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2023-01-27 35:26

【732】「こうするしかない!」ということはない

「こうしなければ気が済まない」とすると自由ではなくなる

00:06
キックセラピー第732回だと思います。
おはようございます。
1月26日木曜日の9時50分ですね。
なんといいますか、めちゃくちゃ寒いです。
これを収録している今の段階でも、まだ氷点下かな。
ギリギリ氷点下だと思うんですけど、
10時になって氷点下などというのは関東では非常に珍しいんじゃないですかね。
二宮では私は、昨日今日の寒さ、こっちに引っ越してきて初めてかなという感じがしています。
はい、ということでですね。
ということでっていうか、別にだからなんだっていうこともないんですけども。
これをアップするのは明日だから、
はい、29日で第1回になっちゃうんですよね。
漫画で読み解く精神分析という、なかなか僕にしては大胆なタイトル。
29日日曜日にやります。
15時からですね。
なんて言うんですかね、これは。
オンラインレクチャー形式なんですけど、
漫画で読み解くというのは、フロイトの漫画とか精神分析の漫画とかを紹介するというのでは全くなくてですね。
私、精神分析は読んでいるだけの人間なんですけどが、
いくつかの、いわゆる普通のコミック作品で、精神分析的に読むと面白いというのがあるんですよ。
何作かというか、割と何作もあるんですね。
私だけしかそんな楽しみ方はしそうにないというのは除外しますが、
誰が読んでもこれだったら精神分析的に読むと面白いだろうなっていうのを紹介しつつ、
どういう風にそれを読むかっていう話をしたいと思っています。
最近ようやく、多分戸端先生の影響が大きいと思うんですけど、
対照関係論というジャンルが割と話題になってきていて、
対照関係論だけの話をするというつもりはないんですが、
いわゆるアンナ・フロイトのこの自我心理学的な話からも結構読み解けるかなと。
その漫画を読み解くために精神分析はいらないんですよ、はっきり言って。
普通にただ読めばわかるような漫画ばかりなんだけれども、
精神分析にも読めるといった感じですね。
そういう話を、これ元々去年までは、2022年ではですね、
03:00
精神分析の話をただひたすらします的なセミナーだったんですけど、
オンラインセミナーだったんですけど、
その中でよく漫画を引用していて、
こっちをメインにした方がわかりよくて面白いんじゃないかというお話をいただきましてですね、
それをそのままストレートにそのアドバイスを入れて、
2023年はとりあえずこれをやっていこうと。
ただですね、最近パートナーの大橋哲夫さんと一緒にいろいろやっているうちに、
J.松崎さんとかともやっているうちにですね、
めちゃくちゃ土日が忙しくなってきて、
土日だけじゃなくて非常に忙しくなってですね、
土日がそんなにそんなにいつも空いてるんだろうかっていう感じにもなっているんで、
これ多分毎月毎月は無理かなって最近思っています。
祝日がある月を使ってとびどびにやっていこうかなっていう感じで、
私の一つのその何て言うんですかね、
余生はおかしいよねまだね、50にもなってないんで、
でも一つのライフワーク的な活動なんですよ。
ここから何か新しい、もうちょいさらに自分らしい活動ができていったらいいなと思いつつ、
こういう試みもやっていこうと。
これをやっていくうちに分かってくることもあるだろうと思うんですよね。
最近私が読むセラピーというのを書いているんですけど、
KDPですね。
倉園圭三さんのGood Vibes e-booksから出ていて、
今金文社さんというところにレーベル移っているのかな、出しているんですけど、
それをベースにして岡野純さんが漫画化してくださって、
全然全くストーリーは相変わらず変えられていてですね、
すごいなと思うんですけど、イリュージョンズという漫画になっててですね、
目が赤くなったりする漫画なんだけど、非常に面白くて、
私としては早く続きを読みたいと。
こういうふうに企画が展開していくととてもありがたいですよね。
そんなことを考えてはいないんだけど、
そんなことになったらいいなという気持ちも手伝いつつ、
この第1回の漫画で読み解く精神分析にそのうちイリュージョンズも出てくるかもしれない。
そんな感じですね。
精神分析で扱っているものなんて、ある意味クラズノさんがおっしゃる、
心象でありイリュージョンなんですよ。
手放すというふうにグッドワイルスでクラズノさんはおっしゃるし、
手放せればいいんですけど、手放せませんと。
この手放せない、最近考えているのが、
この話を今日はすればいいのか。
今まで私はイリュージョンの濃い薄いみたいな言い方、
06:01
霧が濃いって言うじゃないですか。
あれ、イリュージョンの濃さみたいな話によくクラズノさんにも持ちかけてみたりしてたんだけれども、
クラズノさんもよくおっしゃる通りイリュージョンに濃いとかはないわけですよ。
なぜならそれはイリュージョンだから霧だったら濃いとかはあるんだけど、
イリュージョンに濃いも薄いもないんですよね。
ないものだって、もともと。
ないものにそこに程度とか質とかを言ってもしょうがないんですよね。
存在しないものの程度っていうのはないわけですからね。
でも、精神分析で扱うボーダーラインという言葉があるように、
もともと私は精神分析を用語として考えるのが妥当だと思うんだけれども、
ボーダーラインというのは今は省令名になっちゃってますけれども、
もともとはどこに線を引くかというとやっぱりですね、
カウンセリングできるかできないかのボーダーラインだったと思うんですね。
そうするとそこに当然重度っていう考え方がある。
つまり重症か軽症かっていう度数の問題が出てきているわけですよね。
もともとワバレイコ先生が書いてましたけど、
あれは自我心理学の人ですけどね、大科ですけど、
精神分析は多分自我心理学科の方ですけど、
ボーダーラインによって息を吹き返したと。
つまりボーダーラインというカテゴリーに、
あるいは重度に属する人たちを見ることができるようになってから、
また実用度が増すように認識されてきた。
つまり市民権を再度得始めたみたいなこともあったと書いてあるので、
重さっていうのを意識せざるを得ないところがどこかにあるわけですよね。
確かに健常っていう言い方をしますけれども、
病状にも重い軽いってどうしても言いますよね。
そうすると、これって何なんだろうと。
確かに幻覚とか妄想とか被害妄想っていうこともありますけれども、
それが非常に厳しいな、この人は妄想のこだわり度は強いなって感じる人もいれば、
割と言われるとすぐああそうだねって言ってパッと振り払える人もいることはいる。
そこにどうしても妄想の濃さみたいなものを考えてしまうんだけど、
これはつまり妄想の濃さというよりは、
妄想に対するこだわりの濃さなんですよね。
つまり手放せない度が問題になっているんだろうなと思うように最近なっているんですよ。
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人によってもあるんだろうけれども、やっぱり状況によってですよね。
状況によってこだわってしまう心理状態が強くなっている時と、そうでもない時とある。
だからこの妄想は妄想じゃないぞと思っている程度によってですね、
妄想そのもののリアリティとか合理性とは、もともとこうやって言うとありますよね。
ないっていうのがよくわかる。
妄想に合理性とかがあるはずがないので、妄想にリアリティがあるっていう方も大変おかしい。
リアルじゃないから妄想なわけですからね。
そして肌で聞いててもそうなんですよ。
人のはわかるんですよ。
これもウッドバイブスのよく言うところだし、精神分析でも最近じゃないんだろうけどね。
よく見かけるんだけど、人のはわかるんですよ。
自分のはわかっててもそれにこだわるんですよね。
手放したくない、つまり手放したくないという意思に近いですけれども、
意識の強さと妄想の濃さみたいなものが相関する。
多分その人の被害妄想の強さみたいなものは、
その人のその妄想が現実だと信じる強さによって左右されるんだろうな。
だから夢を見ているんだけれども、夢が濃いとか夢にあまりにも巻き込まれているというのは、
結局その夢を手放したくないというその人の気持ち次第だろうと。
その気持ちを緩めることができるか否かにかかっているんだろうなというふうに本当に最近は思います。
自分自身について言ってもですね。自分のもそうですよね。
この妄想だけは手放したくない。変ですけどね。そんなふうには思ってないんですよ。
これは妄想じゃないって感じがするんですよ。
ただ、これほどこの話はしてますしね。
倉野さんにも散々聞いているんで、そうはやっぱり思わないですよね。
これは妄想っぽいよなとは思ってるんですよ。
思ってるんだけど、なんかね、手放してはならないような気がしちゃうんですよね。
やっぱり人のはわかるけど、言えないですよ。
それは妄想だとか、手放せば済むと言いにくいんですよ。
そう言われると腹が立つのはよくわかりますよね。自分のことを思えば。
今でもそうですけれども、やっぱりお金がなくなる不安とか、
12:07
どうでもいいようなことで奥さんが心配している時とかに、
ついどうでもよくないと言いたくなってしまう。
つまりその心配自体は妄想なんだけど、
どうでもよくないと言いたくなってしまう私っていうのも、
もう夢に囚われ始めているわけですね。
それどうでもよくないって言わなくていいんですよ。
目が覚めるのを待ちたい。
目が覚めるのを待ちたくないという時に、
私たちは時間が無駄だとか、そんなことをしても無意味だとかって言いたくなるんだけど、
それはもっと合理的なことをしましょうとか、
もっと有意義な話をしましょうと言ってるんではないんですよね。
その代替案とかは持ってないんですよ。
何かの野党じゃないんですけど、別に代替案はないんですよ。
ただそれをやりたくないって言ってるだけなんですよね。
相手のその心配に付き合いたくないと言ってるだけなんですよ。
ということはよく、これもグッドバイブスで言われる通り、
付き合いたくないというからには、付き合うと何か自分が失ったり奪われたり損をしたりするような、
そういう妄想を抱き始めている証拠なんですよね。
その瞬間なんですよ。
これが払いがたいんだなって思うんですよ。
つくづくそう思います。
この払いがたさっていうのは、
つい口にしてしまいたくなるこの衝動によくよく覚えておく必要が
自分のような仕事をする人間には、
最近は特に口頭でのやり取りをするという、
口頭でのやり取りの中でマンツーでもあるし、
少数の方に話をお伝えするということが多くなってるから、
特にそう思うんですが、
これは物を書くときも同じですよね。
物を書くのも結局何かを伝えようとしているわけで、
そのときにこの衝動に負けそうになるんですよね。
なんかこう、振り払えばいいじゃんって言いたくなるこの衝動。
この衝動こそ、私が妄想を、あるいは心象でもイリュージョンでもいいけどに
入りかけている瞬間なんですよね。
その瞬間を大事にしようと、大事にするというか、
よくよく覚えておこうと。
この感情にとらわれるから、奥さんなりは心配が始まっているわけで、
同じことをやる。
同じことをやったら、もうそれはアドバイスにはならないわけだから、
同じことをやらないようにしなきゃいけないんですよね。
こういうときに、倉園さんであれば、
与えるとかギフトモードとか、あるいは信頼するとかっていうキーワードが出てくるわけですよ。
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これはもう本当に全部正しいんで、次から次へと出てくるんだけど、
上払いがたい感じが私はやっぱりするんですよね。
こういうの修行が足りないとかっていうのかもしれないけど、
とにかくこの感じを覚えておくってのが必要だなって思いますね。
これは子供にアドバイスするときなんかは、特にそうですよね。
僕らは子供にはついついやります。
そんなにいくら何でもスマホ見過ぎじゃないとか、これを言うときに、
これを言うのはいいんですよ。
いつも私たちはついこっちの方を問題にしちゃうんですよね。
これを言うべきか言わないべきかっていう話をしちゃうんですけど、
そうではないと思うんですよ。
これを言うことも言わないことも選択できる状態を確保できているかってことの方、
こっちが大事なんですよね。
CAN'T HELP INGっていう英語の試験の筆頭みたいな、
そのままの形で出ることは滅多に最近ないような気がするんだけど、
CAN'T HELP INGですよね。
あれはCAN'T AVOID INGに変えられるっていうね、
何々が避けられない、あのヘルプは避けるって意味なんですね。
アボイドが避けるから。
避けられない感じに陥ったとき、僕らは夢を見始めているんですよ。
言わずにはいられないってやつね。
この言わずにはいられないってときには、
これも倉園さんもよくおっしゃるけれども、自由を失ってるじゃないですか。
言わずにはいられないということは、
言わないという選択を自分は選べなくなりつつあるよっていうシチュエーションですよね。
言うしかない、言う一択になっちゃってる。
これでアドバイスをするっていうのはおかしいんですよね。
例えばうちの子が5時間も6時間もスマホを見ていると、
彼女のが陥ってる状態ってのはつまり、
これは非サンプルですよ。
そういうことがあったって言わなくてね、
まあありそうな話だけど、
友達とのでも何でもいいんだけどずっとスマホを見ていると。
スマホを見る一択になってるわけですよね。
これを見て嫌だと思うから、
もういい加減にしたらという一択になっちゃう。
この一択になっちゃう状態をお互いが持っちゃうというのが、
僕は一番まずいと思うんですよ。
これが一番まずいかな。
これをやると大体いい状態にはならないですよね。
今だったら娘ももう中学生だから、
ほぼ喧嘩に近い状態に、
多分入るんですよ。
それしかなくなるんですよ。
で、同じことを言ってもいいんだけど、
言っても言わなくてもどっちでもいいんだという状態だったら、
言えばいいんですよ。
このいつでも僕らは、
18:00
自由を確保した状態で、
物事に対応しないといかんのだろうなって思うんですよね。
この状態にないと、
物欠くんであったとしてもですね、
これをキャントヘルプINGで、
欠かざるを得ないみたいになっちゃったら、
ダメだと思うんですよね。
やっぱり創作っていうのは自由な活動なんで、
常にそれを書いても書かなくてもいいんだけど、
書くっていうのがいい状態で、
それを書く一択、
これを書く以外の選択の余地は一切ないという状態は、
欠かされてるわけだから、
そういう状態で物を書いているということは、
逆になることもあるわけですね。
今のこの心理状態では何も書けないってなってしまうと、
どこかで猛烈に批判されたとかね、
あんなことを書かれてしまったら、
誰も何も書けなくなるよって言ったら、
アウトなわけですよ。
書けない一択になっちゃってるから。
こういうふうに僕らは、
一択になってる限り自由じゃないわけですよね。
自由じゃないっていうのを多分、
娘なりにあなた自由を失いつつあるよと言いたいわけだから、
それを自由じゃない状態で言ったらダメですよね。
こういうことなんだろうなって思うんです。
その時に、例えばですけども、
信頼ってキーワードであれば、
娘が5時間も6時間も見ないと、
娘の幸せには何ら差し障りはないとか、
あるいはどっちである娘であっても、
自分が愛する娘であることに変わりはないとか、
この種の話はグッドバイオスではずっと出てきているんだけど、
どれを出してもいいんですよね。
そのどれであってもですね、
言っても言わなくてもよくなりますよね。
100%の存在が100%の存在であるということに違いがないならば、
スマホを見ようと見まいと、
どっちでもいいわけじゃないですか。
だからどっちでもいいんであれば、
言っても言わなくてもいいわけですよね。
言っても言わなくてもいいという状態でなら、
言ってもいいんですよ。
言うしかなくなったら、
つまりここでスマホを見続ける娘は、
嫌だってことになっちゃったらダメなんですよ。
それは条件付きってことになるので、
条件付きの愛ってやつですね。
そういう話なんですね、これは。
どれをとっても、どこをとってもいい。
だけれども、なぜかあんまりありがたく感じる。
なぜかこのまま娘が見続けていると、
目が悪くなるんじゃないかとか、
性格が歪むんじゃないかとか、
どこかで吹き込まれたようなことをよぎったらですね、
まずそれは覚えておかないといけないと思うんですよ。
私はこういうとき一択になってしまう。
この一択。
言わざるを得ないと、
言わなければいけないんだという気持ちにさせられたときに、
21:02
これと全く同じことがあらゆる人の心の中で必ず起きる。
でもそういうことが起こるからこそ、
私は仕事を得ることになる。
この種のことに、つまりキャントヘルプの状態に悩むという、
人の心理があるからこそ、何かを求められるわけですよね。
これが誰もないんだったら、
誰も何も求めなくなるはずなんですよ、私なんかには。
これを何とかしてくれという訴えなわけですね。
もし私がクレームをもらうんだとすれば、
これを何とかしてくれと言われているのに、
これを何とかすることができていないという結果に対して、
何かが来るんだろうと思います。
もちろん私としては、少なくともですね、
娘とか奥さんとかはともかく、うちの親とかはともかく、
少なくとも100日チャレンジとか、
今では3ヶ月チャレンジとかの人には、
間違いなくですね、私の気を晴らすため一択ということはありえないんだけど、
でもやっぱり何かですね、もっと赤の他人であれば、
それこそですね、慎重にしないと、
慎重にっていうのかな、結局巧みにやらないと、
これはうまくいかないんだろうなって思います。
だからこそ、奥さんとか娘でとじっててはダメなんですよね。
そういうことっていうのも時々、
時々というか割と頻繁に、
プラズモさんのポッドキャストとかでお話になってますけど、
身内だったらですね、少々の失敗を多めに見てくれるんですよ。
だからこそ尚のこと、いい訓練になるわけですよね。
でもやっぱり繰り返し繰り返し、
同じような心配事を奥さんに持ちかけられるとですね、
ついついこう、いい加減にその心配やめようよって言いたくなるわけですよ。
これを何とかしなきゃいけない。
これこそが、例えば心配するのはもうその辺にしておいたらって言いたくなるとか、
そういうふうになった時というのは、
つまり選択の余地がなくなりつつあるわけですよね。
それを言うしかないみたいな気持ちにさせられている。
っていうのが例えば、あるタスクを前にした時に、
ある種の人が陥るというか、
私に相談するような方が入っていく心理状態なわけですよね。
このタスクを前にしたら誰だって、
例えばこれから準備するプレゼンの準備をどんなふうにしても、
どうせあの上司はまた嫌なダメ出しをしてくるんだろうと、
そう思ってこれから100枚もスライドを作ると思ったら、
誰も全く乗り気になれないよね。
だからこのタスクは結局ギリギリまで手を付けられないんだろうなって、
24:02
一択ですよね。
避けられない心理状態と、先送りの避けられない状況というものが生まれつつある。
こういう話を申し掛けられた時に、
一択ではないってことを僕がお伝えするわけだから、
一択ではないってことを、
私がいつも心理的には確保しておかないといけないわけですよ。
これが平安ってことなんだろうと思うんですね。
ここまでは前置きみたいなものなんだけど、
前置き長いんですけどね、相変わらず。
ここからがちょっと面白いんだけど、
でも一択にさせられてしまう。
二人揃って一択にさせられてしまいましたっていうのが、
時々精神分析の、特に対象関係論という話の中で出てくる、
最近で言うと多分、東英ドイツかってやつなんだと思うんですよね。
ここで、そんな風に精神分析とかカウンセリングやる人は、
みんなこれに気をつけてると思うんだけど、
気をつけても気をつけても、
猛烈に被害妄想を持っている、
完全に被害妄想がリアルだと信じている人を前にすると、
持っていかれてしまう。
あんな風に毎日毎日会って、
精神分析で本当にやってるかは知りませんが、
毎日毎日1時間も喋っていれば、
持っていかれてしまう。
一緒についついもういい加減にしろって言いたくなるというか、
言っちゃう。
豊竹夫さんはその辺すごい正直に書いていらっしゃっていて、
すごいやっぱりいいなと思うんですけどね、私は。
症例レポートの中に、
もうあなたのような話を聞くのはゴリゴリだみたいな、
うんざりだみたいなことを言っちゃっている。
一択になっちゃってるわけですよ。
あれほどの分析家の人であってもね。
でもこれを言う、
言うのを一生懸命我慢して、
一生懸命避けていて、
何とかして自分の自由を確保しようとし続けているにもかかわらず、
長い年月、半年とか1年の間には、
そういう瞬間が飛び出すんですよね。
その時に後で後悔する。
あの時はこういう風に言うこともできたはずなのに言えなかったみたいなことを書いている。
にもかかわらず患者さんが、
もうそんなこと言われたから来るのは二度とごめんだと言って、
来なくならなかった時に、
物事が前へ進むんですよね。
すっごい厳しい夢ですよね。
妄想の中にどっぷり浸った時、
浸っている人とずっと接していると、
一緒になって夢をついに見始めるんだけど、
先に目を覚ますことが隣の人ができると、
その人がそれこそ20年も30年も見続けていたような夢から、
覚めうる瞬間があるみたいな話。
これがやっぱり僕は今ではですね、
精神分析というものの一番の読ませどころだなって思いますね。
私の対話を受けてくださっている方が教えてくれたものなんですけど、
27:06
夫婦でカウンセリングを受けている、
夫婦カウンセリングみたいな精神分析の事例があるんですよ。
何だったっけな、手元にあるんだけど、
ちょっと今見当たらないんですけどね。
それがあるんですよ。
夫婦とも完全にどっぷりなんですよ。
だから受けてるんですけどね。
そういう夫婦がすっかりお互いいろいろなじったり、
妄想したりするっていうのにどっぷり浸っているのを、
少しずつ少しずつ精神分析していくという、
分析じゃないんですけどね。
どう読んでも分析っぽくは僕には見えないんだけど、
でも、だんだん巻き込まれていくのがよくよく分かるんですよ。
録音していたものをそのまま起こしているから、
本当に臨場感があるんですよ。
千和玄関ってまさにこういうもんだなっていうのを、
目の前でずっと読んでいる感じ。
巻き込まれて当然だし、
いい加減にしろって言いたくなるのも当たり前なんだけど、
そういう中でですね、
やっぱりこうだんだん不思議なほどにですね、
お互いが自分がやっている、自分が見ている、
自分が相手をなじって言っている話っていうのは、
ほとんど全部倉園さんのいうところの、
それこそ心象なんですよね。
心象のこう、
なんていうんですかね、
心象の記録みたいなものですよね。
人の心象だから実によく分かります。
外国人だから本当遠くから見えるじゃないですか、
私たちが読めばね。
どう考えてもリアルじゃないなっていう、
リアルな話を全然してないなっていうのが、
よーく分かるんですよね。
でも本人たちには分からない。
だからまあいろんなことになっちゃうわけですよね。
夫婦仲もすごい難しいし、
お互いが不倫し合ってるし、
そのことをお互いに告げていて、
それも相手が両方とも悪いっていう風に、
ほぼ言ってるわけですよ。
もうたぶんあれだって一部話だと思うんですよね。
でも実に読ませるし、
実に面白いわけです。
結局ですね、
なんていうのかな、
そういうものを読んでいけばいくほど、
そうだよな、この感情なんだなっていう、
感情って言うんですかね、
衝動って言うんですかね、
あるんですよね、
悪病をこらえているみたいな感じなんですよね。
眠くて眠くてしょうがない。
なんなら運転中の睡魔をこらえているみたいな、
そんな感じなんですよね。
こみ上げてくる。
楽になれるだろうなって、
楽になったら楽になっちゃって大変なことになるんで、
絶対楽になっちゃダメなんだけども、
つまり何らかの意味でここで絶対楽になってはダメな感じがするんですよね。
先日何かですね、
30:01
踏切なのか交差点なのかで、
倉須野さんが、
なんかこうそういう衝動、
怒りの衝動みたいなものに
とらわれそうになったエピソードを
喋ったり書かれたりしていたんですけれども、
あの時に出てきている変な脳内物質っていうのが、
僕は多分それはノルアドレナリンだと思うんだけれども、
いわゆるアドレナリンってやつなんですよ。
本当にちょっとなんですよ。
ノルアドレナリンと、
例えばドーパミンの違いって、
多分OH機っていう、
OHだから水酸機だと思うんだけど、
水酸機1個ほんの小さな物質ですよ。
それも毒にも薬にもならないような、
OH機が1個くっついてるかくっついてないかの違いぐらいなんですよね。
それで、もともとタンパク質ですしね。
そんなものなんですよ。
そんなものが脳内に、
しかもごく少量ですよ。
ドバッとちょっとあって、脳なんてでかいわけじゃないですか。
脳でかいけどね。
でも本当に小さい物質がドバッとついても、
ほんの少量がワッと動いただけでも、
僕らはその衝動にのめり込みそうになってしまう。
ある意味、
あれはすごい強いと思われている
性衝動みたいなものだって、
そういうものなんですけどね。
ドーパミンとかノルアドレナリンとか、
アセチルコリンとか、
そういった組成式を見ると、
どこが違うんだっていうぐらい、
どこが違うんだけど、
ちょっとした違いのものの物質が
流れ出るか流れ出ないかによって、
僕らの感情っていうのは
大幅に揺れ動くんですよね。
それこそ、
なんかね、
抱き合っているところから
殺し合うところぐらいまでの
触れ幅があるんですよ。
その触れ幅を作り出す物質っていうのが、
ほんの小さな、
ほんのちょっとってことなさそうな
タンパク質が、
どうのここに、
少しまとめて入ってくるか来ないか
ぐらいの違いでしかない。
だから、これも私も
全くそうだなと思うんですけど、
最近はJマスタキさんすらおっしゃいますけどね、
倉野野さんがよくおっしゃってた通り、
気分とか、
気持ちとか、やる気とかいうものは
全く当てにならないっていうのは、
本当にそうだと思うんですよ。
あれが、
ゆらっと揺れるのは、
昔、天秤ばかりってあったじゃないですか。
あれで理科の実験とかしてるときに、
ふんどう、小さなね、
1円玉ぐらいのやつを
反対に載せると、
ガタンとなるじゃないですか。
あれよりもさらに微妙なんですよね。
本当に、わずかなきっかけを
きっかけとして、
うわーって動いちゃう。
そんな感じのものなので、
脳の中で起こっていることって、
まさにそんな感じのことなので、
あんなのを
あてにして、
仕遂げようとしてみたり、
それに任せたって
動いていて、
なんかこう、一貫した行動だの、
うまくいくだのってことは、
たぶん絶対無理だろうとは
33:01
確かに思うんですよ。
これに左右されているようで、
現実に対応できる
はずがないっていうのは、
よく思うんですよね。
私はあれを、
リアルでどういう心理状態、
感情状態になっているときには、
リアルで脳はどういうふうに
動くのかっていうのを、
アメリカの大学で
見せてもらったんですよ。
それこそアメリカなんで、
ものすごく土直球みたいな
実験をするんですよ。
イカツイ男の子をね、
MRIに中に入れて、
例えば
ポルノビデオを見せるみたいなね。
そうするともう、
的面に動くんですよ、脳の中などというのは。
そんなもんなんですよね。
そんなものなんだから、
沈めるのも、
実は本当は簡単なはずなんですよね。
ごくごく簡単なことで、
実際そういう脳の
あんまり
いい感じはされないと思うんですけど、
ある種の脳の下下手術みたいなのとか、
あるいは磁器を直接当ててね、
脳の神経連達物質の
働きとか、
血流の動きをコントロールして、
感情を動かすみたいなのの実験も、
割と盛んに行われているところでは
行われていて、
大体狙った通りにはっきりと
なっちゃうんですよね。
そんなもんなんですよ。
精神分析というところでやっているのは、
それをあくまでも主観で、
主観で、人と人とのやりとりと
やりとりの中で、
多分カウンセリングとかもそうだけど、
そういうことを繰り返しているうちに、
現実でも同じように、
自分が
ある程度以上には望まないことは、
引き起こさないようなこと、
引き起こさないような何かを、
何らかのそういう力を得る。
私で言えば、
あれですよ、
Can't help INGだな、
来たなって思ったら、
これを捉えておいて、
そういう状態に自分を
それ以上近づくと、
崖から落ちるよみたいな、
それ以上生かせない、
っていうのを繰り返している。
ある意味、
たったそれだけなんですよ。
たったそれだけのために、
Good Vibes一冊が必要だったり、
ブログを繰り返し読んだりしていても、
尚、
踏みとどまれないときは、
まれないんですけどね。
でもやっぱりここだなっていう風に、
そんな風に思うんですよ。
35:26

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