これのために本を買うわけですが、これらの本がまあ高いわけですね。お勧めしませんからね。本は一応引用する関係上多少とも正確にタイトルと著者名申し上げてますが、これホイホイ変わらないことをお勧めします。
というのは、まあ面白い本をただ面白く読むのであれば、もう別にそれは進めるも進めないもないんですが、何かの役に立つかというと、これはやっぱりね、なかなか簡単に役立てられるようなものじゃないような気もするんですよ。
まあこれは別に侮るわけではないんですけどね。私が特別読解力が高いぜっていうわけでは決してないんだけど、僕はやっぱりこういうことをなんだかんだ言って1997年からずっと考え続けてきたんですよ。ある意味では。
なぜ臨床心理系に行ってないんだお前っていうふうに自分でもちょっと思うんですが、1998年に買った本がこの私の考えの今やってる活動の結局ベースになっていることを考えますと、そういう人間なんですね。
思えばですね、私がその、なんか心理ハックだのマインドハックだの言って、それこそあれですよ、森正竹さん、私、教長でiPhone情報整理術を書いた方まで、聞きにいらしてたことが1回あったかな。
彼が来てくれるっていうのが非常に嬉しくて僕すごい頑張ってた時代があったんですよ。だいぶ前の話ですよ、これは。本当にだいぶ前。彼と教長を書いた頃の話ですから。今から20年ぐらい前になってしまうんではないでしょうか。
その頃に僕はもうパーソナリティ障害の軸に、あのセミナー、今思うととんでもなく無理があるんだけど、しかし、確かあの頃パーソナリティ障害の本が結構出ていて、ビジネス書斎会でですね、一体例がどういう現象だったのかを、今それを逐一分析している余裕はさすがにないのですけれども、そういう興味で動いてたわけですね。
だからやってたんだなぁと今思うと、それってつまり、どうだなぁ、2008年とか9年とか、一応単独でやってたセミナーなんでね、そういうものでもそういうことをやっていたと。
今思うと、よくあれで当時あんな風に頑張ってたもんだなと思うぐらいなんですけど、それぐらいある意味このアプローチが流行るようで知られていない。今はもう全く伝えつつありますからね。今人格障害の本だって多分ビジネス書斎は出せませんよね。
私が最近奮発して買ったというのは、ナンシー・マック・ウィリアムズの、なんかね、非常に学術的な本ですよ。お勧めしないんですけど、パーソナリティ障害の診断と治療。こういうタイトルですからね。
でもまぁタイブで、分厚くて大変良い本なんですが、なんていうのかなぁ、専門者向けですよね。6000円もしますし、そもそも6000円でこの本を一般の人が買ってもですね、何と言えばいいのか本当に困るんですが、
わけは分かるんだけど、こうも細かく書く必要がある意味いらないこと、いらなくはない。いらなくはないんだけど、一般の読者にとってはいらないことがいっぱい書いてあるわけですよ。これを読むなら絶対アメノヒノシン理学の方が断然優れてるなぁとは思うんですね。
ただ私はパーソナリティ障害の診断と治療で、結局歴史的にどう治されてきたかみたいな話に引っかかるものがあるんですね。フロイトの時代はこうやってました、アンナフロイトはこういう風にしてました、対照関係論ではここをこうやりますみたいなのを見ていくと、
なんでそういうズレ、ズレですよね結局それは。同じ病だと見なされているものに対して違うアプローチをとっているわけで、しかも微妙に違うアプローチを。ただ当然俗人性っていうのがあって、例えばこのナンシー・マック・ウィリアムズさんの書いてる書き方を読んでると、これちょっとビヨンが言うこととは違うんだなっていうのが出てくるわけですよ。
どこがどう違うっていうよりも、この人の個性だよね、こういうのはっていうのが出てくるんですよね。やっぱ藤山直樹さんのを読んでるとやっぱ違う感じがするよなっていう、何がどう違うっていうよりは違う感じがするっていう方が当たっていて、この本にはいろんな面白エピソードが出てくるんで、そっちも読むものの端休めとしては大変ありがたいですね。
こういう本が面白いエピソードすらなかったら、もう本当に辞典読んでるようなもんでしてね。しかもその辞典が世の中に受け入れられているとは言い切れない辞典を読むっていう、これって結構嫌な作業じゃないですか。辞書です。ただし世の中ではこれを正しくないとされている、データが大量に含まれている辞書ですみたいな、嫌ですよね。でもある意味あれですよね。
ウィキペディアってそういうところありますよね。だから僕はウィキペディアってすごい良いものだったなと思うんですよ。あの種のものを信頼しちゃダメだっていうことをあれは伝えてるじゃないですか。甲辞苑だろうと何だろうとそうですけどね。権威である、信じるべきべしって書いてあるものが実は信じられないみたいな。だけれどもそういうものって世の中にはたくさんあるわけですよ。
例えばお経本とかね。お経本ってまさにそういうものじゃないですか。ある種の人にとっては真理は全部ここに書いてあるしこれ以外は真理ではないって言うんだけど、丸々それを信じるかどうか。つまりこれは信じるかどうかって話になりますよね。そういう部分が臨床の世界にも心理臨床の世界にもあるっていうことになると僕は思うわけ。
なので、いろんな宗教を読む。でもいろんな宗教を読む人って宗教的信心薄いじゃないですか明らかに。いいところを取るとかっていいところ取れねえだろってよく思うんですよ。僕はいいとこ取りって簡単に言うんだけど、仏典と聖書を両方読んでいいところ取ってみろよって言いたくなるわけですよ。つまりそういうことじゃないよね宗教ってのは。
で、僕らはそういうバイアスいっぱいな世界に生きておりますんで、特にこの抑鬱的になるっていうことからは多分絶対逃れようがないと思うんですよ。
心の内と外を作ってしまって、基本的に心の内で起きていることが我々の人生の全部で、ほぼ全部と言ってしまっていいと思うんですよ。
見えるものってすでに脳の中に入ったものなんて、だから見えてるって。だから視界の行き届かないところは見えないじゃないですか。
それらの世界もあるだろうと思ってるけど、ないことにして生きてても何ら差し支えはないですよね。
ということをする以上、外はどうなってるんだろうっていう話になってきますよね。
そして我々は生きていく上で自分に有利に生きていこうとしますから、まして仕事なんかをしておりますとですね、
心の外で起きていることが心配で心配で仕方がなくなるっていう事態を招くわけじゃないですか。
本を出したら出したでめでたいことでもありますけれども、私の目の行き届かないところで、この本を書いた著者に対して嫌がらせをしてやろうと腰担々と狙っている人がいるかもしれないとかって思い始めるわけですよ。
生存上不利なことが起きることを懸念するもんだから、これは心の内と外を作った瞬間にもう原理的に発生する事態だと思うんですね。
特に仕事をするっていう人はもうここから完全に逃れることはできないと思うんですよ。
ナンシー・マック・ユディアムズさんは、だから抑鬱性のパーソナリティーの人っていうのは、つまり面白いエピソード、だから面白いエピソードね。
さすが物書きは面白いことで、ミザリーとかを書いた人が言ったのかな。
僕は自分がやってもいないことで人に責められても、なんで自分はそれを忘れていたんだろうと言って自分を責めちゃうんだって、これは本当に上手いなって思ったんですよね。
抑鬱神聖をきったりと言い表している。
まあジョークなんですけど、完全にこれはジョークとして言ってるんだけれども、そうだよなと。
だから私がやってないことなんでもいいんですけど、車でちょっと自転車擦っちゃいましたみたいな、お前自転車擦っただろうって言われても、言いがかりじゃないですかそれは、単なる。
だけれども抑鬱神聖が酷くなってくると、そうは思わない。
私は自転車をぶつけてしまったのに、それを今の今まで忘れていた、なんて自分は悪いやつなんだろうって考えるってわけじゃないですか。
何を言われたとしても自分の責任にしてしまうわけですよね。
これが心の内と外を作った我々の一つのちょっと悲惨な宿命ですよね。
抑鬱ポジションというものにはこれがついて回りがちだと。
絶対じゃないけれども、一歩間違うとこうなるっていうことですよ。
心の内と外があります?
私は心の中のことしか知りません。
しかし現実というものは心の外にあるはずなんです。
そして一番問題にするべきはその心の外で起こっている私に責任があり、私の未来を左右しかねない出来事を私は感知しておりません。
申し訳ないです。これですよね。
こういうことが私たちが恐れることなんですよ。
一番神経症水準から健常者の人たちが正常で誠実でちゃんとしている。
少なくともちゃんとしようと思っていると、どうしてもこの問題に囚われやすい。
この種の人に対する自我心理学だと思うんですけど、アプローチとして精神分析、カウンセリング一般ですよね。
まず誰でも考えつくことをやるわけですよ。
ここからでいいんですよ、やっぱりね。
いやいや、あなた責任ないから、もっと自信持っていいよっていう。
全然効果ないですよね。全然効果ないですよ、そんなこと言ったって。
もっと安心していいよ、世の中はもっといいところだから。
もう全然効果ないですよね。
でもここから始めますよね、カウンセリングというものは。
フットファイブスでクラザノケドさんもよくおっしゃるじゃないですか。
現実なら何とかなるよと。世界は愛に満ちている。
でも欲打つポジション、つまり極めて正常な人の極めて正常な神経ですでにこれを跳ねつけてしまうわけです。
まして精神病水準とかボーダー水準の人はこれを言われてこのまま受け止めるっていう人はそうはいらっしゃらないでしょう。
とにかく欲打つポジションでさえもこれを事実であろうと何であろうと平然とねじ曲げてしまうわけですよ。
しかもそれは極めて善意というか、真っ当な気持ちから。
だって心の中と心の外があります。心の中のことしか基本関与できていませんってなったら、
真っ当な人ほどでも心の外で起きたこうこうこういうこと、つまり2つありますよね。
自分の生存に不利なこと、結局両方同じなんだけど。
そして他人にしてしまった悪さのことを私は忘れてしまったり、気づいてないんじゃないだろうかという不安に苛まれるわけですよ。
で、これも言ってみればなんだ。
作手ってのはこういうところに出てくるんですよね。
こういう心に助いるということを知らす人も、世の中はいろんな人がいるからね、あんまりないんだけれども、
思われていることはないんだけど、当然あり得ることではありますよね。
いや、なんか、だからさっき言ったようなやつですよね。お前はそれを忘れていたけど、実はこれを言ったのはお前だし、
これもお前忘れてたようだけど、これを言ったのもお前だし、
お前が言った昨日おはようって言ったので、私は心がものすごく傷ついたから、
賄賞金として1億円払いみたいな人が出てくるかもしれないじゃないですか。
で、抑鬱心声があまりにも強烈だと、つまり精神病性の鬱って言われるレベルまで行ってしまうと、
ですけども、あ、じゃあ1億円払わなきゃみたいになるわけですよ。
現実見当がもはやつ、混乱するレベルまで行けばですね、
おはようって昨日言っちゃった、確かに言った。
でもこの人はおはようって言われると、なんかこう、昔の出来事を思い出して、
父親に殴られたことを思い出して、トラウマになるっていう風に、そういえば聞いた気がするみたいなことになるわけですよ。
これは僕が作っている話ですけどね。
何でも自分のせいなんだから、ていうか、何でも自分のせいであり得るわけですよ。
分からないことだから、心の内と外で起きていること。
これはですね、私たちはニコロからずっとやっているにも関わらず、
こういう話しか出来ていないからね、私がですね。
これも私の抑鬱心声なんだけど、こういうことしか言えていないので、
まだまだですね、通りが悪いなとは思っているんですよ。
いろんな病理の名称が出てきます。
本当に季節性とか、軽症とか、職場とか、それこそ潜在であるとか、
発達の問題であるとか、記憶の問題であるとか、注意の問題であるとか、
全て一面から見ればですけれども、一面から見れば心の内と外の話をしています。
外で起きていることが感知できていないっていう恐れなんですよ。
一番単純なところで脅迫症として現れるわけですよ。
あらゆる情報をチェックする。
少なくとも私に関する悪口は全部チェックする。
これは非常に脅迫的じゃないですか。
心の外で起きていることは感知できないから、
何とかして感知するために情報というものを使うわけじゃないですか。
でもこれは、要するに脅迫症というのは無限の病なので、
そうですよね。出かけました、あ、鍵。戻る。
1回ならいいんだけど、離れる。また鍵って言って戻る。
永遠に終わりませんよね、これがね、基本的には。
だって心の外に出ちゃったものは感知できないんだから、
その間に誰かが開けたかもしれない。ピッキングの人が出たかもしれない。
そもそもさっき私が閉めたと思ったのは自分の夢かもしれない。
疑おうと思えば永久に疑い続けられるので、
したがって、心の外にあることは感知できないから、
不安は永遠に消え去ることがないわけです。
で、これの、すぐ横にも抑鬱ってあるじゃないですか。
だから脅迫性は廃止しようと松木カニロさんが書いてたりするんだと思うんですけど、
あらゆる病気と脅迫性はある意味関わってきやすいですよね。
さっき私が閉めたんだけど、私は不注意な人間だから閉め忘れたかもしれない。
閉めたという記憶を改ざんしたのかもしれない。
全部自分のせいにできるんですよ。
脅迫という偶然はすごく近いところに私はあるんだなということを、
自分のこの仕事を通じてすごく学んだんですね。
これはサンチャレって意味ではないです。
タスク管理術とか仕事術って言ってるところに、脅迫という偶然は本当に近い関係があるんだと。
やっぱり落ち込みますよね。
全部何かミスる。
そのうちのいくつかは。
で、詰めように言ったら全て。
なぜなら心の外は感知できないから。
失敗は全て心の内で起きたことにされてしまうんですよ。
だって失敗を認識したときはもう心の中に入ってきてるから。
つまり世界というものを弁別しないのであればですね。
弁別してるんですけどよく申請の人は。
よくポジションの人は。
弁別はしてるんですけれども。
結局のところ外のことが究極的には分かり得ないということ。
そしてそのことで未来というものが悪くなっていくっていう不安に
苛まれるだけの理由が大抵の人はその理由ありますが。
持っている人にしてみればですね。
何が起きても悪いことが起き得る。
悪い結末になり得るわけだから。
例えばよく言うじゃないですか。
調子に乗ってると痛い目にある。
つまり良いことが起きてすらその結末は悪いことが待っているっていうことを
言い出すんであれば何でもできるわけですよ。
心の中のことだから。
何が起きてもおかしくはない。
心の中の未来のできることですからね。
心の中にだけ時空が走って。
まあそうではないんだな。
とにかく時空というものがそこにあり。
それかもその外に感知できない世界。
そしてその私の結末というものが最終的なコントロール外にあるならば
だって心の中だけで世界はできてないから。
というか世界というものは心とは別個に動いてますからね。
ここが怖いところなんですよね。
いいまあいいことが起きていると。
本も飛ぶように売れていると。
でもそうやって足元を救われるんだよと。
これはその人の心の中の不安が作り出している映像であって
現実と関係がある必要はないんですよ。
だからこの問題に対してカウンセラーが精神分析がごく普通に慰めても
何の効果も上がらなかったり
一方が違うとそれによってカウンセリングは終了してしまうわけですよ。
つまり欲打つの人にしてみるとですね
自分のことを受け入れてくれるとか褒めてくれるというのは
非常に信用のならない事態というものを引き起こしてしまうわけですね。
心の中の出来事ですね。
大概の場合自分のせいだと思っていらっしゃるわけだから
カウンセラーとか精神分析家はリスペクトされているんですよ。
これ理想化なんだけど
いわゆるボーダーの話に出てきがちな理想化とか
送局の話に出てきがちな理想化とは違うんですよね。
単純にいいおっぱいだと思っているだけではないんですよ。
やっぱりこうなんて言えばいいんですかね。
外のことは本当はわからないわけだから
自分がそして自分の未来とか自分の心性とか自分の不安とかが
全部全責任は自分から来ている。
極論すればそうなんですよね。
なぜならば捨てげるっていう風に考えてしまうからなんですね。
養育歴も絶対あって
親が必要以上に罵るとか必要以上にバッシングする
つまりそれは長時間が悪いっていう面が非常に強いと思うんだけれども
でもとにかく一度欲打つポジションを設立させてしまうと
悪いおっぱいをかじったから
このお母さんはもうやってきてくれないじゃないですか。
これは見捨てられ不安が入ってきている。
つまり愛着障害的な部分が
だからそういう説明が入ってくるわけですよね。
愛着障害じゃないと僕は思うんですよ。
あくまでもそれは見捨てられ不安ではなくて欲打つ不安。
見捨てられるのは未来じゃないですか。