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2023-09-08 48:15

この世にカウンセリングが欠かせない理由【GMV842】

投影も転移も当然のように起こる。

サマリー

台風の影響で涼しい日になっていて、文章を書くことについて考えています。第9期の書き上げ塾で文章を書けるようになるメリットについてお話しし、アウトラインと文章の関係にも触れます。カウンセリングの必要性を考える中で、自分自身のコンプレックスや転移現象についての理解が重要であることが明らかになりました。人間関係では自分自身や他人を投影する傾向があります。投影がうまくいっていた経験を持っている人は、スキルを身につけても変化は起こらないようです。精神分析は、こじれていない人間関係の体験をするための方法の一つとして役立つかもしれません。ヤングケアラーのユイちゃんは、人間関係が存在せず、偽りの自己を形成しています。しかし、良好な人間関係を持っている人は偽りの事故を持ち込む必要がないと思います。カウンセリングは人間関係の形成において近道であり、組織や家族などの人間関係においてスキルよりも重要です。非常に微妙な男にも転移をしているわけですが、そういう時代だったと思います。この話がやはり精神分析的だなと思います。この線が一番近道なのかもしれません。

台風の影響と文章の書き方
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月の8日の9時51分ですね。
今日は台風が来てますね。台風が来てるし、学校も私立なんでね。
命名の判断で休みみたいな、休みになってるんで。
それで、まあ今日はいいかなと思ってたんですよ、この番組を。
いいかなと思ってたんですけど、朝起きてると肌寒いぐらいなんですよね。
これは撮ろうと思った、あれですね。
結局、暑くてどうしようもない日が続いて、未だに続いていて。
閉めきれないんですよね、部屋をね。
閉めきるともう、熱中症で倒れるんで。
もう開けとくかクーラーかけるか二択で、クーラーのないところでこれ基本撮ってるんで。
閉めきれないんですよ。
で、閉めきれないと、撮るときに相当いろいろ手を打つと。
クラゾノさんに教わったというか、ポッドキャスでよかった、
あれですね、首に巻くネッククーラーというのかな、よくわかんないけど。
僕のは24度で凍るやつなんですけど、
あれを冷凍庫に入れといたやつを取り出して巻く。
これをやってこれをやってるんですけど、今日はこれやらずに済んでるんですよ。
やらずにしてるとまずいかなと思うんだけど、
まずいと思ったら、一旦打ち切ってこれを巻こうと思ってるんですが、
今日はいらないぐらい涼しいんですよね。
台風来てることと多分関係あるんですけど、強風吹いてますからね。
急遽やることにしたという感じなんですよ。
したがって喋ることも全然全く思いついてない。
なんかさっき起きたばっかりですからね。
起きてすぐ涼しい撮ろうみたいな感じで撮ってるんで。
歯磨いただけなんですよね。
というわけで、さっき言っても9時に起きたから、1時間近くは経ってるんですけどね。
でも何か喋るとかは全然、ただテレビで台風情報をチェックして、
ちょっと直撃近いコースだなと思って。
でもまあ、それほど猛烈な台風じゃないし、雨ちょっと心配なんですけれども、
若手もかなり吹いてきたけど、まあまあなんとか。
庭はちょっと壊滅的なことになるだろうけど、庭は9月はですね、
あんまり期待できないんで、収穫とかは。
ここは最後かなと思っております。
台風が来て薙ぎ倒されて、その後暑くてカンカン出りになって草が枯れるっていう。
極めて分かりやすいパターンなんだけど、どうしようもないんですよね、これはね。
今この状況で、特に地上のものは厚しい方がないから、
もうやっぱビニールハウス最強だなと思うんですが、
そんなことをやってる場合じゃ、やってるわけにいかないんで。
農家さんじゃないですからね。
はい、そんな感じでやっていきたいと思ってます。
何かこう意味もなくガーデニブの話を出しますね、私はね。
これは割と孤独な作業だからだと思うんですよね。
そして割と収穫という意味では報われるのが難しい作業なんですよ。
やっぱり専門家じゃないと知識が不足してるし、手間も時間も不足してるんで。
明らかに何て言うんですかね、何か喋りたくなるんですね、要するに。
第9期書き上げ塾の始まりと文章のスキル
はい、9月10日のですね、13時30分から書き上げ塾の第9期が始まります。
もうこれ本当に明後日か、明後日ですからね。
よろしければ文章を書けるようになるぞという。
ここがやっぱりメリットだろうなと。
頑張れば半年で本書けます。
それはもう相当手厚くサポートしてるんで、
本出来上がりはしないと思うんだけど、書くことはできます。
できますが、頑張らないと本は書けませんってね。
文章は上手くなると思うんですよ。
途中で完全に切り上げちゃったりしなければ。
途中で2ヶ月目でやめましたみたいなのだと、
流石に上手くなるのもちょっと難しいんですけどね。
上手くはなります。
特にベタで書いていくという、この体験が僕らやっぱり少なすぎると思うんですよね。
なんだかんだで、学校でも昔作文ってただ書かせてたじゃないですか。
それじゃ当然書けませんよね、小学生とか。
いろんなスキルとか、ライティングのアイデアマラソンみたいなやつとか、
いろんなものが出てきて、アウトラインを作るとか出てきて、
すっかり今やただ書くってことはしなくなったような感じがするんですよね。
ただ書くのは失われてしまったみたいな気がするんですよ。
ただ書くっていうのは非常に大事で、
特に今はKindleがやっぱり、いろんな弊害もあると思うんですけど、
電子書籍は、そうは言っても入選は起こってますよね。
非常に盛り上がったんですよ。
点数はもう紙よりずっと多くなってますから。
ブログをこれに加えれば本当に圧倒的な文章量が電子上にあるわけですが、
ここは文字数をやっぱり意識しすぎてると思うんですよね、人々は。
文字数っていうのは書いてれば無意識に入っていくものであって、
書く前から文字数を意識する。
つまり文章を書くことはできませんが、まず文字数から入りましたっていうのは、
僕はすごい無理があると思うんですよね。
やっぱり400字で書ける、800字で書ける、1500字、2000字っていうのは、
もう感覚があるはずで、その人の。
ないんだったらこれから作るしかないんですよ。
幸いなことに紙の本と違って電子は文字数あんまり気にしなくていいはずなんですよね。
文字数に酷くこだわるのは、いわゆるマーケティング的な意味もあると思うんですがね、
やっぱり原稿用紙時代の名残を引きずってるんですよ。
配下の人がみんなあそこから始まったから、文字数意識できない奴はダメだみたいな、
ライターのくせにダメだみたいに言われているうちに、
その文章を書く前から文字数を意識するという変な癖が、
僕はあれは絶対逆だと思うんですよね。
ある程度書かなかったら文字数意識できるようにそもそもなる感覚がつかめないと思うんですね。
私も本何冊か書いて文字数ってものが分かるようになったんですよ、なんとなくね。
この感覚っていうのは書いてないとだんだん少し怪しくなってくるんですよ。
一番やっぱりすごく文字数がはっきり理解できてたのは、
日経ウーマンのオンラインに僕の企画をねじ込んだという感じの人間でして、
僕ってそういうことをやりがちなんですよ。
空気読めないのがある程度有利に働いているのか知りませんけれども、
仕事を作ることには繋がっていくんですよね。
なんか僕の連載雇ってくださいみたいな言ったんですよ。
全然縁もゆかりもない人にですよ。
いきなりオンライン、そしたら採用されたという。
まあこういうこともありますけどね。
あんまりお勧めはしません。
結局いい条件にはなりにくいし、
僕はただあそこで書いてみたかったっていうのが圧倒的に強かったから、
たまたまものすごく何か訳があってうまくいったりすぎなくて、
やっぱり最後ですね、ちょっとこうなんかこうもよっとした感じでフェードアウトしましたからね。
これはね、僕が全部よくないんですよ。
罪悪感を持たないことにしてるし、だいぶ前のことだからね。
しかも僕はすごいいい経験だったと思ってますから、
向こうはちょっとどうかなと思うんですけれども、
本当僕にとっては幸せな経験だったんで、
迷惑かけるのもたまにはいいかなと思う。
たまじゃないかもしれないですけどね。
そういうことをやってきたわけですよ。
だから私はいろんな方がですね、
ちょっとした甘えというもので躊躇されるのは、
そんなこと気にしなくていいのにって言っても無駄なんだと思うんですけど、
気にしないって本当にね、すっごくいろんな意味で大事だなと。
あんまり会社につきまとってストーカーみたいになっちゃうとかは確かに、
あれは良くないかもしれないと思うんですけど、
1回とかはいいと思うんですよ。ちょっとお願いしてみるみたいなね。
そこが極端になってしまうケースが多いような、
そんなお願いは絶対できないか、
1000回ぐらい言っちゃう人になるかのどっちかを選択するみたいな、
1回言ってるのはいいじゃないですか、別に。
スルーされても傷つくかもしれないけど、
僕も多分当時だったらさぞ傷ついたと思うんですけどね、
断られる。
でもやっぱ1回とかで傷つくことはないと思うんですよ。
私のところにも結構すごい不思議なメールとかが頻繁に来て、
基本的には、申し訳ないけどスルーさせていただいてるんだけど、
別に1回とかは、はっきり言って翌日には全部忘れてますから、
ないとかなら、いいんじゃないですかね。
分かんないですけど、お願いしてみるという。
チキを頼るって方が、自然だとうまくいくと思いますけどね。
でもチキじゃないところを頼っても、
別に僕は構わないだろうと思います。
ただその前に文章を書けるようになっている方がきっといいと思うので、
文章の自己肯定感とアウトラインの関係
第9期が始まります。
これ6ヶ月で文章を書けるようになるとすると、
僕は最短なコースの上に一番安が上がりだと、
今ではもうほぼ確信してますね。
これより安くて、これより役に立つ講座が世の中にないとは言わないけど、
僕はちょっとやそっとじゃ見つからないだろうなって思うんですよ。
何でかっていうと、スキルを持ってるからなんですよ。
もちろんそこの講座を運営されている方は文章を書ける方だと思います。
けれどもスキルを持っていると、スキルを教えたくなるのが人なんですね。
そういうものなんですよ。
もちろんクラスのケドさんはスキルをお持ちですが、
大事なのはベタで書いていく。
それで書けるようになるんだっていう、そういう何て言うんですかね。
自分の文章を書く上での自己肯定感というのは変だけど、
そういうことなんですよね。
自信というか自己肯定感みたいなもので。
ここでやっぱりそれがないと何かを用意したくなってしまうんですよね。
何かいろんなものが用意されるじゃないですか。
ここに埋めていくとか、何かマップを書いてみるとか。
これはやっぱり書いていっても書き上がるようにはならないような気がしているせいで、
起きる現象だと思うんですね。
これを払拭するというのが、そもそも僕らにはまず必要です。
なぜならば、これを習いすぎだからだと思うんですよね。
書けるようになる気がしないっていう、
でも何かツールがあれば書けるような気がする。
メソッドなりツールなりがですね。
そういうことをやっていると、
ベタで書いて、別字でまとめるみたいな風にはなっていかないと思うんですよ。
やってないことだから、結局やらないことはできるようにならないって感じですね。
自転車とか泳ぎと同じなんですよ。
乗ってみたり泳いでみたりしないと泳げるようにはならないんですよ。
やっぱり最初はこのツールを使うとかでもいいんだけど、
足のヒレとかお腹浮くやつとかですね。
僕も昔使いましたけどね。
やっぱりあれと泳げるようになることは直接は関係ないんですよ。
水に入るのが怖くなくなるとかいうそういうメリットをもたらしてはくれるんだから、
結局は泳げるようになるためのツールなんだけれども、
あれと泳げるようになることは関係ないんですよ。
その辺のことは書く上では、文章を書くという上ではですね、
一層違ってあのものを言ってくるんですよ。
やっぱりアウトラインを作るということと文章を書くということは実は関係ないんですよ。
一見すごく関係ありそうなんだけど、あんまり関係ないんですよ。
これをやらないという訓練がいる気がするんですね。
カウンセリングの必要性
最近そんな気がしてきました。
何かにまず頼るっていう、そういう思考方針みたいなもので、
ここから自由になるという必要があります。
それが怖いというのはおかしな話なんですよ。
だって別に水と違って溺れませんから文章を書けないのはただ書けないだけじゃないですか。
書けない自分に直面するのが怖いというのはおかしな話だと思うんですよね。
なんかそれはどこかで自分のコンプレックスが意味もなく刺激された結果だとしか思えないので、
そんなものからは自由になってもいいと思うので、
ぜひお一人様は確実にまだ枠が空いているのを確認したところなので、
ぜひお申し込みいただければいいかなと思います。
10分経ってる。
本題に入るって言ってもさっき起きたばっかりなんで、
この本題が入りきれないんだけれども、
昨日ドーラの章例のことをノートで書きましたね。
フロイトのヒステリーの失敗例ですね。
彼はやっぱり偉いなと思った本ですよね。
いろんな人があれを批判してるんですよ。
ネットで検索してドーラフロイトってあれば、
批判がどういうものかはいちいち出てくるし、
僕もその批判は最もだと思います。
最もだと思うけど、
よくよく考えてみてほしいんですよね。
あの章例ドーラを扱っていた頃は、
店員という言葉はまだなかったんですよ。
店員が扱い切れてないっていう、
それはフロイトが店員を発見した人だから、
発見したってのはおかしいと思うんですけどね。
でも発見した人だから、
店員を扱い切れないフロイトってどうなのっていうのは、
それはそうですよ。
言われるとは思いますよね。
もうまるでこれはちょっと古い話で、
若い人にはわかんないかもしれないけど、
王貞治が一本足で打てなかったみたいな話なんですよ。
に聞こえちゃうんですよね。
でもですね、
あれは1900年代の初頭なわけですよ。
あのドーラの章例の後に、
アフシュビッツとかができるんですよ。
まだまだ時代はですね、
基本的人権とかが普通じゃない時代なわけで、
あの時代のカウンセリフに、
そんなことを求められないだろうって私は思うんですね。
やっぱり僕らは、
あまりにもフロイトが現代的なことをやってるから、
現代の人みたいに思うんですけど、
あれは近代の人だったと思うんですよね、彼はね。
そして彼のクライアントさんも近代の人だったと思うんですよ。
明らかに、
思春期の少女に言うことではないっていうのもわかるんですけど、
そういうことが普通になってくるために、
やっぱり1960年代以降を持たなければならなかったと思うんですよね。
転移なんて言葉はないわけだから、
転移はやっぱり扱いきれないですよね。
もちろん転移はフロイトが発明したくじゃないですよね。
私たちはこの転移という現象、
今日はたぶん転移から話が始まりそうな日が今、
もうしてますけれども、
転移という現象がですね、
対人支援、どこかしこでも起きてるのはもうみんなわかってますよ。
おそらくフロイト以前の人だってわかってたとは思うんですよね。
先生に生徒が相談するとか、
どっちかというと逆だね。
問題を起こした生徒が呼び出されると。
フロイトの失敗例と批判
こういう時、生徒と先生って親子関係そっくりになっちゃうじゃないですか。
そんなことはベテランの先生方はみんな知ってると思うんですね。
体感的に。
転移などという言葉を知らなくたって。
これは自分母親みたいな存在になっちゃってるんだろうな、
この子息子みたいになっちゃってるな、
みたいに思う瞬間なんてあったに決まってると思うんですよ。
僕だってありますもん、そういうことであれば。
学校の先生やってるわけじゃないですけど。
だからこういう転移というような状況は、
それまでもしょっちゅう絶対牧師さんと信者さんみたいな、
信徒さん。
だってファーザーとかって言いますもんね。
我が子よとかってね。
あれ転移をまるでお互いに確認し合ってるような感じじゃないですか。
だからああいうことはあって、
そこにフロイトがこれはカウンセリングの技法の核の中に入れるべきだと考えるようになったんですよね。
で名前まで付けたということだと思うんですよ。
それは一旦確立するすごいことなんだけど、
みんな知らなかったわけではないし、
多分フロイトがいなくったって誰かが発見した地、
名前違う名前だろうけど付いてたと思うんですよ。
だからある、起こるに決まっているんですよね。
でもやっぱり概念としてはっきりさせておかないものは扱いきれなくて当然じゃないですか。
例えばフロイトといえどもですね。
彼はドーラの省略を持って、
悪い意味自分の失敗を持ってですね、
転移というものを確立していくんで、
あの辺がすごいと思うんだけど、批判はされるわね。
それはね、失敗例ですからね、成功例じゃないんで。
そういう意味で、しかも何て言えばいいんですかね、
目の前にあるものを取り損ねている人の失敗って、
すごく人は批判的になりますよね。
似たような、全然違う事例なんですけど、
すっごい面白い話があって、ちょっと正確には思い出せないんですけど、
ある人が口の中の自分の唾の中身を顕微鏡、当時の拡大レンズで見てみたら、
なんかうようよと微生物がいるぞみたいなことにびっくりして、
しかもこの微生物、コーヒー飲んだら死ぬぞみたいなのにびっくりしたんだけど、
ついにその人は確か細菌の発見に至らなかったんですよ。
これってすごい不思議だと、後から考えると思いますよね。
いや大発見じゃんって思うんだけど、
見てびっくりしておしまいだった人がいたらしいんですよね。
でもこういうことって僕らも往々にしてやってると思うんですよ。
これはよく若手の理系の研究者によくこういう話が教訓エピソードみたいにして語られるんだけど、
しょうがないと思うんですよね。
僕らは後からの知恵の能力の高さと、
その場に出くわした時のその能力のあんまり高くなさのギャップをよくわかってないところがあるんですよね。
いや目の前にあるだろそれって言われてもですね、
その概念がはっきりしてない段階では目の前にあっても気づくことはないんですよ。
だから転移なんかまさにそうで、ローラの症例は間違いなく転移が起きていて、
そのことに対するフロイトの態度がすごくあやふやなために、
ああいう結末を迎えたんじゃないですかっていうのは、
後からだったら私にだって言えるんだけど、
それをやってる真っ最中、しかも転移という言葉が存在もしない時、
しかも1900年代の初めの頃に、まだフロイトはこうあれですよね、
毎回たぶんカチッとした格好して山高坊をかぶっていたような、
ああいう馬車とかが走ってた時代だってことを考慮に入れると、
しょうがなくないっていう感じがむしろ私はするんですね。
これはただの逸話でしかなくて、
要は何が言いたいかというと、転移というものが起こるんですよ。
そこ賢で起こっていて、最初の人間関係は私は原則転移で始まると思うんですよ。
例えば私とJさんとかの関係はたぶん転移で始まるんです。
この転移で始まるというところに大きなポイントがあって、
だから私はライフハッカーとか仕事術とかで時代を打開できている人は結構ですが、
できていないんだったらカウンセリング系に行ったり、
精神分析を検討するとかそういうことを考えるのは価値があることだと言いたいわけですね。
どうしてかというと、たぶんその方は転移が起きてそこで苦しんでいるからなんです。
大概の人は結局なんだかんだで親子関係なんていうのは良好なわけです。
親子関係だけが人間関係じゃないんですが、
幼い頃に得た人間関係はそうじて良好だったわけですよ。
転移現象と人間関係
痛い目にあったことがないとかではないですよ、そういう意味じゃないんだけど、
そうじてまあまあ良い人間関係を持ったわけですね。
右も左も分からない、日本語もちゃんと喋れないような頃にですね。
そもそも言葉なんか全然喋れないので、ギャギャギャギャギャとか言ってる時にですよ。
時にでも人間関係は良好だったというか、
その時の人間関係が良好だったっていうのが、
人間っていうのは結局その後、同じようなものに手配すと、
これはグラジオのケイドウさんがグッドファイブして、
そこをある意味手放そうみたいにおっしゃってるんだけど、
でも実際僕らやっちゃうわけですよ。
その後も同じパターン、似たようなパターンをそこに持ち込むわけですよ。
だから新しい人と出会いましたって時に、
まずお父さんとの人間関係をここに持ってこようとするんですよ、人間ってやつはね。
パターン行動を取りがちなんで。
だから新しい友達ができた時、
どっちかはお父さん役、どっちかは息子役、あるいはお母さん役ってこと多いですね。
ものすごく多いですね。
今はちょっと分からないんですけど、
私が小さい頃にお好みケイドウさんが書いてたことがね、
男子同性愛ってのはそこかしこに見られる。
これはやっぱりこのセリフを出しただけでも、
今はもう結構話題になっちゃってますけど、
全然違うことを連想されるから困るんだけれども、
例えばですね、私なんかもうやってもらったこともあるし、
やったこともあると思うんですけど、
男の子といろいろとカップドーム一人に行ったりするじゃないですか。
そうすると怪我とかするじゃないですか。
絆創膏とかをあげたりするんです。
これが男子同性愛的だっていうふうにお好みケイドウが言う話なんですよ。
お好みケイドウさんだけが言ってるわけじゃないですよ。
多分精神分析の世界ではそう見るんだと思うんですけど、
どういうことかというと、母親役やってるじゃないですか。
こういうところに母と息子の関係というものがそこに登場するんですよ。
だから投影なんですね、これはね。
こういうのを通じて仲が良くなっていくということは、
その男の子同士がお互いの自分とお母さんとの関係が良好ならば、
当然そこに良好な人間関係のパターンを投影すれば、
良好に仲良くなれていきますよね。
何しろ男子で6歳とかだから、
右も左も分かってないわけですよ。
ただそういう関係を無意識に、完全に無意識に持ち込んで投影してですね、
お互いがお母さん役をやってみたり息子役をやってみたり、
それを交代してみたりするうちに急速に仲良くなっていく。
ですよね。
だって元々仲が良かった関係をそこに持ち込んでるから、
ひどく簡単に仲が良くなれます。
それをやってるうちに、でも相手をお母さん扱いしているうちにこじれるわけですよ。
相手はお母さんじゃないわけだから、
お母さん役なんかできないわけですよ。
せいぜいバンドエイド出すとか、そういうことしかできないわけですよ。
もっとお母さんいろんなことやってくれてるんだけど、
真似っこしたってすぐに限界がきます。
ここで気がつくんですよ。
気がつくって言っても自意識的には気づかないんだけど、
意識の外では気づくんですよ。
この人お母さんじゃないからねと。
投影と人間関係
この時に僕らは現実と出会うってやつが起こると。
つまりそれまではお母さん代わりとして繋がっていようとしたんだけど、
お母さんではなかったということに気づいた時にだいたい喧嘩が起きてるんだけど、
そこを乗り越えるわけですよ。
でもお母さんじゃないんだからこの子と仲良くしようと。
そういうふうにして人間関係というのが多分発展していく。
これが今度新しいベースになるわけじゃないですか。
今度はこの人との関係を他の人とに投影するわけですよ。
そうすると他の人との関係に、もともとの友達との関係を、
だいたいそういうことを幼い子はみんなやるので、
やってるうちにこの人はお母さんでもあの友達とも違うということに気づいていく
っていう展開が起きていくんだと思うんですよね。
これは幸せなパターンなんですね。
私はだいたいこのパターンに頼って成人を迎え成人後もやってるんですよね。
例えばJさんとの関係も、わからないですけど、
父親を投影してる感じはしないですか。
でもなんか投影してるんですよ。
最初はそれでうまくいく。
多分Jさんも人間関係が掃除でうまくいっていた人だからこれでうまくいくんですが、
当然お互いはその人とは違うっていうところにいつか気づかなければいけないですよね。
お互い個性的だから。
まあ私は自分それほど個性的ではないと思ってるんですけど、
人は私は突飛だって言うから多分個性的なんでしょう。
だからすぐ気づきますよね。
今までの人間とはちょっと違うということに。
でもそこは乗り越えられるわけですよ。
それまでのうまくいってきた人間関係があるから。
ここはなんとかこいつはちょっと独特だけどこの点は目をつぶろうみたいになるわけだと思うんですね。
これは幸せなパターンなんですよ。
これはしかしいつでも誰もが使える技じゃないんですよね。
残念ながら。
いやお母さんとの関係なんか最悪でしたけどっていう人にしてみると、
この点が起きるということは最悪です。
この問題があるんだと僕は思うんですよね。
お父さんとの関係は最悪でしたと。
最近はあんまり言及してない。
昔やたら言及してた。
隠れビッチやってましたが新井ピロヨさんお父さんとの関係は最悪でしたよね。
あれを男の人との関係にいちいち転移していくので、
初手からこじれるわけですよ。
これが起きてしまう。
初手から僕のような人間が幸いにも、
人間関係初手からうまくいくのに、
意識を動員する必要すらほとんどないというのと、
全く逆に意識を動員しなければ決まって初手からこじれてしまうというパターンを
そこに持ち込んでしまうという事態が発生するわけです。
だけれども自分も相手もそうは決して考えないじゃないですか。
多分フロイトとか読んでるわけじゃないから。
読んでても考えないと思うんだけど、
読んでるわけじゃないケースが多いですよね。
当然そこの時に考えるのは、
昔うまくいきもしなかった親子関係を持ち込んでいるからうまくいかないんだ、
などとは誰も考えず、
いやこいつちょっと性格歪んでるわとかって言い出すじゃないですか。
こうして事態が認識されないまま、
うまくいかないなーっていう、
人間関係って難しいなーとか、
いきづらいなーみたいなことになっていくと思うんですよ。
このパターンが繰り返されるので。
だって考えてみても欲しいんですが、
私は人間関係がうまくいくのは、
何ら私の努力によってないわけですよ。
ただ、昔うまくいってた人間関係をそこに持ち込む。
相手もおそらくそうしている。
それもほとんど無意識にやっている。
そうしたらうまくいきましたっていうわけで、
ある意味何もしてないに等しいんです。
この何もしてないって大事なんだけど。
何もしてないに等しいわけですよ。
最初にうまくいった人間関係っていうのが親子関係だったとして、
その時は私はそもそも相手のお部屋だってことを認識すらできてないわけです。
何もしてないわけですよ。
これが大事なんですよ。
ところがこれ自体がうまくいかないケースだった場合、
これを持ち込むということは全く同じ。
何もしないんだけども、
初手からこじれるっていうことが起きる。
そしてこれの解釈を、
私はこの精神分析的な非常にシンプルです。
僕がある意味議論だと思うんですけどね。
人間関係のペースに親子関係を持ってきてるんですよってのって、
そんなに素朴でいいのぐらい素朴じゃないですか。
でも私はそんなに素朴なもんだと思うんですけどね、
人間関係なんての。
とにかくこれを持ってきてると私は思うんだけど、
普通はそうは解釈されません。
だからそこに必要な何かが不足しているから、
この関係はうまくいかないんだと解釈されてしまうんですよ。
これはですね、あらいぴろよさんじゃないや、
私が本の表紙書いてくださった永田香美さんの漫画読むと、
ものすごくよくわかる感じがするんです。
彼女は何らかの理由があって、
そんなに嫌な親だと感じはしないんですけどね。
あらいぴろよさんのケースとは違うと思うんだけど、
でも何らかの形で何か親子関係に不全があり、
この親子関係を職場に持ち込むと、
職場では明日から来なくていいからねとか言われちゃう。
で、こう言われるとですね、
よくて小微笑だとか、そういう認識になっちゃうと思うんですよ。
いや私は何のスキルもないから。
これスキルで補える話ではないですよね。
最近やってるんで、何かと話題にしてるピクミンというゲームで、
最後の方に出てくるルイさんという、
これレスキュー隊のゲームなんですよ。
主人公である私もレスキュー隊で遭難した人を助けてるんだけど、
最後に助けるはずだったルイさんというのは、
遭難者というよりは異常性格者みたいな人で、
勝手に事故って勝手に離脱したみたいな感じの、
まだちょっとよく分かってないんですけど、最後まで私言ってないから。
とにかく性格がちょっと歪んでるんですよ。
ああいう人ゲームに出てこなかったから、
最近のゲームってやっぱり進んでんなと思うんですけど、
このルイさんみたいな人が人間関係がうまくいかないのは、
彼の独特のものの考え方とか異常行動のせいであって、
スキル不足とかじゃないじゃないですか。
ルイさんが例えば新しい宇宙号を5個増やしましたって言っても、
多分誰もルイさんのこと好きにならないと思うんですよね。
ピクミンの他の人たちはみんな良い人なんで、
ルイさんもちゃんと連れて帰るっていう方向でいるんだけど、
こういうのはチームでは絶対存在する非常に重要な基本モラルだな、
みたいな気がするんですけどね。
それは良いんですが、
そういうことなんですよ。
つまり、コミュ障だとか、
ここでのスキルが足りていれば私はここに居場所があるとか言うのは、
僕はそんなはずは絶対にない気がして仕方がないですね。
人間関係というものの難しさとされているものって、
やっぱり僕は投影にあるとしか思えなくて、
僕らはつい投影しちゃうから、
その投影でうまくいっていたという経験を持っている人、
ないしはその投影を繰り返していつも失敗しているという人が、
スキルなるものを身に付けたからといって、
何かが変化する感じはしないんですよね。
やっぱりルイさんは何ができるようになっても、
あの原動と性格を変えないと、
多分居場所はなくならないかもしれないけれども、
うまくいかないという状態は続くと思うんですよね。
彼にしか理解できないような観念で動いてますから。
まあまあそれはゲームの話だけれども、
でもああした人ってやっぱりいらっしゃいますよ。
悪いやつではないんだがっていう言葉が出てきて、
全くそういう話になっているなと思うんですよね。
大人っぽいゲームだなって思うんですよ。
悪いやつではないんですよね。
あれはやっぱり投影というものが独特なんだと思うんですよ。
ルイさんの持ち込む投影って、
ルイさんの親子関係を多分反映していると思うんだけど、
それが非常に変わっているので、
他の人のそれとはマッチしなすぎて、
みんなが困惑してしまう。
その時僕らがよく使ってしまうセリフが、
いやあいつ変わってるよねというのが一番いいところで、
もうちょっと進んでしまうと、
あの人本当にどうにかならないのかな、
ちょっとでいいんだけどとかって言い出す場合ですよ。
これがいかに的外れというか、
でも多分ルイさんのような人で、
本当に人間関係に困り始めたらやり出すことというのはですね、
なんかこう新しい言葉を習得するとかになりやすいんですよ。
良くてコミュニケーションスキルを磨くみたいになっちゃうんですよ。
ルイさんの例
しょうがないんですけどね。
僕はこれはしょうがないと思うんですよ。
こういう人に何かを言うとか、
何かを進めるというだけで、
自体が好転するケースがレアだと思います。
やっぱりなんかですね、難しいんですよそこは。
なぜならば、ベースになる人間関係という、
良好な人間関係を築くベースになる良好だった人間関係の、
いわゆる倉庫的って言うんですけど、
意識、自我、平成以前の記憶が不足しているからだと思う。
それを作り出すというか、
そういうものがあるんだというか、
そういうことが自分にもできるんだということを、
ある意味、体感してもらうしかないと思うんですね。
この方法の一つが精神分析なんですよ、きっと。
だからあれは何かを分析してるのかなって時々思うんですよね。
あれは別に何も分析することもできるのかもしれないんだけど、
そこに主眼はなくて、
要はどうしてもこじれない人間関係の核みたいなものを、
その人に一度体験してもらうためのメソッドというか、
お膳立てみたいなものになっちゃないかなと思うんですよ。
だからものすごく分析家を罵倒するとか、
本当に嫌な思いをたまにすると、
それでも毎週毎週会う、一定時間は必ず会い、
必ずその人の話がどんなに聞き苦しい話でも、
ちゃんと聞いてくれる人が一人はいる。
絶対にいるっていうのを、
あそこで繰り返し繰り返し体験するために、
あれやってるんだと思うんです。
それを先日もお話ししたけど、
できれば夢を見ているような姿勢をとって、
それを体験するとですね、
多分その人のやっぱり無意識ですよね。
無意識に入っていくんだと思うんですよ、その感じってのは。
とにかく私がどういう振る舞いを、
つまり私が完全に無意識のような状態で、
何をしでかしてもある意味ですね。
してもこの人は会うのをやめようとか、
縁を切ろうとか、
普通だったらそうなっちゃうわけじゃないですか。
ルイさんのような人だったら、
あいつもう宇宙に置いていこうで、みたいに言う人絶対いると思うんですよ。
でもそうは言わない。
必ず一緒に連れて帰りますよって、
だからコリーさんっていうレスキュー隊のセリフは、
ユイちゃんと人間関係
とても偉いと思うんですけど、
僕たちは救助隊ですからね、
必ず一緒に帰るんですよって言ってるんですけど、
ああいうことですよね。
ああいう感じっていうのは、
あれはだからですね、
ドナルド・ウィニコットっていう精神分析家ですけど、
あの人がホールディングって言ったのは、
それを指してると思うんですよ。
ダッコではない感じなんですよね。
日本語で言うダッコとはニュアンスがちょっと違う感じなんです。
何があっても手放さないぞみたいな、そういう感じ。
だから赤ちゃんがむずがって叫んで落ちようとしても、
親はそこでガシッとやって落とさないっていうあれなんですよね。
あれをホールディングって言うんじゃないかなと思うんですよ。
だから精神分析家はホールディングしなきゃいけないみたいな感じがあるんだと。
そこで手放してしまったら、
他の人の人間関係と同じになってしまうから、
多分クライアントさんはまたかって思うと思うんですよ。
また僕は見放されるのか。
この体験を何千、何百回はしてきたと思うんですよね。
見放される、縁を切られるみたいな。
何らかの形で、会うのをやめるって言うのではないんだけど、
相手は心を閉ざしちゃうとか、心閉ざされるとか。
そういう経験ばっかりしてきたと思い込んでる人に、
絶対そういうことをしないぞっていう体験をしてもらうための、
それは立て付けなんだと思うし、
それがやっぱりできないと難しいから、
そこに精神分析が、訓練分析ってものをさせられる理由があるんだろうな、
っていうふうに私は一応解釈しているわけです。
あれですよ。
言ってることが全部デタラメだとしても、
僕は責任取れませんからね。
僕精神分析家じゃないし、
しかも臨床心理師でも公認心理師でもないですからね。
かつ、そういう学部は日本では出てすらいない。
僕が出てるのは英語学部ですからね。
そういうふうにただ僕は認識しているということなんですね。
この、なんていうんですかね、
定義から話し始めたんだけれども、
人間関係の核となるような人間関係というものを形成するために、
カウンセリングを受けるんだとするとですね、
一見ものすごく遠回りに見えるかもしれないけど、
これが一番僕はやっぱり近道な感じがするんですよね。
ここで、例えばなんですが、
タスクシュートで自体を打開しようというのは無理があると思うんですよ。
他のどんなツールやスキルでも同じで、
そこの、例えば、
翻訳とか通訳をする会社なんだということで、
英語のスキルが僕は足りないから、
この場所に十分な居場所がないんじゃないだろうと思って、
英語語力をうんと伸ばす。
したとしても、
クビにはなりにくいかもしれませんけれども、
それだけで終わってしまうような気がするんですよ。
だから、人間関係が何より大事ですって言いたいわけではないんだけれども、
結局組織にいるなり、
家族を持つなり、
全部人間関係じゃないですか。
なんだかんだと言っても、
そこで良好にやっていけるというのが繰り返される人は楽ですよね。
店に行ってそこの人とのやりとりでうまくいくとか、
家に帰ってきて家族との関係が良好であるとか、
会社に行けば会社に行ったで、
その同僚とは仲良くやっているし、
上司ともこれは理想論かなっていうようにきれいごとに聞こえると思うんですけれども、
こういう人であれば、
そこでのスキルとか、
そこでできることが少々少なくったって、
あんまり困らない気がするんです。
逆はそうではないと思うんですよ。
スキルがものすごいふんだんにあっても、
その人ルイさんみたいだとですね、
多分家族ともあんまりうまくいかず、
そもそも家族が持てるかどうか微妙で、
組織に行っても原生生物が食いたいから、
ロケット破壊しましたみたいなことに出ちゃうわけじゃないですか。
そしてお店に行っても態度が微妙なわけですよ。
なんか人生難しくなるだろうなって感じがするんですよ。
それはその人の性格が歪んでるとか、
そういうことではないし、
スキルが足りないわけでは全然ないし、
悪いやつではないってみんなが言うように、
悪いわけでもないわけですよ。
ただ、多分初手から持っていける、
無意識に持っていく、
投影する人間関係、
投影する良好な人間関係の、
何かこう内的対象ってことになるんだけど、
そういう内的な何かが、
何かこううまく作り出されていない、
ということに過ぎない気がするんですね。
過ぎないって言っては、
あれかもしれませんけどね。
それで思い出したのは、
あれですね、
ヤングケアラーのユイちゃんの漫画なんですけど、
ユイちゃんっていう人、
ヤングケアラーで、
ものすごく小学生の頃有能じゃないですか。
弟の偏向診断のお手伝いをして、
料理は作って、
家事も掃除もして、
しかも小学校の授業もこなしていく。
スーパー小学生ですよ。
あれがヤングケアラーの問題なんだけど、
僕はあの中で何が一番問題に見えるかというと、
人間関係が存在しないように見えるんですよ、
あの人には。
まず友達と遊ぶとき、
小学生の友達ってめんどくさいなって、
彼女言ってるじゃないですか。
でもうん、行く行くとか言って、
やりたくもない消しゴム遊びとか、
小学生ですからね。
文房具屋さんに行くとかやって、
そしてまた家の家事のことを考えてるわけですよ。
完全に頭が大人目線になってるので、
そこにいる子供の友達は、
友達になってないんですよね。
人間関係がそこにないわけですよ。
家に行ったら行ったで、
お母さんとの関係が間違いなく、
自分がお母さんで、
お母さんは娘になって、
時々お母さんは錯乱して、
ゆいちゃんのことありがとうお母さんとか言って、
お母さん呼ばわりしてるんで、
ここにも人間関係がないですよ。
何かこう、なくはないけれども、
ほぼないですよね。
お父さんはそもそも家のことに、
あまり関わろうとさえしないんで、
やっぱり人間関係がなくて、
弟さんについてはですね、
ただなんとなく、
うっすらと嫉妬と怒りを覚えている、
ゆいちゃんがいるだけ、
みたいな感じになってるわけです。
しょうがないんですよ。
彼女の責任ではないんですよ。
偽りの事故と良好な人間関係
ただ彼女には人間関係がない感じがするんです。
先生とのやり取りでも、
お母さんと、
ゆいちゃんのお母さんと先生に一体になっちゃってるんで、
それはゆいちゃんと先生の関係ではないんですよ。
人間関係がないまま、
他の人と関係していかなければならない。
これが僕はウィニコットの、
今日はウィニコット付いてるんだ。
ウィニコットの偽りの事故ってやつだと思うんですよ。
フォルスセルフですね。
これは僕らはできちゃいますよね。
そこに持ち込むべき、
投影する人間関係が、
適切な人間関係がない場合、
例えばそれこそルイさんですよ。
ああいう人と関わるときは、
僕らは偽りの事故を持ってくるより他ないんです。
だからああいう人に本当の事故で
接することができる人は偉いなと思うんですよ。
偽りの事故しかないっていう場合が、
ヤングケアラーみたいな人に起きそうな事態だなと思うんです。
カウンセリングの重要性
どこへ行っても人間関係がそこにはない。
ユイちゃんはそこにはいつもいないわけですね。
ユイちゃんだとみんなが思っているユイちゃんじゃない人がそこに本当はいて、
消しゴムで遊んだりブランコで遊んでるとき、
早く帰らないとお母さんのご飯作んなきゃならないのにとか、
およそ小学生が考えないようなことを考えていて、
遊んでるフリをしているわけです。
ああいう風になると、
大人になったとき人間関係でユイちゃんは厳に困ってましたけど、
困るんですよ。
放映するべき良好なモデルというものはないため、
モデルじゃないんだけど、
放映するべき良好な人間関係の経験というものがないために、
そこに自然に持ち込めるものは何にもなくて、
いつも意識して、
相手がどういう風に機嫌が良いのか悪いのかとかね、
つまりここを考えるということは、
私が顔色を考えるっていう風に本の中で書いた話になるんだけど、
ここを考えるということは、
放っておいて良好な人間関係が形成されていくという感覚がないんだと思うんですね。
そんなのないでしょって言われると困るんですけど、
私は小学校時代に友達を作るとき、
そんなのしかなかったわけですよ。
黙って仲良くなろうとすれば仲良くなれるわけですよ。
そのとき相手がどういう風に考えてるんだろうとか、
いや小学生なりに考えてたつもりですけど、
そんなのは何の意味もなくてですね、
黙ってても人間関係がうまくいく、できているんですよ。
あれですよ、苗に水をやっとけば伸びるように。
そこで人間関係を形成していこうという意思さえあれば、
そこで人間関係は形成されていくんですね。
多分この話に、何だそれはっていう、
オカルトかって思う方っていらっしゃると思うんですけど、
そういう方にしてみると、
今のユイちゃんみたいな風になるのがごく当たり前だったと思う。
でもあのユイちゃんみたいなのって決してごく当たり前じゃないじゃないですか。
あそこにやっぱり欠けているのは人間関係なんです。
彼女にはそれが空白になっていますよね。
彼女にとっての偽りの自分っていうものを
あちらこちらに形成して、それで全部回していっている。
だから彼女には本当の自分が何をしたいんですかって聞かれると大変困るんですよ。
ていうかそこは真空に多分感じられるんだと思うんですよね。
だから自体が難しくなってくる。
例えば小学生だったら、
そうやって家事の合間に、
ていうか家事のことだけをやってにしても勉強では全然困らないでしょうけど、
高校になったら困るじゃないですか。
同じレベルでスーパー高校生やれって言われてもそれは無理な話なんで、
その時に本当の自分というものの力が非常に重要になってくるんだけど、
そこが真空に感じられる。
いないってことはありえないんですよ。
だけれどもいるとは感じられないので、
急に熱が出て寝るとかそういう話にだんだんなっていくんだと思うんですよね。
この話は私はですね、
症例動乱なのに全部出てきているなって感じがやっぱりするんですよ。
彼女はどうして急に倒れてしまったりしているのか。
もっともっとセクシャルな方向から泥糸は詰めていってますけれども、
結局あれは僕はですね、
持ち込むべき転移というものが、
いつも間違った方向にある意味方向づけられていて、
ドラは明らかにフロイトに転移しているのは当然として、
ケイシというですね、
精神分析的な話
また非常に微妙な男にも転移をしているわけですよね。
父親転移だと思うんだけれども、
しているわけですよね。
そしてケイシの奥さんという、
本当に思春期の確かに子供にあれをやらせるのはとんでもないなと思うんだけど、
でもそういう時代だったと思うんですよね。
ただ、それってすっごくある意味では、
ヤングキャラと似てるじゃないですか。
なんか無理やり大人の扱いを受けさせられていて、子供なのに。
明らかにドラは子供っぽいですよね。
だけどすっごく大人の扱いを受けさせられていて、
結局偽りの事故ばっかりになっていて、
むしろお前の偽りの事故で生きていけって言われているような感じになってきますよね。
大人は本当の事を絶対言おうとしないから、
あの世界で不倫しまくっているのにですね。
こういう話が僕はやっぱり精神分析的だなと思うんです。
こういう話ってそこかしこには持ち込めないじゃないですか。
だからこそ、ここに持ち込めば秘密は絶対守られる上に、
何を喋っても絶対この人は聞いてくれるという人間関係が、
そこにずっと続くっていう意識を持てるっていうのが大事なんじゃないかなと。
やっぱりいちいち繰り返し思うわけですね。
人間関係の難しさとカウンセリング
だからどこに行っても、転職しても、
家族を変えたりパートナーを変えたり、
いくらやってもうまくいかなくて、
人間関係難しくて生きづらいなという人には、
やっぱりこの線が一番近道なんじゃないかなと。
これは手に入らない限り、
人が自分に満足するような行動が取れるチェックリストと、
大変高いスキルをいくら集めても、
結局スーパー小学生のユイちゃんみたいな生き方をするしか、
それを大人がやるのは本当に厳しいので、
子供がやっても非常に厳しいんだけれども、
あまりそっちのアプローチはお勧めできないというか、
黙ってても人間関係がうまくいくときにライフックやるということは、
少なくとも意味が全然違いますというお話でした。
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