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2024-01-12 49:20

校正中のもの思い【GMV917】

年末年始を返上して頑張りました!

サマリー

朝の8時2分に30分遅れたため、ゴミの分別や休みの影響について話し、ノートの目的や休むことについて考えています。彼はやっぱりいつも排泄と睡眠っていうのが一大テーマなんだそうです。昔から夢の日記をつけるっていうことがあるんですけど、それは結構挫折しますね。夢の日記をつけるっていうのは本当につらいみたいです。でもね、寝るってことを僕らはよく理解していない気がするんですよね。 非常に難しい構成作業や技術ブログへのこだわりについて考えています。デジタルの構成に取り組むときには、物思いや休憩が重要であり、休むことに生きているという考え方があります。クライアントと分析課の関係も同じようなもので、どうするべきか悩むことが重要です。校正中のもの思いについても、クリエイティブな思考や物思いにふける時間、意味について話されます。

目次

ゴミの分別と休みの影響
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月12日、金曜日、朝の8時2分ですね。
今日ちょっと若干ですけれども、30分くらいかな、遅くなったのは、これはですね、
カーキンは可燃後みたいなものをやらなければならないといったこともあって、
それだけで30分も経つわけではないので、
煎蒸っていうやつが世の中にはありましてですね、私も色々知らなかったんですけど、
煎蒸と可燃ごみは実は違うということで、これは築ことによって全然考え方が違うと思います。
煎蒸ごみというのは要するに、枝葉のことですね。
冬になるとっていうのかな、先日ちょっと風が強かったんで、
秋集めるとですね、これを出せる人出せない日がありまして、
その辺でちょっと混乱がありましてですね、僕の頭の中でね。
そうじゃなかったんだよみたいな。
あとその年末年始はちょっと変則的になるんですよ、地域によってはね。
このごみ処理施設の貧弱な、つまりお金がない町は、
隣の町に一部委託したりしているんで、年末年始になると休んじゃうわけですね、こっちの町では。
だからある種のごみは回収されないと。
毎週何曜日だって12月29日はダメですみたいなそういうのがあって、
非常に困るわけですけれども、非常にイレギュラーになる。
今日はそれらがですね、ほら年明け金曜日ですからこれは、
つまり先週はそういうもののせいでなかったわけですけれども、
年明け金曜日で混乱しておりまして、結構手間がかかったというわけですね。
まあそれだけではないけど、そういうことが織り重なっているうちに30分経過してこの時間になったと。
どうでもいい話を相変わらずしておりますが、8時だから過ぎたわけですね。
改めましてですね、全然改めてませんが、
20日にローラ券があり、28日に倉田の慶三さんをゲストにお招きして、
Good Vibesとタスクシュート、第3弾をやるという2つあるわけですよ、今月は。
どちらもまだご参加申し込みなかなかいただけないんで、気を揉んでいるわけですね、私は。
Good Vibes的に気を揉まずにいくというのでもいいんですが、気を揉むことにしているわけですね。
あんまりGood Vibes的にやっていると気を揉まないうちに当日を迎えるんですよね。
私はまだこの直感で生きるというのに全然慣れていないので、
手放すと当日まで完全に忘れ切るみたいな。
それはきっと良いんだと思うんですけれども、
なんとなくそれを繰り返していると、
全てがなんでも良くなってしまうというふうですね。
それもそれで、ある意味自分らしくないなと。
自分以来の人間がこれをやる分には良い気がするんだけど、
自分がこれをやるのもなんかちょっとかんばしくないものがありまして、
どこか自分らしく気を揉まないみたいな、
なんていうんですかね、これはね。
ほとんどどうでもいいことなんだけど、
生き物として生きるとか人間として生きるみたいな話ですね。
あるいは21世紀に生きるみたいな。
少し粗末なことにこだわるという部分があっても良いんじゃないかみたいな、
そういう感じですかね。
ほとんど何を言っているのか意味不明ですが、自分でも。
そういうことでちょっと気を揉んでみようみたいなですね。
ノートの目的と意味
これと似てるんですよ。最近ちょっとノートをちょもちゅっちましま書いてるじゃないですか。
これを私は何の目的もなく書くというのを今、
実験的に試みておるんですよね。
とにかく何の目的もなく書く。書くことは書くんだけど、
そこに何も目的はない。
案の定ですね、いいねがもう本当に、
でも1はつけていただけるっていうね、
この面白い現象なんですけど、
僕のノートは確かに読者数少ないですし、
いいねも全然つかない方ですけど、でも2、30はついてたんですよ。
これが1になるというね、目的を持たないってすごいなという感じがします。
ただこれはもう僕の仕事には直結させない方がいいだろうと。
幸いのノートっていうのはブログと違ってタイトルがないんですよ。
佐々木翔吾のノートでしかあれなくて、
野木場ブログみたいなタイトルすらないわけですね。
タイトルがないということはつまり平和性を持たせようと思わなければ持たない。
持ちようがないっていう、ある意味あの発想は、
僕が今やっていることに近いんじゃないかなと思うところもあるんですね。
なんでそれをやっているのかがよくわからない。
だからSNSとストック型のブログのさらにその間にあるような、
なんかよくわからないものなんですよね。
あれがいいかなと。
あれが良くないという意見もあるわけで、
それは全くそうで、また全然違うところでノートはあんまりっていう話もあるんですけど、
それも一応聞いてはいるんですけども、
あんまり僕はもう気にしないことにして、
ノートもこのGood Morning Voiceとそっくりのものにしていきたいなというものになればね、
思っております。
つまり定義不能なものにしたいってことですね。
定義不能っていうのが今の私の中では多分一つのトピックになっているんですよね。
ちょっと話がやや強引になるかなと思って、
そのトラケンをよろしくお願いしますねという。
この山崎孝明さんの精神分析のある聞き方は非常に好きなんですよね。
これは多分、これも非常に好みの問題です。
あれを読んでも、実は精神分析のある聞き方がよくわからないんじゃないかってところが多分好きなんですよ。
僕例えばですね、戸畑さんの本でも最近絶賛されている本は一通り読んでるぐらいは好きなんだけど、
一番好きなのは野の医者は笑うなんですよね。
あのほとんど意味のない本っていうのが僕は結局なんだかんだ好きなんですよね。
野の医者は笑う。野の医者は笑うを読んでもハメにならないんですよ、何の。
そして面白いだけっていうある意味。
もちろん彼はですね、そこに実用性も持たせつつ、いろいろな考察も加えるという意味でなかなかすごい人なんですよ、彼は。
でもとはいえ、あれを読んでじゃあ何かの役にすぐ立つかというとほぼ何の役にも立たないんですよ。
あれは要するにオカルト、沖縄のスピリチュアルオカルト界隈を探検探索してみましたみたいな、
あのうまいこと料理してあるからああいう立て付けにできてますけど、
あれはよくは昔で言うところの宝島社あたりから出ていたですね、面白本の一種なんですね。
なんかこうあったんですよ昔、詐欺商法にわざと引っかかってみましたみたいなね。
ただそれだけの本なんですよ、そういうのって。ただ引っかかってみたのをまとめて本にしてみましたというね。
うまいこと売れると本当ああいう本って面白いんですけど、私本を読む楽しみってそういうもんだって昔から信じているところがあるので、
何かの仮定にする本を読むっていうのはだいたいダメなんですよ、苦手なんですよ。
面白くないだろうぐらいに思っちゃうんで、そこを僕は今実用性を欠く人間としてうまいことできないかなっていうのは毎度毎度トライはしてる。
これは一番最初から一貫して変えてない姿勢のつもりなんですよね。
ものすごい実用側に寄らされるってことは起こるけど、それだけの本には絶対しない。
何の役にも立たないけどただ面白いっていう部分を絶対潜ませるっていうのを努力をしている。
本当は戸畑さんみたいに書きたい面はあるんだけど、やっぱキャラが違うんでね。
僕も多分15ぐらい下の世代だったらああいう風に書いてた気がしなくはないんですけれどもね。
全てを冗談ごとにしてしまうという形にしたいというのはあるんだけど、
性格と時代といろんな僕に期待されているもの等から、
何となくそれは僕の誤解である可能性も存分にあるんですけど、
振り切れないんですよね。冗談ごとに振り切れない。
すっげー大真面目に実用書を書いちゃうというところはあるんだけど、
でも実はそういう書き方だけで本を一冊書くことは絶対やんないというね。
お笑いにしておきたいっていうか、しかもエッセイ風にしておきたいっていうのがあるんですよ。
その辺の書き方を指摘されたこともあるし、
句言を呈されたこともあるんですけど、一貫して変えてない。
変えられないんですよね。
1記事だけ書くってなら私も、
一冊書くのに自分を一切出さずに書けるかというと、
そんなことはできないという気がしますね。
という話全域とちょっと絡むんですけれども、
休むことに関する意識
ちょっと休むって話を今日してみたいんですね。
私は昔からこの休むというものに独特のある含意がありまして、
これは誤解を招く言い方になるんですけど、
僕は人は休むために生きてるんだって思ってるんですよ。
こういう話をすると、
ある一部の人は目を見開いて驚いてくださっていて、
そういう人は僕に対するサービスが過剰なんじゃないかっていつも思うんです。
そんなに大した話してませんからねっていう気がするんだけれども、
そんな風に考えるんですねみたいなことを言ってくださる人もいるんですが、
そんな風に考えるわけです。
僕が一番好きになれないというか、昔からこうなんていうんですかね、
要は簡単に言うと気に入らない。
気に入らないっていうのもフットワイプス的には良くないのかもしれないですけど、
よくない面もあるんだけど確かに、
しゃあないなっていうところもこの辺はあります。
要するに永久を養うために寝ないってことですよ。
これは大して意味があるとは僕は本当思ってなかったんですね。
僕の趣味に近いなとやっぱり。
寝るために起きてるみたいな。
で、もう最近ちょっとそれに対する考えが五重過ぎた性もありますが、
いや寝るために生きてるよなって気がするんですよね。
まずですね、これは時代背景もあるんだけど、
寝てる時の人間の。
こういう言い方をするから話が混ぜこぜにしちゃってるんだけどね。
寝てる時の人間のですね、
燃費って素晴らしいんですよ。
僕は被災されてる方の方のね、
一つの形として、
いかに難しいんですけど、
環境としては寝ていただけるようにするかっていう、
そこが非常に難しいなって、
トイレの問題もあるじゃないですか。
トイレもすごい思うんですよね。
被災したら真っ先にそこが問題になる気が昔からしてたんですよ。
自分トイレ近いからなんですね。
子供の時から近かったんです。
どうしてもね、一晩のうちにトイレに起きるのはダメだみたいに言われるじゃないですか。
貧乳みたいに。
僕は二度は起きるタイプの人間で、
一度も起きないっていうのは多分一生一回もないんじゃないかなって思ってます。
これは自分が特殊だと思ってたことなんです。
だってトイレに夜一回くらい起きるって別に普通に世の中の病者にあるじゃないですか。
ただ僕は一生のうちに一晩寝切ったってことはないんじゃないかって思う。
一回くらいあるのかな。
でも本当数えるほどしかないですよ。
だから僕は被災地のトイレ問題ってめちゃくちゃこう感じるところが実はあるんですよね。
これも相当余談なんですけど。
だから人は要は食事もではあるんだけど、
夢の日記と寝ること
僕はやっぱりいつも排泄と睡眠っていうのがですね、
僕の中では一大テーマなんですよね。
昔から夢の日記つけるっていう、これは結構挫折するんですけど、
本当つらいんですよ夢の日記つけるっていうのはね。
挫折するんだけど、
しゅっちゅう試みていて、
今では夢の日記だけがエヴァノートで一番放っててですね、
僕の中で数を放てて2000は超えてると思うんですけどね。
1000以上の記録があると思う。
それも大体全部読み返しているんですけれども、
読み返すのは何のためかっていうのは非常に難しいんですけどね。
フロイトっていうのはあの辺からしても僕の考えではすごいんですよ。
相当早い段階で夢判断って本出てきていると思ったんですけど、
しかもそれを読むと、
僕はですね、自分の夢の日記と自分の夢の分析ってものをしてみたことが何度もあるんで、
フロイトってやっぱり偉大だなって思うとき、
ああいう時に一番実は思うんですよ。
それはそれでどうでもいい、じゃあどうでもいいんですけど、
要するにですね、
これもとといか昨日か、
昨日もその話しましたけど、大学のお友達と話して、
その人はよく寝てたって言うんですよね。
そしてそのことに結構罪悪感を抱いてるんですよ。
僕は友達にはグッドバイブスの話とかタスクシュートの話や原則振らないことにしてるんで、
ふーんって感じで聞いてたんですけど、
やっぱ寝るっていうことだよなって思って、
寝るってことに罪悪感を抱くってのは、
既に何かが始まっている証拠だなってよく思うんですよね。
寝るってことが無駄だっていうふうに見なされやすい。
でもね、寝るってことを僕らはよくわかってない気がするんですよね。
なぜ例えば寝ていても呼吸が全然止まらないのかとか、
あれは脳が作動してるからですけどね。
寝てるときにも心拍は止まらないけれども、
実は70%くらいまで活動が落としてあるんですよね。
こういうことも普通僕らはおおむね知らないんですよ。
知らずに生きている。知らずに生きてていいんですし、
知らなくていいことだから知らずに生きてるんですけど、
ただ酒を入れるとこの心拍数の低下は起こらなくなっていくっていう、
これもですね、まあ案外知られてはいないんですよね。
で、燃費がいいんですよ。もともと人間というのは燃費が実に良くて、
自動車なんかはどんなに燃費を良くしても人間には到底追いつかないんですね。
これは摂取カロリー量とそのカロリーの活用、
つまり本来例えば熱に変わるべきであれば熱にだけ変わるべきなんですよ。
音とかに変わっちゃいけないんですよ。
でも車ってエンジン入れた瞬間にウンとか言おうとするじゃん。
エネルギー効率と寝ている状態
あれ無駄ですよね。動きもしなければ温かくもならない。
だから音に変わっちゃダメなんですよ。
人間というのは自分が取り入れたカロリーを無駄に音とかには変えない。
動かすとか体温を維持するとか、そういったものだけに変えるっていう、
それでも人間でもエネルギーを100%活用してるわけでも全然何でもなくて、
5割にも届かないんですよ。エネルギーっていうのは無駄になるものなんですね、もともと。
でも車ってのは確か3割に見たなかった気がする。
つまり8割は無駄になるんですよ。ガソリン燃やしてもですね。
まず燃やした段階で煙とかになってるのは無駄ですから、
煙になるべきではないですよね。
それがそもそも環境問題を引き起こすわけで、
煙になるべきではないし音になるべきでもないし、
車の中温めるつもりがあんまりないなら熱になるべきでもない。
だから夏とかに熱になったら全部ダメですよ。
でも鳴りますよね。車は熱くなる。音はする。煙は出る。
全然ダメなわけですよ。そういう部分があるってこと自体がですね。
これエネルギー効率の話だけど、
そういう意味で人ってのは生きてるだけですごいんですよね。
エネルギー効率が極めて高いから。
しかも寝てるときはそれが相当高いはずだと思うんですよね。
だから私はエネルギー効率ってことを考えるとですね。
だってほら、起きれば暖房つけるじゃないですか。
そして起きれば物を食べるじゃないですか。
環境的な話をするなら寝てるっていうだけでもすごく人間ってのはいいわけですよ。
寝てれば相当プラスになる。環境的にはですね。
これは中国の研究なんですけど、少しずれるんですけれども、
人間が、全人類が、アメリカ人が今やってるような生活をすると地球は持たなくなるみたいなやつをやってたんですよ。
これはすごい僕は大事な研究だなと。
そういうのがあんまり読まれないんですよね。世の中ではね。
ずるいなって思うんですよね。
中国の実行が多いから環境があっていう話はするけれども、
全人類がアメリカ人のように生活をすると平均的に見ると、
ちょっとその時の話は少し忘れたんですけど、
平均的に見るとまだ先進国の人は中国人なんかの3倍強のエネルギー消費してるみたいなのが、
これも調べ方によって変わってくると思うんですけど、
より多く使ってるっていう点では、たぶん一人当たりに直せば間違いないと思うんですよ。
人口をかけちゃうから話がややこしくなるんですけれども。
すっごくこの辺は考えさせられるべき点だろうなって思うんですよね。
環境問題というものに興味があるならば。
そういう意味では、つまり寝とけば、寝とけば中国人もアメリカ人もないじゃないですか。
ただ寝てる部屋の快適度が違うかもしれないけど、
でもたぶんそんなには違わないと思うんですよね。
だから寝てるとか休むというのはですね、
僕の中では少なくとも起きてる時との価値の意味ではですね、
朝の活動と休憩
起きてる方が上だと思ったことは、生まれて一度も僕はないような、
生まれて一度ぐらいはあるかもしれないけど、物心ついてからはないんですよね。
寝てる時の自分の在り方は、起きてる時よりベターだっていつも思うんですよ。
だいたい病気ってのも寝てる間に治りますからね。
起きてると病気になることはあっても、起きてて病気がただ治るってことは滅多にないので、
僕は病弱だとされていたから、その辺すごい感じるんですよ。
病気になったら寝ろって言われるわけですよ、ちっちゃい頃になってのはですね。
今ほどいろいろ手厚くないんでね。
寝とけばいいってものじゃない病気もあるんですけれどもね。
でも昔はただ寝どけってのがすごく多かったんで、ただ寝どくわけですよ。
でも治るんですよね。
ってことは寝るってのは何かをしてくれてるなって感じがする。
僕はこれも100%ではないんですけれども、寝起きの心理状態ってベストなんですよ。
ものすごくいいんですね。
寝て起きて嫌な気持ちであったことってないんですよ。
まだ寝てたいなと思うことはありますよ。
ただ寝る前は、それこそ奥さんと喧嘩して悶々としてたっていうことがあっても、
起きたときはもう相当スッキリしてるんですよ。
気持ちの上では。
だいたいもう、けいのさんがグッドバイブスで言うやつが一番信じられるのが、
僕は早朝の最初のタイミングなんですね。
あの時は僕は何にもする必要がない。
かちマックスで完全無欠だというのは一発で信じられるんですよ。
これが起きて活動するうちに損なわれていくというのが、
だから昔私はこれを非常にライフハック的に表現してみせたことがあるわけですね。
MPが削られるみたいなあの表現、ぜひやめた方がいいと思うんですが、
起きたときが僕はマックスというのは自分の実感に合ってたんで、
起きたときを100だとすると、寝る直前はもう23ぐらいだなっていうのが、
自分の実感に合ってたんで、だから起きて早く仕事しましょうみたいな。
あのなんだっけ、富山。
富山茂彦さん。
超有名な本。思考の整理術を書いた人。
思考の整理学だったっけ。
変の本、ちくまさんで、大ベストロングセラになってる本ですけれども、
あの人が朝飯前に仕事しようみたいなこと書いてたけど、
あれに一も二もなく賛同してたのが僕なんですね。
現にやってた。朝4時ぐらいに起きて、いきなり原稿書きだす。
すっごい進むんですよ、僕の場合はね。めちゃくちゃ進むんですね。
家族が起きる前、自分は飲食前にいきなり仕事をする。
真似しないでくださいね。
特殊事情っていうのもありますし、僕これ全然今いいなんて思わないんでね。
仕事は進めばいいってもんじゃないような気がするんで、
ただ、体力があるときは特に気温が低くなければですね、
これはいける人にとっては結構いけるんですよね。
岡野純さんがやるキクエストをこの形で書いたんですよね。
で、まあそういうこともあるんですけれども、
これ過度にストイックにやらないことが僕は大事だとよく思うんですよ。
村上春樹さんなんかこの場合にランニング入れるのかな。
僕それしないんですよね、基本的に。しなかったんですよ。
今は時もしませんけどね、今はもう全く。
好きな時間に書きますが、特にノートとか夜にしか書きませんけど。
このボイスはね、朝に撮っているのは、
結局朝が一番撮れてるからであって、
別に朝が冴えてるからとかではないんですけどね。
この後寝たりもしますしね。
休むために生きるってのはさすがに言い過ぎなんですけれども、
僕は休憩ってタスクシュートに入れるわけですね。
この時間がめちゃくちゃ僕は、
生産的では全然ないですけど、休憩してるだけなんで。
クリエイティブっていう言葉がありますが、
僕あんまり自分がクリエイティブっていう意識もどうしても合わないんですよね。
何かクリエイションという言葉に沿ってない部分があるんだと思うんですが、
でもクリエイティビティっていうものがあるとすると、
この時間にしか自分はないなっていつも思うんですよね。
休憩。だから休憩している時のように原稿を書かなければいけないなっていうのがあるんですよ。
今日の話の一番本題はですね、
ここからなんですが、ここまで何だったんだって考えたんですけど、
僕は構成という作業が実は好きでして、
今回ただやっていてですね、構成がえらい手間取ったんですよね。
そこにいろんなものをいろいろ思うところがありまして、
まず字の文が自分のではないっていう、
これはですね、別に強調者に対する批判では一切ないんですよ。
ただ今までは字の文が自分のだったんですけど、
あるいは構成の仕方が少し違ったという感じなんですよね。
今回やっぱりフラソンさんの書き上げ塾、僕も教材でやってますが、
書き上げ塾で彼がやっている構成というか、
編集というものを横でずっとこうインストールしてきたので、
入ってるんですよね。
そして以前のようにはスッとやるというわけにもいかなくなっていると。
これがですね、また難しいんですよね、説明が。
構成の難しさ
非常に難しい。構成するという作業がですね、
昔のようにはできなくなっている。
けれどもパワーアップしてるんで、
要するにいいことなんですよ、これは。
ただ、スッとやるというわけにもいかなくなっている。
でも、期間は変わってないわけだから、
一定の速度で、一定の速度っていうのかな、
一定のペースでできないと、まずいわけでもあるわけですよ。
そして何よりも難しかったのはですね、
難しいっていうことを知ったってことなんですよね。
簡単に今まではやってた。
それはそれでいいことなんですよ。
この辺もまた難しかったですね。
構成って揉めやすいなって、昔から僕思ってたんです。
強調していて、一番強調者の方とこじれがちなのは、
実は構成時だっていう、これは何でなんだろうと、
前々から一つ謎に思ってた部分ではある。
人によってこだわりが違うっていうのは分かるんだけど、
それでもここまできて揉めなければならない理由って、
あんまり考えられないんですよね。
そういう人によってこだわりが違うっていうのは分かるんだけど、
それでもここまできて揉めなければならない理由って、
あんまりないような気がしてたんですね。
でも、揉めやすいタイミングだっていうのは昔からあって、
強調するときは常にここのタイミングは気をつけるように、
編集さんとも意外に揉めることが起こるのはここだってのを、
認識はしてたんで、経験上ですね。
どうしてもそういうことが起こると。
時々起こることなんですけど、
手戻りみたいなものを意識させられると、
自分が揉めやすいタイミングで、
手戻りみたいなものを意識させられると、
著者はイラッとしやすいということがあるんだけど、
僕はあれはあんまりなかったんですよ。
なんでなんだろうってこれも思ってたんですね。
手戻りってそもそも人はどうして嫌うんだろうっていうね。
嫌うに決まってるじゃないですかっていう人もいると思うんですけど、
僕はそれは多分誤解があると思うんですね。
第一に構成に正解とか最終形態ってないような気がするんです。
このことは私は、
うちの父はもともと小説家を志向してただけあって、
文章は達者なんですよね。
読む本の量も半端ないですからね。
なんでも読んじゃうというタイプなんで。
僕はだから活字中読者って尊敬できないんですよ。
うちの父を見ていて、
活字中読は百害しかないぐらいに思っていて、
教養豊かだとかいうのは言い訳にならないっていうのが
僕の思い出なんですよね。
教養豊かになる本ばっかり読まないから、
活字中読者なんてものはね。
それはまあまあいいとしてですね。
父はだけど文章は達者なわけですが、
書いたものを特にどこかちゃんとしたところに出すっていう時は、
必ず、ちゃんとしたところっていうのは宗教関係だけど、
本にするとか雑誌にすることはよくあることだったんですね。
必ず僕に読ませるんですよ。
これはどうしても、
僕が10歳にも満たないときから読ませる。
多分読めばある程度わかるだろうっていうのがあったせいもあるんだと思うんですけど、
父に言わせるとですね、
要するに、
後世人には目が多いほどいいっていう言い方になるんですよね。
結局、
誰が読者になるかなんてわからないわけだから、
どの読者が読めばどういう風に読まれるかというのは、
誤解されたり、曲解されたりは、
不当然起こりますが、
そもそも理解に行き届かないポイントは、
どういう点になってくるのかっていうのは、
どんなに構成しても、
し終わることはないっていうのが、
父の言い分だったわけですね。
だから、自分でも何度も読むけれども、
それでは決してわからないことがあるから、
私が読む、お前に読ませるってことなんですよね。
だって結局、僕が読むとよくわかんない。
宗教評語とかわかんないからね。
わかんないもんでもいいんだけど、
例えばそういう時には、ルビを振るとかすると。
当然、父の観点からすれば、
この後にルビを振る必要はないだろうっていう語が、
いっぱいあるはずなんですが、
全部に僕が読めないから振るってことはないにしても、
でも、10歳当時の私が読めないやつには、
これだとつまり、再現ないでしょ。
そういう意味で言えば、妹にも読ませるのか、
妹に読ませないんだけど、母に読ませるのか、
母にも読ませない、僕にしか読ませないんですけどね。
構成のこだわり
だけれども、再現ないわけですよ、言ってみればね。
想定読者の幅の範囲内、全部に読ませたいっていうのが、
本音のところにあるわけでしょうから。
そう考えた時に、難しいっていうのが一つあるんですよね。
で、手戻りなんていうものはないって、
僕はよく思ってたんですよ。
何回やってもいいわけだから、
ある意味何回でもやりゃいいっていうようなところがあって、
構成が反映されてないやつが間違って戻ってきても、
黙って読めばいいと思っていたわけですね。
僕の頭の中にはある程度は残ってるわけだから。
もちろん、時間が全然ないのにそれやってる場合じゃないんですけれども、
時間が許すならば、やればいい、
つまり僕は構成が嫌いじゃなかったんですよ。
スルスルやれたっていうこともあったし、
わりと気が付いたら終わるみたいな、
そして何週でも別に苦にはならないっていう感じだったんですね。
が、今回は事情がいろいろ違ったっていうことがあります。
ここにさっきの休むが出てくるんですけど、
まずあんまり休んどらないと、
時間が許されなくなっちゃうんですよね。
時間が許されなくても、
僕は構成の感覚が一番自分の仕事をする中では、
休憩の感覚に近い中でできていたから、
好きだったわけですよ。
好きでやれるというのは、
例えば休憩時に読書するじゃないですか。
休憩時に読書したって別に、
人の本の構成はしませんが、
休憩時に読書する感覚と似たような感覚で、
自分の字の文は読んでられたっていうのがあったんですね。
ところが今回はそうはいかない。
一つにはさっきの書き上げ塾で得た知識が入ったから、
非常に構成モードが僕の中では補強されたために、
どうしてもパワーが上がっていく。
これによって前のようには、
リラックスできていないっていうのがあったっていうのが一つ。
これは悪いことではないんですよ。
構成能力が高くなってるんで。
ただ今までの能力でやっていたモードと、
違うモードになりやすい。
やっぱり能力を発揮するというのは、
その分テンションも高くなる。
慣れてくれば違うんでしょうけども。
まだ私はこの能力が身につきつつある中でやってるから、
そうなってる。
もう一つがですね、
すごい久しぶりだったということがあるんですね。
確かに最初はこうだったかもなみたいな、
何かの、
本を次から次へとある意味に出させてもらっていた時期は、
いつも構成してるみたいな感覚があって、
連載記事まで含めれば、
本当に毎日構成しますみたいなノリがあった時は、
これがそもそも、
清うとかそういうものであるはずがなかったんですけど、
今は、
年に1回本があるかないかみたいになって、
それでも一切持ってないってことになってくるとですね、
構成という行為をあえてするのが、
すごい久しぶりなわけです。
確かに僕は一番最初の本の時は、
こういう苦労があったような日がもう覚えてないんですよね。
だからまずこの、
インストールされた新しい能力でやってる。
かなり間が空いてしまっている。
というのがありますね。
さらにもう一つ大事なことがあるんですよ。
紙で出ない。
これまで構成というのは結局、
紙がどさっと送られてくる。
今でも送られてくる会社さんはありますが、
最近は激減しています。
デジタルでやる。
デジタルでやるのはすごい合理的で便利でいいんですよ。
非常にいいんです。
デジタルはもちろん電子書籍なら別なんですけど、
電子書籍とPDFはやっぱり違うんですよね。
PDFの構成というのは難しい。
全然休憩モードでできないんですよ。
でも今までだってお前書工ぐらいはPDFだっただろうって言われると、
それはそうなんです。
だから僕は書工は流してやってたんですね。
2校目以降紙は出てくるんですよ。
紙とPDFの違い
ここですごいモードを変えてたんです。
いずれ1回は紙で出ることを知ってた。
今回あたりからそろそろ紙でも1回出ないということが
予算次第ってこともあるんだけども、
今はPDFがすごい進んだし、
ドロップボックスとの連携みたいな、
まさにライフハックな世界が進歩したので、
もはやエラー紙では来ないよね、
っていう雰囲気が濃厚になってきて、
もうPDFで超真剣に紙であるから
やらざるを得ない。
こうなってくるとどうなるかっていうと、
すごいPDFで頑張るか、結局僕はやったんですけど、
紙を出すと自分でね、
自分で紙出すのって、
久しぶりにプリンターを大量に稼働させてみると、
すぐダメになったりするんですよね。
もう本当にトラブルが絶え間なく終わらないみたいな、
そもそもなんか、
今もう長く使ってるブラザーのですね、
ちょっと斜めに時々紙が出てくるようになっちゃってる。
そんなプリンター今時ないじゃないですか。
でもまあ長く使ってるんで、
調子がおかしいわけですね。
でも今このためにプリンター買い替えるっていう気になかなか、
プリンターってほとんど使わないから、
今このような状態になってるわけですよ。
なのに今回だけ大量に1回で30枚とかね、
書き出すみたいな、1本しか書くと200枚くらい書く。
インクもなくなるし、すっごいですね、
苦労絶えないんですよ。
全然休みモードの中での構成をやるという、
気配がやってこないんですね。
本当紙で出てきたときは、終わっちゃったっていう感じになってて、
あれはあれでですね、別の問題を評価するんだけど、
今回そこはちょっとスキップしますが、
本当に読書をしているときの、
しかも非常に楽な読書。
自分が書いたものですからね、ある意味。
読書モードとしてはめっちゃ楽にやってたわけですが、
これが全くそうではない。
ありとあらゆる意味で、
なんだろうな、仕事だって感じがするわけですね。
どうしても休みモードの中ではやれない。
これは大変だったなって、
眠くなって、
デジタルの構成と休憩
これは大変だったなって、
年末年始、変状でやりまして、
すくずく思いました。
これがあって、少し今ノートを書いているという面があります。
やっぱりですね、
書くのをやめると、
これも僕の中でややグッドバイブス的でないなっていうのと、
そもそもそんなことを言いたくないなっていうのもありつつ、
人間というのは体だなとある面では、
体じゃないっていうのもそうだけど、
体だっていうのもそうだなと、
筋力が落ちてるなと、
テキスト関連の筋力が落ちてるなと、
別に落ちたっていいと思ってるんですけど、
落ちてることに違いはないんだなっていうことを、
今回、まざまざといろんな意味で、
デジタル構成一変等になるっていうのも、
今まで滅多に経験したことがないっていうのも大きいんですよね。
そして前に比べると、
やっぱりPDFでは完全にはできませんとは、
もはや言い訳しがたいくらい、
PDFが素晴らしくなっちゃっているのがありますね。
今までもPDFは僕は、
なるべくアドビニ登録も何もせずに、
ゲストモードで使うぞみたいに思ってたんですけど、
それではもう許されない時代だな、
完全にという感じがするようになりました。
本を作ったときに、
要するにある程度整えるためにワードを使って、
出てきた紙を中心に最終的に構成すればいいやって思ってたし、
現にそれで本はきちんと出来上がるものだったんですけど、
やっぱりIT化が圧倒的に進むと、
こういうわけにもいかなくなってくるんだなと。
そして最初から、
少し能力が高くなった、
スキルが上がったテンションで、
最初からPDFに向き合ってやるってことになると、
そういう風にしていた今までの自分とは、
出てきてくれないんだなと。
最後の辺に、ようやく発祥ぐらいまでやってですね、
ヒーヒー言いながら、
プリンターもガタガタガタガタ言って、
完全に廃棄しなければならないレベルまで来て、
ちゃんと出てこなかったんですよ。
最後に紙のセットも少しずれてると、
セットし直してくださいとか言い出しやがるんですよね。
そんなプリンター使ってるってことが、
自体が今までなかったような気がするんだけど、
しょうがないからもう。
っていう風になった頃に、
前の自分がようやく参加してきてくれるようになった感じなんですよ。
あ、こういう感じで前やってたわ、
みたいなのがですね、
出てきてくれた感じなんですよね。
つい最近直前に出した不安ゼロで生きるは、
クラスのケイソーさんとの協調だったんで、
彼があまりにも優秀だから、
僕は事実上構成はほぼしていないんじゃないかぐらいなノリでやってたから、
気づかなかったんですよね、この課題に。
今回はどちらかというと、
僕が構成やりますみたいな感じで、
やる前はもう全然余裕だと思ってたんですよ。
もう30日やれば構成は5回ぐらいかけられますからぐらいなノリでやってたんですけれども、
全然そういうわけにはいかないっていう。
日によってはですね、
3ページぐらいしかやってないよね、
考えられないペースなんですよ、今までだったら。
3ページっていう、
1時間から2時間もっとかかったかもしれないけど、
3ページですかっていう感じの、
12月の20日か25日ぐらいかな、
そんなペースだったんですよ。
今までだったら普通に、
時間はかかったかもしれないけど、
日に20ページは絶対いくだろうという感じで、
だから180ページなら、
1週間あれば絶対にいけるっていう感じだったわけですよ。
だから4週間も5週間もあるんだから、
しかも後半にいけばいくほどやっぱり、
頭には完全に入った後でやりますからね。
もっともっといけるっていう感じが、
デジタルのほうが時間がかかるのは確かだったんですけれども、
そんな10倍も20倍もかかんないわけですよ。
20倍も20倍もかかるぐらいだったら、
絶対紙で出してもらおうっていうことになるじゃないですか。
だからよそ様もそうではないはずなんですけどね。
壮大にしゃべってきたんですけど、
構成の話をしたかったわけではなくて、
休憩モードっていうか休憩、
休むってことですね。
僕の中では休むということが、
今回もだからものすごい休むんですよ。
構成する休む、構成する休む、
1ページごとに休むみたいな感じで、
これを絶対ダラダラとか、ダラダラといってもかまいませんが、
そこに一切罪悪感を持たないっていうのは、
倉園さんがしゃべってるのとただ、
オウム返しにしてるみたいになっちゃいますけど、
一切罪悪感を持たないっていうのは本当に、
僕は持たないですから、そんなことでは。
休むために生きてるぐらいに思ってますから。
ただこれはですね、逆張りで何かしゃべってるわけじゃないんだなっていうのを、
今回むしろわかったんですね。
休むために生きてるんですよ。
僕の中ではこの言葉のモードが、
たぶんGood Vibesのモードとの一つ意識に、
ほぼ一致するんじゃないかって思うようになりました。
このモードでやってるんだなと。
一番望ましく仕事ができてるときは、
こうなっているんだという、
休み休みやるっていう言い方もするんだけど、
なんていうんですかね、
そこにやっぱ上下はないんですよ。
どっちが上とかはないっていうことなんですよね。
すごい集中してるっていう、
試験中の数の問題解いてるみたいな感じも、
世の中にないわけじゃないと思うんだけど、
いいんですよ。
気が散っていようと、
他のことが頭によぎろうとね。
途中の話なんですが、
エネルギー効率がとても高い状態ってあるんです。
だけど100になってるわけじゃない。
100になってるってのは計算の仕方の問題ですけど、
とにかく人間のエネルギー効率はとても高い。
この状態ってのが、
自然に発揮されてるはずなんだという話なんですね。
時間がかかったり手間がかかったり、
手戻りが発生するというならば、
それでいい。
それはノイズだって思わなければ、
ノイズではないんですって話なんですよ。
僕が言いたい話はただ単に。
寝てる時のように仕事ができる状態である。
ただひたすらデジタルの構成の紙に向かって、
1時間わき目も振らないっていうのでは、
むしろ発揮されないんですね。
そんな風にはできるものではない。
できる人もいるのかもわからないんだけど、
クライアントと分析課の関係
そういう話では多分僕はないと思う。
散歩って意味ないじゃないですか。
その意味のない感じがするじゃないですか。
そういう意味のない感じのする中でやるのが、
優しいやり方なんだと今回痛感したんですよ。
しょうがないんです。時間がかかるとかいうのは。
僕はこれも書き上げ塾で、
倉田野さんの横で見るっていう機会を最近得るようになって、
分かってきたんだけど、
物思いにふけるって、ビヨン。
ビヨンは精神分析家で有名な人ですけど、
ビヨンって人が物思いにふけるって言ったんですけど、
あれだなって思ったんですよ。
思い出せなくなったとしてもね。
ああいうのが大事なんですよ。
倉田野さんもパッと構成する。
構成って考えてみるといろんな難しさがありますから。
だって書いてくる人は千差万別なわけですからね。
編集さんとか構成係さんにとっては自分の文章じゃないわけで、
いろんな文章があってそれをパッと目の前にしたときに、
やらなきゃならないことってある意味山ほどあって、
優先順位とかもないじゃないですか。
その都度その都度やっていくしかない。
これ物思いなんですよね。
ニードをニーズに変えるってことなんですよ。
文章を構成するということは、編集するってことは、
ニードがそこにあると見なされるわけですよ。
赤ちゃんは泣いてますが、
何をしてほしいのかは赤ちゃん自身もよく分かってないわけです。
だから泣いている。
私たちは、私はっていうか親は物思いにふけるんですよ。
しばしば。いや、しょっちゅうですよね。
赤ちゃんを前にして、
うーんって感じになるわけですよ。
うーんって感じになる。しかないんですね。
これがまさにクライアントさんと
分析課の間に起きることなんですよ。
クライアントさんはよく分からないことを言う。
言ってることは要求はあるんだけど、
その要求通りのことをしてほしいわけではないってことは、
例えば発泡ふさがりっていうのはそうですよね。
どうしようもないんです、どうしようもないんです、どうしようもないんですよって言ってるだけなんですよ。
それに対して分析課は
もう言うべきことは言い尽くしてるわけですね。
休みましょうとか罪悪化を持たないようにしましょう。
でもどうしようもないんですって言われたときに、うーんってなる。
ところがどっかにあるわけですね。
これが物思いですよね。
裏園さんが書き上げ塾で
構成するべき文章を見て
それを前にして思い悩むっていうべきなのかな。
思い悩むわけです。
どうするべきなのか。
修正するっていうのはあるにしても
どう修正するのかっていう。
今思いついたことがベストでないとすると
ベストは何なんだっていう話にもなるわけですよね。
だからそこで立ち止まるというか
腕を組むというか
そういうことが起こるわけですね。
物思いと休む
カウンセリングの場合はもっとシビアになって
もしかすると持ちこたえるっていう必要が出てくるのか我慢するのか
そういうことになるのか。
だいたい我慢するって言っても我慢するのは子供のためじゃないですか。
親だったらね。子供が可愛いから我慢するわけでしょ。
自分が眠れなくて隣でギャンギャン鳴いていて
でもどうするっていうのはないわけです。せいぜい操るしかない。
寝やしたからって泣き止まないことあるわけです。
だから思い悩む。
要するに物思いに吹けるわけですね。
2人で自分の世界に入り込むみたいな感じ。
めいめいが自分の世界に入ってるんだけど
2人の世界はそこにあるみたいな、そういう感じなんですよね。
こういう時間が一番大事だと思うようになったんですよ。
今回の経験を経て。
非常にいい経験だったと思うんですけれども
これは本当に僕の中では
休むって感じと似ているなって思うんですよね。
僕休むとき大体本か漫画読んでるんで
2人の世界に入ってる。
クリエイティブな思考と物思い
だけど別にそこにいるのは私1人ですからね。
私の世界に入ってるとも言えるわけです。
そういう風になってるときにしか
クリエイティブなどというものはできないような気が
最近してきましたね。
物思いにふけるんですよね。
そのモードがすごくいるなっていう感じがします。
すごくいるなっていう。ほとんどそれだな。
手が動いてるなっていう時間は
高性能っていうのはもしかすると1分で
助詞1つ変えるだけかもしれないじゃないですか。
等2に変えるとかね。
でも思い悩むんですよ。
2に変えるべきだったら1分で2に変える。
2に変えるべきだなと思うんだけど
ある種の確信が持てないみたいな。
そこでいろんなことを、それこそかきあげ塾で起きたこととか
聞いた話とか関係ない話とかも
いろんなことを駆け巡るわけですよね。
駆け巡ったのを意識すらできないんですよ。
散歩中のこの何て言うんだろう。
景色と混ざったような
風装とか思考の断片みたいなものが
書き留めたことの意味と赤ちゃん言葉
それを僕は書き留めておくっていうのを
昔好んでやってたんですけど、今は一切やらないんですが
それは何でかっていうと
書き留めたことに意味があるわけではないからなんですね。
赤ちゃんのニードを
これは思いつかえてあげればいいのかな
みたいになるときに
駆け巡る断片に意味はないんですよ。
ただそうするってことに意味がある。
そうしようっていう風になる。
そういうお互いの了解みたいなものが
赤ちゃん言葉通じないんだけど
文章の述べ方と決着点
なぜかお互いが了解できるっていう
決着点みたいなものがある。
それが大事だと思うんですよね。
構成ってそうじゃないですか。
言わんとすることに文章を変えられれば一番いいわけですよ。
言わんとすることは書いてあるわけですよ。
言わんとすることが完全には表現できてないから変えるわけですよ。
でもその変えるっていうのは要するに
文章を良くすればいいってものではないですよね。
言わんとすることが表現されるようにしていかないと
良くならないですよね。
そういう意味で決着点がどこかにあって
それがニーズなんだけれども
ニードをニーズに変えなきゃいけないわけですよね。
それはカウンセラーがやることとか
そんなわけですよ。
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