精神分析とカウンセリングの違い
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、1139回のお知らせします。
収録なんですけど、ライブなんでちょっと言い方が間違った気がしますね。
音楽まで聞こえているんで、なかなかいつもと勝手が違うんです。
7月19日水曜日、朝の7時47分です。
聞いている方は誰もいらっしゃらないわけだから、いつもと全く同じようにやってもいいはずなんですが、
意外といつもと全く同じように聞いている方がいらっしゃる。
これ精神分析的ラジオというよくわからないタイトルにしてあるわけですが、
だから7時半に始めるぞって言っても結構ブレるんですよ、さすがにね。
今日はとても寒かったので、いろいろ談を取ったりしているうちに遅くなったんですけれども。
一応ライブながらお知らせはしておきたいところで、
例の3月15日土曜日に山崎孝明さんと新井さんという方とのカナエ談をお届けしたいので、
今渋谷でリアル会場は渋谷ですが、アーカイブ配信も同時にハイブリッドでオンラインの配信もいたしますので、
ご都合よろしければ、ご都合よろしくなくても後で動画を見ることができますので、よろしければチェックしてみてください。
今日はちょっと相変わらずそこを皮切りにしていきたいと思っているんだけど、
最近これをやっていて、特に藤山直樹さんのを読み直しているせいもあると思うんだけど、
カウンセリングっていうものによく間違えられそうなサービスなんですが、
果たしてこれはカウンセリングと似たものなんだろうかと、
グロリアと三人のセラピストというのを最近ちょっと見直したから話題にもしているんですけどね、
グロリアと三人のセラピストのパール・ロジャーズが一番長くしっかりと収録されていて、
一番有効だっただろうなと思うんだけど、グロリアさんにとってね。
あれ、カウンセリングなの?っていうのがちょっと、いやカウンセリングへの何ものでもありませんが、
でもあれってロジャーズじゃないですか。
あれを認知行動と言うのは間違ってると思うんですよね。
エリスが肺皮に使われているということは、あれはゲストアルトセラピーでも認知行動療法でもない。
じゃああれ精神分析かっていうと、ちょっと違う気がするんですよね。
あれ精神力動的だなって、僕はあれを人間性中心とか雷断者中心療法とかって言ったりするんだけど、
はっきり言って雷断者が中心だと言うんだったら、精神分析だって雷断者中心だと思うんですよね。
人間性にあふれているという気もしますし、あえて名前を変えるっていう意味ぐらいしかないと思います。
一方ででも、ロジャーズは多分夢を共有するとか言い出さないと思うし、
あんまり夢の話がロジャーズのところで出てきて分析をしていくみたいなのとも、分析とかをしないとある意味思うんですよね。
でもしてなくもないような気が、あれは変異状況にも見えますし、
だからそれも力動的な見方に偏っているからそう見えるんでしょうけどね。
これとあいまって、これは余談に近いんですけど、正規のカウンセラーの方は正規おすすめですって、
今はそういうフェーズなんでまだ、個人心理師できたばっかりだからそういうフェーズなんだと思うんですけど、
おすすめなのはおすすめなので全然いいと思うし、Xでおすすめですよって言われているのも、
こういうスタンデスFMじゃないけどスポーティファイとか聞いてても、やっぱり正規のカウンセリング受けましょうねみたいなのは分かるんですけど、
時々その合間に占いとかよりもみたいなノリがあって、いや占いちゃうだろって思うんですよね。
全然占いとカウンセリングって違うはずなんだけど、なんかこう相談、人生相談に近いものだから、
これも人生相談言ってますけど、ちなみにこの人生相談っていうのはもちろん私に相談していただくということへのサービスへのCMであると同時に、
この番組では私が人生相談してるってノリですからね。
私がすごく無茶苦茶なんですけど、私が架空の世界に向かって自由連想することで、
誰かに抱えられているという雰囲気をここに出現させることで、週に5回もそれをやることによってね、
精神分析的な何かを受けているという定義でラジオやってますよという、そういうもう尻滅裂なものなんですよ。
そのうちでもね、条件が許せばですけど、カウチに寝そべりながらやろうかなって思っているんですよ。
つまりこれを聞いてくださっている皆様は分析家なんですよ。
これを是非ともバーチャルですよ、もちろんね。
バーチャルですが、受け入れろとは言いませんが、受け止めてほしいわけです。
だからもちろん私に対して今はライブだからやろうと思えばできるんだけど、介入も解釈もないんですけど、
でも誰かが聞いているというふうに思うということが大事なんですよね。
もういきなり話飛ばしますけど、だからね、私これカウンセリングと精神分析ってかなり別物なんではないのかって最近思い始めているところがあるわけなんですね。
カウンセリングルームの重要性
いや、精神分析は間違いなくカウンセリングだし、そのようなそういうものとして始められたからそうなんだけど、
現代のカウンセリングと呼ばれているものと果たしてそんなに似てるのだろうかっていうふうに思うんですよね。
で、私占いってやってもらったこと本当に1回もないんで、占いっていうものも分からないんですけど、
占いって結構どっちかっていうとカウンセリングじゃなくて精神分析、この言い方、この番組ですら通るか分かりませんけどに近いんじゃないかなって。
だってあれって夢の共有感があるじゃないですか。
この夢っていうのもね、本当にわけわからん用語なんですよ。
でも夢っていうのはですね、将来の夢を語るとかも一種そうなんですけど、はっきり言ってあれはあまりにも限定的すぎて、将来の夢を語るお前の夢っていうのは夢見からちょっと離れすぎてる感じがするんですよね。
それも夢見ですけど確かに、占いの方が近い気が僕はしますね。
占いってある意味変な空間がそこにできちゃうじゃないですか。
その変な空間が必要なんですよ。
このカウンセリングって間違いなくルームがあるから、そういう意味では力動的な空間だと思うんだけど、
でもですね、なんか今ってあまりにも目的目的しすぎるっていうか目的目標しすぎていて、この夢空間感ってものがむしろ後退してる気がするんですよね。
本当に占いというものをライバル視するんであれば、もっともっと空間を作るっていう、空間を作るっていうのは水晶玉を用意しましょうって話ではないんですが、
空間を作るっていう方向にもっと向かっていく必要があるんではなかろうかと。
まあ余計な話なんですけどね、僕はね。
これこそまさに余計なお世話の究極形態みたいなものなんだけど。
ただ占いであれ美容室であれ、僕はどっちかっていうとライバル視するなら美容院だって思うんですよね。
美容院であれ占いであれ、空間のこう、特にプロフェッショナルでも変なんだけど、
まあでもプロですからね。
プロフェッショナル感が強い人たちほどは空間にすごい気使ってるなって感じがやっぱするんですよね。
カウンセリングルームももっともっともっとそっちに向かっていいんじゃないんだろうかと。
まあこれ本当にそんなことはないのかもしれないんで、余計なお世話感があるんですけども。
なんでかというとですね、やっぱり私は寺に沿った人間なわけですよ。
仏道修行とかはまるでしてないわけね。
もう全くほぼやったことがないんです。
普通の信者さんよりも熱心じゃないわけですよ。
ただ寺に住んでるだけ。
でも寺に住んでると、やっぱり藤川直樹さんが昔ですね、
空間が治すんだよみたいなことを、要するにカウンセリングルームが患者を治療するんだみたいな。
これがね、昔からお寺とかを好んでいく人には伝わってはいるんですよ。
ほら言うじゃないですかよく。
お寺に行くと落ち着くとかって。
だけどあれって、なんていうのかな。
何かそこには寺に住んでた人間としてはね、なんかちょっとことさらすぎるものがあるんですよね。
落ち着くのは良いんですけど、落ち着くのは結果であって落ち着かない訳があるわけですよ。
落ち着かない訳を持っている人が落ち着くという空間に来るということによって落ち着くわけですよ。
これは落ち着くべき空間配置があるとか、そういう話なのかもしれないんですけど、
私はそういうことではないような気が今はしてるんですよね。
この話ってやっぱりミニコットなんですよ、非常に。
だからこれを説明してくれるから精神分析はいいんですよね。
説明してくれるだけじゃなくて実践してるんですけど。
それがですね、カウンセリングっていうものはなんかこう、
最近だから私情緒っていう言葉も割と避けがちなんですよね。
なんかこう情緒を扱うというのは、僕昔すごいそれは正しいし適切だしいいなと思ったんだけど、
情緒を扱うというのはそうなんですけれども、
やっぱり引きこもりっていう問題をここで検討しないと、
引きこもりっていうのって情緒だけじゃないじゃないですか。
なんかそこには怒りとか寂しさとか、結局情緒なんだけど、
なんつうんですかね。
どっちかって言ってやっぱり力度ってものを考えさせられるんですよね。
力っていうものが引きこもらせさせられる力とか、
引きこもって相手を跳ねつける力とか、そういうものがここにはある感じがする。
で、そういうものを取り扱う話だと思うんです。
取り扱うというか、そういうものを中心に売れ合っていくっていうのかな。
営んでいくというのか。
だから精神分析という営みとかって書いてあったのは、
確かに営みなんだよねっていう感じがするんですよね。
だから私はそういう営みなんだけど、
占いと精神分析の関連
カンセリングっていうものもそういうもののはずなんだけど、
目標とかを設定しだすと全然違う話になってくる。
トレーニングの一環みたいな感じ。
あるいはコーチングっていう話もありますけど、
やっぱり私は自分のが一応これはね、ビジネス心理コンサルティングみたいなノリをしてるんですけど、
やってることは目標がないわけではないんですが、
あえて目標言うならばそこにスペースを作るとかそういう話になっちゃうんですよ。
そこにスペースを作ることが目標ですみたいな。
心の余裕みたいな言葉ってあるじゃないですか。
心の余裕って言葉には、心に何かリソース感と共に空間感がありますよね。
何か心の中って言うじゃないですか。
中と外があるわけじゃないですか。
そういう三次元的なメタファーがそこにあるわけじゃないですか。
それが広くないとできないことがいっぱいありますよね。
そこが狭すぎるとどうしようもないことっていっぱいあると思うんですよ。
だけど狭くなっちゃうんですよ私たちは。
例えば猛烈に夫婦喧嘩とかすると、
夫婦喧嘩じゃなくても、彼女とかと喧嘩するとか、
ないしは家族と喧嘩するとかやってみると分かるっていうか、やる必要は別にないけど。
そうするとすごく空間が狭い。
売り言葉に買い言葉で、
応答的にあるいはほとんど反射的に言葉を繰り出す以外は、
心はもう何もできないぐらい空間が手狭になっていくっていう、
これを広くしたい。
なんで広くしたいかというと、
使うためなんですよね。
だから広くするだけではダメで、
広くして広くなったことに気づいて、
さらにそれを空間として使っていって、
で、仕事するんですよ。
つまりその準備を整えるっていうのが目標なんですけれども、
仕事するときにはこの空間が広くあればあるほどいいわけですよ。
で、広いときの空間を作っているときってのは、
一人になれてるんですよ。
だから我々はですね、
よく昔ノマドとか言ったときに、
一人になれる喫茶を探すとかやってたわけですよ。
ライフハッカー界隈ってね、
ノマド界隈って言葉もあったんだけど、
それってつまり一人になったら、
仕事をするだけの心の余裕を作り出せるよねっていう感じがあったんですよ。
でもあれを一人ではないってことがミソなんですよ。
本当に一人になっちゃうと、
そのとき高い引き込まりになってしまうんですね。
喫茶って他に人がいるわけじゃないですか。
だからだけれども、
喫茶ってすごく環境としての母親じゃないですか。
もちろんスタッフ、コールスタッフとか、
要するに喫茶店のマスターとかでもいいんだけど、
カウンセリングの空間を考える
あれ絶対環境としての母親なんですよ。
我々マスターの人柄とかって言うけど平気で、
優しそうなマスターがとかって言うけど、
そんなこと分かんないじゃないですか。
実は家に帰ると無事キレてるのかもしれないじゃないですか。
でも空間の中では私たちの見る夢を通じて、
喫茶店の風景とか背景と共に、
いかにも喫茶店らしいマスターがそこにいたりするわけ。
もしかするとそれは絵に近いものなのかも。
だから私たちは夢見ってことにしつこいわけですよね。
そうするとその空間に入ると心の空間も広がって、
割と普段だったら手をつけられなかったような書類に手がついてみたり、
メールが返せてみたりするかもしれない。
こういう空間をあつらえることに
自信している私のような人間でやってることは、
カウンセリングなんだろうかっていうと、
そういうこともありますよもちろん。
ありますけど、カウンセリングっていうのが成立するためには、
やっぱりもうすでに空間というものがそこにあつらえられていての話なんだと思うんですよね。
どっちかっていうと私はその空間を使うっていうことの方が大事であって、
カウンセリングするってことは、
その空間が成立してしまいさえすれば、
だいたい何度でもなるような日がするし、
結構すごい便利っていうのも変なんですけど、
便利の究極形みたいな、私たちがだから不思議なことが起こるとか、
セレンディピティとか言ってるのは、
私は便利の究極形っていうふうに思ってるんですよね。
この比喩はですね、
メタファーは人前でしゃべるときによく使えるんですよ。
心の空間が狭くなってしまうと、
頭が真っ白になる現象が起きるわけですよ。
何しゃべってるのかよくわかんなくなってくるんですよね。
さっきまで私少しそうだったんですよ。
これをライブでやることのやっぱりデメリットであり、
ひとつのチャレンジなんですよね。
やっと今広くなってきたんですよ。
このぐらいは違うんですよね。
このぐらいって聞いてる人にとっては何も違わんって思われるかもしれないけど、
だとすると私の無意識がよく頑張ってくれてるんですよ。
心の空間を広げていくと、
全意識が広がるって言い方をしてもいいんですけど、
とにかくちょっとしたきっかけ、
目の前にあるコップみたいなものを見ることで、
必要な情報を、必要な情報ってあえて言いますけど、
アウトプットに必要とする記憶を勝手に上げてきてくれるわけですよね。
これが心のスペースを広く使うということなんですよ。
それってある意味セレンディピティじゃないですか。
ここに危うさを感じてしまうんですよ。
でも危うさを感じた時は既に、
よく不安だと思うんですけど、私は白外不安じゃないと思うんですよね。
自分の未来への不安が少しそこにあるから、
危うさを感じるんですね。
いや、そんなセレンディピティあてにして人前で喋るのはナンセンスじゃんって思うんですよ。
思うからそこで言うべきことをノートに書いておいて、
これを喋っていかないと、
喋るべきことを忘れたり、何も喋れなくなって、
立ち往生して不安だっていうような話になっていくわけですよ。
だけど私これ今ライブだから聞いてくださってる方もいらっしゃるから、
あれですけども、
いつもはこれ別にライブやってるわけじゃなくて単に録音してるだけだから、
別に話せなくなったって構わないわけですよね。
そういうことすらも不安で忘れていくんですよ。
不安になりすぎると。
収録中に言うべきことがわかんなくなったら困るじゃないですかって言うんですよ。
困らないわけですよ、本来は。
聴いてる人がリアルではいないわけだから、ライブでは。
あくまでも収録の場合はですね、こればいいわけだから。
別に立ち往生したら立ち往生すればいいんだけど、
ところがですね、そうすると無駄になるのは時間だけですって言うと、
でも時間が無駄になるじゃないですかっていう不安に苛まれる。
これは不安を時間不足とか時間の無駄っていう表現に切り替えてるだけであって、
もともとに不安がある方が問題なんですよ。
不安がある方が先の問題っていうのかな。
そういうことでしかないんですよ。
そういうことでしかないっていうのもおかしな言い方ですけどもね。
だから不安はあるんですよ。
だからこそそれを何かに変えちゃってるだけなんですね。
私このライブやってても思うんですけど、
いつもね、すさひさんは何で一人で、
まあ頭おかしいのかもしれないけど40分も1時間も
どうやって喋ってられるんだって言われるんだけど、
逆なんですよね、これが。
その不安がそれを停止させるんですよ。
40分だろうと1時間だろうと2時間だろうと、
多分その人は喋っていられるはずなんですよ、心のスペースから考えて。
心のスペースと不安
だいたい人間30年くらい生きてればですね、
そのまあ20年でもいいや、広がりからして
2時間くらいで話すネタが消えるなんてことは
あり得ないと思うんですよね。
自分のましてそう苦手でもない分野について
喋るということであれば、
すごいスペースを手狭にしているから
消えてしまったように感じるのであって、
しかもこれは心のスペースなんで、
建築物じゃないんで伸縮が相当簡単に行き来するんで、
広くなったり狭くなったりが頻繁なんで、
だから困るんですけどね、狭くなることがあるから。
何も考えられなくなるみたいなことが起こるわけですよ。
それは、その私に40分だ1時間だ喋るのは無理だっていう言葉になっているところの
その根出しにある不安を何とかすればいいのであって、
どうやれば40分話せるんだろうって考えるのは
その不安がある限りは順番が逆だというふうに思うんですね。
だからやっぱりスペースを空けたいわけですよ。
で、その不安はあるのがデフォルトだって思い込んでしまうと
なかなかその不安というものを何とかして
心のスペースを広く取りましょうという発想そのものが
考えつかなくなっていくという不思議な現象が
これもだからスペースが足りてないんですけれども
そのスペースを手広くするためにこそ
話を戻して2人で1人になるというこれがいるんですよね。
これが一番原点のところにあるんですよ、たぶん。
2人で1人になる。
私はだから今その実験のために
今はライブですけれども、昨日一昨日それ以前はですね。
この1100回の字の大半は2人で1人になるために
1人で1人になっているわけですよ。
これは非常にわけわかんないんですけど
不在の母親と一緒に遊ぶっていう言い方を
でも我々はこれをしてきているんですよ。
してきてない人も我々にいますけど
私はしてきてない人はほぼいないと思うんですよね。
ママごとの時最初はお母さんが一緒にやってくれたんです。
多くの場合ね、多くの人の場合は。
お母さんが一緒にママごとをやってくれている時は
実在するそこにいる母親と2人で
その人はでも1人になってるわけですよ。
喫茶店のマスターなんですよ、お母さん。
だってその子はお母さんは外で何やってるかとか
知らないわけじゃないですか。
お母さんのことを何でも知ってるようで
何も知らないわけですよ。
というお母さんと一緒にいるということは
お母さんを環境扱いしてるわけですよ。
人間扱いしてないんですよ。
これが2人で1人でいるってことなんですよ。
やがてその人が成長していくと
お母さんがいないこれを宇宙でやるんですよ。
だから行こうっていう言葉はとてもいいと思うんですよね。
宇宙の経過ではお母さんがいたりいなかったりするんですよ。
ずっとぺったり一緒にいてあげるのは
さすがにお母さんもいろいろ忙しいので。
だからお母さんには事情があるわけですよね。
そのお母さんの事情を1歳とか2歳の時に
ガンガン出していくのはこれはトラウマになっちゃうんで
ダメなんですよ。
だけど3歳4歳5歳となるにつれ
少しはいけるようになるわけですよね。
だから保育園に預けるって話が出てくるわけですよ。
この少しはの時にその少しって何を意味してるかというと
つまりお母さんの事情を意味してるわけです。
お母さんに事情があるってことは
その子にしてみれば
お母さんを独占できない
私のためにのみこの人はいてくれるわけではないということに
ある程度こらえられなければいけないんですよ。
だけどこらえられないんですよ。
そこでいない間もいることにしちゃうんですよね。
これが不在の母親対象っていうやつですよね。
多分よ。
これを鵜呑みにしてはいけませんからね。
僕は嘘をついてる可能性が
嘘はついてないんだけど
思い違いをしてる可能性は
答え合わせがしにくい世界なんで
本当困るんですけど
しゃあないですよね。
まるうまるの飲み込んではダメです。
でも多分当たらずといえども
遠からずなことはしゃべってられているはずです。
だってこれって
精神分析でこう言ってるのが正しくないと言われても
僕には意味のあることに感じられますからね。
何か意味がある感じがするんですよ。
これを言うから
精神分析とか
昨日もそういう話をある人としたんですけど
過去をほじくり返すとか
言うんだけど
過去じゃないですよ。
これは我々は
我々というのかな。
我々じゃないね。
精神分析では
多分これは能力のことを言ってるのであって
だからこれはある種心の能力というか
心のファンクションであり
心の機能のことを言ってるんであって
決して過去の話をしてるわけでは別にないんです。
この能力はいつでも大事な能力なんですよ。
そんなことはやめて
未来志向になれとかっていうのは
すっごく話が違うんですよ。
なんつうんだろう。
自転車に乗れるようになったのは
多くの人にとって
過去の話かもしれないけど
自転車に乗る能力そのものは
過去とかじゃないじゃないですか。
今その能力を発揮するわけじゃないですか。
未来志向だろうとなんだろうと
自転車に乗るとなったら
自転車に乗る能力はいるじゃないですか。
でもたまたま
そういえば私自転車に乗る練習してこなかったわ
って人も世の中にいるじゃないですか。
別にめちゃくちゃ貧困とかじゃなくても
うちの子は割とそうなんですよね。
ちゃんと乗れるようになってないんだけど
乗らなくなってますからね
今の時代ってあんまり。
自転車とか。
だから自転車に乗る能力を
たまたま身につけてきませんでした
ってことはあり得るんですよ。
だったら今から身につければいいのであって
それって別にある意味
未来志向じゃないですか。
ただ自転車に乗るってのは
大抵の人にとっては過去に属するから
精神分析は過去のことばかりに
興味を持つみたいな話になるんだけど
それはたまたまそうなんであって
多くの人にとって
そうとは限らないわけですよ。
だってものすごく教育熱心だから
ママごとなんかやってられません
っていう家ってあるわけですよ。
だからその人は十分にちゃんと
きちんと育てられていて
教育レベルもすごい高いんだけど
ある種の能力は持ってないんです。
あるいはかなり不全なままなんです
ってことは起こり得ることなんですよね。
それは過去っていうことになるんでしょうけど
当然、でもそれはたまたま見えるだけであって
その人にとっては
ある意味未来の話なのですよ。
不在の母親の意味
これから身につける能力なんだから
だからこれは過去とか未来は
関係ないんですよ実はね。
こういうことがなんかこう
CBTの話が出てきたときには
大使的に昔出てきてない
今はわかんないですけど
でもCBTだって過去の話しますし
認知行動療法ですよね。
全然別に過去とか未来という
思考性の問題ではないということなんですよね。
で、そのままごとでやろうとしてることって
つまり不在の母親と一緒にいられるという
最終的には最初から最後まで
ほぼお母さん不在なんだけど
でも一緒にいるという感覚は
そこに保持することができる
そういう空間を作り出せるという能力が
私はやっぱり仕事をする上では
絶対必須だろうと思うんですよ。
そしてそのときに
ままごとっていうのってほら
ままごとセットみたいなのがあるじゃないですか。
家々によって様々でしょうけど。
かけたお茶碗とか使うのかもしれませんが
それを移行対象というわけですよ。
ツールなんですね移行対象は。
で、そのときの移行空間だって
ある意味ツールなわけですよ。
お砂場とままごとセットってのはツールなんです。
で、そのツールによって何やってるかというと
夢を見てるわけですよ。
この夢というのは何かというと
やっぱりツールなんですよ。
我々はそういうふうにして
現実世界を生きてるじゃないですか。
なんか交差点というのは
一つの交差点のような空間。
喫茶店というのは喫茶店という一つの空間。
完全に厳密に言うと区切られてなんていないんですけれども
だってほらテラス席ってそうじゃないですか。
テラスってのは
外とバッチリ分けられているというわけではないですよ。
外と繋がってるけど
でもテラスの空間ってあるじゃないですか。
だからそういう
テラス空間みたいなもの。
そういうものっていうのがですね
あの、なんていうんですかね。
えっと、夢なんですよ。
夢を見ているからこそ空間というものがそこに
特定の空間に限定されているような感覚というものを
我々は持つことができるし
それは一種錯覚だし誤解でもありますよね。
でも人間にとってはそういう空間ハーフの仕方ってのは
現実的ですよね。
ここから交差点に入っているとか
ここで方向指示器を右折側に出すとか
そういうのっていうのは
この辺でじゃないですか。
厳密にここでみたいなことは言えないですよ。
なんとなく決まることでしかない。
そのなんとなくっていうのは
近くだけでは無理なんですよ。
やっぱりタイミングみたいなものって
他の人との兼ね合わせで決まってくるんで
だからそれは夢なんですよね。
そこには情緒みたいなものも
情感みたいなものも
もちろん近くは入ってるんだけど
記憶も入ってくるし
言語みたいなもの
夢と空間の概念
象徴みたいなもの
いろんなものがそこに混ぜこぜになって
でもそれ一つ一つバラバラにはできませんよね。
やっぱりそれは統合されてるんですよ。
だから夢見て統合されてるんですよ。
統合されてない夢見ておかしいと思うんですよね。
なんか色だけが別に
後からついてくるような気がするとか
そんなことはないはずなんですよね。
一緒になってるはず。
で、そろそろ終わりますけれども
藤山直樹さんのね
彼はやっぱりウィニコットのところがすごいなって思うんですけれども
ある冷蔵庫とミルクという
割と彼の臨床例としては
有名というかよく出てくる
だから有名なんだと僕は思っている臨床例があるんですけど
要するにその人は引きこもるんですよ。
で、なんで引きこもるかというと
お母さんがめちゃくちゃすごい人だからなんですよ。
もう絶対主義的とか支配的とか
とにかくすごい人なんですよ。
引きこもるしかないわけですよね。
だから藤山直樹さんは
精神分析家だから
家だからってことはないんだけど
この人に何があったんだろうとか
この人は今どういう感じなんだろうというのを
一応理解しようとするじゃないですか。
それは絶対に相手にとっては
旗迷惑っていうか許せないことなんです。
つまり理解されるってことは入ってこられるってこと
これを親習って言うんでしょうね。
だから例えばママごとやってても
いやそっちのちゃんダメでしょとか
ここではお皿でしょとかって
ものすごくプチ出してくるお母さんとかいたら
すごい嫌じゃないですか。
なんかもうそういう
なんとかのお味噌汁ごっこはやめて
本当にお味噌汁使いなさいみたいなこと言われたり
お金があったりするということもあるんでしょうけど
なんかすごい困るじゃないですか。
子供としては。
でも一緒に遊んでくれてるから
楽しいみたいになるわけじゃないですか。
なる面もあるわけじゃないですか少しは。
すごい苦しいけど。
でもじゃあもう勝手にやんなさいって言って
お母さんは部屋から出てこなくなるとか
それはそれですごい嫌じゃないですか。
だからこの塩梅っていうのかな
親習にならないようにするんだけれども
一緒にいるっていうことを強調するために
ミニコットは環境としての母親っていうのを
強調したんだと思うんですよ。
このジェンダー論に持ってくるのダメだと思うんですよね私は。
そこに一緒にやってきてくれるのは
いとこのお姉さんかもしれないし
それこそお父さんかもしれないし
近所のおじさんかもしれないんですよ。
ここに男女論が入ってくるのは
そもそもなんかがおかしいんだと思うんですよね。
でこの2人、2人ね。
2人いるということ。
2人以上だな。
3人いるのかもしれないし
4人いるのかもしれないんだけど
相手を環境扱いにしていれば
いるだけ1人なんですよ。
自分しかいないって感覚が保持できる。
ここが分かりにくいということであれば
多分それはデフォルトかは知りませんが
なんかあるんですよ。
その能力というのか
その何かを発揮していない何かがあるんですよ。
すごい難しい言い方になるんですけどね。
私も何だかが分かってるわけじゃないんですよ。
ただ覚えてる限り
私自身で言うと
やっぱり母なのか父なのか
あれだろうな。
おはようございます。
ありがとうございます。
コメント。
母なのか父なのかはもう忘れましたが
自転車の後ろを押さえててくれるから
自転車に乗ってるっていうやつ
あったわけですよ。
私にもそういう幸福な時代がね。
で自転車に乗っていて乗れるようになると
話すわけね。
これで1人で乗れるようになれよ
ってことなんだけど
話されないという風に思ってれば乗ってられるんだけど
話されたことに気づくとこけるんですよね。
だから後ろ見るなと言ったろうって言われるんだけど
後ろ見るじゃないですか。
つまりそういうことなんですよ。
不在の母親ってのは
僕はいつもこのことを考えるんですね。
でこれは能力なのか何なのか
すっごい難しいんですよね。
いるって思うってことは
バカじゃないですか。
後ろを押さえててくれる人がいるの
いないのにいるって思ってるってことは
おめでたいわけじゃないですか。
でもおめでたくならないと
こけるっていう現実があったわけですよ確かに。
あのなんちゅうのかな。
水泳では同じことはできないですよね。
水泳の場合手をつないでいてあげるからって言って
確かにそうやって泳げるように人はなってくるんだけど
でも手離したかどうかって分かっちゃうじゃないですか。
だから水泳ではこれと同じことは
実現しないんですよね。
あの自転車ってほんといいなって思うんですよ。
あの自転車はそのためだけにあれをやってもいい。
乗れるようにならなくたっていいから
あれはやる必要があるって僕は思うときがあるんですよね。
あれこそまさに不在の母親と一緒にいるってことだって
後ろ伝えてくれたのが
父だった可能性が高いんで
不在の母親母親言ってるというのは
あのなんだろうな。
心理的な誤解と現実
もっと赤ちゃんの時には不在だ。
だからねこれは精神分析的にはダメなんですけど
子宮の中にいた時ってそうだよなって思うんですよね。
だって子宮の中にいた時って
自分が人の中にいるなんて絶対思わないんだけど
人の中にいるじゃないですか。
で自分一人じゃないですか。
あの空間では。
でも一人じゃないじゃないですか。
この感じなんですよね。
この感じ。
いかなる意味でも全く一人じゃないんだけど
一人なんですよ。
その人は。
すっごい行きつけの喫茶店に
1000回ぐらい行けば
これは起こると僕は思います。
余裕で。
だからある意味
勝手なんですよこれって。
だってマスターとか人じゃないですか本当は。
休止してくれる人は全て休止って言うもんね。
休止っていう言葉は
やっぱり環境としての母親感がありますよね。
なんかこれなんですよね。
ある意味ゲームもそうなんですけどね。
ただゲームは人が作ってくれはしたんだけど
そこに人がいるわけじゃないんで。
でも対戦型だったら
休止なんですよね。
休止に近い。
サーブされてる感じにちょっと近いと思う。
これをなんだろうな。
これが動いてる時には
心のスペースが絶対に確保されてると思うんですよ。
そこに人はスペースを見てると思うんですよね。
ゲームってゲーム空間とかっていうじゃないですか。
実際にある空間どこにもないじゃないですか。
私は果たして今3ヶ月チャレンジで
オンライン対面なんですけど
ここに空間あるかなっていつも考えるんだけど
やっぱ空間らしきものを
錯覚ですよもちろんね。
誤解なんですよ。
誤解はすごい大事なんだと思うんですよね。
誤解する能力みたいな。
物理的には正しい解釈ではないが
そのように解釈するのが人間的には正しいみたいな。
だから夢見って言ってるんですけどね。
夢見て間違ってるんで
そこにない空間を見ちゃうんで。
つまり空間というものは
私は現実にはないんだと思ってるんですよ。
人間が少なくとも考えてるような空間って
現実にはないと思うんですよね。
あくまでもあれは夢の中にだけ出現するものなんですよ。
この縦横高さと何かここにスペースがあるような
ここで自由に動けるように思ってる空間なるもの。
これは心理的なものなんですよきっと。
これが物理的なものだというのは
物理学のすっごい人に聞かないと
本当はわかんないと思うんですけど
何か違うと思うんですよね。
縦横高さとかじゃないと思うんですよ。
だって空間がそこにあることって
説明できないし証明もできないじゃないですか。
あるとみんながただ思ってるだけですよね。
多分ある種の特に自閉に近い方かな
ないって言い出す人っていると僕は思うんですよね。
その人が間違ってるっていうのは
多数決で決まってるにすぎない。
ある種数の暴力だと思うんですよ。
その言い方は間違ってますけどね。
さっきからバックグラウンドミュージックが
引き上げてるんですよ。
なんでなのかな。
30分も話すのってことなのかな。
本当に後でこれを聞いたとき
藤山直樹のカウンセリング
このままだと実に聞き苦しいなって思うんですけどね。
バックグラウンドミュージックだけ取りたいって思いますね。
まあまあこのぐらいにしておこうと思うんですけど
だから私が言いたいことは
藤山直樹さんがやったセッションは
カウンセリングの常識では失敗ってことになるんですよね。
途中で来なくなっちゃうんで。
しかも何ら進展を
記述できるような進展は何一つないんで。
でもあれが失敗には僕には全く見えないわけですよ。
藤山さんもあれを失敗例のようにして
表現されてるんですけど
絶対藤山さん内心では
これはある種の成功なんだって思ってると思うんですよね。
僕もそう思うんですよ。
でもこの観点を許されるのは
精神分析の観点を取らないと
無理なんじゃないかっていう気がするんですよね。
でそれはカウンセリングとしてどうなのかっていうと
多分成功とはとてもほとんど沈黙だし
さっきのミルクと冷蔵庫の話ですね。
入ってる限り、それを信じる限り
ほぼ全部沈黙ですし
ずっと沈黙してる人が
何かこれといった進展も見ずに来なくなりました。
成功ってのは許されないと思うんですよ。
カウンセリングだったら。
でもあれは精神分析として見た場合
その女性は2年経って手紙くれたんだそうなんですけれども
これは実はなんじゃないかなと僕は思うんですけどね。
どういう手紙かというと
要するに藤山直樹さんは
私を理解しようとしすぎた。
それはダメなんだ。
新春になるからね。
理解しようとしすぎるということは
何でもかんでも全て自分の思い通りに
しようとする母親と同じだからダメなんだけれども
でも理解しようとあなたはしすぎたけど
でも先生のところで学んだ
何を学んだんだかわからないんですけど
ほっといてくれるってことを
学んだってことだとある意味思う。
ほっといてくれるんだけどいなくはならない
みたいなことを学んだと。
で学んだから
私は次のカウンセリングに行くことができました
っていう手紙で
しかもそのカウンセリング
要するに藤山さんじゃないところに行ったよ
ってことなんだけど
では私のことを相手は全く理解され
私は全く相手に理解されずに済みました。
私はこういうことが言えるから
精神分析ってやっぱり大事だろう。
全てのセッションがそうであるべきだとは思いませんけれども
それぐらいひどい侵襲に垂らされている人も
世の中にいるわけじゃないですか。
で、共感するとか
距離を取るとか
そういう話をするしかないかもしれないんですけれども
情緒を扱うみたいなね。
でもそういうことをいくら言ってても
この話って価値が全く空いてる気がしないですよね。
上田さん、上田勝久さんが
生を取り戻すっていうので
翻訳されている奥伝の例もそれに近いと思うんですよ。
やっぱりお子さんを死山なのか流山なのかで
亡くされたという
そのトラウマから脱せないという人に寄り添った
っていうだけでは
全然届かないものがあると思うんですよね。
でもだからといって
奥伝がそういう点を実現したかのように書くように
自分がもう
言ってみれば天国に行った赤ちゃんのように
少なくともこの世のものではないものとして
お母さんに愛しているという
あらゆる意味で
カウンセリングかそれっていう感じってあるわけですよ。
本に書いてあるんで僕が言ってるわけじゃないですよ。
こういう何かどこか
どこか頂上的になっていっちゃってるんだけれども
でも天位っていう概念を持ち込み
しかも奥伝がそれは嘘ではないんだって話に
自分の感覚としてはね。
しかも愛してるのは言ってはいない。
ただ言ってはいけないですよねっていう言い方はしている。
こういうやりとりを出現
これもまた空間なんだと思うんですよね。
可能性空間という概念の中に入ってくると思うんですよ。
いやーこれはカウンセリングっていうような話じゃないじゃん
っていう感じが僕はやっぱちょっとするんですよね。
でもまあカウンセリングでしょって言われると
じゃあ他に何と呼ぶのか
精神分裂というしかない気がしますけれども
私はそのことを思うにつけですね。
自分はもうカウンセリングっていう必要はないかな
みたいなのを思うとともに
でもこれ畑目から見るカウンセリングだっていうのに対して
反対する理由も別にないかなと。
昨日ある方に私が悩んでるのが面白いって言われたんで
要するに病んでるんですね。