2021-01-14 35:34

【GMV 297】意味づけすると塞がる

内容に関係ないですが、BGMやめてみました!
00:00
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
えー、これリテイクになりました。
あのー、珍しく4,5分喋って
辞めました。あんまり
そこまでする
ほどの意味はなかったんですけれども、
なんとなく辞めました。
で、えー、
なんだろうな、これは。こういうことってあるんだなと。
こう、こういうリテイクの仕方をしたのは初めてです。
何が気に入らないってことはなかったんですけど。
で、えー、改めて撮っているわけですが、
あのー、
スイッチが届くんですよ、今日。
えー、受験の真っ只中に
スイッチを買うというのはどうよって感じもするんですが、
えー、後先考えずに
なるべく生きていこうということも
手伝って買っちゃいました。
で、えーと、まあ、でもこれは奥さんが
集まれ動物の森をすごいやりたいということと
関係があるみたいなので、必ずしも
娘全域っていう感じでもないんですけれども、
全域とか意味わかんないことを言ってますが、
あの、まあ、娘が一番欲しくて買ったかどうか
微妙なところではありますが、
買ったんで、その話とかも
えー、こういうものに盛り込むメリットは
ないかもしれませんが、これから盛り込んでいけたら
いいなと、なんとなく思ってます。
で、えーとですね、今日は
そういう、まだ届いてもいない
スイッチの話ではなくてですね、えー、
昨日、
えー、3人の方と打ち合わせをしている中で
すごく、えー、考えることになったんですけども、
あの、私、
本書いているわけですね、一応。
そういう職業の人間は、えー、
お蔵入りっていうことになるやつが、いくつか
出るんですよ、原稿で。
要するに、本にするぞっていう
企画が立ったんだけど、結局、様々な
事情から、それは、えー、出版されず
原稿がどっかに寝てるというやつなんですね。
で、今の時代なんで、出しゃいいという
ことになるんですが、えーとですね、
これは、様々な事情から、
えー、第一には大体私の気分の問題で、
えー、出す気力が
湧いてこない限りは、多分どっかもう、
どこにあるんだかも、どっかのフォルダにあるんだけど、
分かんなくなっちゃってるんですね。で、分かろうという気にも
なってないわけです。
理由は簡単でですね、あの、
これはまあ、いろいろな著者さんが
いると思うんですけど、私はやっぱりその、
息の長いものを書く
作家というよりは、これまでは特にライフハックなんで、
えーと、旬が大事みたいな
作家だったんですよ。で、その感覚は今でも、
今書いてるものはそこまでじゃないんだけど、やっぱり
強くあってですね、
えー、あれを今、読者に読んでもらう
03:00
ぐらいなら、こっちを読んでほしいっていう感じになっちゃうんですよ。
で、あれを掘り起こして出す
っていう気が湧かないみたいな、それが大きいんですよね。
本当に、ちゃんとした原稿の形で、
えー、机の上にでも載ってればだいぶ違うんでしょうけど、
あのー、なんかエヴァノートに
ギリギリになってありそうなので、もう、なんか
大変なわけですね。で、出さないと。
で、これって、えー、
不幸なことだったり、悪いことだったり、残念なことだったり
なんだろうかって考えたときに、
えー、考えてみてですね、
そっか、人間ってこういうふうに考えちゃうんだっていうことを
昨日、思ったんですね。
つまり、これが意味付けってことなんだなって思ったんですよ。
えー、
不正とかって言うじゃないですか、
昨日の、このグッドモーニングバイブスでは、
議論って話を、えー、ちょっとテーマに挙げたんと思うんですけど、
あの、グッドバイブスなんかでもですね、
よく、えー、
この人さえもっと、バッドバイブスでなければっていう、
あれですね、あのー、
あのー、グッドバイブスの蔵園圭三さんはこのように、
えー、おっしゃっているのだ、みたいな、
詩曰くみたいになっちゃうわけですよ。なぜなのかと、
あれ、全然良くないと思うんですよ。それで、
相手が納得するはずも、えー、やってることが
グッドバイブスであるはずもないんですよね。
どうしても、こう、あのー、
グッドバイブスというのは、えー、
やろうとしている人間が一方的な損をこむっているっていう
ニュアンスになるんですよね。で、
えー、議論というのは、正義の戦いではないのか
っていう、ここのところの
引っかかりがですね、結構あると思うんですよ。
正しい方が、えー、
正しい方の意見で、えー、
二者の脳内が統一されるべきなんじゃないかと、
これ、昨日話した話なんですけどね。えー、
今で言えばあれですよ。あのー、つまり、
緊急事態宣言は遅すぎたのか、
どうなのか、みたいな。で、どっちかが正しくて、
えー、正しい方で意思は統一されるべきだという、
ところがこれは、えー、
大概の意見ではですね、まあ大概のというか、
ほぼ全ての意見で統一されたのを聞いたことがないんですよね。
やっぱり、えー、全く正反対の
えー、意識が
どっちかに残って、大体あれなんですよ。
昔どっかの、あのー、
ツイッターでよく厳しい名のことをおっしゃっている方が
バーカ、お前こそバーカで、終わる議論が多いと。
まあ、そうなるよなと思うんですね。
えー、正しさを争えば。
で、えー、なんでそうなるのかと言うとですね、
あのー、やっぱり、私は
昨日考えたことは、つまり原稿を
例えば出さないということは、出せずにいるということは、
それは不正なのかみたいな、そういう発想を取った時に、
06:01
意味付けしてしまうからで、
意味付けというのは何かというと、
ジャッジなんですけれども、
そのジャッジというのはどういうことかというと、
えー、言葉が現実に先行するという誤解なんだなと、
思います。
つまり、えー、そうですね、
えー、なんでもいいんですけど、
あのー、私たちって認識が、えー、
現実に先行していたり、認識が
行動を生み出すと、えー、
ちょっと簡単に信じているところがあるじゃないですか。
えーと、19世紀から20世紀の
哲学者が、それは間違っているよ
ということを、あれほど言ったにも関わらず、
しかもそれらの人は、大体の人がある程度どこかで
ミニミニしたり読んだりしてるんだけど、
まあまあ無視して、えー、相変わらず認識は
現実に先行するって、みんな考えてしまう
わけですよね。
あのー、
どんな話をして、出てきてもですね、
例えば昨日のYouTube番組で言えば、
えー、締め切り間際の、あるいは
退社時刻間際に割り込みが入りました。
えーと、
グッドバイブス的にはどっちを優先するのですか、
みたいな話ってあるじゃないですか。
これは、あのー、なぜこういう、
そのグッドバイブス特有の問題みたいなものが
発生すると考えられてしまうのかというと、
えー、認識というものを現実に
優先させようとするせいだと思うんですね。
えーと、割り込みっていう
ものは、現実の何を指しているのかとかって
こういう場合は、大体誰も考えようとは
あまりしてくださらないわけです。
えー、退社間際というのはどういう現実についての
表現なのかというのも
無視されているわけですよ。
無視していなくて、みんなこういうイメージだよね、
大体それでいいよねって思われているかもしれないですが、
大体そういうイメージっていうのは
すごく現実とは関係ないものだったりしますよね。
えーと、この辺のことをですね、
やっぱり20世紀の哲学者はすごく言ったと思うんですよ。
認識っていうのは少しも現実と
きっちり合っているわけじゃないんだよということを
あれほどうるさく言われてきているんだけど、
私たちはそうは思っていないんですよ。
認識というのは、現実の何かをぴったり指していると思っちゃうんですよ。
割り込みというのは、これこれこういうもので、
これも割り込み、それも割り込み、あれも割り込みで、
誰が見ても割り込みで、割り込み以外のものじゃないんですと、
意味付けるんですね。
こうしてですね、現実には必ずしも存在しない
矛盾が、言葉の上でははっきりとした矛盾として
浮かび上がってきてしまって、
はい、この矛盾はどうするんですかっていう質問が
09:02
飛ぶんですよね。
私のケースで言えば、
一生懸命書いた原稿を
お金にも変えられず、
グッドバイブスをやっていて大丈夫なんですかみたいな、
これだと超マイルドですね。
もっと遥かに
ワイルドというかアグレッシブにいくと、
出版社の不正を許していてはならないのではないかみたいな、
だからグッドバイブスがよく出てくるやつなんですよ。
グッドバイブスをやっていると、世の中の不正がどんどん
広がっていって、悪の栄える世の中になる。
これ、確か近い
疑問、質問を
現在の
グッドバイブスなぶっちゃけ相談、多分人生相談だった時に
来たことがあると思うんですけど、
これに近い内容があったと思うんですよ。
それは常にですね、意味付けが非常に
あるんですよ、そこには。
金子の僕は、この不正の
はびこるっていう話を聞いた時に
よぎるのが、金子さんの
詩で、あれがあるじゃないですか。
みんな違ってみんないいってやつ。
ああいう風に言葉で書くと
強めになりますよね。
みんな違ってみんないいっていうのは
現実を見ていると
もっとマイルドなんだけど
あれは何でしたっけ
なんか忘れましたけど、鈴と猫と私
なんですよね。みんな違ってみんないいなんですけど
なんか鈴と猫と私がパッと
イメージされてしまうじゃないですか。
みんな違うということがいいことだと
みんなで思えっていう感じが
強く迫ってくる感じがするんですよ。
つまり
言葉に直しちゃうとそういう現象が
起きる気がするんですね。
すごく厳しくなる気がするんですよ。
Good Vibesに最初に私は触れた時には
倉園圭三さんのセミナーが
一番私には
そういう印象を受けたんですけど
もっとマイルドにやれるはずのことが
もっと難しいことになってしまう。
どうしてかっていうと、言葉って
意味付けの世界なので
同じことを言っているようでも
違う話に感じられてくるんですよ。
発砲塞がりの話って
だいたいそうなんですけど
言葉で表現されているんですね。
言葉で表現されると発砲塞がりになりやすくなるわけです。
こんなケースは許せるんですか?
っていうような話になった時
そのケース自体とは
12:02
つまり言葉で言われているその
言葉で表現されて説明されているそのケースというものと
ほど現実は過酷じゃないんですけれども
なんでなのかわからないですけどね。
認識というものを現実に優先させようとすると
なんかえらい過酷な事態が
発生している感じになってですね
解きほむせなくなっていく。
金子さんって確かですが
自死に近い形でお亡くなりになっていると思うんですよ。
あんなに
世界愛に満ちたような詩なのに
詩を書いている方なのに
現実がすごい辛くなっていく
っていう流れがあったわけじゃないですか。
人生の中で。
多分私は忌みづけの怖さってこういうものなんだと思うんですよね。
現実がそこまで過酷じゃないのに
もうどうしようもない感じがしてくる。
それは多分言葉で表現することによって
詩人ですからね。
言葉で表現しますよね。
あれが
事の難しさを生み出すのではないかと思うんですよね。
倉澤圭祐さんがよくおっしゃる
現実ならなんとかなるというのは
非常に私には刺さったんですよ。
現実ならなんとかなるということは
みんながグッドバイブスでなきゃいけないというのとは
程遠いと思うんですよね。
みんながグッドバイブスであってくれればいいのに
みたいなのってどうしても
HSPみたいな話なんですよ。
みんなが優しく
もっと優しくなれば
世界は優しくなるみたいな
それを考え始めると
世界が厳しい感じがしてくるじゃないですか。
この部分だと思うんですよ。
多分20世紀で
フッサールとかニーチェとかソシュールとかですけど
フロイドもそうなんですが
みんな言ってることは非常にその点でよく似てると思うんですね。
認識というのは
現実を少しも
説明してないよと。
ソシュールが一番先へ行った人で
今で言えば
ハクビシンとかタヌキとか
アライグマとか大きめのリスとか
ちっちゃめの犬とか
そこに加えてもいいですよね。
これ、言語
地域によって呼び名は絶対違うじゃないですか。
しかも地域によって分け方違いますよね。
そうするとある意味
日本では出世王ですよね。
ハマチとブリは同じ魚じゃないですか。
15:02
ハマチとブリを同じ表現で
多分間違いなく英語では同じ表現になってると思うんですけど
そしたらハマチとかいうやつはいなくなるわけですよね。
こういうもんなんですよね。
認識と現実というのは。
意味付けの問題とか
私が原稿をお蔵入りにさせている損失とかについて
犬ことを喋ってるんだとは感じられないんですけど
ほぼ確実にそういうことを言ってるはずなんですよね。
フッサルなんかは
そういう感じなんですけど
とにかく僕らは
ついつい自分が
イメージして
喋ってる通りに現実があるものだという
相当むちゃくちゃなことを
考えてるわけです。
世の中にはハマチというものとブリというものがいて
そこはっきり分けられるんだという風に
思っちゃうんですよ。
はっきり分けられるわけがないことは知っているにも関わらず
世の中には死ぬっていう現象とか
死というものがあるみたいに思っちゃうんですよね。
死という言葉があるせいで。
そういう風にしていくうちに
俗に言うところの
発達障害とかHSPみたいな
問題が発生するように
思うんだと思うんですよね。
約束の時間を忘れるとか
全て一つ一つは
同じ現象じゃないじゃないですか。
それがもう症状として
診断名になってくると
誰が見てもこれは約束の時間を忘れたんだとか
不注意なんだという
現実があって
間違いなくその現実には誰から見ても
指摘でき
かつ非難に値するということが
全て決定していくわけですよね。
そんなはずはないですよね。
別にいいと思う人だっているじゃないですか。
つまり認識というものは
決して全ての人で共通のものじゃないし
現実そのものを指すこともできないわけですよね。
こういう風に
現実というものを認識というものに対して
先行させるって見ると
当然先行させなければいけないはずなんですけど
認識が先にあったら変なんで
認識が先にあるということはありえないので
現実を先行させるとするじゃないですか。
多分そうすると発達障害というものは
この世からなくなる病気だと思うんですよ。
約束って言ったって様々じゃないですか。
1分遅れてはいけないという風に誰も言ってないわけですよね。
何分ならいけないのかとか
いろんなことが出てくるはずで
18:00
同じ現象を指さないと思うんですよ。
だからみんな違ってみんないいんですけれども
それはこういうものと
こういう金属と哺乳類と
人間は本来違うものだけど
本来違うものだから
性質も違うからこういう風に違うから
それをみんなの認め合わなければいけないみたいになると
きついんですよ。
そんなに寛容になれない時もあるわけじゃないですか。
みんな違ってみんないいが
先行すると怖いんですよ。
やっぱり認識ってのは
現実に先行しえないものなので
なんですが私たちはどうしても
認識が現実に先行する世の中が便利なせいで
認識を現実に先行させたくなっているんですよね。
不便ですよね。
いっぱいあるビルとかで
認識というものが現実とピタッとあっててくれないと
53階のルームBは
CとA22の横にありますみたいな時に
わからなくなっちゃいますよね。
認識と現実がピッタリあっててくれないと
だから言葉というものは
すごい大事になるんですけど
こういうすごく人工的な
大橋ジャンクションを
品川方面に行くとか
そういうすごく人工的な世界では
認識と現実がほぼピッタリ合いますが
さっきのブリとハマチみたいに
自然を相手にしている時は
認識と現実はピッタリ合うはずがないんですよ。
はずがないのに僕らは
認識と現実はピッタリ合うはずであって
そこにモラルみたいなものまで
持ち込んでくるので
私はグッドバイブスを学んだが
あいつは学んでいないから
あいつにグッドバイブスを教え込んで
平和な家を築かなければいけないみたいになってしまうんですよね。
これって完全に認識が現実に優先されてますよね。
そのようなことは
起こらないはずなんだと思うんですね。
これすればするほど
無理矢理な感じばかりが進んでいって
みんながおかしくなっていく
ということになるんじゃないかと思うんですよ。
だから原稿を
出版社が出しませんでしたと
それについて
お蔵入りとか不正とか損害とか
そういう認識を先行させない方が
いいと思うんですよね。結局
その現実というのは
説明し始めれば
きりがないほど
異常にぐちゃぐちゃなものが
そこに入っているわけですよね。つまりカオスなわけですよね。
21:00
そこに名称を付けて
その不正を
正そうとしたり
苦痛を感じるということを
していくとどうしてもやっぱり私は
みんな違ってみんないいのワールドに
入っていく気がするんですよね。
私たち慣れないので
この現実に名称を付けないということになれないので
それ一歩間違えたらですね
名称の付いていない現実はありえないという風に思っている方すら
いらっしゃるので
スクシュートの話とかをしていても
私は推進する側の人間ですが
タスク管理で
1分単位で時間記録を刻んでいくという
あれですね。
本当にですね
長期計画の話とかをしていると
時々かなり不思議な気持ちになることがあったんですよ。
だって日付とかっていうものは
今言った通りのように
ブリとハマチみたいなものじゃないですか。
太陽と地球の位置関係について
名前を与えているだけなわけですよね。
今日は1月14日
名前を勝手に与えているだけですよね。
何月何日何時何分何秒まで言えますけれども
それは
現実に対して勝手に
山にマジックで
富士山って書いたら
一応それはそういう風な感じがしますけれども
本当のところは別に
何でもいいわけですよね。
どこからどこまでだとか言うのは
おかしいわけじゃないですか。
ここから富士山は始まるとか
勝手に決めているだけであって
人間がいないうちから
決まっているはずがないのに
気が付くと
2日後3日後4日後は
こう過ごすのがいいとかってなるわけですよね。
それはみんな家庭の話
家庭としては明日はこういう日
明後日は何曜日みたいなのを決めるから決まるのであって
全部幻なわけですよね。
いつしかそれがですね
家庭で仮決めしているんだということを
多分忘れるんですよ。
忘れて認識は現実に先行する
べきだぐらいになって
だから多分私たちは
意識を統一しようという
異常なことをやり始める
本当に異常なはずなのに
私自身もそうですけど
なんかですね、やっぱりこう
24:00
ダメじゃないですか。それを完全に踏みにじられると
苦痛を感じちゃう。
本当に不思議なんですよ。
うちの例えば奥さんがですね
そうだな
例えば今で言えば
娘が小田原に
小田原でなくてもどこでもいいんですけれども
戸塚でもいいんですけれども
戸塚行くことはないけど最近は
行かせるとコロナになるんじゃないかと
いう認識をするとなんかこう
うっとくるわけですよね。つまり何が言いたいかというと
私は妻と同じ認識でいようとするわけですよね。
妻に同じ認識を
持っていてほしいと思っちゃうわけですよね。
どうやって行動を取る前の原意志を
統一させたくなるのかと
その方が便利な時は確かにあるんですけれども
そんなはずないじゃないですか。
意識内容が
統一されているなどという
で、妻も私と全く私に対して
同じ認識であってくれないと腹を立てて
しまうんですよ。
腹を立てた時、奥さんに向かって
いやいやそれはグッドバイブスじゃないからという風に私が言いたくなるとしたら
まさにそれは認識を
現実に優先させてるんですよね。
認識というものがその人の行動を
生み出すんだから、この認識を変えないと
悪が
栄えてしまうのだと思っちゃうわけですよね。
私は本当に
良い私だという風になっているし
そう思うんですけれども
みんな違ってみんな良いというのは
怖いことだよなと思うんですよ。
つまりそうなんですけれども
そうなんですよ。グッドバイブスで言っているのも
そういうようなことです。ただこれを言うのと
言わないのとじゃ全然違うわけですよね。
みんな違ってみんな良いと
変えましたということになってくると
そうでなければいけないような気がしてくるわけですよね。
そうじゃない認識を持った者は
差別主義者になってしまったりするわけですよ。
こうして厳しくなっていくんですよ。
現実というものに対して
認識が優先していると信じ始めると。
これは
いつも私は父が
安保闘争直後ぐらいで
自民党悪いことをしているというのを
素朴に信じていた時代の人なんですよ。
だからしばしば
私の認識不足というものを
指摘されて
27:01
めんどくさいなとつくづく思っていたんですよ。
なぜかというと
別に父と私の認識に関しては
大きな差はなかったからなんですよ。
全く逆の方が
むしろ楽だと思うんですよね。
微妙な温度差を調整するみたいな
考え方って
とてもめんどくさいという感じがするんですよ。
あなたと意見が違うわけじゃないからと言っても
それでおしまいにしてしまいたくなるわけじゃないですか。
何なんだろうあれはとずっと思っていて
体育会系の中でも
よく問題になったんですよ。
みんなが同じように
同じような気持ちでいないと
勝てないみたいなのってあるじゃないですか。
でも私はどうしてもそういうところを
細かく考える癖のある人間だったので
みんな違うだろうと思っちゃうわけですよね。
意識内容など
意識内容とか当時思ってましたから
意識内容が完全に揃うってことは
ありえないじゃないですか。
ロボットじゃないんだから。
私は思うにロボットって意識内容を持ってないから
行動が同じなわけですよね。
意識内容を揃えるっていうことを
したくなるのは何なんだろうって思ってたんですが
なんとなく昨日
非常に昨日の議論はすごい
実りがあったなと思ったんですよね。
昨日のグッドモーニングバイブスでお話ししたことの時でも
まだモヤモヤしていたことだったんですけれども
なぜ認識の統一というものを
自分は求めてしまったり
求められてしまうんだろうと思ってたんですよ。
結局それは現実に認識を
優先させようとするせいなんだなと。
割り込みっていう話を
最新の
YouTubeでお話ししてますけど
割り込みという認識は正しいんですかって
言ってるある意味それだけなんですよね。
何か解決策を提示してるわけではないし
質問者にがすっきりするような
割り込みには対処しましょうとか言ってるわけですら
ないんですよね。この時にはこうしましょうとは
一切言ってないんですよ。なぜならばそれは
テーマが常にそうなりやすいんですけど
認識がテーマになっちゃってるからなんですね。
現実がテーマになってるようで
実はそうじゃないんですよ。
対処は間際にとか。家庭の話ですよね。
割り込みが来ると。それも割り込みと名付けられた
何か現象が起こるわけですよね。
こういう言い方しかできないんですけれども
その時に現実にあることに
何と名付けてもいいわけじゃないですか。
30:01
割り込みと名付けても、頼まれ事と
言っても、お願い事と言っても
何でもいいわけですよ。
私たちは認識の世界があるとでも
思ってるんですよ。漫画とか読みますし
ゲームとか見ますからね。
この場で聞いてる方には
本当は僕は言ってないんですけど
一応お詫びしておきますが
HPとかMPとか
あんなものはないじゃないですか。
MPが消耗するとか認知資源が消耗するとか
認知資源に関して言えばですね
数度書いちゃってますけどね。
いろいろ留保条件つけてるつもりなんですけど
MPが消耗すると僕は本では書いてないと思いますけれども
書いてたらすみませんって感じです。
つまりその時そう思ってたんだから
しょうがないですけれども
ただその時ですらその通りには思ってません。
つまりロールプレイングゲームとか
ストリートファイター2とかでもいいですけど
あんなゲージ、緑色が赤くなっていくゲージ
ついてないじゃないですか。誰にも。
ついてるはずがないですよね。
あれはアレゴリーですよね。明らかに。
そう思って読んでくれないと困るんですけれども
今後はそういうアレゴリーも使いませんが
アレゴリーとしてでもですね。
つまり認識が現実に優先するということを
考え始めるとああいうようなことすらもですね
リアルに合うんじゃないかと
例えばセロトニンの濃度とか
エルドーパの濃度が減っていくことが
まさにMPの青いゲージが
紫に変化していくということに対応してるんじゃないかとかって
言い出すわけですよ。
こういう話って何だか酷く刺激的で
魅力的な話を聞いていると思ってしまう方も
いると思うんですよ。
これを聞いていない方なんかにもいっぱいいらっしゃると思うんですよ。
ライフハッカーとかにMPの正体が分かったとか
きっとですね、いいねがいっぱいつきます。
でも、そんなことはありえないわけですね。
そんなものは消耗するはずはないし
あのゲージがついているはずは
ましてないし、ないわけですよね。
そのようなものはこの世に。
あれまさに認識を現実に優先させている
格好の事例で
現実がそうなっているというのは
もう全く異常。
だって私たちはスマホの充電じゃないんで
他の人と私
私と例えば大橋哲夫さんで
全く同じようにMP95って言ったら
どういう状態を指して
全く同じようにHP78って言ったら
33:00
こういう状態で大橋さんのHPが現在3で
間もなく死ぬんです。
私のHPを分けるとか
ありえないんですよ、そういうことって。
それが本当にあるように
思ってしまうということは
非常に変ですよね。
非常にストレンジですよ。
これを
HPとかMPとかは
遊びだからいいと僕なんかは思っていたんですよ。
僕はいまだにあれは
遊びならばまあまあって思うんですよ。
議論の場に持ち込まない方が
いいと思います、やっぱり。
なぜ彼女はバッドバイブスなんだろうとか
そのような名称で
指し示し得る現実は
この世に多分一瞬たりともあったことないと思うんです。
これをでも我々はやっちゃうんですよね。
認識を統一することに
意義があるように思ってしまう。
第一にそれは絶対に不可能なことなのと
第二に
現実は認識から生み出されるわけでは
多分決してない。確かに
ビルの南海建てのビルをどういう風に設計するというのは
確かに認識が現実を
ある程度生み出しているとは思いますけれども
超人工的なものに限る
1から10まで人間の頭からある程度生み出されたものに限る
ドコドコ線の駅で乗り換えるとか
そういうものはそうだと思いますけれども
現実そのものっていうのは
認識からは生み出されるものとは違いますよね。
だから
全部そうだと思うんですよ。悟りの境地とかも。
それは
つまり
認識を優先させてはいけないものだと思うんですよね。
悟りの境地みたいな境地というのが
脳内、脳波レベル、アルファ波
何とか何とかヘルツとかそういうことじゃないと思うんですよ。
そのヘルツにしたら悟りの境地と
同じ状態になるとかそういうことじゃないと思うんですよ。
だからどんな現実であっても
本当は当然認識とは関係なく
そこにあるわけですから。だって人間が生まれる前から
あったわけですからね。
そういう風に考えないと多分
すごくおかしなことになっていくだろうと思います。
35:34

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