原因というものを考える
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
2月16日、金曜日、朝8時ちょうどです。
昨日、春一番ってやつが吹きましたね。早い気がするんですけどね、やっぱりね。
必ずしも、例年より1ヶ月早いって感じは僕は受けないんですよね。
僕は別に希少の人間じゃないんで、そんなことはよくわかっておりませんが、
多分半月ぐらい早いかなと。3月上旬に吹いても、そんなにみんな驚かないんですよ。
少し早めだっていう程度で。
でも、この季節だとみんなショックを受けるぐらいの温暖化か、みたいな感じありますよね。
特に私は北海道にいた、生まれが北海道なので、この時期ってマイナス20度とかでも、
ある意味不思議はないんですけど、この時期にプラス10度まで北海道が行ったりすると、確かにびっくりはしますね、多分。
まあ、私もここのところ北海道行くことはないんですけど、
北アキタよく今行ってるんですけど、最近行ってないか、去年よく行ったんだけど、
ちょっと暖かいすぎるなとは思いますね。
で、今日はそれとはあんまり関係ない話なのかどうなのかわかんないですけど、
今日もでも少し短めには切り上げようと思います。
相変わらず喉を少し痛まそうと思ってまして、考えてみると、
ここ1,2年急に喋ることが多すぎるなとは思うんですよ。
急に書くのをなりわいとしてるところから、喋るのをなりわいにしつつあるんではないかと、
まあ、書くのはなりわいにしてますけど。
今日、著者に本が届くってやつで、黒猫さんから宅配ボックスで入ってるはずなんですよね。
ちょっと写真で見たところ、僕の感覚では、暑いな、これは。
ちょっと暑すぎたかなっていうのは、やっちゃったかなっていう。
このぐらいの暑さになるんではないかという感じはあったんだけど、
私はやっぱり、する方の側にいないんで、やっぱり分かってないんですよね、完全には。
あくまでも特に今回、紙のゲラは1回も目にしてないんで、分かってないんですよね。
分かってないんだなっていうのをちょっと痛感しました。
スピードファックスより暑いかって、僕はやっぱり自分だけの本ならば絶対あれよりは薄くするという。
僕は書かせてもらえないと思うんだけど、なんとかタイゼンとなると別ですよ。
あれは全然違うタイプだと思うんだけど。
僕はやっぱり本は、タイゼンにはあんまりするというタイプの人間じゃないと思うんですよ。
そんなに網羅的な知識を持っていないっていうのと、持ちたいという意欲が薄いので、やっぱりこれタイプなんだと思うんですよ。
なんとなければエッセイ風に流れていくように書きたくなるので、
そういうものを300ページも読んでもらうのは読者の負担が大きいと言いますか、
自分の書くものってそうなんですよね。読者の負担というのを必ず考えてるんですよ。
これはね、昔から本読む時に厚さがどの程度許されるのかっていうのはすごい意識していたと思うんですよね。
読者時代。読者時代って今も読者時代なんだけどね。
子供の時から、ほら厚い本だからって最後まで読みなさいみたいなわけわかんないことを言う人も世の中にはいたわけですよ。
頭悪いんじゃないかって正直本当にね、10歳ぐらいの時から思ってたんですよ。
というのはつまり、本というのは面白ければ厚さというのは全く問題にならないというのをその人自身意識しているはずなんですよね。
例えば、風と共に去りぬって分厚いんですよね。ものすごく分厚い。
でもあれ、あの恋物語で常に泣いてる女性が大学時代いたんですけど、常に読んでるわけですよ。常に読んでるわけですよ。
ああいう人にとっては、風と共に去りぬは厚ければ厚いほどいいに決まってるわけですよね。
つまり、厚さっていうのはそういう意味で問題にならないんですよ。
じゃあ同じ人がシェイクスピアのリチャード三世を読むかって言ったら読まないですよ。
10分の1の厚さもない、めっちゃ薄いですよ。シェイクスピアって全部薄いじゃないですか。
で、面白いんですけどね。でもまあ読まないですよ。
だから厚さというものと挫折率というものは、読書においては僕は何の関係もないと思うんですよ。
だからといって広辞苑を隅から隅まで読むのはそういう人いるんだけど、趣味の世界ですからね、完全に。
だから、まあ本は全部そうだけど、趣味の世界なわけですよね。
そういうふうに考えたときに、僕はまず図鑑とか大全のようなものは、そういうのをある意味受けると思われているから出すんですよね。
出版社さんはそういうのを割と私のようにライフハック系の人には欠かせたがるんだけど。
僕はそれはですね、大全が、例えば緑書猿さんでしたっけ、ああいう方が大全書けば売れるんですよ。
それは物知りだってわかってるからなんですよ、我々の方で。
でも私は別に物知りで売ってないじゃないですか。物知らないしね。
大体僕結構物知らないんですよ。
だから大全書いても僕が書いたんで受けないんですよね。
僕が書くべきは多分そういうのではないんだろうなっていうのがあるんで、いつも思うんですよね。
やっぱりそれこそ個性と役割ってやつで、特に役割ですね。
個性もこの場合大いに関わってきてるんで、個性と役割なんだけど、違うんですよ。
著者を一律同じものだと思わない方がいいよなって本当によく思いますね。
この人にそれを期待しても無駄だなっていうのを期待しても、大体読者さんはついてこないよねっていうのはあります。
だから今回私も朝出版さんで超図解で書かせていただいたんだけど、超図解っぽくならないんですよね、私が書くと。
そして10判かかりそうでかからないっていうところに留まってしまうんですよね。
これは私がもっとうまくやればよくて、もっと物知りっぽさも出せばいいとは思うんですけれども、
ある種の人から見れば僕は物知りなんでしょうから。
だからそういう考え方もあるんだけれども、やっぱり決定打に賭けると言いますか、そういうところはあると思うんですね。
今回ちょっと厚かったかもしれないけど、今回は著者がJ松崎さん初めてだから、
Jさんの本として見るとあのぐらい厚い方がむしろいいのかもしれない。
ただそうすると表紙は赤い方が良かったんじゃないかとか色々考えちゃうんですよね。
余計なことなんでしょうけどね、これはね。
でもなんか彼はやっぱりバーニングですからね、あんまりクールな色で押さない方がいいだろうと。
ただ今ビジネスショー、やっぱりこれ流行りしたりってありますからね、今赤は全然流行ってないんですよね。
白か青っていうところある感じなんで、これも本当バーニングの時代が来ればなみたいなのをちょっと思いながら今眺めてたわけですけれども、
まあまあそんな感じで、著者に届きますんで、またこれよろしければね、確認してやってください。
なんで7分言ってるよ。
今日はちょっと、いつも通りの話なんですけど、
私たちはですね、つい最近喋ってて思ったというか、発見ではないんですよ。
前からすごい思ってたことではあるんだけど、
グッドモーニング・ボイスで、まあでもグッドモーニング・ボイスそんなね、
因果関係の変化
ぎょぎょしく考えることはないんで、
要するにありきたりの話なんですが、我々はですね、原因というものを考えだした時は要注意だと思うんですね。
仏教なんですよ、これ。因果律の因から来てるんで、
本当仏教で、仏教のこういうところが、時代がね、違うんですよ、今とやっぱり。
あんなに人が生まれてもすぐ死んでしまうような時代は大事なんですよ、非常にね。
因果関係というものがどういうものかというのは。
しかし今の時代はですね、僕はやっぱり因果関係というのは、
物理法則に限って因果律ってもともとそういうものではないんですよ。
あれは因縁というやつで、なんか今ではこうね、悪い人に、
お金を取ってかれる時に出てくる言葉でしかないような気がするんだけど、
もともとは因縁というのは仏教要望なんですよ。
で、まあそれはいいとして、つまりあの時代には因果律なんてものはよく分かっていないし、
物理法則じゃないところにも超拡大してあるから、超拡大しているかもともとそっちから来てるんでね、
いいことをすればいいことがあるっていうのは因果関係なんですよ、あの時代においては。
でも今これを因果関係だという人はいないですよね、ほとんどね。
これはなんていうのかな、道徳律みたいなもんですよね。
だからこれは今の時代になってしまうと、ニュートンの万有引力の法則みたいな世界でしかないわけですが、
多分僕らの頭の中ではそうはなってないんですね。
因果律というものはやっぱり相変わらず完全懲悪の世界、要するに身の傲慢の世界なわけですよ。
いいことをすればいいことがある、そういう因果律なわけですね。
で、これね、いいことをすればいいことがあるっていう方を無視しなければまだいいと思うんですけど、
私たちの脳みそはですね、生物学的なものなので、
生物なので私たちは、いいことをすればいいことがあるっていうのはほぼ無視するんですよ。
痛い目にあった時だけ因果律考えるっていう癖がついちゃうんですね、すぐね。
多分これは脳の構造だと私は思うんですよね。
学校で習うことではないと僕は思ってるんですよ。
というのはつまり、世界のどこにでもあった上に、超古代からありますからね。
本当に紀元前からありますからね。
聖書にも書いてあったりしますからね。
だから学校で習う以前から、当然人間というものはこう考える傾向があって、
人間がこう考えるというよりは、
動物って多分こうやって生きてるんだろうなっていうふうに思うんですよね。
私はこれをやめないと、なかなか現代社会というものになっているのかね、
せっかく昨日ドイツにGDP抜かれたとか言ってましたけど、
ああいう時なんですよね。
ああいう時に人間っていうのはすぐに原因というものがですね、
何か明らかになっているかのように考え始めて、
あれね、僕、逆だと原因ってものがあんまりみんな真剣に受け止めないんだろうなって思うんですよね。
だってドイツの人は日本抜いてサインになったよ、ふーんっていう感じで、
因果関係の困ったところ
でも全然楽になってないとか、楽になってないって言ってる人がすごくドイツの話のインタビューでは出てきたんですよ。
私は全然生活が楽になった気がしない。
もしGDPの順位がどんなに上位になっても生活が楽になることとは関係ない気がするんですけれども、
多分中国は日本抜いて2位になってからどんどん楽になったぜと思っている人はいるはずなんですけど、
圧倒的に少数だろうなって気がする。比率の問題ですよ。
あそこは人間多いんで、人数として多いかもしれないですけれどもね。
ずっと1位のアメリカ人はそんなにみんな楽かっていう話もあるんですよね。
ちっとも楽そうじゃない人はあそこに行けばいくらでも見かけますけどね。
で、私が言いたいのはそういう話でも例題的な話でもなくて、
人の頭の因果関係のこの困ったところですね。
順位が3位になりましたって言った時に、どういう原因でとかあんまりドイツの方は考えないですね。
楽になってないって話をするんですよ。楽になってないっていうのは因果率ではないですよね。
で、日本人は4位になって話を聞かされるから、
いやもうドイツではインフレが起こってるし、日本ではぶっかだかで、
この話なんか僕は謎だなって相変わらず思うんですけどね。
僕は経済詳しくないんで、ぶっかだかで落ちてぶっかだかで上がったんだ。
ふーんって感じがするんですけど、円安でって話をしますよね。
で、これ因果率なんですよ。原因を探しているわけですよ。
なぜ4位に落ちたのかっていう原因を探すんですよね。
で、ある人が言ってたんですけれども、
でも自分の生活には何にも関係してる気がしませんけどねっていう人がいて、
そうだろうなと思うんですよね。
でも多分みんなにとって、この原因を知りたがる人にしてみると、
自分の生活にどう関係してるかっていうのは多分興味の対象じゃないんですよね。
ある人が言ってたのが、これが正しいだろうなと思ったんですよね。
メダルでも金銀銅までで、4位ってのはダメでしょっていう、
そうだろう、それだろうって感じがするんですよ。
一番気になる部分があるとすればですね。
要するにあれはメダルと同じなんですよね。
ちなみに昔、北京五輪で鈴木大地さんが8個も金取りましたけど、
それで生活良くなりますかっていうと、良くなるわけがないですよね。
関係ないですよね、それはね、生活には。
そういう話じゃないんだろうなって思う。
経済だからたまたま自分の生活側とか楽になったとか、
苦しくなったっていうのを連想するんだろうけど、
あれ多分金メダルか銀メダルか銅メダルかっていう感じであって、
それがくだらないっていう話をしてるわけじゃないですよ、別に。
ただそれと生活って本来関係ないだろうなとは思うんですよ。
僕が言いたいのはさらにそういうことですらなくて、
なぜか私たちは悪いことが起きたときだけ原因を知りたがるっていう話なんですね。
これはなぜかではないんですね。
私たちが動物だから。
それしかたぶん理由はないと僕は思うんですよ。
脳が発達した動物だからですね。
たぶん動物は本能としてネガティブなことは避けたいと。
だけど動物は因果律を理解できるほど脳みそがでかくないんで、
たぶん悪いことが起きる兆しのようなものを感じたら、
意識に昇る前に逃げるみたいなね。
たとえばヒゲに空気が触れたら即飛び立つみたいな。
動物の本能
そういうふうに生きていると思うんですよ。
そこに因果律みたいなものが心のどこかにほのかに生じたとしても、
たぶん即忘れると思うんですね。
人間はこれをご承大事に記憶に保った上で、
イマジネーションを使ってストーリーを作り上げるという能力を宿しているもんだから、
因果律というものがここに登場しちゃう。
そういうことでしかないと思うんですよ。
それが大事だろうっていう人もいらっしゃるんですけど、
僕はもはや大事じゃないと思うんですよね。
これが大事だったのはせいぜい千年ぐらい前。
もうちょっと言っても戦国時代ぐらいまでであって、
これを因果律の代わりに使うということほど、
危うい話はないような気が私はするんですよ。
別にこの話をムーブメントとして広めたいというわけではないんだけど、
売れる原因
なんか因果律が出てきて、世の中が良くなったら楽しくないなとは思うんですね。
戦争が起きたりするじゃないですか。変な因果律を持ち出すと。
だからどうも因果律が持ち出されて世の中が良くなった気が全くしないし、
自分でよくよく考えてみると、いつも変なことをやってるんだと。
仏教というのが因果律というものを言ってみれば発見したのかな。
あれはすごいことなんですよ。なぜなら紀元前だから。
しかもインドだったからっていうのは多分明らかにあると思うんですよ。
結局それは怪しげなものなんだと僕は思うんですね。
推奨なのよりマシかもしれないけれども、ちょっと恋どっこいでしょうねって感じがします。
例えば私の今回出た本が売れなかったとするじゃないですか。
我々はすぐその原因を探りに行くんですよ。
で、仮に売れたとするじゃないですか。
多分僕ら原因に興味をあんまり持たない。
少なくとも真剣に原因を究明しようというモチベーションは湧かないでしょうね。
湧く人もいるんだけど、灰外の人は湧かないと思うんです。
まずそれによって今後どういうふうにより売っていくかという方向に目が向くんだと思うんですよ。
そこは熱心にやると思う。
だけどなぜ今回売れたんだろうっていう究明には差したる興味は持たないと思いますね。
相当後になって怪しげな分析を始めるとは思うんだけど、
多分それは表紙が青かったからとかそういう割としょうもない理由なんですよ。
もしそれが本当に原因があったとしてもですね。
表紙が青かったから、これが一番可能性として高いんじゃないかなという気がするんですけどね。
僕は先送りの本がやるき君という通称を読んでいる、私の本では一番売れた本で、
あの本がなぜ売れたのかというと、表紙が黄色かったからなんですよね。
それ以上の理由は、あの時たまたま他の表紙は茶色か黒だったんですよね。
あともう一つ、非常に東京ランドさんという方ね、表紙デザインが素晴らしかったっていうのはあるんだけど、
でも東京ランドさんは僕の他の本もいっぱい出かけてくださってるんで、
東京ランドさんだったからだけでは説明になってないんですよね。
もう一つあるんですよ。
うちの奥さんがやるき君の顔を模して、本当に素人の絵ですよ。
本当に素人の絵で、色画用紙に絵を描いて、
ちょっとね、なんとか、本屋さん大賞っていうのがあるんですよね。
その本屋さん大賞に応募してみましょうっていうのが、
これは単なる思いつきだったと思うんですよね。
中継出版社さんの方から来たんですよ。
それでやったらということで応募しましょうってなった時に、
たまたま応募するんだけどって言ったら奥さんが急に、
じゃあ絵を描こうっていうことで、全然何にも、
それが何になるの一切なかったんですよ。
ただ絵を描いたんです。
その絵を添えて応募したら、大賞取っちゃったんですよ。
これが絵を応募と添えたからなのかそうでないのかは、
もはや分からないです。
ちなみにうちの当時の3歳ぐらいか2歳ぐらいの子も、
なんかちょっとそこに色とかつけた。
もうこんなもんですよ。
ちなみにうちの奥さんが、美術で濃厚ってのは一切ないですからね。
しかもその絵の元はギョランドさんの絵ですからね。
3歳児の子がそれに塗り絵みたいな感じでつけたんですよ。
そしたら取っちゃったんですよ。
そのまま飛ぶように売れましたね。
しかも人形まで作られましたからね、等身大で。
わけわかんない流れですよね。
こういうもんだとはずっと思ってるんですよ。
売れるとか売れないというのは。
僕から売れない原因探っちゃダメだと思うんですよね。
売れる原因もほぼ探ってはダメだと思うんだけど。
特に売れない原因は探っちゃダメだって思いますね。
まずそれ売れてないという判断のもとに原因探してます。
売れてる売れてないっていうのはすっごい相対的で主観的なものだって。
例えば私たちの本がこれで2回10判出たとするじゃん。
我々は売れたと判断してその原因を探りに行きますからね。
多分これがわかんないですけど、
かつまさんのような素晴らしく売れる方が見ると、
私の本全然今回ダメだって2万部とかで思うと思うんですよ。
そう思っても不思議はないと思うんですよ。
彼女から見ると、
すみません勝手に持ち出してますけど、
でもあの人は売れっ子だからいいと思うんですけど、
彼女から見ると売れなかったものとして原因を究明すると僕は思うんですよ。
だから同じ売れ行きでもそうなっちゃうんですよね。
売れたものとして判断するか、
売れなかったものとして判断するかは違うと思うんですよ。
でもそういうことは起こると。
これはだから客観性はないということなんですよね。
その判断にそもそも客観性がなく、
その原因に至ってはますます客観性は全然ないと。
これも僕らは探る。
ただし我々は結果が良かったときは多分あんまり探る。
モチベーションが不十分。
例えば大学に受かったときどうして受かったんだろうって考える人は相当嫌みたい気がするんですよ。
なんで私が東大に行ってわけのわからないギャッチコピーがあるじゃないですか。
すみません考えた人。
あれはいいギャッチコピーだと思います。
つまりこれから予備校に受かるハイロードしてる人には。
でも生でそれを言う人がいたら感じ悪いですからね。
寺の子供たちと迷信
そんなこと聞いたことがないんですよあんまり。
で、落ちた場合人は必ず原因を究明する気がするんで。
原因は究明はしないんだけど、できないと思うんだけど探り出すと思うんですよ。
お前大学落ちたのはなとかって言われると思うんですよ。
これが例えば親とかにお前大学受かったのはなって言われることはないと思うんですよ。
これからだぞとかって言われるんですよきっとね。
この漢字、そのいい加減な非対称性ね。
僕はこれを由始とする人が多いんだけど、
それは閻魔大王だって昔から思うんですよね。
つまりそれは宗教上の迷信に限りなく近いと思うんです。
つまり閻魔朝と閻魔大王。
最近これを見てきたからこの話してるんだと思うんだけど私は。
鎌倉で縁王寺ってところに、すごい雲景の作った素晴らしい閻魔大王像。
うわー、こんなに迫力あるわみたいな。
でもこれ怒ってるお父さんかなんかにしか見えんわっていう感じで。
あれがね、死後にの大王ですって言ったら他の動物怒るんじゃないかなと思うんですけどね。
なんで人間なんだよって思うと思うんですよね。
人間が怖いのは人間なんですよね。
で、閻魔朝に罪が記載されるって書いてあるんですけども、
なんかこう非常にグッと異物を持ち出したくなるんですけどね。
あの閻魔朝に罪が記載されるって書いてあったのは少なくとも1000年前で、
おそらくは5000年前ぐらいの話ですから。
で、閻魔朝には罪が記載されるんですよ。
善行を持って書いてあるんだけど善行ほぼ無視されてるんですよね。
あれ絶対地獄行くようにできてるんですよ。
なんか極楽行く存在なんかいやしないんですよ。
これが人間の心の非対称性だと僕は思うんですよ。
罪の数を数えたがるんですよ、我々はね。
特に他人とか自分の、まあ同じだな、人間のなんですよね。
まあヨーロッパ人は凄くてね、動物裁判という岩波文庫で手に入りますが、
動物まで裁判にかけちゃうんだけど、
あそこまでやろうっていう風な意識はアジア人にはないですよね。
酷いんですよ、のみとか捕まえてきて、
お前たちのせいで人間が体が痒くなってるから、
被告はとかってやってるんですよ、マジで。
正気とはとても思えないけど、
まあヨーロッパ人は秩序を作り上げることに自信満々だった時代があるんでしょうね。
キリスト教の秩序みたいなもので世界良くなるって、
心の底から思ってた時代があるから、
ああいう風に狐とか、しかも上場借料の余地とかまで検討されてるんですよ。
でも僕はそれが滑稽だと思うんなら、
人がやってることが滑稽じゃないかどうか大いに疑わしいと思うべきなんだけど、
僕らはなかなかそうはできないんですよ。
歯が痛くなると原因を探しに行くんですよ。
最近歯を磨いてないとか、甘いものを食べ過ぎたとかね、やっちゃうんですよね。
腰が痛くなればなったで原因を探すんですよ。
で、最近になっても普通にテレビで言うわけですよ。
コロナの後遺症では頭がぼーっとするとか、
あるいは急に春一番が吹くと自立神経がやられるとか、
めちゃくちゃあるわけですよ。
別に僕は全部が嘘だって言ってるわけじゃないんだけど、
この探りに行く真理は何なのかねっていう話ですね。
これは僕がこの話を少なくともホットキャストでするというのは
Good Vibesの影響は受けてますね。
以前から非常に気に食わない発想だとは思ってたんで、
以前っていうのは10歳ぐらいの時からずっと、
何と言っても寺というのはこの話好きですから、
因果の話ばっかりする、しかもうさぐさーいんですよ。
すごくね、みんなすっごい好きなんですよね。
こういうのがね、大人ってこんなにこれが好きなんだというのが、
私が大人というものを非常に過論じるようになった重要な一つの原因なんですよね。
だってですね、子供ってのはそういうのを非常にこうある種、
うさぐさがあるところはありますからね。
ちょっとでもなんかね、
テーブルにぶつけたりすると、
それは天罰土招呼とかって言われる家に住んでるんですよ。
しかも親が言うんじゃないですか。
そういうのを言うのは周りの人だったりするんです。
非常にイラッとするわけですよ。
バカかって感じがしちゃうわけですね。
9歳とか8歳とかもしかすると5歳とかだと。
よく素直に受け入れる子ってまずいませんよね。
だから私非常に面白い現象だなと思ったんですけど、
寺に住んでる子っていうのはものすごく迷信というものに対して怪奇的になるんですよ。
だいたい。
日常がそういうふうにできていると、
そのまんま受け止められる子で子供って素直には育たないんですよね。
みんながもう頭からそういう話をしてるから、
閻魔大王は仏教以前の神じゃねえかっていうような、
そういう知識持ってますからね、寺の子ってのはね。
非常に素直には入ってこないわけですよね。
長寿で考えてみると、
心のバイアス
これはですね、やっぱり、
因果律というものがなかなか物理法則だけに絞り込めないという、
つまり僕らの頭、そもそも心というかあんまり科学的にはできてない。
合理的にもできていないんですね。
だからセミナーで、例えば一桁でした。
原因は?って考えるんですよ。
ホロがある種の人が、例えばこの席は9人までしか来られません。
9人満席でしたってなると、原因は?とは人は考えないんですよね。
いや良かった良かったって考えるんですよ。
この極めて粗雑で主観的な因果の究明の仕方っていうのは、
僕らの心のバイアスなんですね。
これは、いわゆる、一つは損失回避バイアス。
ヒューリスティックスって言ってしまえば、それでもいいと思うんですけれども、
利用可能性ヒューリスティックスでも説明できるんじゃないかなって思うんですけど、
まあそうは言っても損失回避バイアスですよね。
だから損をしたくないと。
損をしたくないって言うと、なんか損をしたくない素晴らしいぐらいに思うんだけど、
僕はもう全くそうは思わない。
損をしたくないって言うのはバイアスって言われてるぐらいで、
献献ってあって、物の偏った見方であって、
現実を歪めてるって意味で、全然良くはない話なんですよ。
ただそういう風に従るよって言っているだけであって、
せいぜい強欲っていうのの言葉を変えて言ってるに過ぎない感じがするんですよね。
欲求で現実を歪めてみるというのは、我々はしょうがないところはあるんですよね。
お腹空いてれば食べ物が美味しそうに見えるっていうのはバイアスなんで、
そういうのはしょうがないところはあると思うんだけれども、
褒められた話ではないと思うんですよ、別に。
逆観的に見てませんよっていうのをわざわざ言われているようなものなんで。
この種の歪みというのは、生物が生きていく上では、
欲求が強い方が生きていけ、サバイブしやすいという一面があったと思うんですね。
そしてサバイブしやすいというと、我々はつい、
種、つまり他の生物種に対する有利って考えるんですけど、
多分ですね、霊長類はそうじゃないんですよね。
霊長類はむしろ同種内競争の方が問題。
特にオスにおいてはそういう傾向が強いと私は思うんですよ。
だってボスに階級あるじゃないですか。
で、1ボスの方が明らかにいいもん食うんで、しかももともと強いんで、
非常に不公平なわけですよね。
この不公平さに抗っていくってなると、
我欲が業欲である方がベターであるっていうのはわからなくはない。
ただ、現代社会で生きていく上には全然有利じゃないですよね、この我欲が業欲であると。
一言で言うと、食欲と性欲がやたら大勢だって話で、
決してそれが今褒められる世界でもないにも関わらずですね、
この損失関比バイアスだけが一斉に強烈に働くっていうのがですね、
私はいつも気に入らないんですよ、自分自身に対してね。
損失関比バイアス
時間なんていくら失っても全然、
全然時間というものを僕はそれほど大切に扱ってるわけでも、
長寿を心の底から望んでいるってほどでもないにも関わらず、
病気になると不安になり、1分損をしたと考えると、
例えば2分で済むところが3分かかったって話になったときだけ、
あるいは、
そうだな、いらなかった新しい何かの契約を間違ってしてしまって、
それによって1100円余計に使いましたってときだけ、
やたらと損をしたような気がする。
これが損失関比バイアスなんですけど、今言ったような事情なんだと思うんですよね。
1100円がなくなって人生で困るだろうなと思うことはもう今後ないと思うんだけど、
1100円がしなくていい支払いによって発生したときだけ、
めちゃくちゃ惜しくなるわけですよ。
100円玉が10枚ぐらい机の中に眠ってても何とも感じていないっていうか、
ほとんど忘れているくせにそうなんですよ。
これが僕らの人生を無駄に歪めている気がして仕方がないんですね。
このことを本が出るときによく思い出すんですよ。
結局何部売れたときに私は原因を究明したくなって、
何部以上売れるとその気持ちが消えていくんだろうっていうのを考えると、
自分の中にははっきりとしたこの部数の線があり、
その部数の線というものはとてもとても主観的に決めて、
実は出るたびに変わっていくなと思うんですよ。
だって最初に本が出たとき、何部売れれば本がよく売れたというのさえ分からずにいたんですよ。
それに全然非現実的で検討違いな差数を、
当時私は一番最初の本、ライフハックスって本を、
当時は今と違う、今はマイナビ新書さんかな、
違う名前の出版社さんから出てたんですけど、
売れる部数とアンカリング
そのときすごかったですもん、企画書に書いてあった部数が。
もうびっくりしました。
そんなに売れるんだって、そんなに売れるはずないんですけどね。
検討部数みたいな感じとして、3万部から7万部を目指したいとか書いてあるわけですよ。
すごいびっくりしました。
ああ、なるほど、そんなに売れちゃうんだみたいに思ったんですけど、
もう全然そんなことはなかったんで。
つまり、このとき、これをアンカリングって言うんでしょうけどね。
示された数字によって、僕がいくら売れると売れたと出すかっていう数字がそもそも変わるじゃないですか。
でも考えてみれば、あそこに書く数字なんて何でもいいわけですよ。
3万から7万になって、デタラメもいいところだったんで。
だから何でもいいわけですよ、あそこの数字。
極端に言うと300から700とか書いといたって、数字はダメでしょうけど、いいわけですよ。
300って数字を示されたときと、7万っていう数字を示された後で、
自分の売れた部数が何冊になったかっていうのを見ると、全然印象が変わると思うんですよ。
それによって原因というものが知りたくなったり、興味を失ったりするっていうのが、
ごく当たり前のように起こるんですよ。
原因究明と幻覚
私はもう、一つここで得る、僕の中での教訓として、
原因を究明したくなったら、何かネガティブなことが起きたという幻想というか、ほぼ幻覚を見始めていて、
で、やっぱり幻覚って自分に、他の人には言いませんけど、
クラノンさんなんかイリュージョンという言葉ですら、暴かるぐらいになったぐらい気を使われてるんですけど、
自分自身に対しては僕はこれは幻覚っていうふうに最近は言ってるんですね。
幻覚はさすがにやばいだろって感じがするんですよ。
最近ちょっと事件があったために、
名前忘れるとすごいよね。
あんなに1000回ぐらい唱えさせられたような薬、オラチ。
ディスパダールじゃない統合主張症の薬が話題になってますけれども、あれですよ。
あれ、幻覚止めるためというのは語弊がありますけど、
でも幻覚を抑止するっていうのが抗生新薬の大事な要素として、
ドーパミンの過剰分泌を妨げるっていう要素があったと思うんですけどね。
幻覚ってそういうもんだと思うんですよね。
だから私は原因を探しに行ったときは、自分は幻覚を見ているんだって思うようにしてるんですよ。