、ほら、
障子って今、いいですよね。
障子に穴開けちゃうじゃないですか。
なんかでも子供がさ、それを、
いい感じに、いい感じじゃないんだけど、
穴がないかのような雰囲気を、あれ修復ですよね。
つまり、修復というのは、
自分の罪を何となく懲戒しにしたいような、
障子隠滅みたいな感じなんですよ。
修復ってのは僕の感じでは。
もうちょっと本当はちゃんとしたことを指していくんだけど、
割と僕はああいうですね、
ちょっとした自分の後ろ目立たさみたいなのを、
覆い隠す修復ってのを、人はすごい、
特に僕は日本人割とやるんじゃないかなと。
なんかね、あれなんですよね。
これは精神分析ではちょっと妥当じゃない例なのかもしれないけど、
僕がすっごい気になるものとして、
日本人って車ピッカピカにしがしですよね。
なんかちょっと本当に細かい傷がついたら、
すぐバンキン屋さんに何とかとかって言い出すじゃないですか。
ああいうのはアメリカに行くと、
とても理解できないぐらい車がボロボロなんですよ。
トランプ大統領には悪いんだけど、
こういう世界の問題ってあるよなって感じがするんですよね。
なんで日本ではこんなに車が、
車産業が強いかというと、
日本人っていうのはすっごいこの車ピカピカ感が大好きだからなんじゃない。
イタリアとか、母が行った時にびっくりしたって言うんですよ。
なんかこう、車出す時に近くに車止めてあって邪魔だと、
ガンガンぶつけて動かして、
だからみんな全て車がボコボコだったって言うんですよ。
今もそうなのかわかんないですけどね。
でも21世紀の話ではあるんですよ。
でもなんかわかる気がするんですよね。
気にしないんですよ、見てるとあんまり。
アメリカ人とかも、車がボコボコとか。
ちなみに車が割とピカピカであることを好むのが、
僕の知っている限りでは韓国の人がそうだったんで。
なんで日韓って仲良くなれないのか不思議なんですよ。
世界でも稀なぐらい独特の点で理解し合える、稀な。
他の、近くても他の国の人たちは大体どっちかというと世界標準があって、
なんか日本人って全然世界標準じゃないなって感じなんです。
悪いことだとは別に思わないですけど、
すげえ個性的だなとは思うんですよね。
なんかこう日本の、というか最近はあんまり、最近も見ますよね。
お父さんが車、日曜日にピカピカにしてるじゃないですか。
しかもすごい眠るように磨きますよね。
なんかこう家の中にある壺みたいな。
何の話をしてるかというと修復品があるよね、すごく。
っていうことなんですよね。
あそこには罪悪感があるんじゃないかっていうふうにちょっちゅう思うんですよ。
つまり小さな傷をつけた自分が許せなくなって、
修復しないと、修復ってつまり関係の修復なんですよ。
自分との関係を修復しにかかる。
修復と償いというのはですね、行くうつポジションにおける必須なんですよね。
つまりメラニクラインの霊を取るならばおっぱいを出ないと思って噛んじゃいました。
そしたらお母さんが痛いとか言ってその後危険が悪くなった。
お母さんを壊してしまったと。
修復しなければと赤ちゃんが思えたらそこでDポジションに入れますということなんですよ。
これはもうお母さんが悪いんだからもっと泣き喚いて怒りを言って攻撃しなければってなったら、
それ相変わらずPSポジションにいるわけですよ。
自分がやったのかもしれないってなった時に自分ってものが現れる。
つまり自分と他者の関係ってものに入るわけですよね。
そこまではいわゆる一時過程のナルシズムの世界であって、
自分と他人はほとんど一体化してるんです。
赤ちゃんにとっての母子は一体なんで。
だから噛んでも、なんていうのかな。
噛んだからといって相手を自分が傷つけるという概念はまだないわけですよね。
これも体験生成の枠組みってやつですよねやっぱりね。
そういう方がは思ってるかもしれないけど、まだそれが起動できてない。
でも自分が相手を傷つけたのかもしれないってなった時に、
自分ってものを持つことができるわけですよ。
だからDポジションに入れるわけですよね。
しかもその最初はとても悲しい出来事だったからよく打つポジションなわけですよ。
修復しなきゃってところから始まる。
修復しなければというのは他者を修復しようとしてるわけですよね。
関係を修復しようでもいいんだけれども。
実はこれが車と自分の関係の中でやっちゃってるように見えるんですよね。
日本人ってのはね。
かなりの反なる道具だとは思ってないような気がするんですよ。
だから今の若い人たちは車離れが進むんじゃないかなって思うんですよね。
どうでもいいもののように安っぽいものを
ちっちゃい車を買ってボロボロにして乗り回すみたいな発想を
お金がなくなっても持てないから。
車を買う以上ピカピカみたいな世界に入ってると
車買うよりもiPad買った方がいいよねってことになっちゃうんじゃないかなというか
iPadはピカピカにしたがるじゃないですか。割と。
傷だらけでボロボロっていう人もいなくはないですけどね。
なんかああいうメンタリティーが修復ってものを感じさせるんですね私にはね。
力道的には適切じゃないかもしれませんけどね。
でどうして失うという違う違う逆だな。
まず怒った時に僕らはそうグッドバイブスでも言ってたことなんですけど
怒ったら何を失ったかを考えろっていうのが割とグッドバイブスの初期のワーク
今でもあるかもしれないけどあったんですよ。
これは文字通りに欲打つポジションの話、欲打つのワークスルーの話をしていて
まず何を失ったかに気がついていないってフロイトも確か指摘してると思うんですよね。
メラニクライは明らかに指摘してますね。
まず何を失ったかを考えなさいみたいなことを言うんですよね。
で3ヶ月チャレンジやっててもこれ多いなっていうのがまず会社の理念みたいなもの
そして奥さんなり夫との関係つまり不機嫌ってやつですよ。
これは機嫌のいい母親を失ったってことなんですよ。
これがね私にはよくわかるんです。
なぜならばうちの母はしょっちゅう不機嫌になってた。
もう不機嫌がデフォルトみたいな人だったからやたら僕は修復マンになってしまう。
多分この僕の修復マンブリが今のこの仕事のベースになってるなーって感じがするんですよね。
ここで修復に自分が走らないということを結構3ヶ月チャレンジのセッションで真剣にやってるんですよ。
修復に走らないがものすごく修復に走らないがいい関係を築くという希望を常に失わないみたいな
この態度が必須だなっていう。
僕これ非常に弱いんでこれがもうね必須だっていうのがよくわかるんですよね。
修復に走るというか機嫌を良くしようとするのはPSポジションですよね。
わかっていただけますかね。
機嫌を良くしようというのは相手をコントロールしようとしてるんですよ。
だから私は機嫌でコントロールしようとする人とは距離を置きましょうっていう論に逆感賛成できないんですよね。
機嫌で人をコントロールしようというのは確かにPSポジションでその人の課題を示しているんだけどそれはその人の課題なのであって
周りの私が迷惑をこむるからって思ってしまうという段階で既に自分もPSポジションに入ってるんですよ。
機嫌は良くなっておくべきだよねっていうニュアンスがそこにあり、相手の機嫌を良くしようとしてしまってるんですよね。
だから被害的に受け取るんだと思うんですよ。
PS対PSになってしまうんですけども、私もなってしまうんですけども、
しょっちゅう母の機嫌を取ってたのはまさにそういうことなんだけど、これは良くないんだなとは思うんですよね。
母はこういうことなんですよ。母は母の機嫌は母の機嫌なのだから彼女の自由なんですよね。
だから私が母の機嫌を良くしてはいけないんですよ。
そしたら私の支配下に入ることになるじゃないですか。
この観点を取るから僕は言うほど上手くはできてないんだけど、
というか私はここに脆弱性があるんで、ここに私の欠点があるんで上手くできないんですけど、
ここをやっぱり頑張れるようにならないと、Dポジションに踏み留まるわけですよ。
悲しむべきであり、怒りを覚えちゃダメなんですよね。
失ったものと恋愛の幻想
コントロールしようとしないってことなんですよね。修復はいいんですよ。関係の修復に向かうのはいい。
だけどそれは私が気分が良くなるために相手の機嫌を良くするっていうのは非常に倒作的なものがあると思うんですよね。
この差がでも微妙で難しいんですよ。僕には特に難しい。取り扱いに困るんですね。
対抗が起きてるんで私の中で。どうしても自分が8歳時くらいに戻ってる感じが強烈にあるんで。
だから私は恋愛というものがすごい、恋愛というものに妄想を抱いてたわけです。
常に機嫌の良い彼女が隣にいてくれるという誤解をしていたわけですよ。誤解というか、そんなことありえないことなんで。
どっちかというと常に機嫌が悪い人が隣に発生することになりやすいんでね。付き合えればってことなんですけどね、これすらもね。
だから私は空想の時間の方が遥かに長かったんで。これは万能空想ですよね。関連に。
で、これが一つですね。だから何を失ったのか。たぶんそれは機嫌の良い母親を失ったんです。
奥さんなり夫なりが不機嫌で、自分がコントロールされている。ここに被害感がありますよね。間違いなく。
怒りがある。できれば罰したいか。あるいは機嫌を損ねてしまった自分を罰したくなる。
だから修復が、よくこうタスクリストとかチェックリストもそうなんだけど。
先日ね山崎隆さんとのイベントで山崎さんが、しかも面白く指摘されていたように、このタスク集となりタスクリストなりチェックリストといったライフハックの人が好むリストが脅迫症的なものと関係があるというならば、ライフハッカーの人は怒っていることになりますよね。
怒りの背景を理解する
っていう。なぜなら脅迫症とは基本的には怒りの表出に関する病理だからっていう。さすがに専門家だなーって感じのお話をされていたように記憶しているんですけれども、そういうような話があるんですよ。
だから、修復しようとした時に自分は何か悪いことしたんだろうか。あるいは悪いこともしてないのにこいつが勝手に怒っているこいつは悪いやつなんだろうかっていうこの問いの立て方がそもそも非常に、何を失ったかについての特定に失敗してるんですよね。
自分は一体何を失ったのか。失ったという結果、私が被害を受けているってことになってしまっていて、失えば被害を受けているってことになりますよね。お金を失う、お金を奪われる、あるいはお金を散財する、お金を落とす、すべてこれが罪悪だって考えた時には怒りが生まれてくると思うんですよ。
被害にあったと考えれば怒りが生まれてくるんですよ。だけれども失うということに必ずしも被害というニュアンスはないはずで、だから親が亡くなった。悲しいでいいはずなんだけど、親が亡くなった。これから俺はどうやって生きていけばいいんだ。なんでこんな時に死んでしまうんだってなったら迫害的になりますよね。
これは何を意味しているかというと、どっちの味方も取れるということを意味しているんですよね。被害的な側面もあるし、被愛的な側面も悲しみの側面もある。少なくとも被害的な方に圧倒されると私たちは欲打つのワークスルーが終わらなくなるわけですね。
なんとかそこで頑張って、例えばお葬式。お葬式は具体象徴なんですけれども、儀式ですよね。だから非常に脅迫的な何かなんですよ。つまりお葬式というのは償いの儀式なんだという、これは松木さんが不在論という本の中で確か書かれてたと思うんですけど、非常に儀式化されやすいですよね、あれはね。
これはあってはいけないことだし、非常に問題のある話になってしまうんですけれども、バスの置き去りってあるじゃないですか。これから暑くなるので、本当に車に子供を、わかるんですよね。これは私も育てててなるほどだから置いていってしまうのかってわかるんですけどね。
で、子供は無念じゃないですか。本当に。この無念に対して、でも我々は子供が怒ったと考えるとですね、やっぱりそれはホラーの世界に近づいていくと思うんですよ。怖いですよね。非常に怖い。
これはそこまで悲劇的にならなくてもやっぱり怒ったと考える。怒ったと考えるということは悲しいと感じているというよりは怒ったと考える。その時我々は弔いたくなるわけですよ。償いたくなるわけ。
これはつまり本当にその怒りというものが外に亡霊となって現れるということになると、完全に現実検討式を失っている世界に入るんだけど、そうではなくて心の中で自分が怒られているということになると、実はこれはですね、被害感を持ってしまってるんですよ。
本当は悲しむだけでいいはずなんですよ。非常にややこしい話になってくるんだけど、本当は悲しみこそが全てのはずなんだけど、どうしても怒りが湧いてしまう。なぜそうしたっていう、自分に対してであれ他人に対してであれですね、怒りが湧いてしまう。
なぜそうしたという、この罪悪感というものに圧倒されるんですよね、やっぱりね。被害なのか被害なのかっていう、そして何を失ったのか、こういう場合は何を失ったのかは明快ですが、我々の日常生活ではもっと小さな出来事ばっかりなんで、車に傷がついたとか、奥さんが不機嫌である。
私がサンチャレやっていて、もう一つよく思うのは、会社の理想を失う。理想の会社、会社の理念みたいなものでもいいんですけど、ここに来たらもっといい職場で素晴らしい環境で働けるはずだったのに、課長は仕事はしない、部長はセクハラばっかりするみたいになった時に怒りが生まれますよね。
そうではなくて、被害が被害で最後は収まるはずなんですよ。悲しいと。でもなかなかそうならないですよ。我々はそこで何かを失ったということに気づかないんですよね。自分が会社にそんなに期待していたってことに気づかないって人も多くいらっしゃるし、そもそもそれ何かを失った感じがむしろなんかセクハラを与えられたとか、
課長が仕事しないせいで私の仕事が膨大になって余計な仕事を押し付けられたとか、そういうふうに与えられた感じがしてしまう。余計なものを押し付けられてる感じがするんですが、そうじゃないと思うんですよね。多くの人はよく自分の時間を失うっていうふうにこれを言い換えると割と多くの方がうなずかれるんですよ。
これも失ってるわけ。失ったときには我々は悲しむのが自然なんですよね。だって私が何かを持たない状態になるっていうのは生まれてきたから、だからやっぱりここにディポジションって明快で、生まれてきたときは裸で生まれてくるってよく言いますが、つまり何も持ってないところから生まれてきた以上、得たものというものはなくなったとしても元に戻っているだけであって、何か被害にあっているというふうに解釈する。
場合にはかなりの条件が必要なんですよ。実際にはあからさまに奪われたって言うなら話は別なんですけども、会社に行って会社が望み通りの会社ではなかったという怒りが生まれるんですけれども、なぜこんな会社なんだという怒り。これが多席的な怒り。なぜ俺はこんな会社に入っちゃったんだ。これが自責的な怒り。で、私はどっちも適切でないと思うんですよね。
悲しみとしての真実
その会社は入る前からそういう会社だったんですよ。ずっとそうやってやってきたんですよ。もちろんその会社を改革するべきだっていうのはあるのかもしれないけど、その場合に元々その会社はそういう会社としてあり、自分はその会社に入ってなかったときには何の怒りも湧いてなかったということは、やっぱり思い起こせれば思い起こせた方がいいと思うんですよね。
そのときに入って、わざわざ入って怒っているのは、自分は何かを入ったせいで失ったってことなんで、そのときに失っているものはたぶん理想の会社なんですよ。たぶんそうは考えないんですよ、生計でも。たぶん理想の会社なんですよ。もしそれがもともと理想通りの会社だった場合には、この話はとっても見えやすくなるんですね。
入ったときはすっごいいい課長と部長だったんだけど、なぜかその人たちが全員クビになって、ひどい人たちばっかり入ってきて、あの私の会社を返してくれって思うじゃないですか。思わないかもしれないけど、思うとするならばこの状態に限りなく近いと思うんですよね。
で、こういう怒りになったときに、我々は必ず被害的に迫害的な感じを抱くはずであり、だからそういう側面もあるんですよ。つまり、私が被害に遭っていると見ることもできるし、私は何かを失って悲しいんだと。
ここに行き着けるとディポジションに入れて、で、悲しいだけなんですよ。悲しいときってのは。ここにはですね、やっぱりちょっと仏教的な悟りみたいなものが感じられるんですよね。自分の精神に関わることならよくわかると思うんですよ。悲しいだけなんていうのかな、自分がこのまま亡くなっていくというのは悲しいと。
だから、例えば子供、お子さん、お子さんだとやっぱり微妙すぎる。若くして両親のどちらかが亡くなったというときに、あの人も悲しんで亡くなったんだろうなと、死ぬとき悲しかっただろうなと思えたら、これ完全に自他が分離してるじゃないですか。他者が自分の一部になってないんですよね。
この言い方をフロイトは私的に言うからね、対象の影が自我に落ちるとかって言うんですけど、要するに自分の一部になっちゃってるわけですよ。母は生きているべきだった。完全に自分の一部にしてるわけですよね。私のために母は生きているべきだった。
死んでしまってバカ野郎みたいな感じになる。まあそれはそれでドラマみたいでいいのかもしれないんだけど、死んでしまってバカ野郎みたいに感じるということは、明らかに母親は自分の一部になっており、その自分の一部になってる母親を批判してるわけですよね。
これがもう少し成熟してくると今度は、お母さんを私は苦労して死なせてしまったになるんですよね。これはもううつ病に限りなく近い状態かと思うんですが、抑鬱症の非常に重度な感じがありますね。これが対象の影が自我に落ちるなんですよね。
本当はこれ、母親への怒りがあるんですよ。その母親を自分の一部にしてしまってるんで、自責してる感じがするんですよね。母親に怒ってるんだけど、こんなに早く亡くなってしまって、私こんなに辛いじゃないかと。
情緒的な部分が大きいと思います。この場合経済的とかではなくて。こんなに辛いじゃないかと。こんな風にしたのは私がバカにもっと報いてやるべきだったとか、もっと楽させてやるべきだったとか。これはすごい成熟してるんだけど、なおこれもPSっぽさがあるんですよね。
母と自分というものが一体化してしまっていて、だから自分を攻撃しているんだけれども、母親を実は攻撃している。そんなに早く亡くならないでほしかった。母の生死というものをコントロールしようとしてるわけですよね。しかも自分の感情のために。
でもこれは成熟しているんだろうと思います。もうちょい成熟すると母は悲しかっただろうに思っていけるってことなんですよ。だから何を自分が失ったかっていうのをはっきりさせないと、ついつい我々は自分が被害に遭っていると。
この母の死という、親の死とか、もうちょっと単純に言うところの、良かった上司が左遷されたとかいう出来事を押し付けられた感じがするんですね。この感情を抱くことによって我々は怒りを感じてしまうと。
こういう側面もあるってことなんですよ。だから何度も言いますが、怒るべき側面と悲しむべき側面のどっちもあるんですよ。だけど怒りに圧倒されているときは、自分が失ったという事実に目が行かなくなりがちなんですね。
明らかに失った場合は、私別のような場合を除いて、失恋とかですね、場合を除いて、でも失恋でもすごくこの失恋が押し付けられたように思う人とか、ないし失恋を罰のように使う人っていらっしゃる。それは総的防衛なんだけど。結局これは私を失うということを思い知れっていう、このセリフも結構出てきますよね。
本当は失うということは思い知れないんですけれどもね、ある意味では。自分相手の一部ではないんだから。当然それを失ったからといって相手は、本当は相手は関係を失うのであって、何かこう罰を押し付けられるようなことにはならないんですけど。
これで思い出したんですが、ガンダムで出てくるじゃないですか。何でしたっけ、シャアに殺されちゃうガルマでしたっけ。悲しみを怒りに変えて生き、悲しみを生き怒りに変えろって言うじゃないですか。あの逆をやるべきなんですよ。悲しみを怒りに変えるというのはいかにも戦闘モードなんですよね。
失ったということは被害を受けたんだから怒れって言ってるわけなんですよ。私はこれがXとかで散見される、こういうところにこの部分の強調をしない方がいい気がするんですよ。この部分はあるんで怒るっていうのは当然だと思うんですよね。
いわゆるものワークスルーにおいても、被害の哀悼の仕事においてもですね、フロイトが第2段階かな、怒りを覚えるっていうのがあるんですよ。だから正常な対象喪失においても怒りを覚えるというフェーズはあるんだけど、ここに留まってはいけないって感じなんですよね。
この先があると、ワークスルーなんで。この先があると、最終的には被害に至る。被害の先に悟りみたいな感じがやっぱり感じられるんですけれども。だって仏教の仏陀の最後の残った心に慈悲の悲って悲しみじゃないですか。
あれ非常に頑竹があるなと思うんですけど、慈哀とは書いてないんですよね。悲しみなんですよね、最後に残る感情が。これはだから仏陀っていうのは目覚めた人っていうことなんで、目覚めた人から見るとみんなが夢を見て苦しんでいるのは悲しいんだってことなんですよね。
ここで怒るっていうのは全然ないと思うんですけれども。だから仏教っていつもそうですけど、お釈迦様はやたら涼しげな顔してるじゃないですか。周りに怒っている神様みたいなのがいますけど、怒りというのは仏陀から見ると他人が持つものなんですよね、結局ね。
で、この悲しいってことはつまり、悲しいだけじゃないですか。物を失いましたという認識が正しいんですよ。だから悲しいんですよね。理想の会社であれ、自分の時間であれ、自分のお金であれ、失われて、機嫌のいいお母さんであれ、悲しいと。
母親がいないということは苦しいんではなくて悲しいんですよ。不在の母親なんですよね。私はこれを言ってるのは私別の話ではないですよ。お母さん生きていらっしゃって、どっか遠くに住んでるのかもしれないし、なんならすぐ横に住んでるのかもしれませんが、四六時中一緒にいることはできないですよね。
悲しみと不在の母親
別に生きていらっしゃるからと言って、てか四六時中一緒にいたからと言って、不在の母親の問題解決しないと思うんですよね。不在の母親というのは心の中にあるものなので、不在なんですから。ないっていうものがこの世のどこかにあったら、それはお化けになってしまいますから。
ここでオカルトをどうやって廃するかって話も当然出てくるんだけど、今日は対象喪失というもので、ずいぶん長く話したんですが、このワークスルーは最終的には、やっぱり怒りの部分は最後までいくらか残るかもしれないですけど、悲しみが優勢になっていくっていうことが大事なんだと思うんですね。
悲しむというのは、自分が悲しんでそこで完結するんですよね。そういう意味ではまさにディポジションなんだと思うんですよ。