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2021-05-05 38:12

【GMV 369】バズるのが正義?

不満の裏にはいつも正しさがあります
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
5月、今日が5日で子供の日なのですが、
5月の8日にオンラインセミナーですね、
グッドバイブス勉強会というものを、
倉園圭三さんと2人でやるので、
結構ご参加いただいてるんですけども、
まだ席、席というのかな、空きありますので、
よろしければ、直前まで受け付けてますので、
よろしければご確認いただければと思います。
で、えっとですね、ぶっちゃけ相談。
これも今、はがきがほぼない状態なんですが、
これは相談とか、そうですね、
よくわからんというようなおはがきでもいいんですけど、
はがきじゃないんですけどね、
公式ページの方から、公式サイトの方から、
相談のフォームに入力いただければ、
匿名で何でも相談いただけます。
で、これは多分この相談内容がなくなると、
YouTubeの番組が途切れるので、
途切れてもいいんですけどね、
いいんですけれども途切れさせたくなければ、
みたいな、それも変化。
何でも結構ですので、
人生相談というのはですね、
いざどこかにお金払っていくとなると、
結構それなりの事情があってこそだと思うんですけど、
そこまでいかないかな、みたいなのとか、
とりあえずここに出しておいてみよう、
みたいなのでもいいと思うので、
よろしければご相談いただければと思います。
こちらなんですけど、
相談というのかな、
相談いただいたことがつい最近あって、
随時あるんですけどね、
YouTubeで上がった時に、
嫌いな人をどうするかみたいな話があったんですよ。
これも割とおなじみで、
倉澤さんがよくですね、
鏡の法則という話をされるんですが、
鏡の法則っていうのは、
自己啓発でも有名になりましたけれども、
私たちの鏡というものは、
世の中にある鏡のようにはなってないんですよね。
写った像をそのまま返しますというようなものでは全然なくて、
非常にいろいろな、
なんていうんですかね、
要するに偏りと傾きと歪みがあるわけです。
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しかし私たちはそうは感じていない。
そのように考えるところまでは、
基本的に教育されるし、
経験上だんだんそういうふうに考えられるようになるんですけど、
つまり自分は物事を客観的にも正確にも見てないし、
見るつもりもないんだなっていうのはわかるんですが、
そうは言っても鏡像というのはですね、
正確な反映のように感じられるんですよ。
だから嫌いな人というのは、
嫌われるに相当する人だと感じるものだと思うし、
ここを補正すると言っても、
それは考えれば補正できても、
なかなか感じ方として、
この人感じ悪いわっていうのは補正できにくいものだと思うんですね。
その問題なのは、
どうしてそういう歪みというのかな、
偏りというのか偏見ですよね。
そういうものが発生するのかというところで、
正しさというやつが出てくるんだけども、
つまりそれは、これも倉園さんがよくお話になり、
倉園さんだけが喋っていることじゃないですが、
正しさがその人を嫌いにするということであれば、
何らかそれが嫌だとか、
この種の振る舞いは感じが悪いとか、
思ったその瞬間に、
自分の正しさというものが発動されているという話を
よく倉園さんがされるわけですよ。
ということはですね、
私たち正しさを持っていると言ってもいいんですが、
正しさその時に出てくるという言い方をしてもいいと思うんですね。
ここに割と要点があるかなと思うんですよ。
出てこないと気づかないとまでは言えなくてもですね、
ということも結構あるんですね。
すごく具体的なケースで言えばですね、
正しさというのは抽象的じゃないですか。
人前で恥ずかしいことをしないみたいな話って抽象的ですよね。
具体的にはどういうケースでどんなことをすると、
自分はその嫌悪感なり正しさなりを発揮し始めるのかというのは、
具体的なところにぶつかってみないとわからないと思うんですね。
それはかつて道徳はともかくとして、
先生とか親とかに、あるいは本ってありますけどね、漫画とかもありますが、
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そこから見て取って学んだことであっても、
具体性には常に自分の生活の中でのという意味ですが欠けているもので、
だからその適用の仕方って実はすごく不可解なものになっているはずだと思うんですね。
話をすれば、話っていうのはつまりここで僕が喋るようなエピソードとして語れば、
いかにもっていう事例はいっぱい作り出せるわけですよ。
編集さんが30分待ち合わせの時間に遅れてきたとかね。
でもこれも具体的にそういうシーンにぶつかってみないと、
その時に起こった様々な現象、編集さんという人が具体的にいるんですけれども、
それは人ですからやっぱり、本当は名前があるわけですよね。
その名前によっても僕の感じ方は変わってくるんですよ、実際には。
だから同じようにいつも正しさが発動されるわけじゃないし、
都度都度発動される正しさというもの、その時に発生する不快感とか不満というものは違っていて、
これが一つのいい契機、きっかけになると裏園さんがよく言うわけですね。
自分はどんな正しさを持っているのかを知るいいきっかけになると。
ということはですね、自分はどんな正しさを持っているかを私たちは知らないと、
裏返しているとそういう話にもなりますよね。
これがですね、ことをややこしくもしているし、
知るだけの価値があるということを、
最近一つ一つですね、
まめにっていうのも変ですが、チェックするようにしているわけです。
やってみると細かいという言い方もできるし、手間がかかるという言い方もできそうなんですけど、
そういうことはあんまり感じなくて、やってみるとですね、
まず一つは楽になりますよね。
具体的な功用としては楽になりますね。
この正しさというものを自分の中で発見するということは切り替わるんですよ、その瞬間に。
不愉快な感じというものが、自分はこういう正義感を持っているんだという転換によってですね、
これについては多くの場合ですね、そういうのを持ってそうだな、自分という人間はということにもなるし、
しょうがないよなと思うことにもなるんですね、こういう正しさを持っちゃっていることは。
正しさを持ってはいけないのかって話もあると思うんですけど、これはもう人それぞれだと思います。
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私は持っちゃいけないとは思っていないんですけど、というかやむを得ないと思っているんですね。
ニュアンスとしてはこの辺ですね。
あまり持ちたくないというのが本音なんですよ。
どんな正しさであっても。
ただ、しょうがないというのもあります。
人間が生きている以上、正しさみたいなものは持ってしまうよということはあります。
持ってしまって、自分がその不快感を感じると。
意外に頻繁に感じているものなのというのもあります。
細かいところまで見ていくとですね。
意外に頻繁に感じている。
で、ある種のものには一切感じないんだというのもあります。
例えばその自然物がそうですね、やっぱり。
あんまり自然を見てですね、腹が立つとか正してやりたいというのは思わない。
これは非常に興味深い現象だなとは思います。
当然といえば当然でもありますけど。
で、正しさを発見するというのかな。
自分の中に持っている正しさを発見してみると。
やっぱりこう、曰く言い難い価値というものが僕の場合にはですね。
湧き上がってきます。
えーと、なんかこんなものを持っているんだというふうにも思うし。
確かにこういうのを持ってそうだというのもあるし。
えーと、これを人に言っても無意味だというのは、
はなはだ大きくありますし。
その、いろいろありますよね。
だから不快感というものは、確かに正しさというものの発見につながって、
しかもその持っているということ、その時まで気づかないでいるということも少なくはないですね。
で、もちろん昔からあるというのもあるんだけれども、
えー、確かに今の今まであんまり強くは、というかほとんど全く認識していなかったという正しさもあります。
で、起こってみるとですね、間違っているかもしれないんですが、
それについてよくよく考えてみると、
大体、えーと、なんていうのかな、祖先がある。
あのー、小学校時代に遡ってこういうようなことがあったとか、
必ずと言っていいくらい祖先があって、
祖先まで思い出すともう腹は立たないし、
祖先まで思い出すと、
あのー、自分がこれをご承大事に持つ、言われば全然ない、
全くどうでもいいっていうケースの方が多い気がします。
で、最近で言うとですね、
あと、いろいろあるんですけど、
最近で言うと、バズるのは正しいっていう正しさがありました。
12:00
バズるというのは、説明するまではないと思うんですけども、
例えばこのPodcast、Good Morning Vibesで言えばですね、
突然あるんですよ。
突然こう、普通の再生数が3、400だとしても、
唐突に1500とかいく時があるんですね。
すぐまた元気戻る。この辺がブログとよく似てるんですけど、
あるんですよ。毎日のようにやってれば。
で、この時にバズるのは正しいっていう感じを抱いている。
まあでもこれはですね、バズった時に嬉しいっていう発見の仕方よりは、
やっぱりグッと落ち込んだ時に、
バズるのは正しいって感じを持ってるんだなっていうのがわかるんです。
例えば、通常200はまあまあちょっと回ってればいくんだけど、
なぜか100にも満たないってケースがあるんですね。
たぶんタイトルとか、この番組に期待されているものと、
たぶんパッと見が違うタイトルだったりするっていうのがほとんどだと思うんですけど、
75とかそういう日があるんですよ。
連休中とかも結構低潮だったりしますね。
で、それを見ると、何か来るんですね。
不愉快だまではいかないんだけど、来るんですよ。
ネガティブなものがこう、えっと…
どう言えばいいんですかね。
僕の感じでは、
目の奥あたりを流れていくような感じ。
冷たい虫みたいなのがスッとそこを通っていくような。
それほど自分はこれを気持ち悪いとは思わないんですよ。
でも何かいい感じでないものは確かなんです。
この時に反対側に書いてある言葉があって、
バズるのは正義ってことなんですよ。
で、私はバズるのが正義だと思ってはいないつもりなんだけど、
バズるのが正義だとは思わないんだけど、
バズったら楽になるよなってのは思う。
バズりつつけりゃ楽になるよなってのはあるんですよね。
で、この楽になりたいっていうのが結構また怖くて、
フロイトのですね、タナトスって言ったかな。
死衝動って言うんですけどね。
破壊衝動っていうのとも近いのかもしれないんですけど、
死衝動って言うんですよ。
で、これは私楽になりたい真理だって時々思うことがあって、
あのそうですね、最近ちょっと因散な事件が起きましたね。
あのすごい、分かんないですけどね。
とにかく終年で女子大生かな、とにかく女の人を殺しちゃった
ストーカーみたいな事件なんですけど、
まあそういう事件って時々世界各国で見れば、
まあアメリカが多いですけど、耳にしますよね。
あれって非常に私はフロイトが言った死衝動ってものに近いんじゃないかなって思うんですよね。
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動物はなぜ自殺しないのに人は自殺するんだみたいなところから
このこと考えられたみたいなんですけれども、
結局楽になりたいっていうのはあるよなって思うんですよ。
自分が好きで好きでしょうがないってのは辛いんですよね。
それが全く相思相愛で上手くいくって言うならいいんですけど、
まあまあそういかないケースの方が普通に多いぐらいですよね。
そうすると辛いわけですよね、好きだという事実が。
言ってみれば、生物なんで生きるのは大好きなんですけど、
生きるのが好きなために生きるのが辛くなるってことはやっぱりいっぱいあると思うんですよ。
生きてなければお腹が空いて辛いとか、お金がなくて辛いとか、
そういうことはないわけだから、生きるのが好きだからいけないんですよ。
考えようによってはですね。
だからそういう考え方ってあって楽になれる。
結局楽になれるというのはですね、非常にアンビバレントだなっていつも感じるわけですね。
今の話がそうじゃないですか。好きだから辛い。
だからこいつが憎いっていうのってすごくアンビバレントですよね。
好きの反対は無関心みたいな話なんですけれども、
要はどっちでも良ければどうでも良くなるっていう話ですよ。
どっちでも良くなりたいみたいなところがあって、
お互い信じればどっちでも良くなるだろうっていうのって非常に混沌としてますよね、考え方として。
裏の裏みたいなのを非常に深刻にしたような話になっていて、
やっぱりバズりたいみたいなのも似てるなって思うんですよ。
お金がたくさん欲しいのととてもよく似てると思うんですね。
それってある意味、生きる努力をしたくないっていう意味じゃないですか。
生きる努力をせずにとても生きたいみたいな、そういう感じがするんですよね。
だから好きな女の人の件もそうですよね。
これ以上どうにもできないから、いない方がマシだっていうね。
つまりそれは好きで好きでしょうがないんだけど、これ以上努力はできませんというのと似ていて、
だから楽になりたいわけですよね。
でも努力を自分がもう歯止めが効かないぐらい自分の中から自分に努力を強いるものがあるっていう。
ブログでも増やす努力をすればいいんですけれども、増やしたくて増やしたくて仕方がないんだけど増えなくてつらいと。
だからバズりたいっていう感じがあると思うんですよね。
そのバズりたいというのって楽になれるっていう感じがするんですよ。
楽になるのが正義だっていう、そういう感じが僕の中にきっとあって、
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だから数字が伸びないとだんだん辛くなってきて、辛くなるからバズりたいんですよ。
これはではバズることが正しいことだって本当に思ってるかというと、そうとはとても言えないわけですよね。
コツコツやって増えるんだったら一番いいぐらいに思ってるんだけど、
そのコツコツが本当にコツコツやってて増えるのかよっていうような内心の葛藤が発生するから辛くなるんですね。
だからそのうちにバズってる人見るといいなと思わないんだけど思うみたいな、そういう感じかなと思います。
これって今言った通り、非常に裏と表というのかな、交錯してるところがあるので、
バズるのが正義って思った瞬間に、いやいやバズるの別に正義じゃないっていう風にも思っちゃうわけですよね。
こういう正しさを発見するんですよ。
だから非常に微妙なんですよね。少ないということが、
少ないのが嫌っていうのではないんだけど、少ないのを見て愉快にはならないというような感じを抱いて、
そこの裏にはやっぱり楽になりたい、楽なのが正しいっていう感じを持ってる。
バズるっていうのは僕の中では軽量パソコンと似てるんですよ。
UMPCとかいうのかな、ああいうのを見ると心が踊っちゃうんですよね。
買わないんですけど最近は。560gとかを見ると心が踊っちゃうわけですよ。
なぜ買わないかというと、そんなものを持ち歩く機会はほとんど今ないから買う意味はないんだけど、
それでもああいう記事を見ると何かふと来るものがあるんですね。
多分それは1.5kgとかを頻繁に持ち歩いていて、すっかり嫌になっていたという時の感覚があって、
それより1000も軽いパソコンを持つと楽だっていう、
持つ必要がない今は、持ったから楽になるはずないんですけど、
それでも楽になるっていう感じをやっぱり抱くんですよね。
あの、昔ね、今思い出したんですけど、
まだうちの子がハイハイを始めたばっかりの時に、
ハイハイここまでよっていう柵があるんですよね。
部屋の仕切りに、特に階段のところにつけるんですよ。
落ちていっちゃったら大変なんで。
そこにつけると当然のことながら、そこをまたぐ大人はめんどくさいんですよね。
あれワンタッチ式のもあるんだけど、ワンタッチ式って子ども賢かったりすると、
タッチしやがるんで、ちょっとあれだと。
うちの奥さんはそういうの気にするんで。
しかもワンタッチ式だってめんどくさいんですよ。
だってないきゃ一番いいわけじゃないですか。
あれを取った時はものすごいですね。
不思議なんですけど、
あれを取り外した瞬間、何度も何度もそこを通るんですよ。
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やってみるとそういう感じってわかると思うんですけど、
意味全くないじゃないですか、別に。
そこを楽に通れるということに、何にもないんだけど、
やっぱり人間の体って面白くて、
ここを通る時には嫌なことがあるっていうのを記憶しちゃうんですよね。
だからその記憶があるにも関わらず、実際にはしきりがないっていうのを発見して、
こうどりしたくなる。本当にこうどりしたくなるんで。
これだなって思うんですよね。
軽量パソコンの楽とか、バズる楽とか、大金が入る楽っていうのは。
つまりそういうものに苦労している時の記憶がですね、
この記憶がネガティブに働いて、
これがなければいいのにっていう正義感が働く。
はっきり言ってですね、この番組が5000になろうと、
5000になったら素晴らしいですけど、
1000になろうと1万になろうと、
僕がそんなに何が楽になるのかっていうと、
大変疑わしいものありますよね。
Podcastを今直ちにモネタリズムするっていうのは、
数字がよっぽど天文学的じゃないと難しいと思うんで、
難しいと思うんですよ。
しかも200の方がこれ聴いてるって不思議なくらいすごいことだと思うんですよね。
結局このバズるっていうのは、少しも別に正しいことではないと思うんですが、
ただやっぱ楽になりたいっていうのは、
ある意味、人間の脳に組み込まれている何かで、
体を楽させてあげようねみたいなのがあって、
それに直結するようなものだ。
何でもそれを持つのは正義。
お金が一番そういう意味では大きいんですけれども、
はっきりしてるものなんですがね。
そういう正義感、正義感おかしいよね。
でも正しいっていう感じを抱かせてしまうものなんだなと。
今回のケースで、今回いろいろやってるんですけど、
本当に車を運転していて、歩行者がこういうのを見るとイラッとするみたいな。
その時には背景に、歩行者は車が近づいてきたらこういうふうに動くべきだっていう、
私の中の正しさがあって、それをうんと遡ってみると、
あさかに引っ越し縦の頃、私4つの頃ですね、
車の通りが青森だったんで、それまで住んでたところが半端なく違うんで、
すごいやっぱり気をつけろ気をつけろって言われた、
その時の名残なんですね、あの正しさは。
そういうのが出るんだなっていう、出るっていうかあるんだなっていう発見があって、
一個一個発見していくと、本当にいっぱいあります。
余談になっちゃうんですけど、精神分析に常自我っていう概念がありますよね。
あるんですよ。それこそこうするのが正しい。
父親っていう概念に近い、父親のイメージみたいな概念ですよね。
一応父親だけじゃないんですけどね。
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で、もう一つフロイドが理想自我。
フロイドだったかな。自我理想だ。失礼。
自我理想っていうのがやっぱり精神分析の用語にあって、
で、自我理想と常自我ってほとんど同じだろうと思うし、
すごく物の本によっても定義が曖昧なんですけれども、
一つに例えば電車の中でお年寄りが席を譲ろうとした時に、
譲れないっていう気持ちと、その時に罪悪感が強く出るっていう時は、
すごく常自我的な働きによるって精神分析で考える。
一方で危機として譲る人もいますよね。
そしてすごく譲れる自分が誇らしいみたいなのにスッと入れる。
これが自我理想っていうものであって、
そういう違いがあるっていう考え方があるんですよ。
これも裏側に正しさがあって、
しかもどんなふうに正しさが働くかの微妙な違いってものを、
なんて言うんですかね、捉えてる概念かなって思うんですよね。
どっちも同じような正しさで、どっちも同じように働いてるんだけど、
なんかちょっと違いますよね。
なんか肩やなんか後ろ目立たさっていうものを刺激されてる感じがある。
反対側はすごく純粋と言えば純粋。
ただちょっとある種の視点を取ると、
ちょっとナルシスティックかなみたいな、
ナルシシスティックな感じがあるっていうような、
その辺をお好みさんが自己愛って表現してるんで、
全くそういうところはあると思うんですけれども、
私そういうのはダメなんですよ。
譲れずに罪悪感を抱くタイプなんです。
非常に長時間に押される傾向が強い。
そういう時に不満感が出るじゃないですか。
自分にも出るし、そういうものを持たされているという事実にも出るんで、
そこでもやっぱりある種の正しさが働くんですよね。
非常に長時間的に私の中では働く傾向があります。
こういうのも全部そうなんだけれども、
結局これらが僕を分裂させるんですよ。
今のはもう分裂そのものでしたけど、
正しさがどうしても自分を分裂させていくんで、
日々暮らしているとですね、夢の中でもあるんだけど、
だから寝てても逃れられない面があって、分裂させてしまうんですね。
これが分裂の契機なんだろうなって思いますね。
正しさが発動すると、やっぱり分裂するわけですよね。
だいたい不満を持つというのは既に自分の中で葛藤が起きているわけですから、
歩行者でもそうですし、バズるのもそうですよね。
バズらせることはできていないわけじゃないですか。
今後できるかもしれないとかは理由にならないんですよ。
その見た瞬間に不満を抱いたといったその瞬間に分裂が発生したわけで、
27:02
こういうふうになるという以上、それは仕方ないんだけど、
なんで楽になるかというと、正しさを発見するんですね。
この分裂はいらない。
正しさがある云々はしょうがないとしても、
正しさを発見した途端にですね、自分の中ではこういう正しさがあったから、
こういう不満を抱いたというふうに言ってみればその瞬間に一周させるんですよね。
その正しさというのは過去に得たものかもしれないけど、
目の前でそれを発動させたのは、要するに現在なので、今ここなので、
現実に起きたことなんですが、その現実に起きたことが自分を二つに割ってしまう。
非常に大げさに言えばですよね。
二つに割ってしまう。
バズらせられない自分というものを責めたくなる自分というものに分けてしまう。
これをですね、許容することができると、実は分かれてなんかいないんですよ、当然ですけどね。
二個に割れたわけじゃない。
分かれたように感じたのが、これがイリュージョンというものなんで、
これに気づくとですね、楽になる。
この時に余計な社会的な議論を持ち込まないことなんですね。
編集さんに30分遅らせられたとか、あるいはその日すっぽかされた、
いいダクダクと飲むと人良しになって悪がのさまるんじゃないかって、
あの議論を投入しなければですね、別に何にも起きてないわけですよ。
自分は二個に分裂しそうになったと。
このしそうになったのを被害者的に捉えるのをやめれば、
多分自分はすぐに元に戻る。
元に戻るのが多分最高なんですよね。
結局この割れそうになって戻せるっていうこの感じを得られるっていうのは、
30分やそこらを失うということの非じゃない価値がある。
こう言われても納得されないとは思うんですけども、
もしこの分裂が永遠に続いたらそれは統合失調に限りなく近くて、
非常に辛いんですよ、これは。
病としてはですね。
葛藤が自分の中に亀裂として残るというのは、
まあそんな亀裂はないんですけれども、
イリュージョンとしてはっきり残っちゃうということほど、
ある意味恐ろしいことはなくて、
30分失ったとかの非じゃないほどのものをやっぱり失うんですよね。
このイリュージョンを取り残してしまうというのは。
正義がいけないとか正しさがいけないということではないんだけれども、
発動しているのに気づかずに発動させ続けると、
それこそ分裂が野放しになるんですよ。
悪人が野放しになることと分裂を野放しにすることのどっちを取るべきかっていったら、
悪人野放しにした方が本人にとってはいいと思います。
30:00
悪人いないんですけどね。
この話は大体はしょうもないんですよ。
悪というには程遠いそこら辺道を歩いている人が、
車に十分注意を払わないで歩いている。
野放しにしようとどうしようと同じことですよね。
薄くイラッとしてみたところで、その人の行動が変わるわけではないし、
その人はそこら中にいるしですね。
正すとかいう対象ではないんですよね。
ところが自分の中の分裂は放っておくと野放しになっちゃう。
これは何ら生活に致命的な結果を及ぼすレベルではないですけれども、
やっぱり夫婦喧嘩とか家庭内のいざこざっていうのは、
全部このレベルから基本発生するなっていうふうに思います。
たまに中、深刻なのも起こりますけれども、
ほとんどそんなことはやっぱりないんですよね。
昨日もちょっとした娘を交えて、
3人で少しヒートアップした出来事があったんですけど、
何のことはないんですよ。
畑にですね、今ガーデニング的な季節なんで、
畑に植え付けた苗がまっすぐじゃないとかまっすぐだとかいう議論の元はそんなもんなんですよ。
まっすぐじゃないとかまっすぐだっていうのは、
まっすぐにするのが正しいっていう正しさが誰かの頭で発動しちゃうんですよね。
それは学校で教えますよね、定規とか使うから。
これは娘がそれを発動させたって話ともまた違うんだけれども、
出どころがそういうところにあって結構それがですね、
いざこざになるんですよ。畑の仕事って疲れますからね。
疲れてる時にそういうのが起こるとそういうふうになりがちですよね。
これもそうなんですけれども、結局分裂しちゃうんですよ。
もともと自分がどう思っていたかとか全くどうでもよくなって、
まっすぐにするしないっていうのがこの世の全てみたいにだんだんなっていくっていう、
あれは非常に変だなと思うんだけど、やっぱりこの話も散々してますけれども、
扁桃体なんですよね。扁桃体がそこまでの暴走心を掻き立てると。
で、掻き立てられてしまったからこの怒りをどうしてくれるんだっていう話をし始めるんですよね。
どうもする必要は本当は全くないはずなんです。
なぜならばやっぱり自分の中に発生した亀裂っていうものが戻りさえすれば本当はいいわけですからね。
戻したくないっていうことになっちゃってるんですよね。
これも散々してますけれども、その亀裂を亀裂のままにしておきたい。
復讐が果たされるまではこの亀裂によるエネルギーを取っておきたい。
この亀裂ほど自分を不幸せにするものはないので、しかも不健康にしますので。
だからこの亀裂を作り出したのが他人であると考えるほど虚しいものはない。
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この亀裂を作り出したのは間違いなく自分の正しさなので、
真っ直ぐにするのが正しいとか、真っ直ぐにしろと言われる筋合いはないというのが正しいとか、
そういう正しさが自分の中に亀裂を、自分で自分の肉を切っておいて、
このきっかけを作った相手にやり返すまでは血が流れるままにしておきたいっていう人は本当はいないと思うんですよ。
病気になってしまえばその心情が全てになってしまうんですけれども、
そんなことはあり得ないはずなんですよね。
だからこの正しさをいちいち見つけていくというのは、
最終的には、これは僕のまだ予感なんですけど、
最終的にこうやって正しさコレクションみたいなものが自分の中に出そろってくるじゃないですか。
最終的にはやっぱり一つの像をなしてくるというか、
一つの布地を見せてくれるというか、そんな予感があって、
この布地は間違いなく内的対象っていうものだなって思います。
これも番組では散々口にしてますし、今日は説明入れませんけど、
この布地はきっとやっぱり内的対象っていうものだというイメージは何となく湧いてきました。
それは本当ですね、ある意味不思議なものの見方だなとも思うんですよね。
この内的対象という布地みたいなものを通して、
世の中を、私はですけどね、胸像を見ているわけですよ。
本質からずれた胸像をいちいち見ては、イラッとしてみたり喜んでみたりしてるわけですよ。
非常に変なもんですよね、これは。
変なもんだなっていうふうに思います。
こういうふうに見る必然性はどこにもなくて、
こういうふうに見てるのは結局世の中で私だけですからね。
似たような見方をするケースはあるにしても、この通りに見る人は他に誰もいないんで、
そういう意味ではですね、若い頃にすごくこのことでは悩んだんですけど、
今は悩みませんが、人って孤独だなとも思います。
この外に出ようねっていうのが訴え物ですけれども、
とにかくこれの中にいる時間は長いし、
それってある意味では映像に囲まれてたった一人で生きてるようなところがあるわけです。
でもあらゆる人にあるはずなんですよ。
好き嫌いがある以上すでにそうなんですよね。
だから虫が嫌いな世界に住む人と、
虫が大好きな世界に住む人は違う世界に住んでるわけじゃないですか。
同じ虫を見ていても。
私は虫って全然嫌いじゃないので、
庭に出て虫見るのっていうのは全くにならないんですけど、
違う世界ですよね、それは。
36:01
虫が好きな人と嫌いな人。
この好き嫌いっていうのは意味付けなんで、
そして意味付けっていうのはやっぱり内的対称なんで、
内的対称を通じてるわけですよね、ここに。
何らかの形で。
これもとってもずっと考えてるんですけど、
私はなんで虫が好きなんだろう。
子供の時は相当好きでした。
母は大嫌いだった。
だから私は母に沿って、
嫌いになっていていいはずなんだけど、
また偉い好きになってる。
昔はやたら昆虫飼ってるくちでした。
これは一体何なんだろうって思いますけど、
この辺のこととも、
さっきのそのいちいち発見する正しさっていうのが
関係しているわけですね。
関係しているんですよ、きっと。
そういうような感じってのを
最近ちょっと抱くようになってきた気がします。
なんか子供の日なんて
こういう話をしてみたみたいなところもあります。
昔、子供の日って言われると
やっぱり子供だった時代のことを
やたら思い出すんだなと思いますね、自分は。
そういうことと、
最近すごく思うのは
意味付けっていうのは
やっぱり子供が学んだことなんですよね。
何が好きで何が嫌いっていうのを
そう言われてみれば
随分うちの子にも効いちゃうんでね。
これ好きなのとか嫌いなのって
そういう情報は親にとって大変有益なんで
これ出せば喜ぶとか、これを出せば食べるとか
何しろ食べる食べないっていうのは
問題を引き起こすんでね、あるんですよ。
だからそういう意味で
好きか嫌いかっていうのはすごい問われてる。
問われてるうちに子供はそれをはっきりさせようとしていく。
その中できっと
いっぱい持つんでしょうね、意味付けの。
意味付けと正しさっていうものを。
そしてそれを通じて
世の中を分けてみるようになっていくので
それに沿って自分も分かれてしまうという
副作用が起きるんだろうなと
そんなような感じがします。
38:12

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