1. グッドモーニングボイス
  2. 義務はつらくない【GMV928】
2024-01-31 50:15

義務はつらくない【GMV928】

ママごとには義務がある。
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月の31日、ついに1月目標でおしまいです。
4時14分ですね。早いですね。
今日はいろいろとこれからも用事がありまして、しかもまだ3年間終わってないと。
終わるわけがない展開になっておりまして、いろんなものを待ちながら進められるところを進めてという、ジャグリングをしている感じですね。
ただ、僕はこの感覚に慣れたので、ジャグリングをしていてパニックになりそうだとかは一切ないんですよね。
ジャグリングしてるなぁ、みたいな感じなわけです。
これ、プロジェクトノートとかはよく出てくるわけじゃないですか。平行して進めるみたいな。
このプロジェクトと、私で言えば、今はそうだな、3ヶ月チャレンジの第5期ね。
おかげさまで一方、お試し版ですけれども、参加いただくことになっておりまして、
一応、僕の状況がパツパツになるぐらいまでお申し込みをいただけてありがたい限りなんですが、
これは僕はね、もちろんビジネスとしてやっていくというつもりもありますけど、3ヶ月チャレンジは。
これ名称も変更しないことにしてるんですよ。名は体を表してないんだけど。
ただ、この名前でいこうと思っておるんですね。
変えなきゃなと思って5つも一応軌道に乗ってきたんで、
この変えなきゃなと思いながら軌道に乗っているものは変えたくないという風に思うんですよね。
よくわからないけど上手くいってることに手を出さないでおこう。
頭で考えるってやつですね。倉園さんがよくおっしゃるところ。
頭で考えれば変えるべきものなんだけれども、この答えを信じないぞっていうところです。
だからこの名称でいこうと。
上手くいかなくなってきたら頭で考え出して名前変えちゃうと思うんですけどね。
そのぐらいの感じであります。
そしてですね、3ヶ月チャレンジがあるでしょ。
第5期が始まると。
その打ち合わせも昨日したばっかりで、またそのうちキンキンしなければならなくて。
これはそんなにね、もうだいたい型はあるので、少しは調整したり新しい型が入ってくるというのに対応するっていうのはあるにせよ。
それほど変更はないんですけどね。
あとその本が出るというのと、あと100日チャレンジの新規がいよいよ始まると。
その前に今週の末に第6期の卒業式があったりして。
03:03
タスクシュートジャーニーでは井上新八さんという方を、これは私たちのね、教長の本のデザインをしてくださった方なんですけどね。
こちらの方と一緒にセミナーをするとか。
Jさんが今月の下旬に日本に帰国するので、それと対応していくつか活動したりあったりもするでしょうし。
彼今、僕なんかの日にはならないぐらい忙しいですよね。
我が家でもコマゴマとね、あるわけですよ。
ヴァイオリンの修理をしたり、温泉に行くとかいう話があったり、保険の改定をするとか。
これはまあ、指示ですけどね。コマゴマとして。
そして、ふらずのけいぞうさんと、かきあげ塾の。
このかきあげ塾、素晴らしいんですけどね。
今回私は後世に追われてみて、一層これの凄さが身にしみて分かったので、もっと多くの人がこれを受ければいいのにと。
もうなんか他人事みたいなことを言っておりますけれども。
これはあれなんですよね。
なんかちょっとね、趣旨と関係ない話なんでややこしいんですけど。
ライターさんとか、ツローの作家が密かに通うこういう塾みたいなものであってもいいんじゃないかなと。
なんか気がついたらそこに入って、出ていて、文章収容できましたみたいな。
私はもうおっぴらにしちゃってますけど、文章もともと下手なんで。
少なくとも上手くはないんでね。上手くはないと思うんで。
その上手さで売ってるわけでもないですしね。
やっぱりフィクションを書く人とか、ある種の人は文章の握り入れみたいなものかな。
あるいはもうちょっと違うんですけどね。
小説家って本当に上手いんだなっていうのを。
これもね、これを知るために経験塾に入るってことはさすがにないと思うんだけど。
最近だから神戸流報を再読しましたっていう話しましたけど。
上手いなとは思ってましたけども、もちろん。
漫画のようにスルスル読めてしまうように、
小説があれほど大分のものがあっという間に読み終わるっていうのは上手いに決まってるんだけど。
今回は文章が上手いってこういうことなんだなというのをですね。
あれですよ。それこそ書き上げ塾で封印している、
のでからの封印とかは当然彼にはないし、
体言止めも使うし、他様々なんだけど、
全部一応こう意識に入るわけですよ。
ここにのでから出てくるんだな。
絶対のでからなんですよね、そこはね。
印画関係が明らかであるとかそういう話ではないんですよ、ここは。
もう絶対これ以外は選択できないところで。
そうやって見ていくと、上手い人ってのはやっぱり、
全部がそうだっていうのは分かりませんけど、
06:01
言葉の運びが必然の連続で、
絶対こここうなんだなっていうのの連続なんですよ。
昔、本当に昔なんですけど、
私プロの写真家の人に写真の話を聞いたことが、
いわゆるマンツーでっていうのはないんですけど、
ちょっとうちのお寺に来ていた人でですね、聞いたことがあったんですけど、
すごい驚かされたのが、
どこに写ってるどんな色も必然的になるようになってるみたいな話なんですよね。
上手くいけばねっていう話なんですけどね。
それはおかしいだろうって僕は思ったんですよ。
絵じゃないんだから、どこにあるどの点も必然的にこの色で、
この場所でなければいけないように彫るっていうのは不可能だろうという、
いつも可能なわけでは決してないという話なんだけど、
そういうことを可能にする方法みたいな話をされてたんですよ。
すごく大雑把なんですけど、その人にとってはっていう話なんだと思うんですよね。
一つのお話としてっていう感じで話してくださったんですよ。
そういう感じがしましたね。
あの厚さの中で意味もなくこの語であるという語が一個もないみたいな、
助詞も含めて全部がそういう風になっているっていうようなですね。
しかも上手いって言われている人の中には、
あれより上手いって言う人まで出てくるわけじゃないですか。
松本聖長さんなんかのすごい作品って、
すごくエグいんだけど文章はそういう異常なレベルだなんていう、
これも不思議ですよね。
文章の良さが全てでは、3小節はないのかもしれないけど、
すげえそこで読ませるという機能を持っているんですよね。
ここまでは当然目指すものではないですけどね。
でもこういうことが見えてくる面白さもあったりします。
だからお勧めはお勧めですね。
非常に僕はこれは安いんだな、安いんだなとしか言いようがないなっていう感じで、
認識するようになりました。
なかなかこういう話をですね、きちんと教えてくれる人っていないなっていうのももう一つある。
これはしょうがないんですよ。
文章の書き方をきちんと教えることなんて、
僕じゃ絶対無理だなって思うんですよね。
本当に、なんて言えばいいんだろうな。
そんなことはそんなにホイホイできるような話ではないんですよね。
私、本の読み方すら人に教わった記憶ってないですし、
教えるのも難しいなっていうのはつくづく思うんですよ。
娘にはそれとなくね、
あの手この手でいろんなことを本の読み方的なのはですね、
本当に教えるって言うのではないんですけど、
あの手この手で密かに伝えるみたいな、
なるべく娘には気づかれないようにですね。
09:02
面白くないと思うんでね。
そういうことはしているつもりで、
国語の点だけはやけにいいんで、
本当は国語の点だけ良くてもですね、
うちの奥さんはあんまり面白くなさそうなんで、
数学とかの点を良くしてほしいらしいんですけど、
数学の点とかね、
良くするって本当に何て言うんだろう、
割と体育会計みたいになっちゃうんですよね。
僕は新学校にいて、
数学っていうのは、
これはもう本当に体育会計的世界だなと思って、
好きじゃなかったわけですね。
そこそこだったんだけど、
あんまり好きじゃなかったんですよね。
体育会計的なところが、
僕の心理的なネックになっちゃうんですよね。
数学の難しさとかは感じなかったんだけど、
絶対これ体育会計にいつしかなるんだなっていう、
私の友達で東大入ったやつが、
いつも言ってたことがあるんですよね。
力づくで解くんだからって言うんですよね。
力づくで解くんだって。
もうこれ以外は何も言わないんですよね。
お前らは頭がいいから、
この力づくってのをバカにするんだみたいなことを言って、
彼は東大行ったんですけど、
この力づくで解くんだからっていう。
特に彼はですね、
体育とか全然大したことはなかったんだけど、
彼は柔道の時に、
柔道っていろいろとあるじゃないですか。
力づくでやっちゃダメなんだけど、
力づくで、柔道はそうじゃなくても、
数学は力づくで解くみたいな。
すごい頭のいい人でした。
それはいいんですけれども、
何の話をしてるんだ。
つまりあれなんですよ。
書き上げ塾でやっているのもそうなんだけれども、
全て私はこれを頭だけでやってるんですね。
もはやプロジェクトノートというものは、
一個も持ってないわけです。
J松崎さんは知りませんよ。
J松崎さんはきちんとつけられていて、
しかも僕にそれをいざとなったら出してくれるという、
これは非常にいろんな意味で今、
とてもすごいところがあるんで、
でも僕はこれはしない。
特にプロジェクトノートというものを、
昔はつけるやつだけはつけるみたいな感じだったんですけど、
今は一個もないんですね。
これはわけがあるんだなということを
最近わかってきたんですよ。
本当にタスクシュートだけにするっていう、
そしてタスクシュートにも複雑なプロジェクトほど、
出し惜しむっていうのも変なんだけど、
けちる。
少なめに少なめに押さえておく。
だから例えば今も先日ですね、
セミナーではわかりやすくするために、
今何をやっているのかというのを、
最高とか二項とか三項とか、
第六章とか七章とか書いてたんですけど、
ああいうふうに僕は決して書かないんですよ。
技術評論者というタスクが一個あるきりで、
ずっとそれを回すんですね。
12:00
ずっと回す。
ほぼ半年以上に渡って、
あれを回し続けるという、
ただそれだけをやるんですね。
特に複雑になってきた時ほどそうする。
絶対そういうふうにするようにしていますね。
今はね、気がつくとそうなってるんだけれども、
決してここを複雑にしない。
多分ここを複雑にするほど、
ややこしい事態が招く気が、
私の場合はするんですね。
ただこれを今の段階では、
人にはお勧めしたいとは思わないんですね。
簡単なことほど適当に複雑にしてもいいんだけど、
難しくなってきたら複雑にしちゃダメだっていうのは、
割と徹底しています。
ただそれは意識的に徹底しているというよりは、
徹底されるようになってきているという感じがします。
これはタスクシュートの機能としてそうなっていくのかというと、
微妙なんですよね。
分かんない気がします。
私はそうなるし、
これには必然性がありますが、
他の人もそうかどうかは分からないです。
ただ技術評論者の現在7章執筆中とか、
8章構成中とか決してやらない。
それはなぜやらないのかも、
今はようやく少しずつ説明はできるようになってきた気がします。
この話にした方がいいのかな。
この話じゃない話を今日はしたいと思っているんですけどね。
この話は後日に送りたいかなっていう感じがしますね。
どうせこれ、本当は疑問点でいっぱいだと思うんですよ。
だけど僕とこの種の話でディスカッションするって、
多分あんまりしたくないと思う人もいっぱいいると思うんですよ。
なんてことないんですけどね。
別に他の人がどういうやり方でも全く問題ないと思うんで、私は。
私のやり方っていうところだし、
しかも変化しますからね、私のやり方は。
みんな誰だってやり方は変化するんですけどね。
プロジェクトノート作らないことの一つの、
これもね、すっごいありきたりになる上に、
そういう話なのねって感じがされると思うんですけど、
でも別にどう思われてもいいんで言いますけど、
ひらめかなくなるからっていう言葉に一応直ります。
ただこれは嘘です。
何でかっていうと、
ひらめかなくなるかどうかは、
僕の中では大して重要だなと思ってない気がするんですね。
ひらめかなくなるから、
プロジェクトノートを作らないのは確かなんですけれども、
でもじゃあひらめくんだったら作るのかとか作んないのかって言われると、
そんなことは関係ないなって感じが。
ひらめかないこともありますしね。
しかも作らなくったって。
ただ今このタイミングで、
最高から参考に動くタイミングで、
いろんなところがスムーズに流れてないって思ってしまう、
その何て言うんですかね、
物の見方の偏りが、
ノートを作った時の方が強化されることは確かなんですよ。
今滞ってるなっていうことが、
はっきりしちゃうんですよね。
15:00
今滞ってるとは限らないんですよね。
この辺は倉園圭三さんのGood Vibesですよ。
本当のことは分からないんですよ。
本当は滞ってはいないのかもしれないんですよ。
でも滞っているっていう観点を持って、
プロジェクトノートを作ると、
滞りが見えちゃうんですよ。
そうすると滞ってることになってしまうんですね。
こういうことをしない。
これをしてしまうと、
滞ってるんだから早く出させようっていう発想になりかねない。
もうそういうことは一切しないし、
発想や発想もないですけれども、
そういうふうになりやすくなるんですよ。
そうすると、
ちょっとじゃあ接ついてみようかなってことになっちゃうわけですよ。
これは接つくタイミングを狂わせることになるんですよ。
接つくタイミングってあるんですよ。
やっぱりこのタイミングで言うべきだっていうのが、
とひらめくんですよ。
そのタイミングを捉えて、
必ずそこで言うと、
何か面白い答えが返ってくるっていうのを、
最近ものすごい数で、
あり得ないぐらいそういう経験を繰り返すように、
ここ2年ぐらいでなったんで、
グッドバイブス以降ってやつですね。
特にでも以降でもここ1,2年、1年半ぐらいかな。
集中的にそういうことがあるんで、
私はコミュニケーションっていうものをミスってたんだ今までと、
まあいいんですよ。
別にミスってたって何してたって。
ただ、これはそういうことが分かるようになってくると、
できるようになる話で、
別にできなくったって大した話じゃないんだけど、
できるようになると、
もうこれをやらないでノート作るっていうのは、
僕にはありえないなって感じがしてくるんですよね。
面白いんですけどね。
本当に面白いんですけど、
Jマズザキさんはノートを作ってますね。
きちんとね、ノーションとかで。
でもすごくタイミングが合うっていう時は頻繁にあって、
彼はいったいこれをどういうふうに捉えるんだろうなっていうのは、
すごく興味深いです。
僕はこれをなんていうんですかね、
ふわふわさせておくとしか言いようがないんですけど、
本当に先日、昨日話したっけ。
話してないな。
あれは多分特定の人に話しただけだな。
NHKかなんかでやってましたね。
パラパラチャーハン。
パラパラチャーハンを作るように卓球で返球する人を返せるっていう、
自分の技に全部名前をつけるという、
あれはつまり身体感覚というふわっとしたものを言語化してるっていう意味なんだと思うんですけど、
でもやっぱふわっとしてるからこそ、
パラパラチャーハンという変な名前になっちゃうわけですよね。
他の人には通じない。
自分の感覚のためのだけの言語みたいなやつですよね。
ああいう言語化ってライフハックでは受けそうだなと思うんだけど、
僕はああいう言語化すらしないでおきたいっていうのがあるんですよね。
多分アスリートの中にはそういうふうに思ってる人っていると思うんですよ。
ふわっとさせておく。
じゃないとどうせブレるからっていう、
揺らぎみたいなものがあるからでしょうね。
私はノートをつけないことによって、
ある感覚が必ず捉えやすくなる。
僕はこの種の感性ってダメな方ですからと思ってるんでね。
18:00
この種の感性について、
ノートを取ってもいける人っていると思うんだけど、
僕はノートを取ると全く感知できなくなるタイプなんで、
今まで全然感知せずにやってきましたから。
これをつまりノートに取るってのは見えるかっていうじゃないですか。
見えるかってことはつまり視覚を使うってことなんですよ。
視覚を使い始めるとこのふわっとした感覚、
ふわっとした感覚は目に見えないものですから、
ふわっとした感覚でそろそろっていうのに対して、
そろそろっていうのがふわっと出てきたら即メールする。
躊躇しないでっていうね。
こういう時に恐れと不安ってやつなんですよね。
ここでデモを出して相手の心象が悪くなったらって恐れが出ちゃったら、
もうこのタイミング逃すはずなんですよ。
後ほどこの恐れと不安を克服した上でメールするということはできるんだけど、
そうすると少し遅れるじゃないですか。
ちなみにこれあれですよ。
ここに損得ってないんで、
今までそういうことができず私損してたってこれを聞いてて思ってた方は、
そういうことではないんですっていうのはお断りしておきますね。
これは損しないですから別にこのタイミング逃しても。
ただこのタイミングを僕は掴みたいと思ってるだけなんですよ。
今日この話にしたほうがいいのかな。
20分経ちましたね。
でもそういうわけで、
すごいジャグリング状態になっている。
私の中ではこんなの絵でもないでしょって人もいると思うんだけど、
私の中ではこの辺はすごいジャグリング状態になってきたなって感じなんだけど、
こういう時こそ一切そのことを記述しない。
あくまでも割とタスク集団に忠実に今やっていることを大枠で記録していく。
だから技術評論者のことをやってるなら技術評論者とだけ書いておいて、
昨日と全く同じようにそこは昨日一昨日その前と。
基本的にその技術を複雑にしないというのに提出してるんですよね。
ただあれです。
ステミナーでやったように書き換えておくことはありますよ。
だってわけわかんなくなっちゃいますからね。
他の人にはね。
このものすごくシンプルバージョンにするっていう話もいずれやっていきたいと思うんだけど、
これでも解陣してみたところで私のやり方をただ解陣するだけですって、
そういうの望まれることもあるからその辺難しいんですけれども、
ちょっとこれもおいおい考えていこうと思っています。
それでやっぱり今日は用意してきた話をしよう。
それがいいかどうかわかんないけどそうします。
これはこれも昨日セッションでお話しした話なんですけど、
ここのポッドキャストではちょっちゅう喋っている話ですが、
今日は一つまとめておきたいと。
そしてここを僕は飛ばしてきたんだっていうのがあるんで、
そこも合わせて少し細かくお伝えしたいと思うんですけど、
要はあれです。
要は意向対象の話というか意向空間と言われているものの話なんだと思います。
21:00
これも繰り返し繰り返しエクスキューズですし聞き飽きていて、
しかも聞き苦しい方も多いと思うんですけど言っておきますが、
私のこの話をもって精神分析の理解に変えてはダメですからね。
一切全てが嘘かもしれませんからね。
そこはお断りしておきます。
これで精神分析を学ぶとかそういうことではないっていう話です。
学ぶなら藤山さんの本を僕はお勧めします。
藤山直樹さんの本。
何でもいいんで。
もう何でもいいというふうに最近思うようになりました。
何だって同じだじゃないかって思えるってことですね。
で、ミニコットでもいいんだけど多分ミニコットは分かりにくいと僕は思います。
未だに分かりにくいなって思いながら読んでます。
はっきり言って。
何かね、分かりにくく書いてるのかもしれないぐらいに思うように最近なってきたんですよね。
分かんないわけじゃなくなってくるとそういう疑いが湧いてきますね。
環境としての母親というような話なんだけど。
あのですね、そうだ。
つまり今私はこの最高3校。
高生っているわけですよ、高生。
昔は紙の束がですね。
自分の書いた原稿が紙になってドサッと戻ってきて赤字入れろみたいな感じであったんですけど今PDFになってます。
機械的にすごい綺麗にできるんだけど結構ずっとやってると目が疲れます。
推しだし結構辛いところもあります。
でもまあやってやれないことはないし。
紙に比べて非常にやりやすい部分もあって。
まあ難しい。
もっと進むと何かいいことがあるのかもしれませんね。
それは良いとして。
この高生なんだけど先日セミナーで義務って言葉を僕は使ったんですね。
やっぱりこれに対しては義務では被害感が出るじゃないって。
被害感に襲われるんだよっていうご質問が出て。
それはよくわかるんですよ。
でもこの番組ではちょっとしゃべったかな。
義務という言葉のどこにも、何だろうな。
苦しまなければいけない要素って言葉の中にはないなって思ったんですよ。
義務の義は正義の義でしょうか。
まあこれにはいろんな意味があるんだけど、
例えば義理の知事みたいな意味で言うとですね、
ちょっと法律上のみたいな本当ではないというニュアンスが少し含まれる。
だから昔中国で嘘の肯定を名乗ると議定とかって人に言われちゃうんですよね。
議定ってでも嘘っていう意味ではない。
偽っていう字だったら違う方じゃないですか。
でもあれなんか正義の義の方に議定って当てている言葉があって、
しかもそれは本当の肯定ではないよみたいなニュアンスがあって、
不思議な使い方するけど、
そういえば義理の知事とかもそうだなって感じはしたんですよね。
何て言うんだろう。定義上のって意味なんだと思うんですよね。
だから定義の義に何て言うんだろう。
苦しめみたいなのはないじゃないですか。
それやると辛いぞみたいなのもないと思うんですね。
24:02
ちょっとあるかな。義理の何とかをするのはちょっと大変かもしれない。
で、無は務めですよね。
政務の無ですよね。法務とか。
ここにも苦しみの意味ないと思う。
だから義務ってのはどうして義務というのが辛いのかっていう点なんですね。
それで私は義務、つまりタスクって言っても別にいいんだけど、
タスクシュートでタスクって言ってしまうとアクション全体を指すんで、
あんまり特に今やっている主要な仕事ですっていうのをあえて取り出して、
タスクっていうのはタスクシュートと合わない。
タスクっていうのはもっと軽いじゃないですか。ある意味ではもっと軽いじゃないですか。
義務っていうとなんかちょっと重いんですよね。
そのニュアンスも出したくて義務っていう言葉を言ってみたんですよ。
僕は義務っていうのは逃れがたいっていう。
だからその質問された方もイネビタブルなもので被害感が出るって言うんですけど、
イネビタブルは分かるんですよね。イネビタブルはそうなんですよ。
だから辛いってことにはならないと思うんですよね。
ここが大きなポイントだと思うんです。
なんでそう感じられるようになるのかっていうご質問になるわけですよね。
で、これがどうしてもキレイごとっぽくなって、
税のためだからとか読者のためだからって、それがギフトモードって話になるんだけど、
ギフトモードにキレイごとはないんですけどね。
ただ、そう聞こえるっていう話は分かるんですよ。
だって佐々木だって、その義務なければファンザ見るんでしょって言われると、
そうじゃないんですよね。最近これが分かったんですよ。
これは前々から分かってはいたんだけど、特に最近セッションでそういう話題になるんですけどね。
義務がなければファンザを見るんじゃないんですよ。逆なんですよね。
義務が辛いとファンザを見る。そうですよね。
皆さんそうだと思うんですよ。ファンザじゃないと思いますが、
現実逃避ってのは辛いときやるじゃないですか。
いやもうこれから30日お休みで義務何もないわってとき、
たぶんね、現実逃避ってしないんですよ。
これは辛いなと思ったときするんですよ。
で、じゃあ先日セミナーに私は最高最高ってやだらかいてあるタスクシュートをお見せしたんですけれども、
その中にファンザがないじゃないっていうね、この鋭い指摘があったんですよ。
なんで現実逃避せずに済むのかってことなんだと思うんですよね。
その辛いジャグリング状態で。つまり辛くないってことなんで。
で、なんで辛くないのかっていうのをお伝えしなければいけない。
セミナーでも伝えようと頑張ったんだけど伝えきれてなければですね、
そこを平津野圭祐さんに補ってもらったんだけど、でも分からんという人はいらっしゃると思う。
それは何でかっていうと、この話は分かりにくい部分があるんですよ。
昨日セッションで繰り返し僕はママゴトって言葉を使ったんですね。
27:03
ママゴトというのはこの番組でもおなじみなんですけど、精神分析そのものを指してるんですね。
演劇でもいいんですけどね、なんとなく分かってほしいところは、まずそれは真似事だってことです。
本当のものがどこかにあり、それの真似をしているってことですよ。ごっこ遊びなんですよ。
そして人間の活動にはこの種のポイントが欠かせなくて、ごっこ遊びを通じて私たちは現実と関わるように社会を作っているんですよ。
そういう決まり事とか、ルールとか、決まり事とルールはおなじが、役割とか、そういうものがあるから、
社会というものを運営できるというのが人間社会の特徴なんだと思うんですね。
だから車は右を走らなければいけないんですよ。
世界中では左を走っているにもかかわらず、日本の道路は右を走らなければいけないんですよ。
右を走らなければいけないというところは、そこに宇宙空間における法則性とかないわけです。
ないからこそ他の国で左を走っているわけじゃないですか。
日本では右を走る。これは決め事なんですね。つまりママ事なわけですよ。
人間社会というのはこうやってできているものなんですね。
右を走るのは義務ですよ。
左を走ったらめちゃくちゃ大変なことになるし、かなり少なくとも道路交通法違反ですよね。
右を走るのは義務です。
右を走るのはつらいかってことなんですよ。つらくないじゃないですか。
右を走るのが楽しいとか嬉しいとかそういう話ではないですが、右を走るのは義務ですよ。
そしてこの義務はつらくないですよ。全然。
というか左を走るほうがよっぽど恐ろしいじゃないですか。
右を走るのは必然、イネビタブルなんですよ。逃れがたいんですよ。
でも逃れられないかというと、無理やりやれば逃れられますよ。
たまにやってますよね、あの恐ろしいやつ。
ヒルナンデスとかでもやってますよ。そういう動画がね。
なんか信じられないものを見た。
つまりイネビタブルなものを逃れちゃうと信じられないことが起こるわけですよ。
高速道路なのにこうから。考えたくもないですけどね。
義務。義務です。そしてこの義務を果たす。そこにつらさは一切ない。
むしろこの義務に反することをするほうがよっぽどつらい。厳しい。恐ろしい。
これが人間社会の特徴なんですね。
だから時々狸の親子とかがかわいそうなことになるのは、そんな人間の掟とかは俺ら知らないしっていう。知らないわけですよね。
これは高度に言語化した社会と象徴機能というものを利用して初めて成り立つものであって、
普通の動物にはこんなことはとても無理なわけですよね。
右走れとか、赤を見たら止まれとか、黄色見たら進行するなとか。
30:03
難しいんですよ。そういうのは非常に難しい。
人間にとってはそうじゃないから、なんでこれができないんだくらいに思うかもしれないけど、
こんなことができる生き物は人間のみだからとても難しいわけ。
まんまごとそうなっていますよね。
これはお茶碗です。これはお味噌汁です。これはお肉です。そう決めたんです。
そんな決まりに従うのは辛いとかっていう子が出てくると、この遊びは成立しにくくなるわけですよね。
これはお箸です。お箸に全く見えないかもしれないけど、お箸なんですってことですよね、あれはね。
で、これも藤山さんの本に書いてあったことなんだけど、
この輪に入っているのは本当にお味噌汁なの?って言うと、冗談じゃない、水だよって子供も言うと。
当然ですよね。でもお味噌汁として扱うということが大事だって話ですよね。
ところでこの輪まごとは輪ごと割りよって言うと、あっと子供たちは輪ごとをやめる。
つまりこのやるやらないの、操作が自分の心でスパッとできるっていうことですね。
これが僕は仕事だって思うんですね。仕事はままごとだと思うんですよ。
少なくともイネビタブルな部分があり、決めごとがあり、ルールがあり、これはこういうものなんで、
これはこういうふうに見ましょう。車の運転と非常によく似てます。
右走るのは別に辛くはない。ここにキレごとはないですよね、と僕は思うんですよ。
いや、右僕走ってるよっていうのが、いや、中等生だから右走ってんだよではないですよね。
かなりやんちゃな人も右走りますよ、やっぱり。そういうものです。
それはでも宇宙法則とか客観的な必然性に基づいてのことではないです。
世界中では左走ってんだけど、この国では右を走る。
そこは必然なんだけれども、それを実はあらゆる意味で矯正する方法というものは存在しません。
だからたまにそうでないという不思議なことが起きる。
しかもそうでないことをやってる人はめちゃくちゃヤバい人だからそうしてるわけじゃないんですよ。
ある意味ヤバいことだけれども、ある種の道路ってそういうふうにできていて、
どっち走ってたかわかんないなみたいなちょっと年配の方がね、
全く気づかなかったみたいなことが起こるわけですよ。
つまり、破ろうとしてるわけじゃないケースが多いってことですね。
この種のものが破られるときってのは。
構成作業というのは全くこういう感じに近いところがあるんですね。
なぜするのかとかって考えないですよ、あんまり。
あからさまのご自脱児があったら恥ずかしいじゃないとかって、
我々はさらっと言って済ませるじゃないですか。
そこについてつかーく考えたりはしませんよね。
明らかにこれは大見出しのところから日本語になってないよっていう文字化けしてるみたいなのがあれば、
いやこれ直すしかないでしょって考えるじゃないですか。
そこに非礼事とかはないです。
33:01
いや正義感が許さないとか関係ないですよね。
これは構成とはそうするものなんですよ。
でもですよ。
絶対やる前、これはやらないよ構成っていう著者がいて、
この本出さないわけにはいかなくなってたら、本出ると。
著者の構成なんかしなくても。
つまりイネビタブルって実は嘘なんですよ。
何としても逃れようと思えば、そんな人は僕は知らないですけど一人も、逃れることはできます。
人間社会の掟なるものはそういうものです。
そこを無理やり強制するとか、万有引力の法則に従ってものが落ちるように構成が行われるってことは絶対起こり得ないことです。
必ずそれは決め事に従って、ある程度以上自発的に動いての結果なんだけど、
やってる本人にしてみると、そこには非常に必然的な動きというものがあるように感じられる。
これを私は精神力度って言うんだと思っているんですよ。
意識するにせよ、無意識であるにせよ、ある種の力がそこに働いて、容易にそれを逃れることは難しいし、
大体の人はそこの動きというものに沿っていくのが、
辛いとか苦しいとかあんまり考えないものであるっていうような力が働いているってことですよ。
そしてそこには現実そのものに対して、何かこうなんていうんですかね、
記号と言ったらいいんでしょうか、あるいは象徴と言ったらいいのかな、
何かをかぶせているわけに、僕には見えるんですね。
何かをかぶせているように。
例えば、あんまり例がないです。
でも、例えば自然物で空を見上げると光り輝く玉があるわけですよ。
これに対して、太陽とかいう言葉をそこに載せるわけじゃないですか、
載せる、変かな、かぶせる。
そして、それをサンという記号を使う人もいますし、
いろいろですよね、いろいろです。
アポロンみたいなことを言い出す人もいるわけですよ。
つまり、何かそれは、
そういうのを使った方が便利に説明できるケースもありますからね。
でも、そういうやや難しいことを言わなくても、
子どもでもできる感じとしてお日様みたいなやつですね。
何か言うわけじゃないですか。
それは何でそういうことを言うかというと、
そういうふうに他の人も認識していますよっていう世界にあるわけですよね。
何かと便利だからですね。
まさに道路交通って本当そういうもんですよね。
みんなが右を走るとめちゃくちゃ便利なわけですよ。
急に左走る人が半分ぐらいになってしまったら、
あっという間に大混乱ですよね。
だからこそこういうことをやってるわけじゃないですか。
で、これに乗っかるということに、
これに乗っかるということに、
残念ながら我々はですね、
36:01
強調的に苦しむという理由を持っていらっしゃる方がいるんですね。
これは人に特に習うことがなくてもできるようになるんだけど、
残念ながらこれはやっぱり教育効果ではあるんですよね。
子どもが一人で育ってしまったら、
一人でいる若者はいないっていうのがミニコットの名言なんだけど、
一人で育ってしまったら、
一人でいる若者はいないっていうのがミニコットの名言なんだけど、
一人で育ってしまったら、
これは理解できなくなってしまうんですよ。
だけれども、親は子どもにこれを、
何て言うんだろうな、象徴作用があって、
対応というふうに呼んで、
右側を動くことによって世の中がスムーズに運用できるから、
っていうふうに赤ちゃんに教えるわけにはいかないんですよね。
赤ちゃんにそんなことはわかんないって。
そこでやることは、はいこれを水ねえとかって、
あれはつまりなんですね、
あの中でも特に大事なのが赤ちゃんが泣いているときにおっぱいあげるっていうあれなんですよ。
あれはこれをやっているのの一番最初の形で、
なんか苦しいっていうニードですよね。
泣くしかないっていうような、
そういう現象と表現のコミュニケーションの一番原始的なところに入ったときに、
それに対してミルクを出してくるっていうやり取りをする。
その中でですね、今の空に光っているものがあったらお日様と呼ぶみたいなのが、
機能しているわけじゃないですか。
人間なんで、例えばおっぱいねえみたいなことを言っておっぱいをあげるっていう、
このやり取りの中に、
現象に対して言葉をかぶせているっていう側面があるわけじゃないですか。
そしてこれってイネビタブルじゃないですか。
放っておいたら死んじゃうんで、結構イネビタブルですよね。
飲もうと思って泣く、これも義務なんですよ。
飲む、これも義務なんですよ。
おっぱいあげる、いやそもそもおっぱいが欲しいんだろうかと考えてあげる。
これを物思いみたいな言い方をするときがあるんですけど、
物思いに付けなくてもすぐ分かるケースも多いですけど、
泣いているのに対して何とかしなくちゃっていうふうに思う。
全く思わないと大変ですよね。
全く思えないと大変ですよ。
何とかしなくちゃという言葉が出る以前に何とかしたいと思うのが、
クラゾの慶三さんに言うとこの辺に愛って話があるし、
すごくそこ重大なんですけれども、
ここは象徴作用の話をしたいんで、
愛というものを機能しつつですね、
つまりこういうものは全部同時に動き出しているわけですね。
象徴的なやり取りもここにあるし、
愛もあるし、食欲もあるし、
だけどもたぶん赤ちゃんは愛も、
象徴も、食欲も知らないんですよね。
全部持ってるけど、
39:02
それらについて何一つ知らない。
ただ義務を果たしてます。
泣こうとしているから、そして飲もうとしているから、
あげるから、あげる方も義務を果たしているわけですよ。
これを義務という形ではこの場合は言わないと思うんだけど、
でもこれ親の義務っていう言い方がなされるじゃないですか。
何よりも大事なのは、
それは必然だってことなんですよ。
イネビダブルだと。逃れられますよ。
でも逃れるということをすると、
普通に望ましいという出来事から見ると、
相当望ましくない事態が発生しますよね。
赤ん坊が痩せ衰える、痩せ衰えるとかね。
これがつまりイネビダブルで人が感じるところなんですよね。
で、人によっては、
ここにつまり、象徴的に乗っかっていけないというか、
大概の、ここら辺ね、難しいんですよね、言い回しがね。
大概の人にとっては、何とかしたいって思うものなんですよ。
だって私もそう思いましたもん。
でも、ある種の人は、
ある種の、これはつまりクラゾン三流に言うと、
怒りがあるんですね、そこに。
こういう思いは持ちたくないっていう気持ちが、
残念ながら、何らかの理由で人間社会で生きてきた中で、
ある種の理不尽な苦しみをやや多く体験したために、
こういう思いは持ちたくない。
イネビタブルなのはわかるけど、
イネビタブルに、つまり逃れられずに赤ちゃんに何かを満たしてあげるっていう、
この思いを持ってあげたくないっていう気持ちが、
僅かに働くっていう方もいらっしゃるんですよ。
人間は、人間というのは多種多様でたくさんいらっしゃいますから、
しょうがないんですよ、それは。
それを罪だってことはないんですよ。
だってそれはその人はひどい目に遭ってきたからそう、
そう思いたくないとかは思ってないんだけど、
そう思いたくないっていう気持ちが出てきてしまう。
無意識ってのはそういうもんなんでね。
無意識はコントロールできない。
で、そうなると赤ちゃんに何かを満たしてあげるというのは、
義務だって言われていて、自分はその被害にあっているような気持ちっていうのが出てくる。
これが仕事だと出やすいってことですよ。
出なければ楽だとは言いませんけれども、
赤ちゃんの世話って楽じゃないけど、
ここなんですよね。
危機としてやってる奴は搾取されているって、
人にまで言いたくなるほどこの気持ちが理解できないっていう方もいらっしゃるわけですよ。
で、これがことだとだと非常に論争の綿になるけど、
仕事だと意外と論争にならないほど、
いやみんな嫌でしょっていうふうになんかノリがあるんですよ。
そうではないんですよ。
42:01
もともと同じことなんですね。
大変さの比較もしてないんですよ。
公正は赤ちゃんの世話よりは、
労働量としては全然楽です。
だから赤ちゃんの世話を私もしていたときに、
大変ではあってもつらいと思ったことはないんですよ。
それは結局私は自然とそういう方向に情緒が流れるようにできているからなんですけれども、
それはお前が恵まれているからだと言われればその通りなんですが、
しょうがないんですよ、ここも。
恵まれるか恵まれないかはコントロールできないじゃないですか。
そしてそういう情緒が働くか働かないかもコントロールできないじゃないですか。
グッドワイブス流に言うと愛するかいさないかのコントロールっていうのは、
僕はそうそうできるものではないと思うんですね。
ここは努力目標にはなるけれども、
パッとやろうとしたときに怒りが湧いちゃうってときは、
怒りが湧いちゃうわけですよ。
怒りが湧くというのは倉園さんの表現を借りれば、
多分そうなんだと僕も思うんだよ。
愛を発揮したくないという感情に名称を付けるのが怒りなんだと思うんですよね。
つまり怒りとは何かというと、愛を発揮したくないという気持ちなんだと思うんですよ。
つまりそれはどうしてかというと愛を発揮して嫌な目にあったってことですよ。
そんなことは人間社会では残念ながらあるわけです。
うちの母は別段特別困った親じゃなかったけど、
多分私が母に対して愛を発揮したとき、
いい加減にしろうるさいっていう態度を取ったことが結構あるんでしょう。
だから愛を発揮するとこういう屈辱的な目にあうんだと、
2歳頃の私が思ったんでしょう。
そうすると、ある種の愛を発揮しようとしたときに、
そこにダムのようにせき止めるという力が働く、これが怒りなんですね。
だから怒るということと愛が理解できないということは同じなんだと思うんです。
そしてこの情緒が発揮できないで義務を果たそうとすると、
すごい嫌な気持ちになるんですよ。
情緒を発揮しないまま構成をさせられることになるんですね。
そうするとさっき言ったようなプロジェクトノートの一連の出来事が起きるわけです。
参考を出してくるのは遅れている。
だからこんなに俺が頑張ろうとしているのに、
このタイミングで出てきていないんだから、
本当に理不尽な時間にやらされてやってられなくなるみたいな空想ですよね。
こういう空想がどんどん進行するわけです。
いいタイミングで出てくるケースの方が多いんですけどね。
いいタイミングというものは原稿化しにくいのでわからないわけです。
だから私は原稿化しにくいものをノートに見えるかはできないと思うので、
やらないようにしていると。そういう話なんですね。
そして昨日野球の話とかも散々したんですけど、
右側通行、信号でも何でもいいですけど、
人間社会というものは象徴作用を使うことによって、
この情緒的なやりとりを言語化しコミュニケーションしているんですよ。
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その中に遊びというものが含まれているんですね。
遊ぶためにはイネビタブルなものに乗っからなきゃいけない。
子供のままごとですらそうですよね。これは茶碗だと。
イネビタブルにしなかったら面白くもなんともないですよ、あんなものは。
これはお味噌汁だと。これもう逃れられない義務なんです。
これをお味噌汁だと思えと。
シューティングゲームってやってる人間違いなくそうじゃないですか。
大橋製造さんが得意だっていう話なんだけど。
あれは時期が死なないように頑張らなかったら面白くもなんともないですよ。
弾がいっぱい飛んできて何のためにそれを避けなきゃならないんだとか考えないですよ。
考えてやってたらアホみたいですよね。
なぜこれを別にこれが時期がドキュンってやられても俺傷つかないしとかって思いながらあのゲームやってたらすぐ死んじゃいますよね。
イネビタブルなんですよ。
俺が死なないように頑張るのがあなたの義務だと。
これを果たそうとしている時にそんなの切れ言でしょって人は言わないじゃないですか。
でもあれ理不尽ですよね。
弾幕みたいなこと言うけれどもあれは理不尽ですよ間違いなく。
あれを辛いと思うんだったらあれはしないですよね。
だから辛いと思ってシューティングしないって人はいっぱいいると思うんですよね。
やたら高速にスクロールしていくとかその中でも弾がどんどん出てくるとかあれを全部避けなければいけませんというのは非常に理不尽なんだけど危機としてやる人はいっぱいいるわけですよね。
これが象徴作用なわけであれ象徴作用そのものですよね。
象徴しかないぐらいの話です。
鉄器ですって言っててそこに鉄器があるわけじゃないしレーザーですってレーザーああいうもんじゃないしあれはすべて記号なんですよね。
記号に僕たちはそこに必然的なものを見出してこれが必然だという前提の上で遊ぶわけですよね。
構成も結局はそういうことです。
逃れようと思えば逃れられるし。
これ逃れたからって別に金庫系とかになるわけじゃないですしね。
そしてそれをより良くするという義務をそれに向かって邁進する。
義務なんですよ。
見ようによってはですね。
のめり込んで。
じゃあそれは楽しいのか楽なのか嬉しいのかそんなことはないですよ。
寝ていたほうが楽ですよ。
だから好きでやってるんですよ。
で義務なんですよ。
切れ事ではなくて被害にもあっていない。
損もしていない。
そういうことは別に不思議なことでは本来ないんですね。
これがある文脈一番簡単に言うと情緒が流れない文脈。
これを気持ちを乗せずにやるっていう状態にすると
多分何かの罰則懲役でもさせられているような感触になる。
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私はその懲役を受けさせられているような感触になるんだとすれば
それは多分象徴的な意味でですよ。
本当のっていう意味ではなく
象徴的な意味で母子関係というものに何か難しいものがあった。
私にもあった。ところがあるんです。
母が別にネグレクトしたとか毒親だったというわけでは全然なくても
母子関係に恐らく難しいものがあった。
私から言うと小さい頃に屈辱的な思いをしたっていう程度です。
でもそういうことはきっとあった。
私の場合実母だけどこれが実母でないケースもある。
父親であるケースもある。
お手伝いさんだった可能性もある。
お手伝いさんって昔は言ってたんだけどね。
あるいは、そうだな。
祖父母だったケースはありますよね。もちろんね。
義理のということもあります。
姉だったかもしれない。
それを全部一括して母子と呼ぶんです。
象徴的にね。つまり記号なんですよ、それもまた。
そして精神分析というのは精神分析家が
男であろうとおじいちゃんだろうとおじさんだろうと若い男だろうと
全部母親というふうな機能を果たすことにしている。
なぜかそれはママごとだ。ごっこ遊びだからです。
精神分析家という母親がクライアントという子供がやってきたときに
ニードとニーズの交換をここで練習としてある意味
ある意味練習としてやるんですよ。
辛い苦しいと言って泣き喚くと何とかしなくちゃと思ってあげる。
そこをなるべく本気で思うと義務になりますよね。
仕事なんだしお金ももらってるから。
そして時間を固定しているんで
強い義務がそこに発生するんだと思うんですよ。
イネビダブルになる。
その中で冗長的な交流ってすごい大変だけどいいものだなと
クライアントさんが思うことができるようになったら
それをやってみようという気に外でもなるかもしれない。
そうするとその人が今まで絶対行くことはありえなかった
っていう会社ってところに行ってみてもいいのかもしれないと
思えるようになるのかもしれないんですよ。
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