2021-05-06 38:00

【GMV370】虚しくならない考え方

心の中の大切な人がリアルにいるわけではない
00:03
おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
連日同じ告知に終始しておりますが、グッドバイブス勉強会がですね、あさって土曜日開催されます。
ので、時間がテーマですね。まだ私は時間のどの部分に行くか、タスクシュートなのかどうなのかみたいなことを含めて悩んでおりますが、
悩んでいるってのはおかしいな、悩んではいないんだけれども、まだ決めかねておりますが、その時には決まっていると思いますので、
私も喋りますから、倉園圭三さんと一緒にやるセミナーですけれども、よろしければぜひご参加ください。
あと、もう一つは、ぶっちゃけ相談ですね。グッドバイブスのぶっちゃけ相談。
YouTubeの番組ですけれども、ご質問等をいただければお答えします。
グッドモーニングバイブスに関することでも関するというか、これ並みの話でも別に構いません。
これあんまり体系立てて喋ってないので、多分質問とかも分かりにくいと思うんですよね。
どんなことがどんな風に語られているのかがカチッとしてないじゃないですか。書くとなればもう少しカチッとさせるんだけれども、
これはっきり言って、私がグッドバイブスを日々やっていく中で発見したことをランダムに喋りまくるというだけの番組なので、
分かりにくいとは思うんですが、分かりにくいということも含めて、何かいただければお答えできるかなと思います。
もう今日で70回目ですからね。何か喋れるでしょう。
ということで、よろしければこちらも公式サイトの方からフォームがありますので、ご質問いただければ幸いです。
また思いつくままに喋るんですけど、今日はグッドバイブスとの接触面も少なめのやつかなと思いますが、
Twitterでフォロワーさんの方が日々虚しいみたいなことを書かれていたのを相次いで発見した。
この相次いで発見というのが不思議なことに時々起こるんですよ。
僕の頭の中で勝手に相次かせているだけで、現実に相次いでいるわけじゃないと思うんだけど、
いわゆるカラーバス効果が発生し、それはつまり僕が虚しいということに今アンテナが向いているのかもしれませんが、
あんまり自覚ないんですよ。
虚しいという日々毎日が、ゴールデンウィークとかが関係あるんですかね。
そういうのを何フォロワーさんかが詰めたので、虚しいってなんだろうとちょっと考えたんですね。
そこからですね、そういえば女の子なら誰でもいいっていう、
03:05
わりとあるあるな、モテない人発言みたいなのも男性ですけどね、出てくるなと。
あの時すごい虚しさっていうものにそういえば、私の話なんですけど、やられてたなっていうのを思い出したんですよね、虚しいというキーワードから。
多分ツイッターでつぶやかれてる虚しさと、私が学生時代から学生卒業した直後ぐらいの虚しさと同じだとは思わないんですけれども、
とにかく虚しかったと。
で、虚しいという言葉から出てきて、なんとなくこれかなと思うところに行き渡ったので、その話をします。
答えから言っちゃうというか、僕の出した結論から言いますと、虚しさというのは内的対象から認められないことだと思います。
内的対象っていうのは、毎度毎度っていうことじゃないけど出してきてますけど、お母さんです。
お母さんという言葉から出てくる全ての自分の中にあるイメージです。
このお母さんとは絶対にお母さんかって言われるとそうじゃないです、はっきり言って。
リアルなお母さんとももしかするとほぼ無関係だったりしますが、多分多くの方はそう言っても関係はあります。
このお母さんというイメージから側方向かれた状態が虚しいだと、私は考えたんです。
いやいや、会社で上司にすごく理不尽な扱いを受けて虚しいんだっていうお話もあると思うんですけど、
それも含めてお母さんだと、私が考えたんですね。
この辺から話すといいのかな。
お好み敬語さんの本を最近立て続けに読んでるんですけど、
中石沢先生の本も読もうと思ってるうちに、なぜかやっぱりこっちに行っちゃうというのが現状なんですけど、
これも読書の不思議ですよね。
本来的なルートからいくと、私ずっとバリントの話してたんですよ、
マイケル・バリントという人の一次愛ということを言ってた人のですね。
その研究をすごく深めた精神分析家って中井先生、多分ですよ。
名前僕間違いますからね。
先生だったと思うんですよね。
先日その方の名前が不意にこう、個人セッションの人の口からふっと出てきて、
あっと思って、また読もうと思ったんだけど、気がついたらお好み敬語さんの読んでるという。
なんかね、読書ってこういうことが起こるなって思うんですけれども。
そのお好みさんの本で立て続けに読んでるんですけど、
全部読み直しに近いんですよ。
どれとどれ確実に読んだかはもう分かんないんですけど、
私、河合駿先生とか野井武夫さんとか、お好み先生とか、
なんかこう片っ端から読んでいて、
著者の名前も知らずに読んでいた時代、ちゃんと読めてなかったんですよ。
06:01
お好みって難しいじゃないですか。
なんかこのよく分かんない人のフロイトのところにはいつもついてる名前だと思って読んでた時代があったんですけど、
だから、いつどこでどう読んだか思い出せないんですけど、
今ようやく体系的に読み直せてるかなって感じなんですが、
これはでも昔読んだ時もすごく感銘を受けた記憶が蘇ってきたんですけど、
悲しむということっていう本があるんですね。
で、実はこの先生が書いてることはいつもどれも同じようなところに行き着くし、
これは河合駿さんでも野井武夫さんでも同じで、
結局同じようなエピソードが同じように出てくるんですよね。
それをなんかこういろんなアプローチから書いてるという、
自分も本を書くようになってなぜそうなるのかがよく分かるようになりましたけど、
まあそういう話。
で、悲しむということに出てくるのが一番分かりやすかったんですが、
当時は、でも一番最初読んだ頃はさっぱり分かってなかったんですけどね、
男同士の同性愛という話、
しかもこれがですね、いわゆる同性愛とイメージと全然違うんですよ。
そこら中で見かけるものを、
少なくとも私が子供の頃にはそこら中で見かけていたものを、
お好みさんは同性愛というふうによくよく読んでみると、
河合駿先生も野井武夫さんも同じこと言ってるんで、
まあ同じようなグループに属しているとも言えるんで、その界隈なんですよ。
ライフハックとはまた違って、精神分析クラスターがあってですね、
そこで同性愛って言って、
この同性愛の意味がですね、分かってなかったんですよね。
どうしても男同士の同性愛、
BLマッシュグラカンを僕は頭の中でイメージして、
そのまま放棄してたんですよ。
当時は苦手だったということもあったと思うし、
そもそもよく分かんなかったし、自分はそうじゃないという感じでいたからっていうのも
いくつもあってですね、私10代の頃の話ですからね。
でもあれで言われている同性愛というのは、
土井武夫さんなんかは心、
先生とKの心の、夏目漱石の心ですね、
あれの分析で使ってるんですけど、同じなんですよね。
要は、
新橋のサラリーマンですよ、一番イメージしやすいのは。
これで多分イメージしにくくなってると思うんですけど、
新橋のサラリーマンを指してお好みさんは、
同性愛、男子同性愛と呼んでるわけです。
つまり、
お酒を飲み合って、慰め合って、
解放し合うと、まさにこれは、
男女でやってることを、
団団でやってるっていうことになってるんだと。
なぜそんなことをわざわざ言ってるかというとですね、
やっぱり、
エリプスなんですよ。
エリプスって何なのかというと、
エリプスコンプレックスのエリプスですけど、マザーコンプレックスですね。
09:00
失恋なんですよ。
誰と失恋したかというと、お母さんなんですね。
これ難しいところもあるんですけど、お好みさんははっきり書いてるんですよ。
ものすごくはっきり書いてます。
こんなにはっきり書いてたのに、私分かんなかったんだなと思ったんですけど、
何年も世話をしてくれたと。
あれは恋人とやってることと変わらんでしょうっていうことなんですよ。
そうですよね。スプーンであーんとかって。
全部そうですよ。
しかもお風呂にも入れてくれる。
完全にあれは恋愛状態なんですよ。
それがブツッと途切れるわけじゃないですか。
どこかのタイミングでこれずっとやってちゃダメだよねってことになっていて、
ブツッと途切れる。
こうやってベタベタ甘えてるんじゃありませんっていうことで、
ブツッと途切れるのが早い。至って早い。
たぶん6歳とか早い子で4歳とかになってしまう。
これで子供は強いショックを受けるわけですよ。
今まで全部やってくれてた。
しかも生存に関わってしまうんですよね。
ここが大人の恋愛と全然違うところで、
全部の世話はそのまま自分が生きていく上で
必要になってしまうんですよね。
生きていく上で必要な全部なんですよ。
思うことでやってるわけじゃないから、
急に寂しくなる。
こっちのほうが多分自覚されるんですけど。
プラス急に生きづらくなるわけですよね。
この失恋というか、
対象喪失というのはこれを指すんですけど、
大きな喪失感がぽっかり穴が開くとかって言うじゃないですか。
あれがここで起こる。
こいつを埋め合わせなければならない。
男の子ですよ。
主に男の子の話をしてるんですけど、
どうやって埋め合わせるか。
男の子同士の関係に走ると。
ここでBLを想像しちゃダメなんですよ。
ここでやるのは要するに寂しさを埋め合わせられればいいんで、
一緒に昆虫取りに行くとかでいいんですよ。
至って健全に見えるこの流れの中に、
失恋の傷を癒すという効果があって、
ここでいやいやもう、
俺お母さんなんかいらないしっていう態度ができ、
ここを自立の一歩目と見出すみたいな話なんですね。
このまま行っちゃうんですよ。
少なからず日本の男子は。
当時は1980年代ぐらいの時は、
このまま行っちゃって、
このまま男子同性愛みたいな世界に突っ走ってですね、
最初は昆虫で始まるじゃないですか。
それがそのうち少年野球とかになるんですよ。
そのままそれが中学上がって部活動になって、
そして体育会系の世界にどっぷりハマって、
会社に行ってもほとんど同じ精神モードで頑張ると。
だからすごく似てくるんですよ。
その時その時でやってることはすごい違うんですけど、
虫取りだったのが野球やることになって、
野球が甲子園になって、
12:00
甲子園が大学生になって、
その後に大手ゼネコンとかに入って、
同じようなことをやるわけですよ。
お酒飲んでみんなで歌って、
解放し合うと。
この流れが全部、
元はエニプスにあるんだって話をしてるわけです。
受け入れられるかどうかは別の問題ですね。
ただですね、
この傷を癒すのが
上手くいくケースはもちろんあるんですけど、
あるし、私もある程度は分かるんですが、
上手くいかないケースもあるわけですよ。
男子同性愛的な世界というものに
入り込みきれない人たちが
割と大勢出る。
私も小学校3、4年生までは良かったんですよ。
虫取りのせいで。
あそこまではやってられないみたいなのが
出ちゃったんですよね。
あまりにも
一歩引いてみると、
あまりにもウェットすぎる。
すごい不思議だったんですよ、当時。
お好みさんの本を読んで、
なるほどと思ったんですけど、
ウェットであればあるほどいいわけじゃないですか。
ほとんど恋愛なんですから。
私の目には当時、
私はあまりにも体育会系で
マッチョな感じの自分がないから
入り込めないと思っている一方で、
どうしてもベタベタしすぎた
関係の中に入るのは気持ちが悪いと思っていたんです。
これは相当強くありまして、
とにかく嫌だったというのがある。
ウェットすぎる。
泣いたりするじゃないですか。
水嶋真嗣さんの漫画なんですよね。
僕は苦手だった時代、かなり長いんですよ。
やたら泣いたり叫んだりするわけですよ。
偉く男らしく言う割には
すぐ泣く。
変なアンバランスさがあったんですよ。
やたら情緒的で
すごく感情的じゃないですか。
感情を表に出さないとか泣かないとか言う割に
泣きまくったり叫びまくったりなわけですよ。
明日の城とかでもそうですよ。
男しか出てこない。
どうも気持ちが悪かったというのがあるんですよ。
もともと私は別に運動得意なわけじゃないので
そっちに入りにくいというのもあったんだけど
情緒的な抵抗感のほうが強かった。
みんなでスクラム組んで成し遂げるみたいな
あの中に入っていくということが
身体的すぎるっていうのもあったし
情緒的すぎるっていうのもあったし
一言で言うと
あれなんですよね。
15:01
ここから先が結構難しいんですけど
フェミニズムからの批判が出てるんですよね。
本当にフェミニズムからの批判が出てるんですよ。
フェミニズムからの批判が出てるんですよね。
ホモソーシャルっていう表現で批判が飛ぶんです。
要するに男同士の世界で
しか認め合わないみたいなところがあるから
あれで会社とかを作るというのはですね
よろしくないわけですよ。今時の考え方から言って。
公支援はしょうがないかもしれないけれども
会社的には会社とかそういう政治とかになってくると
よろしくないというのがまずあるんですね。
で、私はそういうことも
感じたのもなくはないんだけれども
それよりも何よりも
女性があそこに入ったとしてもですね
やっぱり私は入りたくない
っていうのがむしろ強かったんです。
つまりそういう批判も分かるんだけど
そもそもあれって羨ましくないなっていうのが
僕はそのフェミニズムっていうものは
すごくアメリカで勉強していいと思ったんだけれども
いろんなところで共感できなかったものの一つに
ホモソーシャルな世界が
何かを独占していると言われても
そこを打破したいとか
そこに入っていきたいとか
その天井を突き破りたいとかいう欲求そのものが
私には全然なかったんですよ。
これが驚くほどなくて
という感じだったんです。
このことがどのくらい自分の中で
母親との失恋みたいなものに
関係があるのかって思ったんですけど
やっぱり今思うと大いにある気がするんです。
ここでホモソーシャルに私は
見切りをつけたので
女性に向かうしかなくなるんですね。
この種の男性が私は女の子なら誰でもいいという表現になるんだと思うんです。
実際そんなことないんですよ。
女の子なら誰でもいいってどういう意味かというと
僕の考えではですけど
お母さんなら誰でもいいなんですよ。
お母さんなら誰でもいいってどういうことかというと
自分が振られたお母さんとの関係が
修復されればいいってことなんですよ。
修復されないじゃないですか。
なぜならそれはイメージだから。
イメージだからというのは自分の心の中しかないから。
現実のお母さんに会いに行けば
その内的対象と全然違う人がそこにいることは
もう明らかなわけですよ。
目の前にいるリアルなお母さんというのは
いわゆる自分の心の中にいるお母さんとは全く別なんです。
当然ですよ。
だって今ならば私50近い。
私が内的対象で言っているお母さんというのは
自分の心のお母さんですよ。
これとの失恋の傷を埋めるというのが目的になっているわけです。
最初は昆虫採集で気を紛らわしていたんだけれども
18:02
紛れ切らないので
少年野球とかに入るんだけど
そっちは私は肌が合わない。
やっぱり結局そういうことなんですね。
だから
女の子に行きたくなる。
ところがここでまた別の問題が発生するんです。
まず一つは
ホモソーシャルな世界で活躍している男は
基本的にはモテやすい。
だけど私はその世界が嫌いだから
あぐれものっぽくなっちゃうんですよ。
今ならばだいぶ違うんですけれども
当時は割とそういう時代だったと思うんです。
だから全然そういうのが受け付けないから
女の子のところに来ましたでは問題にされない
というところがあるわけです。
このことで私は結構虚しくなっている人が
いっぱいいるんではないかなというふうに思っています。
今さらお母さんに褒められるために何かをするというのは
リアルに合わないんですよね。
実情に合わない。
例えばお母さんに褒められたいからブログを一生懸命書いてPVに残しました。
おかしいじゃないですか。
お母さんブログいっぱい人来てるよって言っても
たぶんうちの母はブログって何って話になりますよ。
これはやっぱりリアルなお母さんとは
何の関係もない話なのでどうにもならないわけですよね。
そうするとどういうことになるかというと
これがわかってくれる女性と付き合うとか
そういう意味不明なことになっていくわけです。
これがわかってくれる女性とかも
そりゃいるでしょうけれども
そうやって自分の中で
失恋の板手を埋めるという条件を
一生懸命用意していくと
リアルにはそんな女性はいないってことになるんですよね。
これもフェミニズムからの
一つの攻撃としての表現なんですけれども
日本の男の人は
セックスできるお母さんが欲しいだけだと
これは私は
主語が間違ってると思うんですよね。
これはすごい
意味深なのか単なる攻撃が意味深になっちゃってるのか
ちょっとわからないんですけれども
すごい考えさせられるというか
非常に正しいんだけれども
すごく間違ってるような気もするっていう表現なんですよ。
この話も一度か二度は
絶対してると思うんですけどね、この番組でも。
要はセックスできるお母さんが欲しいのは
まず日本の男だけじゃないんですよ。
世界中の男がそうなんですね。
多分実は日本の世界の男だけじゃないんですよ。
世界中の男女がそうなんだと思うんですね。
だから虚しいんですよ。
できないのをお母さんと呼ぶんですよ。
セックスできるお母さんが欲しいというのを
21:00
広がりして言うとですね
セックスできないお母さんをお母さんと言うんです。
内的対象の定義というのはそういうことなんですよ。
エディプスコンプレックスとはそういうことじゃないですか。
お母さんと恋愛をしています。
お風呂にも入れてくれてご飯も食べさせてくれます。
理想の恋人ですと。
恋愛を深めていこうと思ったらなんとお父さんがいましたと。
これがエディプスコンプレックスですね、ヨーロッパで言う。
日本ではこういう形は多分取らない。
私はどういう形を取ったかというと
今の人には分かりにくいと思うんですけど
母は多分私に中心グラを見せました。
私が多分小学校1年の頃の大河ドラマです。
ちょっと年代バッチリ合っているかどうか分からないですけどね。
中心グラを見せたのは間違いない。
なぜ中心グラを見せるんですかね。
私にもよく分からなかったんですけど、要するに男というのはですね
お母さんでいつまでもベタベタしているようでは
ああいうふうには絶対なれないですからね。
大石倉之介みたいになったりしなきゃいけないわけですよ。
いざとなったらですね、何の意味があるのか分からないんだけど
主君の仇討ちとかのために
全生命をかけて
結局意味もよく分からず腹を切んなきゃならないと。
こういうのを全肯定していかないといけないわけですね。
お母さんにご飯食べさせてもらってる場合じゃないわけですよ。
お父さんを発見したからエリプスになったというよりは
もうお母さんに突き放されちゃうから
しょうがなく
男同士の世界に入っていくわけですね。
その男同士の世界こそ素晴らしいんだと
なぜか母はそう思ってたんですよね。
中心グラを見て大いに感動する母だったわけですよ。
うちの母はね。
あれに大いに感動するというのが
私にインストールされると
そこには男しか出てこないじゃないですか。
男女というようなものも全然出てこないですよね。
ここで全部賄わなければいけないわけですよ。
情緒的な満足を。
ああいうものに
恋愛を全部向けていくと。
母親に向けていたようなエネルギーを全部
男同士万歳みたいな世界に向けていくと。
私は向けきらなかったから
混乱したわけですね。
中学校1、2年の頃から。
そういう混乱が延々30代手前までを引くわけです。
この混乱が結局むなしいわけです。
何やっててもむなしい。
なぜならば
全部入り込めない中心グラになっちゃうから。
つまりドカメンとかでもそうですけど
泣かないんですよね、私はあれを見て。
全然泣く気にならない。その中心グラもそうです。
すっかり覚めた目で見るようになると。
あれ見て、何のためにこの人たち腹切ってるんだろうという気になってくると
もう全く入れない。
そうするとエネルギーの向かう先が消滅して
24:01
チューブラリンになっちゃうわけです。
つまりセックスのできるお母さんを再度
求めなければいけないわけですよ。
この構造でもセックスのできるお母さんが欲しいというならば
多分世界中の人がそうだと僕は思うんですね。
セックスのできるお母さんが
お母さんというものはできないわけだから
そのエネルギーを向ける先を
男同士に向ければ一番話早いわけですよ。
ラクビーでも何でもやればいいわけです。
甲子園とかを目指せばいいわけですよ。
いけるいけないは関係ないわけです。
全勢力をそっちに注ぎ込む。
一番分かりやすいのがラクビーとかなんですよね。
ワンフォーオール、オールフォーワンで
完結しちゃうわけです。
一体感を取り戻して
全勢力を注ぎ込む。
会社に泊まり込んで打ち上げの時には
ひたすら飲みまくって
お母さんに解放してもらって
お母さんがやってくれてることを別の人がやってくれる。
あるいは自分がそれをやる。
だから男社会ということになるんですよね。
ここで
セックスができるお母さんいないから
全く別の方向に全エネルギーを注ぐ
ということになるんですけど
ならない人はセックスできるお母さんを
これが永遠に続く感じがするので
とても虚しい。
非常に性的な方向にこれを向かわせれば当然
恋愛ってことになるんですけれども
多分僕はですね
この問題を恋愛で解消できるはずがないと
どっかで不意に気づいたんですね。
これは多分おこのぎさんとかどいさんとかの本を読んでる時に
なんとなく理解することの中で
気づいたことなんですけど
4歳時くらいの心の傷を癒す旅なのであって
その通りの事情を
理解できる人っていうのが
いきなり現れるはずないですよね。
自分の恋人だろうと
全然わからない話ですよ。
20代くらいの女性で
ここまでわかってもらおうというのは土台無理な話であって
現に私何人か付き合うってことを
しましたけど
何一つそういう形では満たされることはなかったんですね。
こういうのは同じことを
形式的にやったからどうなるもんではないわけです。
ご飯食べさせてもらうとか
そういうんじゃダメなわけですよ結局。
そういう問題ではないですからね。
元の問題は
まだ自覚できていないレベルの失恋の板手であって
それが
こういうことをやれば解消されるとか
27:02
ああいうことをやれば解消されるというような話では
ないわけです。
この一連のからくりを理解すれば自然と解消されるんだけれども
なかなかそうは思えないんですよね。
一度ある種のイリュージョンに取り憑かれると
これはもう結婚すれば解消されるだろうと思ってみたり
大会社に入ってプロジェクトを
完遂すれば解消されるような気がしてみたり
様々なんですよ。こうしていけば解消される気がしてみたり
様々なんですけど全部イリュージョン。
イリュージョンじゃないですか。
だって元にあるのが幼い頃の失恋なんだから
それが違う形式で満たされる理由ってないわけですよね。
そう思い込んでるだけであって
しかもそれが小さい頃だから
さっぱり事情もつかめずに
一人立ちしなきゃいけないとか
一人で寝られるようにならなきゃいけないとか
転んでも泣かないようにならなきゃいけないとか
そういう教訓話で
これを克服しなければいけないんだろうなと
ただなんとなく思い込んでるだけなわけです。
それがずっと進んでいくうちに
結婚すれば解消できるという
別の間違ったイリュージョンに
変換されてしまうんですね。
取り違えられてしまう。
ずっと取り違い続けてるわけですよ。
だから虚しいんだけれども
不意にというのかな
なんとなく突破口が開けてきたのは
つまりこれは何かを成すことによっては
解消されるようなものじゃないんだなということだったんです。
それよりも大事なのは
自分の内的対象ですよね。
これがどういう作用をするのかと
これが前にこの番組でも
喋ったことですけれども
私はある程度知恵が深くなると
みんな内的対象になってくるんですが
その内的対象は繋がってるわけですよ。
お母さんの内的対象というものの影響を受けてるから
みんな似てきちゃうわけです。
ここまでくれば割と絶やすいですね。
内的対象を喜ばせるために
何かをしたなら絶対ダメなんだということが
だんだんわかってくるわけです。
内的対象を怒らせないために何かをするなんて
ましてダメでこれをライフハックでやってるんですよ。
いかにだから
筋違いなことをやってるかということです。
内的対象を怒らせるのは怖いじゃないですか。
結局のところそれは失恋してしまった
母親のイメージですから全部なんですよ。
自分にとっては全部。
これがもう不機嫌になるということが怖いわけですよね。
だからライフハックする。
そのうち自分はライフハッカーなんだとかって思ってしまうわけですよ。
30:00
もう全然誰に聞いてもこの謎解けないですよね。
先生とかは別なんだけどね。
母に聞いてもさっぱり意味わかんないじゃないですか。
ケーキというきっかけは母にあるんだけど
私の母に自分がライフハッカーになったのは
あなたのイメージが怒らせるのが怖かったから
絶対理解できないんですよ。
さっぱり理解できない話をしちゃうことになる。
だから自分で考え込むしかないんですよね。
自分がライフハックというものに興味を持つとか
仕事のというのに惹かれるのも
全部こういうところに、少なくとも私はですよ。
私は全部こういうところに
遠い要因があって
結局のところ自分の内的対象を怒らせたくない。
ここまではですね
たとえ母親との云々がなくても分かることは分かります。
確かに自分は
自分の心の中にイメージを培ってしまったほど
付き合いがある程度深くなった人たちを怒らせるのを
ひどく恐れる。
それをやらかしてしまえば相手が怒るというふうに思い込む。
これは母の傾向です。
私が幼かった頃の母との関係でいうと
私がやらかすことに対しては彼女は結構厳しかったので
きついんですよ。
ガラッと態度が変わるから怖いわけですよね。
幼い子にとっては。
これもこの番組の表現を使うならば
これによって不意に扁桃体が
一気にカッとなるわけですよ。
だから体内に無駄なコルチゾールが増殖していって
非常に気分が悪くなるし
気持ちが悪くなるし
感情的に鬱っぽくなっていくという現象が起こるわけです。
母はそうするために怒っていたわけですからね。
何でもいいんですよ、やらかすことは。
ガラスを割るとか
買ってくるものの中の肉が違っているとか
そういうことによって
例えば妻が怒ると
妻は私の中では内的対象になってしまっているから
どこか母と繋がってくるわけです。
そうするとその妻の機嫌を損ねるということは
4歳児の母の機嫌を損ねたときのイメージに
近接してくるので
同じような現象が私の体内で起きちゃって
落ち込んでしまうと。
必要以上にですよね、完全に。
別に軽い顔とロース顔と大した問題じゃないですから。
このようなことが起きるから
怖いということになるわけで
こういう事態を未然に防ぐことができなくなったとか
できないんだって思い込むと
むなしいわけです。
ものすごくライフハック一生懸命やったって無駄だなって感じがすると
全然関係ないんですよ。
全然関係ない。
だって昔の母の機嫌が悪くなろうとどうなろうと
33:02
知ったことじゃないですよ。
それはリアルな母とは全く何の関係もない話ですし
だからこの内的対象のご機嫌伺いというのを
やめてしまえば
不意に圧倒的に楽になれるし
虚しくなったりは絶対しなくなる
だけれどもこれにそのためには気づかなきゃいけないし
気づいたからといって
明日から内的対象の機嫌を取るのはやめます
というほど簡単に確実にできるかというと
それはこれまでの経緯にもよって
難しいということはあり得ると思うんですよね。
親との関係にも多分、多分ではなくて確実に
左右されます。このからくりであれば。
だからですね
虚しいというのはそういう意味なのかなと思いながら
一番最初のツイッターのフォロワーさんたちを
読んでいるとそういう感じがやっぱりするんですよね。
虚しくならないためには
充実した時間を持つとか
つまり充実した時間というのはさっきの
甲子園とか恋愛とかラグビーとかなんで
それらはいいんですけど別に
それらによってこの内的対象の
失恋の板手とかは
埋めきれないはずです。
論理的におかしいので埋めきれるはずがない。
だから世界中の男女が
僕が考えるにはですね
セックスできるお母さんが欲しい。
それは当然のことなんだと思うんですよ。
あれがあれほどフロイトの理論が
受け入れられたというのは世界中特に欧米は
確実にそういうところがあるんでしょう。
その代替というのはおかしいですけれども
遠い旅に出てうまく見つかれば
男女間で見つかるかもしれないし
どっかのCEOになるとかいうことで
見出せるかもしれませんけど
それで完全には満たしきれない。
逆方面に行ったほうがいいんですよね。
そんなものにもうこだわらなければ
一番いいわけです。こだわるほどのものじゃないんですよ。
これ結局。私も最近
こういう意識の下で
捨ててみるとですね
全然虚しくならなくなるんです。
すごく虚しくなってたんですよ。以前は。
こういうなんか不意にですね。
何冊も自分それで本書いてきちゃったりしてますからね。
そういうことではないということなんです。
これはだからライハックがいるとかいらないということとは
何の関係もない。
僕の心の中だけで起きている現象で
落ち込むという時に
起きていることは
つまり自分の内的対象がそれによって喜ぶことがないってこと。
私はその
昨日の話、昨日の
36:01
番組でも言った通りなんですけど、バズるとかも全部そうだと思うんですよね。
バズってこの
心の中の母を
喜ばせようとする。
確かに心の中の母はそれで喜ぶかもしれないというか
喜ぶこともあるんだけれども、意味がない。
それって結局自分が喜んでいるのと
何の違いもないんです。
それだけ喜んでおけばいいわけですよ。
実際に母に報告することすらないんですからね。
しても意味全くないですし。
だから内的対象に近い人というものを
自分の周りに置きたくなるという人は
大勢いますよね。
偉い人が秘書みたいな形で置いてみたり
コンサルタントみたいな形で置いてみたり
カンセラーみたいな形で置いてみたり
非常によく分かる気がするんですよ。
すっごい虚しいじゃないですか。
相手は多分分かってないですよ。
結局のところ私はある意味
プロフェッショナルな相談役というのは
そういう存在なんだと思うんですよね。
その相手の社長とかの内的対象のように
振る舞える人であって
実際にはその内的対象のリアルが
そうであるように分かってはいないんだと思うんですよ。
だから分かってほしいとか
分かった上で褒めてほしいとかいうのは
本当にそういうものを感じさせます。
つくづくそういうものなんだなと。
自分の内的対象を投影しているだけなんだなと。
これをもう本当に
これの一喜一憂について
興味を失えばですね
リアルに充実するというのは
そんなに難しいことじゃないように思います。
38:00

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